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第37話 壁を動かすというのもまた大事な話かもしれない



 しかし、でかい。


 あまりにもデカい。


 こんなものを一体どうやって動かせというのかと、とおるは旧街道の真ん中に居座る〈城甲獣グラド・バルム〉を見上げながら心の中でわりと真剣に遠い部署へ問い合わせを投げたくなっていた。問い合わせ先は不明。担当者も不明。件名は「十数メートル級甲殻魔獣の移動方法について」。本文は「壁山とおるです。いつもお世話になっております。突然のご連絡失礼いたします。現在、旧街道上に巨大魔獣が定着しており、これを討伐せず移動させる必要が発生しております。つきましては、現場での対応手順、必要人員、危険手当、退避基準、精神的補償についてご教示いただけますと幸いです」。もちろん送信先はない。返信もない。あるのは街道を塞ぐ生きた砦と、腕を組んで状況を整理しているミレイユと、なぜか楽しそうに魔獣の足元を覗き込んでいるアスカ・カグラードだけだった。


 グラド・バルムは、近くで見るほど砦だった。背中を覆う硬質甲殻は、獣の外皮というより古い城壁の残骸を何層も重ねたような重厚さを持ち、ところどころに苔と土がこびりついているせいで少し離れれば本当に小さな岩山に見える。側面の装甲は風雨に削られた石のように灰褐色で、縁には割れた胸壁めいた突起が並び、その一つ一つが人間の胴体くらいはありそうだった。腹部の下には複数の杭脚があり、脚というより地面へ自分を縫い止めるための巨大な楔に近い。いくつかは街道の土を貫いて深く沈み込み、そこから細かな亀裂が放射状に広がっている。一度定着すると小隊規模では動かせないという説明は、誇張でも何でもなかった。小隊どころか見た目だけなら村人総出で押しても先に人間のほうが人生から押し出されそうである。


「これ、押すんですか」


 とおるが言うと、アスカはしゃがんだまま振り返った。黒い軍帽型の略帽が少し傾き、朱赤の差した髪が風に揺れる。


「押したら怒るよ」


「でしょうね」


「一回、軽く押してみた」


「試したんですか」


「結果、杭脚が三本増えた」


「最悪の実験結果じゃないですか」


「学びはあったよ?」


「犠牲になった街道の気持ちも考えてください」


 アスカは悪びれた様子もなく、足元の土を棒でつついた。紅椿の強襲外装は黒を基調としながら内側に朱を抱え、風を受けた分割外套がぱたぱたと揺れるたび、黒い布の奥で赤い椿紋がちらりと咲く。本人の動きはどこか気ままで、任務期限を超過して周囲を心配させている人物とは思えないほどのんびりしている。ところが彼女が見ている場所は、魔獣の足元、腹部、地面の亀裂、風の抜け道、杭脚の深さ、周辺地形と、きわめて実戦的だった。服務規定は壊滅的でも、現場を見る目だけは確かだと分かる。そういう人間が一番厄介なのだろう。成果は出す。報告書も優秀。そして帰ってこない。上司の胃へ直接攻撃するタイプである。


 城甲獣グラド・バルムという魔獣は、王国の魔獣分類では〈大型定着性甲殻種〉に属する。


 分類だけを聞けば、要するに「でかくて硬くて、その場からなかなか動かない魔獣」という身も蓋もない説明に見えるものの、実際の生態はもう少し複雑だった。グラド・バルムの祖先にあたる甲殻獣は、もともと山岳地帯や地脈の露出した荒野に生息していたと考えられており、外敵から身を守るため岩肌へ身体を寄せ、周辺の鉱物質や魔素を長い年月かけて甲殻へ取り込む習性を持っていた。その性質が世代を重ねるうち極端な方向へ発達し、現在のグラド・バルムは「硬い殻を持つ生き物」というより、周囲の地質まで取り込んで自分自身を半ば地形へ変えてしまうほどの特異な進化を遂げている。


 背部を覆う甲殻も、最初からあの分厚さで生えているわけではない。


 幼体の頃は大型の亀にも似た比較的滑らかな殻しか持たず、成長とともに魔力を含んだ土、砂、岩石片、鉱物、植物由来の繊維などを表面へ吸着させ、それらを体内から分泌する〈殻蝋〉と呼ばれる粘性物質によって固着していく。さらに殻内部を走る魔力回路が取り込んだ物質へ徐々に浸透し、年月をかけて生体甲殻へ置換されるため、老齢個体ともなれば背中の一部が本物の岩石なのか肉体の一部なのか、専門家でも切断して調べなければ判別できないことがあるらしい。


 その結果、長く生きた個体ほど外見が土地に似る。


 赤土の多い地域なら赤褐色。


 石灰岩地帯なら白灰色。


 湿潤な森へ定着した個体では背中へ苔や低木が根を張り、鳥が巣を作ることまである。


 極端な例では何十年も同じ谷に住み着いた老齢個体を地元住民が丘だと思い込み、死後に動かなくなって初めて「昔からあったあの岩山、魔獣だったらしい」という、地図製作者の職業人生を根本から揺さぶるような事例まで記録されている。


 とおるはその話を以前、王都の魔獣資料集で読んだことがあった。


 その時は「いやそんなわけあるか」と笑った。


 今は笑えない。


 目の前に、わりとそのまま載っている。


 むしろ資料の挿絵よりでかい。


 出版物には遠近感という人類の味方が存在するが、現物には存在しないのである。


 グラド・バルム最大の特徴とされる〈杭脚〉も、単なる歩行器官ではない。腹部から左右へ伸びる八本前後の太い脚のうち、前後四本は通常の移動に使われる一方、中央付近に備わった数本は骨格そのものが縦方向へ異常発達しており、足裏には岩盤へ食い込むための鋭い角質突起が束状に並んでいる。定着時にはこの杭脚を地中深くへ差し込み、筋肉だけでなく甲殻内部の魔力回路まで地脈へ接続することで自身の体重を地面全体へ分散させる。


 つまり、ただ踏ん張っているわけではない。


 グラド・バルムはその場へ座ると、地面と一体になる。


 人間に例えるなら椅子へ座って休憩している程度の感覚なのかもしれないが、人間側から見れば、家ほどの質量を持つ物体が地中へ巨大なアンカーを何本も打ち込み、「本日の営業はここで終了しました」と宣言しているに等しい。


 引っ張っても動かない。


 押しても動かない。


 持ち上げるなど論外。


 しかも無理に外力を加えると、危険を感じた個体は杭脚をさらに深く打ち込む。


 アスカが「軽く押したら杭脚が三本増えた」と言っていたのも厳密には新しく脚が生えたわけではなく、それまで歩行用として畳んでいた補助脚まで地面へ刺して完全定着姿勢へ移行したという意味である。


 聞けば納得できる。


 そして聞いたところで、状況が一ミリも改善しない。


 生態への理解と問題解決能力は、必ずしも比例しないのである。


 それどころか、グラド・バルムは大型魔獣としては珍しく、肉食性がほとんどない。


 主食は地中へ根を張る魔素植物、鉱物塩、苔、低木の新芽などであり、場所によっては地脈から直接魔力を吸収する。大きな口と岩でも噛み砕けそうな顎を持っているため見た目だけなら荷馬車くらい丸呑みにしそうなのに、人間を積極的に捕食した記録は非常に少ない。むしろ普段は鈍重で温厚。近づきすぎれば威嚇し、子育て中や負傷時には攻撃へ転じるものの、自分から集落まで追ってきて人間を襲うような性質ではない。


 このため、王国での危険度評価も少し特殊だった。


 純粋な戦闘能力だけで見れば上位危険魔獣に分類される。


 十数メートル級の質量。


 攻城槌を正面から受けても耐えうる背甲。


 地面ごと相手を押し潰す踏み込み。


 危機を感じた際、甲殻へ蓄積した魔力を一気に解放して起こす〈震殻〉と呼ばれる衝撃波。


 そのいずれも、まともに戦えば人間一人や二人でどうにかできる代物ではない。


 一方で、遭遇しただけで即座に討伐対象になるわけでもない。


 グラド・バルムの縄張りさえ避ければ共存可能であり、山間部では長年同じ個体と生活圏を分け合っている村も存在する。背甲に生える薬草を採取する者すらいるらしく、眠っているグラド・バルムの上へこっそり登り、必要な分だけ採って降りるという、字面だけなら正気を疑う伝統採取法まであるという。


 もっとも、採取中に目を覚ました場合どうなるのかについて、資料には「十分注意すること」としか書かれていなかった。


 とおるは思う。


 そこを一番詳しく書け。


 注意で済む大きさじゃない。


 そしてこの種が人間社会で問題になる最大の理由は、攻撃性ではなく定着場所を選ばないことにあった。


 グラド・バルムには人間の地図が読めない。


 国境も知らない。


 街道法も、土地所有権も、物流事情も、地方商会が一日に何台の荷車を通したいかも当然知らない。


 彼らが定着場所を決める基準は極端に生物的で、地中の魔力が安定していること。


 水源が近いこと。


 腹部を冷やしすぎない程度の風が通ること。


 敵の接近を察知しやすいこと。


 地面が杭脚を打ち込みやすい硬さであること。


 その程度しかない。


 そこが古くから使われている交易路であろうと、農地のど真ん中であろうと、王国軍の演習場であろうと、条件さえよければ平然と座る。


 人間からすれば災害。


 本人からすれば引っ越し。


 互いの事情があまりにも噛み合っていない。


 しかも出産期を迎えた雌は、通常時よりさらに慎重になる。


 グラド・バルムは卵生ではなく胎生に近い繁殖形態を持ち、母体の腹腔内部に形成される〈育殻嚢〉と呼ばれる石灰質の膜で胎仔を保護する。妊娠後期になると母体は長距離移動を避け、地脈が穏やかで外敵から身を守りやすい場所を探し、一度そこを「安全」と認識すれば出産までほとんど離れようとしない。


 この時期に無理やり移動させると、母体への負荷だけでなく胎仔にも魔力循環障害が起こりやすい。


 火を見せれば危険。


 大きな音も危険。


 攻撃も危険。


 強い魔力を近くで展開するだけでも警戒態勢へ移る場合がある。


 要するに今回の任務は、


 【十数メートルの妊婦へ、機嫌を損ねず引っ越していただく仕事】


と言い換えることができた。


 そう表現すると、急にものすごく失礼な業務に聞こえてくる。


 しかも相手は意思疎通ができない。


 気に入らなければ地面へ数メートルの杭を打つ。


 交渉難易度としては、王都の役所へ書類を持っていくより遥かに高い。


 グラド・バルムの頭部が、のそりと動いた。


 琥珀色の瞳がこちらへ向く。


 視力そのものは決して高くなく、代わりに杭脚や腹部の感覚器官から地面を伝う振動を拾い、数十メートル先の足音まで察知するとされる。人間のように「何がいるか」を見るというより、「どのくらい重いものが、どの速さで、どちらから近づいてくるか」を地面越しに読む。


 ゆえに不用意に走るのもよくない。


 大人数で取り囲むのもよくない。


 誰かが焦って足を滑らせて盛大に転ぶのも、おそらくあまりよろしくない。


 とおるはそっと自分の足元を見た。


 先ほどからこの街道、絶妙な位置へ石が多い。


 頼むから今日は仕事をしないでくれ。


 足元の石ころ相手に真顔でそんな祈りを捧げたくなる程度には、相手が巨大だった。


 さらに厄介なことに、グラド・バルムは一見鈍重でありながら、危険時の初動だけは驚くほど速い。


 普段は地形そのものにしか見えないくせに、敵が腹部へ潜り込もうとした場合、杭脚を一本だけ軸として巨体を回転させたり、前肢で地面を削りながら数メートル単位で身体を滑らせたりする。城壁が急に横へ移動してくるようなもので、初見の冒険者が「遅そうだから近づけば安全」と判断し、そのまま吹き飛ばされた事例は少なくない。


 魔獣討伐の教本にも、


 「巨体と鈍重を同義と考えるな」


と赤字で書かれているほどだった。


 とおるはその一文を思い出し、改めてグラド・バルムを見た。


 動かない。


 静か。


 巨大。


 腹には子。


 背中は砦。


 足は杭。


 怒らせれば衝撃波。


 走れば意外と速い。


 そしてこちらに与えられている任務は、殺さずに街道から退いてもらうこと。


 条件を一項目ずつ並べていくほど、ゲームなら攻略掲示板に「このクエ考えた奴出てこい」と書き込まれていそうな仕様になっていく。


 それでもアスカが討伐へ踏み切らなかった理由は、目の前の個体が「危険だからそこにいる」のではなく、「安全だからそこにいる」と判断したからだった。


 グラド・バルムに悪意はない。


 人間側へ譲歩するという概念もない。


 それゆえに剣を向けて排除するのは簡単でも、双方を生かしたまま状況を解くには相手の生態そのものを読み解く必要がある。


 白華隊が人を守る騎士であり、紅椿が道を切り拓く騎士であるなら、今回は珍しくその二つの理念が文字通り同じ街道の上で交差していた。


 ミレイユはしばらくグラド・バルムを観察し、それから手元の任務書へ視線を落とした。


「状況を整理するが、対象は妊娠中の可能性が高い——と。街道を巣に選んだというより、地下から流れる魔力と風の通り道を出産に適した環境と判断して定着している。近づく者へ威嚇はするが、積極的な捕食行動や追跡行動は見られない」


「うん。攻撃的ってより、守ってる感じ」


 アスカが頷く。


「火で脅す、音を出す、正面から誘導する、餌で釣る、周囲を回って退路を作るなどなど、色々試すのは試した感じ。火は駄目で腹を庇って杭脚を深く打ってる。周辺全体を危険扱いするから、大きな音も駄目。餌は見たけど動かなかったし、正面から近づくと威嚇してくる恐れが有り。背中側へ回ると向きを変えようとして街道をさらに崩す可能性もあるし」


「試行回数が多いですね」


「思ったよりちゃんと働いてる人なんだな、って顔してる」


「してました?」


「してた」


「表情管理が甘かった」


 アスカは笑ったものの、すぐに視線をグラド・バルムへ戻した。


「こいつは動きたくないんじゃなくて、ここが一番安全だと思ってるんだ。だから無理やり押し出すんじゃなくて、別の場所のほうが安全だと思わせたい」


「魔獣へ引っ越し提案をするわけですね」


「そう。説得じゃなくて、環境で」


「不動産案内みたいになってきた」


 ミレイユは近くの地形へ目を向ける。旧街道の東側には緩やかな岩場と草地が混ざった窪地があり、風もほどよく抜けている。街道から外れているため荷馬車の通行を妨げず、地面も柔らかそうだ。地下の魔力流まではとおるには分からないが、アスカが調べた限りでは今の場所ほどではないにせよ出産には悪くない環境らしい。


「誘導先はあそこか」


「うん。柔らかいし、風もよく通る。腹を置ける窪みもあるっぽい。問題は、あっちへ行く理由をこいつに作ること」


 グラド・バルムの腹の下へ向けていた視線をゆっくり上げ、アスカはとおるを改めて見た。報告書や噂で名前くらいは聞いているのだろうが、その目つきは「有名人を見た」というより、「現場に使えそうな道具が一つ増えたけど、取扱説明書が箱に入っていない」と判断している職人のそれに近かった。


「ええと、壁山……とおる君、で合ってる?」


「はい。できれば“壁の人”とか“壁担当”ではなく、名前で呼んでもらえると助かります」


「了解。じゃあ、とおる。報告書にちらっと書いてあったんだけど、壁っぽいものを出せるんだよね? どれくらい使えるのかざっくり聞いていい?」


「壁っぽいもの、という表現に早くも不穏な広がりを感じますけど、一応、出せます。透明な板みたいなやつです」


「大きさは?」


「集中すれば荷馬車一台分くらいは塞げます。ただ、大きくすると強度や維持時間が落ちます」


「動かせる?」


「無理です」


「即答だね」


「そこは即答できます。一度置いた壁は、その場所から動きません。俺が押しても、気合いを入れても、心の中で『動け、俺の壁』と念じても動きません。壁のほうが社会性を持っていないので」


「じゃあ、出して消して、また別の場所に出す感じ?」


「そうです。あと同時に出せるのは三枚までです。四枚目を出そうとすると、どれかを消す必要があります。つまり今の俺は、巨大魔獣を前にして三枚の透明な板を持った引っ越し業者みたいな状態です」


「面白いね」


「俺としては、面白がるより先に安全確認をお願いしたいです」


 アスカは笑いながらも、とおるの説明を聞き流してはいなかった。赤褐色の瞳が、グラド・バルムの杭脚、街道の幅、窪地までの距離、とおるが壁を出せる範囲を順に測っていく。彼女はとおるの〈壁〉が何なのかを正確には知らない。リディアを壁に埋めた事件も、ユリシス戦の詳細も、報告書越しに断片だけを知っているにすぎない。だからこそ最初から決めつけず、軽い調子で問いながら現場で使える形へ能力の輪郭を確かめていた。


「押せないなら、押す方向じゃないね」


「押す方向じゃない、とは」


「壁であいつをぐいぐい追い立てるんじゃなくて、あいつから見える進める場所を少しずつ変える。たとえば左右をゆるく狭めて、正面だけ開けておく。危険な感じじゃなくて、そっちへ行くのが自然に見えるくらい」


「壁って止めるだけじゃなくて、進む方向を作れるんじゃない、という話ですか」


「うん、それ」


「便利な言い方で職務範囲を広げてくる人が多すぎる」


「壁ってそういうものじゃないの?こっちは通れません、こっちは通れます、って教えるやつ」


「たしかに理屈としてはそうですけど、俺の中の壁はもう少し慎ましい存在だったんです。立って塞いで、たまに寄りかからせてくれるくらいの」


「じゃあ今日で出世だね」


「壁にも昇進制度があるんですか」


とおるは、目の前にそびえるグラド・バルムを見上げた。


 正面から壁を出して、そのまま押す。


 無理だ。


 考えるまでもない。


 というより、とおるの〈壁〉は一度生成した瞬間にその座標へ固定される仕組みなので、巨大な板でも押すように、ずずず、と前進させながら相手を追い立てることはできない。


 戦闘中に壁が次々と場所を変えているように見えるのは、実際には一枚を動かしているのではなく、いったん消し、別の座標へ新しく出し直すという地味な手順を高速で繰り返しているだけであり、見た目ほど万能でもなければ操作感も爽快ではない。


 しかも同時に維持できるのは三枚まで。


 生成にはほんのわずかな遅延がある。


 そのうえ相手は、家より大きい魔獣だ。


 そんな相手を、壁を出しては消し、また別の場所へ出しては消しながら正面から押していこうとするのは、暴れ牛の進路を三枚の襖だけで少しずつ修正しながらそのまま隣町まで無傷で誘導しろと言われるようなもので、理屈の上では不可能とまでは言い切れなくても、実際にやる人間の身になれば「誰がそんな仕事を引き受けるんだ」という話になる。


 たぶん途中で、壁より先に判断が追いつかなくなる。


 少なくとも、とおるは自分の頭が最後まで平静を保てるとは思えなかった。


 けれど――。


 押す必要そのものが、ないのかもしれない。


 相手を動かすのではなく、進みたくなる方向を作る。


 行ってほしくない場所を完全に塞ぐのではなく、なんとなく入りづらくする。


 選択肢を消すのではなく、たくさんある道の中からひとつだけ「ここなら通れそうだ」と思わせる。


 広すぎる空間の中へ、見えない案内板を置く。


 それならとおるにも理解できた。


 壁は、止めるためだけのものではない。


 進む方向を選ばせることもできる。


「正面に置いて、そのまま押すのは無理です」


「うん」


 アスカがあっさり頷く。


「でも、左右に壁を置いて、少しずつ通れる幅を絞っていくなら、道みたいに見せることはできるかもしれません。完全に閉じ込めるんじゃなくて、こっちは進みやすい、こっちはちょっと嫌だな、って感じにして」


「それそれ」


 アスカが、ぱちん、と指を鳴らした。


「大きく囲うと警戒する。狭くしすぎると逃げ場がないって判断して杭脚を打つ。だから、閉じ込められてるとは思わせないまま、行ってほしい方向だけを気持ちよく残す」


「魔獣相手に動線設計してる……」


「人間にも効くよ」


「急に店内レイアウトの話になった」


「入口から入って、自然に奥まで歩いて、気づいたら予定になかった物まで買ってるやつ」


「それ魔獣誘導より怖くないです?」


 アスカは楽しそうに笑った。


「でも考え方は同じ。選ばせてるように見せて、選択肢の形を作る」


「言い方が急に悪徳商法みたいになった」


 横で聞いていたミレイユはそのやり取りには特に参加せず、少し離れた場所から地形を眺めていた。


 街道。


 草地。


 低い斜面。


 その先の開けた方向。


 グラド・バルムの身体の向き。


 とおるの壁を置けそうな位置。


 しばらく無言で全体を見渡したあと、ようやく小さく頷く。


「試す価値はある」


 声が任務用に切り替わった。


「住民と荷車を危険へ晒さず、対象を殺さずに旧街道を再開できるなら白華としても優先すべき手段だ」


 そこで一度区切り、ミレイユは三人を順番に見る。


「役割を整理する」


 とおるは、なぜかその言葉を聞いた瞬間に嫌な予感がした。


 役割を整理するという言葉のあとに、仕事が減った経験がほとんどない。


「壁山は〈壁〉で進路を限定。完全封鎖は避け、圧迫感を与えない間隔を維持しながら進ませたい方向へ空間を絞る」


「はい」


「アスカは気配誘導。対象を刺激しすぎず、移動開始のきっかけを作れ」


「了解♪」


「私は危険方向へ向かった場合の牽制と、万一こちらへ突進した時の防衛線を担当する」


「了解です」


 三人の役割が、きれいに決まった。


 とおるも反射的に頷く。


 そして、その二秒後。


 あれ?


 また仕事増えてない?


 そんな疑問が、遅れて頭の中へ浮かんだ。


 ほんの少し前まで、自分はただの確認要員だったはずである。


 現地へ行く。


 状況を見る。


 必要があれば報告する。


 場合によっては補助する。


 たしか、その程度の話だった。


 少なくともとおるの記憶の中ではそうだった。


 ところが今はどうだ。


 巨大魔獣がなるべく機嫌を損ねず、なるべく暴れず、なるべく安全な場所へ移動できるよう現場で進路を整える担当になっている。


 言い換えれば、巨大魔獣の引っ越し支援である。


 しかも家具ではなく、引っ越す本人が家より大きい。


 荷造りはない。


 代わりに杭脚が飛んでくる可能性がある。


 料金も取れない。


 失敗した場合だけ被害が出る。


 条件だけ並べると、どう考えても割に合わない。


 もし前世の職務経歴書に、


 〈大型魔獣の移動経路設計および現地誘導補助〉


 などと一行書かれていたら、面接官はしばらく黙ったあとで確認のために書類を裏返すと思う。


 そして裏面にも何もなければ、たぶんもう一度表へ戻る。


 それくらい説明に困る仕事だった。


「とおる、無理はするなよ。魔獣が唸りを強めたらすぐ壁を広げろ」


「はい」


「圧迫しすぎるな」


「はい」


「焦って厚くするな」


「はい」


「怖くなって閉じ込めるな」


「怖いと閉じ込めたくなる心理を先読みしないでください」


「するだろ」


「しますけど」


「だから指摘している」


 正論だった。


 アスカは腰の小袋から小さな赤い紐を取り出し、窪地へ向かって軽やかに歩き始めた。彼女は数歩ごとに立ち止まり、地面を踏み、身体の向きを変えながらまた歩く。その足運びは不思議だった。まっすぐ進んでいるようで少しずつ角度を変え、グラド・バルムが向きを変えた時に見えやすい場所だけへ自分の通った気配を置いていく。



 計画そのものは、言葉にしてしまえば驚くほど単純だった。


 グラド・バルムを押さない。


 脅さない。


 追い立てない。


 こちらから「そこをどけ」と命じる代わりに、母獣の周囲にあるいくつもの進路の中から、こちらが選んでほしい一方向だけを、ほんの少し安全そうに、ほんの少し歩きやすそうに、そしてほんの少しだけ「まあ、こっちでもいいか」と思える形へ整える。


 要するに、それだけである。


 ただし、その相手が十数メートル級の巨体に城壁じみた甲殻を背負い、気に入らないことがあれば地面へ何本もの杭脚を打ち込んで、その場で土地に根を張った建造物のようになる魔獣だと考えれば、その「ほんの少し」を作るために必要な手間は、まったくほんの少しではなかった。


「まず前提として、こいつを“動かそう”って考えないほうがいいよ」


 窪地へ続く地面を靴先で確かめながら、アスカが言った。


「動かす任務なのに?」


「そこがややこしいんだよね。人間側が動かそうとすると、こいつは逆に止まろうとするから」


「もう開始三秒で禅問答になってません?」


「グラド・バルムは、外から力を加えられると、それを干渉とか攻撃の前触れとして受け取る。押されれば踏ん張るし、引かれれば杭脚を増やす。火でも強い魔力でも、正面から当てれば同じ。だから、こっちが『動け』って圧を出した時点で、たぶん負け」


 その説明は、ここまでに聞かされた生態ともきれいに噛み合っていた。


 グラド・バルムは身体こそ途方もなく大きいものの、自分から獲物を追い回すような好戦的な種ではなく、危険を感じれば逃走より先にその場へ定着し、分厚い甲殻と杭脚によって「ここから動かない」という防御を選ぶ。


 まして、今目の前にいる個体は腹に子を抱えている可能性が高い。


 通常個体以上に「ここを離れない」という判断へ傾くのは、むしろ自然だった。


 ならば、力で移動を強制するほど逆効果になる。


 人間側の都合だけを簡潔に言えば、「街道を塞いでいるので退いてください」という話なのだが、グラド・バルムの側には街道法も通行権も交通整理も存在しないため、向こうの視点に立てば、「せっかく見つけた比較的安全な出産場所へ三人組が現れ、壁と雷と刀をちらつかせながら立ち退きを要求している」という、かなり悪質な地上げ案件にしか見えない。


「つまり、立ち退き交渉に見せず、自主退去っぽくする必要があると」


「だいたいそんな感じ」


「言い換えたら余計に悪徳感が出たんですが」


 とおるは、少し遠い目をした。


 その横でミレイユが地面へ膝をつき、携行していた短い測量杭を一本、土へ置いた。


「誘導するにしても、最初から窪地へ真っ直ぐ向けるのはまずい」


「なんでです?」


「体格を見ろ」


 言われ、とおるは改めてグラド・バルムを眺める。


 大きい。


 何度見ても、大きい。


 そして、何より横に広い。


 人間なら腰を少し捻って一歩ずれるだけで済む方向転換でも、あの巨体が同じ角度を変えようとすれば、外側の脚は数メートル単位で移動しなければならない。


 加えて腹に子を抱えているのなら、身体を急激に捻ること自体が母体へ負担をかける可能性もある。


「大きく曲げようとすれば、その途中で止まる。急に進路を狭くしても同じだ。最初はほぼ正面へ動かし、歩き始めたあとで少しずつ角度をつける」


「大型船みたいですね」


「似てるかもね」


 アスカが横から口を挟んだ。


「こういうでかい生き物って、進み始めるまでが一番面倒なんだよ。一回ちゃんと体重が前へ移れば、その後は自分の勢いで歩いてくれる。ただ、止まりかけるとまた杭を打つ可能性がある」


 つまり、段階を分ける必要がある。


 第一段階。


 定着を解かせる。


 第二段階。


 歩き始めさせる。


 第三段階。


 ようやく進行方向を窪地側へ寄せていく。


 最初から目的地だけを見せて無理に向かわせれば、途中で警戒される。


 人間なら地図を差し出して「こちらへ四十メートルお願いします」で済むところを、言葉の通じない大型魔獣には、一歩ごとに「その方向で問題ありませんよ」と周囲の環境そのものを使って伝えなければならない。


「で、俺の壁は?」


「両側」


 アスカは両手を広げた。


「ただし、挟まない」


「壁なのに?」


「挟んだらもう檻じゃん。檻に入れられそうになったら誰だって嫌でしょ」


「それはそう」


「グラド・バルムは目だけじゃなくて、地面の振動とか魔力の圧も拾ってる。だから壁を近づけすぎると、触れてなくても“逃げ道を削られた”って感じるかもしれない。君の壁って、魔力も遮るんでしょ?」


「強度次第ですけど」


「なら、なおさら間隔を開ける。道を囲うんじゃなくて、行ってほしくない方向の順位だけ少し下げる感じ」


「……行ってほしくない方向の順位」


 とおるは、その言い回しに少し引っかかった。


 壁で塞ぐ。


 それなら分かる。


 壁で守る。


 それも、これまで何度もやってきた。


 けれど、壁によって「選べなくする」のではなく、「選びにくくする」。


 その発想は、今まで自分が扱ってきた〈壁〉とはほんの少し向きが違っている。


 アスカはしゃがみ込み、靴先で地面へ一本の線を引いた。


「たとえば、今いる場所から全部開けてるとするじゃん」


 少し離れた場所へ、二本目の線を引く。


「何もなければ、こいつは好きな方向へ動ける。街道へ戻るかもしれないし、そのまま横へ逸れるかもしれない。そこで、左側へ君の壁を一枚置く」


「はい」


「完全に通れなくする必要はない。回り込もうと思えば普通に回れるくらい外側へ置く。ただ、目の前に何かあるのと何もないのを比べたら、何もないほうが選びやすい」


 さらに三本目の線。


「その先で、今度はミレイユが少しだけ嫌な魔力を流す」


「嫌な魔力という表現をやめろ」


 ミレイユが即座に口を挟んだ。


「じゃあ、“母獣がわざわざ踏みたくない程度の白雷”」


「長くなっただけだ」


「意味は伝わるでしょ。とにかく攻撃はしない。痛みを与えたら、その瞬間に防衛反応へ切り替わるから、地面がちょっと落ち着かないな、くらいで止める」


 そして最後に、アスカは窪地へ向かう線を指した。


「向こうには私の〈空蝉〉を置く。足音とか気配を、こいつから遠ざかる形で再生する」


「近づくんじゃなくて、離れていく?」


「そう。何かが寄ってきたら警戒するけど、何かが離れていくなら、わざわざそこを危険だとは思いにくい」


「嫌な方向を少しだけ減らして、安全そうな方向を一つだけ増やす」


「うん」


「それを何回か繰り返す?」


「うん」


「……思ってたより地味ですね」


「魔獣の誘導を派手にやったら、大抵ろくなことにならないよ」


 恐ろしくもっともだった。


 爆炎。


 華麗な剣技。


 空を割る術式。


 そういうものが活躍するのは、基本的に相手を倒したい場面である。


 今回は、その逆だ。


 できるだけ刺激しない。


 傷つけない。


 それでも、人間側が望む位置まで移動してもらう。


 強い力を持っているほど、むしろ使わずに済ませる技術が求められる。


 ミレイユは窪地までの距離を目測し、街道との高低差を確かめた。


「およそ四十メートル。最初の十五は、ほぼ直進。その後、東へ十五度程度曲げる。最後の十メートルで窪地へ入れる」


「十五度って、見ただけで分かるんですか」


「訓練を受けている」


「騎士の訓練、守備範囲が広すぎません?」


「行軍では必要だ」


「俺、正式採用された後から知る必修科目が多すぎるんですが」


 文句を言いながらも、とおるはミレイユが示した地形を目で追った。


 確かに、窪地へ一直線というわけではない。


 今いるグラド・バルムの真正面から見れば、目的地は少し右へずれており、その途中には緩い傾斜もある。


 ここで最初から右へ大きく曲げるより、一度正面へ歩かせ、身体全体が杭脚による定着から解かれたあとで少しずつ進行方向を寄せていったほうが自然だ。


「それと、壁の高さ」


 ミレイユが続ける。


「背甲より高くするな」


「完全に塞いだほうが分かりやすくないです?」


「逃げ道が見えなくなる」


 なるほど、とおるは納得する。


 完全な壁を立てれば、人間には「ここから先へ行けない」という意味が明確に伝わる。


 しかし巨大魔獣からすれば、自分の視界より高い遮蔽物が突然現れること自体が、圧迫や脅威として受け取られる可能性がある。


 今回必要なのは、絶対的な禁止ではない。


 ただ、


 ――そっちは少し面倒そうだ。


 そう思わせる程度でいい。


 高さは、頭部から見て上方が十分に開ける程度。


 長さも、身体全体を覆うようには取らない。


 左右の壁同士の間隔は、グラド・バルムの横幅よりかなり広く空ける。


 人間の目には「これのどこが誘導路なんだ」と言いたくなるほど広々として見えるだろうが、目的は通路を作ることではなく、選択肢へわずかな傾きを与えることなのだ。


「もう一つ」


 ミレイユが地面を指した。


「壁を出した位置から、急に内側へ詰めるな」


「圧迫感が出る?」


「それもある。だが、お前の壁は魔力の流れまで切る。地面から魔力を拾っている個体にとって、左右の反応が急に消えれば異常と判断する可能性がある」


 その指摘に、とおるは少し真面目な顔になった。


 自分の〈壁〉は、単なる物質の板ではない。


 対象と空間の間へ境界を挟み込む。


 その性質上、壁を形成した場所では、風、振動、魔力の流れといったものまで、強度に応じて遮断される。


 人間には目で見なければ分からない変化でも、地面と魔力を感覚器官の一部として使うグラド・バルムにとっては、


 ――突然、そこだけ世界から情報が消えた。


 そんなふうに感じるかもしれない。


 いつもの戦闘なら、強固であるほどいい。


 厚く。


 硬く。


 完全に遮断する。


 けれど今回は、その理屈がそのまま裏返る。


 質を落とす。


 薄くする。


 魔力の遮断率も下げる。


 壊れないための壁ではなく、「何かある」と感じさせるためだけの壁へ調整する。


「……なんか、いつもと真逆だな」


 とおるがぽつりと呟くと、アスカがあっさり答えた。


「戦いじゃないからね」


「戦いじゃないと、壁まで弱くしたほうがいいんですね」


「戦闘なら相手が嫌がることを押しつければいい。でも今日は逆。嫌がらない範囲を探して、その中でこっちに都合のいい選択をしてもらう」


 とおるは、小さく目を瞬いた。


 言っていること自体は単純だ。


 けれど、妙に腑に落ちる。


 これまで〈壁〉の強さだけを考えるなら、より硬く、より厚く、より完全に隔てられることが正解だと思っていた。


 だが、スキルというものが「何を起こせるか」だけではなく、「何のために、どの程度、どう使うか」まで含めて技術になるのなら、弱い壁にだって役割はある。


 置く位置に意味がある。


 置かない場所にも意味がある。


 そして今回に限って言えば、壁そのものより“壁と壁の間へ残した空間”のほうが重要だった。


 どこを閉じるかではない。


 どこを開けておくか。


 そのほうを先に決める。


「誘導中の停止基準も決めておく」


 ミレイユがさらに続けた。


「杭脚を二本以上、同時に打ち直す。頭部をこちらへ正面から向ける。〈震殻〉の前兆として背甲内部の魔力が上がる。腹部を地面へ押しつける。どれか一つでも確認した時点で誘導中止だ。全員、刺激を止めて距離を取るように」


「再挑戦は?」


「個体が完全に落ち着いてからだ」


「……なんか、急にちゃんとした作戦っぽくなってきましたね」


「最初から作戦だ!」


「いや、俺の中ではさっきまで巨大妊娠魔獣のお引っ越しだったので」


「同じだろ」


「騎士団の公式文書へ『大型妊娠魔獣お引っ越し計画』って書いても通ります?」


「私が却下する」


「ですよね」


 さらに、誘導中にグラド・バルムが暴れた場合の退避も決める。


 アスカは北側。


 ミレイユは街道側。


 とおるは南西。


 三人が一方向へ固まって逃げれば、母獣から見れば「脅威が一箇所へ集まった」ように映り、その反対側へ暴走する可能性があるため、退避方向は最初から分散させる。


 もし街道方面へ突進した場合に限り、とおるが最後の一枚を強度重視で展開し、進路を物理的に遮断する。


 それでも止まらなければ、ミレイユが前肢そのものを狙わない範囲へ〈白雷〉の出力を上げ、急制動を促す。


 アスカは〈空蝉〉で別方向へ気配を作り、意識を引き剥がす。


 それらすべてが失敗し、なおかつ住民区域へ向かう危険が現実になった時点で、初めて「討伐」という最終手段へ移る。


 殺さない。


 しかし何があっても絶対に殺さない、という意味ではない。


 相手の命を尊重することと人間側の安全を投げ出すことは別物であり、その境界だけは情ではなく騎士として引かなければならない。


「あと、一回で全部動かそうとしないこと」


 アスカは近くの枝へ赤い紐を結びながら言った。


 どうやら風向きを見るためらしい。


 指を離すと、細い紐はゆっくり東へ流れた。


「三歩進めば上出来、くらいで考えて。止まったら待つ。首を振ったら周囲を選んでる途中。杭脚を上げかけても急かさない」


「そこまで分かるんですね」


「三日見てたからね」


「ああ……」


 その一言で、とおるの中にあった「任務期限を過ぎても帰ってこなかった人」という印象がほんの少しだけ形を変えた。


 確かに帰ってこなかった。


 命令も完璧には守っていない。


 けれどその三日間、アスカは気分で魔獣の周囲をうろついていたわけではない。


 何を嫌がるか。


 どこまで近づけば警戒するか。


 風向きが変わった時、頭をどちらへ向けるか。


 地面へ振動が伝わった時、どの脚が最初に反応するか。


 腹を庇う時、杭脚をどの順番で固定するか。


 止まっている時と眠っている時と、周囲を警戒している時では何が違うのか。


 そうした小さな反応を何度も拾い、組み合わせ、ようやく今の誘導計画まで持ってきたのだ。


「じゃあ、役割を最終確認する」


 ミレイユが二人を見た。


「アスカは窪地まで〈空蝉〉を設置。誘導開始後、前方へ遠ざかる気配を段階的に再生。強い火霊素は使うな」


「了解」


「私は街道側へ立つ。〈白雷〉を低出力で地面へ流し、戻ろうとした時だけ牽制する。攻撃反応が出れば即停止」


「はい」


「壁山」


「はい」


「お前が一番重要だ」


「急に聞きたくない言葉が来た」


「壁で押すな。囲うな。逃げ道を消すな。進みやすい方向だけを作れ」


「注文が繊細すぎません?」


「できるな?」


「そこで隊長みたいな圧を出すのやめてもらえません?」


「できるのか」


「……やりますよ」


「よし」


 こうして、作戦は決まった。


 壁で動かすのではない。


 壁によって、動きたくなる形を作る。


 アスカが前方へ、「何かが遠ざかっている」という安全らしい気配を置く。


 ミレイユが後方へ、「こちらは少し居心地が悪い」という小さな不快感を置く。


 そしてとおるが左右の選択肢を、完全には奪わない範囲で整理する。


 三人の誰も、グラド・バルムへ直接「そっちへ行け」と命令するわけではない。


 ただ、周囲の条件をほんの少しだけ書き換えて、


 ――自分でこちらを選んだ。


 そう思わせる。


 魔獣一頭を、たった四十メートル動かす。


 数字だけ見れば大した距離ではない。


 普通の人間なら、一分もかからない。


 だがその四十メートルのために三日分の観察があり、生態の読み取りがあり、退避経路があり、停止基準があり、壁の高さから魔力の濃さまで細かく調整する必要がある。


 とおるは、つくづく思った。


 剣で斬れば早い。


 確かに、早い。


 たぶん話も簡単だ。


 しかし早い方法が、そのまま正しい方法とは限らない。


 面倒な相手だからと切り捨てるのではなく、面倒な事情ごと抱えたまま、なるべく誰も死なない形へ持っていく。


 もし、そういう面倒くさい答えを実際の行動へ変えることまで含めて騎士の仕事なのだとしたら――。


 どうやら自分は、本格的に面倒な職業へ就いてしまったらしい。


 アスカは最後に風向きを確認すると、赤い紐を結んだ枝から静かに手を離した。


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