第35話 壁を出す練習と書いて壁練
聖騎士とは何か。
王国騎士団としての矜持とは何か。
民を守るとは、刃を振るうことではなく背後へ危険を通さないことであり、盾とは己を飾るための鉄板ではなく誰かの明日を支える誓いであり、白華隊の白は汚れなき正義を意味するのではなく、汚れの前へ出る覚悟を忘れぬための色である――といった趣旨の言葉を、とおるは白華隊へ正式に組み込まれてからというもの、朝の訓練、昼の座学、巡回前の訓示、巡回後の反省会、果ては食堂で隣に座った先輩騎士の雑談に至るまで、耳にタコどころかそのタコが白華隊の規律を暗唱できるようになるほど聞かされていた。
最初の頃は、なるほど立派な考えですね、と心のどこかで感心する余地もあった。白華隊は確かに民を守る隊であり、リディアもマルクもセレナもクラリッサも皆それぞれの形でその誓いを本気で背負っている。とおる自身、クルム村を守りたくてリディアへ決闘を挑んだ過去がある以上、守るという理念そのものへ反発したいわけではない。問題は、理念が立派であればあるほど、それを日々の訓練と勤務と書類と当番表へ落とし込んだ時に想像以上に生活へ食い込んでくることだった。
朝起きれば訓練。朝食を挟んで訓練。昼から座学。終わったと思えば巡回。ようやく自由時間かと思ったところで、「新人は復習しておけ」と分厚い騎士団規則集を渡される。人間というものは、驚くほど簡単に抵抗をやめるらしい。いや、これは悟りではない。少なくとも朝日に向かって微笑みながら「今日も一日、己を磨こう」などと前向きに呟けるような高尚な境地ではなく、どちらかといえば濁流に流されながら途中で泳ぐ努力をやめた者が「まあ、川下にも何かあるだろう」と考え始める、かなり危険な種類の諦観である。
少し前までのとおるは、朝の鐘が鳴るたびに「どうして俺が」「誰か人選を間違えていないか」「臨時協力員という単語の意味を王都全体で再確認してほしい」と寝台の中で必死に抗議していたのだが、最近では意識が毛布の奥で「嫌です」と駄々をこねているにもかかわらず、身体だけが妙に勤勉な別人格を宿したかのように起き上がり、制服へ袖を通し、顔を洗い、廊下へ出て、気づけば訓練場へ向かっている。恐ろしい。これは聖騎士になったというより、白華隊という巨大で清潔で規律正しい生き物に、じわじわと飼い慣らされているのではないか。鐘の音を聞けば餌場へ向かうならまだ可愛げもあるが、とおるの場合は鐘の音で訓練場へ向かうよう調整されつつあるため、条件反射の行き先があまりにも過酷だった。犬なら餌をもらえる。鳩なら豆をもらえる。とおるは木剣と指示をもらえる。生命に対する扱いの差が大きい。
そして今日も、壁山とおるは朝の訓練場に立っていた。
「壁山、正面一枚。胸の高さ。幅は人二人分。薄くていい」
「はいはい、正面一枚、胸の高さ、人二人分、薄めですね」
「返事が二回ある。余計なほうを壁に混ぜるな」
「返事の厚みも調整対象なんですか」
「お前の場合、まず口数を薄くするところからだな」
朝の訓練場に響くミレイユの指示に従い、とおるは文句を飲み込む代わりに右手を軽く上げた。白砂の敷き詰められた訓練場、その中央に立つ彼の正面へ、朝日をぼんやり透かす半透明の壁が空気の中から滲み出すように現れる。厚みは指二本分ほど。強度は控えめ。圧迫感も威圧感もなく、見た目だけなら少し分厚い窓ガラス、あるいは職人が本気を出して作った氷砂糖の板といったところで、戦闘用というより高級菓子店の展示品に近い。
「遅いぞ」
「朝一番なので、壁もまだ寝起きなんです」
「壁に生活リズムを持ち込むな」
「俺のスキルなので、多少は持ち主の生活態度を反映している可能性があります」
「だったらなおさら鍛え直す必要があるな。壁まで寝坊助になったら、いよいよ救いがない」
「俺だけならまだ救いがあったみたいな言い方ですね」
「うん」
「即答!」
ミレイユは木剣を肩へ軽く乗せながら呆れたように息を吐いたものの、その目元に浮かんでいるのは完全な叱責というより、朝から寝癖をつけた幼馴染を玄関先で待っているようなどこか慣れきった気安さがあった。とおるにとってはそれがかえって厄介だった。厳しい教官なら心の中で「鬼」と呼んで距離を取れる。けれどミレイユは、とおるの情けない言い訳を聞いても本気で切り捨てず、拾って転がして、ついでに踏んでから返してくる。逃げ道を塞ぐ技術が、妙に家庭的なのである。
「次、斜め。右下から左上へ流す角度」
「はい」
「今度は返事一回。偉いぞ」
「幼児扱いの褒め方やめてくれません?」
「褒められたんだから素直に伸びろ」
「植物ですか、俺は」
「壁を生やす男だろ」
「急に納得感を出さないでください」
とおるが右手の向きをわずかに変えると、透明な面が白砂を切り上げるように斜めへ立ち上がった。ミレイユは訓練用の木剣でその表面を軽く叩いて跳ね返りの硬さを確かめたあと、今度は剣筋を寝かせて刃を滑らせるように壁へ沿わせる。木剣は半透明の面を伝いながら狙った軌道から少しだけ外れたものの、途中で抵抗を失ったように勢いを取り戻し、ミレイユの手元へ軽く戻っていった。
「浅いぞ。これでは剣を逸らしきれない」
「俺の人生観くらい浅かったですか」
「そこまでではないから安心しろ」
「今、安心できる要素ありました?」
「壁のほうは直せる」
「人生観のほうは?」
「長期計画だな」
遠回しに重症認定された気がしたが、とおるは深く追及しなかった。朝っぱらから自分の人生観について真剣に議論し始めると、最終的には訓練場の白砂へ自分を埋めたくなる危険がある。
「もう一度」
「はい」
とおるは斜めの壁を消し、再び同じ位置へ生成した。今度は少し厚めに作ったつもりだったが、ミレイユは一目見ただけで眉を寄せる。
「厚い。力で受けようとしている。誘導面は受け止めるための壁じゃない」
「でも薄いと不安なんですよ」
「不安だから厚くする、厚くするから動きが鈍る、動きが鈍るから叩かれる、叩かれるからまた不安になる。見事な悪循環だな」
「俺の心の家計簿みたいに言わないでください」
「赤字だろうな」
「否定できないのがつらい」
ミレイユは軽く笑うと、木剣の切っ先で壁の端をこつこつ叩いた。
「ほら、ここ。厚みで安心したい気持ちは分かるけど、貴様の壁は城壁じゃなくて道具だ。守るだけじゃなく、流す、ずらす、踏ませる、見せる、隠す。使い方を変えれば、同じ一枚でも役割が増える」
「急にちゃんとしたことを言う」
「普段からちゃんとしてる」
「その木剣を振り上げながら言われると、説得力より圧力が先に来ます」
「お前が変なことを言わなければ振り上げない」
「つまり俺次第で平和が守られる」
「そうだな。責任重大だぞ、平和の敵」
「味方にしてくれません?」
「働き次第だ」
軽口の応酬を挟みながらも、ミレイユの指摘は的確だった。彼女はとおるを追い詰めるために訓練しているわけではなく、むしろ彼が本当に危ない場面で転ばないよう、今のうちに何度も失敗させている。それが分かるから、とおるも文句を言いながら逃げなかった。いや、正確には逃げたい。とても逃げたい。しかし逃げ出したところでミレイユは普通に追いついてくるし、追いついたあと「朝の運動が増えたな」と言いながら訓練へ戻すだけなので、逃走という選択肢は精神的な娯楽にしかならなかった。
「もう一度」
「はい」
「今のは悪くない。三回続けろ」
「“悪くない”から三回に増えるんですね」
「できたことは繰り返して身体に入れるんだ」
「できないことも繰り返していた気がします」
「できるようにするためだ」
「逃げ道のなさが美しいですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「今のを褒め言葉として受け取れる精神、白華隊向きすぎる」
「悔しかったら、貴様も白華隊向きになれ」
「それ、呪いの一種では?」
「祝福だ」
「発音が似てるだけで中身が違うやつ」
これが白華隊で新たに始まった、とおる専用の基礎訓練だった。正式名称は、境界生成反復制御訓練。マルクが真面目な顔でそう記録した——紙面上ではいかにも高度で由緒正しく、王樹十二華騎士団の訓練体系へ組み込まれていてもおかしくない響きがある訓練だった。なお実態は、朝から壁を出して消す素朴な作業である。
エルネは当初、「特異境界挿入型術式反応測定兼低負荷反復演習」と呼ぼうとしていたが、リディアに「長い」と一言で却下された。あのときのエルネは研究者としての誇りを斬られた顔をしていた。ミレイユはそれを横で聞き、「要するに壁を出す練習だろ」と言った。クラリッサはさらに雑で、「じゃあ壁練だな」とまとめた。
以来、とおるの訓練予定表には朝一番の欄へ堂々と「壁練」と記されている。
壁を出す練習と書いて、壁練。
非常に分かりやすい。
分かりやすいからといって、優しいとは限らない。
むしろ、分かりやすい苦行ほど逃げ場がない。
内容は地味だった。正面へ出す。消す。右へ出す。消す。左へ出す。消す。斜めへ出す。厚みを変える。角度を変える。足場にする。衝撃を受け流す。相手の足元の一歩先へ置く。自分の重心を滑らせる。丸盾の表面へ重ねる。生成した壁を瞬時に解除し、別の位置へ作り直す。同時三枚という制限を常に意識しながら、一枚目を防御、二枚目を誘導、三枚目を足場に使った直後、次の役割へ入れ替え、敵の視界を遮り、味方の退路を確保しつつ自分だけは転ばないよう祈る。
聞くだけなら案外なんとかなりそうに思えるかもしれない。現実には板を三枚以内で使い回しながら、攻撃、防御、足場、誘導、支援、視界確保、退路確保、そのうえ自分の生存までまとめて面倒を見ろと言われているようなものである。前世のパソコン作業で例えるなら、すでに起動音から疲れがにじんでいる古いノートパソコンへ、重い表計算ソフト、動画編集ソフト、オンライン会議、資料確認用のブラウザタブ三十個を同時に開かせたうえで、「ついでに画面共有しながら落ちないよう最適化して」と命じられている状態だった。
落ちる。
人もパソコンも落ちる。
場合によっては、心が先に落ちる。
「足元に一枚」
「はい」
「遅い」
「今のは俺の足が先に迷いました」
「迷う前にちゃんと置け」
「人生でもそれができたら、だいぶ苦労が減るんですよ」
「何の話だ」
「選択と後悔についてです」
「訓練に戻れ」
ミレイユに人生相談を一刀両断されたとおるは、言われた通り靴底の真下へ小さな〈壁〉を展開し、地面からわずかに浮かせた透明な面へ体重を預けると、そのまま傾斜をつけて横方向へ踏み抜いた。身体が思っていたより滑る。むしろ途中からこれは自分が移動しているのではなく、地面の側が勝手に逃げているのではないかという速度になり、足首が「その方向は契約外です」と訴える嫌な角度へ曲がったところでとおるは慌てて丸盾を白砂へ突き立て、顔面から盛大に着地する未来だけは辛うじて回避した。
砂煙が、小さく舞った。
「今の、失敗ですか」
「半分は成功だ」
ミレイユは木剣を肩へ担ぎながら、実に公平な顔で答えた。
「残り半分は?」
「転びかけた」
「評価が正直すぎる」
「白華では、正直な反省が大事だ」
「もう少し成功側を膨らませて褒めてもいいと思うんですけど」
「事実が膨らんでいない」
「はい」
訓練場の端では、クラリッサが他の新人たちへ基本姿勢を教えながらこちらの騒ぎへ気づくたびに肩を震わせており、少し離れたところではセレナが記録用の板へ何やら真面目な顔で書き込んでいた。記録しないでほしい。少なくとも今の一件だけは、公的資料の側から忘れてほしい。《壁山とおる、境界制御訓練中、自ら生成した足場によって転倒しかける》そんな一文が残ればそれだけでも十分に嫌なのに、何百年か後の研究者が「初期の境界術式には運用上の不安定性が見られる」と学術的な顔で分析し始めた場合、自分の間抜けが歴史資料へ昇格してしまう可能性がある以上、後世へ残したいものにはもう少し選択権がほしいと思うのだった。
今回の訓練で求められているのは、ユリシスとの戦いで偶然掴んだ〈壁〉の新しい性質をいきなり高次の因果干渉だの概念境界だのという大仰な領域へ持ち込むことではなく、まず身体が扱える大きさまで話を引き下ろし、安全な範囲で繰り返し使える技術へ変えていくことだった。リディアの判断によれば、当面の目標は「目に見える壁を単なる固定障害物ではなく、その場に応じて役割そのものを変える」ことにあるらしい。
足場。
傾斜。
受け流し。
進路誘導。
衝撃の分散。
つまり壁とは名乗っているが、もうかなり壁の職務範囲を逸脱し始めている。とおるとしては壁というものにはもっとこう「立っている」「塞いでいる」「たまに寄りかかれる」くらいの慎ましい働き方をしてほしかったのに、自分の能力だけは本人の希望を無視して着々と多機能化していた。それでもいきなり「意思と結果の間に境界を差し込め」と言われないだけ遥かにありがたい。あのユリシス戦で見えた空間とも光とも判別しづらい白い線の世界は思い出しただけでも眉間の奥が重くなる代物で、もし毎朝の訓練として「あれを再現しろ」と命じられたなら肉体の負傷を扱う労働災害では足りず、魂そのものに適用できる労災制度を新設してもらう必要がある。
もっとも、白華隊の言う「安全な範囲」はとおるが想像していた安全とはだいぶ距離があった。
「次、私の剣を止めるな。ちゃんと流せ」
「了解です」
「受け止めるな」
「了解です」
「怖がって壁を固めるな」
「いや、怖いんですけど」
「知っている」
「知っているなら多少は配慮を」
「怖いままやれ」
「白華隊の教育方針、たまに崖ですよね」
「落ちないように覚えろ」
「崖であることは否定しないんだ……」
返事が終わるより早く、ミレイユの木剣が風を裂いた。反射的に真正面へ壁を出そうとしたとおるは寸前でそれを抑え、剣筋へ薄い透明面を斜めに差し込むとその角度を手探りで微調整する。いつものように力と力でぶつけるのではない。剣が来る方向を変える。ただそれだけなのに、真正面から壁を出して「ここから先は通しません」と拒絶する戦い方ばかりしてきたとおるにとって、自分から攻撃へ道を譲らせる感覚はひどく落ち着かない。
木剣が透明な面を擦り、その表面を滑るようにして外へ逸れた。ミレイユの右腕がわずかに流れ、剣先がとおるの肩を外れて空を切る。
「今のはいい」
「やった」
思わず顔が明るくなる。
「続けて十回」
「褒められた直後に刑期が延びた」
「身体で覚えろ」
「成功報酬が追加労働なの、制度としてどうなんですか」
「十一回にするか?」
「十回でお願いします」
交渉は即座に成立した。
そうして足場を作っては滑り、攻撃を逸らしては角度を修正し、時々自分の壁に自分で翻弄されるという能力者としての尊厳が少しずつ削れていく朝練を終えた頃には、とおるの腕と脚はまだ朝食前だという事実を到底受け入れられないほど重くなっていた。
一日の体力には予算というものがある。
少なくとも、とおるはそう考えている。朝、昼、夕方、夜。それぞれへ適切に配分し、突発的な魔物や意味不明な騒動に備えて少し余裕を残しておくのが理想なのだが、白華隊の訓練に参加すると、朝のうちに家賃、光熱費、通信費、保険料、覚えのない定額サービス、そして「こんな出費聞いていない」と叫びたくなる臨時支出まで一気に引き落とされたような状態になる。
まだ昼にもなっていない。
なのに、精神の財布がもう薄い。
そんなとおるへ次なる予定が告げられたのは、昼の座学までどうにか乗り越え、「午後こそ少し穏やかな時間が来るのではないか」という根拠のない希望を抱き始めた直後だった。
「合同訓練?」
白華隊本部の小会議室で、とおるは聞き間違いを疑うように目を瞬かせた。長机の向こうには、リディア、マルク、ゾロ、ミレイユの四人が並んでいる。その中で最も違和感があるべき人物はゾロなのだが、本人は第八華隊〈紅椿〉へ移籍したばかりとは思えないほど自然に席へ収まっており、まるで昼食へ行って戻ってきただけのような顔で腕を組んでいた。昨日まで実際にここが自分の居場所だったのだから当然と言えば当然なのに、だからこそ余計にややこしい。所属だけ先に引っ越して、本人の習慣がまだ荷造りを終えていないのである。
「第八華隊〈紅椿〉との共同訓練、および今後を想定した任務連携だ」
リディアは机上に広げた資料へ指を置き、淡々と説明を続けた。
「紅椿とは今後、複数の調査任務や魔物討伐で共同運用する予定がある。白華が防衛線を構築し、紅椿がその内外を高速で動いて突破口を形成する形になる可能性が高い以上、実戦に入る前から互いの戦術特性を理解しておく必要がある」
「なるほど」
とおるは素直に頷いた。
話そのものには、何の問題もない。白華は守る。紅椿は駆ける。一方が敵を受け止め、一方がその隙を突くのなら、互いに何ができてどこまで任せられ、何をされたら逆に邪魔になるのかを知っておく必要がある。騎士団として極めてまともな判断であり、説明には一分の隙もなく、今のところ危険な単語も出ていなかった。しかしだからこそ、とおるは警戒した。
異世界へ来てから学んだことはいくつもあるが、その中でもかなり信頼度の高い教訓として、「最初からおかしい話は警戒しやすいが、最初だけまともな話ほど逃げ遅れる」というものがある。
調査です。
訓練です。
少し確認するだけです。
危険はありません。
これまで何度、その穏やかな入口から、とおる本人だけを名指ししたような面倒事へ滑り落ちてきたことか。
「一応、聞いていいですか」
とおるは慎重に手を上げた。
「何だ」
「その合同訓練、俺も参加する前提で話が進んでます?」
リディアは一瞬だけ無言になった。その沈黙だけで、とおるにはだいたい答えが分かった。
嫌な予感とは、予感の段階がいちばん幸せなのかもしれない。
「それでねえ」
ゾロが柔らかく微笑む。
来た。
とおるの胃が静かに警戒態勢へ入る。ゾロの笑顔は、季節の花のように美しい。美しいものが安全とは限らないことを、とおるは三ヶ月の訓練で骨身に染みて学んでいた。
「紅椿には、少し癖の強い特殊系の子がいるの。正式な席次はまだ持っていないけれど、実戦能力だけなら下位席官を超えると評価されている有望株よ」
「有望株」
「ええ。あなたの〈壁〉を伸ばすには、彼女の戦い方を見るのがちょうどいいと思って」
「今、合同訓練の話から俺の能力訓練へ自然につながりましたね」
「自然だったでしょう?」
「自然な罠でした」
ゾロは楽しそうに笑う。
「アスカ・カグラード。第八華隊〈紅椿〉所属の特務正騎士よ」
名前だけなら、強そうではある。少なくとも「壁山とおる」よりは、はるかに戦闘向きの響きがある。カグラード。語尾に硬さがあり、どこか異国の刃物めいた響きもあって、自己紹介した瞬間に周囲の空気が一段引き締まりそうだ。こちらは壁山。どうしても地形である。人名というより、村の裏手にある小高い丘の名称に近い。
「そのアスカさんが、俺の訓練に関係あるんですか」
「かなりね。あの子のスキルは、普通の強化や放出とは少し違うわ。戦場で“切れ目”を作り、そこを踏むように動く。説明だけだと分かりにくいでしょうけれど、あなたの〈壁〉が境界を使って軌道や意味を変えるなら、見て損はない相手よ」
「切れ目を作って踏む」
「ええ。紅椿らしく派手に燃える子ではないのだけれど、戦い方はとても面白いわ」
「ゾロさんが面白いって言う対象、だいたい本人以外が苦労するやつですよね」
「あら、よく分かってきたじゃない」
「分かりたくて分かったわけではありません」
マルクが咳払いをした。
「アスカ・カグラードについて補足する。実力は確かだ。単独任務の達成率も高く、魔物討伐、要人救出、敵陣攪乱、山岳地帯の強行偵察などで優れた結果を出している。紅椿内部でも将来的な席官候補として名前が挙がっている」
「すごい人なんですね」
「ああ。ただし、問題も多い」
「はい来た」
「まだ何も言っていないぞ」
「今の流れで問題が多いと言われたら、俺の心はもう先回りして避難を始めます」
マルクは少し疲れた顔をした。
「自由奔放、と言えば聞こえはいい。実際には、任務中に独断行動を取ることがある。命令違反とまでは言わない案件もあるが、報告遅延、予定外の追跡、単独判断での交戦回避、現場判断による目標変更など、上層部から見ると頭痛の種が多い」
「それを命令違反と言わずに済ませる白華隊の優しさが怖いです」
「成果は出すからな」
「成果を出す問題児が一番扱いにくいやつでは?」
「その通りだ」
リディアが静かに頷いた。
「本来なら、紅椿の内部で処理する案件だ。しかし現在、白華隊にはいくつかの調査任務と魔物討伐の予定が重なっている。紅椿から人員を借りる必要も出ている以上、事前にその戦力と連携可能性を確認しておきたい。加えて、アスカが現在担当している任務が予定より長引いている」
「長引いている」
とおるは復唱した。
嫌な単語だった。
宿題が長引く。会議が長引く。通院が長引く。どれも嫌だ。任務が長引くなど、確実にろくなことがない。
「任務名は、旧街道の“動く砦”討伐任務」
リディアが資料の一枚をとおるの前へ滑らせる。
そこには、王都南西へ伸びる旧街道の地図、赤い印、通行停止区間、被害報告、そして魔物らしきものの簡易図が描かれていた。巨大な四足獣にも見える。岩の塊にも見える。背中には古い城壁のような突起が並び、腹部からは複数の脚が生えているようだった。図だけでも嫌である。名前からして嫌である。“動く砦”。砦は動かないから砦なのではないか。動くならそれはもう移動式の災害である。
「討伐任務、ですよね」
「本来はそうだ」
「本来は」
「現地調査によれば、旧街道を塞いでいる個体は大型の岩殻魔獣と推定されていた。街道を通る荷馬車を襲うというより、進路上へ居座り、近づいた者を威嚇して追い払う行動が多い。とはいえ商路は止まっており、周辺村落への物資輸送にも支障が出ているため、紅椿へ討伐が依頼された」
「はい」
「アスカが出た」
「はい」
「予定では昨日までに完了しているはずだった」
「その言い方、完了してないんですね」
マルクが資料を一枚めくった。
「街道はまだ開通していない。連絡も途切れがちだ。最後に届いた報告はこれだ」
彼は淡々と一文を読み上げた。
「ちょっと事情変わった。殺さない方向で考える」
会議室が一瞬、静かになった。
ミレイユは眉間を押さえた。
ゾロは楽しそうに微笑んだ。
リディアは表情を変えない。
マルクは書類を見る目が疲れている。
とおるだけが、心の中で存在しない人事課へ全力で抗議した。
なんでその「あの子らしいわね」の後始末に俺が含まれてるんですか。
「殺さない方向、というのは」
とおるは慎重に尋ねた。
「討伐対象を殺さずに解決したい、という意味だろう」
リディアが答える。
「討伐任務で?」
「ああ」
「依頼内容と違いますよね」
「違う」
「それは、勝手に仕様変更しているのでは」
「そうとも言える」
「プロジェクト炎上の匂いがします」
「何の話だ」
「納品前日に仕様が変わるやつです」
ミレイユが眉間を押さえたまま呟く。
「紅椿の問題児か」
「正確には、優秀で自由な子よ」
ゾロが訂正した。
「優秀で自由すぎる子、と言うべきではないか」
「否定はしないわ」
「否定しないんですね」
とおるは資料の魔物図へ視線を落とした。
動く砦。
旧街道。
予定未了。
連絡不安定。
殺さない方向。
見事に嫌な札が揃っている。麻雀なら役満。人生なら警報。普通なら上司へ相談し、関係部署を集め、追加予算と人員を検討する場面なのだろう。ところがここは王樹十二華騎士団であり、相談の結果として出てくる答えが「現地へ見に行け」になる。
「確認しますけど」
とおるは最後の望みにすがるように言った。
「俺たちは討伐を手伝うわけではないんですよね」
「主目的は状況確認だ」
リディアは答える。
「現地へ行き、アスカ・カグラードの状況を確認し、任務が継続可能か判断する。必要であれば帰還を促し、問題があれば報告する」
「聞くだけなら半日で終わりそうですね」
「距離としては十分可能だ」
「この世界へ来てから、『様子を見るだけ』『確認するだけ』『少し手伝うだけ』という言葉の後に、本当にそれだけで済んだ記憶がほとんどないんですけど」
「今回は任務だ」
「そこに保証要素あります?」
「ない」
「正直!」
リディアは悪びれずに続ける。
「同行者はミレイユ。お前たち二人で現地へ向かえ。状況によっては紅椿へ正式な増援要請を出す。アスカが独断で危険な行動を取っている場合、白華隊としても見過ごせない」
「二人だけですか」
「近隣の警備拠点に連絡は入れてある。完全な孤立任務ではない」
「その言い方、孤立寄りではあるんですね」
「壁山」
「はい」
「怖いなら怖いと言え」
「怖いです」
「よし。ならよく見ろ」
「怖いと言った結果、安心ではなく観察義務が増えました」
ゾロが小さく笑った。
「あなたにとっては、ちょうどいい訓練になるわ。アスカの戦い方は、壁を“置く場所”ではなく“使い道”で変える発想に近い。あなたが今やっている壁練とも相性がいいはずよ」
「任務状況の確認が、いつの間に俺の訓練へ接続されたのか問いただしたいんですけど」
「あなたのためよ」
「やっぱりその言葉で封殺される未来が見えていました」
「賢くなったわね」
「賢くなった結果、逃げられないんですが」
とおるは深く息を吐いた。
行きたくない。
本当に行きたくない。
旧街道の動く砦という名前の時点で行きたくないし、任務から帰ってこない紅椿の有望株という人物像もかなり怖い。しかも「殺さない方向で考える」と報告してくる時点で、たぶん現地では何かしら面倒な事情が発生している。もし魔物に子どもがいたとか、街道を塞ぐ理由があったとか、古代遺物が絡んでいるとか、関係者全員が「ただ討伐すれば済む話ではなかった」と顔を曇らせるような展開になった場合、とおるの精神はまた厄介な荷物を背負わされることになる。
とはいえ、拒否はできない。
正式な白華隊員。
新人。
協力員という言葉はすでに歴史の彼方。
巡回当番、制服申請、壁練、座学、そして現地確認任務。
社会は、とおるをしっかり捕まえている。
「……分かりました」
とおるは、半分ほど魂を机へ置き忘れた声で答えた。
「現地へ行って、アスカさんの様子を見て、必要なら帰ってくるよう促す。問題があれば報告する。戦闘はできるだけ避ける。これで合っていますか」
「基本方針はそれでいい」
リディアが頷く。
「ただし状況が急変した場合は、ミレイユの判断を優先しろ」
「はい」
「ミレイユ」
「はい」
ミレイユが姿勢を正す。
「壁山はまだ実戦任務の経験が浅い。判断に迷ったらお前が前へ出ろ。ただし、単独で突っ込みすぎるな。お前もまだ、守る側の視点を学んでいる最中だ」
「承知しました」
「ゾロ」
「なあに、隊長様」
「紅椿側へ、こちらが向かうことを正式に通しておけ。あと、アスカ・カグラードの詳細資料を提出しろ。隠すなよ」
「あら、信用がないわね」
「お前が“面白い子”と評した時点で信用は半分になっている」
「残り半分もあるのね」
「隊のために使え」
「はいはい」
ゾロは笑顔で頷いた。
絶対に何か隠している顔だった。
とおるの中で、アスカ・カグラードという名前の横に赤字で「要警戒」と記入される。さらに括弧書きで「ゾロ推薦」「問題児」「殺さない方向」「動く砦」「俺が巻き込まれる」と追記された。もう履歴書ならこの時点で不採用である。もっとも、今回は採用する側ではなく会いに行かされる側なので、選考権などどこにもない。
会議が終わると、ミレイユは立ち上がりながらとおるを見た。
「準備するぞ。軽装でいい。街道任務だから歩ける靴を選べ」
「半日程度ですよね」
「予定ではな」
「予定という言葉への信頼がどんどん落ちています」
「水と非常食も持て」
「半日程度ですよね?」
「予定ではな」
「同じ言葉が二回目から不穏になる現象、何なんですか」
ミレイユは少しだけ首を傾げた。
「不測の事態に備えるのは基本だ」
「備えすぎると、その不測の事態が来る前提に見えてくるんです」
「来た時に困るよりましだ」
「正論がリュックに石を詰めてくる」
「足も鍛えられる」
「また訓練に接続された」
とおるは椅子から立ち上がり、資料を抱えた。
紙面の上では、旧街道が王都の外へゆるやかに伸びている。その途中、赤い印がつけられた地点に小さくこう書かれていた。
《岩殻魔獣推定個体。通称、動く砦》
さらにその脇に、アスカからの最後の報告が転記されている。
《ちょっと事情変わった。殺さない方向で考える》
文字だけなのに、妙に本人の声が聞こえるようだった。まだ会ったこともないのに、すでに厄介な人の気配がする。
「……ところで」
とおるは資料を見つめたまま、ぽつりと尋ねた。
「アスカさんって、どういう人なんですか」
ゾロは、扉へ向かいかけていた足を止めた。
振り返る。
柔らかく笑う。
その笑顔を見た瞬間、とおるの胃がまた警戒態勢へ入った。
「そうねえ」
ゾロは楽しそうに目を細めた。
「ひと言で言えば、壁を嫌がる子かしら」
とおるは沈黙した。
壁を嫌がる子。
とおるは壁を出す男。
相性。
不安。
合同訓練。
動く砦。
殺さない方向。
全ての単語が頭の中で手をつなぎ、嫌な輪になって踊り始める。
「……俺が行く意味、あります?」
「あるわよ」
ゾロは即答した。
「壁を嫌がる相手を見るのは、壁を使う人間にとって、とても大事な勉強でしょう?」
リディアも静かに頷く。
「現地確認と訓練を兼ねる。無理はするな。危険と判断したら退け。報告を優先しろ」
そう言われると、少しだけ安心できる。
少しだけ。
たぶん、本当に少しだけ。
「分かりました」
とおるは肩を落としながら答えた。
「様子を見るだけ、ですよね」
誰も即答しなかった。
その沈黙が、今日いちばん重かった。
白華隊本部の窓の外では、王都アルヴェリオンの空へ世界樹の枝が広がり、午後の光を浴びた葉が穏やかに揺れている。街道へ出れば、その先には任務から帰らない紅椿の有望株と、殺さない方向で考える必要が出てきた動く砦が待っている。とおるは資料を握りしめ、心の中で存在しない人事課へ最後の抗議文を提出した。
件名、合同訓練と現地確認任務に関する異議申し立て。
本文、どう考えても半日で終わらない気がします。
送信先はない。
返信もない。
あるのは、午後の出発準備だけだった。




