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第33話 またやろうぜ



 目に見える壁は、現れなかった。


 いつものように空間へ割り込む透明な板も、衝撃を受け止める硬質な光も、観客の目に分かるような防御の輪郭も、そこには何ひとつ生まれない。


 音も、ほとんどなかった。


 ただ――とおるの右腕へ絡みつこうとした金色の鎖、その一節に浮かび上がりかけていた古い文字列がまるで濡れた紙へ滲んだインクのように途中でかすかに乱れた。


「……っ?」


 ユリシスの眉がほんのわずかに動いた。


 鎖は、確かにとおるの右腕へ触れている。


 冷たい金属の輪は皮膚へ食い込み、接触という条件は疑いようもなく成立している。普通ならその瞬間に右腕と黄金の秤とのあいだに不可視の接続が確立し、〈壁〉の生成に関わる動作、魔力回路、意思の流れ、筋肉の収縮、反射的な防御判断、そのすべてのうち必要な部分が拾い上げられ、『重価』として秤の皿へ載せられるはずだった。


 けれど、秤が揺れた。


 対象には触れている。


 触れているのに、量るべき重さが定まらない。


 鎖はとおるを捕まえているはずなのに、その鎖から秤へ送られるはずの因果だけが途中で薄い霧に紛れ込んだように形を失っている。


 鎖と秤をつなぐ術式回路の途中へ、紙一枚にも満たないほど薄い仕切りが入っていた。


 完全な遮断ではない。


 とおるの〈境界〉はまだ不安定で、狙った線を鮮やかに断ち切ったというより走り続ける水脈の中へ透明な砂を混ぜ込み、その流れを一瞬だけ濁らせた程度に近かった。


 それでも、それは十分だった。


 ユリシスが当然のように世界へ通していた因果の経路へ、今まで誰にも触れられなかった裁定の流れへ、初めて異物が差し込まれたのだ。


 鎖の金色が、ちらつく。


 刻まれた文字が、明滅する。


 ユリシスの踏み込みが、半拍だけ鈍る。


 そしてとおるの右腕は――沈まなかった。


 いや、少しは重い。


 完全には防げていない。


 鎖が触れている場所には鉛の指で押さえ込まれたような圧があり、皮膚の下の筋肉がじわりと軋みながら骨の内側まで鈍い重みが染み込んでくる。


 けれど先ほどまでのように、自分の意思そのものへ砂袋を吊るされる感覚ではなかった。


 腕を上げようとする命令。


 壁を出そうとする判断。


 攻撃を防がなければならないという反射。


 そのすべてがまとめて秤に飲み込まれ、行動全体が泥の底へ引きずり込まれるようなあの絶望的な重さではない。


 今あるのは、ただ接触した部位にかかる圧だけ。


 〈壁〉を出すという選択そのものは、まだとおるの中に残っている。


「何だ、今の」


 ユリシスの声が低くなった。


 それは怒声ではなかった。


 驚きでも、嘲笑でもない。


 獲物だと思っていた相手が牙の届かない場所へ一歩だけ踏み込んだことを理解した者の、冷えた警戒の声だった。


「俺にも説明書がありません」


 荒い呼吸の合間に、とおるはかろうじて答えた。


「ふざけんなよ」


「本当にないんです。むしろ欲しいです。索引つきで。できれば初心者向けの図解入りで」


 ユリシスは、笑わなかった。


 いつもなら皮肉の一つでも返し、鎖を鳴らして余裕を見せていたはずの男が、今はただとおるの右腕と、揺れ続ける黄金の秤と、そのあいだにあるはずの見えない亀裂をじっと見ている。


 初めて、明確に警戒していた。


 舞台上の空気が変わる。


 白石の床を撫でていた風が重くなり、観客席を満たしていたざわめきも一段低く沈んでいた。誰もが何かを見落としたまま、それでも決定的な何かが起きたことだけを肌で理解していた。


 押し込まれていた壁山とおるが、何かをした。


 多くの者に分かったのは、それだけだった。


 壁を出したわけではない。


 鎖を断ち切ったわけでもない。


 爆発も、衝撃も、閃光もない。


 けれどユリシスの鎖が乱れ、黄金の秤が迷い、あれほど一方的だった裁定の流れが確かに一瞬だけ途切れた。


「始めたわね」


 ゾロが小さく呟く。


「あれが制御できていると思うか?」


「できてはいないでしょうね」


 ゾロは笑みを消さないまま、しかし目だけは鋭く細めて答えた。


「だから危ないし、だから伸びる」


 リディアは、何も言わなかった。


 ただ舞台の上で息を荒くしているとおるを見つめ、その右腕に絡んだ鎖とまだ揺れ続けている黄金の秤を瞬きもせずに追っている。


 舞台では、とおるが肩で息をしていた。


 額から汗が落ち、顎を伝い、白石の床へ小さな染みを作る。


 ユリシスは鎖を引き戻し、ジャラリ、と低い音を立てながら右手へ巻きつけ直した。


 その仕草は静かだった。


 だが、先ほどまでの余裕はない。


 金色の秤は、頭上でまだ小さく揺れている。


 まるで世界そのものが今起きた異常をどう裁くべきか、まだ決めかねているかのように。


「オイラの鎖に触ったな」


 ユリシスの声は低く、さっきまでの軽薄な調子を残していながら、その奥にざらついた警戒が混じっていた。


「触ったというか、間に入ったというか」


 とおるは右腕に残る金属の冷たさを振り払うように指を動かしながらできるだけ平静を装って答えたが、実際には自分の言葉が自分でも正確なのかどうか、まだ半分も分かっていなかった。


「鎖を切ったわけじゃねえ」


「はい」


「秤を壊したわけでもねえ」


「壊したら失格になりそうですし」


「じゃあ、何をした」


 問い詰めるように言われ、とおるはほんの少しだけ黙った。


 確信はない。


 理屈は、まだ後から追いついてきている途中だ。


 ただ、先ほど視界いっぱいに浮かび上がった無数の白い線と、そのうち鎖と秤を結んでいた一本へ、紙一枚より薄い〈境界〉を差し込んだときの指先ではなく意識の奥に残る奇妙な手応えだけが今もまだ生々しく残っている。


「繋がりを、ちょっと邪魔しました」


「は?」


「契約した覚えがなかったので」


 ユリシスの顔にほんの一瞬だけ、まったく理解できないものを目の前に置かれた人間の表情が浮かんだ。


 とおるは、内心で少しだけ勝った気分になった。


 力でも速度でも技量でも現時点で自分がユリシスを上回っているとは思えないが、会話の意味不明さで相手を困惑させることならどうやら自分にもできるらしい。


 それが戦術として正しいかどうかは、知らない。


「アンタ、マジで変な壁使うな」


「俺も最近そう思います」


「今さらかよ」


「自己理解には時間がかかるんです」


 ユリシスが、手に巻きつけていた鎖を床へ落とした。


 じゃらり、と金属音が響く。


 それは今までの軽く空気を撫でるような音ではなかった。


 白石の床に金が触れた瞬間、闘技場の腹の底まで震わせるような鈍い響きが広がり、鎖の一節一節がまるで鉛を流し込まれたように沈み込み、床面には細い亀裂が蜘蛛の巣のように走った。


 ユリシスは、蓄積していた重価を鎖へ移している。


 壁生成。


 盾防御。


 後退。


 さっきまでとおるが選ばされ、測られ、押し潰されかけた行動の記録をいくつかまとめ、その一部を分銅のように鎖へ落とし込んでいるのだ。


 白石が、低く沈む。


 今度は、選択を量って結果へ負荷をかけるだけではない。


 鎖そのものに重みを与え、因果の経路を妨害される前に物理的な圧力でまとめて縛り潰すつもりなのだ。


「なら、境界ごと押し潰してやる」


「物騒なことを言わないでください」


「選べよ。避けるか、受けるか、壁を出すか」


「またそれですか」


「どれでもいいぜ」


 ユリシスの頭上で、黄金の秤の冠がぎらりと輝いた。


 〈軽路〉が広がる。


 避ける選択。


 受ける選択。


 壁を出す選択。


 それぞれがとおるの前へ見えない札のように差し出され、どれも一見すれば正しく、どれも次の瞬間には罠へ変わりそうな危うさを孕んでいる。


 逃げても鎖が来る。


 受けても重い。


 壁を出しても測られる。


 それはユリシスが何度も押しつけてきた三択であり、どの道を選んでも最後には秤の上へ引きずり出される“金色の迷路”だった。


 とおるは、白い線を見た。


 避けるという意思と、足が動く結果。


 受けるという判断と、盾が上がる結果。


 壁を出すという命令と、空間へ防御面が現れる結果。


 全部、つながっている。


 どれを選んでも選択から行動へ線が伸び、行動から結果へ線が伸び、その線をユリシスの鎖が拾い上げ、秤が意味を与え、世界が『重い』という判定を押し返してくる。


 なら、その線を断つだけでは足りない。


 曲げる。


 ずらす。


 同じ選択から、違う結果へ流し込む。


 とおるは下がった。


 しかし、逃げるためではない。


 距離を取ったのは、決して攻撃を“避ける”ためだけではない。


 ユリシスが鎖を振るう。


 重価を喰った金色の鎖は先ほどまでの軽い牽制とはまるで別物で、床に触れるたび白石を削り、砕けた欠片を左右へ跳ね飛ばしながらとおるの足元へ一直線に迫ってくる。


 とおるは後ろへ下がった。


 それは、ユリシスの秤が何度も測ってきた動きだった。


 危険から逃げるための後退。


 守勢に回った者が選びやすい、読みやすく、裁きやすい一歩。


 冠命や重科の対象になりやすい、あまりにも分かりやすい行動。


 ユリシスの秤が、その意味を捉えようとする。


 逃走。


 回避。


 後退。


 その札がとおるの足元へ貼りつく寸前、とおるは同時に、床へ触れようとしていた自分の踵の下へ小さな〈壁〉を置いた。


 防御ではない。


 ——足場。


 後退する足が白石へ着地する、そのほんの直前に靴底と床のあいだに薄い壁を滑り込ませ、さらにその面を目に見えないほどわずかに斜めへ傾ける。


 次の瞬間、とおるの体重を受けた靴底がその透明な傾斜の上を滑った。


 後ろへ逃げるはずだった重心が、斜め横へ流れる。


 下がる動きが、横移動へ変わる。


 逃走として秤へ載りかけていた一歩が、足場を利用した方向転換へと意味を変える。


 同じ一歩。


 同じ動作。


 けれど、違う結果。


 ユリシスの鎖が、轟音とともに空を切った。


 金色の軌跡が、とおるの残像を容赦なく叩き潰した。


 重価を喰らった鎖はもはや細い金属の連なりなどではなく、地面へ落ちた竜の尾のような質量を伴って白石の床を深々と抉り、砕けた石片を左右へ爆ぜ散らしながら、ほんの一瞬前までとおるの右足があった場所を轟音とともに走り抜けていく。


 そこに〈右足〉はなかった。


 とおるの身体は半身分だけ横へずれ、肩口をかすめた鎖の風圧だけが外套と制服の袖を激しくはためかせている。遅れて頬に走った鋭い痛みが、今の一撃がほんの数センチ違えば骨ごと持っていかれていたことを嫌というほど教えてきた。


「……っ」


 ユリシスの目が、細くなる。


 外した。


 ただ避けられたのではない。


 自分が量ろうとした後退の意味そのものを着地の直前で別の結果へすり替えられたのだと、ユリシスは一瞬遅れて理解した。


 とおるは転びかけた身体を膝と腹筋で無理やり引き戻し、斜めに流れた勢いを殺し切らないままもう一枚足元へ小さな〈壁〉を噛ませた。


 今度は、止まるためではない。


 さらに流れるため。


 床を蹴って移動するのではなく重心を透明な傾斜へ預け、落ちかけた身体をそのまま横方向へ滑らせることで回避でも後退でもない曖昧な軌道を描きながら、ユリシスの真正面から半歩だけ外れる。


 たった、それだけの移動だった。


 観客席から見れば、よろめいた足が偶然横へ逃げたようにしか見えなかったかもしれない。


 けれどその半歩は、ユリシスの鎖が押しつける重みと黄金の秤が選択へ下す裁定をすり抜けるために、とおるが初めて自分の意思で穿った小さな穴だった。


「逃げたんじゃねえな」


 ユリシスが呟いた。


 鎖を引き戻す音が、じゃらり、じゃらり、と低く舞台の上を這い、床に残った亀裂の中で金属の響きだけが不気味に反響する。


「はい」


 とおるは肩で息をしながら、それでも視線だけはユリシスから外さずに答えた。


 肺は焼けるように熱く、足首には今の無茶な着地の痛みが残り、頭の奥では白い線の奔流がまだちらついている。


 けれど、立っている。


 押し潰されていない。


「ちょっと、横に落ちました」


 ユリシスの口元が、怒りとも笑みともつかない形に歪む。


 獲物を逃した悔しさではない。


 理解できない動きをした相手に対する苛立ちと、それでもなお次を試したくなる戦闘者の衝動が薄く牙を覗かせていた。


「ますます気に入らねえな、その壁」


「俺もまだ、使い方が気に入ってる段階ではないです」


 軽口を返しながら、とおるは右手の指をわずかに開閉した。


 震えている。


 怖いからではない。


 いや、怖くないわけがない。


 今の一撃がほんの少しでもずれていなければ、足首どころか脚ごと床へ縫い止められ、次の瞬間には秤の重みで身動き一つ取れなくなっていたはずだ。


 それでもとおるの視界には、もう一度白い線が浮かび上がっていた。


 鎖と床。


 ユリシスの腕と次の一撃。


 金色の輪と、とおるの足首。


 自分の呼吸と、次の判断。


 恐怖と硬直。


 選択と行動。


 行動と結果。


 それらすべてが戦場の中で絡み合い、伸び、揺れ、今にも黄金の秤の皿へ落とされようとしている。


 しかしとおるはもう、ただ裁かれるだけの側にはいなかった。


 線が見える。


 なら、ずらせる。


 ずらせるなら、意味を変えられる。


 意味を変えられるなら――まだ、戦える。


 とおるは浅く息を吸い、白石の床を踏み直した。


 ユリシスの鎖が、再び金色の蛇のように持ち上がる。


 頭上の秤が、小さく傾く。


 次の選択を量るために、世界が息を潜める。


 その静寂の中で、とおるだけが自分の足元に生まれた細い逃げ道を見ていた。



 思えば最初に〈壁〉を出した時も、とおるは別に格好よく覚醒したわけではなかった。


 空から光が降り注いだとか古代の神が脳内へ語りかけたとか、右手に刻まれた紋章が熱を持ったとかそういう英雄譚に必要そうな演出は一切なく、ただ異世界へ放り込まれて数日目、よく分からない薬草の束を抱えたまま雨漏りする納屋の隅で震えていた時、棚から落ちてきた木箱を見て「無理無理無理、当たる、痛い、これ絶対痛い」と心の中で半泣きになった結果、額の少し前に手のひらほどの透明な板がぽこんと現れ、木箱を弾いた反動で今度は自分の鼻へその板が当たって結局痛い思いをしたのである。初成功の感動より先に鼻を押さえてうずくまり、「能力が出たのに痛いってどういうことだよ」と異世界生活への信頼をまた一段失った記憶がある。


 魔力というものも、最初から格好よく扱えたわけではない。


 ゲームや物語なら魔力は体内を流れる熱い力で目を閉じれば青白い光が見え、手をかざせば炎や雷が形になりそうなものだが、とおるが初めて自分の内側に感じたそれは熱血主人公の魂の炎というより寝起きに胃のあたりで所在なげに揺れているぬるい炭酸水に近かった。押せばいいのか引けばいいのか、息を止めるのか吐くのか腹に力を入れるのか逆に抜くのか、何をしても体のどこかで魔力が変な方向へ逃げてしまい、たまに壁が斜めに出て自分の足を引っかけてしまうこともあった。たまに薄すぎて雨漏りを止められず、たまに厚すぎて部屋の扉を内側から塞ぎ、朝になって村人に外から助けてもらうという能力者というより住居トラブル発生装置みたいな日々が続いた。


 それでも、少しずつ分かってきたことがあった。


 魔力は力ずくで押し出すものではない。


 息と一緒に動かし、視線で方向を決め、身体の内側にある細い水路へ流すように扱う。焦れば濁る。怖がれば縮む。怒れば尖る。眠ければ途切れる。腹が減れば露骨に弱くなる。非常に生活態度へうるさい力であり、前世であれば「コンディション管理も実力のうちです」と部活の顧問に言われていたであろう内容がそのまま魔法の発動精度へ直結していた。


 そうやって何度も失敗しながら壁を斜めに出し、消すつもりの壁を残し、出すつもりの壁が出ずたまに何もない空間へ向かって真顔で手を突き出して村人から心配そうな目を向けられながら、とおるは少しずつ自分の内側を流れるものの癖を身体で覚えていった。


 最初のうちは、魔力を使うたびに頭の中で手順を確認していた。


 息を吐く。


 腹の奥を意識する。


 胸へ上げる。


 肩を通す。


 腕へ流す。


 指先の向こうへ形を作る。


 一つでも順番を間違えれば壁が薄くなり、集中しすぎれば今度は呼吸を忘れ、呼吸へ気を取られれば足元がおろそかになった。壁一枚出すだけなのに要求される作業量が多すぎる、と何度理不尽を訴えたか分からない。前世でこれほど同時処理能力を求められたのは、昼休みに購買のパンを確保しつつ友人との会話を続けながら次の授業の宿題を思い出した時くらいだった。


 けれど繰り返しているうちに、その一つ一つを言葉にしなくても身体が勝手に繋げるようになった。


 息を吐けば流れる。


 視線を置けば集まる。


 守りたい場所を思えば、そこへ向かう。


 そして最後に、自分と何かのあいだへ「ここから先には来るな」と線を引けば、魔力は透明な面となって世界へ現れる。


 それは技術というより、癖に近かった。


 歩く時に右足を出そうと考えないように、熱い鍋へ触れれば手を引くように、とおるの身体は少しずつ〈壁〉の出し方を覚えていった。頭では忘れていても、身体のどこかには残っている。呼吸の間隔も魔力が胸を抜ける感覚も、空間へ触れる寸前に生まれるわずかな抵抗も。


 失敗ばかりだったからこそ、その感覚だけは嫌というほど覚えていた。



 最初に動いたのは、ユリシスだった。


 金色の鎖が大きく弧を描き、真正面からとおるの胴を狙う。先ほどまでのとおるなら迷わずそこへ壁を出したはずだった。攻撃と自分のあいだへ透明な防御面を置き、衝撃を止めながらも痛みを減らしてどうにか時間を稼ぐ。あまりにも自分らしい、あまりにも読みやすい、あまりにも秤へ載せやすい答えである。正面から来るものを正面で受ける。危険から逃げる。守るために固まる。壁山とおるという人間の履歴書に大きく書かれているような選択であり、もし面接で「あなたの長所は何ですか」と聞かれたら「危険を避けようとする能力です」と答えて即座に落とされる程度には根深い性質だった。


 だから、とおるは正面へ壁を出さなかった。


 出したのは、鎖の横だった。


 金色の軌道に沿うように、けれど触れれば真正面から止めるのではなく少しだけ角度を変える位置へ、薄い〈壁〉を斜めに置く。透明な面は盾ではなく滑り台に近かった。防ぐのでもなく受け止めるのでもない。重価をまとった鎖がそこへ触れた瞬間、鎖の走る方向がわずかに横へ流れ、ユリシスがとおるの胴へ到達させようとしていた一本の線は舞台の白石を削りながら斜め奥へ逃げていく。


「曲げた?」


 ユリシスの声に、初めて純粋な驚きが混じった。


「止めると料金が発生しそうなので!」


「料金って何だよ!」


「俺の中ではもう、あなたの能力は悪質な契約サービスなんです!」


 言いながら、とおるは足元へ二枚目を置いた。


 いつもの三枚制限の中で正面防御に使った誘導面を即座に解除し、足裏の斜め下へ小さな壁を差し込むための足場を作る。今度は逃げ道ではなく横へ流れた鎖の背後へ回り込むため、透明な傾斜を踏んで自分の身体を前へ押し出した。その咄嗟の判断は自分でも信じられなかった。


 ユリシスへ向かって“前”へ出ているということ。窓際族を誉としていた自分が、である。精神的には今すぐ壁の裏側へ隠れて「本日は閉店しました」の札を下げたいのに、身体は小さな壁を踏み台にして加速している。


 怖いのはもちろん怖い。


 重い鎖が横を走っている。ユリシスの拳はまだ生きている。秤は頭上でこちらの選択を量ろうとしている。どこで間違えてもまた胸や腹へ痛いものが入る可能性がある。いっそ可能性という言葉を外して、だいたい入ると思っておいたほうが現実的だった。


 けれど、とおるは見ていた。


 鎖の進む線。


 ユリシスの肩から拳へ流れる線。


 自分の足場から次の着地点へ伸びる線。


 そして、選択が結果へ届こうとする白い線。


 ユリシスが量れるのは選択の先へ続いていくものだ。壁を出すと決め、その壁が防御として成立しながら自分が守られること。その連続が秤へ届くから重くされ、盾を上げると決めてからその盾で受けること。後退すると決めることや距離を取ることそのものもそうだ。どれも意思から結果まで“一本の道”として繋がっているから裁定される。


 なら、その連続を途中で区切る。


 壁を出す、という選択は変えない。


 けれどその壁が何の結果へ繋がるのかを直前で変える。


 防御として置いたはずの壁を誘導面へ。


 後退のために置いた足場を前進の踏み込みへ。


 距離を離すための境界を、間合いを切り分ける刃のような線へ。


 ユリシスの秤が一つの未来を量ろうとするなら、その未来へ届く前に壁を置き、行動の意味を横へずらすとどうなるか。


 とおるは、ユリシスの懐へ一歩入った。


 入りたくなかった。


 本当に入りたくなかった。


 ユリシスの角は近くで見ると余計に怖いし、灰色の瞳は楽しそうなまま獲物を観察しているし、首元の鎖はどう考えても近距離で絡まると面倒そうだった。職場で距離感の近い上司に肩を叩かれるのも嫌なのに、こちらは鎖と秤と拳である。嫌さの種類が武闘派すぎる。


「近いんだよ!」


 ユリシスが笑い、左拳を短く突き出す。


 とおるは拳を防がない。


 拳の軌道と自分の肩のあいだへ壁を置くのではなく、ユリシスの肘が伸び切る直前、その動きと打撃の結果を結ぶ白い線の途中へ小さな境界を差し込む。完全には切れないし、まだ精度は荒い。拳は止まらずとおるの肩をかすめ、防護術式が白く瞬く。痛みはあったが、ユリシスが想定したほど深く入らない。拳が“当たる”未来と“効く”未来の間に、半拍だけ隙間ができている。


「浅くても痛い!」


「なら避けろよ!」


「避けると測るでしょう!」


「面倒くせえな、アンタ!」


「あなたに言われたくない!」


 とおるは丸盾の縁でユリシスの腕を押した。


 攻撃というより、押し退けるだけの不器用な動きだった。剣士の美しい斬り返しでもなければ、騎士らしい堂々たる打撃でもない。盾を持った一般人が満員電車で近すぎる相手をどうにか押し返そうとするような必死さがあった。けれどその盾の裏へ、短い壁を一枚貼りつけていた。透明な壁は盾とユリシスの腕の間へ入るのではなく、盾が押す方向そのものへ角度を与える。結果、丸盾の不格好な押し込みはユリシスの腕を真後ろではなく斜め下へ流し、その肘から鎖へ伸びていた金色の接続をわずかに弛ませた。


 ユリシスの秤が揺れる。


 選択は盾で押す。


 結果は防御ではない。


 攻撃でもない。


 相手の鎖操作の支点をずらす、という曖昧な結果へ変わる。


 秤の皿が迷う。


「そういうことか」


 ユリシスが低く言った。


 笑っている。


 けれど、その笑みの底には明確な苛立ちと興奮があった。


「選んだ先を途中で変えてるのか」


「言語化しないでください。自分で理解する前に相手から説明されると、なんか負けた気分になるので」


「ならもっと上手くやれよ!」


 ユリシスが鎖を引いた。


 床へ散っていた金鎖が一斉に跳ね上がり、三方向からとおるを囲む。右から腕。左から足。正面から胴。逃げ場を塞ぐ配置。いままでのように一つの選択を誘導するのではなく、複数の結果を同時に押しつけ、どこを選んでも鎖の接触が成立するように作られた檻だった。


 とおるの視界に、白い線が爆発するように増えた。


 鎖と腕。


 鎖と足。


 鎖と胴。


 ユリシスの意思と鎖の軌道。


 秤と接触点。


 自分の恐怖と硬直。


 硬直と被弾。


 選択肢が多すぎる。


 また脳内の小さな自分たちが叫ぶ。「案件が三倍です!」「納期は今です!」「担当者が逃げました!」「担当者は俺だよ!」非常に嫌な職場だった。異世界へ来てまで脳内がブラック企業になるのは勘弁してほしい。


 全部は無理だ。


 なら、一つにする。


 とおるは自分の前へ、大きな壁を出さなかった。


 代わりに、自分とユリシスの間に一本の“境界線”を引いた。


 目に見える板ではない。


 舞台を左右に区切るほど明確な障壁でもない。


 ただ、ユリシスが伸ばした三本の鎖がとおるへ届くために必ず通過する空間、その幅を薄く切り分けるように、細長い境界を置く。


 鎖が、境界へ触れる。


 止まらない。


 砕けもしない。


 けれど三本の鎖のうち二本が、ほんのわずかに別々の方向へ流れた。右腕を狙っていた鎖は肩の外をかすめながら足を狙っていた鎖は床の低い位置へ落ち、胴を狙った鎖だけがまだ真っ直ぐ来る。


 一つに絞れた。


 とおるは丸盾を上げた。


 盾で受ける。


 それは測られる行動だった。


 ユリシスの秤が反応する。


 鎖が盾へ触れる寸前、とおるは盾の表面へ薄い壁を一枚重ね、その壁の役割を“防御”ではなく“反射”へ変えた。


 金色の鎖が盾へ当たる。


 衝撃。


 重さ。


 裁定。


 その直前、鎖の力が斜め上へ跳ねる。


 ユリシスの腕へ戻るはずだった重価の流れが、鎖の軌道とともに一拍だけ上へ逸れた。


 ユリシスの肩が、わずかに浮く。


 ほんの小さな崩れ。


 普通なら、何の意味もない。


 ミレイユならそこへ剣を入れ、アルセントなら風で裏へ回り、バスティアンなら盾ごと押し潰すだろう。


 とおるにできることは、もっと地味だった。


 ユリシスの浮いた足元へ、低い壁を一枚置く。


 攻撃ではない。


 足場でもない。


 進路の境界。


 踏み直そうとした靴底と、安定した着地の間へ薄い段差を作る。


「っ」


 身体が揺れたユリシスは咄嗟に腰を捻り、鎖を床へ打ち込みながら強引に姿勢を戻そうとする。


 そこへ、とおるが踏み込んだ。


 足場として置いた透明な壁を蹴り、丸盾を身体の前へ押し出す。剣ではなく盾の縁でユリシスの胸元を狙った一歩。騎士らしい優雅さはないし、訓練でさんざん修正された足運びもミレイユが見れば「雑だ」と一刀両断するだろう。しかしこの瞬間だけは、とおるが自分から仕掛けていた。


「うおおおお、これ攻撃で合ってます!?」


「聞きながら来んな!」


 半ば悲鳴のような気合いとともに、とおるが踏み込む。


 それは剣士の洗練された突進でも拳闘士の重心移動でもなく、本人の中ではまだ「本当にこれでいいのか」という疑念が両足に絡みついているような、どこか不格好で危なっかしい前進だった。——が、それでも丸盾の縁は確かにユリシスの胸元へ迫り、白石の床を蹴った靴底からは乾いた音が弾けた。


 ユリシスは即座に左腕を上げる。


 盾の縁を受け流しながら手首の返しでとおるの体勢を崩し、そのまま鎖で首か腕を取る――おそらくそこまでを一息で組み立てていたのだろう。


 しかしとおるはその左腕と盾が接触するほんのわずかな隙間へ、見えないほど薄い〈壁〉を滑り込ませた。


 ユリシスの受けを、ほんの指一本分だけ外側へ滑らせるための誘導面。


 盾を止めるはずだった左腕が、透明な斜面を撫でるように逸れた。


「――ッ!」


 ユリシスの腕が、盾の縁を捉え損ねる。


 次の瞬間、丸盾の硬い縁が防護術式の中心へ触れた。


 重い打撃ではなかった。


 決定打と呼ぶにはあまりにも不格好であまりにも泥臭く、武芸として採点すれば減点だらけの一撃だった。


 けれど、それでも衝撃は届いた。


 胸元の防護術式が青白く揺れ、円環状の紋様が一瞬だけ波打ちながらユリシスの上体がわずかに後ろへ沈む。


 規定損壊にはまだ届かない。


 だが、観覧席は大きくざわめいた。


「いいじゃねえか」


 ユリシスが笑った。


 胸元でまだ明滅している防護術式をちらりと見下ろし、口元を吊り上げる。


「やっと殴り合いになってきた」


「こちらは殴り合いを希望していません」


「でも来た」


「勢いで」


「最悪だな」


「自覚はあります」


 軽口の間にも、ユリシスの鎖は止まっていなかった。


 金色の輪が蛇のようにうねり、今度はとおるではなくユリシス自身の右腕へ巻きつく。


 頭上の黄金の秤が傾いた。


 先ほどとおるがずらした鎖の重価、その一部が秤から鎖へ流れ込み、さらにユリシスの肉体へ還元されるように彼の肩、肘、手首の周囲で金色の文字列がぱちぱちと火花のように弾ける。


 状態が、リセットされていく。


 とおるの盾防御にかかっていた重さの一部が薄れる代わりに、ユリシスの拳が軽くなる。


 来る。


 とおるは見た。


 拳そのものではない。


 ユリシスが「殴る」と決めたその意思が筋肉を走り、拳が空間を裂きながらこちらへ届くまでに伸びている、白く細い因果の線。


 そこへ——境界を置く。


 ユリシスもまた即座に反応した。


 拳の軌道が、途中で止まる。


 裁定が変わる。


 振り抜かれるはずだった右拳が、とおるの目の前で寸前に沈み、その代わり足元で眠っていた金色の鎖が獣の尾のように下から跳ね上がった。


 とおるが拳の因果へ壁を置いたと見るや、ユリシスは拳を結果へ繋げることを捨て鎖を次の結果へ切り替えたのだ。


 高度な読み合い。


 そう言えば聞こえはいい。


 しかしとおるの主観では、必死に回答欄へ答えを書いた瞬間に問題文そのものを目の前で差し替えられているような、理不尽極まりない嫌がらせだった。


「問題を途中で変えないでください!」


「アンタも答えを途中で変えてんだろ!」


「それはそう!」


 下から跳ね上がる鎖に対し、とおるは正面へ壁を置かなかった。


 受ければ重い。


 止めれば測られる。


 だから鎖そのものを見るのではなく、その鎖が跳ね上がるための支点になっている床と、金属の一節とのあいだに走る白い線を見た。


 そこへ、薄い境界を差し込む。


 反発の角度が狂った。


 床を噛んで跳ねるはずだった鎖は支点をわずかに失い、予定よりも鋭く、予定よりも高く上へ行きすぎる。


 とおるの顎を砕くはずだった金色の輪が顔の前を紙一重で通り過ぎ、頭上で虚しく空を切った。


 とおるは、その下へ潜り込む。


 普段の彼なら、絶対に選ばない動きだった。


 自分より近接戦が得意な相手の腕の内側へ踏み込むなど、危険予測表があれば真っ赤を通り越して黒塗りされるような選択であり、脳内の小さな自分たちも全員一致で「帰宅」を要求していた。


 けれど今だけは、ユリシスの鎖が高く浮いた一拍だけ懐が空いている。


 その空白へ、とおるは壁を置いた。


 ユリシスと自分の間合いを区切る境界。


 拳が出せる距離と、出せない距離。


 鎖が戻る距離と、戻らない距離。


 ほんの半歩の境目を、目に見えない薄い壁で固定する。


 ユリシスの拳が、出遅れた。


 その遅れは一瞬だったが、それで十分だった。


 丸盾を、押し込む。


 二度目。


 今度は胸元ではなく、ユリシスの右肩。


 防護術式が強く明滅し、肩口を覆う紋様が火花のように散り、白石の舞台へ細かな光の粒が雨のように落ちる。


 観覧席から、先ほどより大きなどよめきが上がった。


「こいつ……!」


 ユリシスの表情が、完全に戦闘者のものへ変わった。


 笑いは残っている。


 好戦的な光も消えていなかったが、すでに彼は壁山とおるを噂だけの異邦人でも、防戦一方の臆病者でも妙な壁を出す面白い相手でもなく、自分の術式へ明確に届きうる危険な相手として見ていた。


「秤は、載せられたものを量る」


 とおるは、自分でも驚くほど静かな声で言った。


 呼吸は荒い。


 足は痛い。


 頭は割れそうだ。


 視界の端では無数の白い線がまだちらついていて、脳内の小さな自分たちは「もう帰りましょう」「有給を取りましょう」「棄権も戦術です」と満場一致で訴えている。


 けれど、言葉だけは不思議と滑らかに出てきた。


「でも、皿へ届く前に切り離されたものまでは、量れない」


 ユリシスの目が細くなる。


「見抜いたつもりか」


「つもりです。合ってるかどうかは、正直まだ試験中ですが」


「それをオイラで試すな」


「さっき俺に同じようなこと言いましたよね?」


「言ったか?」


「言いました。俺は根に持つタイプです」


 ユリシスが笑った。


 今度は、はっきりと声を上げて。


「いいぜ、壁山とおる」


 ユリシスがその名を呼んだ瞬間、黄金の秤が最大まで輝いた。


 それはもはや、戦場を彩る術式の装飾などではなかった。


 闘技場の空気そのものが不可視の法廷へ作り替えられていくような、息を吸うことさえ許可制になるほどの圧が四方へ広がっていく。頭上に浮かぶ二枚の皿が軋むほど深く傾くと同時に舞台のあちこちへ散っていた金色の鎖が一斉に浮き上がり、白石の床から抜け出した竜の肋骨のようにユリシスの周囲で幾重もの輪を描き始めた。


 残っていた重価が、一気に解放される。


 壁への重さ。


 盾への重さ。


 後退への重さ。


 回避への重さ。


 防御という選択に課された重さ。


 逃げるという判断に絡みついた重さ。


 受けるという覚悟へ押しつけられた重さ。


 この戦いの中でとおるが選ばされ、量られ、耐え、ずらし、切り離し、それでも完全には逃れきれなかった裁定の残滓がすべて黄金の秤から引き剥がされ、流星群のようにユリシスの鎖へ注ぎ込まれていく。


 対価交換。


 いや、それだけではない。


 ユリシスは、相手へ課していた重価を単に武器へ変換しているのではなく、その重さを生み出した契約そのものの負荷を、自らの領域へ落とし込み、鎖と秤と肉体と意思とを結ぶ無数の交点を、己の足場として再構築していた。


 とおるの目には、それが見えた。


 白い線の世界の中で、ユリシスを中心に金色の因果が幾何学模様のように交差し、契約の線、鎖の線、秤の線、拳の線、踏み込みの線、裁定の線が一点一点で結ばれ、その交点が空中へ階段のように浮かび上がっていく。


 腕が動く。


 盾が上がる。


 足が軽い。


 呼吸が通る。


 まるで水底からようやく顔を出したように、全身を縛っていた見えない鉛が剥がれ落ちる。


 けれど、その解放は救いではない。


 その分だけ、ユリシスの最後の一撃は重くなる。


 ユリシス自身の身体は羽のように軽くなり、鎖は大地を砕くほど重くなり、拳は視線よりも速くなり、黄金の秤は、とおるが次に選ぶあらゆる未来を皿へ載せようと、空の上で獣の眼のように輝いている。


「これで終いだ!」


 ユリシスが踏み込んだ。


 その一歩で、白石が爆ぜた。


 踏み砕かれた床の破片が宙へ舞い、黄金の光を受けて火花のように散り、同時に上空の鎖が三本、天罰の槍のように落下を始める。


 一本は左。


 一本は右。


 一本は後方。


 逃げ道を潰すための鎖。


 そして正面からは、ユリシス自身の拳。


 軽くなった肉体から放たれるそれは、重さを失ったからこそ目に追えぬほど鋭く、拳の周囲に巻きついた金色の文字列が尾を引きながらとおるの胸元へ真っ直ぐ突き進んでくる。


 左右には、いかにも逃げられそうな空間が開いていた。


 だが、それは罠だ。


 左へ逃げれば鎖が落ちる。


 右へ逃げても鎖が落ちる。


 後ろへ退けば、背後を封じる鎖に足を取られる。


 正面に残れば、拳が来る。


 上には秤の裁定があり、とおるが「避ける」「受ける」「壁を出す」と決めた瞬間、その選択の意味を拾い上げ、皿へ載せ、重さとして未来へ叩き返そうと待ち構えている。


 逃げれば測られる。


 受ければ潰される。


 壁を出せば壊される。


 どの道を選んでも、結果は黄金の秤へ繋がる。


 それがユリシスの最終裁定。


 選択を迫り、行動を量り、結果ごと押し潰す、逃げ場のない金色の処刑場。


 とおるは、何もしなかった。


 いや、違う。


 選択を、変えなかった。


 守る。


 いつも通り、守る。


 それが壁山とおるの答えだった。


 ユリシスのように美しく攻めることはできない。


 剣士のように斬れない。


 武闘家のように打てない。


 魔術師のように世界を書き換えることも、まだできない。


 それでも目の前に誰かを傷つける力があるなら、その間に立つ。


 届くはずのものを、届かせない。


 壊れるはずのものを、壊させない。


 自分が最初から選んできたただそれだけの答えを、とおるは最後まで手放さなかった。


 ただし、その「守る」という選択が未来へ続く途中へ、彼は壁を置いた。


 守るために壁を出す。


 その道を、秤へ届かせない。


 意思と命令の間へ、一枚。


 命令と現象の間へ、一枚。


 現象と防御結果の間へ、一枚。


 三枚。


 それが今のとおるの同時使用上限。


 もし物理的な壁として使えば、正面の拳も左右から落ちる鎖も、背後を断つ鎖も、すべてを止めることはできない。


 巨大な防壁を張れば砕かれる。


 真正面から受け止めれば潰される。


 逃げれば秤に捕まる。


 だから、とおるは防壁を作らない。


 代わりに、因果の線へ刃より薄い境界を差し込む。


 選択から行動へ伸びる白い線。


 行動から現象へ伸びる白い線。


 現象から結果へ伸びる白い線。


 その三か所へ、紙一枚よりも薄く、けれど世界の連続を拒むには十分すぎる〈境界〉を、歯を食いしばりながら叩き込んだ。


 金色の秤が傾く。


 裁定が、とおるの選択を拾おうとする。


 その直前。


 白い線が、三か所で区切られた。


 秤が、空を量る。


 鎖が落ちる。


 拳が届く。


 しかしその重さは、とおるの未来へ結びつかない。


 ユリシスの奥義が、世界を鳴らした。


 三本の鎖が落雷のように舞台へ突き刺さる。白石の床を深く抉りながら砕けた破片が波のように跳ね上がり、拳圧がとおるの頬を裂くほど近くまで迫る。


 それでもとおるは目を逸らさなかった。


 守る。


 けれど、測らせない。


 防ぐ。


 けれど、秤へは渡さない。


 選択と結果のあいだに立つ自分自身の〈境界〉を、とおるは全身の神経が焼き切れそうな痛みに耐えながら維持し続けた。


 次の瞬間、金色の鎖が透明な何かに引っかかったように軌道を歪めた。


 左から落ちた鎖は、床に触れる寸前でわずかに外へ流れ、右から降った鎖は、とおるの肩を潰すはずだった未来を掴めずに白石だけを砕き、背後の鎖は退路を断つという結果へ届かないまま、空しく舞台を叩いた。


 正面から突き出されたユリシスの拳だけが、なお止まらない。


 拳は、とおるの目前まで届いた。


 届いたはずだった。


 だがそこには、拳が砕くべき「防御した結果」がない。


 とおるが壁を出したという事実はある。


 守ろうとした意思もある。


 けれど、その二つが秤へ渡される途中で切り離されている。


 ユリシスの拳は、とおるの防御を壊すために放たれた。


 しかし“壊すべき防御の意味”だけが、そこにない。


 重さだけが、行き場を失う。


 裁定だけが、皿の上で空回る。


 黄金の秤が、闘技場の中央で激しく震えた。


「な――」


 ユリシスの声が、途切れた。


 その瞬間、とおるは前へ出ていた。


 防御のために作った三枚の境界は、同時に間合いを区切る壁にもなっていた。


 落ちてくる鎖の軌道を横へ流し、拳の結果を半拍だけ遅らせ、さらに足元へ残った小さな境界が踏み込みの支えへ変わる。


 守った。


 守り抜いた。


 ——そしてそのまま、進んだ。


 白石の破片が足元で跳ねる。


 黄金の鎖が左右で唸る。


 ユリシスの拳が遅れて空を裂く。


 とおるはそのすべての隙間を、まるで針の穴へ身体ごと滑り込ませるように抜ける。肩を低くし、丸盾を胸の前へ引き寄せながら最後の一歩を踏み込んだ。


 丸盾の縁が、ユリシスの胸元へ三度目に届く。


 一度目は、かすめるような接触だった。


 二度目は、肩口を揺らす一撃だった。


 そして三度目は、防護術式の中心。


 ユリシスの胸当てに浮かぶ青銀の紋様、その核へ、壁山とおるの盾が真正面から叩き込まれた。


 重い音ではなかった。


 肉を打つ鈍さでも、金属を砕く轟音でもない。


 まるで張り詰めた硝子の鐘を内側から鳴らしたような、——澄んだ、しかし闘技場の隅々まで届く音が響いた。


 白い光が、はっきりと弾ける。


 青銀の紋様がユリシスの胸当ていっぱいに広がり、そこへ無数の亀裂が走ると同時に防護術式が花弁のような光片となって砕け散った。


 観覧席が、息を呑む。


 黄金の秤が、最後に一度だけ大きく傾く。


 それでももう量るものはなかった。


 規定損壊を示す鐘のような音が、〈誓華円舞台〉の上へ澄んで響き渡る。


 審判の黒鉄笛が、鋭く鳴った。


「そこまで!」


 鋭い声が、白石の舞台を真っ二つに断つように響いた。


 とおるは止まった。


 正確には身体のほうが命令を聞いて先に止まり、頭だけが二、三歩ぶん遅れて走り続けていたのだが、その遅れていた理解がようやく現実へ追いついたところで彼は自分の丸盾が間違いなくユリシスへ届いていたことを知った。


 ――当たった。


 ――俺が。


 ――あのユリシスに。


 そこまで理解した瞬間、今まで妙に頑張っていた膝が「では我々はこの辺で」とばかりに職務を放棄し始めた。


 笑っている。


 膝が。


 比喩ではない。左右とも仲良く震えている。


 本当ならここはもう少し格好よく締めるところなのだろう、とおるにだって分かっている。伝統ある円舞台、その中央に立つ勝者として静かに息を整え、激闘を終えた相手へ敬意の礼を送り、降り注ぐ喝采を背に凛然と佇む――たとえばミレイユなら何食わぬ顔でやるだろうし、リディアなら髪の一本すら乱れていないのではと疑いたくなる姿勢で決めるだろうし、アルセントに至っては都合よく吹いた風に前髪を揺らしながら、爽やかに微笑むところまで容易に想像できた。


 そして壁山とおるはというと。


 丸盾にしがみついていた。


 武器というより手すりだった。


「……終わった? 終わりました? あの、延長戦とか敗者復活とか、ここから真の最終試練が始まるとか、そういう嫌な制度ないですよね?」


 審判がどう答えればこの青年を安心させられるのか一瞬だけ迷ったような顔をしたあと、はっきりと頷いた。


「勝負あり。勝者、第十七班――壁山とおる候補」


 一拍。


 世界から音が消えた。


 その静寂に、とおるが「え、やっぱり何か審議入った?」と不安になりかけた、まさに次の瞬間。


 観覧席が爆発した。


「うわっ!?」


 思わず盾を構えそうになったが、襲ってきたのは魔法でも鎖でもなく三層にわたる観覧席から雪崩れ落ちてくる大歓声だった。


 候補者たちの叫び、騎士たちの野太い声、測定官の拍手、神殿関係者のどよめき――本来なら同じ場所に集めても決して綺麗には混ざらなさそうな音の群れが、この瞬間ばかりは巨大なひとつの響きとなって〈誓華円舞台〉を満たし、世界樹の枝葉を模して頭上へ渡された銀の梁さえその熱気を受けてか細かく震えていた。


 外周を巡る清水が午後の光を跳ね返し、足元では十二花弁の紋様が淡い輝きを宿している。


 幾世代もの候補者を見届けてきた由緒正しき舞台は盾にしがみついた青年が「本当に終わった?」という顔で審判を二度見しているという、歴史書へ記録するには少々締まりの悪い勝者の姿まで長い歴史の一頁として堂々と受け止めていた。


 その向こうで、ユリシスは自分の胸元へ視線を落としていた。


 防護術式には、確かに盾が届いた痕跡がある。


 やがて顔を上げる。


 とおるを見る。


 何も言わない。


 ――怒るか。


 ――笑うか。


 ――もう一回やろうぜ、と言うか。


 三つ目だった場合、とおるはこのまま気絶したふりをして医務室へ搬送される覚悟まで固めた。


 やがてユリシスの喉から、低い笑いが漏れた。


「負けた」


「……ああ、よかった」


「何がだよ」


「認めていただけると試合が正式に終わりそうなので。今その一言が世界で一番ありがたいです」


 勝者から敗者へ掛ける言葉として、たぶん何かが逆だった。


 ユリシスは気にした様子もなく、むしろ面白そうに口角を上げる。


「最後のあれ、何だよ」


「俺にもまだ分かりません」


「技の名前は?」


「ありません」


「付けろよ」


「そう簡単に言いますけど、俺、ネーミングセンスにまったく自信がないんですよ。下手に格好つけると後から自分で名乗るたびに恥ずかしくなるじゃないですか」


「じゃあ壁でいいだろ」


「その発想で全部『壁』にしてきた結果、周囲から『いい加減にしろ』って怒られてるんです」


「壁一号」


「番号を振ればいい問題じゃないんですよ」


「すごい壁」


「語彙が俺より死んでる」


 とうとうユリシスは声を上げて笑った。


 同時に、彼の周囲へ張り巡らされていた鎖が役目を終える。金色の輪は端から細かな光の粒へほどけ、頭上に浮かんでいた巨大な秤も輪郭を薄くしながら空気へ溶けていき、それまで舞台そのものへ鉛でも流し込んだように居座っていた圧迫感が嘘のように消えると、白石の上を這っていた不穏な金色の線まで最後には午後の風へさらわれる光の糸となって消えた。


 ユリシスは、その残滓を見送りながら鼻を鳴らす。


「オイラの秤を、皿に乗る手前でぶった切った奴なんて初めてだ」


「それ、褒められてます?」


「めちゃくちゃ悔しい」


「ずいぶん素直ですね」


「でも面白かった」


「俺は面白がる余裕なんて一秒もありませんでしたよ。ずっと怖かったです」


「じゃあ、またやろうぜ」


「絶対に嫌です」


 間髪入れずに断った。


 命の危機に際して発揮される判断速度だけなら、とおるは今日一番だったかもしれない。


 再び観覧席から笑い混じりの歓声が上がり、その中心でユリシスまで腹を抱えそうな勢いで笑っている。


 とおるは「これで本当に終わりなんだよな」と最後の確認を胸中で済ませてから、せめて礼だけは勝者らしくしようと背筋を伸ばした――のだが、安心した身体というものは実に正直で、緊張という名の支柱を失った膝がまたしてもぐらりと揺れた。


「おっと」


 ユリシスが咄嗟に手を伸ばす。


 とおるは反射的に盾を半分持ち上げた。


「……何で警戒すんだよ」


「いや、試合終了直後に契約更新とか第二形態とかあるかもしれないので」


「ねえよ!」


「よかった……」


「どんだけオイラを信用してねえんだ!」


「さっきまで鎖で俺の人生を天秤に掛けてた人に言われても」


「人生までは掛けてねえ!」


 もっともな抗議だったが、とおるの精神は細かい契約内容を確認できるほど回復していなかった。


 結局、差し出された手には頼らず――というより、頼った瞬間に何か始まりそうで怖かっただけなのだが――どうにか自力で姿勢を立て直すと、今度こそ丸盾を下ろし、ユリシスへ深く頭を下げる。


 ユリシスも、一瞬だけ笑みを消した。


 そして顎を引く。


 騎士の礼として見れば少々荒っぽく、神殿の儀礼担当者が見れば眉をひそめそうな簡素な仕草だったものの、そこには間違いなく自分を破った相手を認める意思があった。


 その光景を、上段席から静かに見下ろしている二人がいた。


 ゾロは胸元でぱち、ぱち、と小さく拍手を送る。


「あらあら。勝っちゃった」


「……勝ったな」


 隣から返ってきたリディアの声は、相変わらず鉄板でも仕込んでいるのかと思うほど硬い。


 もっとも、その横顔をじっと観察すれば張り詰めていたものがほんのわずかに緩んでいることくらい、ゾロには簡単に分かった。


「嬉しそうね」


「気のせいだ」


「そういうことにしておいてあげる」


「余計なことを言うな」


「はいはい」


 ゾロは楽しげに目を細め、再び舞台へ視線を落とした。


 中央では当の勝者が丸盾を抱えたまま、あちらこちらから浴びせられる歓声に対して「えっと、これは俺に向けられてるやつ?」とでも言いたげに周囲を見回している。


「防ぐだけでは、なくなったわね」


 その言葉に、リディアの目がわずかに細くなる。


「まだ危うい」


「ええ。危ういわ。不格好だし、理屈より先に身体と勘でやってしまっているところもあるし――たぶん本人なんて、自分が何をしたのか半分も理解していないでしょうね」


「だからまだ鍛えないといけない」


「あら」


 ゾロの笑みが深くなった。


「白華式に?」


「当然だ」


「彼、泣くわよ」


「もう何度も泣きそうな顔をしている」


「それはそうね」


 思い返せば、訓練中のとおるはかなりの頻度で「俺、何か悪いことしました?」という顔をしていた。


 それでも、本当に駄目になる寸前で踏みとどまる。


 逃げたいと言う。


 帰りたいとも言う。


 無理です、死にます、聞いてません、という訴えも一通り口にする。


 なのに誰かが危険に晒されたときだけは、文句の数と足の速さがまるで比例しない。


「逃げたい逃げたいと言いながら、結局いちばん肝心なところでは逃げきらない。それが、あの子の面白いところね」


 リディアは答えなかった。


 ただ舞台の中央を見つめている。


 そこでは、とおるがようやく「もしかして何か反応したほうがいいのでは」と気づいたらしく、観覧席へ向かって恐る恐る片手を上げていた。


 途端に歓声が一段大きくなる。


 びくっ、と肩が跳ねた。


 手を下ろした。


 歓声が少し落ち着いた。


 試しにもう一度上げた。


 また大きくなった。


 とおるは困った。


 何だこれ。


 そういう装置なのか。


 一方、彼の耳には、まだその歓声が自分の勝利を祝うものとして完全には届いていなかった。


 勝った。


 ――らしい。


 審判がそう言った。


 ユリシス本人も負けを認めた。


 観覧席は盛り上がっている。


 誰も再試合の準備をしていない。


 これだけ状況証拠が揃えば、普通の人間ならそろそろ勝利を受け入れてもいいはずなのだが、とおるの頭の片隅では、往生際の悪い不安が「本当に?」「みんな集団で勘違いしてない?」「あとから測定官が走ってきて『採点に誤りがありました』とか言わない?」と次々に札を掲げていた。


 けれど。


 靴底へ返ってくる白石の硬さは、紛れもなく本物だった。


 左腕には使い続けた丸盾の重みが残り、胸も肩も痛みを訴え、肺は今さら思い出したように大量の空気を欲しがっている。


 そして何より――あの瞬間、自分が置いた〈壁〉の感覚がまだ消えていなかった。


 手で触れたわけではない。


 目に見える形が残っているわけでもない。


 それなのに意識の奥には、確かに一本の境界を引いたという奇妙な手応えだけが鮮明に残っている。


 これまで、とおるにとって壁とは「防ぐもの」だった。


 危険が来る。


 だから間へ置く。


 剣を止める。


 魔法を防ぐ。


 自分や誰かが傷つかないよう、そこに立ちはだかる。


 けれど、どうやらそれだけではない。


 壁がひとつあれば、そこから先へ進めなくなる。


 ならば位置を区切れる。


 真正面へ進めないなら、方向は変わる。


 横へ倒せば足場にもなる。


 相手と自分の間へ置けば、間合いそのものを分断できる。


 そして――もっと曖昧で、もっと危なっかしくて、今の自分では上手く説明する言葉さえ見つけられないけれど。


 何かが起きて。


 その結果として、別の何かが起こる。


 当然のように繋がっていくはずだった、その途中へさえ。


 壁は、割って入れる。


 選ばれた未来が一直線にこちらへ届こうとするなら、その道の途中へ境界を置いて「ここから先は同じようには続かない」と遮ることができる。


 そんな力なのかもしれない。


 考えれば考えるほど、とおるは怖くなった。


 便利だ、とは思えない。


 むしろ使い方を間違えたらどうなるのか分からないぶん、昨日までより怖いくらいだった。


 けれど同時に、初めて思った。


 自分の〈壁〉は、逃げ込むためだけの殻ではない。


 危険と自分の間へ置いて震えるためだけのものでもない。


 人と危険の間に立つためのもの。


 誰かへ届くはずだった理不尽を、そこで一度止めるためのもの。


 そして、誰かが「こうなる」と勝手に決めた未来に対して――そのまま素直に繋がってやるものかと、境界線を引くためのもの。


 歓声はまだ降り続いている。


 とおるはその真ん中で長く、深く息を吐いた。


 身体から力が抜けた。


 肩が落ちた。


 ようやく心の底から実感が湧いてきて、その実感を噛み締めた末に勝者・壁山とおるの口からこぼれ落ちた第一声は――


「……帰って、寝たい」


 心からの言葉だった。


 数百年の伝統を誇る〈誓華円舞台〉において、激戦を制した勝者が最初に口にする台詞として採点するなら、おそらく歴代でもかなり下位へ食い込む。


 格好よさという一点に限れば、最下位争いすら夢ではない。


 それでも。


 待機通路のほうから笑い声が聞こえた。


 第十七班の仲間たちだ。


 腹を抱えている者。


 呆れながら拍手している者。


 何か大声で叫んでいる者。


 その中でミレイユだけは、「せめて最後くらい格好つけなさいよ」と言いたげに額へ手を当てていたものの、指の隙間から覗く口元がほんの少しだけ緩んでいることをとおるは見逃さなかった。


 ――あ。


 笑ってる。


 そう思った途端、何だか急に恥ずかしくなった。


 はるか頭上では、世界樹の葉が風を受けてさざめいている。


 円舞台の外周を巡る清水は絶え間なく流れ、古い誓いを象った十二花弁の紋様が午後の陽光を浴びて淡く輝き、その中央には長い戦いを終えて新たな力の一端を掴んだ青年が立っていた。


 ――などと後世の記録に書けば、さぞ立派な光景に見えるだろう。


 実際の壁山とおるは、丸盾を抱え、どうにも居心地が悪そうに背中を丸め、降り注ぐ歓声へ何を返せば正解なのか最後まで分からないまま、とりあえず頭を下げていた。


 一度。


 二度。


 三度。


 歓声が止まらないので、また下げる。


 もはや勝者の礼というより、閉店間際の店員だった。


 それでも歓声は、いつまでも止まなかった。



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