第29話 マッチング機能壊れてません?
いや、分かる。
人生には、自分の意思とは無関係に乗り越えなければならない壁がいくつか存在することも、嫌な現実から目を逸らしているだけでは何も解決しないことも、ましてや「若いうちの苦労は買ってでもしろ」などというありがたい格言が、なぜか苦労を売りつける側の人間から発せられる確率が異様に高いことも、とおるは二十年以上の人生経験と異世界生活三年分の苦労によって、それなりには理解していた。
学校の試験。
人間関係。
就職活動。
社会へ出た後に待っている理不尽な上下関係。
予定していなかった異世界転移。
辺境の村での魔物討伐。
王国騎士団長との決闘。
古代遺跡の扉。
空から来たかもしれない巨大な神の骸。
人生というものは、進めば進むほど障害物の種類が増えていくらしく、最初は教室の前で自己紹介をするだけでも胃が痛かった青年が、今では世界の外側から来た存在として国家機関に監視されながら聖騎士試験の最終舞台へ立とうとしているのだから、成長と呼ぶべきなのか、人生設計が取り返しのつかない角度へ脱線したと呼ぶべきなのか、本人にも判断がつかない。
それでも、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかという疑問だけは、何度考えても解決しなかった。
努力すれば報われる。
逃げずに立ち向かえば道は開ける。
苦難は人を成長させる。
美しい言葉である。
美しすぎて、現場の疲労と一切噛み合っていない。
苦難へ立ち向かう人間が求めているのは、後世に残る名言ではなく、まず睡眠時間と温かい食事と負担の少ない勤務表である。道が開ける前に足腰が壊れれば意味はないし、成長した結果として慢性的な腰痛と人間不信だけが残るなら、もう少し穏やかな育成方針を選んでほしい。
とおるは〈誓華円舞台〉へ続く待機通路の長椅子に座り、自分の膝へ両肘を置きながら、人生における苦労の必要性を深く考えているように見せかけ、実際にはただひたすら帰りたい気持ちと戦っていた。
ええ、何度も言いますけれども。
自分のような平凡な人間が、聖騎士などという格式高い職業へ就くことを考えただけでも、身の毛がよだつ。
履歴書の志望動機欄へ「異世界へ転移した後、辺境村で三年間壁を出して暮らしていたところ、王国の女騎士団長を建物の壁へ埋めてしまい、その流れで聖騎士候補となりました」と書けば、採用担当者は文章を二度読み、隣の担当者へ無言で回し、最終的には面接を行う前に医務室か警備員へ連絡すると思う。
魔王を倒したいわけではない。
世界を救いたいわけでもない。
名誉も爵位もいらない。
王国の民から尊敬され、子どもたちに剣を掲げて応えるような輝かしい人生など、想像しただけで背中がむず痒くなる。
できることなら朝はゆっくり起き、炊きたての飯を食べ、昼間は人とあまり会話をせずに済む仕事をほどほどにこなし、夕方には風呂へ入り、夜は自室の壁際で本でも読みながら眠る。そんな健康で文化的な最低限度の異世界生活を求めていただけなのである。
現実はどうか。
朝は死ぬほど走らされる。
昼は死ぬほど剣を振らされる。
夕方は崖を登らされる。
夜は死ぬほど難しい術式理論を頭へ叩き込まれる。
寝る直前には翌朝の訓練予定を渡され、そこに「軽度行軍」「基礎筋力確認」「簡易術式演算」といった、一見すると優しそうな文字が並んでいるにもかかわらず、実際に始まると軽度行軍は山二つ分、基礎筋力確認は大盾を背負った状態での坂道往復、簡易術式演算は失敗すれば手の魔力回路が痺れる複雑な問題だった。
最初に一日の予定表を渡された時、とおるは本気で二度見した。
聖騎士養成所ではない。
地獄の社会人研修センターではないか。
新人研修という名目で山奥の施設へ連れていかれ、朝礼で大声を出させられ、夜には人生の目標を発表させられるという前世の怪しい研修話を聞いたことがある。こちらは大声を出すどころか本物の魔物へ向かって突撃させられ、人生の目標を考える暇があれば魔力回路の計算式を覚えろと言われるため、比較対象だった企業研修のほうがまだ人道的に思えてくる。
何より恐ろしいのは、訓練を課す側が全員笑顔であることだった。
笑顔で「もう一本いきましょう」。
笑顔で「今日は軽めですよ」。
笑顔で「昨日より楽でしょう?」。
笑顔で「安心してください。死にはしません」。
安心できる情報が一つもない。
死にはしないという言葉は、生存以外のあらゆる損害を許容している。
骨折はするかもしれない。
吐くかもしれない。
気絶するかもしれない。
翌朝、布団から起き上がれず、床を這って扉まで移動する可能性もある。
ゾロの笑顔を思い出しただけで、とおるの背筋へ三ヶ月分の訓練記憶が冷たい汗となって流れた。
「顔色が悪いぞ」
すぐそばから、ミレイユの声がした。
とおるが顔を上げると、先ほど激しい決闘を終えたばかりの彼女が、壁へ背を預けることもなく立っていた。
銀灰色の髪は汗でわずかに頬へ張りつき、白い軽装鎧の表面にはリガルドの炎が残した焦げ跡があり、肩の防具にも槍の石突を受けた細い傷が走っている。治癒術者による最低限の処置は受けているらしいものの、呼吸はまだ完全には落ち着いておらず、右手の指も時折、小さく握り直されていた。
それでも、立ち姿だけは崩れていない。
剣を置いた後ですら、白華隊の騎士としての姿勢を守っている。
「顔色がいい要素が、今の俺の人生にあります?」
「試験最終日まで残った」
「精神的負担が増えただけでは?」
「魔物討伐試験も突破した」
「巨大な魔物に踏まれかけた記憶が追加されました」
「三ヶ月の訓練にも耐えた」
「思い出させないでください。今、脳が自主的に封印していたところです」
ミレイユは眉を寄せた。
「この三ヶ月を思い出せ」
「よりによって一番思い出したくない期間を指定します?」
「ゾロ殿の訓練を耐えたのだ。対人戦が一度増えた程度で、今さら怯えることはない」
「訓練を耐えた人に、新しい苦痛を追加していい理屈にはなっていませんよ」
「お前は自分が思っているほど弱くない」
「世間一般の強者基準が上がりすぎているんです。この周辺、隊長格とか天才剣士とかA級魔物とか古代兵器とか、比較対象の設定がおかしいでしょう」
ミレイユと自分では、実力も、見据えている将来も、騎士としての覚悟も、天と地ほど離れている。
そもそも比べること自体が失礼な話である。
彼女はリディアの背中を追い、白華隊の騎士として民を守るため、誰に命じられたわけでもなく自分を鍛え続けてきた。剣を握る理由があり、強くなる目的があり、危険な場所へ進む覚悟がある。
一方のとおるはどうか。
帰りたい。
寝たい。
働きたくない。
この三点を心の中で唱える時間については、王国でも上位へ入れる自信がある。
冷静に考えれば、彼女とは五歳ほど年齢が離れている。現代日本の感覚へ置き換えれば、まだ高校へ入って少し経ったくらいの年頃に近い。そんな彼女が国のため立派な騎士になろうと必死にもがき、少し前には注目候補の槍術士を相手に堂々と勝利したというのに、二十歳をとうに過ぎた自分が待機通路の椅子で「腹痛ということにして帰れないだろうか」と考えている。
人間として、どうなのだろう。
少しだけ思う。
いや。
少しではない。
かなり思う。
年上としての威厳。
人生経験。
落ち着き。
包容力。
そういうものは三ヶ月の訓練中、崖のどこかへ落としてきた気がする。探しに戻りたいとは思わない。あの崖へもう一度登らされるくらいなら、威厳など永遠に紛失したままで構わない。
むしろ精神年齢だけで言えば、毎朝の訓練開始前に「今日は少しお腹が痛い気がするので、見学へ変更できませんかね」と真剣に考えている分、とおるのほうが子どもまである。
ミレイユは、そんな彼の内心など知る由もない。
胸元で小さく拳を握り、とおるへ向かって頷く。
「骨は拾ってやる」
「応援の言葉として最低では?」
「安心しろ。残さず拾う」
「丁寧さを加えれば改善される問題じゃないですよ」
「防護術式も試験官もいる。骨になることはない」
「今、自分で前言を否定しました?」
「気持ちの問題だ」
「ミレイユさんに気持ちの問題を説かれる日が来るとは」
気休めでもなければ、根拠のない励ましでもない。
ただ事実だけを置いていくような、実に彼女らしい言葉である。
この三ヶ月を思い出せ。
確かに、思い出せる。
思い出したくないことまで山ほど思い出せるのが問題だった。
毎朝まだ暗いうちに起こされ、外周を走らされた。
雨の日も走った。
風の日も走った。
晴れの日は「天候がいいから少し距離を増やしましょう」と笑顔で言われた。
崖を登らされた。
途中で壁を足場に使えば、「便利ねえ。それならもう一周できるわ」とゾロに追加された。
剣を振らされた。
腰が入っていない。
肩が固い。
足が死んでいる。
視線が逃げている。
呼吸が動作につながっていない。
指摘される内容が身体のあらゆる部位へ広がり、最後には「生き方が後ろ向き」とまで言われた。
それは剣術指導の範囲なのだろうか。
術式理論も学んだ。
魔力回路の分岐係数。
属性変換効率。
魔素子の位相差。
魂と肉体の同期。
黒板を見ている間、とおるの脳内では何人もの小さな自分が資料を抱え、記憶倉庫の廊下を走り回り、最終的には「これ以上入りません!」と集団退職していった。
「今日は軽めです」
ゾロがそう言った日の訓練量は、前日のマイナス一・二倍ほどだった。
数学的には増えている。
軽くなっていない。
むしろ悪化している。
「……本当に思い出すんじゃなかった」
とおるが呻くと、ミレイユは首を傾げた。
「何をだ」
「消したかった三ヶ月分の記憶が、高画質で再生されました」
「乗り越えただろう」
「乗り越えたというより、向こう側へ転がり落ちただけです」
待機通路の奥で鐘が鳴った。
一度。
二度。
候補者を呼び出す合図である。
試合は順番に進み、カナデ、ネロ、アルセント、バスティアンも、それぞれの対戦を終えていた。
勝敗は分かれた。
カナデは攻撃系魔術師を相手に最後まで〈静水輪唱〉の領域を保ち、直接的な勝利こそ逃したものの、相手の大規模術式を音と水の共振で弱め、試験官から高い評価を受けた。
ネロは対戦相手の剣術回路を解析し、最も嫌なタイミングで接続を欠損させ、観客から「あれは戦いなのか嫌がらせなのか」というざわめきを生んだ末に勝利した。本人は褒め言葉として受け取っている。
アルセントは〈翠嵐〉による立体機動を見せ、舞台上を風の軌跡で満たしながら堂々と勝利。
バスティアンは第九班の候補者と正面から殴り合い、最終的には二人とも武器を失った状態で組み合いになり、審判が止めるまで互いを押し続けた。判定結果を聞いた本人たちは、なぜか笑顔で握手を交わし、そのまま食事の約束までしていた。
そして。
「第十七班、壁山とおる候補」
補助官の声が響く。
来た。
とうとう来てしまった。
「第九班、ユリシス・グランヴェル候補。入場口へ」
とおるの頭が、白くなった。
比喩ではない。
本当に、考えていたことが一度すべて消えた。
作戦。
呼吸。
相手の情報。
ネロから聞いた〈秤の冠〉の性質。
ゾロの教え。
ミレイユの助言。
全部が真っ白な紙の向こうへ隠れ、中央に大きな文字で「帰りたい」とだけ表示された。
「壁山」
ミレイユが呼ぶ。
「返事をしろ」
「……はい」
「声が小さい」
「喉も試合への参加を拒否しています」
立ち上がる。
膝が重い。
ユリシスのスキルを受ける前から重い。
これは精神的な問題か、筋肉痛か、あるいは身体が危険を察知して自動的に床へ根を張ろうとしているのか。
丸盾を左腕へ通す。
試験用の片手剣を腰へ差す。
普段なら剣など持ちたくない。持ったところで上手く使えない。けれど決闘式の規定上、武器を一つ以上選ばなければならず、丸盾だけを選んだところ、武器管理官から「盾は防具として扱う」と言われたため、仕方なく一番軽い剣を追加した。
剣の側も、自分が選ばれた理由を聞けば傷つくだろう。
愛用するためではない。
一番軽かったからである。
「行ってきます」
声に力はない。
「行ってこい」
アルセントが笑う。
「壁山さん、呼吸を忘れないでください」
カナデが言う。
「相手の魔力がどこへ触れるか、最初に見たほうがいい」
ネロが助言する。
「受け止めろ!」
バスティアンが拳を握る。
「それ、かなり大雑把です」
「壁を信じろ!」
「そちらなら少し具体的ですね」
最後にミレイユが、とおるの背中へ言葉を投げる。
「この三ヶ月で教えたことを、全部やろうとするな」
とおるは振り返った。
「一つでいい。今のお前にできることを選べ」
「……はい」
「それと」
ミレイユがわずかに目を逸らす。
「負けても、帰ってこい」
骨は拾ってやると言った人間の言葉とは思えない。
とおるは少しだけ笑った。
「善処します」
「善処ではない。命令だ」
「白華隊、帰還命令だけはありがたいですね」
入場口へ続く扉が開く。
光が差し込む。
歓声が遠くから押し寄せる。
とおるは、頭が真っ白なまま舞台へ向かった。
〈誓華円舞台〉は水鏡越しに見ていた時よりも、さらに広かった。
白と青の石で組まれた十二花弁の舞台。
外周を流れる清水。
十二華隊の紋章柱。
上段まで埋まった観覧席。
世界樹の枝葉が空高く広がり、風が銀の葉飾りを揺らすたび、澄んだ音が頭上から降ってくる。
格式。
歴史。
威厳。
どれも陰キャに優しくない。
人の視線が多い。
多すぎる。
クルム村の収穫祭ですら人混みを避けて倉庫裏へ逃げていた人間に、百人近い候補者と騎士団関係者と国家機関の代表が集まる舞台は刺激が強すぎる。
「腹痛ということで、試合を延期できませんかね」
小さく呟いた。
審判には聞こえなかったらしい。
聞こえたとしても無視された可能性が高い。
反対側の入場口が開く。
対戦相手が姿を現した。
ユリシス・グランヴェル。
王宮魔導院特別推薦。
無属性と金属性。
付与、操作、特殊へまたがる複合型スキル〈秤の冠〉の使い手。
今年の聖騎士試験における注目候補の一人。
事前に聞いていた情報から、とおるはもう少し知的で静かな魔導士風の人物を想像していた。
細身。
手袋。
契約術式や鑑定を扱う家系。
相手の動作へ重みを与える特殊能力。
そう聞けば、長い外套を着た神経質そうな青年が、眼鏡でも押し上げながら「あなたの行動はすでに測定済みです」と言いそうではないか。
現実は、とおるの想像を雑に殴ってきた。
まず、髪が明るい黄緑色だった。
鮮やかな新緑というより、毒性を持つ植物が「食べるな」と警告するために選んだような色で、長めの前髪が右目へかかり、後頭部は乱雑に跳ねている。
耳は人間より少し長く、横へ鋭く伸びていた。
額の左右からは、黒い角が生えている。
短く丸い装飾品ではない。
後方へ流れるような形で伸び、先端は刃物のように鋭い。
首元には毛皮の襟。
その下には黒い半袖の上衣。
赤褐色の首輪状装具からは太い鎖が垂れ、腰の後ろを回るように何本もの金属環がつながっている。
腕は細身に見えて、筋肉の線がしっかり浮いていた。
右耳には黒い装飾。
左頬から首元には、魔導紋なのか傷なのか分からない黒い線。
口元から白い息のようなものが漏れ、周囲の魔力へ触れるたび灰色の煙に似た形を作っている。
どこからどう見ても強そうだった。
せめて見た目だけでも優しそうなら。
そんな甘い期待を抱いていた自分が馬鹿だった。
なぜ角が生えている。
なぜ首から鎖が垂れている。
なぜ入場しただけで周囲の空気が世紀末寄りになる。
戦闘力という概念が見た目へ表示されるなら、彼の頭上には明らかに高い数字が浮かんでいる。
誰だ。
こんなレベルの高そうな相手と試合を組ませたのは。
こちらは陰キャ性能を限界まで積み上げた一般村人Aである。
ステータス画面へ「主人公補正」などという便利な項目は見当たらない。危機へ陥ると突然新しい力へ目覚める保証もなければ、イベント戦なので負けても物語が進みますという親切設計も期待できない。
目の前に立っているのは、どう見ても中盤以降に登場するネームドボス。
こちらはチュートリアル装備。
しかもチュートリアルを途中で飛ばしたせいで、剣の振り方すら怪しい。
とおるは心の中で、存在しない運営へ何度目かの問い合わせを送った。
運営さん。
マッチング機能、壊れてません?
ユリシスは舞台中央まで歩き、首をゆっくり回した。
骨が鳴る。
近づいて見れば、身長はとおるより少し低い。
年齢も二十歳前後だろう。
体格だけなら圧倒されるほどではない。
それなのに、距離が縮まるほど危険な感じが増していく。大型肉食獣ではなく、細くて色鮮やかな毒蛇を前にした時のような、身体の奥が「触るな」と警告する種類の気配だった。
灰色の瞳が、前髪の隙間からとおるを捉える。
口元が吊り上がった。
「へえ」
第一声から好戦的だった。
「アンタが壁山とおるか」
「違いますと言ったら、相手を変えてもらえます?」
「無理だろ」
「ですよね」
「オイラ、楽しみにしてたんだぜ」
一人称はオイラ。
外見との落差がすごい。
もっと愛嬌のある小動物系の人物が使う一人称ではないのか。少なくとも角と鎖と好戦的な笑みを装備した人間が口にすると、可愛らしさではなく「この人、笑顔のまま殴ってきそう」という不安が増す。
「俺との試合をですか」
「他に何があるんだよ」
「偶然同じ日に出店される限定菓子とか」
「アンタ、妙なこと言うな」
「緊張すると会話の着地点が迷子になるんです」
ユリシスは喉の奥で笑った。
白い息が、煙のように口元から流れる。
「隊長格を膝つかせたって噂、王都中で聞いたぜ」
「情報がだいぶ歪んでません?」
「白華の隊長だろ。若くて、聖剣持ちで、王国でも指折りの女騎士」
「人物情報は合っていますが、出来事の表現が英雄譚寄りです」
「壁に埋めたんだってな」
「そこまで聞いているなら、事故だったことも一緒に広めてほしいんですけど」
「事故で隊長格を埋められんなら、なおさら面白えじゃん」
「面白くないです。関係者全員が忘れたい事件です」
「オイラは忘れねえよ」
ユリシスは右手を持ち上げ、黒い手袋の指を一度握った。
首から垂れた鎖が、金属音を立てる。
「隊長を膝つかせた壁使い。星の塔を開けた異邦人。測定官が分類を投げた特殊系。そんなヤツと当たれるんだ。運がいい」
「俺から見ると、運の総量がそちらへ偏りすぎています」
「安心しろよ」
「何をです?」
「最初から本気でいく」
「安心できる要素を一つも含めずに安心しろと言う文化、騎士候補の間で流行ってるんですか?」
ユリシスが楽しそうに笑う。
観覧席の一部から、ざわめきが起きた。
彼は目立つ。
外見だけではない。
魔力の質が変わっている。
無属性に近い透明な魔力の中へ、金属性の硬質な光が細く混じり、鎖と手袋、角の根元へ巡っている。その流れは一本の線ではなく、左右へ揺れる秤のように、身体の各所で重さを比べながら動いていた。
とおるは丸盾を抱え直す。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だよ」
「その角、本物です?」
ユリシスが目を瞬いた。
「最初に聞くこと、それか?」
「気になって集中できなくて」
「本物だ。オイラの母方に角人族の血が入ってる」
「触ると痛いですか」
「試してみるか?」
「遠慮します」
「そうかよ」
会話は成立している。
成立していることが、逆に怖い。
もっと無口で高圧的な相手なら、こちらも最初から怯えるだけで済んだ。ユリシスは話す。笑う。反応する。そのうえで、戦うことを心底楽しみにしている。
人間らしい好戦性は、魔物の咆哮よりも理解できる分、別方向に恐ろしい。
審判が二人の間へ進み出た。
防護術式を確認する。
とおるの胸当てへ刻まれた紋が淡く光る。
ユリシスの黒い上衣にも、銀色の防護線が浮かび上がった。
「勝敗条件は、降参、武器喪失、戦闘不能、防護術式の規定損壊、または審判判断による停止。故意の致命攻撃、停止命令の無視、舞台外への攻撃は禁止する」
「分かってる」
ユリシスが短く答える。
「分かりました」
とおるも返事をする。
声が裏返らなかったことだけは、自分を褒めたい。
「両者、所定位置へ」
二人が距離を取る。
約八メートル。
剣なら遠い。
槍でも少し遠い。
魔術師なら、充分に攻撃圏内かもしれない。
ユリシスの〈秤の冠〉が、どの距離から作用するのかは分からない。
対象へ触れる必要があるのか。
視界へ入ればいいのか。
鎖が媒介になるのか。
魔力へ直接干渉するのか。
相手の行動へ“重み”を与える。
足を踏み出す判断。
剣を振る動作。
術式を発動する命令。
逃げようとする意思。
どこへ来ても嫌である。
ミレイユの言葉を思い出す。
全部やろうとするな。
一つでいい。
今の自分にできることを選べ。
とおるは深く息を吸った。
カナデに言われた通り、吸うよりも長く吐く。
丸盾の重さ。
靴底と床の接触。
肩の張り。
指先の震え。
自分の魔力回路を流れる無属性に近い魔力。
怖い。
帰りたい。
それでいい。
恐怖を消そうとすると、余計に恐怖へ意識が向く。
怖いまま見る。
相手の足。
手。
呼吸。
鎖。
魔力。
自分ができることは、壁を置くこと。
まず、それだけ。
ユリシスは武器を持っていなかった。
手袋をはめた両手を軽く下げ、肩を脱力し、片足を少し前へ出している。格闘術か。魔術のみか。鎖を使うのか。
彼はとおるの緊張を楽しむように、口元を広げた。
「なあ、壁山」
「何です」
「噂が本当か、見せてくれよ」
「できれば過大広告だったということで納得して帰ってもらえません?」
「嫌だね」
「でしょうね」
「オイラを、どうやって止める?」
とおるは答えなかった。
答えられなかった。
まだ何をしてくるのか分からない。
それでも、丸盾を少し持ち上げ、右手を前へ向ける。
壁を出す準備。
ユリシスの灰色の目が、楽しげに細くなる。
審判が片手を上げた。
観覧席の音が遠ざかる。
世界樹の葉飾りが鳴る。
自分の心臓が、やけに大きく聞こえる。
上げられた手が下ろされた。
「始め!」
ユリシスの首元で、鎖が鳴った。
とおるは壁を出そうとした。
指先に魔力が集まる。
命令部へ意識が届く。
生成位置を定める。
いつもなら、ここで空間へ線が引かれる。
見えない何かが、右手へ乗った。
重い。
腕だけではない。
魔力だけでもない。
「壁を出す」という選択そのものへ、濡れた砂袋をいくつも吊り下げられたような、考えたことが身体へ届くまでの道が急に長くなったような、奇妙な負荷。
ユリシスの頭上へ、金色の秤が淡く浮かんでいた。
片方の皿が上がる。
もう片方が沈む。
彼は笑う。
「さあ」
首から垂れた鎖が、床へ触れた。
「秤を傾けようぜ」




