第34話 勇者とか以前に公務員になった気分なんですけど
晴れて、正式な聖騎士の一員になった。
この一文だけを抜き出して眺めれば、人生における大成功、それも吟遊詩人が多少の脚色を加えたところで誰も文句を言わない程度には華々しい出世である。
辺境のクルム村で壁を生やしては雨漏りする屋根を支え、増水した水路を補強し、畑へ入り込んだ魔物を追い払うつもりが逆に追い回され、そのたび「次の人生があるなら事務職でお願いします」と空へ祈っていた元日本人が、王都アルヴェリオンまでやって来て由緒ある誓華円舞台で選抜試験を突破し、ついには王樹十二華騎士団第九華隊〈白華〉の正式な名簿へ自分の名前を刻むことになったのだから、事情を知らない第三者が聞けば田舎者が才能一つで成り上がる痛快な異世界立身出世譚としてなかなか見栄えのする経歴だった。
しかも支給品がすごい。
白銀の徽章。
白華隊の正規制服一式。
王都内でも効力を持つ正式な身分証。
勤務区分表。
服務規程。
備品申請書類。
巡回任務一覧。
その他、見ているだけで自由時間が削られていきそうな紙束が数点。
途中から若干祝福というより労働契約の締結に見えてくるものの、それでも物語を外側から眺める立場ならここは間違いなく盛り上がる場面だろう。
『辺境の壁使い、ついに聖騎士へ!』
そんな章題がついていてもおかしくない。
読者なら拍手する。
仲間なら祝う。
親しい者なら肩を叩く。
しかし当の壁山とおるだけは、白銀の徽章を手渡された瞬間から胸の奥に引っかかった一つの疑問を餅でもこねるように延々とひねくり回していた。
――協力員、どこ行った?
聞いてた話と違う。
少なくともとおるの記憶が正しければ、最初の肩書きは確かに「臨時協力員」だったはずなのである。
白華隊の指揮下には置かれる。
王樹中枢院による監視もある。
特殊能力の測定を受ける必要もあり、場合によっては報告書まで提出させられる。
そこだけ聞けば十分に面倒なのだが、それでも正式な騎士ではなくあくまで特例措置として一時的に隊へ協力する人物――そのほんのわずかな距離感こそが、とおるにとっては精神衛生を支える最後の柱だった。
正式ではない。
だから、いつか終わるかもしれない。
期間限定かもしれない。
状況が落ち着けばクルム村へ帰れるかもしれない。
少なくとも毎朝決まった時間に朝礼へ並び、勤務表を確認しながら巡回当番を割り振られ、制服の予備を申請することはもちろん、備品倉庫から縄一本借りるだけでも帳簿へ記名し、隊内規則を読んだ証拠として署名まで求められる側ではない。
そう思っていたが、…どうやら思っていただけだったようだ。
現実のとおるは現在、朝礼へ出る。
勤務表を見る。
巡回当番もある。
制服の予備申請について説明を受けた。
そして昨日、白華隊備品管理規則の冊子を手渡され、「紛失時の弁済規定まで目を通しておけ」と言われた。
逃げ道が、一つずつ丁寧に舗装されたうえで塞がれている。
いったいどの段階でこうなったのだろうととおるは何度か記憶をたどってみたが、臨時協力員だった自分と正式隊員になった自分との間に本人の納得を得るための重要な一工程だけが綺麗に抜け落ちており、まるで世界そのものが「細かいことはいいだろう」と勝手に処理を進めたようにしか思えなかった。
気づけば肩書きが変わり、徽章が増え、制服が与えられ、勤務義務まで発生している。
肝心の「協力員」という単語だけは昨日まで確かに存在していた友人が突然戸籍ごと消えたかのように、どこを探しても見当たらない。
今となってはその肩書きだけが世界の因果から器用に切り離され、途中に誰かが見えない境界線でも引いたのではないかと思うほど概念ごと粉微塵に消滅していた。
正式加入は任意だったのではないか。
本人の意思確認はどこへ行ったのか。
合格発表の後、リディアが静かに「白華隊で預かる」と言い、マルクが書類を出し、セレナが記録を取り、エルネが「測定予定も組みやすくなりますね」と嬉しそうに呟き、ミレイユが「逃げるな」と目で言ってくる。ゾロが遠くから笑っていた時点で、たぶんもう退路は白華隊の美しい紋章ごと封鎖されていたのだろう。頼まれごとを断るのが昔から極端に下手なとおるにとって、「加入を拒否します」と明確に宣言するハードルは、星骸巨躯を一人で背負って王都まで運ぶくらい高かった。人に意見を言えないし、断れない。場の空気に流される。前世でも「今日少し残れる?」と聞かれて「ちょっと用事が」と言えず、予定もないのに心だけ残業していた人間である。そんな性質の男が王国最高峰の騎士団に囲まれ、隊長格から真剣な目で見られ、「君には必要な力がある」みたいなことを言われてどうして断れるというのか。
結果、とおるは白華隊本部の食堂兼大広間で開かれた新入歓迎会に参加していた。
しかも主賓側として。
——主賓。
この二文字には、本来もう少し華やかで堂々とした人物が似合うのではないかととおるは思う。
たとえば中央の席で豪快に笑い、仲間から杯を向けられれば快く応じ、「これからよろしく頼む!」と力強く宣言できるような人物であって、少なくとも壁際に近い席で肩を小さくし、皿に載った芋を必要以上に細かく切り分けながら、「これは勤務扱いなのか、それとも私的な懇親会なのか、仮に勤務なら拘束時間に含まれるのか、そもそもこの世界に時間外手当という概念は存在するのか」と、誰にも通じない労務管理上の疑問へ真剣に思いを馳せている男へ与える称号ではない。
広間そのものは、歓迎の場として文句のつけようがなかった。
白華隊の騎士たちがずらりと集い、長卓には香ばしく焼かれた肉料理、香草を利かせた魚料理、根菜を柔らかく煮込んだ鍋、焼きたてのパン、白樹蜜をたっぷり使った菓子、香草酒に果実水まで並び、普段なら食事にそれほど執着しないとおるでさえひと口食べれば素直に美味しいと思えるものばかりである。
料理は本当に美味しい。
けれど舌が幸福を感じることと、自分が着々と組織の歯車へ加工されている現実を受け入れることはまったく別の話だった。
「壁山、もっと食べろ。新人は体力をつけないとな」
「あ、はい、ありがとうございます」
「明日から朝の鍛錬にも顔を出せよ。最初は軽めでいいからな」
「軽め、の定義について事前協議の余地はありますか」
「制服の予備は申請しておけ。白華の制服は汚れが目立つからな」
「白い職場って、精神的にも物理的にもプレッシャーが強いですね」
「巡回当番の希望日はあるか? 夜番が苦手なら最初は昼へ回してやるぞ」
「希望日……希望日というか、勤務体系そのものへの確認がまだ……」
善意が飛んでくる。
四方八方から実に温かく、実に親切で実に逃げ場のない善意が飛来してくる。
敵意なら、まだ対処できる。
拳が飛んできた、鎖が迫ってきた、魔力弾が撃ち込まれた――そういう分かりやすい危険であればとおるの頭は迷わないし、身体も勝手に動くし、最悪の場合でも〈壁〉を出してしまえば「はい、ここから先は通行止めです」で話が終わる。
ところが、善意となると途端に難しくなる。
「新人だから分からないことがあったら聞いてね」と笑いかけてくる先輩。
「ちゃんと食べないと午後もたないよ」と料理を勧めてくる同僚。
「明日は朝から巡回だから、鐘が鳴る前に集合ね」と予定を教えてくれる親切な隊員。
「この書類はここ、こっちは署名だけで大丈夫」と手続きを助けてくれる事務担当。
全部ありがたい。
全部正しい。
そして、全部防げない。
そこで〈壁〉を出した瞬間、悪いのは百パーセントこちらである。
もし相手から真顔で「……なんで壁を出したの?」と聞かれたなら、とおるには返す言葉がない。
「親切が怖くて」
などと答えた日には、今度は精神面を心配される可能性すらある。
攻撃を防ぐ壁。
魔力を遮る壁。
落下物を受け止める壁。
水路を塞ぐ壁。
家屋の補強にも使える壁。
便利である。
実に便利なのだが、人間関係から自分を保護する用途についてだけはどうやら発動条件が実装されていないらしい。
能力者として、かなり致命的な弱点だった。
とおるは愛想笑いを浮かべ、周囲から見れば「新しい職場に少し緊張している青年」程度に収まりそうな表情を保ちながら、心の中では存在しない人事担当者へ延々と異議申し立てを続けていた。
待ってください。
本当に待ってください。
俺、いつ雇用契約へ署名しました?
勤務地はどこですか。
勤務時間は何時から何時までですか。
休憩は。
休日は。
職務内容は。
危険手当は。
そもそも退職するときは誰へ言えばいいんですか。
というかこの職場、日常業務の中に普通に魔物討伐が含まれていますけど、労災の概念はありますか。
白華隊の隊員証はたしかに受け取りました。
でも、これは身分証ですよね。
表面に紋章が入っていて立派だからといって、裏面に極小文字で「本証の受領をもって終身勤務に同意したものとみなす」などと書かれてはいませんよね。
確認したい。
非常に確認したい。
しかし当然ながら異世界に労働基準監督署は存在しない。
匿名相談窓口もない。
転職サイトもない。
職場口コミもない。
検索欄へ「白華隊 退職 方法」と打ち込む手段すらない。
頼みの〈壁〉にしても剣や炎からは守ってくれるくせに、組織の一員として発生した公的責任や妙に温かい職場の人間関係から使用者本人を隔離してくれるほど万能ではなかった。
世の中、物理防御だけ高くてもどうにもならない場面がある。
「壁山さんですよね!?」
甲高い声が、広間を一直線に飛んできた。
とおるはちょうど芋を口へ運ぼうとしていた手を途中で止め、その姿勢のまま声のした方を見る。
広間の端から白華隊の制服を着た若い女性騎士が三人、小走りでこちらへ近づいてきていた。
年齢はおそらく、とおると同じくらいか、少し下。
一人は短い栗色の髪。
一人は肩まで伸びた明るい金髪。
もう一人は黒髪を後ろでまとめている。
髪型も背丈も雰囲気もばらばらなのに、なぜか目だけは完全に一致していた。
輝いている。
ものすごく輝いている。
それは日常の中へ突然現れた珍しいものを発見し、「本当にあるんだ」「近くで見たい」「できれば触って確かめたい」という好奇心が一斉に点火した人間特有の目だった。
とおるは、その視線を知っている。
クルム村の子どもたちが、彼の〈壁〉で作った透明な滑り台を初めて見たときも、だいたいこんな顔をしていた。
ただしあのときは滑り台を作った側だった。
今回は自分が滑り台側である。
「試験、見てました!」
「ユリシス相手に最後まで立ってた人ですよね!?」
「あの、握手してもらってもいいですか!?」
三方向から、ほぼ同時に言葉が飛んできた。
情報量が多い。
多すぎる。
とおるの意識は一瞬だけ現実から離れ、脳内に設置された小さな会議室へ避難した。
長机を囲んで座っているのは当然、全員とおるである。
冷静なとおる。
逃げたいとおる。
とりあえず芋を食べたいとおる。
こういう場面では普通に受け答えしたほうがいいと主張するとおる。
何か失言する前に〈壁〉の裏へ隠れろと叫ぶとおる。
議題は一つ。
――この状況、どう処理する?
なお、会議開始から三秒経過した時点で、有効な解決策はまだ一つも提出されていなかった。
『来客です!』
『ファンらしき存在です!』
『対応マニュアルがありません!』
『握手とは何秒が適切ですか!』
『紙とペンが出ています! これは何ですか!』
『サインでは?』
『俺に!?』
その通りだった。
一人は両手を胸元で握り、なぜかとおるへ握手を求めている。もう一人は本当に紙とペンを差し出していた。どこから調達したのか、白華隊の書類に使う上質な紙である。残る一人は少し離れた位置から、とおるをじっと観察していた。
「本物だ……思ってたより普通……」
「感想が生物調査なんですよ」
「あっ、すみません! いい意味で!」
「いい意味で普通と言われた場合、受け取り方が難しいですね」
「普段は控えめで、戦う時だけすごいって聞いていたので」
「戦っている時も内心ではかなり帰りたがっています」
「そこがいいんです!」
「そこが?」
三人は顔を見合わせ、なぜか力強く頷いた。
どうやら彼女たちは、とおるにまつわる噂や聖騎士試験の戦いを見て結成された、本人非公認の応援集団――控えめに言えばファンクラブの一員らしい。とおるはファンクラブという言葉を聞いた時点で意識が遠くなりかけた。ファンとは何か。クラブとは何か。入会申込書はどこにあるのか。退会はできるのか。そもそも本人確認はしたのか。肖像権という概念は異世界に存在するのか。疑問は尽きない。
「試験の最後、すごかったです。あの金色の鎖を全部ずらして、盾でユリシスさんの防護術式を割ったところ!」
「できれば痛みごと記憶から削除したい場面ですね」
「あと、『契約した覚えはありません』って返したところも格好よかったです!」
「格好よかったんですか、あれ」
「はい! 相手の能力を見抜いている感じがして!」
「実際は半分くらい分かっていませんでした」
「そこもいいです!」
「何でもいい方向に解釈されていませんか?」
紙とペンを持った女性騎士が、ずいっと身を乗り出す。
「あの、署名を……」
「署名」
「記念に」
「書類ではなく?」
「はい!」
「何かの申請ではなく?」
「はい!」
「後から『加入に同意した』みたいな効力が発生しませんか?」
「しません!」
「最近、契約という言葉に敏感でして」
とおるは恐る恐る紙を受け取り、壁山とおる、と小さく書いた。名前の横に何を書けばいいか分からず、迷った末に「よろしくお願いします」と添えた。あまりにも普通。普通すぎる。サインというより宅配便の受け取りである。女性騎士はそれでも宝物のように紙を抱えた。
「ありがとうございます!」
「あ、いえ……こちらこそ……?」
「普段は頼りなさそうなのに、いざという時は守ってくれる感じがいいんです」
「頼りなさそうの部分だけ、後で議事録から削除できますか」
「守られたいというより、一緒に守ってあげたくなるところも」
「後半、騎士としての評価がかなり危うくないですか」
「壁に寄りかかって疲れていた姿も素敵でした」
「あれは素敵ではなく、体力の残量がゼロだっただけです」
三人の目は輝いている。
とおるとしては異議申し立てを行いたい部分が山ほどあった。「守られたいというより守ってあげたい」と言われている聖騎士は職務的に大丈夫なのか。試合後に壁へ寄りかかっていた姿まで観察されているのは、もはや業務外の監視ではないのか。そもそもファンクラブとは本人の承認なく成立するものなのか。けれど好意に満ちた目の前の三人を前にして、「そういうのやめてもらえますか」の一言がどうしても喉から出てこない。
「あ、ありがとうございます……?」
最悪に曖昧な返答だった。
肯定とも否定とも取れる。場合によってはファンクラブを公認したようにも聞こえる。発言直後、とおるは自分の脳内で小さな自分たちが一斉に頭を抱えるのを感じた。
『今のは危険です!』
『公認扱いされる可能性があります!』
『撤回を!』
『無理です! 相手が喜んでいます!』
『もう遅い!』
実際、三人はとても嬉しそうだった。
「公認いただきました!」
「してません!」
「今、ありがとうございますって!」
「礼儀として!」
「会員のみんなに伝えます!」
「会員が複数いるんですか!?」
そこで、とおるの頭頂部へ鈍い衝撃が落ちた。
拳骨だった。
「いたっ」
「何を鼻の下を伸ばしている」
冷えた声。
振り返るまでもない。
ミレイユ・アスターである。
白華の制服姿の彼女は、歓迎会の喧騒の中でも背筋をぴんと伸ばし、片手に小皿を持ったままとおるを見下ろしていた。先ほどまで女性騎士たちに囲まれてあたふたしていた彼を、戦場で敵の隙を見つける時と同じ冷静さで観察している。……怖い。戦闘中ではないのに目が戦闘用である。
「伸ばしてません。鼻の下を伸ばす余裕がある人間は、もう少し自信のある顔をしています」
「歓迎会で隅に縮こまって何をしている」
「新人らしく周囲に怯えています」
「新人らしく挨拶回りに行く」
「新人らしさの定義が積極的すぎません?」
「立て」
「できればここで芋を」
「立て」
耳を引っ張られた。
「痛い痛い痛い、耳は契約対象外です!」
「意味の分からないことを言うな」
三人の女性騎士は、ミレイユを見るなり姿勢を正した。
「アスター先輩、お疲れ様です!」
「壁山さんをお借りしていました!」
「本物でした!」
「珍獣扱いをやめてください」
ミレイユは三人へ短く頷き、それからとおるの耳を確保したまま言う。
「壁山はまだ挨拶回りの途中だ。あとで話せ」
「はい!」
「後で続くんですか」
「当然だ。隊員としての交流も仕事のうちだ」
「公務員になった気分なんですけど」
「聖騎士は王国の公務を担う」
「正論で逃げ場を塞がないでください」
毎度毎度思うのだが、ミレイユはとおるより五歳も年下である。前世の感覚で言えば、高校へ入ったばかりくらいの少女と言ってもおかしくない年齢差だった。こちらは二十歳を越えている。社会経験はないに等しいとはいえ、年齢だけなら明らかにとおるのほうが上である。にもかかわらず、今の関係性を客観的に眺めれば耳を引っ張っているほうが上司で、引っ張られているほうが新人で、年齢という概念は人間関係において非常に頼りにならない指標だと痛感させられる。
拳骨されることも耳を引っ張られることも、すっかり板についてしまった。
壁だけに。
……いや、今のはない。
自分で思っておきながら、とおるは心の中で即座に却下した。始まってまだ間もないというのに、もうくたくたに疲れてしまっている。歓迎会の情報量で脳そのものが弱っている。こういう時にくだらない駄洒落が出るというのが、すでに危険信号である。
「何をぼんやりしている」
「いえ、人生について」
「後にしろ」
「人生を後に回す職場、怖いですね」
ミレイユに半ば引きずられるようにして、とおるは歓迎会の会場を回ることになった。
白華隊の先輩たちは思っていた以上に人数が多い。王都本部に常駐している者だけでもそれなりで、巡回や護衛、訓練、記録、治癒支援、魔術解析、補給担当など、役割ごとに細かく分かれている。とおるは今まで白華隊と言えばリディア、マルク、エルネ、セレナ、クラリッサ、ミレイユ、ゾロあたりを中心に認識していたため、歓迎会でいきなり「第三防衛班のガイゼルだ」「第二区巡回のリナだ」「補給管理のオルミナだ」「新人教育補佐のデイルだ」と名前が飛んでくる状況に、脳内名簿係が悲鳴を上げていた。
「新人の壁山です、よろしくお願いします」
これで済むと思っていた。
甘かった。
「例の壁の新人か」
「あ、はい、例のどの件かによりますけど」
「試験見てたぞ。ユリシス相手によくやったな」
「生き残れたのは防護術式と運と怖さのおかげです」
「今度うちの班の訓練にも顔出せ」
「顔だけなら……」
「酒は飲めるのか?」
「強くはないです。飲むと壁の角度が不安になるので」
「好きな食べ物は?」
「芋です」
「恋人はいるのか?」
「業務上、必要な情報ですか?」
「新人の人柄を知るためだ」
「人柄より先にプライバシーが死んでいます」
行く先々で質問が飛んでくる。
名前、出身、好きな食べ物、得意な魔物、苦手な訓練、ユリシス戦の感想、リディアとの壁事件の真相、クルム村での暮らし、部屋の使い心地、酒量、睡眠時間、恋人の有無、将来の目標。とおるにとって歓迎会というより新入社員が各部署へ菓子折りなしで放り込まれ、面識のない先輩たちから「じゃあ一言」と順番に振られている状況だった。自己紹介とはこんなに何度も繰り返すものだっただろうか。自分の名前を言いすぎて、途中から本当に壁山とおるで合っているのか不安になってくる。
「声が小さい」
隣からミレイユの指導が入る。
「これ以上大きくすると、魂が削れます」
「姿勢」
「耳を引っ張られながらの姿勢維持は難易度が高いです」
「名前を聞いたら覚えろ」
「今、脳内の名簿係が過労死寸前です」
「それ二杯目でしょ」
「果実水です」
「甘いものも取りすぎると動きが鈍る」
「歓迎会で栄養管理が入るとは思いませんでした」
彼女の分類は、とおるの中で着実に更新されていた。
五歳年下の少女。
白華隊の天才剣士。
リディア崇拝者。
訓練相手。
教育係。
生活指導担当。
怖い先輩。
たまに拳が飛んでくる上司らしき何か。
年齢という概念は本当に頼りにならない。
「壁山」
「はい」
「隊員の顔と名前を覚えることは大切だ。戦場では、誰がどこにいるか、誰が何を得意とし、誰が負傷しているかを即座に把握しなければならない」
急に真面目な声になった。
とおるは耳を押さえながらも、少しだけ背筋を伸ばす。
「……はい」
「白華は単独で武名を立てる隊ではない。民を守るために連携し、背後へ危険を通さないために互いを知る。歓迎会も、ただ食べて騒ぐためだけの場ではない」
「なるほど」
「分かったか」
「つまり、飲み会に業務目的が付与されている」
「言い方」
「すみません、現代日本の魂が」
ミレイユはため息をついた。
「お前は本当に、時々よく分からない方向へ理解するな」
「俺も自分を制御できていません」
「それは壁だけにしろ」
「ミレイユさんが言うんですか、それ」
「……今のは忘れろ」
「はい」
どうやら彼女も疲れているらしい。
そう思うと、少しだけ親近感が湧いた。
広間の中央では、バスティアンがなぜか白華隊の大柄な先輩たちと腕相撲を始め、周囲から歓声を浴びていた。アルセントは貴族出身の騎士たちと自然に会話し、風のように輪の中心へ立っている。カナデはセレナや治癒担当者に囲まれ、静水輪唱の支援効果について質問攻めにされていた。ネロは黒蓮関係者らしき人物と壁際で小声の会話を交わしており、あそこだけ歓迎会というより密談現場である。
そしてとおるは半ば案内役、半ば監視役、たぶん残り半分くらいは「放っておくとどこかへ逃げる新人を確保しておく係」と化したミレイユに連行されながら、すれ違う先輩騎士へ頭を下げ、名前を聞かれて名乗り返し、食堂では妙に親切な人物からおすすめ料理を教えられ、別の者には明朝の訓練へ誘われ、さらに試験はどうだったと感想まで求められ、その合間には例のファンクラブらしき三人組から「本物だ……」と言わんばかりの熱い視線を何度も浴びせられつつ、心の中でただ一つの言葉を繰り返していた。
勇者とか英雄とか以前に、これ、公務員になった気分なんですけど。
もちろん、とおるにも分かっている。
この世界には英雄譚にふさわしい問題が、掃いて捨てるほど転がっている。
世界の境界。
星の塔。
星骸巨躯。
黒いフードをまとった正体不明の構成体。
古代の神々。
さらに自分が何気なく生やしてきた〈壁〉が、どうも石や土を固める便利技の範疇を踏み越え、最近では世界の因果そのものへ指を突っ込み始めているらしいという、できれば聞かなかったことにしたい話まである。
リディアが眉間へ皺を寄せ、ゾロが珍しく笑わずに二人して何か難しい言葉を交わしていた光景も覚えているため、おそらく今後は王宮魔導院だの封境管理局だの王樹中枢院だの、名前を聞くだけで書類の束を持って現れそうな組織から順番待ちでもしていたかのように新たな面倒が降ってくるのだろう。
……うん。
嫌な予感しかしない。
むしろ、良い予感が入り込む余地が見当たらない。
ただし、そんな世界の命運を左右しそうな重大案件がいくつ積み上がっていようとも、今この瞬間とおるの目の前へ差し出されている現実は、神々の真意でも境界崩壊の兆候でもなく、「来月の巡回当番、希望日があれば第三希望まで記入してください」と書かれた勤務調整票だった。
古代遺跡の封印を解く鍵でもなければ、星の塔へ至るための地図でもない。
制服の予備申請書である。
しかも注意書きには、破損理由を簡潔に記入すること、とまである。
世界を救う勇者が手にするものといえば、普通は聖剣か、神器か、せめて謎めいた古代の護符あたりを想像するものだが、晴れて白華隊の一員となったとおるへ最初に与えられた重要任務は、新人として顔と名前を覚えてもらい、歓迎会では誰の隣へ座るべきか空気を読み、翌朝の集合時間を間違えず、支給された制服を汚した場合には所定の手続きを踏むことだった。
英雄への道というものは、もっとこう雷鳴とか予言とか、天啓とか、そういう派手なものから始まると思っていた。
現実は違った。
まず名札。
次に勤務表。
その次が予備制服。
世界を救う前に、社会人としてちゃんとしろということらしい。
「壁山、次は副長へ挨拶だ」
「マルクさんですか」
「そうだ。失礼のないように」
「マルクさん、俺の顔を見るたびに壁事件を思い出して青ざめるんですけど」
「お前が悪い」
「事故です」
「事故でも記憶は残る」
「つらい」
ミレイユが少しだけ口元を緩めた。
「安心しろ。明日からはもっと忙しくなる」
「全然安心できません」
「新人だからな」
「新人という言葉、便利すぎませんか」
「便利な言葉は使うべきだ」
「ミレイユさん、たまに妙に現実的ですよね」
広間の奥へ目をやると、見慣れた灰色の髪が人混みの向こうに浮かんでいた。
マルクだ。
皺ひとつ許さないよう整えられた制服、姿勢だけ見れば隙のない副官然とした佇まい、それなのに背中からは「今日も予定外の仕事が増えました」と無言で訴える気配が漂っており、もし苦労性という概念が人の姿を得て騎士団へ就職したなら、たぶんああなる。
こちらに気づいたマルクは、書類らしき束を片手にしたまま軽く手を上げた。
とおるも反射的に会釈を返したものの、近づくにつれて目元に刻まれた疲労の色がはっきり見えてきて、胸の内にじわりと罪悪感が広がる。
おそらく通常業務だけでも忙しいところへ、自分という出自不明、能力特殊、立場特殊、経歴もややこしい新人を正式隊員として登録するため、あちらこちらへ申請を飛ばしながら確認を取り、訂正印を押し、さらに誰かの記入漏れまで回収する羽目になったのだろう。
心から申し訳ない。
できることなら菓子折りでも渡したいが、異世界の職場で副官へ菓子折りを渡す文化が存在するのかは分からないし、下手をすると贈賄扱いされそうなのでやめておく。
とおるは、その場で一度だけ深呼吸した。
吸って。
吐く。
カナデに教わった通り、無理に肩へ力を入れず、呼吸の流れだけを意識する。
加えて、ミレイユに耳を引っ張られない程度の距離を確保することも忘れない。
過去の経験から導き出された、極めて実践的な安全対策だった。
周囲を確認する。
丸盾はない。
鎖もない。
巨大な魔物もいない。
血の匂いもしなければ、誰かが剣を抜く気配もない。
条件だけ並べればこれまで遭遇してきた危険地帯と比べて格段に平和なはずなのだが、それでも新人歓迎会というものは、剣も牙も使わない別種の強敵としてとおるの精神力をじわじわ削っていた。
「新人の壁山です。よろしくお願いします」
本日何度目になるのか、もう数えることすら諦めた挨拶を口にしながら、とおるは曖昧な笑みを浮かべる。
これが新生活というものなのだろうか。
前世でぼんやり思い描いていた社会人生活とは、かなり違う。
まず制服が、ほぼ鎧である。
職場は石造りの巨大な騎士団本部。
上司は世界樹の麓で剣を振り、同僚の一人は魔力から火蝶を孵し、別の一人は人間の因果を量り、日々の業務予定表には巡回、訓練、警備に混じって魔物討伐や古代遺跡への対応まで平然と書き込まれている。
前世で会社説明会へ行ったとしても、さすがに「主な業務内容:異形生物の排除および古代文明由来の危険事象への対処」とは書かれていなかったはずだ。
しかしそんな派手な違いが山ほどある一方で、新人が歓迎会の席を順番に回り、先輩たちの顔と名前を必死に一致させ、明日からの勤務時間を告げられ、よく分からない内輪話に笑うべきか迷いながらとりあえず口角だけ上げておくという部分に限っては、妙なほど前世とつながっていた。
異世界転移。
魔法。
世界樹。
聖騎士。
そこまで環境が変わってなお、職場の人間関係だけは律儀についてくる。
とおるは、その事実に軽い絶望を覚えた。
どうやら異世界へ来ても、社会からは逃げられないらしい。
魔物なら壁を出せばいい。
巨大な敵なら、とりあえず距離を取れる。
古代遺跡が危なければ、近づかなければ済むかもしれない。
しかし「今度からよろしくな」と笑顔で肩を叩いてくる先輩に対して、防壁を展開するわけにはいかない。
社会性には物理防御が通じない。
それが、星骸巨躯よりほんの少しだけ怖かった。
とおるは誰にも聞こえないよう、心の中で小さく呟いた。
帰って寝たい。
そう考えたところでつい昨日も似たようなことを思った気がして、わずかに遠い目になる。
たぶん明日も言う。
明後日も言うかもしれない。
そして気づけば一ヶ月くらい経っているのだろう。
そんな予感だけは、なぜか妙に確信があった。
こうして壁山とおるの白華隊新人生活は、本人が心の準備を整えるのを待つことも、今後の抱負を確認することもなく、「では明日から通常勤務で」という極めて事務的な勢いのまましれっと始まってしまった。




