第30話 人には向き不向きというものがあります
壁山とおるの人生を一言で表すなら、守りこそ最大の防御である。
攻撃こそ最大の防御ではないのか、と世間一般から正論を投げつけられそうな文言ではあるものの、とおるにとって前へ出るという行為は、相手へ近づく、攻撃を受ける可能性が増える、逃げ道が減る、失敗した時に目立つ、成功した場合には次も期待される、という五段構えのリスクを同時に背負う危険な選択であり、そこまでの負担を引き受けてまで積極的に殴りかかる理由など、これまでの人生で一度も見つけられなかった。人生で誰かに告白した経験もない。好意を持った相手へ「好きです」と伝えるより先に、断られた後の気まずさ、共通の知人へ話が広まる可能性、翌日以降の席順、廊下ですれ違った際にどちらが先に目を逸らすのか、連絡先を消すべきか残すべきか、卒業式まで何日あるのかという後処理まで脳内で計算し、最終的に何も始まっていない段階で諦めるような男だったのである。人生のあらゆる選択肢へ勝手にリスクアセスメントをかけ、危険度を色分けし、赤くなった項目を眺めて「今回は見送るのが賢明ですね」と自分へ報告書を提出してきたのだから、攻めるより守るほうが得意になるのは当然だった。
その後ろ重心すぎる人格を忠実に反映するように、ユリシス・グランヴェルとの決闘が始まって最初にとおるが置こうとしたものも、自分の正面を塞ぐ一枚の〈壁〉だった。
試合開始直後から逃げ腰。
観客席からそう見られても仕方がない。
聖騎士を志す若者が集う格式高い決闘舞台で、相手へ一歩も近づかず、自分の前へ障壁を出そうとする姿は、勇猛果敢という言葉から最も遠い。剣を掲げて走る候補者や、炎をまとって踏み込む魔術剣士、先ほどのミレイユのように白雷で間合いを支配する天才と比べれば、とおるの初手は地味を通り越し、決闘開始と同時に自室の扉へ鍵をかけようとしている人間に近かった。
それでも、とおるにとっては定石である。
騎士団にそれぞれ役割があるように、戦い方にも向き不向きが存在する。
最前線で敵を討ち取る剣士。
遠距離から味方を援護する魔導士。
敵陣へ入り、隊列を崩す槍術士。
傷を塞ぎ、呼吸を整え、倒れた者を再び立たせる治癒術者。
そして味方の退路を守り、敵の進軍を止め、危険が背後へ抜けるまでの時間を稼ぐ防衛役。
とおるの〈壁〉は、どう考えても最後の役割だった。前へ出て押し切る能力ではない。何も知らない相手へ勢いだけで突っ込み、力と力をぶつけた末に勝つためのスキルでもない。一歩退き、相手の攻撃を受け、魔力の流れや呼吸の癖を読み、時間を稼ぎながら自分に有利な形へ勝負を引き寄せるための能力である。
試合開始と同時に壁を置く。
それは逃げではない。
少なくとも、本人はそう信じている。
とおるという人間にとって最も合理的な攻め方であり、自分の長所を最大限に生かすための、れっきとした戦術だった。
相手の能力が未知数である以上、まず壁越しに一手目を受ける。
剣士なら、踏み込みの速度、剣の間合い、重心の落とし方。
魔導士なら、術式の起動時間、魔力波の形、属性変換が起こる位置。
槍術士なら、穂先の軌道、制動の癖、長柄を戻す際の手首と腰の使い方。
格闘術者なら、足の運び、拳が届く距離、強化魔力が集中する部位。
どんな戦いであれ、一手目には術者自身の癖が滲む。本人が隠しているつもりでも、魔力が動けば流れは生まれ、衝撃が壁へ触れれば重さは返り、術式が障壁へ干渉すれば、その性質はわずかな濁りや振動としてとおるへ伝わる。
〈壁〉は防具であると同時に、観測装置でもあった。
攻撃を止める。
魔力へ干渉する。
衝撃を受ける。
熱を伝える。
音を返す。
それら全てを壁という一枚の面へ集め、とおるの知覚へ返してくる。
ゾロとの三ヶ月で教わったのは、派手な必殺技ではない。
「知らない相手ほど、最初の一手を急がないことねえ」
柔らかく笑いながら、彼女は何度も言った。
「相手もあなたを知らないの。だったら、先に全部見せたほうが負け。壁を置いて、一度触らせて、魔力を見て、癖を見て、それから嫌な場所へ二枚目を置きなさい。あなたはねえ、焦って前へ出るより、相手が焦って前へ出てくるまで待ったほうが強いのよ」
実戦的。
地味。
とても自分向き。
そして何より、前へ出なくていい。
とおるはその教えだけなら、三ヶ月の訓練内容の中でも比較的好意的に受け止めていた。
問題は、いま目の前にいるユリシスの能力が、壁へ触れるより先に、とおるの“壁を出す”という選択そのものへ干渉してきたことだった。
右手へ魔力が集まる。
生成位置は正面三メートル。
高さは胸上。
幅は人間二人分。
厚みは薄め。
まずは相手の一手を受けるための観測用。
そこまで頭の中で決まっている。
術式も壊れていない。
魔力回路にも異常はない。
〈壁〉を発動するための命令は、確かに身体の内側を通っている。
なのに遠い。
自分の意思から、現実へ壁が生まれるまでの道が、廊下一本分だったはずなのに、突然山道へ作り替えられたような、しかもその山道へ重い荷物を背負わされた状態で一歩ずつ登らされているような、ひどく説明しづらい遅延が生じていた。
「重っ……!」
とおるの口から、情けない声が漏れる。
腕が重いわけではない。
右手は上がる。
指も動く。
魔力もある。
それでも、壁を出そうとする意思を術式へ通すたび、その命令だけが水を吸った布団のように重くなり、魔力回路の途中で引っかかる。
ユリシスの頭上には、金色の秤が浮かんでいた。
現実の金属ではない。
魔力によって形作られた、淡く透ける巨大な天秤。
左右の皿は同じ高さにあるように見えたが、とおるが〈壁〉を出そうとした直後に片側がわずかに沈み、反対側が持ち上がった。
首元から垂れた鎖の一節が、ちり、と金色に光る。
ユリシスは笑っていた。
「やっぱ最初は壁か」
「分かってたんですか」
「分かるだろ。アンタ、さっきからずっと盾抱えて、後ろへ逃げる準備してんじゃん」
「観察内容の言語化が失礼すぎません?」
「褒めてんだぜ」
「どの部分を?」
「自分の得意なことを選んだ。悪くねえ」
「褒められている感じがしないのは、そちらの顔が楽しそうすぎるからでしょうか」
「楽しいからな」
ユリシスの声は軽い。
試験前の緊張をほぐすための冗談とは違う。純粋に、目の前の相手が何を選び、どんな反応を見せ、どう苦しみながら次の答えを出すのか、それを心底楽しみにしている人間の声だった。
とおるは、こういう人物が苦手である。
無口で冷たい人間も怖い。
威圧的な人間も怖い。
笑顔で距離を詰めてくる人間はもっと怖い。
話しかけられれば返事をしなければならない。返事をすれば会話が続く。会話が続けば自分のことを知られる。知られた情報を戦術へ利用される。
人間関係においても、戦闘においても、陽気に話しかけてくる好戦的な相手は危険だった。
「オイラを止めたいんだろ?」
ユリシスが尋ねた。
言葉と同時に、鎖の先端が床を擦る。
じゃり、と硬い音が円舞台へ響いた。
とおるは返事をしない。
止めたい。
止めないと攻撃される。
壁を出す。
それが自然な流れであり、自分の戦い方であり、最も安全な選択。
だからこそ、答えてはいけない気がした。
「無視すんなよ」
「会話へ応じると、契約が発生するタイプの能力に見えるので」
「へえ」
ユリシスの笑みが深くなる。
「少し聞いてたか」
「少しだけです」
「じゃあ、どこまで分かってる?」
「相手に選択させて、その行動を重くする。たぶん、言葉も条件の一部」
「だいたい正解」
「できれば不正解であってほしかったです」
「残念だったな」
そこまで答えながら、とおるは自分の発言に内心で首を傾げていた。
口にした内容は、待合室でネロたちから聞かされた断片と、試合開始直後に右腕へのしかかった奇妙な負荷を無理やり結びつけただけの推測であり、ユリシスの能力について何かを理解したとは到底言い難い。相手に選択させる。行動を重くする。言葉が条件になる。その程度の情報だけで戦術の全体像が見えるのなら、世の中の契約書に細かい但し書きが何十行も並ぶ必要はないし、前世の携帯電話料金も、最初の説明だけで誰もが完全に理解できていたはずである。
実際、とおるには何が起きているのか分かっていなかった。
右手は動く。
魔力も集まる。
〈壁〉の生成位置も頭の中で指定できる。
術式回路が焼けた様子もなければ、魔力を奪われた感覚もない。
それなのに、壁を出そうと意識した途端、意思と現象の間へ粘つく泥を流し込まれたように工程全体が鈍り、いつもなら呼吸一つで済む命令が、役所の窓口を五つ回って最後に「担当部署が違います」と言われる手続きのように長引いていた。
ユリシスは、その困惑を眺めている。
助言する気はない。
答えを教える気もない。
相手がどの段階で違和感に気づき、どの言葉へ反応し、何を選ぶのかを、檻の外から珍しい生き物を観察するような目で待っている。
趣味が悪い。
非常に趣味が悪い。
しかも本人が心底楽しそうなので、改善の見込みがない。
「だからって、説明書くらい配ってくれてもいいんじゃないですかね」
「試合前に敵へ能力の説明書を渡す奴がいるかよ」
「初回利用者向けの簡易案内くらいはあっても」
「オイラの能力を体験版みたいに言うな」
「いまのところ解約方法も分からない悪質サービスですけど」
「使ってんのはオイラだ」
「じゃあ運営側じゃないですか」
会話を続けながら、とおるは正面の空間へ意識を向けた。
先ほど生成し損ねた〈壁〉の位置。
自分とユリシスの間、およそ三メートル。
高さは胸の少し上。
幅は左右への回り込みを完全に防ぐほど広くせず、相手がどちらへ動くか観察できる程度。
強度は最大ではない。
初手で必要なのは絶対防御ではなく、ユリシスがどう触れてくるかを知るための一枚である。
ゾロから教えられた通り、未知の相手へ最初から全ての魔力を注ぎ込まない。薄く、狭く、壊されても構わない壁を置き、打撃の角度、魔力の性質、足運び、視線、武器の有無、術式発動の前兆を拾う。
頭の中で用途を整理した途端、先ほどまであった奇妙な重さがほんの少しだけ薄くなった。
消えたわけではない。
壁を出すという行動が急に軽くなったというより、重さへ身体のほうが慣れ、どこへ力を通せば現象まで届くのか分かり始めた感覚に近い。
とおるは右手を押し出した。
透明な〈壁〉が、空気を固めるように立ち上がる。
普段より半拍ほど遅い。
表面には薄い曇りが残り、右上の角もわずかに歪んでいる。
それでも壁は壁だった。
ユリシスと自分の間へ、確かな境界が一枚生まれる。
「出た」
とおるは思わず呟いた。
「そりゃ出るだろ」
「こちらとしては、成功しただけで拍手してほしい段階なんです」
「試験で壁一枚出して拍手されてたら、聖騎士なんて誰でもなれんぞ」
「だから俺は誰でもなれる職業を希望しています」
観覧席のどこかから、くすりと笑う声が聞こえた。
格式ある決闘舞台で何を話しているのだという空気も混じっていたが、とおるに周囲の評価を気にする余裕はない。
ユリシスはすぐに動かなかった。
壁の正面へ立ち、灰色の瞳で透明な面を眺める。
拳を構えない。
魔力弾も作らない。
首から垂れた鎖にも触れず、壁の向こうにいるとおるの呼吸や手の位置、肩へ入った力、足裏の重心まで確認するように、ほんの少し首を傾けただけだった。
「……何ですか」
「いや」
「見られると困るんですけど」
「試合中だぞ」
「知っています。だからこそ、見ないで殴ってきてください」
「無茶言うなよ」
ユリシスの右足が、半歩前へ出る。
床を強く蹴ったわけでもない。
金属性の強化術式を派手にまとった様子もない。
ただ距離を詰めるための、ごく普通の一歩。
とおるは壁越しにその足運びを見た。
踵から入らない。
つま先だけにも寄っていない。
足裏全体を低く滑らせ、いつでも左右へ動ける重心を保っている。
格闘術か。
鎖術か。
少なくとも剣士の歩き方ではない。
壁へ拳を打ち込むつもりなら、もう少し腰を落とし、肩か背中へ力を集める前兆が見えるはずである。
ユリシスは何も見せないまま、さらに半歩進んだ。
壁まで、あと腕一本分。
とおるの頭の中へ、いくつかの選択肢が浮かぶ。
壁を厚くする。
壁を増やす。
相手の足元へ二枚目を出す。
自分が後ろへ下がる。
剣を抜く。
丸盾を構える。
その中で、後ろへ下がるという選択だけが妙に自然に感じられた。
壁があるのだから、距離を取るべきだ。
相手が壁へ近づいているのだから、突破された際に備えて間合いを広げるべきだ。
防御役として正しい。
ゾロからも、相手の初動を読める距離を維持しろと言われている。
とおるの左足が、無意識に半歩後ろへ滑った。
ユリシスの目が細くなる。
金色の秤が、ごくわずかに揺れた。
「下がるんだな」
「近づかれたので」
「壁があるのに?」
「壁を過信するなと教わっています」
「慎重だなあ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「いいぜ。好きにしろよ」
その言葉とともに、ユリシスは壁へ手を伸ばした。
殴らない。
指先で触れるだけ。
黒い手袋の先が透明な壁面へ触れ、薄い波紋が同心円状に広がる。
とおるは反射的に魔力を壁へ流し込んだ。
接触された。
何かされる。
強度を上げる。
壊される前に補強する。
あまりにも自然な判断だった。
壁の表面が濃くなる。
透明度が落ち、内部へ魔力の層が一枚追加される。
同時に、首から垂れたユリシスの鎖の一節が、かすかに金色の光を帯びた。
とおるは気づかなかった。
彼の意識は、壁越しに返ってきた感触へ集中していたからである。
熱はない。
雷でもない。
衝撃もない。
金属性らしい硬質な魔力が、指先から壁の表面へごく薄く流れ込み、こちらの術式構造を壊すのではなく、輪郭をなぞるように一周している。
壁そのものを解析しているのか。
魔力の接続点を探っているのか。
あるいは単なる牽制か。
「何をしたんです」
「触っただけ」
「この世界の強い人、“触っただけ”でろくなことをしないんですよ」
「失礼だな」
「実体験です」
ユリシスは指を離した。
壁には傷一つ残っていない。
とおるは拍子抜けした。
初手で壁を破壊される可能性まで考えていたのに、相手は強度を確かめただけで離れた。
攻撃を受ければ情報が返ってくる。
そう考えて出した壁に、攻撃そのものが来なかったのである。
観測装置へ何も入力されなければ、得られる答えも少ない。
「思ったより慎重なんですね」
「オイラが?」
「見た目のわりに」
「見た目のわりって何だよ」
「もっとこう、試合開始と同時に『おらぁ!』って叫びながら殴ってくる感じかと」
「アンタ、オイラを何だと思ってんだ」
「角と鎖を装備した好戦的な注目候補」
「だいたい合ってるじゃん」
「自覚があるんですか」
ユリシスが笑い、壁の左側へ一歩動いた。
とおるの視線も追う。
回り込むつもりか。
壁の幅は人間二人分ほどしかない。
左右から抜けることは難しくない。
二枚目を左へ出す。
そう考えたところで、右側の空間が急に危険に思えた。
ユリシスは左へ動いている。
だから左を塞ぐ。
普通ならそう判断する。
けれど、首から垂れた鎖は身体の右側へ残っており、彼が左へ進めば鎖の先端は遅れて右から回り込む可能性がある。左へ壁を出した場合、右側が完全に空く。なら、先に右を塞いだほうがいいのか。
右。
左。
後退。
正面の壁を解除し、広い一枚へ作り直す。
選択肢が増えるほど、決めるまでの時間も増える。
ユリシスは、とおるが迷っている間にも歩き続ける。
速くない。
走ってすらいない。
それなのに距離だけが縮まり、こちらの判断だけが遅れていく。
「右か左か、決めねえの?」
「実況しないでください」
「オイラは左にいるぜ」
「そう見せて右から鎖を飛ばす可能性があります」
「あるかもな」
「素直に答えないでください。候補が増えます」
「じゃあ、左を塞げよ」
ユリシスの言葉が、空間へ落ちる。
命令ではない。
挑発にすら聞こえない。
状況を見れば当然の助言。
相手が左へ回り込もうとしている。
左側へ壁を出す。
正しい。
自然。
これまで自分が何度もやってきた対応である。
とおるの右手へ魔力が集まった。
二枚目の生成位置を左側へ指定する。
先ほどより軽い。
壁を出すこと自体はまだ重いものの、左へ置くという判断だけが妙に滑らかに回路へ入っていく。
半透明の壁が正面の一枚と斜めにつながり、ユリシスの進路を塞いだ。
「二枚目」
ユリシスが小さく言った。
「数えないでください」
「何で?」
「強敵が回数を数え始めた時、だいたいろくなことにならないからです」
「経験則か?」
「フィクション知識です」
「また妙な言葉使ってんな」
ユリシスは左へ進むのをやめた。
予想通り鎖を右から飛ばすこともなく、ただ二枚目の壁を眺めている。
とおるの胸へ、嫌な違和感が生まれた。
左を塞いだのは自分である。
相手が左へ動いたから。
ユリシスの言葉へ従ったつもりもない。
壁を出すべきだと自分で判断した。
それなのに、相手の狙い通りに動かされたような感覚だけが残る。
「誘いました?」
「何を」
「俺に二枚目を出させた」
「アンタが勝手に出したんだろ」
「その言い方、悪徳商法の人がよく使いそうです」
「知らねえよ」
「左へ行くふりをして、左へ壁を置かせた」
「左へ行ったぜ」
「途中でやめました」
「壁が出たからな」
理屈は通っている。
進路を塞がれたから止まった。
それだけ。
けれど、とおるの気脈感知には、ユリシスが最初から全力で左へ抜けるつもりではなかったように見えた。
足へ流した魔力が少ない。
重心も中央へ残っていた。
回り込みというより、こちらの反応を見るために身体を動かしただけ。
そして、とおるは反応した。
壁を出した。
ユリシスはその結果を確認し、満足そうに笑っている。
何かを測られている。
能力の強度ではない。
壁の耐久力でもない。
自分がどの状況で、何を選ぶか。
そこを見られている。
観覧席から試合を見下ろす者の中には、この時点ですでにユリシスの意図へ気づいた者もいた。
彼の頭上へ浮かぶ金色の秤が量っているのは、物体の重量ではない。
ユリシスは、とおるの選択肢へ微細な傾斜を作っていた。
左へ進む姿を見せる。
左側への防御が合理的に見える。
「左を塞げ」と言葉を添える。
命令によって強制するのではなく、本人がもともと持っている判断と同じ方向へ、ほんの少しだけ背を押す。
とおるは自らの意思で左へ壁を出した。
その事実は揺らがない。
ユリシスが奪ったのは自由ではなく、複数の選択肢に与えられた“選びやすさ”の均衡だった。
もっとも、とおる本人にそんな詳細は分からない。
分かっているのは、壁を二枚出したこと。
ユリシスがまだ一度もまともに攻撃していないこと。
にもかかわらず、自分の魔力消費と緊張だけが順調に増えていること。
会社で言えば会議が二時間続いたのに何も決まらず、飲み物と人件費だけが消費された状態である。
「攻撃してこないんですか」
「してほしいのか?」
「してほしくはないです。試験なので確認しただけです」
「じゃあ、もっと守れよ」
ユリシスが床を蹴り、正面から一気に間合いを詰めてきた。靴底が石床を擦る乾いた音とともに、彼の身体は二枚の透明な壁が作る狭い角度の内側へ滑り込み、肩を沈めながら右腕を引き絞る。握り込まれた拳が腰の脇でわずかに止まり、その瞬間、とおるの背筋を冷たい予感が走った。今度こそ来る。先ほどのような牽制ではなく、正面の壁そのものを打ち砕くための一撃だ。とおるは咄嗟に右手へ魔力を集め、すでに一度補強してある正面壁へさらに厚い層を重ねようとした。同じ壁を、同じ目的で、相手の攻撃を止めるために強化する。やること自体は単純なはずだった。ところが魔力を流し込んだ瞬間、術式回路の奥から先ほどとは比べものにならない重圧が逆流してきた。
「なっ……!」
魔力が尽きたわけではない。壁もまだ健在で、補強の命令そのものも通っている。にもかかわらず、術式の内部へ新しい防御層を組み込もうとするたび、見えない泥の中へ腕ごと押し込んでいるような鈍い抵抗がまとわりつき、普段なら一瞬で終わるはずの処理がじりじりと遅れていく。命令は届いているのに、壁が応じない。いや、応じてはいるのだが、その反応までの道のりだけが不自然なほど引き延ばされている。ユリシスの拳はすでに目前まで迫っていた。肩から肘、肘から拳へ力が連なり、今にも透明な壁を貫こうとしている。
——間に合わない。このままでは壊される。
そう判断したとおるは補強を諦め、左腕の丸盾を跳ね上げた。壁を破られた直後の打撃を受け止めるための、反射的でありながら正しい防御だった。
しかしユリシスの拳は透明な壁へ触れる寸前で、ぴたりと止まった。
「え?」
衝撃は来ない。拳は壁を殴ることなく引き戻され、代わりにユリシスは首元から垂れていた金属鎖を左手で掴むと、ほとんど予備動作もなく頭上へ放り上げた。連なった金属環が薄暗い訓練場の光を弾きながら弧を描き、二枚の壁の上端を軽々と越えていく。次の瞬間、鎖の先端がとおるの真上から蛇のように落下してきた。
「そっち!?」
すでに丸盾は上がっている。頭上からの攻撃を受けるにはむしろ好都合だった。とおるは盾をさらに高く掲げ、衝撃へ備えて首をすくめる。鎖が盾面へ触れる。しかし、予想していた金属音も、腕を痺れさせる衝撃もなかった。鎖そのものの重量は見た目ほど重くなく、防護術式が反応するほどの威力すら伴っていない。金属環は盾を軽く叩いて、乾いた音を一つ立てただけでそのまま表面を滑り落ちていった。
攻撃ではない。
またしても、こちらの反応を引き出すためだけの動きだ。
その証拠に、ユリシスの鎖のうち、先ほどとは異なる一節が淡い金色を帯びた。金属環の隙間から滲む光は炎のように揺らめくのではなく、まるでそこに何らかの記録が刻み込まれたかのように静かに灯っている。
「今度は盾か」
「俺、もしかして一つずつ試されてます?」
「試験だからな」
「その言葉、都合が良すぎません?」
とおるは盾をゆっくり下ろしながら、今度こそ確信した。ユリシスは自分を殴り倒そうとしているわけではない。少なくとも、今はまだその段階ではない。壁を出させ、補強させ、盾を上げさせ、後退させる。こちらが危険を感じた時、何を選び、どの順番で、どう行動するのかを一つずつ確かめている。そして一度確認された行動は、二度目から明らかに実行しづらくなる。
最初の壁生成より、二枚目の壁生成のほうが重かった。最初の補強より二度目の補強のほうが遅れた。いま盾を掲げた際にも、ほんのわずかではあるが左肩を誰かに押さえつけられたような抵抗を感じた。
偶然、疲労、緊張。
そのどれかで片づけるには、変化があまりにも行動ごとに分かれすぎている。壁を出そうとした時だけ重い。壁へ魔力を加えようとした時だけ進みにくい。盾を上げようとした時だけ、動作の始まりがわずかに遅れる。身体全体の重量が増しているわけではない。特定の動作を選んだ瞬間、その行動へ至るまでの距離だけが引き延ばされている。
「もしかして」
とおるは盾越しにユリシスを見据えた。
「何だよ」
「俺が一度やった行動を、覚えてるんですか」
「オイラの記憶力の話か?」
「能力の話です。一度壁を出した。次に同じように壁を出そうとしたら重くなった。一度壁を補強した。そのあとまた補強しようとしたら、今度はもっと遅くなった」
ユリシスの笑みは変わらなかった。肯定もしないし否定もしない。ただ灰色の瞳だけが、そこで止まるな、もっと考えろと促すようにとおるの一挙一動を見つめている。
「同じ行動を繰り返すたびに、負荷が増える?」
「どうだろうな」
「質問に質問で返さないでください」
「自分で試せば分かるだろ」
「試した結果が致命傷につながる可能性も考えてくださいよ」
「防護術式がある」
「死ななければ何をしてもいい理論、もう聞き飽きました!」
言い返しながらも、とおるは正面の壁へ意識を向けた。二枚の壁を維持し続けるだけなら、今のところ大きな負担ではない。だが、相手の狙いが分からないまま魔力を流し続ければこちらだけが消耗する。ならば一度解除し、位置を変えて展開し直したほうがいい。そう判断し、とおるは正面壁へ解除命令を送った。
その瞬間、今度は命令そのものに小さな引っかかりが生じた。
生成や補強ほど強い抵抗ではない。けれど確実に、普段より遅い。透明な壁の輪郭が薄れ、完全に消えるまでにほんの一拍だけ余計な時間を要した。
「解除まで……?」
とおるの声が低くなる。視線の先でユリシスの胸元に下がった金色の秤が微かに揺れ、左右の皿が何かを測るように小刻みに上下した。
壁を出す。壁を補強する。壁を消す。
同じ〈壁〉に関わる行為でありながら、それぞれに異なる重さが与えられている。つまり、単純に能力そのものを弱体化させているわけではない。もっと細かく、もっと厄介だ。生成という選択。補強という選択。解除という選択。その一つ一つを別個の行動として捉え、実行されるたびに何かを蓄積している。
そこまで考えたところで、ユリシスの戦術が薄闇の中から徐々に輪郭を現した。彼は相手の能力を直接破壊するわけでもなければ、魔力を奪うわけでも、術式そのものを封じるわけでもない。まず攻撃や牽制によって、相手が取り得る複数の選択肢のうち一つを選びやすい状況へ追い込み、そのうえで相手自身が自らの意思でその行動を実行するのを待つ。そうして一度選ばれた行動は見えない重りとして金色の秤へ載せられ、再び同じ目的、同じ手順で繰り返されるたびにその“負荷”を増していく。首から垂れた鎖の一節ごとに灯る金色の光は、おそらく蓄積された行動、あるいは積み上げられた重さを示す目印なのだ。
厄介なのは、仕組みの輪郭が見えたところでまだ全貌には届いていないことだった。何をもって「同じ行動」と判断されるのか。壁の形や位置を変えれば別の行動になるのか。それとも目的が同じなら同一と見なされるのか。口に出した宣言や本人の認識が条件へ影響するのか。蓄積された重さをユリシス自身が別の形で利用できるのか。とおるが答えへ辿り着くには、まだまだ材料が足りない。
そしてユリシスもまた、その先まで簡単に見せるつもりはないらしい。
金色の鎖を指先へ巻きつけながら、彼は獲物の動きを待つ獣のように腰を落とし、灰色の瞳を細めた。その笑みは先ほどまでと変わらないが、とおるにはもう、それがただ楽しんでいるだけの笑顔には見えなかった。
「少しは分かってきたか?」
「分かってきたせいで、何もしたくなくなってきました」
「何もしなきゃ殴るぞ」
「脅迫によって行動を選ばせようとしてません?」
「試合だって言ってんだろ」
「試合という言葉で全部合法になると思わないでください」
ユリシスが手首を返すように鎖を引き戻すと、床すれすれまで垂れていた金属環が鋭い擦過音を連ねながら首元へ巻き戻り、その中でも二つの節だけが溶かした金を内側へ流し込まれたかのようにひときわ強い光を放った。直後、彼の右脚へ魔力が集中する。先ほどまで相手の反応を確かめるために刻んでいた軽い歩みとは明らかに違い、足裏から滲み出た金属性の魔力が踏みしめた石床の表面を一瞬だけ薄く硬化させ、沈み込んだ身体を弾き返すための板ばねのような足場へ変える。ユリシスの腰が低く落ちながら肩が前へ傾き、爪先がとおるの胸元へ向けられた。
来る。
今度は観察でも牽制でもない。
こちらの反応を確かめるための動きではなく、積み上げた情報を使い、明確に防御を突破するための踏み込みだ。
とおるは反射的に右手を突き出し、正面へ壁を生成しようとした。位置は身体一つ分先、面積は上半身を覆う程度、強度は中。最短で展開できる、何度も繰り返してきた基本形である。ところが、生成の命令を術式回路へ流した瞬間、これまでとは比較にならない重さが魔力へ絡みついた。見えない鎖で術式そのものを後ろから引かれているように、命令は確かに進んでいるのに、必要な場所へ届くまでが異様に遅い。
その一瞬を、ユリシスは逃さなかった。
右足が床を蹴る。
石床が低く鳴り、首元の鎖に灯っていた金色の光が一節分だけ抜け落ちると、細い光の筋となって彼の右脚へ吸い込まれた。とおるへ積み重ねられた負荷そのものが消えたわけではない。相手へ押しつけていた重さの一部を抜き取り、今度は自分の動作を軽くする力へ転換したのだ。そう理解した時には、ユリシスの姿はすでに視界の中央から消えかけていた。
「速っ――!」
距離が一息で潰される。
とおるの前には、壁の半透明な輪郭だけが頼りなく浮かんでいた。魔力は届いている。形も組み上がりつつある。だが固定が間に合わない。完成していない壁はそこに存在しているようでいて、まだ相手を拒むだけの強度を持たない。
ユリシスは未完成の壁へ拳を叩き込むような真似はしなかった。踏み込みの勢いを殺さぬまま、上体をわずかに傾け、右肩を半透明の輪郭の端へ滑り込ませる。固定前の術式面が水面のように歪み、その身体を止めることなく通過させた。
まずい。
とおるは左腕の丸盾を持ち上げた。
しかしそれもまた、先ほど一度選んだ防御だった。
肩に鈍い圧力がのしかかる。腕が麻痺しているわけでも、筋力が失われたわけでもない。盾は動く。けれど、腰の脇から胸の前へ運ぶ——その短い軌道だけが引き延ばされ、普段なら一瞬で終わる動作が泥の中で行われているように遅い。
間に合わない。
ユリシスの拳が盾の縁を越えて腹部へ迫る。拳そのものは大きく振りかぶられていない。肩も肘も必要以上には動かず、最短距離を正確に走ってくる。それでも、踏み込みの速度と体重が乗れば十分な威力になる。
防護術式がある。
直撃しても死にはしない。
骨も、たぶん折れない。
だからといって痛くない理由には、まったくならない。
とおるは咄嗟に左足を引き、後方へ逃れようとした。しかし後退もまた、最初の攻防ですでに一度選んだ行動だった。床から靴底が離れない。いや、正確には離れるのだが、誰かに足首を掴まれているように初動が鈍り、重心だけが先に後ろへ逃げて身体が置き去りになる。
壁。
盾。
後退。
自分が安全を確保するために繰り返してきた選択のすべてが目に見えない重りを括りつけられ、最初よりも確実に遅く、鈍く、使いづらくなっている。
ユリシスの拳が、とおるの腹部へ触れた。
強烈な一撃ではなかった。殺傷力を抑え、骨や内臓へ致命的な損傷を与えないよう調整された、あくまで試験用の打撃である。それでも速度と踏み込みは十分で、接触した瞬間、制服の下に展開されていた防護術式が白く閃き、薄い膜が衝撃を受け止めるように波打った。
「ぐっ……!」
腹の奥へ鈍い圧力が食い込み、肺に残っていた空気が一息に押し出される。とおるの身体はくの字に折れ、足元が半歩ぶれた。喉から漏れた声は掠れ、胃の中身まで押し上げられたような不快感が胸元へせり上がる。
ユリシスは追わなかった。
もう一歩踏み込めば、とおるの姿勢を完全に崩し、そのまま床へ倒すこともできたはずだ。にもかかわらず彼は拳を引くと、すぐに間合いを一つ分だけ空け、倒し切る機会よりも痛みを受けたとおるが次に何を選ぶのかを見ることを優先した。
「どうした?」
「何がですか……」
「壁、間に合わなかったな」
「見れば分かる失敗を、わざわざ言葉にしないでください……」
「盾も遅かった」
「実況は禁止で……」
「後ろにも下がれなかった」
「人の失敗を正面、左、後方から順番に並べないでください。防御だけじゃなく心まで崩れます」
ユリシスは愉快そうに肩を揺らした。
「同じ答えばっか選ぶからだろ」
その一言に、とおるは腹を押さえたまま顔を上げた。
「同じ答え?」
「壁で止める。間に合わなきゃ盾で受ける。それも無理なら後ろへ逃げる。アンタ、自分じゃ状況に合わせて色々考えてるつもりなんだろうけど、オイラから見りゃ、さっきから同じ三つを順番に押してるだけだぜ」
「防御役なので、自然とそうなるんですよ」
「だから分かりやすいんだ」
ユリシスの頭上で、金色の秤が音もなく傾いた。片方の皿がゆっくり沈み、もう片方が軽く持ち上がる。その動きに合わせて、首元の鎖に灯る二節の光が脈打った。
「得意なもんほど、追い込まれた時に何度も選ぶ。何度も選ぶ答えほど、重くするのは簡単だ」
それは初めて、ユリシス自身の口から明かされた能力の一端だった。恐らくそれは全容ではないだろうし、発動条件も、重さが増す回数も、どこまでを同一の行動として判定するのかも、言葉や意識が能力へどう関係するのかも語られていない。それでも、とおるの推測が完全な見当違いではないことだけは分かる。
同じ選択を繰り返せば、次は重くなる。
それは単なる感覚ではなく、ユリシスの能力として明確に存在している。
「最悪ですね、その能力」
「褒め言葉か?」
「心の底からの悪口です」
「オイラは気に入ったぜ」
「人の悪口を、勝手に好意へ変換しないでください」
とおるは腹部を押さえながら数歩分の距離を保ち、短く、浅くなっていた呼吸をゆっくり整えた。壁を出せば、その生成はさらに重くなる。盾で受ければ、次に持ち上げるまでの時間がもっと延びる。後退を選べば、今度こそ足が床へ縫い止められるかもしれない。
同じ方法は繰り返せない。
ならば、違う方法を選ぶしかない。
腰の剣を抜く。前へ出る。壁を防御ではなく攻撃へ使う。地面と平行に展開して足場にする。相手の背後へ壁を出し、退路を塞ぐ。小さな壁を複数枚生成し、視界だけを遮る。足元へ斜めに置き、踏み込みの軌道をずらす。
考えれば、まだ手はある。
けれどそれらを一度でも使えば、ユリシスへ新しい材料を渡すことになる。新しい選択を見せるほど、次にその手を使う時の負荷を増やされる可能性が高い。かといって手札を隠したままでは、すでに重くされた三つの選択肢だけで戦わされ、じりじりと逃げ場を失ってしまう。
使えば覚えられる。
使わなければ追い込まれる。
とおるの頭の中で、白衣をまとった小さな自分たちが長机を囲んで緊急会議を始めた。
「報告します! 防御プランA、二回目以降の利用料金が大幅に値上げされました!」
「プランBも同様です! 盾の持ち上げ一回ごとに追加負荷が発生しています!」
「後退オプションにも従量課金が導入されました!」
「定額制ではなかったんですか!」
「規約変更のお知らせが届いていません!」
「解約窓口はどこです!」
「対戦相手を倒すまで解約できません!」
「消費者保護機関へ訴えろ!」
「この世界にあるんですか、それ!」
「悪質企業だ!」
脳内会議は紛糾したものの、最終的な結論だけは全員一致だった。
この試験は対戦相手を無作為に選ぶ機能だけでなく、料金体系まで根本から壊れている。
もっともユリシスは、とおるの頭の中で開かれている架空の被害者説明会が終わるのを待ってはくれなかった。
首元へ集めた鎖を右手首へ一巻き、二巻きと絡ませ、金属環が皮手袋の上で硬い音を立てるのを確かめながら、彼は拳を軽く握り込む。先ほどまで笑っていた口元はそのままだが、腰はすでに低く落ち、爪先は次の踏み込みへ向けてとおるの正面を捉えていた。
金色に輝く鎖の一節が、また一つ脈打つ。
「次は何を選ぶ?」
「答えたら、それも重くするんでしょう」
「さあな」
「もう少し隠す努力をしてください」
「分かってても選ばなきゃならねえ。そこが面白いんだろ」
「そちらだけが面白い試合を、一般的には接待とは呼びません」
ユリシスの鎖が床を叩いた。
金色の光が、石の上へ細い円を描く。
とおるの周囲ではない。
ユリシス自身の足元。
今まで蓄積していた何かを、次の動作へ使う準備。
壁を重くした分。
盾を重くした分。
後退を重くした分。
片側へ載せた重みが、もう片側の彼を軽くしている。
秤は相手を沈めるだけの術式ではない。
ユリシス自身を持ち上げる。
とおるはそこまで理解していない。
理解するには、もう一度攻撃を受ける必要がある。
そして、それこそがユリシスの狙いだった。
「来いよ、壁使い」
ユリシスが笑う。
「今度はオイラを止めるためじゃなく、自分で何か選んでみろ」
挑発。
提案。
試験相手からの助言。
どれにも聞こえる。
とおるは動かなかった。
動けなかった、ではない。
何を選んでも相手の秤へ載せられる気がして、最初の一歩を決められない。
壁を出すか。
剣を抜くか。
前へ出るか。
何もしないか。
選択肢が多いほど、人間は自由になるとは限らない。
すべての道へ料金所が設置されている場合、自由とは単に支払い方法が複数あるだけの状態である。
とおるの視線が、ユリシスの頭上に浮かぶ金色の秤へ向いた。
左右の皿。
首元の鎖。
行動を重ねるたびに増える光。
相手の動作を軽くする金色の流れ。
何かがつながりかけている。
けれど、まだ足りない。
ユリシスの能力は、同じ行動を重くするだけではない。
彼が試合中によく話す理由。
こちらへ選択肢を提示する理由。
「左を塞げ」「受けろ」「止めたいんだろ」と、わざわざ言葉へする理由。
そこに、もう一段深い仕掛けがある。
とおるはまだ知らない。
知らないまま、次の選択を迫られている。
ユリシスの足元で金色の円が縮まり、蓄積された重さが右脚へ集まった。
「選ばねえなら」
彼の身体が低く沈む。
「選びたくなるまで殴るだけだ」
「交渉手段が野蛮すぎません!?」
「分かりやすいだろ」
「能力はこんなに分かりにくいのに、本人の方針だけ異様に分かりやすいんですよ!」
返事と同時に、ユリシスが床を蹴った。
轟ッ、と空気が遅れて鳴る。
先ほどより速い。
いや、速いというより軽い。
地面が彼を押し返しているのではない。
身体そのものから重量だけが抜け落ち、前方へ滑るように射出されてくる。
壁は重い。
盾も遅い。
後退すら鈍る。
同じ防御を選べば、また殴られる。
新しい方法を選べば、その瞬間から今度はその手札が秤へ載せられる。
攻めても負債。
守っても負債。
考えるほど選択肢は増え、そのすべてへ値札が貼られていく。
金色の鎖が高く鳴り、頭上の秤がさらに片側へ沈んだ。
その瞬間、とおるは右手を静かに持ち上げる。
壁を出すためではない。
少なくとも、自分ではそう決めた。
壁を作るという発想を、一度脇へ押しやった。
この手は別のために使う。
そう意識した。
そのごくわずかな“思考の変化”を、ユリシスは見逃さなかった。
灰色の瞳が細くなる。
笑みが深くなる。
観察者の目だった。
何をする。
どこへ魔力を流す。
何を捨て、何を選ぶ。
黄金の秤は静かに揺れ続ける。
答えを量るのではない。
――次に載せられる選択そのものを、静かに待っていた。




