第32話 壁に埋まったのは事実でしょう?
金色の鎖が、四方から走った。
右腕へ向かう鎖は、とおるが〈壁〉を発動する際に最も頻繁に魔力を通す経路を狙っているように見えた。左足へ滑る鎖は後退しようとする足の運びを縫い止めるためのものだろう。丸盾へ絡もうとする鎖はすでに何度か観測された「受ける」という行動へ直接つながる媒介であり、胸元へ伸びる鎖は防護術式そのものではなく、とおるが危険を感じた時に呼吸を止め、腹へ力を入れ、肩を固める防御反応の中心を測ろうとしている。
ユリシス・グランヴェルの〈鎖〉は、単に相手を縛り上げるための金属ではない。ユリシス自身が認識した対象へ接触し、その対象を〈秤〉へ載せるための接続媒体として機能する。鎖が結ばれた時、術式は対象との因果的な接続を確立する。肉体、武器、魔力、行動、さらには「壁を出す」「盾を上げる」「逃げるために足を引く」といった抽象的な工程でさえ、ユリシスが一つの対象として捉えられる限り秤の皿へ載せることができる。
とはいえ、鎖そのものに絶対的な強制力が宿っているわけではない。
鎖が触れたからといって相手の手足が即座に動かなくなるわけでもなければ、精神が支配されるわけでもない。接触はあくまで秤へ載せるための足場であり、契約支配術式の回路を世界へつなぐ条件に過ぎない。実際に何を重くし、その対価として何を軽くするのかはユリシス自身の判断によって決定される。右腕へ触れた鎖で壁の発動工程を重くするのか、丸盾へ触れた鎖で防御姿勢を遅らせるのか、あるいは左足へ触れた鎖で後退の初動だけを鈍らせるのか。彼は相手の動作を観察しながら反応を読み、会話で価値観を探り、そのうえで最も効果的な場所へ重さを落とす。
ゆえに、鎖とは拘束具ではない。
秤と世界を結ぶ術式回路である。
「鎖多すぎませんかね!」
とおるは叫びながら、右腕へ向かってきた鎖を避けようとして左足の鎖へ意識を取られた。丸盾へ迫る鎖を見て肩が固まり、胸元へ滑り込んでくる鎖の軌道まで気づいたところで脳内処理能力が完全に定員オーバーを起こしてしまったのである。
右。
左。
盾。
胸。
全部嫌だ。
全部触られたくない。
どれから対応すればいいのか分からない。
そもそも敵の攻撃なのだから、どれか一つくらい「これは触れても健康にいいですよ」という鎖が混ざっていてくれてもよさそうなものなのに、見事なまでに全員が悪意の専門職であり、どれから対処すれば被害が最小になるのかを考えようにも考えている間に残り三本が「では失礼します」と無遠慮に入ってくる未来しか見えない。
火災報知器と目覚まし時計と携帯のアラームと上司からの着信が同時に鳴った時のような混乱である。
いや、待て。
上司はいない。
前世にも今世にも、とおるへ継続的な業務指示を出して進捗管理表を送りつけ、「この件どうなってますか」と確認してくる上司は存在しないはずだった。
けれど最近、ゾロは笑顔で訓練予定を増やしてくるし、ミレイユは無表情で食事と睡眠と魔力量を管理しようとしてくるし、リディアに至っては一言「やれ」と言うだけで拒否権の存在を空気ごと消してくるので、法的な雇用関係がないだけで実質的には三方向から管理監督されている気がしなくもない。
労働基準法は異世界へ転移する途中で魔物に食われたままである。
とおるは右手を握った。
壁を出す。
いや、出してはいけない。
出せば測られる。
出さなければ鎖が触れる。
盾で受ける。
受けても測られる。
後退する。
足へ来ている鎖が待っている。
剣を抜く。
剣術能力は正直に言えば実用品というより観賞用に近く、抜いたところで敵を威圧するより先に自分の指を切らないか心配する必要があった。
選択肢が多いほど自由になるというのは、おそらく選択肢の中に一つくらい安全な道が混じっている恵まれた状況の言葉であり、すべての選択肢に罠が仕込まれ、その罠の上にさらに小さな罠が載ったその横で術者が楽しそうに見守っている状況において、自由とは単に自分がどの罠へ落ちるかを自主的に決定させられるだけの制度だった。
「ほら、選べよ」
ユリシスの声が、鎖の金属音の向こうから届く。
「右腕か、盾か、足か、胸か。どこを守る?」
「全部守りたいに決まってるでしょう!」
「なら全部選べばいい」
「選択肢が多いことを親切みたいに言わないでください!」
ユリシスは笑う。
黄緑色の髪の隙間からのぞく灰色の瞳は、とおるの焦りを面白がりながらも同時に冷静に観測していた。どの鎖を最も嫌うか。どの部位を守ろうとするか。壁へ頼るのか、盾へ頼るのか、逃げようとするのか、身体を固めるのか。彼にとってこの四本の鎖は攻撃であると同時に、問診票でもある。しかも記入欄が自動的に契約書へ変わる、病院なら二度と行きたくない形式の問診票だった。
ユリシス・グランヴェルのスキル、〈秤の冠〉。
それは選ばせ、誓わせ、選んだ未来を重くする契約支配術式である。
対象の肉体へ単純に重力を加える能力ではない。足を重くすることや剣を重くすること、魔力を重くするといった説明でもまだ足りない。ユリシスが本当に干渉するのは、ある意思が生まれ、その意思が行動へ至り、行動が未来の結果として成立するまでの道筋そのものだった。
人は戦闘中、無数の選択を行う。
前へ出る。
後ろへ退く。
右へ避ける。
盾で受ける。
剣で払う。
術式を発動する。
相手を攻撃する。
仲間を守る。
何もしない。
それらは一見、術者本人の自由意思によって選ばれているように見える。実際、〈秤の冠〉は精神支配ではない。相手を操り人形に変えるわけでも、頭の中へ直接命令を書き込むわけでもない。ユリシスが介入するのは選択が生まれた後、あるいは選択が生まれようとする直前の傾きである。
彼は相手の複数ある行動候補のうち、一つの経路を“軽く”する。
この段階を、術式上は〈軽路〉と呼ぶ。
右へ避ければ間に合う。
盾を上げるべきだ。
いまは壁を出すのが正しい。
後ろへ下がれば安全だ。
そう思わせるだけで、強制ではない。ほかの選択肢も頭には浮かぶのに、ほんのわずかな抵抗がある。左へ避けるには遅い気がする。剣で払うには危険に思える。前へ出るのは無謀に感じる。その一方でユリシスが滑らかにした道だけは、術者本人の性格や戦術、恐怖や癖と噛み合い、妙に自然な答えとして立ち上がる。
とおるが初手で壁を出そうとしたのは、とおるらしい判断だった。
防御役として正しい。
慎重な性格にも合っている。
相手の能力が不明なら、まず壁越しに一手目を受ける。ゾロから教わった地味で実戦的な定石そのものだった。
だからこそ、ユリシスにとって読みやすかった。
軽くされた選択を対象が実行し、現実へ成立させると、その行動は秤へ一つの応答として登録される。
これが〈応約〉。
応約は、言葉だけによる契約ではない。ユリシスの問いへ返事をする。彼の提案通りに動く。攻撃を防ぐため盾を上げる。逃げるため後ろへ下がる。守るため壁を出す。対象が自分の目的に基づいて行動を選び、その行動がユリシスの提示した分岐と一致した時、短い契約が成立する。返事をしなくても動けば答えになる。署名も捺印も不要であり、とおるからすれば消費者保護の観点で極めて問題のある契約仕様だった。
さらに、登録された行動は繰り返されるたびに重くなる。
〈重科〉である。
一度目は違和感。
二度目は半拍の遅れ。
三度目には魔力回路の途中へ濡れた砂袋をいくつも吊るされたような抵抗。
壁を出そうとしてから、生成位置を指定するまでが長くなる。魔力はあるのに回路を通りづらい。頭の中では壁が完成しているのに、空間へ固定されるまでが遅い。能力そのものを奪われたわけではないのに、その行動を選ぶことが現実的ではなくなっていく。
ユリシスは、相手の得意技を封印しない。
“あえて”使わせる。
相手自身の判断で、何度も。
そしてそれが得意技であればあるほど、その行動は繰り返される。
剣士なら斬撃。
槍術士なら突き。
治癒術者なら治癒。
防御役なら防御。
壁山とおるなら、〈壁〉。
相手が頼る行動ほど正確に秤へ記録され、やがて最大の弱点へ変わる。ユリシスにとって、長所とは重くしやすい未来だった。
高度な展開に入れば、登録された行動へ言葉による条件を加えることもできる。
〈冠命〉。
これは一方的な命令ではない。対象がすでに一度以上応約した行動へ、条件を後から付与する技術である。「壁を出すなら、そこから動くな」「逃げたいなら、盾を捨てろ」「仲間を守るなら、オイラへ攻撃するな」。
対象者はそれを拒否できるし、別の方法を選ぶこともできる。けれどすでに別の方法にも重科が乗っている。選ばなければ攻撃が届く。選べば次の選択が縛られる。ユリシスは相手の大切なもの、習慣、倫理観、戦い方そのものを利用して、二択の両側へ代価を置く。
そして〈鎖〉。
金色の鎖は〈重価〉を保存し、対象と秤を接続し、蓄積した重さを別の形へ変換する分銅でもあった。壁生成に乗せた負荷を鎖へ保存する。盾防御へ乗せた負荷を鎖へ灯す。後退へかかった重さを足元へ接続する。ユリシスがそれを鎖ごと自分へ巻き戻せば、対象へ課していた重価は一部解除され、そのぶん彼自身の踏み込みや拳、回避や鎖の操作が軽くなる。
対価交換後は、状態がリセットされる。
そこが重要だった。
重くし続ければ相手は鈍る。
消費すれば自分が速くなる。
消費した分だけ、対象へ積んだ負荷は一度薄れる。
つまりユリシスは、相手を完全に縛り切るために重価を残すか、勝負所で支払って自分の動作へ変えるか、その都度選ばなければならない。秤はただ沈めるだけの道具ではない。片方が沈めば、もう片方が浮く。戦闘の中で彼は相手の行動から得た重さを自らの体術へ落とし込んでいる。踏み込みを軽くし、拳を鋭くし、鎖の角度を変えながら空間の隙間へ身体を滑り込ませる。
最初に軽くなったのは、ユリシスの右足だった。
少なくとも、とおるの目にはそう見えた――いや、正確に言うなら、見えたというより“そう理解するしかなかった”のだ。床を蹴る乾いた音が耳に届いたと思った瞬間には、黄緑色の髪が床すれすれの低い位置から滑り込み、次の瞬間にはもうとおるの肩の高さへ跳ね上がっていた。人間の身体というものは本来、足で地面を押しながらその反作用によって前へ進むものだが、ユリシスの踏み込みはそういう常識的な運動とはまるで違っていて、地面を蹴ったというより見えない鎖に引かれ、空間そのものの傾斜を転がり落ちてくるような不自然なほどなめらかな加速だった。
右足首へ巻き戻されていた金鎖が、一瞬だけ淡く光る。
そこへ保存されていた〈後退〉の重価が、消費されたのだ。
とおるが先ほど一歩下がろうとしたそのわずかな選択の“重さ”が、いまユリシスの踏み込みを軽くしている。
「返却期限、早くないですか!?」
「借りたもんは使うだろ」
「借りた覚えがない!」
叫び返しながら、とおるは丸盾を上げた。
しかし盾を上げるという判断そのものが、すでに遅かった。肩から肘へ、肘から手首へ、手首から盾の縁へと筋力と魔力が伝わっていくその経路の途中に、見えない泥でも詰め込まれたように動きが鈍る。合間としてはたった半拍。日常であれば落とした箸を拾うのが少し遅れた、という程度で済むわずかな時間である。しかし戦闘においてその半拍は、顔面と床の距離をかなり親密にしてしまうだけの十分すぎる猶予だった。
ユリシスの左拳は、盾の正面へ来なかった。
来るはずの場所を、通らなかった。
彼は踏み込みの勢いを殺さないまま右足を軸に身体を外側へ倒し、丸盾の表面を殴るのではなくその縁を指先で軽く叩いた。金属音が鳴った瞬間、盾へ絡みつこうとしていた鎖が輪を描き、盾の縁を支点にして上方へ流れる。押されたのではない。持ち上げられたのだ。とおるの視界の下半分を守っていたはずの盾が、まるで誰かに「はい、ちょっと上、失礼しますね」と断りもなく持ち上げられ、当然のように腹部が無防備になる。
そこへ、膝。
ただし、真正面からではない。
左斜め下から肋骨の隙間へ差し込むような角度で入ってくる膝であり、しかもその膝が届く直前にユリシスは空中で腰をひねり、右肩から伸びた鎖を背後の空間へ引っかけた。何もない場所を掴んだように見えたが、そうではない。そこには先ほどとおるが〈壁〉を出そうとして発動をためらった魔力の残り香が漂っていた。ユリシスはそのかすかな痕跡を接続点として認識し、金鎖を通しながら身体の回転軸を床から空中へ移したのである。
床の上で回ったのではない。
空間の中で、斜めに回った。
人間の関節は前後左右に動く。とおるの常識では攻撃もまたその延長線上に来るものだった。
横から斬る。前から突く。上から落とす。下から跳ね上げる。
しかしユリシスの動きはそのどれか一つに収まるものではなく、床を蹴りながら鎖で背後を吊り、肩を沈め、膝を浮かせ、左肘をとおるの盾の裏へ滑り込ませ、同時に右手の指先で胸元へ向かっていた鎖の角度を変えていく。攻撃の“線”が正面から、斜め上から、斜め下から、そして背後から一度に立ち上がる。立体パズルを制限時間三秒で解けと言われているようなものだった。しかも間違えれば痛いという、非常に教育的ではない内容である。
「ちょ、待っ――」
待ってくれるはずがなかった。
ユリシスの膝が腹へ入る直前、とおるは反射的に〈壁〉を出した。腹の前に薄い透明な板を一枚置いただけで、完全な防御とはほど遠い代物だった。術式の立ち上がりは重く、厚みも足りず位置も少し低い。それでもないよりはましだった。膝が壁へ当たり、鈍い衝撃が腹の奥へ沈む。
防いだ。——防いだはずだった。
「いまの、二回目な」
ユリシスが笑った。
壁生成への〈応約〉が、また一つ積まれる。
嫌な通知音が脳内で鳴った気がした。ポイントカードなら嬉しいが、これは貯まれば貯まるほど生活が苦しくなる種類のポイントであり、可能であれば今すぐ即時退会したい。
とおるが足を引こうとした瞬間、左足へ向かっていた鎖が床を這うのをやめた。
鎖は蛇のように足首へ巻きつくのではなく、足の少し後ろ、つまり踵を下ろす予定だった場所へ先回りしながら静かに輪を作った。踏めば接触する。踏まなければ体勢が崩れる。足そのものではなく、「そこへ逃げる」という未来の置き場所を狙っている。性格が悪い…というか、能力の仕様が悪いのか使い手の性格が悪いのか判断に迷うところではあったが、おそらく両方である。
とおるは後退を諦め、身体を右へ逃がした。
その瞬間、ユリシスの身体が沈んだ。
沈んだのに消えなかった。彼は低い姿勢のまま、とおるの右側面へ滑り込みつつ左手を床へつく。手のひらを支点に両足が〈円〉を描いた。普通の足払いなら、横一文字に来る。しかしユリシスの右足は床すれすれを走り、左足は膝の高さを通りながら二本の足の間には一本の鎖が斜めに張られていた。低、中、斜。三つの高さに、同時に線が生まれる。
避けるなら、跳ぶしかない。
跳べば、空中で盾が遅れる。
盾を下げれば、顔が空く。
壁を出せば、また重くなる。
考える時間はなかった。
とおるは丸盾を斜め下へ叩きつけるように構え、低い足払いを盾で受けた。受けた瞬間に盾へ乗った衝撃が横へ逃げる。ユリシスは蹴りを止めずに盾の表面を足裏で踏み、そのままそこを一段目の階段にした。
……あり得ない。敵の盾を足場にするなら、せめて事前に許可を取ってほしいんだが——
ユリシスの身体が、とおるの視界の上へ跳ねた。
彼は盾を蹴った反動で宙へ上がりながら、背中側の鎖を天井方向へ放った。実際に天井へ届いたわけではない。金鎖の先端は空中で輪を作り、先ほど胸元へ伸びていた鎖と交差する。二本の鎖が空中に小さな滑車を作った。ユリシスはその交点を引き、自分の身体を斜め後方へ吊り上げる。重力に逆らって跳んでいるのではなく、重くなったとおるの防御反応を分銅として“軽くなった自分の身体”を引き上げているのだ。
とおるの頭上を、影が越えた。
次の攻撃は背後から来る。
そう思った時点で、もう遅い。
ユリシスは背後へ回り込むと見せかけ、空中で腰を折りながら右踵を真下へ落とした。狙いは後頭部ではない。肩。盾を持つ腕の付け根。丸盾を上げるにも壁を出すにも剣を抜くにも、まずそこが動かなければならない。そこを一撃で折るつもりはなかった。折れば終わるが、終わらせるにはまだ早い。だから潰すのではなく痺れさせ、迷わせ、次の選択をさらに重くする。
とおるは首をすくめ、肩へ薄い壁を張った。
三回目。
壁が間に合った瞬間、世界が少し沈んだような感覚があった。魔力回路の奥に冷たい鉛を流し込まれたような抵抗が走る。ユリシスの踵は壁へ当たり火花のような光を散らして逸れたが、逸れた足がそのまま空を切ることはなかった。踵から伸びた鎖がとおるの盾の外縁を撫で、ユリシスの身体は空中でさらに半回転する。踵落としから後ろ回し蹴りへ。後ろ回し蹴りから肘打ちへ。肘打ちから、着地と同時の掌底へ。
一つ一つの技だけを見れば、体術として理解できる。
けれど、繋がり方がおかしい。
足場が床だけではない。盾が足場になり、壁の残滓が支点になる。鎖同士の交点が回転軸になる。とおるの防御反応そのものがユリシスの次の動きを滑らせるレールになる。彼は空間を平面として使っていなかった。前後左右上下、そして相手が次に選びそうな未来まで含めた見えない立体格子の中を泳いでいる。
とおるが盾を引けば、鎖が盾の移動距離を測る。
足を踏み替えれば、床の輪が未来の踵を待つ。
壁を出せば、その壁が次の跳躍点になる。
何もしなければ、拳が来る。
「選択肢が……全部、敵の通路になってるんですけど!」
「いい表現だな。採用」
「採用しないでください! 返してください著作権!」
「戦闘中に主張する権利じゃねえだろ」
言いながら、ユリシスはとおるの正面へ着地した。
膝を柔らかく曲げ、右肩をわずかに落としながら左手を開く。あからさまに拳が来る構えだった。だからとおるは盾を正面へ戻そうとした。戻そうとして、肩の奥に重さが生じる。さっきの踵落としを壁で受けた時、盾防御へ移ろうとする反応も一緒に観測されていたのだ。
ユリシスの右拳が、まっすぐ伸びる。
とおるは歯を食いしばり、盾を間に合わせた。
直後、拳は消えた。
いや、引かれた。
フェイント。
代わりに飛んできたのは、左手の掌底だった。掌底は盾を叩かず、とおるの右手首を下から押し上げる。握りが浮く。盾の角度が開く。その隙間へ金色の鎖が一本、薄く静かに——まるで書類へ差し込まれるしおりのように入り込んだ。
胸元。
呼吸。
防御反応の中心。
とおるは反射的に息を止めた。
その瞬間、ユリシスの灰色の瞳が細くなる。
「そこか」
聞こえた声は軽かった。
けれど鎖が胸の前で鳴らした音は、ひどく重かった。
とおるは、完全に押し込まれていた。
舞台の中央から見れば、彼は守っているようにすら見えなかったかもしれない。壁は出すたび遅れ、盾は上げるたび鈍り、後ろへ下がろうとした足は床へ絡んでしまう状況だった。苦し紛れに作った自動反応の小壁も拳を完全に止めるには足りない。ユリシスは大きな傷一つ負っておらず、逆にとおるの防護術式は何度か光り、腹部や胸元には打撃の痛みが残っていた。観覧席の多くは、壁山とおるという噂の異邦人がいよいよ追い詰められているのだと判断した。
——試験場の上段席。
十二華隊の関係者たちが並ぶ観覧席の一角で、リディア・アルヴェインは白銀の鎧に包まれた腕を組み、舞台の中央を見下ろしていた。
姿勢は微動だにしない。
けれどその青い瞳だけは、戦況の一挙手一投足を逃すまいと鋭く動いている。
その隣へ、いつの間にかひとりの女が立っていた。
ゾロ・スネイブル。
紅椿への移籍を控えた白華隊第三席は、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべていた。黒と紅の混じる髪を肩の後ろへ流し、背に隠された炎属性補助魔導紋が衣越しにも淡い熱を帯びている。
彼女は観覧席へ来たというより、散歩の途中で面白そうな見世物を見つけ、ふらりと足を止めたような気軽さでリディアの横に並んだ。
「あらあら」
ゾロは舞台を覗き込むようにして、楽しげに目を細めた。
「ずいぶん追い込まれているじゃない。今にも負けそうよ、あの子」
声音は穏やかだった。
けれど、言っている内容は少しも穏やかではない。
リディアの眉がほんのわずかに動いた。
「見れば分かる」
「でしょうねえ。壁は出遅れてるし、足場も完全に取られている。完全に相手のペースね」
ゾロはくすりと笑う。
「さすがの注目株、と言ったところかしら。それにあの戦い方、少し“紅椿向き”かもしれないわね」
「勧誘するな。試験中だぞ」
「あら怖い。冗談よ」
「お前の冗談は、時々本気と見分けがつかない」
「それは褒め言葉として受け取っておくわ」
「受け取るな」
短く返すリディアに、ゾロは肩をすくめた。
その仕草も声も、あくまで軽い。
けれど、舞台を見つめる目だけは笑っていなかった。
「それで?」
ゾロが、横目でリディアを見る。
「どういう気分なのかしら。自分を負かした男が、今度は別の誰かに負けそうになっているのを見るのは」
その瞬間、リディアの視線が鋭く跳ねた。
「言葉には気をつけろ」
「あら、本当に怒った?」
「事実を歪めるなと言っている」
「でも、壁に埋まったのは事実でしょう?」
「ゾロ」
「はいはい。ごめんなさい」
謝罪の言葉だけは素直だったが、その口調には反省の色など欠片もない。
ゾロは悪びれることなく笑みを残したまま、再び舞台へ視線を戻した。
リディアの横顔は硬い。
怒っているのは、壁に埋められた件をからかわれたからだけではなかった。
彼女が見ているのは、とおるの動きそのものではない。
魔力が起こる瞬間。
その流れが歪む場所。
壁が現象として成立する前後の空間。
リディアの視線は戦闘の表面ではなく、そのさらに奥へと注がれていた。
「お前も分かっているはずだ」
リディアは低く言った。
「あいつの〈壁〉は、ただの障壁ではない」
リディアは舞台から視線を外さずに言った。
「本人は今でも、あれを“板”の延長だと思っている節がある。攻撃の前へ置いたり、矢を止めたりする“物体”だとな。時には足場にしたり、水路を補強したり、村の屋根を支えることにも使っている。そういう使い方自体は間違っていないし、むしろあいつの性格には合っているのかもしれない。人の前へ立つより、人と危険の間へ何かを置くほうが自然なのだろうからな」
「ええ。本人も、前へ出るくらいなら壁と同化したい顔をしているものね」
「茶化すな」
「茶化しているのではなく、観察よ。あの子、逃げ腰に見える時ほど目が働いているわ。前へ出て勇敢に見える人間より、後ろへ下がりながら場全体を拾う人間のほうがたまにずっと厄介なの」
ゾロは柔らかく笑ったまま、白石の舞台で鎖に追われるとおるを見下ろした。ユリシスの金色の鎖が蛇のようにうねりながら床を叩いている。透明な小壁が遅れて生まれ、防護術式が淡く瞬く。
その一連の動きだけを見ればとおるは防戦一方で、いかにも敗北へ近づいている候補者にしか見えない。実際、観覧席の一部では「壁使いは追い込まれている」「噂ほどではないのでは」と囁く声もある。
「ユリシスの術式は、行動の結果を重くする」
リディアが言う。
「鎖が触れて、秤が測る。相手が何を選び、なぜそう動いたのか、その意味まで含めて術式へ載せている。単純な重量付与よりずっと仕事が丁寧で悪辣だ。とおるのような人間にとって、あの秤は非常に相性が悪い」
「だから今、壁を出すたびに沈んでいく」
「そうだ。普通ならここで手詰まりになる。得意なことを選べば選ぶほど重くなり、慣れないことを選べば精度が落ちる。ユリシスは良い候補者だ。性格は少々荒いが、相手の癖を読む目がある。会話も挑発も全部、相手の選択原理を引き出すための針になっている」
「少々、で済ませるのね。私なら“かなり”を付けるけれど」
「試験中の候補者に私情を挟むな」
「はいはい」
ゾロは素直に頷いたあと、目だけで笑った。
「けれど、相性としては面白いわね。相手の“選ぶ道”を重くする鎖と、世界の“道の途中”へ境界を差し込む壁。どちらも見た目ほど直接的じゃない」
「そこが問題だ」
リディアの声が低くなる。
「ユリシスの秤は相手の行動を一つの対象として捉えている。ならばとおるの〈壁〉が本当に“対象と対象の間へ境界を差し込む能力”であるなら、物理的な攻撃だけでなく、行動が結果へ至る途中にも触れる可能性がある。鎖と秤。意思と動作。術式と現象。原因と結果。それらの間へ壁を置けるかもしれない」
「置けるでしょうね」
ゾロはあっさりと言った。
リディアが横目で彼女を見る。
「随分と断言するな」
「あの子はまだ自分の手で何をしているのか分かっていないだけで、何度も“そこ”へ触れているわ。バルガロスの脚が落ちた時も、完全な壁を出したわけではなかった。脚と身体の間に板を挟んだというより、踏み潰される結果へ至る流れを半拍だけ横へずらした。本人はたぶん、怖すぎて記憶を芋で上書きしたいでしょうけれど」
「……あいつならやりかねないな」
「ええ。彼の長所は臆病なことよ。危険がどこから来るか、何が起きれば自分や誰かが傷つくか、いつも過剰なくらい考えている。普通なら弱点になるその癖が、〈壁〉にとっては観測の起点になる。怖いから見るのだろうし、見えるから間へ置こうとする。前向きな騎士道とは少し違うけれど、白華向きではあるわ」
リディアは返事をしなかった。
否定する理由がなかったからだ。
白華隊は敵を討ち取るためだけの隊ではない。民の前に立ち、刃が背後へ届く前に止める隊である。逃げたいと顔に書きながら、それでも村を守るために決闘を選んだ男。怖いと口に出しながら、魔物の脚の下へ踏み込んだ男。誉れ高い騎士の姿ではない。英雄譚の挿絵に描けば、読者が「この人で大丈夫か」と不安になる表情をしている。けれど危険と誰かの間へ立つという一点だけなら、とおるは何度もそこへ足を置いていた。
「私は、あいつにまず基礎を覚えさせたかった」
「ええ、あなたに言われた通り私なりに基礎を教えたつもりよ」
「壁をどこへ出すか、ではない」
「何と何の間を隔てるのか、でしょう?」
ゾロが先回りして言うと、リディアは小さく息を吐いた。
「分かっているなら茶化すな」
「茶化していないわ。嬉しいのよ。教えた基礎が、ようやく彼の中で別の形につながり始めていることが。見てごらんなさい。さっきまで彼は、拳と自分の間に壁を置こうとしていた。でも今は違う。鎖が秤へ意味を運ぶ、その“途中”を見ようとしている」
ゾロの視線の先で、とおるが右手をわずかに上げた。
壁は出ない。
透明な板も見えない。
それでもリディアの目には、彼の魔力がいつもの生成位置へ集まっていないことが分かった。空間の座標へ向かうのではなく、自分の内側、魔力回路の命令部と現象固定の間を探るように薄く広がっている。まるで細い糸の上を目隠しで歩いているような制御だった。
「危ないな」
リディアが呟く。
「危ないわね」
ゾロは穏やかに同意した。
「止めるか」
「今止めたら、彼はたぶん掴みかけたものを失うわ。もちろん、本当に暴れたら私より先にあなたが飛ぶのでしょうけれど」
「当然だ」
「頼もしい隊長様」
「褒めても何も出ない」
「壁に埋まった時の詳しい感想は?」
「ゾロ」
「はいはい。もう言わないわ」
少しも信用できない返事だった。
リディアは短く睨んだあと、再び舞台へ視線を戻す。
「私は、あいつの壁を恐れている」
その言葉は小さかった。
けれど、隣に立つゾロには十分届いた。
「同時に期待もしている。あの力がただ遮るだけのものなら危険すぎる。けれど何を遮り、何を通すかを選べるようになれば、あいつは剣では守れないものを守れるかもしれない」
「境界を壊すのではなく、境界を選ぶ」
「そうだ」
「難しいわねえ。本人は今ごろ“契約した覚えがありません”くらいのことを考えていそうなのに」
「……否定できないのが腹立たしいな」
舞台の上で、ユリシスの鎖が再び金色に光る。
「ほら、どうした」
ユリシスの鎖が右から走る。
とおるは反射的に左へ身体を振ろうとした。
足が思うように動かない。
一度後退し、一度右へ避け、一度左へ踏んだ。そのたびに何かが記録され、完全ではないにせよ行動の負荷が積まれている。ユリシスはそれを消費したり残したりしながら、とおるの“行く手”を鈍らせていた。
じゃらり、と蛇のように宙を奔った鎖が丸盾の表面を掠めた直後、接触点から金色の光が弾け、細い一条の線となって盾の縁をするすると駆け抜ける。
――重い。
盾そのものの重量が増したわけではない。とおるの左腕に食い込んだのはもっと理不尽で、もっと概念的な圧力だった。
『盾を掲げ、防御する』。
その選択、その行動そのものが見えざる秤の片側へ載せられ、代償として重量を与えられたのだ。
「っ……!」
左腕が一瞬、沈む。ほんの十数センチではあるが、戦いの最中ならそれだけで十分すぎる隙だった。
ユリシスは見逃さない。
床を蹴る音が一度だけ響き、低く潜り込んだ身体が盾の死角へ滑り込む。腰の捻りから肩、肘、拳へと力が連なり、最短距離を走った拳がとおるの胸骨めがけて突き込まれた。
「うわっ、速――!」
避けられない。
そう判断するより先に、とおるの術式が動いた。
胸元の空間が、ぴしり、と薄氷のように軋む。
そこへ現れたのは掌ほどの半透明な小壁――攻撃圧を感知した瞬間のみ自動展開する、つい先ほど実戦投入したばかりの不完全な境界術式だ。
拳が激突する。
バヂンッ!
小壁が青白い火花を散らし、真正面から受け止める――ことはできなかった。そもそもそんな強度はない。境界面そのものが斜めに傾き、ユリシスの拳をわずか数センチだけ本来の軌道から押し流す。
たった数センチ。
しかしみぞおちを狙った一撃を急所から外すには、それで足りた。
「ぐっ……!」
拳が肩口へめり込む。
衝撃が骨を通って背中まで突き抜け、とおるの上体が大きく泳いだ。遅れて防護術式が反応し、制服の下を走る術式紋が白く明滅する。吸収しきれなかった衝撃が肩の奥で鈍い痛みに変わった。
「痛い! 成功したら痛くない仕様にしてほしい!」
「自分で作って自分で使ってんだろ!」
ユリシスが拳を引く。その動作に合わせ、もう一方の手から鎖が放たれた。
「未完成品なんです!」
とおるは首を竦める。直後、ひゅん、と風を裂いた鎖が髪を数本さらって頭上を通過した。
「試験で試すなよ!」
「そちらが試験で悪質能力を使ってくるからでしょう!」
「悪質は褒め言葉だって言ったろ!」
「一度も言ってません!」
言い返しながら、とおるは後方へ跳ぶ。着地と同時に丸盾を斜めへ構え直す。追撃の鎖が床を叩き、石造りの舞台から乾いた破砕音とともに欠片が跳ねた。
会話だけを聞けば、子供じみた口喧嘩である。
しかしその最中にも二人の間では、目まぐるしい速度で術式の干渉と対抗制御が繰り返されていた。
鎖が走る。盾が弾く。金色の軌跡が残る。境界術式が瞬き、拳がそれを砕く。
一手ごとに新たな術式現象が発生し、一手ごとに対抗策が組み上げられていく。その応酬を前に、観覧席の測定官たちはいつしか記録用紙へ落としていた視線を舞台へ釘付けにされていた。中には身を乗り出し、測定器の数値と二人の挙動を忙しく見比べている者までいる。
もしエルネがこの場にいれば、間違いなく目を輝かせて測定器を抱えていただろう。
『とおるさん! もう少し右腕を開いてください! 今すごくいい値が出ています!』
などと、殴り合いの真っ最中に平然と言い出しかねない。
本人の安全や許可より先に数値へ興味を示す研究者気質というものは、時として敵の攻撃より怖い。
「っと!」
思考を余所へ逸らした瞬間、金色の鎖が足元を薙いだ。
とおるは反射的に跳ぶ。
――その瞬間だった。
視界の端で、黄金の秤が揺れた。
片側の皿が、かくん、と沈む。
「……!」
着地した途端、両脚へ凄まじい負荷が圧し掛かった。
膝が沈む。靴底が舞台を擦る。
まただ。
とおるは歯を食いしばりながら、頭だけは冷静に回し続ける。
鎖が触れた瞬間、何かが“秤”へ載せられる。
盾に触れたときは、『防御する』という行動。
今はおそらく、『回避して着地する』という結果。
そして秤が傾いた直後――重さという概念が、まるで最初からそういう法則だったかのように対象へ付与される。
物理的に重くしているわけではない。
重力を増幅しているのとも違う。
もっと根本。
もっと厄介だ。
世界に対して、『その行為には、それだけの重さがある』と認めさせている。
「……なるほど」
喉の奥で砂を噛み潰すように、とおるは低く呟いた。
鎖を切る。
一瞬だけ、その選択肢が脳裏をよぎった。
ユリシスの手から伸びる黄金の鎖を断ち切れば、あの不条理な重さから逃れられるのではないか――そんな単純な発想が、戦場の熱に炙られた思考の表面へ泡のように浮かび上がった。
——違う。
鎖そのものが、ユリシスの能力の本体ではない。
あれはただの媒体だ。
頭上に浮かぶ黄金の秤も同じで、あれもまた見えない現象を人間の認識へ落とし込むために用意された象徴でしかなく、鎖が罪を絡め取り、秤がそれを量るという形を取っているだけで、本当に恐ろしいものはその見た目の奥で静かに作動している。
選択。
行動。
結果。
その三つを不可視の糸で結びつけ、そこへ『重さ』という意味を付与しながら行為そのものを世界の側から押し潰してくる因果処理。
ユリシスが、再び鎖を振るった。
ジャラリ、と空気の底を引っ掻くような金属音が響き、黄金が白石の舞台を裂く稲妻のように奔る。
とおるは今度こそ、目を逸らさなかった。
鎖の軌道ではない。
秤の傾きでもない。
その二つが互いを意味づけ、選択から結果へと現象を伝播させている目には見えないはずの“繋がり”そのものを真正面から見据えようとした。
魔力は、流れる。
流れる以上、そこには起点がある。
終点がある。
そして起点から終点へ何かが届く以上、その途中には必ず――繋がりがある。
術者の意思が魔力回路へ命令を流し、命令を受けた魔素子が意味を与えられ、属性に従って再配列され、それが術式となって回路を駆け抜けることで現象固定部へ到達し、最後に世界へ『結果』として定着する。
意思から命令へ。
命令から魔素子へ。
魔素子から術式へ。
術式から現象へ。
原因から結果へ。
どれほど複雑な魔法であろうと、どれほど神秘的に見えるスキルであろうと、結局はそれらが途切れず繋がっているから成立しているにすぎない。
ならば――途中のどこか一つでも、切り離せば?
現象は、最後まで辿り着けない。
(〈壁〉を置く場所は、一つじゃない)
その発想が浮かんだ瞬間、とおるの内側で何かが音を立てて反転した。
拳と顔の間。
剣と身体の間。
爪と仲間の間。
鎖と腕の間。
これまで自分が境界だと思っていたものは、すべて目に見える物理的な空間だった。
だから攻撃が来れば、その間へ壁を作る。
敵意と肉体の間に、透明な板を差し込む。
それが自分の能力なのだと、疑いもしなかった。
――違う。
術者と術式の間にも、境界はある。
術式と現象の間にも、境界はある。
原因と結果。
意思と行動。
選択と契約。
そしてまだ確定していない何かを、世界が『そうなった』と認識する、その刹那にも。
見えないだけだ。
境界は、最初からそこにある。
ぞくり、と冷たいものが背骨の内側を駆け上がった。
ユリシスが重くしているのは、物体ではない。
剣でも、盾でも、腕でも、足でもない。
ある選択が行動となり、その行動が結果へ辿り着くまでの道筋そのものへ『重さ』を与え、その結果動こうとした者の身体が潰れ、守ろうとした意志が沈んでいく。
鎖は対象を選び、秤は意味を量り、その二つの間を何かが結んでいる。
なら――。
(俺が〈壁〉を差し込むべきなのは、その“途中”だ)
かちり。
視界の奥で今までずっと噛み合わず空回りしていた歯車が、初めて正しい位置へ嵌まったような感覚がした。
(……そうか。俺は今まで、壁を“出してた”んじゃない)
空間に板状の防御物を生成する。
それが〈壁〉なのだと思っていた。
けれど、本当は違った。
剣が自分へ『届く』結果と、『届かない』結果。
魔物の爪が仲間へ『触れる』未来と、『触れない』未来。
衝撃が肉体を砕くはずだった結末と、そこへ至らない結末。
そのあいだへ線を引き、連続しているはずの現象へ断絶を作り、世界が当然のように繋げようとした因果の流れを薄い一枚で拒絶していた。
ならば、リディアを地面へ埋めたあの事故だって説明できる。
あれは集会所の壁へ物理的な板を出しただけではない。
動作と空間。
魔力回路と壁面。
攻撃と結果。
本来なら滑らかに繋がっているはずの関係へ、とおるが無意識のまま〈境界〉を割り込ませ、その断絶をどうにか埋めようとした世界の側が辻褄合わせとして、あの滅茶苦茶な現象を成立させてしまったのだ。
(だったら――)
その瞬間だった。
闘技場が、消えた。
いや、実際に消失したわけではない。
白石を敷き詰めた舞台は足の裏に確かな硬さを返しているし、階段状に広がる観覧席も遥か頭上へ枝葉を広げる世界樹も、十二華隊の紋章を刻んだ柱もすべてそこにある。
真正面には黄緑色の髪を揺らすユリシスがいて、額から伸びた黒い角も、その手の中で蛇のように蠢く金色の鎖もはっきりと見えている。
なのに――輪郭だけが、薄い。
「……なんだ、これ」
代わりに浮かび上がったものを見て、とおるは息を呑んだ。
線。
線。
線。
視界を埋め尽くす、無数の白い糸。
人と人を結ぶ線がある。
足裏と床を結ぶ線がある。
握った盾と左腕を結ぶ線。
鎖と秤を結ぶ線。
ユリシスの意思から鎖へ伸びる線。
鎖からとおるの右腕へ絡みつこうとする線。
魔力と術式。
術式と現象。
視線と標的。
恐怖と判断。
判断と後退。
選択と結果。
目に見える物体だけではない。
この世界で『何か』と『何か』が関係を持った瞬間、その間に生まれる繋がりそのものが白い糸となって視界へ露出していた。
「っ……!」
直後、こめかみの奥へ焼けた針を突き込まれたような激痛が走った。
多い。
多すぎる。
一歩踏み出すだけで、足と床、重心と身体、意思と筋肉、摩擦と速度の間に何十本もの線が生まれ、誰かが息をするだけで胸郭と空気、鼓動と血流、緊張と判断の線が震え、ユリシスが指一本動かせば、魔力、筋肉、意志、術式、空間、そのすべてに新しい繋がりが走る。
(無理無理無理無理、待て待て待て!)
普段なら脳内にいる小さな自分たちが、今頃そろって机をひっくり返していた。
『処理不能です!』
『糸が多すぎます!』
『全部重要そうに見えます!』
『優先順位を決めてください!』
『誰だこんな機能実装したの!』
『俺だよ!』
頭の奥がずきずきと脈打ち、視界が二重にも三重にも揺れている。胃の底から酸っぱい吐き気が持ち上がり、足元の感覚さえ白い霧の向こうへ遠ざかっていく。
全部を見ようとすれば駄目だ。
世界に存在する繋がりを片っ端から認識しようとすれば、必要な一本を見つける前に自分の脳が焼き切れる。
なら、見るな。
全部を見る必要なんてない。
一つ。
たった一本でいい。
とおるは奥歯を噛み締め、溢れ返る情報を意識の外へ押し退けた。
人と床――違う。
ユリシスと鎖――それでもない。
鎖と自分――まだ早い。
見るべき場所はそこではない。
探すべきなのは、ユリシスの攻撃でも自分へ迫る黄金でも、今まさに潰されようとしている右腕でもない。
(鎖と――秤)
見つけた。
幾千もの白い線が錯綜する視界の中央で、それだけが異質な輝きを放っていた。
ユリシスの手から伸びる金色の鎖。
その軌道をなぞるように一本の細い白線が空間を走り、頭上に浮かぶ黄金の秤へ繋がっている。
鎖が対象へ触れ、選択を拾い上げ、それを『重さ』として秤へ渡し、秤が結果を世界へ押し返す――その一連の因果を成立させている道。
その一本さえ遮ればいい。
とおるが答えへ辿り着いたのとユリシスが動いたのは、ほとんど同時だった。
「――そこか」
短い声が、舞台の上を冷たく滑った。
ユリシスの肩が沈む。
重心が落ちる。
黄緑色の髪が遅れて揺れ、黒い角の影が額に落ちる。
次の瞬間、腕が鞭のように振り抜かれた。
ジャラァッ!
金色の鎖が、光の槍のように一直線に射出される。
今までのような薙ぎ払いでも、牽制でもない。
狙いは明確だった。
――右腕。
〈壁〉を出す手。
何度も秤へ載せられ、何度も重さを押しつけられ、それでも自動反応の小壁によって『防御する』という行動そのものの輪郭が曖昧になり始めている、とおるの能力の中心。
ユリシスも気づいている。
だから今度は防御を崩すのではなく、防御が生まれる起点そのものを潰しに来た。
鎖が空気を引き裂く。
甲高い風切り音を伴って黄金の輪が開き、蛇が獲物へ牙を剥くようにとおるの右腕へ迫る。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
とおるは――動かなかった。
避けない。
盾も上げない。
いつもの〈壁〉さえ出さない。
「――?」
初めて、ユリシスの表情が僅かに揺れた。
鎖の先端が迫る。
五十センチ。
三十。
十。
金属の冷気が皮膚を撫で、黄金の輪に映った光が、とおるの右手の甲を細く照らした。
あと一瞬で触れる。
触れれば右腕の行動が秤へ載せられ、防御しようとした意志ごと再び重さに沈められる。
それでも、とおるは鎖を見ていなかった。
見ていたのは、その向こう。
金色の鎖から黄金の秤へ伸びる――たった一本の白い線。
(そこだ)
鎖が右腕へ触れる、その寸前。
とおるは指一本動かさなかった。
足も、肩も、視線さえも、戦場の時間から取り残されたように静止していた。
ただ、意識だけで。
鎖と秤。
原因と結果。
選択と裁定。
その二つを繋いでいる白線の途中へ――紙一枚よりも薄く、けれど世界の理屈そのものを拒む〈境界〉を静かに差し込んだ。




