第39話 逃がさない
グラド・バルムは本来臆病な生き物ではない。ハンター協会で定められた魔獣ランクで言えば、個体差があると言えどA+まで評価されることも珍しくない。
その評価は単に体が大きく、甲殻が硬いというだけで与えられているものではなかった。グラド・バルムという魔獣は周辺一帯の地脈を足裏で感じ取り、地面の震えから敵の数と重さを読み、空気の圧力変化を甲殻の微細な継ぎ目で受け取る、鈍重な外見に反して驚くほど感覚の鋭い生き物である。うかつに近づけば杭脚の一撃で地面ごと叩き割られ、距離を取れば背の甲殻を震わせて石礫を散弾のように撒き散らし、魔法で攻めれば表層に蓄えた土霊素が衝撃を吸って地中へ逃がす。ハンターがよく言う「砦」という通称は、動かないほど重いという意味ではない。そこにいるだけで周囲の戦い方を一方的に変えさせる、という意味だった。
そもそも、グラド・バルムを正面から倒すなら専用の手順がいる。足場を崩して杭脚を浮かせ、甲殻の合わせ目へ風や氷の術式を差し込み、怒らせすぎないよう距離を保ちながら何度も位置を変え、最後に腹側か喉下の薄い膜へ決定打を入れる。言葉にすれば数行で済むものの、実際にやるとなれば盾役、拘束役、術式解析役、遠距離火力、治癒支援、退避経路の確保まで必要になり、間違っても通りすがりの一個人が「ちょっと撃って終わり」にできる相手ではない。少なくとも王国の実戦教本には、そう書かれているはずだった。とおるは教本を読んでいないが、いま目の前にいる巨大な命を見れば、それくらいは嫌でも分かる。
その巨体が恐れられる一方で、無意味な殺戮を好む種ではないことも知られていた。空腹でなければ獲物を追わず、縄張りへ踏み込まなければ深追いもしない。自分が安全だと判断した場所から動かされることを嫌い、危険と見なした方向へ全身を向け、必要なら半日でも一日でも地面に身体を縫い止めて耐える。つまりグラド・バルムの強さは、速く襲うことではなく、動かないと決めた時に誰にも動かせないことにある。攻める砦ではなく、そこへ根を張る砦。怒らせれば山のように重く、焦らせれば大地そのものの一部になってしまう生き物だった。
だからこそ、とおるたちは押さなかった。白雷で怯ませることも、紅椿の火で脅すことも選ばなかった。巨体の意思を折るのではなく巨体が自分から選べる道を一本ずつ残し、腹を守ろうとする本能に逆らわないよう草原と窪地と風の通り道を使って、ほんの少しだけ世界の形を整えた。それは討伐というより、大きすぎる家具を傷つけないよう部屋の模様替えをする作業に近かったし、その家具が生きていて怒ると街道を壊すという点を除けば、かなり平和的な解決だった。
グラド・バルムが新しい窪地に身を沈めた時、その姿には戦闘中の魔獣が見せる殺気などなかった。甲殻の隙間から漏れる呼吸は深く、杭脚が地面へ食い込む音も先ほどよりずっと穏やかで、琥珀色の目はまだ警戒を残しつつも周囲を威嚇する鋭さを少しだけ失っていた。アスカの言った通り殺さなくてもいけたのだと、とおるが胸の奥で小さく納得しかけたのも無理はない。目の前にあるのは倒すべき敵というより、どうにか折り合いをつけられた巨大な隣人のように見えた。
その平衡は、ひどく繊細だった。十数メートルの巨体を相手にしているのに、最後に守られていたのは薄い膜のようなものだったのかもしれない。魔獣が「ここなら安全だ」と受け入れた判断。人間側が「これで街道を開けられる」と息を吐いた安堵。白華と紅椿と壁山とおるが、それぞれのやり方で傷つけずに済ませたという、まだ言葉にもなっていない達成感。そのどれもが、草の上に置かれた露のように軽く、風が少し荒れれば散ってしまうほど脆かった。
そして本来、グラド・バルムほどの魔獣がそんな無防備な一点を外から貫かれることは、まずあり得ない。柔らかな腹部は甲殻と脚と地面で隠され、近づけば杭脚の震動で察知され、魔力を込めた攻撃なら表層の土霊素が先に反応する。まして遠距離から狙うとなれば、風向き、標的の姿勢、甲殻の重なり、腹部が露出する一呼吸未満の隙間、そのすべてを読まなければならない。必要なのはただの腕力でも、ただの投擲技術でもなく、相手の生態を知り、守られている場所を知り、最も傷つけてはいけない位置を知ったうえでそこだけを射抜く冷たい意思だった。
だから、もしこの場で何かがグラド・バルムの急所へ届いたなら、それは偶然でも流れ弾でもない。
誰かが見ていた。
誰かが待っていた。
そして、三人がようやく殺さずに動かしたその命が最も守りを緩める瞬間を、正確に選んだということになる。
——ドッ
甲高い異音が、遠方から一直線に切り裂いた。
風の音ではなかった。
鳥の羽ばたきでもない。
弓弦が鳴った音とも、矢が空気を裂く音とも違う。
もっと低く、重く、それでいて異様なほど速い。巨大な鉄棒を空そのものへ叩き込み、そのまま無理やり一本の穴を穿ちながら突き進ませているような、耳で聞くより先に皮膚が危険を拾う種類の音だった。
とおるが顔を上げる。
視界の端に、黒い線が走った。
「――伏せろ!」
ミレイユの声が飛ぶ。
意味を理解するより早く、とおるの身体は肩を押さえつけられたように低くなった。
黒銀色の長槍が、草原の上空を貫いていく。
投げ槍などという言葉から想像する放物線ではない。重力に引かれて落ちながら飛んできたのではなく、遠方からこちらまで空間を一本の直線で結んだかのような軌道で、穂先を微塵もぶらさず突き進んでいる。
狙われたのは三人ではなかった。
グラド・バルム。
しかも、ただ巨体へ当てればいいという射撃ではない。
背中の甲殻は狙っていない。
肩口も、頭部も避けている。
窪地へ移動したグラド・バルムが新しい地面へ杭脚を打ち込み、腹を休ませるために身体を傾けたことで、側面甲殻と前脚の間にほんの短い時間だけ生じていた隙間――城壁めいた装甲に守られていない、灰白色の柔らかな腹部。
槍は、そこへ吸い込まれた。
黒銀の穂先が肉へ触れる寸前、槍身を覆っていた魔力が細く収束し、周囲の景色が水面越しに見たようにわずかに歪む。
そして、貫いた。
硬いものを叩く音はしなかった。
肉と、その内側にあるものをまとめて押し破る、湿り気を含んだ鈍い衝撃音。
長槍は腹部から深々と入り込み、太い槍身の半ば近くまで巨体へ埋没したところで止まり、遅れて追いついた衝撃がグラド・バルムの全身を内側から揺らした。
グラド・バルムの身体が跳ねる。
背中の甲殻が一斉に擦れ合い、岩山が軋んだような轟音が響いた。
「……え?」
とおるの口から漏れたのは、それだけだった。
理解が追いつかなかった。
動いた。
助かった。
殺さずに済んだ。
つい数秒前まで、確かにそう思っていた。
それなのに目の前では、黒銀の槍が母獣の腹へ突き立っている。
グラド・バルムが咆哮した。
これまで聞いた威嚇の唸りとは違う。腹の底から押し出された音が窪地を震わせ、空気を叩き、草原の鳥を一斉に飛び立たせるほどの明確な苦痛の声だった。
母獣は立ち上がろうとした。
一本目の杭脚が地面を掻く。
二本目が体重を支えようとして深く沈む。
背中の甲殻が持ち上がりかけ、琥珀色の目が大きく見開かれる。
それでも身体が続かない。
槍が貫いた場所は、単に柔らかな腹を傷つけただけではなかった。傷口から広がった黒銀色の魔力が血管のような筋となって周囲へ這い、グラド・バルム自身の魔力循環へ食い込むたび、持ち上がろうとしていた脚から順番に力が抜けていく。巨体を支えるため全身へ巡っていた魔力を、異物が傷口から強引に乱しているのだ。
一歩。
母獣が前へ出ようとする。
杭脚が土を抉っただけで終わる。
もう一歩。
身体が傾く。
グラド・バルムは腹を庇おうと身を丸め、そこで支えを失った。
十数メートル級の巨体が崩れ落ちる。
地面が、——跳ねた。
とおるの足元まで震動が届き、窪地の草が円を描いて伏せながら小石が数センチほど浮いて再び土へ落ちる。巨体の下では柔らかな地面が一気に沈み込み、先ほどまで「出産にはこちらのほうがいい」と三人で選んだ窪みが、その重さによって深く押し潰されていった。
数十秒前まで、三人が傷つけないよう慎重に扱っていた命だった。
近づきすぎないようにした。
驚かせないようにした。
雷の出力まで抑えた。
壁一枚の位置にも神経を使った。
それを、どこか遠くにいる何者かが、一投で壊した。
「剣を抜け! とおる、私から離れるな!」
ミレイユの声が鋭く飛ぶ。
彼女はもうグラド・バルムを見ていなかった。
右手には抜き放った剣。左足を半歩前へ置き、とおると槍が飛んできた方角との間へ身体を滑り込ませている。刃には先ほどまで母獣を刺激しないよう極限まで抑えていた〈白雷〉が再び集まり始め、細い火花だったものが、今度は明確な戦闘出力へ切り替わっていく。
ミレイユは槍を見ていたのではない。
槍が通ってきた空間を見ていた。
射線。
第二射があるなら、同じ方向から来る。
そして、とおるを狙う可能性がある。
「正面じゃない! 右後方にも一枚置け! 射手が一人とは限らない!」
「は、はい!」
とおるは反射的に〈壁〉を展開する。
今度の壁は道案内ではない。
高く。
厚く。
自分とミレイユを覆える幅で。
先ほどまで「圧迫感を与えないように」などと散々苦労していた透明な面が、今度は一切の遠慮なく地面から立ち上がった。
同じ能力なのに、目的が変われば形も役割もまるで違う。
アスカは――動かなかった。
少なくとも、とおるには最初そう見えた。
「アスカさん……?」
呼びかけても返事はない。
倒れたグラド・バルムへ駆け寄ることもしなければ、怒鳴りもしない。さっきまで笑っていた口元から表情が消え、赤褐色の瞳だけが黒銀の槍へ静かに向けられている。
そこで、とおるは気づいた。
止まっているのではない。
目が動いている。
槍の刺さった角度を見る。
地面に落ちた影を見る。
槍身の揺れを見る。
草の倒れている方向を見る。
空へ視線を走らせる。
周囲の岩場へ移す。
また槍へ戻す。
それらがあまりにも速く、身体が静止しているせいで、最初は何もしていないように見えただけだった。
アスカは観察している。
いや。
逆算している。
槍はグラド・バルムの腹部へ斜め上方から入っている。つまり射手は同じ高さにはいない。槍身は着弾後もほとんど横へ振れていないため、横風による偏差は射出時点で補正されている。飛来音が聞こえてから着弾までの間隔は異様に短く、通常の投擲ではあり得ない速度。にもかかわらず、穂先は最も柔らかい部位を正確に射抜いている。
偶然ではない。
狙って撃った。
それも、グラド・バルムが窪地へ移動し、甲殻の隙間から腹部を露出する瞬間を待って。
ということは。
こちらを、しばらく前から見ていた。
アスカの瞳が細くなる。
槍の軸線を、そのまま後方へ延ばす。
草原。
旧街道。
低い岩場。
その先にある丘は高さが足りない。
さらに奥。
風に削られた岩壁。
稜線。
周囲を見下ろせる高所。
遮蔽物があり、こちらから発見されにくく、十数メートルの標的の腹部へ射線を通せる場所。
「……あそこ」
声は低かった。
静かすぎて、かえってとおるの背中へ冷たいものが走る。
アスカの視線を追う。
旧街道から離れた先に、高い崖がある。
風雨に削られた灰色の岩肌。その上、空と岩の境界へ溶け込むように、三つの人影が立っていた。
三人。
等間隔ではない。
中央に一人。
その左右から数歩下がった位置に二人。
中央の人物だけが、投擲を終えた直後らしく右肩をわずかに前へ出し、伸ばしていた腕をゆっくり下ろしている。
あいつだ。
とおるにも分かった。
黒灰色の外套。
王国騎士の装備ではない。
地方守備兵の革鎧とも違う。
センターブルーの軍装にある青系統の識別色も見当たらない。
三人の装備には統一感がありながら、王国で一般的な軍装とは設計思想そのものが違っていた。胸部や肩を厚い装甲で覆うのではなく、身体へ沿う黒灰色の装具を基礎に、関節と急所だけを暗い金属板で補強している。外套の留め具、肩口、首筋には、距離があるにもかかわらず時折黒銀色の光を返す細い刻印が走っていた。
文字――なのだろうか。
少なくとも、とおるの知っている王国文字ではない。
線と線が妙な角度で交差し、一つの記号が次の記号へ食い込むように連なっている。装飾にしては規則的で、紋章にしては細かすぎる。
そして何より。
「……これ」
とおるの喉が、ひどく乾いた。
知らないはずなのに。
知っている。
それは「姿」ではない。
——魔力だ。
黒銀色の槍から漏れ続けている残留魔力を感じた時から、胸の奥に引っかかっていたものがある。
星の塔地下。
あの暗い空間。
そこで遭遇した、黒いフードを被った構成体。
あれは人間の姿をしていながら、どこか壊れていた。肉体と魔力が綺麗に噛み合っておらず、輪郭そのものが崩れかけ、ひび割れた器へ無理に何かを詰め込んだような不安定さがあった。
崖の上にいる三人は違う。
遠目にも姿勢が安定している。
立ち方に不自然さがない。
中央の一人は、あれほどの槍を放った後にも身体の軸を崩しておらず、左右の二人も周囲を警戒しながらそれぞれ一定の間隔を維持している。
人間として完成している。
戦う身体として整えられている。
それでも。
根にあるものが似ていた。
黒銀。
古い金属を擦り合わせたような魔力の残響。
普段この世界で感じる火や雷や風の霊素とは違い、温度を伴わず、触れていないのに皮膚の内側だけが冷えていくような異質さ。
「ミレイユさん」
「何だ」
「星の塔で会った奴と……似てます」
ミレイユの目が細くなる。
「黒フードか」
「はい。あれと全く同じじゃないです。向こうのほうが、ずっと安定してる。でも、この槍に残ってる魔力……同じものを混ぜたみたいな感じがします」
ミレイユは問い返さなかった。
代わりに剣の角度をわずかに変え、崖の三人と、とおるの間へ立つ。
その横で。
アスカが片刃刀〈緋燕〉の柄へ手を置いた。
かちり、と。
鯉口が切られる、ごく小さな音。
黒と朱の分割外套が風を受けて大きく膨らみ、その内側へ縫い込まれた赤い椿紋が一瞬だけ姿を見せる。
先ほどまでのアスカなら、ここで何か言ったはずだった。
「三人かあ、多いね」とか。
「残業確定かな」とか。
少なくとも、とおるがこの短時間で知った彼女なら、緊張を茶化す一言くらい挟んでもおかしくない。
何も言わない。
そのこと自体が、何より怖かった。
「ミレイユ」
アスカが名前を呼ぶ。
階級でも、役職でもない。
確認するような短い呼びかけ。
「壁の人、守れる?」
「そのつもりだ」
ミレイユは一拍も置かなかった。
アスカが頷く。
「じゃあ、私が行く」
「待て」
ミレイユの声が低くなる。
「敵は三名。能力も不明だ。あの距離から城甲獣の甲殻の隙間を射抜く射手がいる以上、単独で距離を詰めるのは――」
「逃がさない」
アスカはミレイユを見なかった。
視線は崖へ固定されている。
声も荒げない。
怒鳴らない。
それなのに、とおるには先ほどグラド・バルムが上げた咆哮より、その四文字のほうが鋭く聞こえた。
そこで初めて分かった。
アスカ・カグラードが危険人物と呼ばれる理由は、服務規定を守らないからではない。
任務期限を平然と超えるからでもない。
普段ふざけているからでもない。
必要と判断した時、迷いを行動の前へ置かないのだ。
グラド・バルムが倒れた直後、彼女は怒りに任せて飛び出さなかった。
まず槍を見た。
角度を測った。
風を読んだ。
射線を逆算した。
敵の位置を特定した。
人数を数えた。
そのうえで、自分が追うと決めた。
感情がないのではない。
おそらく逆だった。
腹が立っている。
それも、相当に。
せっかく殺さずに済ませた命を、遠くから一撃で奪われた。
その怒りを叫ぶことにも、槍を睨みつけることにも使わず、敵を逃がさないための判断へ全部回している。
だから——怖い。
怒っている人間の怖さではない。
戦闘へ入った人間の怖さだった。
窪地では、倒れたグラド・バルムが低く呻いている。
呼吸のたびに甲殻がわずかに上下し、腹部へ突き立った黒銀の槍の周囲では異質な魔力が脈打つように明滅していた。
数分前まで三人で作った道が、草の上に残っている。
アスカの〈空蝉〉が踏んだ跡。
ミレイユの〈白雷〉が浅く焦がした草。
とおるが壁を置き換え続けた進路。
誰も傷つけないために使った三人の力の痕跡が、そのまま残っている。
その終点に、黒銀の槍が刺さっていた。
崖の上では三つの影が、まだこちらを見下ろしている。
風が吹く。
アスカの軍帽のつばがわずかに持ち上がり、その下にある赤褐色の瞳が露わになる。
そこには、もう一切の笑みが残っていなかった。




