第36話 休日という名の壁を挟み込みたい
王都アルヴェリオンの城門をくぐった、その刹那。
とおるは、世界がふっと息を変えたのを感じた。
鼻先をかすめた風は、城内の石畳に幾年も染み込んだ人いきれでもなければ、露店の軒先からこぼれる焼き菓子や香辛料の甘く賑やかな匂いでもなく、白華隊本部の長い廊下にいつも薄く漂っている磨き上げられた鎧と乾いた薬草、それから規律という名の見えない緊張が混ざった匂いでもなかった。もっと遠く、もっと広く、どこか乾いていて、けれど生命の瑞々しさを奥底に隠した、見渡すかぎりの草原の彼方から吹き寄せてくる青い匂い――その風が胸の奥へ入り込んだ瞬間、王都で過ごした日々の輪郭が背後へひとつずつ置き去りにされていくようだった。
振り返れば、王都を守る三重の城壁はまだそこにある。
けれど石の巨人のようにそびえていたはずの壁は、歩みを進めるたび少しずつ威容を遠ざけ、その向こうで天空へ枝葉を広げる世界樹だけが、なおも変わらず空そのものを支える巨大な天蓋のように青の深みへ根を張っていた。根元に抱かれる王都の塔や尖塔は陽光を受けるたび白銀の鱗のように瞬き、城壁の上を巡る旗は風を孕んで淡く波打つ。人々の声も蹄の音も、鍛冶場の槌音も、やがては互いにほどけ合い、ひとつの大きな営みとして霞の中へ溶けていった。
そして前方には〈風の大陸〉と呼ばれるにふさわしい景色が、まるでずっと昔から彼を待っていたかのように広がっていた。
草原は果てを知らず、低い丘の起伏に沿って淡い緑から銀へ、銀から翡翠へと色を変えながら揺れ、その波間を縫うように伸びる街道の両脇では麦畑が黄金の穂をそよがせて、降り注ぐ光を無数の破片に砕いていた。畑の向こうには朽ちかけた牧柵がゆるやかな弧を描き、白い毛並みの荷獣たちが時間というものを忘れたみたいに草を食んでいる。さらに遠く、空と大地の境目がかすむ場所では山並みが青へ溶け込むように横たわり、あまりに静かなその姿は眠れる獣の背を思わせた。
雲は高かった。
薄く、伸びやかで、誰かが巨大な筆を手に空の端へ白を刷いたようなその雲の下を鳥たちが弧を描いて渡っていく。影が一瞬だけ草の上へ落ちるたび、風は姿のない獣となって地表を駆け抜け、無数の葉先がさざめきながら道の先へ先へと流れていった。
――こういうのを、旅って言うんだろうな。
胸の奥に、久しぶりにそんな感慨が灯った。
剣と魔法、王都、騎士団、古代遺跡、世界樹。言葉だけを拾い上げれば、とおるはもう十分すぎるほど異世界らしいものに囲まれてきたはずだった。けれどそれらはいつも、任務だの訓練だの、生活の都合だの、あるいは命の危険だのと抱き合わせで現れ、ゆっくり眺めるにはあまりにも忙しく、息を吸い込むには少しばかり切実すぎた。
王都にいれば訓練と書類と勤務予定が律儀に背中を追いかけてきた。クルム村では、異世界の情緒より先に今日を暮らすための仕事があった。星の塔に至っては、景色を楽しむどころの話ではない。足元の石床そのものが、古代から口を開けて待っていた謎の入り口だったのだから。
そう思えば、いまこうして街道を歩き、肺いっぱいに風を吸い込み、遠い山の稜線をただ眺めていられる時間は、これまでの異世界生活の中で驚くほどまっとうで、ひどく贅沢で、そして少しだけ泣きたくなるほど健全なものに思えた。
風の大陸――その名が、いつから人々の口に定着したのかを正確に知る者はいない。
王国の古い年代記には、かつてこの広大な地を〈エルディア平原圏〉と呼んだ記録が残り、さらに時代を遡れば、現在では失われた言語によって「天の息が降りる地」「羽なきものが空を知る場所」といった意味の名で記されていたという。いずれにしても、この大陸に吹く風は単なる気象現象として語られるには、あまりにも人々の暮らしと歴史の深いところへ入り込みすぎていた。西方の高地から乾いた風が降りれば麦の収穫期が近づいたことを知り、南の湿地から重い風が上れば川が増水する前触れとされた。東から潮の匂いを帯びた風が長く続けば青灰海峡の船乗りたちは帆を畳み、北の冷たい風が世界樹の枝葉を低く鳴らせば、地方の古老は冬の到来より先に祖先の名を口にした。風は天候を運ぶだけでなく、季節を知らせ、交易を動かし、戦争の勝敗を分け、時には国境そのものを塗り替えてきたのである。
現在の風の大陸は、一つの王国だけで成り立っているわけではない。
大陸中央部には世界樹を戴くアルヴェリオン王国があり、その周囲を囲むように大小の領邦都市、自治商都、神殿領、遊牧民の草原圏、旧王朝時代から半ば独立を保つ山岳共同体が点在している。西方には風食によって削られた白亜の台地が幾重にも連なる〈リュネ高原〉が広がり、そこで暮らす騎馬民は王国へ良馬と羊毛を送りながらも、王都の貴族社会とは異なる古い氏族制を今なお守っている。北方へ進めば標高が上がり、針葉樹林と青黒い岩山が続く〈ヴァルカ山系〉へ至る。山腹には魔晶石や青鉄の鉱脈が眠り、その富を巡って小規模な領主戦争が絶えなかった時代もあった。現在では王国法の下で採掘権が管理されているものの、山奥には王国成立以前の坑道や封鎖された遺構が無数に残り、鉱夫たちの間では「掘ってはいけない層」という言葉が冗談ではなく受け継がれている。
南方はさらに性格が異なる。
平原の緑は少しずつ濃くなり、やがて河川と湿地が複雑に入り組む低地へ変わる。そこには現在も人が暮らす旧都セレディアをはじめ、石造りの古い町々が点在し、王都よりも長い歴史を持つ地域さえ珍しくない。建物の下に別時代の道があり、その下にまた古い壁が眠り、井戸を掘れば数百年前の墓所へ突き当たり、地下倉庫を拡張しただけで王国成立以前の石碑が出てくることすらある。南部の人々にとって歴史とは書物の中に閉じ込められたものではなく、家の床板の下、畑の土、川底の石、古びた礼拝堂の柱の中から、いつでも顔を出しかねない身近なものだった。
東へ向かえば地形は徐々に低くなり、草原の果てに潮の匂いが混じり始める。
その先にあるのが蒼環海峡である。
風の大陸と青の大陸を隔てるその海域は、晴れた日であっても水面の色が一定しない。深い青、鉛色、緑を帯びた灰、日没時には黒に近い藍へと変わり、潮流同士がぶつかる場所では海そのものが筋を引いたように色を分ける。海峡中央部には岩礁と小島が散在し、そのいくつかは王国とセンターブルーのどちらにも完全には属していない。商人、漁師、密輸業者、亡命者、傭兵、諜報員。合法と違法の境目で生きる者たちが集まりやすく、王国の役人が地図へ線を引いても、現地の人々が同じ境界を守ってくれるとは限らなかった。
風の大陸の歴史は、そのような土地の違いを長い時間をかけて無理やり一つへ束ねてきた歴史でもある。
現在のアルヴェリオン王国が成立するより以前、大陸中央部には一つの統一国家など存在しなかった。
川沿いには都市国家があり、山地には氏族領があり、世界樹の周囲には神殿勢力があり、南には古い城塞国家、西には遊牧民の連合体があった。交易路を巡って同盟が結ばれ、王が変われば翌年には敵となり、婚姻によって結ばれた二つの家が数十年後には城壁越しに矢を射掛け合う。歴史書では〈群王時代〉と呼ばれるその時代は、英雄譚の題材には事欠かない一方で、そこに暮らす普通の人々にとっては、徴兵と重税と国境変更が繰り返される不安定な時代でもあった。
その均衡を大きく変えたのが、世界樹周辺の地脈を巡る争いだった。
世界樹は現在でこそ王国の象徴であり、神殿では「大地と空をつなぐ母なる樹」と讃えられている。けれど古い記録を読み解けば、かつて各勢力は世界樹を信仰対象としてだけではなく、莫大な魔力資源を生み出す戦略拠点として見ていたことが分かる。世界樹の根が走る地域では作物がよく育ち、井戸水に魔力が宿り、術式の安定性が上がり、魔導具の稼働効率まで変わる。現代ならば神聖視と法制度によって管理されるその恩恵も、群王時代には軍事力と国力へ直結する資源だった。
幾度もの争いの末、世界樹周辺を統一した勢力が、後のアルヴェリオン王家の祖となった。
もっとも、その成立史には後世の脚色が多い。
王国の正史では、初代王は十二の守護者とともに争いを鎮め、世界樹の加護を受けて諸都市を一つにまとめた賢王として描かれる。剣によって征服したのではなく、誓約によって結んだ。民から土地を奪うのではなく、世界樹の下に同じ法を置いた。そう記されている。
一方で南部に残る地方年代記には、初代王の軍勢が城塞都市を包囲した記録もある。西方の口承では、王国への臣従を拒んだ氏族が草原の奥へ追われたとも伝えられている。王国とは最初から完成された美しい理想によって生まれた国ではない。戦争、婚姻、信仰、交易、脅迫、譲歩、裏切り、そして長い年月を経た忘却。それらを何層にも積み上げ、ようやく現在の「王国」という一枚の姿になったのである。
王都アルヴェリオンも、初めから巨大都市だったわけではない。
最初にそこへ築かれたのは、世界樹の根を守るための小さな石造城塞だったとされる。城塞の周囲へ神官たちの住居が増え、巡礼者の宿が建ち、商人が露店を出し、職人が工房を構え、やがて城壁が一重では足りなくなった。王国成立後、外郭が拡張され、さらに人口が増えるたび新たな壁が築かれ、現在の三重城壁構造へ至った。
最も内側にある第一城壁は、王城、王樹中枢院、主要神殿、第一級研究施設、十二華の一部重要施設を守る。
第二城壁の内側には貴族街、高級商業区、魔導院、主要な工房街、大規模市場が広がる。
そして第三城壁の内外に、職人、商人、一般市民、旅人、移住者たちが暮らす広大な市街区が形成された。
都市が拡大するたび、古い道路の上へ新しい道路が引かれた。
昔の城壁が家の基礎石として使われ、廃神殿が市場へ変わり、貴族邸だった建物が学校になり、かつて敵軍が陣を敷いた場所に酒場が建った。
王都に暮らす多くの人々は、その歴史を意識しない。
朝になれば店を開き、夕方になれば家へ帰る。
世界樹があることも、白銀の塔が立つことも、三重の城壁があることも、そこに生まれた者にとっては景色の一部にすぎない。
けれど旅人の目で遠ざかる王都を眺めれば、その巨大さは逆に分かりやすくなる。
世界樹の根元へ千年以上にわたって人の営みが重なり、城壁が増え、塔が伸び、道が広がり、数え切れない人生が暮らしてきた。その積み重なり全体が、あの一つの都市を作っている。
とおるたちが進む南街道もまた、その長い歴史の一部だった。
正式名称は〈王樹南環道〉。
王都から南部諸都市へ伸びる主要街道の一つで、もとは群王時代の巡礼道と軍用道をつなぎ合わせたものだと言われている。現在では街道沿いに石造の距離標が置かれ、一定区間ごとに騎士団の巡察所、宿駅、給水所が整備されている。
しかし王都から離れるほど、道は少しずつ素朴になる。
整然と敷かれていた白石の舗装は、やがて硬く踏み固められた土と砕石へ変わり、両脇の建物も連続した町並みから、農家、風車、牧草小屋、旅籠がぽつぽつと離れて建つ風景へ移っていく。
街道の西には麦作地帯。
東には小さな果樹園と牧草地。
そのさらに向こうには、世界樹から枝分かれした地脈に沿って点在する森がある。
このあたり一帯は〈セイル平原〉と呼ばれ、王都の食料供給を支える穀倉地帯として知られている。土壌は柔らかく、雨量も安定し、世界樹由来の薄い魔素が地下水へ混じるため、麦、豆類、根菜の育ちがよい。王都で毎朝焼かれるパンのかなりの量が、この平原から運ばれた小麦によって作られている。
道をさらに南へ進めば、地形は緩やかに下る。
セイル平原を抜けた先には〈ルーデン河〉が流れ、その支流沿いへ大小の町が形成されている。
河川交易の中心地〈メリダ〉。
陶器と染色で知られる〈カラト〉。
古い神殿群を残す〈フィエンナ〉。
そして、さらに南東へ進んだ先に旧都セレディアがある。
現在の王都から見れば地方都市の一つに過ぎないセレディアも、かつては王国成立以前の政治・軍事の中心地だった。
石造りの城塞。
地下墓域。
古い水路。
複数時代の遺構。
その歴史の古さゆえ、王都の学者たちはしばしばセレディアを「地面を掘るたび歴史が増える街」と呼ぶ。
けれど地元の人間にしてみれば、それはもう少し切実である。
家を増築したら墓が出た。
井戸を掘ったら封印石が出た。
倉庫の地下を広げたら誰も読めない文字の壁が出た。
そういうことが、本当に起こる。
王都では古代遺物が発見されれば大騒ぎになる。
セレディアでは、役所の担当者がまず「またか」とため息をつく。
それほど過去が近い土地だった。
そしてこの大陸には、そういう場所が決して少なくない。
風の大陸は新しい王国の上に古い国々が眠り、そのさらに下に人間の歴史では説明できない何かが埋まっている。
世界樹。
星の塔。
南部地下遺構。
山岳地帯の封鎖坑道。
海岸沿いに残る黒い柱。
人々はそれらを古代文明の遺物と一括りに呼んできた。
けれど、それらが本当に同じ時代のものなのか。
誰が作ったのか。
なぜ現在の都市や街道が、それらの真上へ都合よく築かれているのか。
その答えを知る者は、まだいない。
あるいは、知っていて語らない者がいるのかもしれない。
そんな悠久の時間を抱えた大地の上を、とおるたちは今、ただ一つの任務へ向かって歩いている。
馬車の車輪が土を踏み。
馬の蹄が小石を弾き。
紅椿の赤い外套が遠くで風を孕み。
白華の徽章が陽光を返す。
千年前の王も、百年前の兵士も、昨日まで畑を耕していた農夫も、同じ風を吸ったのだろう。
王都から離れれば離れるほど、世界は広くなる。
同時にとおるが知らなかった過去もまた、地平線の向こうから少しずつ姿を現していく。
そして風は何も語らないまま、彼らの行く先――古い街道と、まだ見ぬ土地と、長い歴史の底で眠っている何かへ向かって、静かに草原を渡っていた。
隣から、紙の擦れる音がした。
「予定では日没前に現地へ到着。到着後は周辺状況を確認、必要に応じて野営へ移行する。途中休憩は二回、不要な寄り道は禁止。街道封鎖区域の手前に設置された警備拠点で最新情報を受け取り、対象魔獣の位置、周辺住民の避難状況、旧街道の通行可否を再確認する。戦闘行為は原則として回避。ただし、民間人への被害が予見される場合、あるいは対象魔獣の移動によって危険区域が拡大すると判断した場合に限り、現場判断による防衛行動を許可する――以上」
ミレイユが、任務書を片手に淡々と読み上げていた。
声に淀みはなく、内容にも無駄がなく、実務連絡として採点するなら文句なしの満点なのだろうが、その一方でとおるの胸中に芽生えかけていた「王都を離れて街道を旅するなんて、ちょっと冒険っぽいな」という旅情は、任務書の角で定規を当てたように綺麗に切断された。
「景色くらい楽しませてくれてもよくない?」
「見ながら歩けばいいだろ」
「そういう物理的な話じゃなくてですね。目が景色を見てても、耳から『警備拠点』『封鎖区域』『状況確認』って業務連絡が流れ込んでくると、心の観光地が閉園するんですよ」
「任務中だ」
「せめて勤務と休日の境目に〈壁〉を一枚挟み込みたい」
「今は勤務中だ」
「せっかく作ろうとした壁を即座に壊すのやめてもらえません?」
ミレイユはとおるのささやかな抗議など風の音と同程度に処理したらしく、任務書を手際よく畳んで腰の小袋へ収めた。
今日の彼女は白華隊の軽装任務用装備で、王都内でよく目にする白銀の鎧とは違い、身体の動きを妨げない白の軽装具に短い外套を重ね、腰には訓練用でも試験用でもない実戦用の剣を帯びているうえ、普段は後ろでまとめている銀灰の髪も今日はやや高い位置で結われており、風が吹くたび細い髪束が陽光を拾って淡くきらめくものだから、黙って歩いてさえいれば物語の挿絵にでもなりそうな実に様になる旅の騎士だった。
黙って歩いてさえいれば。
口を開くと勤務予定が出てくる。
見た目は旅情。
中身は業務連絡。
その落差に、とおるの心だけが毎回二、三秒ほど置き去りにされる。
「この先に名物料理とかないの?」
「任務に関係ない」
「いや、任務には関係なくても俺の昼食には大いに関係するんだけど」
「携行食がある」
「あれを料理の話に混ぜないでください」
「食べられるだろ」
「食べられることと楽しめることの間には、広大な大地があるんですよ」
ミレイユは答えなかった。
おそらく彼女の中では、食料とは必要な栄養を摂取できれば任務上の目的を達成しているのであり、そこへ名物だの風味だの焼き加減だのを持ち込む男のほうに問題があるのだろう。
とおるは諦めず、次の可能性を探った。
「じゃあ、景色のいい宿とかは?」
「泊まる予定はない」
「帰りに一泊くらい――」
「任務が終わってから考える」
「俺の人生、最近あらゆる楽しみが“任務が終わってから”っていう謎の保管場所に送られてない?」
「優先順位を決めろ」
「決めてますよ。俺の中では休息と食事と安全が常に上位です」
「騎士としての職務は」
「できれば四位くらいで」
「一位にしろ」
「俺の人生なのにランキング操作が入った」
ミレイユの横顔は涼しいままだった。
「自由時間が未来へ借金され続けている気がするんですよ」
「返済できるよう働け」
「働くと新しい仕事が発生する仕組みなんですよ、それ。返済どころか利息がついてる」
「なら早く慣れろ」
「債務者への助言として厳しすぎません?」
当然のように返事はない。
ミレイユは一定の歩調を崩すことなく街道を進み、その半歩ほど後ろを、とおるが荷物を背負ってついていく。
晴れて白華隊の正式隊員になったとはいえ、こうして二人並んで歩くだけでも、長年身体を鍛えてきた者と、つい最近まで辺境で壁を生やして暮らしていた男との差は残酷なほど分かりやすく、ミレイユは街道に埋もれた石の凹凸や雨でわずかに柔らかくなった土を無意識のうちに読み取り、足裏から返ってくる力をそのまま次の一歩へ逃がすような、見ている側には疲労という概念そのものが存在しないのではと疑いたくなる歩き方をしていた。
一方のとおるは、自分では同じように普通に歩いているつもりなのだが、背負った荷物が少しずつ右肩へ寄り、直したと思えば今度は外套の留め具が首元に当たり、ようやく落ち着いたところで靴底が絶妙な位置にある小石を踏んでほんの少し体勢を崩しては、街道そのものから地味な嫌がらせを受けているような気分になってくる。
「……この石、わざとここに置いてません?」
「石に聞け」
「聞いて答えたら怖いんですよ」
まだ王都を出て、それほど経っていない。
にもかかわらず、すでに右肩からは荷物の軽量化を求める陳情が届き、腰は待遇改善を訴え、両足に至っては休憩時間の拡充を議題に掲げているため、この調子で旧街道まで歩き続ければ現地へ到着する頃には下半身が独自の労働組合を結成し、団体交渉の末にストライキへ突入している可能性がある。
それでも――悪くなかった。
むしろとおるはこの道中を、思っていた以上に気に入り始めていた。
王都アルヴェリオンから距離を取るにつれ、背後を満たしていた音の層が一枚ずつ剥がれていくように薄くなり、石畳を転がる車輪の軋みも城門を行き交う旅人の話し声も、今日の品を売り切ろうと張り上げる商人の呼び込みも、隊商の荷獣が首元で鳴らす鈴の音も、振り返ればまだそこにあるはずなのにいつの間にか遠い場所の出来事へ変わっていた。
代わりに近づいてきたのは、今まで賑わいに隠れていた小さな音だった。
街道脇に生えた草が、風に押されて互いの葉を擦り合わせる。
どこまでも続く麦畑では黄金色へ変わり始めた穂が大きな波のようにうねり、そのさらに向こうを流れる水路から、ときおり水の跳ねる涼しげな響きが届いてくる。
鳥の声がした。
何という鳥なのか、とおるには分からない。
けれど、不思議とそれでよかった。
顔を上げる。
空が、広い。
笑ってしまうくらい、広かった。
前世で暮らしていた狭い部屋では、目を上げればいつも天井があり、その向こうに空があることなど知識として分かっていても、わざわざ意識することはほとんどなかった。
画面を開けば、世界中の絶景を見ることができた。
青い空も、黄金色の草原も、雪を頂いた山も、どこか遠い国の街道も、指一本動かせば次々と表示され、気に入らなければ数秒で別の景色へ切り替えられた。
けれど、今は違う。
靴底の向こうには固い地面があり、背中には荷物の重さがあり、頬を撫でた風はそのまま草原へ抜けて、青臭さの混じった土と草の匂いを肺の奥まで運んでくる。
遠くに見える丘へ行きたければ、自分の足で歩かなければならない。
雲は指で拡大できない。
暑ければ画面を閉じる、というわけにもいかない。
少し不便で、やたら疲れて、足元には悪意を疑いたくなる位置に小石まで転がっているのに、それら全部を含めて初めて、この景色は自分の周囲に本当に存在しているのだと思えた。
世界には、ちゃんと奥行きがある。
そんな当たり前のことを、とおるは異世界へ来てから知った。
もっとも――。
その広大な世界へ、自分が望んで飛び込んだのかと問われれば話は別である。
気づけば異世界へ放り込まれ、辺境で暮らし、壁を出し、王都へ連れてこられ、試験を受け、いつの間にやら正式な聖騎士となり、現在はこうして勤務予定表に従って魔獣の調査へ向かっている。
人生というものは、もう少し本人へ相談してから進路を決めるべきではないだろうか。
雄大な景色への感動と、人生に対するそこはかとない理不尽。
その二つが、とおるの胸の中で仲良く同居している。
そして背中には、任務用の荷物。
感動も理不尽も荷物も、まとめて抱えて歩かなければならない。
特に最後の一つが、物理的に重かった。
「どうした。静かだな」
ミレイユが横目で見る。
「ちょっと異世界らしい感慨に浸っていました」
「そうか」
「たまには、こういう景色を見て歩くのもいいなって」
「ならよく見ておけ。帰りは暗くなる可能性がある」
「情緒へ夜間移動の注意を差し込まないでください」
「任務では必要な情報だ」
「今、俺の中の旅情が任務書で押し花にされました」
ミレイユは「何を言っているんだ、こいつは」とでも言いたげに片眉をわずかに動かしたものの、幸いにもそれ以上とおるの感性へ踏み込むつもりはないらしく、視線を前方へ戻した。
もっとも、彼女とて景色を見ていないわけではない。
むしろ見ているという意味では、とおるより遥かに多くのものを拾っている。
街道脇の草がどちらへ倒れているか、乾いた土に残る足跡が新しいか古いか、遠くを進む荷馬車が何台いるか、上空を飛ぶ鳥が群れを崩していないか、畑で鍬を振るう農夫がこちらへ視線を向けたかどうか――そうした細かな変化をいちいち意識しているようにも見えない自然さで取り込み、必要な情報だけを頭の中へ収めている。
ただし、そこに旅情はほとんどない。
美しい風景を愛でる目ではなく、「普段と違うものが混ざっていないか」を読む目で世界を見ているだけなのだ。
とおるは、それを少しだけ格好いいと思った。
そして同じくらい、絶対に真似したくないとも思った。
せっかく風に揺れる麦畑を見ても「綺麗だなあ」ではなく、「異常なし、農夫二名、荷車三台、風向き南西、鳥類の移動に不自然なし」と頭の中で自動記録が始まる生活など、情緒を捨てて得るには代償が重すぎる。
「そういえば、アスカさんって紅椿の人なんだよね」
「ああ」
「ゾロさんが“壁を嫌がる子”って言ってたけど、あれどういう意味?」
「私も直接一緒に任務へ出た回数は少ない。噂なら知っている」
「噂」
とおるが少し身構えると、ミレイユはまったく溜めることなく言った。
「帰ってこない」
「初手から不安なんですけど」
「報告書は優秀だ」
「少し持ち直しました」
「規則違反ぎりぎりの行動が多い」
「また下がりました」
「だが成果はしっかり出すそうだ」
「評価グラフが安定しない」
「扱いに困るということだけは確かだ」
「そこだけ綺麗に着地しないでください」
ミレイユは当然のことを確認するように一度だけ頷いた。
「紅椿では、席官級の実力はあると評価されているらしい」
「それなら昇格できそうじゃない?」
「席官にすると、部下を連れて勝手にどこかへ行きそうだから上げられないと聞いた」
「席官になれない理由が実力不足じゃなくて管理不能なんですね」
「本人は気にしていないらしい」
「そこは本人が一番気にしてほしいところでは?」
「紅椿らしいとも言える」
「紅椿への理解が深まるたびに、安心より警戒心が育っていくんですが」
会話を続けるうちに街道はゆるやかな丘を越え、王都周辺に広がっていた豊かな畑地帯から草原と低い灌木の入り交じる、もう少し野の気配が濃い土地へ変わっていった。
途中、小さな川へ架けられた石橋を渡る。
橋の下では澄んだ水が丸い石の間を縫い、何年もかけて角を磨いているような柔らかな音を立てながら、岸辺には青い小花がまとまって咲いていた。
その少し先の丘には風見を兼ねた細い石塔が立っており、横木から下げられた無数の布札が吹き抜ける風にあおられてぱたぱたと鳴っている。
白。
青。
緑。
褪せた黄色。
風の大陸では旅人が道中の無事を祈り、こうして小さな札を結んでいく風習があるらしい。
どれも派手なものではない。
けれど色とりどりの布が空の下で何度もひるがえる様子は、そこへ込められた誰かの願いが風にほどかれながら遠くへ運ばれていくように見えて、とおるは無意識に歩みを少し緩めた。
こういうものを見ると、胸の中まで静かになる。
少なくとも、本人はそう思った。
「風札が新しいな」
横からミレイユが言った。
「え?」
「色落ちも少ない。結び目もまだ固い。最近までは、この道を通る旅人がそれなりにいたらしい」
一瞬で業務情報になった。
この人、景色の圧縮形式が完全に仕事用なんだよな。
とおるは心の中でそんな感想を抱きながら、水筒を取り出して喉を潤した。
風そのものは涼しいものの陽射しは意外に強く、王都の城壁内では建物や石畳が受け止めていた光が街道へ出ると遮るものもなくそのまま降ってくる。
けれど、不思議と嫌ではない。
むしろ、空がやけに近く感じられた。
雲が動くたび地上の明るさまでゆっくり変わり、丘を一つ越えるごとに視界の形が少しずつ更新され、その向こうにはまた別の道が伸びている。
旅というものは単に目的地へ近づいていく行為ではなく、自分の立っている場所から見える世界が何度も別の姿へ塗り替えられていくことなのかもしれない。
「こういうところ、もう少し平和な用事で来たかったな」
「平和な用事とは何だ」
「観光とか」
「騎士が任務中に観光はしない」
「じゃあ休暇で」
「新人が休暇の計画を立てる前に、まず勤務へ慣れろ」
「休日という名の壁を、勤務と勤務の間に挟み込みたい」
「その壁は却下だ」
「俺の能力なのに」
「勤務表へ干渉する権限はお前にない」
「世界の因果にはちょっと触れられたのに、勤務表には勝てないんですか」
「勤務表は強い」
「異世界で一番知りたくなかった強敵情報なんですけど」
そんな他愛のないやり取りを続けながら歩いていたが、やがて道の空気そのものが少しずつ変わり始めた。
最初に違和感を覚えたのは、とおるだった。
「あれ」
何かがおかしい。
しばらく考えてから、それが荷馬車の数だと気づく。
王都を出て間もない頃は、商人の荷車や近隣の村へ向かう農夫、馬を飛ばす伝令、旅装束の冒険者らしい一団などが、決して多くはないものの途切れることなく街道を行き交っていた。
ところが丘を一つ越え、旧街道への分岐を示す石標が遠目にも分かるようになったあたりから、前方へ向かう人影だけが目に見えて減り始めた。
代わりに増えていくのは、こちら――王都方面へ戻ってくる荷馬車だ。
車輪には乾きかけた泥。
荷台を覆う布は、落ち着いて結び直したというより急いで掛けただけのように端が歪んでいる。
御者たちはすれ違う際、白華隊の徽章へ一度だけ視線を向け、それから何となく目を伏せて通り過ぎていった。
恐れている。
とおるでも、そのくらいは分かった。
危険な場所から離れてきた人間が、これからそこへ向かう人間を見る目だった。
さらに進むと、街道脇に簡易柵が現れた。
太い木杭を何本も地面へ打ち込み、その間へ白布を渡し、中央には赤い塗料で通行止めを示す大きな印が描かれている。
少し外れた場所には迂回路を案内する標識が斜めに立ち、矢印の下へ「北回り」「村道経由」「荷車注意」と書かれていた。
何度か上から書き直されたらしく、文字の周囲には古い墨と新しい墨が重なり、雨で滲んだ筋まで残っている。
とおるは、思わず足を止めかけた。
隣を歩くミレイユも、ほんの少しだけ速度を落とした。
「ここから封鎖区域に近い」
「明らかに観光地の顔じゃなくなってきましたね」
「最初から任務地だ」
「さっきまでは俺の心の中で、まだ少しだけ旅だったんですよ」
「戻しておけ」
「今、心の観光パンフレットを畳みました」
「今すぐ捨てろ」
「そこまでします?」
冗談はいつも通りだった。
けれど風景の中から人の気配だけが少しずつ抜け落ちていくにつれ、とおるの声も自然と小さくなっていった。
草原は相変わらず美しい。
空も変わらず青い。
遠くの麦畑は風を受けて波打ち、さらに向こうには山並みが薄い霞の中へ沈んでいる。
何もかもついさっきまでと大きく変わってはいない。
なのに、人が歩いていない。
その一つだけで、景色は急に広すぎるものへ変わった。
人の声がない。
荷車の軋みもない。
道端で立ち話をする農夫も、遠くから馬を走らせてくる旅人もいない。
残っているのは荷馬車の轍と、何度も踏み固められた土と、誰かのために立てられた標識だけ。
道というものは人が通るから道なのだ。
とおるは、そんな当たり前のことを妙な場所で理解した。
人の姿が消えた街道はそれまでと同じ形をしているはずなのに、どこか息を止めているように見えた。
そこから、さらにしばらく歩く。
やがて前方に、封鎖区域手前の警備拠点が見えてきた。
頑丈さよりも急ごしらえの機能性を優先した木造の見張り小屋。
その周囲を囲む簡易柵には魔力を帯びた結界札が一定間隔で貼られており、風に煽られるたび、紙の端が小さく震えている。
入口には二人の地方警備兵が立っていた。
こちらへ気づいた二人はまずミレイユの姿を見て、それから胸元の白華隊徽章を確認すると、ほとんど反射的に背筋を伸ばした。
「王樹十二華騎士団、第九華隊〈白華〉所属、ミレイユ・アスター。封鎖区域調査任務で来た」
ミレイユは短く名乗り、歩みを止めるのとほぼ同時に任務書を取り出した。
一連の動作に無駄がない。
警備兵の一人が文面を確認している隣で、とおるも慌てて姿勢を整える。
「同じく、壁山とおるです。よろしくお願いします」
とりあえず頭を下げた。
正式な白華隊員になったとはいえ、こういう場面で「騎士らしい挨拶」というものをまだ身体が理解していない。
堂々と胸を張るべきなのか。
相手を安心させるよう笑うべきなのか。
威厳を出すべきなのか。
分からない。
だから、とりあえず丁寧にしておく。
前世でも初対面の年上や立場の分からない相手に対しては、余計なことをせず頭を下げておくことで大抵の場面を乗り切ってきた。
愛想よく。
低姿勢に。
問題が起こりそうなら、さらに一段深く。
まさか異世界へ来て聖騎士になってまで同じ処世術へ頼るとは思わなかったが、どうやらこの技能は剣術よりよほど世界を選ばないらしい。
「紅椿のアスカ殿は、まだ現地に?」
ミレイユが尋ねる。
「はい。昨日の夕刻に一度戻りかけたのですが、途中でまた引き返されました」
「なぜ」
「“やっぱり腹の下をもう一回見てくる”と」
ミレイユは無言で眉間を押さえた。
とおるは思った。
あ、この人、本当に帰ってこない人だ。
「魔獣の状態は?」
「動いてはいますが、街道から大きく外れてはいません。攻撃的というより、近づいた者を追い払う行動が中心です。ただ体が大きく、地面へ脚を打ち込んでいるため、迂回しない限り荷馬車は通れません。アスカ殿は魔獣が何かを守っている可能性があると」
「腹に子がいるという報告は」
「アスカ殿からそのように」
ミレイユの表情が、ほんのわずかに変わった。
普段なら見落としてしまいそうな程度の変化だったが、とおるにはそれが「面倒な可能性が一つ増えた」と認識した時の顔なのだと何となく分かった。
そして同時に、資料に書かれていた一文が頭へ浮かぶ。
――殺さない方向で考える。
その言葉だけを切り取れば、討伐任務へ出た人間が何を勝手なことを言っているのか、と叱られて当然に見える。
けれど本当に子を抱えているのなら、話はそんなに単純ではない。
街道を塞いでいる。
商路も止まっている。
迂回を強いられた人々が困っている。
まして相手は十数メートル級にもなる大型魔獣で、暴れれば周辺へ被害が出る危険性まである。
そこまでは事実だ。
しかしだからといって「では斬ろう」「燃やそう」「討伐完了で解散」と役所の処理欄へ判を押すような気軽さで片づけていい問題かと問われれば、とおるにもすぐには首を縦に振れなかった。
胃のあたりへ、さっきまでとは種類の違う重さが落ちてくる。
またこういう話か。
最近の自分はもう少し「現地へ行きました、確認しました、帰りました」で終わる仕事に恵まれてもいいはずなのだが、どうやら世界のほうがその程度の平穏を与える気はないらしい。
ただの状況確認では終わらない。
ぼんやりしていたその予感が、いよいよ輪郭を持ち始めていた。
警備兵から最新の情報を聞き取り、簡易柵を越えて封鎖区域へ入ると、街道は先ほどまで以上に静かになった。
風の音が、妙に大きい。
鳥の声はするものの遠く、近くには人の声も車輪の軋みもなく、そのせいで自分たちの靴底が土を踏む音まで必要以上にはっきり聞こえる。
街道脇には広い範囲にわたって草が押し潰された場所があり、その中央には巨大な何かが何度も移動した痕跡が残っていた。
土は深く陥没し、硬い地面には円形に近い窪みがいくつも穿たれ、場所によっては拳ほどの石が粉々に割れている。
馬でもない。
荷車でもない。
もちろん人間でもない。
例えるなら小さな家が意志を持って何度も地面へ膝をつき、そのたび「少し休ませてもらいます」と重量だけを残していったような跡だった。
「足跡、でかすぎません?」
「城甲獣グラド・バルムは、大型個体なら十数メートルに達する」
「十数メートルって単位、最近わりと頻繁に聞くようになったんですけど、毎回ちゃんと怖いんですよね」
「慣れる必要はない。恐れることもまた必要な感情だ」
「それは得意です」
「なら周囲をよく見ろ」
「得意分野から急に実務へ繋げられた」
ミレイユは歩調を落とさず、いつでも抜けるよう剣の柄へ軽く手を添えた。
その仕草を見て、とおるも慌てて丸盾を腕へ掛け直す。
ふと、視界の端へ白い線が滲んだ気がした。
まずい。
とおるは意識を切り替え、すぐにそれを遠ざける。
まだ使うな。
今はただ歩いているだけだ。
あの白い線の世界を開けば、足と地面の接触や風に押される草、鳥と空気の流れ、自分の呼吸と肺の動きまでが、一斉に意味を持って押し寄せてくる。
こんな何もない街道の真ん中で情報酔いを起こして倒れた場合、報告書にはいったい何と書かれるのだろう。
――新人隊員、景色を見すぎて戦線離脱。
そんな情けない醜態を晒すのは絶対に嫌だ。
せめて倒れるなら、もう少し騎士らしい理由が欲しい。
そんなくだらないことを考えながら丘を一つ越えた、その先だった。
巨大な影が見えた。
最初、とおるは本気で岩山だと思った。
街道の先、緩やかな丘と草地の境目に、灰褐色の塊がどっしりと横たわっている。
背には段差が幾重にも重なり、その一つ一つがまるで古い城壁の張り出しのように不揃いで、風雨に削られた砦の外壁を丸ごと剥がして生き物の上へ乗せたような異様な形をしていた。
表面にはところどころ苔に似た緑が付着し、遠目では岩なのか殻なのか境目すら判然としない。
だからこそ、とおるは最後まで期待した。
岩山であってくれ。
頼む。
できれば今すぐ地質学的説明で片づいてくれ。
ところがその灰褐色の塊の下から、杭のように太い脚が一本、ゆっくりと持ち上がった。
次の瞬間、ずしん、と地面へ突き立つ。
とおるの中に残っていた「ただの地形かもしれない」という淡い希望は、その振動と一緒に粉々になった。
「あれ、もしかして……」
「城甲獣グラド・バルム」
ミレイユが低い声で告げる。
「通称、動く砦」
「砦は動かないという常識が守られている世界線へ行きたい」
近づけば近づくほど、城甲獣の異様さは増していった。
体長は本当に十数メートルある。
背を覆う甲殻はただ分厚く硬いというだけではなく、古い城壁を思わせる凹凸と層を持ち、その縁には大小さまざまな角状の突起が並んでいる。
頭部は巨大な殻の前方から半分だけ突き出し、顔そのものは意外なほど小さいものの、深く窪んだ眼窩の奥では琥珀色の瞳が鈍く光っていた。
腹の下には何本もの太い脚があり、そのうち数本は歩行用というより巨大な身体をその場へ固定するための支柱のように地面へ食い込んでいる。
歩くための脚と、居座るための杭。
その二つが同じ身体についているような構造だった。
一度腰を据えれば小隊程度では動かせない、という資料の説明にも納得がいく。
むしろあれを人力で押そうと考える者がいたなら、とおるは止めるより先にその人物の人生相談へ乗ったほうがいい気がした。
巨大な魔獣は、街道を完全に塞いでいる。
正確には街道の中央へ身体を半分埋めるような格好で横たわり、荷馬車が通れる幅を丸ごと潰していた。
周囲の草地には複数の踏み跡があるため、まったく動いていないわけではないらしい。
何度か場所を変えている。
それなのに離れない。
街道の、ある一点へ固執しているように見えた。
そして。
その巨大な魔獣のすぐそばに、人がいた。
最初に目へ入ったのは、黒と朱だった。
草原の緑。
城甲獣の灰褐色。
青い空。
その中で、その人物だけが絵具を一滴落としたように鮮やかに浮いている。
黒地の長外套は風を受けてゆるやかに広がり、分割された裾の内側からは朱色の裏地がちらちらと覗く。
布地には椿を抽象化した大きな花紋。
走れば、黒い影の中で赤い花が咲く。
そんな由来を持つ〈紅椿〉の名を、そのまま形にしたような装いだった。
肩には軽量の金属肩章。
頭には黒地へ金縁を走らせた軍帽型の略帽が載り、正面の隊章だけが陽光を拾って鈍く光っている。
さらに腰元へ目を移せば細身の片刃刀だけならまだ騎士らしいものの、その周囲をベルト、金属環、小袋、細長い筒、札束、留め具、正体不明の工具らしき物体が埋め尽くしており、一人だけ装備欄の使用可能枠を限界まで拡張しているような有様だった。
髪は艶のある黒。
そこへ、一筋では済まない鮮烈な朱赤が混じっている。
後頭部から伸びる太い節状の髪束は、何か所も金属環で締められたまま背中の下まで長く垂れ、その根元では大きな赤い結び紐が風に揺れていた。
前髪は片側の目元へ深く落ち、露わになっている赤褐色の瞳は、眠そうにも、退屈そうにも、それでいて全部を見透かしているようにも見える。
その女性は――しゃがんでいた。
十数メートル級の魔獣のすぐ横で。
任務期限を超過し。
警備兵を困らせ。
街道封鎖を継続させ。
とうとう白華隊から正式な確認要員まで派遣される事態を引き起こしたその“張本人”とは到底思えないほど気楽な姿勢で、城甲獣の腹の下を覗き込み、小さな棒を使って地面の何かをつんつん突いている。
とおるは足を止めた。
ミレイユも止まる。
しばらく、誰も声を発しなかった。
草原を渡る風だけが、二人と一人と、一頭の巨大な魔獣の間を遠慮なく吹き抜けていく。
やがて黒と朱の女性がこちらの気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
一秒。
二秒。
彼女は立ち上がるでもなく、慌てるでもなく、その場にしゃがんだまま片手だけを上げた。
「おー。来た来た。白華の子たち?」
軽い。
声が、あまりにも軽い。
目の前には十数メートル級の大型魔獣。
街道は完全封鎖。
任務期限はとうに超過。
周辺警備も継続中。
そして今、所属の違う騎士隊から正式な確認要員が到着したところである。
普通なら、もう少しこう――申し訳なさそうにするとか、緊張感を見せるとか、少なくとも立ち上がるとか何かしら状況の重さへ敬意を払ってもよさそうなものなのだが、この女性だけはそのあたり一式を途中の街道へ置き忘れてきたらしい。
とおるが「この人がアスカさんか」と理解するのと、ミレイユの眉間へ深い皺が一本刻まれるのはほぼ同時だった。
「第九華隊〈白華〉所属、ミレイユ・アスター。こちらは壁山とおる。アスカ・カグラード正騎士で間違いないか」
「うん、合ってる合ってる。アスカ・カグラード。紅椿の特務正騎士。席官じゃないほうの有望株」
「自分で言うんですか」
とおるが思わず漏らすと、アスカは赤褐色の目をぱちりと瞬かせ、それからにやりと笑った。
「君が壁の人?」
「壁の人という職業名ではないです」
「試験の噂、聞いたよ。ユリシスの秤を変な感じにした人でしょ」
「できれば“変な感じ”を正式記録にしないでほしいです」
「いいじゃん、その変な感じ。すごく強そう」
「強そうの判断基準が独特ですね」
アスカは地面にしゃがみ込んでいた姿勢から、ばねでも仕込まれているような軽さで立ち上がった。
女性としてはやや高めの身長に、細身ながら華奢という言葉からは程遠い余計なものだけを削ぎ落としたような身体つきで、特に腰から脚へかけては見せるためではなく走る、跳ぶ、蹴る、避ける、その全部を実行するために鍛えられた筋肉が無駄なく収まっている。
紅椿の制服も白華のような「騎士らしい鎧」とはずいぶん趣が違っていた。
黒を基調とした短丈の戦闘衣。
要所に走る朱の差し色。
縁をなぞる細い金。
動きを妨げないよう分割された脚部装具。
右脚だけは左より長い黒の防護脚衣で覆われ、特殊な戦闘靴は爪先と踵がやや露出する変わった作りになっており、平らな街道の上でも足裏全体が地面を掴んでいるように見える。
どこを取っても実戦一辺倒の装備なのに、アスカ本人の気配と組み合わさるとどういうわけか「王国騎士」より「どこか別口の極秘任務で潜り込んできた人」という印象が勝ってしまう。
とおるはもし前世でこの姿を画像検索の途中に見かけていたら、説明文を読む前に間違いなく「敵か味方か分からないけど、とりあえず強い人」という雑なフォルダへ分類していただろうと思った。
そのアスカは腰の小袋へ手を入れ、何か小さなものを取り出した。
飴だった。
口へ放り込んだ。
任務中である。
巨大魔獣のすぐ横である。
しかもその魔獣の腹の下を今まで覗き込んでいた人物が、何事もなかったように甘味補給へ移行している。
隣を見ると、ミレイユの眉間に刻まれた皺が静かに一段階深くなった。
「アスカ・カグラード」
「ん」
「任務期限を超過しているうえ、定時報告も途切れがちだ。現状を説明してもらう」
「するする。ちょっと待って。今、こいつの腹の下に風が抜ける穴があるか見てたから」
「先に報告をしろ」
「だからその報告なんだけど、たぶん殺さない方向が正しいって分かると思う」
アスカは飴を転がすように頬を少し動かしながら、軽く顎で城甲獣を示した。
巨体を伏せている魔獣はこちらへ一度だけ視線を寄越したものの、襲いかかってくる様子はない。
腹の底から鳴るような低い唸りが地面を伝わり、その振動に合わせて背へ張りついた城壁めいた甲殻がわずかに軋む。
近くで見ると、やはり大きい。
遠くから見た時点でも十分に「建物では?」と思ったが、ここまで来るともはや「建物だったらよかったのに」という感想へ変わる。
とおるは無意識に、もし今この瞬間に城甲獣が立ち上がった場合の逃走経路を確認し始めた。
右。
草地。
走れる。
左。
浅い溝。
転ぶ可能性あり。
後ろ。
街道。
最有力。
前。
無理。
正面には生きた砦がいる。
頭の中に並んだ選択肢の末尾へ、なぜか「祈る」が追加された。
そもそもこんなでかい魔獣を目にしたこと自体初めてである。
「理由は」
ミレイユが短く問う。
「腹に子がいる」
アスカの声音は、それまでと変わらず軽かった。
けれど、その一言だけは妙にまっすぐ響いた。
「たぶん、もうすぐ子供を産むと思う。こいつは街道を塞ぎに来たんじゃない。ここを巣にしようとしてるんだよ」
アスカは城甲獣の腹の下を指さす。
「この辺り、地面の下に古い石組みが残ってて、その隙間を風が抜けてるんだよね。冷えすぎない程度に空気が流れるし、匂いも籠もらない。周囲もちゃんと見渡せるから、魔獣の出産場所として考えれば結構いい立地」
「人間にとっては最悪だがな」
「うん。街道の真ん中じゃなければ百点だった」
場所選びだけが致命的だった。
「……それで、討伐を止めたのか」
「止めたっていうより、保留。斬るだけならそんなに難しくないけど」
アスカは一度だけ、伏せる城甲獣へ目を向けた。
「腹の子ごと斬るの、後味悪いじゃん」
ミレイユは答えなかった。
とおるも、すぐには言葉が出てこなかった。
城甲獣グラド・バルムは、確かに旧街道を塞いでいる。
人の移動を止め、荷の流れを滞らせ、近づけば危険な魔獣でもある以上、人間側から見れば迷惑以外の何ものでもない。
けれど目の前の個体は人里を襲うためにここへ来たわけではなく、ただ腹の子を守るため、自分なりに安全だと思った場所を選んだだけだった。
そして、その選んだ場所がたまたま人間の都合と最悪の形で重なった。
どちらが悪いかと言われれば回答に困る。
そう簡単に線を引くには、世界というものは少しだけ事情が多すぎるのだ。
「それで」
とおるは城甲獣とアスカを交互に見た。
「殺さないなら、どうするつもりだったんですか」
アスカは待っていましたとばかりに、にっと笑った。
「動かす」
「動きます?」
「動く砦なんだから、動くでしょ」
「名前から性能を逆算しないでください」
「でも実際動くよ」
「知ってますけど、そういう問題じゃない」
「ただ、正面から押すのは駄目。そうするときっと怒っちゃう。火で脅すと腹を庇って杭脚を余計に深く打つし、大きな音なら反応はするけど、距離を詰めると威嚇へ切り替わるかも」
アスカは指を折りながら、まるで扱いの難しい大型家畜について説明するような調子で話していく。
「だから、無理やり追い払うんじゃなくて、別の進路を作って、こいつ自身に『あっちのほうが安全だな』って選ばせたい」
そこまで言ってから、アスカはゆっくりととおるを見た。
少し眠たげな目。
けれど、その奥だけは妙に鋭い。
「で、壁の人が来た」
「その接続、ものすごく嫌な予感がします」
「壁って、道も作れる?」
「最近、その能力の職務範囲が本人の了承なしに広がりすぎて困っています」
「いいじゃん。広いほうが便利で」
「便利な人間って認定された瞬間、仕事が倍に増えるんですよ」
「でも断れないんでしょ?」
「そこまで見抜かないでください」
アスカは声を立てて笑った。
「ゾロさんが言ってた通り。面白いね、君」
「ゾロさんの推薦文、毎回こっちに不利益しか運んできてないんですよ」
「じゃあ、ちょうどいいや。手伝って」
「『じゃあ』の前後が繋がってない」
「繋がってるよ。この場を平和に収めるには壁が必要。ということで君がいる。以上、解決」
「過程を全部削除した!」
アスカの判断は速い。
というより、必要な材料が揃った瞬間、それ以外の確認工程を本人の中で「なくても別に死なない部分」に分類している節がある。
「まだ状況確認の段階ですからね」
「もう確認したじゃん。手伝ってほしい状況」
「判断が速すぎる!」
とおるが思わず声を上げたところで、ミレイユが一歩前へ出た。
「待て」
声の温度が下がる。
「正式な判断は私が行う。まず周辺地形、魔獣の状態、住民への危険度、それからお前がここまでに試した誘導方法を順に報告しろ」
「うん。じゃ、報告しながら歩こう。腹の下も見せたいし」
「勝手に進めるな」
「じゃあ、確認しながら進める」
「言い換えただけだ」
「目的が合ってるなら問題なくない?」
「手順にも意味がある」
「目的に辿り着くための手順でしょ?」
「その手順を勝手に省略するなと言っている」
「でも省略できる部分なら省いたほうが早いよ?」
「そういうところだ!」
ミレイユの目が細くなる。
アスカはまるで怯まない。
とおるは二人の間を視線だけで往復し、早くもこの組み合わせが持つ危険性を理解した。
ミレイユは規則には規則なりの理由があり、その理由を守ることで事故や混乱を防げる、と考える人間である。
一方のアスカは、規則の理由さえ理解できれば状況に合わせて形を変えたほうが早くない、と考える人間だ。
つまり一方は「手順を守れ」と言い、もう一方は「目的が合ってればよくない?」と言う。
そして、とおるは。
できれば、その議論の射線上から外れていたい人間だった。
風の大陸の空は、今日も憎らしいほど青い。
草原には風が走り、遠くの山並みは薄い霞の向こうでまだ見ぬ旅の続きを静かに誘っている。
景色だけ切り取れば、旅情あふれる一枚絵だ。
しかし足元の旧街道には、出産場所としてここを選んでしまった巨大な城甲獣が居座り、その横には任務期限を過ぎても平然と独自調査を続ける紅椿の問題児がいて、さらに隣では白華の生真面目な剣士が規律と現場判断の衝突を一手に引き受け、眉間の皺を着実に増やしている。
そしてとおる自身はというと、いつの間にか「壁で道を作れる便利な人」として新しい仕事を追加されかけていた。
旅情は、もう完全に死んでいた。
いや。
正確には、勤務によって埋葬された。
とおるは小さく息を吐いてから、せめてもの逃避として空を見上げた。
休日という名の壁を。
勤務と勤務の間へ、一枚だけでも挟み込みたい。
できれば頑丈なやつを。
できれば誰にも越えられないやつを。
その切実な願いは、何ひとつ叶える気のなさそうな風にさらわれ、草原の向こうへ綺麗に消えていった。




