第38話 立つともっとでかいの反則でしょ
「〈空蝉〉、先に置いてくるね」
そう言うなり、アスカは腰の小袋から取り出した細い赤紐を指先でくるりと回し、街道の縁から少し外れた草地へ足を踏み入れた。彼女はグラド・バルムの正面へ回り込むのではなく、母獣が首を少し動かした時に視界の端へ引っかかるかどうかという絶妙な距離を保ちながら、大きな弧を描くように窪地へ向かって歩いていく。近すぎれば敵。遠すぎれば無関係。ならば、必要なのは「気になるけれど、わざわざ怒るほどではない」位置だった。
十歩。
二十歩。
アスカは数歩ごとに立ち止まり、足裏で地面の硬さを確かめ、わざと草の茎を浅く踏み倒し、風が抜ける方向へ髪束と外套を揺らしながら進んだ。その足運びは、単に窪地へ向かって歩いているだけには見えない。グラド・バルムが頭を上げた時に拾いやすい振動、腹部の感覚器官へ届きやすい歩幅、警戒心を煽らない速度、窪地へ向かって少しずつ遠ざかっていく気配の薄まり方――それらを一つずつ測りながら、草原の上へ見えない道筋を縫い込んでいるようだった。
靴底が草を踏むたび、薄い朱色の火霊素がほんの一瞬だけ灯る。
炎と呼ぶには弱すぎる。
熱と呼ぶには控えめすぎる。
夕日の欠片を指で砕いて足跡へ散らしたような淡い赤が踏まれた草と土の間へ沈み込み、アスカが数歩先へ進む頃には目に見える光としてはほとんど消えている。けれど何も残っていないわけではなかった。とおるが意識を集中させると、そこには人が少し前まで立っていた場所特有の、言葉にすると途端に安っぽくなりそうな気配だけが薄く漂っている。
踏みしだかれた草。
ほんのわずかな熱。
足裏から落ちた魔力。
地面へ残った重さの記憶。
誰かが、いまこの道を通った。
そして、あちらへ離れていった。
そう錯覚させる程度の痕跡が、窪地へ向かって点々と続いていた。
「……足跡を残してる、というより、歩いたこと自体を置いてる感じですね」
とおるが呟くと、アスカは二十メートルほど先で振り返り、赤紐を近くの低木へ結びつけた。紐は風を受け、窪地の奥へ向かって小さく揺れる。風向きの目印。ついでに後で〈空蝉〉を起動した時、気配の流れる方向を合わせるための基準でもあるらしい。
アスカは何事もなかったように戻ってきた。
「今のがアスカさんのスキル——〈空蝉〉ですか」
「うん。あとで合図すると、今歩いたぶんだけ、もう一回あっちへ行く」
「アスカさん本人が?」
「本人じゃなくて、歩いたっていう事実だけ。足音、熱、草を踏んだ揺れ、ちょっとした魔力の残り香。そのへんをまとめて再生する感じ」
「なるほど。透明なアスカさんが窪地へ逃げていくように見せるわけですね」
「逃げるっていうより、離れていく、かな」
アスカは片目を細めて、低く伏せているグラド・バルムを見た。
「こいつ、今は腹を守ることで頭がいっぱいだから、何かがこっちへ近づく気配にはすごく敏感に反応する。逆にこいつから遠ざかっていく気配は、そこまで危険扱いしない。だから囮というより、“向こうは静かで、何かが離れていく場所だよ”って教えるための案内標識」
「魔獣相手に案内標識を設置する日が来るとは思いませんでした」
「人生いろいろあるね」
「できれば俺の人生には、もう少し普通のいろいろを配分してほしいです」
「今回は音と気配だけ。火は温度を残す程度で、斬撃は混ぜない。派手にすると脅しになるし、脅されたら杭脚を打つから」
アスカは顎でグラド・バルムの腹部を示した。
「いま必要なのはびっくりさせることじゃなくて、安心して首を向ける理由を作ること。“あっちに何かいる”って感じだと弱いから、あっちは危なくなさそうって感じるぐらいまで思わせたい」
「……誘導って、思ったより繊細なんですね」
「繊細だよ。力任せでどうにかなるなら、紅椿がとっくに燃やして終わってる」
「その選択肢が普通に出てくるあたり、紅椿への理解が深まりますね」
「規則書にはあんまり好かれない考え方だけどね」
「規則書に感情があったら、アスカさんを見た瞬間に棚の奥へ逃げそうですね」
「ミレイユみたいな顔すると思う」
「何か言ったか」
「何でもない」
ミレイユは返事を待たず、すでに街道側へ移動していた。グラド・バルムが移動を嫌がって元の場所へ戻ろうとした時、最も危険なのは旧街道へ再び定着することではない。戻る途中で巨体が半端に身体を捻り、腹を庇おうとして暴れ、街道そのものを崩してしまうことだった。だからミレイユの役割は力で押し返すことではなく、母獣が「そちらへ戻るのは少し気持ち悪い」と感じる程度の境界を街道側へ薄く敷くことにある。
彼女は剣を抜いた。
刃にまとった〈白雷〉は、とおるが聖騎士試験で見たものとはまるで違っていた。あの時のように空気を裂き、目を焼くほど鋭く輝く白い稲妻ではない。剣先と足元へごく薄く雷霊素がまとわりつき、そこから細い白火花が草の表面を撫でるように走っていく。
ぱち、ぱち、と乾いた小さな音。
攻撃と呼ぶには弱すぎる。
痛みと呼ぶにも届かない。
触れれば不快。
踏めば避けたくなる。
敏感な獣なら、そこへわざわざ腹を向けたくない。
それくらいの刺激が、街道側へ細く、浅く、地面の表皮だけに流されている。
斬るための雷ではない。
追い払うための雷でもない。
進んでほしくない方向の価値を、少しだけ下げるための雷だった。
得意な力を強く振るうことより、必要なぶんだけ抑え、相手が怒らないぎりぎりの線へ留めることのほうが難しい。ミレイユはそれを説明する代わりに、黙ってやっていた。剣士としての才能が、今は敵を倒すためではなく巨大な母獣を怒らせないための細い調整へ注がれている。
「俺もやります」
とおるは息を吸い込み、グラド・バルムの左前方へ〈壁〉を展開した。
透明な長い面が、斜めに草原を切る。
いつものように敵の攻撃を正面から受け止める厚い壁ではない。高さはグラド・バルムの視界を完全には塞がない程度で、上部には空が見え、横幅も巨体の進路を遮断しきるほど長くは取らなかった。壁というより、草原の中へ置かれた「そちらへ行くと少し面倒ですよ」という無言の線。向こう側へ回り込もうと思えば回り込める。触れようと思えば触れられる。けれど真正面から見れば、わざわざその方向へ進むより開けている右前方へ身体を向けたほうが楽そうに感じる。
続けて、右側にも一枚。
こちらは左より少し遠い。
完全に挟むと檻になる。
檻に見えれば、グラド・バルムは腹を庇って動かなくなる。
だから壁と壁の間には、巨体が余裕を持って通れるだけの広さを残した。人間の感覚では広すぎて通路と呼ぶには頼りないが、目的は閉じ込めることではなく、広すぎる草原の中から「なんとなく進みやすい方向」を浮かび上がらせることだった。
三枚目はさらに前方。
窪地へ向かう正面は開けたまま、街道側へ身体を戻そうとした時だけ視界の端に入りそうな角度で置く。強度はあえて落とし、魔力遮断も薄くする。地面から魔力を感じ取るグラド・バルムにとって、とおるの〈壁〉が完全に魔力の流れを断つ存在として現れれば、それだけで異常な障害物になる可能性がある。だから今回は絶対に破られない盾ではなく、存在を主張しすぎない境界として壁を作る必要があった。
とおるは、出している壁を自分で見ながら妙な気分になった。
壁なのに、弱く作る。
壁なのに、隙間を大事にする。
壁なのに、塞ぐことより開けておく場所を考える。
これまでなら矛盾に聞こえたことが、今は妙に具体的な作業として目の前に並んでいる。
グラド・バルムが、低く唸った。
腹の下へ突き立てられていた杭脚が、ぎしり、と土を軋ませる。
まずい、とおるの背筋がこわばる。
巨体はまだ動いていない。けれど、わずかに身体の重心が変わった。押されたと感じたのか。囲まれたと判断したのか。腹を庇うように甲殻の内側へ力がこもり、地面へ刺さった杭脚の一本がさらに深く沈みかける。
「ちょ、反応が怖い」
「左、近い!」
アスカが即座に声を飛ばした。
「近いって、具体的にどれくらいですか!」
「母獣が“何それ嫌”って思うくらい!」
「めちゃくちゃ主観!」
「もっと外! 壁を見せたいんじゃなくて、そっちは少し選びにくいって思わせたいだけ!」
「巨大魔獣の心理誘導、研修でやってないんですけど!」
「今やってる!」
「現場研修が実戦すぎる!」
「二人とも、口より手を動かせ!」
ミレイユの叱声が飛んだ。
「はい!」
とおるは左前方の壁をすぐに解除し、半呼吸置いてからさっきより二歩ぶん外側へずらして作り直した。
壁は一度出せば、その場所から動かせない。
だから、消す。
そして、出し直す。
単純な作業のようでいて、相手は一呼吸ごとに重心を変え、首を振り、地面から情報を拾っている。置き直す位置を間違えれば、せっかく開きかけた進路が圧力へ変わる。近すぎれば脅威。遠すぎれば無意味。高すぎれば障害。低すぎればただの透明な板。厚すぎれば魔力の流れが消え、薄すぎれば存在に気づかれない。
とおるは額に汗が滲むのを感じながら、三枚の壁を見比べた。
左。
右。
前方。
どこを閉じるかではない。
どこを開けておくか。
この仕事の中心にあるのは壁そのものではなく、壁と壁の間に残した何もない空間だった。
グラド・バルムの唸りがわずかに弱まる。
杭脚へこもっていた力も、完全ではないものの少し抜けた。
アスカが短く息を吐き、指を鳴らす準備をする。
「じゃ、起こすよ。最初は一列目だけ」
ぱちん。
軽い音が草原へ落ちた。
少し離れた場所で、とん、と足音が鳴る。
誰もいない。
それなのに、アスカが先ほど歩いた場所の草がかすかに揺れ、朱色の火霊素の残り香が地面の上でほんの薄く息を吹き返した。
とん。
とん。
とん。
足音は窪地へ向かって、ゆっくり遠ざかっていく。
走ってはいない。
慌ててもいない。
何かが逃げるような切迫感はなく、危険なものが近づいてくる気配もない。ただそこにいた何者かがこの場から離れ、安全そうな方向へ歩いていく。そう感じさせるだけの控えめな再生だった。
グラド・バルムの小さな目が動く。
頭部が、わずかに窪地へ向いた。
見た。
そう思うより早く、アスカが小さく笑った。
「拾った」
同時に、グラド・バルムの身体が街道側へ戻りかける。
ぱちっ。
ミレイユの〈白雷〉が、草の上を細く走った。
白い火花が魔獣の進路を横切る。ほんの一瞬だけ、地面の感触が変わる。強い痛みではない。怒るほどの攻撃でもない。ただ、腹を抱えた母獣がその方向へ体重を預けるには、わずかに不快な刺激。
グラド・バルムの動きが止まる。
怒りではなく、迷いだった。
街道側には、少し嫌な感触。
反対側には、とおるの壁が作るゆるい圧。
正面より少し右、窪地の方角には、遠ざかっていく静かな足音。
その三つが重なり、母獣の中で選択肢の重さが少しだけ変わる。
そして。
腹の下へ刺さっていた杭脚の一本が、ゆっくりと持ち上がった。
ごぼり、と。
湿った地層の奥から古い大木の根を無理やり引き剥がしたような、鈍く、重く、耳よりも腹の底へ先に届く音が旧街道の下で鳴り、杭脚の周囲に盛り上がっていた土が内側から崩れた。乾いた表土が割れ、固く押し潰されていた草の根が露出しながら小石がぱらぱらと四方へ跳ねる。地面はただ揺れたのではない。巨大な質量が長いあいだ自分の身体の一部として縫い止めていた大地から、ほんの少しだけ身を剥がしたのだ。
足裏から突き上げてきた振動はとおるの脛を駆け上がり、膝の裏をいやな具合に揺らしつつ腹を通って、最後には胸の奥をどん!と叩いた。攻撃されたわけではないし、こちらへ迫ってきたわけでもない。ただ一本の脚が抜けただけ——にもかかわらず、身体のほうは「これは本来、人間が近くで見物していい規模の生物ではありません」とかなり真面目な警告を発していた。
続いて、もう一本。
さらに一本。
杭脚が地面から抜けるたび、圧し固められていた土はぼろぼろと崩れ、長時間の会議から解放された社員のように下敷きになっていた草が一斉に起き上がった。いや、草にしてみれば笑いごとではない。相手は十数メートル級の甲殻魔獣である。会議どころか、上司、役員、建物ごと乗っていたようなものだったに違いない。
そして、グラド・バルムが立ち上がった。
「いや、立つともっとでかいの反則でしょ」
とおるは、考えるより先に一歩下がっていた。
伏せているだけで砦だった。
寝そべっているだけで地形だった。
それが今、脚を得た。
つまり移動する砦である。
背中一面を覆う分厚い甲殻が、ゆっくりと持ち上がる。灰褐色の装甲板は陽光を受けてもほとんど輝かず、むしろ長い年月を城壁として風雨に晒されてきた石材のように鈍い重みを帯びていた。腹の下には人ひとりどころか小屋くらいなら入りそうな巨大な影が落ち、低く突き出た頭部が地面の振動と匂いと魔力の流れを確かめるように左右へ揺れる。
もう魔獣というより、建築物寄りだった。
分類名をつけるなら、移動式城壁。
あるいは、意思を持った要塞。
とおるの脳内では、住民総会が即時開催された。第一議題。帰るべきではないか。賛成、全員。反対、ゼロ。棄権、なし。満場一致で可決。なお当該決議を実行する権限は、現場の壁山とおるには付与されていなかった。社会とは時にこういう理不尽な仕組みで動いている。
「壁山、前へ!」
ミレイユの鋭い声が飛ぶ。
「はい!」
返事だけは軍人らしくなった。
とおるはすでに役目を終えかけていた一枚目の壁を解除し、グラド・バルムが首を向けた先へ新しい斜め壁を展開した。今度はさっきより広く、低く、薄く。真正面は塞がない。進路を潰さない。逃げ道を消さない。母獣の視界の端へ入り、地面から伝わる魔力の流れをわずかに濁らせ、「そちらにも行けなくはないけれど、わざわざ選ぶほど楽ではないですよ」と、相手の機嫌を損ねない程度に知らせるための壁だった。
二枚目は、やや左。
三枚目は街道側へ身体を戻そうとした時だけ、ゆるく進行角へ干渉する位置。
とおるは壁を作りながら、ようやく自分が何をしているのかを理解し始めていた。今出している壁は相手を止める障害物ではない。敵の攻撃を受け止める盾でも、相手を閉じ込める檻でもない。広すぎる草原の中へ人間には見えにくい進路標識を置き、「ここから先は少し窮屈」「こちらなら通りやすい」「向こうは戻るには不快」「あちらは安全そう」と、選択肢の形だけをほんの少し変えるための境界だった。
後ろの壁を消す。
前へ一枚置く。
左を少し狭める。
右は開ける。
街道側へ戻る角度にはミレイユの〈白雷〉が薄く敷かれている。剣先から流れた白い火花は草の表面を這う程度に抑えられているのに、地面を読むグラド・バルムには十分な違和感として届くらしい。そちらへ体重を預けようとした巨体がわずかに止まる。怒らせるほどではない。不快に思う程度。——しかしそれだけでいい。
一方、窪地の方角では、アスカの〈空蝉〉が静かに働いていた。誰もいないはずの草地で、とん、と足音が鳴る。少し遅れて草が揺れる。さらに先でもう一度足音と、遠ざかっていく気配が立ち上がる、ら危険がこちらへ迫ってくるのではなく、何かが安全そうな場所へ離れていくという、母獣の警戒心を刺激しにくい誘い水。
グラド・バルムが足を止めかければ、アスカがほんの少し先で足音を鳴らす。
街道側へ頭を振れば、ミレイユの白雷が地面へ小さな不快感を置く。
進路が開きすぎて迷い始めれば、とおるが壁を作り直し、余計な方向だけを削る。
三人の誰も、グラド・バルムを力で押してはいない。
引っ張ってもいない。
剣を突きつけても、炎で脅してもいない。
ただ巨大な母獣の前に並ぶいくつもの選択肢へ、指先で触れるように小さな重みを加え、その中の一つが自然に選ばれやすくなるように世界の形を少しだけ整えている。
そしてグラド・バルムは、そのたびに自分で次の一歩を選んでいた。
とおるは呼吸を整え、壁を消し、出し直し、位置を調整する。戦闘の時とはまるで違う集中だった。飛んでくる刃を防ぐわけではない。迫る魔法を遮るわけでもない。相手を倒すための隙を作るわけでもない。必要なのは母獣が迷わず進めるよう、余計な方向だけを少しずつ取り除くこと。そこには強さより繊細さが要るし、厚みより間合いが要る。自分の壁がどれほど硬いかではなく、どこまで主張させないかを考えなければならない。
こっちは行ける。
けれど、あちらのほうが楽だ。
この先は少し嫌な感じがする。
向こうなら腹を休められそうだ。
そんな曖昧な感覚が、母獣の中で自然に形を持つよう透明な面で道の輪郭だけを浮かび上がらせていく。
壁とは、向こう側へ行かせないためだけのものではない。
行けない場所を作ることで、逆にどちらへ進めばいいかを示すこともできる。
その感覚が、とおるの中で初めて理屈ではなく手応えとして輪郭を持った。
「アスカ、二列目を起こせ!」
「はいよ!」
アスカが指を二度鳴らす。
ぱちん、ぱちん。
窪地の手前で、存在しない誰かの足音が少し速くなった。走り去るほどではなく、驚かせるほどでもない。ただ、さきほどよりわずかに明確な気配が風の抜ける低い場所へ向かって離れていく。グラド・バルムの頭が、ゆっくりそちらへ傾いた。
「とおる、左を開けすぎるな。戻り幅が増える」
「はい!」
ミレイユの指示に、とおるは左の壁を解除し、半歩ぶん内側へ置き直した。半歩という単位が壁に適用されるのかという哲学的疑問は、この際飲み込む。現場では哲学より位置調整である。少なくとも今は、透明な壁一枚の角度が十数メートル級の魔獣の機嫌を左右している。人生でこんな種類の責任を背負う予定はなかった。
グラド・バルムが一歩踏み出す。
地面が沈む。
二歩目で、街道を塞いでいた巨体の輪郭がわずかに外れる。
三歩目で、これまで完全に隠れていた旧街道の土がようやく細い帯のように見え始めた。
「おお……動いてる」
「見れば分かる!」
「感動してるんですよ!」
「感動は後でしろ!」
「最近、俺の感情って全部あと回しにされてません?」
「今は任務中だ!」
「知ってました!」
口だけは動く。
手も動かす。
とおるは必死だった。
アスカは笑っている。けれどその指先と足運びに無駄はなく、再生する足音の間隔や残す火霊素の温度、気配の濃さやグラド・バルムが頭を動かすタイミング、そのすべてを見ながら調整している。ミレイユも街道側へ白雷を流しつつ、絶対に刺激が強くなりすぎない線を保っていた。彼女の剣は抜かれているのに、そこに斬る意思はない。力を持つ者が力を振るわないために技術を使っている。
最初から息が合っていたわけではない。
むしろ序盤はひどかった。
とおるが狭めすぎる。
グラド・バルムが唸る。
アスカが「それじゃ地上げ」と笑う。
ミレイユが怒る。
とおるが慌てて消す。
今度は開けすぎる。
進路がぶれる。
また怒られる。
そんな試行錯誤を繰り返すうち、少しずつ三人の動きが噛み合っていった。
「いいよ、その角度!」
「これでいいんですか!」
「うん、さっきまで圧迫面接だったけど、今はちゃんと道案内になってる!」
「褒め方の中にまだ傷が残ってる!」
「とおる、前方二枚目を右へ少しずらせ!」
「少しってどれくらいですか!」
「グラド・バルムが嫌がらない程度だ!」
「基準がグラド・バルム本人にしか分からない!」
「観察しろ!」
「実地試験が過酷!」
理不尽に思える指示ほど、従ってみると案外正しかった。
二枚目の壁を少し右へずらすと、グラド・バルムは小さく首を動かし、そのまま開けた方へ身体を向ける。もう一歩。さらに一歩。巨大な杭脚が地面へ深い跡を残しながら、それでも確かに街道から外れていく。
やがて、グラド・バルムの巨体が完全に旧街道の外へ出た。
「……お」
とおるの口から、声になりきらない息が漏れる。
母獣は窪地へゆっくり入り込み、草と岩の混じった柔らかな地面へ視線を下ろした。しばらく首を巡らせ、周囲の音、風、魔力、地面の硬さを確かめるようにじっとする。
グラド・バルムはすぐには身を沈めなかった。
まず頭を左へ向ける。
次に右。
地面へ触れている脚の一本が、細かな震えを拾うようにわずかに動く。
腹部の感覚器官で土中の魔力を探り、風の向きと湿度を確かめながら周辺に別の大型魔獣や人間の群れが潜んでいないかを確かめているのだろう。とおるたちは誰一人として近づかず、アスカも〈空蝉〉を止め、ミレイユも〈白雷〉を完全に散らしてただ母獣が自分で結論を出すのを待った。
数十秒。
実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。
それでも、とおるにはやけに長く感じられた。
もしここで「やっぱり前の場所のほうがいい」と判断されれば、また四十メートル分の誘導を最初からやり直す可能性がある。さらに悪い場合、今度こそ人間側の干渉を危険認定され、完全定着姿勢へ戻ってしまう。
どうか。
ここで。
お願いします。
とおるは巨大魔獣相手に、前世の面接結果通知でも待っているような気分で祈った。
——そしてついにグラド・バルムは、低く喉を鳴らした。
怒りではない。
威嚇でもない。
深く沈めた腹の奥から漏れたその低い響きは、獣の言葉など分かるはずもないとおるの耳にも不思議と怒りや警戒ではなく、長いあいだ張り詰めていた何かがようやく緩んだ時にだけ出る安堵の吐息のように聞こえた。
一本。
それから、もう一本。
グラド・バルムは新しい地面の感触を確かめるように、巨大な杭脚をゆっくりと土へ沈めていく。街道の硬く踏み固められた路盤とは違い、窪地の土はわずかに湿り気を含み、表層には草の根が絡んでいる。その下には適度な柔らかさがあるらしい。杭脚が入るたびにどすん、と腹の底へ届く鈍い振動が地面を伝わり、周囲の草が小さく揺れる。その動きは先ほどまでの「逃げないために地面へしがみつく」定着姿勢とはどこか違い、今度こそここを休息場所として受け入れようとしているように見えた。
風も悪くない。
窪地の西側は低い岩壁になっているものの完全に囲まれているわけではなく、南東から入る風がゆるく抜けている。母獣の腹部へ直接強い風が当たらず、それでいて熱や匂いが籠もりにくい。地面には巨体を収められる浅い窪みがあり、背甲の片側を岩へ預ければ外敵の接近方向も限定できる立地だった。人間の目から見ても、少なくとも旧街道のど真ん中よりはずっとまともな出産場所である。
重い甲殻が傾き、腹部が窪地の地面へ収まり、背側の一部が岩場へ寄りかかる。
そして最後の杭脚が、深く地面へ打ち込まれた。
定着。
それを確認してから、とおるはようやく最後に残していた〈壁〉を解除した。
透明な面が、薄い光の膜となって崩れていく。
「……できた」
思わず漏れた声は、自分で想像していたよりずっと頼りなかった。
もっとこう難事をやり遂げた騎士らしく胸を張って「成功ですね」とでも言えれば格好がついたのかもしれないが、実際のとおるは肩を落とし、膝へ手をつきながら長距離走を終えた学生みたいな姿勢で窪地のグラド・バルムを見ていた。
それでも、口元だけは少し緩んだ。
巨大な母獣は傷ついていない。
街道も空いた。
自分たちも無事。
三つ揃った結果を目の前にして、とおるの胸には遅れてじんわりと熱とも安心ともつかないものが広がっていった。
「とおる」
「はい?」
「次は最初から、そのくらい圧迫感を減らせ」
「今ちょうど自分の成長を噛み締めてたところなんですけど」
「反省も噛み締めろ」
「余韻が三秒しかなかった」
どうやら成長には、即座に業務改善が添付されるらしい。
「ほら、殺さなくてもいけた」
アスカは腰へ両手を当て、窪地の中でゆっくり身体を沈めていくグラド・バルムを眺めながら、まるで少々手間のかかる荷物を所定の場所へ運び終えた程度の気軽さでそう言った。
とおるは返事をするより先に、肺の底まで溜め込んでいた息を盛大に吐き出した。緊張が抜けた途端に肩が自分でも驚くほど下がり、三枚の〈壁〉を何度も消しては出し直したせいで張りつめていた指先からもようやく余計な力が抜けていく。
街道を見る。
通れる。
窪地を見る。
グラド・バルムは生きている。
地面へ伏せた母獣は、新しい場所の土を確かめるように杭脚を一本ずつ沈め、腹部を柔らかな窪みへ収めながら、低く、長く息を吐いていた。あれほど街道へ食い込んでいた巨体が完全に脇へ退いたことで、その向こうには途切れていた旧街道が一本の線として繋がり、抉れた箇所こそ残っているものの少なくとも荷馬車一台なら十分に通れる幅が確保されている。
誰も斬っていないし、焼いてもいない。
無理に押してもいない。
アスカは〈空蝉〉で「こちらから離れていく安全そうな気配」を作り、ミレイユは〈白雷〉で「街道側へ戻ると少し不快」という程度の刺激だけを置き、とおるは〈壁〉によって進めない場所を作るのではなく、進みやすい場所と進みにくい場所の差を少しずつ生み出した。
三人がやったことを乱暴にまとめれば、巨大魔獣に対して「あっちはなんとなく嫌で、こっちはなんとなく楽ですよ」と全力で雰囲気を作っただけである。
字面だけなら恐ろしく地味だった。
それでも、結果は目の前にある。
「……本当に動いた」
「だから動くって言ったでしょ」
「途中で杭脚を打ち直しかけた時、俺の寿命も一緒に地面へ打ち込まれた気がしましたけどね」
「二、三年くらい?」
「もっと持っていかれてます」
「若いんだから大丈夫」
「寿命って若さで補充される制度でしたっけ」
そんな馬鹿なやり取りができる程度には、とおるの身体から緊張が抜けていた。
胸の奥には、小さな達成感が残っている。
聖騎士試験で味わったものとは、ずいぶん違った。
あの時には観覧席があり、勝敗があり、防護術式が砕ける澄んだ音があり、誰の目にも分かる形で「勝った」と示される瞬間があった。今回は歓声など聞こえなければ、耳をつんざくような拍手もない。派手な決着もなく、終わってみれば巨大な魔獣が数十メートル横へ移動して寝直しただけで、事情を知らない旅人が今ここを通れば「でかいのが寝ているな」くらいの感想で通り過ぎるかもしれない。
けれどとおるにとっては、その「寝る場所が変わった」という結果そのものが新しかった。
壁は、危険を受け止めるためだけのものではない。
誰かを守る。
何かを隔てる。
近づかせない。
そこまでは分かっていた。
今日初めて、その先に「導く」という使い方が加わった。
真正面を塞いで「行くな」と命令するのではなく、選択肢の形を少しだけ変え、相手自身に別の道を選ばせる。三枚しかないなら三枚を固定して使う必要もなく、一枚を消して前へ出し、後ろを開け、横幅を調整し、状況に合わせて境界そのものを更新していけばいい。
壁を動かすというのもまた、大事な話かもしれない。
厳密に言えば、一枚の壁を動かしたわけではない。
自分の〈壁〉には出した後で横へ滑らせたり、押し進めたりする機能などない。消して、別の位置へ出す。さらに消して、その先へ作り直す。その繰り返しでしかなかった。
それでも、後ろから見れば壁は前へ進んでいた。
グラド・バルムから見れば、自分の移動に合わせて境界の位置が変わり続けていた。
なら、使い方としては「動かした」と言ってもいいのではないか。
そう考えると、自分の能力がほんの少しだけ広くなったような気がした。能力そのものが強くなったわけではなく、壁の枚数が増えたわけでも、耐久力が上がったわけでもない。それでも昨日まで一つしかなかった道具の使い道が二つ、三つと増えていく感覚には、数値では測れない手応えがあった。
「成果は認める」
少し離れたところから、ミレイユが静かに言った。
アスカが待ってましたとばかりに振り返り、にっと笑う。
「でしょ?」
「任務期限を超過した件と、定時連絡を怠った件と、増援要請を出さず単独で複数の誘導方法を試した件については、王都へ戻ってから別途話す」
「……今ので帳消しにならない?」
「ならない」
「魔獣も助かったよ?」
「それは任務上の成果だ」
「街道も開いた」
「それも任務上の成果だ」
「私、結構頑張った」
「それは服務規定違反を消滅させる魔法の言葉ではない」
「厳しい」
「当然だ」
感動の余韻が服務規定によって真正面から轢かれた。
とおるは心の中で、つい先ほどまで胸いっぱいに広がっていた温かな達成感へ、せめて安らかに眠ってくれと静かに手を合わせた。
命を救った。
塞がれていた街道も開いた。
三人で知恵を出し合い、それぞれが持つ力をただ敵へ叩きつけるのではなく、追い立て、惑わせ、進路を変えるために使った結果魔獣も人間も傷つけることなく問題を解決できたのだから、任務としては文句のつけようがない大成功である。
もしこれが物語なら、ここで役目を終えた緊張感に代わって穏やかな曲でも流れ始め、夕暮れに染まる街道を背景に、アスカが気まずそうに頬を掻きながら「まあ……ちょっとくらい反省してあげてもいいかな」などと殊勝なことを言い出し、ミレイユも「今回だけですよ」と呆れ半分の微笑みを返し、とおるは二人から少し離れた場所で茜色の空を眺めながら「こういう任務も、悪くないな」とでも呟いて幕を閉じるところだろう。
めでたし、めでたし。
少なくとも、とおるの中ではその予定だった。
ところが現実というものは、物語が余韻に浸ろうとした瞬間を見計らって事務処理の束を投げ込んでくる程度には無粋であり、三人を待っていたのは感動的な締めくくりでも仲間同士の爽やかな反省会でもなく、帰還直後の事情聴取とそれが終わった先に待ち構える報告書だった。
社会は強い。
ひょっとすると、魔獣より強い。
魔獣なら習性を読み、進路を予測し、いざとなれば戦うという選択肢もあるのだが、服務規定には習性も死角も存在せず、こちらが疲れていようが達成感に浸っていようが“規定は規定です”の一言で正面から殴ってくる。
しかも厄介なことに、〈空蝉〉で誘導しようとしても服務規定は一歩たりとも動いてくれず、〈白雷〉で威嚇したところで報告書が恐れをなして消滅するわけでもなく、ましてや剣を抜けば解決するどころか書類の種類が増える未来しか見えない。
では〈壁〉ならどうだろう、と一瞬だけ考えた。
報告書の前に壁を出す。
見えなくなる。
見えないものは存在しない。
なかなか美しい三段論法に思えたが、冷静に考えれば問題を解決したのではなく、問題と自分の間へ物理的な遮蔽物を設置しただけであり、その程度の小細工でミレイユが「まあ、見えませんし仕方ありませんね」と納得して帰ってくれるはずもない。
むしろ無言で壁の横へ回り込み、報告書を抱えたまま現れる姿が容易に想像できた。
壁は魔獣を止められる。
だが、ミレイユは止められない。
とおるは今日一日の経験から、新たな知見を得た。
——一方その頃、ミレイユととおるが「報告書を書く」「書きたくない」という、人類が文字を発明して以来おそらく何度となく繰り返されてきた不毛な攻防に貴重な時間を費やしている横で、アスカだけは二人の戦争から早々に意識を切り離し、窪地へ巨体を落ち着けたグラド・バルムをじっと眺めていた。
誘導は成功した。
街道も空いたし、母獣を無駄に興奮させることもなく腹の子に余計な負担をかけずに済んだのだから、結果だけ並べれば文句のつけようがない――少なくとも報告書の「成果」の欄には堂々と丸をつけていい仕事だった。
なのに。
アスカの胸には、魚の小骨ほど細いくせに、飲み込もうとするたび「まだここにいますけど?」と律儀に存在を申告してくるような引っかかりが、どうにも一本だけ残っている。
――なんで、あそこにいたんだろ。
グラド・バルムが出産を間近に控えていることについては、ほぼ疑いようがない。
腹部の張り方、地面へ身体を預ける定着姿勢、普段より明らかに鋭くなっていた周囲への警戒、それでいて自分から積極的に襲いかかる様子はなく、むしろ地面を伝う振動ひとつひとつへ神経質なほど反応していたことまで合わせれば、母獣が腹の子を守るために少しでも安全な場所を探していたという見立てはまず外していないだろう。
問題は、その母獣が「よし、ここなら安心して産める」と判断したらしい場所が、よりにもよって旧街道だったことである。
アスカは軍帽のつばへ指を添え、グラド・バルムがつい先ほどまで巨大な腹を据えていた場所へ視線を戻した。
城甲獣グラド・バルムは、昼下がりの猫よろしく「今日はこのへんでいいか」と適当な地面へ転がり、そのまま腹を出して寝るような魔獣ではない。
あれだけの巨体を預けても沈まない地盤があり、杭脚を十分な深さまで打ち込めて、なおかつ接近する外敵の振動を拾いやすい――そうした条件を満たす場所を本能的に選ぶ性質があり、まして出産前ともなれば、普段以上に人間や他の魔獣が行き交う場所を避けるのが自然だった。
対して旧街道はどうか。
現在こそ往来が減っているとはいえ、歴とした人間の道であり、長年にわたって踏み固められた地面は決して柔らかくなく、巨体を隠せるような遮蔽物もろくにないうえに荷馬車が一台通れば車輪と蹄が仲良く振動を撒き散らしていく。
出産場所として採点するなら、アスカならかなり渋い点をつける。
少なくとも「ここしかない!」と感極まって杭脚を突き立てるほどの優良物件には見えないし、もしグラド・バルム専門の不動産屋なるものが存在していたなら、担当者を呼び出して「妊婦さんにこの物件を勧めた理由を上から順番に説明してください」と問い詰めたい程度には、立地がおかしい。
にもかかわらず、あの母獣はそこへ来た。
そして一度腹を据えると、多少の刺激では動こうともしなかった。
――棲み処を追われた?
まず思いつくのは、それだ。
本来の活動圏で何らかの異変が起こり、より大型の魔獣が縄張りへ入り込んできたのかもしれないし、山火事や崩落で地形そのものが変わった可能性もある。
もっと単純に考えれば、出産を目前にしたグラド・バルムですら「ここで子供を産むのはちょっと無理」と逃げ出さざるを得ない何かが、元の棲み処に現れたとも考えられる。
ただ、その仮説にはひとつ困った点があった。
――痕跡が、なさすぎる。
大型魔獣同士が縄張りを奪い合えば、当人たちに「後片付け」という文明的な概念はないため、木々は折れるわ岩は転がるわ地面は踏み荒らされるわで、現場は嫌でも賑やかな有様になる。
山火事なら焦げ跡が残るし、大規模な崩落なら地形そのものが変わる。
ここ数日、周辺を自分の足で歩き回ったアスカには、そのどれにも心当たりがなかった。
ならば、追われたのではなく――。
自分から来た?
「……んー」
軍帽の下で、アスカの目がわずかに細くなる。
グラド・バルムは地面から情報を拾う。
人間の耳には届かない振動はもちろん、地中を流れる水の気配、岩盤に籠もる熱、さらには微細な魔力の偏りまで感じ取り、棲み処を決める際にはそれらを総合していると考えられている。
人間が家探しで日当たりや駅からの距離を気にするように、グラド・バルムにはグラド・バルムなりの譲れない条件があるのだろう――もっとも、その条件表には「最寄りの村まで徒歩何分」などという項目は絶対に存在しないだろうが。
そう考えると、今度は別の可能性が浮かび上がる。
旧街道そのものではなく、その下に何かがあったのではないか。
グラド・バルムがわざわざ本来の活動圏を外れ、出産場所としてはお世辞にも好条件とは言えないあの地点まで足を運ぶだけの、何かが。
思い返せば、最初に調べた時から妙ではあった。
腹の下を抜けていた、あの風。
それから、地面のさらに奥――土と岩の向こうから滲み出してくるように感じた、ごく薄い魔力。
どちらも、見つけた瞬間に警鐘を鳴らすほど露骨な異常ではない。
地下に小さな空洞でもあって、どこかの亀裂から入った風がそこを通り抜けているだけだと言われれば、「まあ、そういうこともあるか」で済ませられる程度のものだし、近くに地脈の細い支流でも走っているなら、微弱な魔力が地表まで漏れていたところで不思議ではない。
むしろ――だからこそ、アスカは気になっていた。
露骨に怪しいなら簡単なのだ。
地面から青白い光でも噴き出し、怪しげな声が「こちらへおいで……」などと囁いてくれれば、その場で部隊を呼んで掘ればいい。
しかし現実というものは往々にして不親切で、肝心な時ほど「怪しいような、怪しくないような、でも後から考えるとやっぱり怪しかった」程度の顔をして転がっている。
異常と断言するには弱すぎる。
けれど偶然の一言で片づけるには、少々出来すぎている。
出産前のグラド・バルムが、本来の活動範囲から外れた。
わざわざ人間の使う旧街道まで移動した。
選んだ場所の地下からは、わずかな風が抜けていた。
同じ場所で、ごく微弱ながら魔力も感じた。
そして母獣は、そのほぼ真上へ腹を据え、まるで地面そのものを抱え込むように杭脚を深く打ち込んでいた。
「…………」
アスカはその場にしゃがみ込み、少し離れた旧街道を改めて眺めた。
グラド・バルムの巨体が退いたことで、そこだけ草も土もまとめて押し潰され、街道の脇には巨大な円形の跡がくっきりと残っている。
さらに、その周囲には杭脚を突き立てていた穴がいくつも穿たれ、昼間だというのに底の見えない黒が、ぽつり、ぽつりと口を開けていた。
――あの子が、あそこを選んだ理由がある。
少なくともアスカには、そう思えた。
人間の目には「昔使われていた、ちょっと寂れた道」でしかなくとも、地面の下まで感じ取れるグラド・バルムにとっては、まったく別の価値を持つ場所だったのかもしれない。
たとえば地下の温度が、腹の子を育てるのにちょうどよかった。
地脈から漏れる微弱な魔力が、出産を控えた母獣にとって心地よかった。
あるいは地中の空洞が音や振動をよく伝え、外敵の接近を察知するのに都合がよかった。
その程度の理由なら、話は簡単だ。
あとで調べて、「なるほど、そういうことだったのか」と納得して終われる。
アスカとしても、その結末がいちばんありがたい。
ありがたい、のだが。
――もし、逆だったら?
ふいに浮かんだ考えに、アスカの指が軍帽のつばで止まった。
グラド・バルムが、自分にとって都合のいい何かを求めて、あの場所まで来たのではなく。
あの場所にある何かのほうが。
地上にいるグラド・バルムへ届くほど微かな何かが――母獣を、そこへ呼んだのだとしたら。
「…………」
数秒ほど真面目に考えてから、アスカは自分で自分の想像へ呆れたように、小さく鼻を鳴らした。
「……考えすぎかな」
証拠はない。
魔獣の行動すべてに意味を見出そうとすれば、理由などいくらでも作れるし、点と点を線で結ぶ作業に夢中になりすぎれば、最後には線どころか立派な絵まで描けてしまう。
実際のところ、グラド・バルム本人――いや、本獣に尋ねてみれば、「なんとなくここがよかった」という身も蓋もない答えが返ってくる可能性だって十分にある。
現場に立つ人間が勘を信じることは大切だ。
けれど勘へ都合のいい理屈を次々と貼りつけ始めた瞬間、それは観察ではなく妄想へ片足を突っ込む。
そして妄想を根拠に部隊を動かせば、帰還後に待っているのはたぶん報告書だ。
それも、とびきり面倒なやつ。
――やめよう。
アスカは即座に現実へ帰ってきた。
この疑問は、王都へ戻ってから報告の片隅へ添えておけばいい。
必要なら地質調査を頼み、ついでに魔力測定もしてもらう。
地下に空洞があるなら場所と規模を調べ、魔力の出所が地脈ならそれでよし、何も見つからなければ「考えすぎでした」で終わる話だ。
それが一番いい。
何もないに越したことはない。
そう結論づけ、立ち上がろうとして――。
アスカは、もう一度だけ旧街道を見た。
「…………?」
理由は、自分でも分からなかった。
ただ、さっきまでグラド・バルムという巨大すぎる存在が居座っていたせいなのか、母獣が退いたあとの地面は妙に広く、妙に平らで、そして妙に――無防備に見えた。
押し潰された草。
剥き出しになった土。
その中心に残された、杭脚の黒い穴。
ほんの少し前まで、あの巨体がすべてを覆い隠していた。
地面へ腹を密着させ、何本もの杭脚を深く突き立て、まるでそこから何かが出てこないよう押さえつけていた――。
「……いや」
違う。
そう見えただけだ。
アスカは頭の中で、自分の想像へもう一度そう言い聞かせた。
それなのに。
グラド・バルムがいなくなった旧街道を眺めていると、どうしても胸の奥に、先ほどの小骨とは少し違う感覚が残った。
何かが現れたようには見えない。
何かが動いたわけでもない。
音ひとつ聞こえない。
ただ――。
そこだけが、ほんの少し。
ずっと上から押さえつけられていた何かの蓋を、
うっかり開けてしまった跡のように見えた。




