第28話 白き雷が落ちる場所
リガルド・フェインは、すでに彼女自身の炎霊素を地面へ“落として”いた。
それは火の海と呼べるほど派手なものではなく、観覧席から見れば舞台の白石にかすかな熱の揺らぎが残っているだけで、受験者の中にも「槍を振るった時に散った火の粉がまだ消えていないのだろう」と考える者がいたかもしれない。床は燃えていない。踏めば足を焼くわけでもない。炎の線は目に痛いほど明るくもなく、避けなければならない障害物として立ちはだかってもいない。けれど、リガルドの半径十メートル圏内はもう〈彼女の領域〉だった。蝶が舞い、穂先が通り、石突が床を叩き、肩や足首や背に止まった火蝶が役目を終えて散るたび、火霊素は音もなく白い舞台へ染み込み、点を線へ、線を面へ変えながら、ミレイユの立つべき場所を少しずつ塗り潰していく。
まるで白いキャンバスの上へ薄いインクを落とすようだった。
一滴目は見過ごせる。
二滴目も、まだ偶然の汚れに見える。
十滴、二十滴、百滴と重なっていくうち、何も描かれていなかったはずの場所に、知らない誰かが用意した図形が浮かび上がる。
リガルドが作っているものも、それに近い。
右へ進めば、槍の穂先がわずかに近い。
左へ退けば、炎の蝶が視界を横切る。
後ろへ下がれば、足裏に残った熱がミレイユの体重移動をリガルドへ伝える。
上へ跳べば、頭上に漂う火霊素が呼吸の流れを拾う。
踏み込まずに待てば、蛹が育つ。
選択肢は残されている。
閉じ込められたわけではない。
明確な火の壁で退路を塞がれたわけでも、床全体が赤熱して移動そのものを禁じられたわけでもない。
ただ、どれを選んでもリガルドの望む答えへ近づいていく。
相手へ自由を与えているように見せながら、実際には選べる道の幅だけを静かに削り、最後に残る一本の直線へ、ミレイユ自身の意思で踏み込ませる。リガルドが描いているのは攻撃の軌道ではない。相手が次に選ぶ未来そのものだった。
待合室の水鏡越しに見ていたとおるは、はっきり言ってその気味の悪さへかなり遅れて気づいた。
最初は炎の蝶が綺麗だとか、槍が怖いとか、京都っぽい喋り方の人が涼しい顔でめちゃくちゃ嫌なことをしているとか、その程度の理解だった。戦闘を見る目が少しずつ育ってきたとはいえ、とおるは元日本人の陰キャであり、クルム村で三年間ハンターもどきをしていた人間であり、聖騎士候補たちのように幼少期から剣術と魔術理論を叩き込まれてきたわけではない。水鏡へ映る薄い火霊素の軌跡など、最初は「床にこぼれた蛍光ペンの跡かな」くらいにしか見えなかった。いや、蛍光ペンはこの世界にない。自分の比喩は相変わらず異世界対応が遅い。
「これ、リガルドさんの流れになってきてませんか」
とおるが恐る恐る尋ねると、ネロは水鏡の縁へ指を置いたまま頷いた。
「そうだね。ミレイユが動ける場所の大半に火霊素の線が触れている。とはいえ完全な支配ではないよ。踏めば即座に燃えるようなものでもない。だから厄介なんだ」
「分かりやすく熱いほうが、まだ親切なんですね」
「親切な敵は少ない」
「試験相手に敵という単語を使うと、教育方針が急に物騒になります」
アルセントは腕を組み、水鏡の中の二人を静かに見ていた。
「リガルドは距離を作るのが上手い。自分の槍の間合いだけでなく、ミレイユが踏み込む距離まで計算に入れている。彼女が一歩進むなら、その一歩がどこで止まるか。白雷で加速するなら、制動にどれほど必要か。剣を振るなら、振り終えた体勢がどこへ落ち着くか。そこへ先に火を置いている」
「相手の未来に予約席を取ってるみたいですね」
「面白い表現だね」
「予約名義が“槍で刺す予定”なのは嫌すぎますけど」
カナデは銀鈴付きの杖を胸元へ抱えたまま、心配そうにミレイユを見ていた。
「ミレイユさん、気づいているんでしょうか」
「分からない」
ネロが言った。
「外から見ても、気づいているのか、気づいたうえで踏み込むつもりなのか、気づいていないふりをしているのか、判断できない」
「最後の可能性が一番ミレイユさんっぽくて怖いです」
とおるが呟く。
水鏡の中のミレイユに、迷いはなかった。
自分がすでに相手の領域へ踏み入れていること。
リガルドの作り出した〈距離〉の中で足を動かさなければならないこと。
判断を一つ誤れば、一瞬で不利な状況へ落ちること。
それらを加味しながらも、彼女は剣の柄を強く握り込んでいなかった。
力めば手首がうまく機能しなくなる。
焦れば呼吸が浅くなる。
視線が狭まれば蝶を追い、蝶を追えば槍の始まりを見失う。
ミレイユは極限まで深く沈めた呼吸の緩やかさを保ちつつ、重心を足の先へ“寄せる”。
踏み込むための準備ではある。
しかし単純に右足を出し、床を蹴って前へ進むという意味だけではない。
全身の力を中心へ集め、踵から足裏、膝、腰、背骨、肩、肘、手首、剣先まで続く連動の内側へ、自分の息遣いを侵入させるための行為だった。
とおるは三ヶ月の訓練で、ミレイユから何度も「踏み込む前に身体が死んでいる」と言われた。
最初は何を言われているのか分からなかった。身体は生きているし、少なくとも心臓は動いている。むしろ訓練中は心拍数が上がりすぎて、生命活動が過剰に主張していた。にもかかわらず、彼女は「動く前に止まっている」「止まってから動こうとするから遅い」「息が動作へつながっていない」と、まるで禅問答と体育教師の説教を混ぜたような指摘をしてきたのである。
今なら、少しだけ分かる。
ミレイユの身体は、止まっているように見えて止まっていない。
呼吸が剣へ流れ、重心が足裏へ流れ、魔力が神経へ流れ、視線が相手の動作へ流れる。
動く前から、動きは始まっている。
リガルドが火霊素で戦場を自分の回路へ作り替えているのなら、ミレイユは自分自身を一つの回路へ整え直しているのだ。
〈白雷〉の真価は、筋力や速度を底上げすることではない。
もちろん火属性は筋繊維へ爆発的な推進力を与え、雷属性は神経と魔力回路の伝達遅延を削り、思考から動作へ至る時間を限りなく短くする。見た目として最も分かりやすいのは速度であり、観覧席の多くも「白雷は速い」と理解しているだろう。間違いではない。ミレイユの踏み込みは実際に速く、剣は鋭く、反応は並の候補者の目では追い切れない。
けれど、それは〈白雷〉の表面でしかない。
呼吸。
神経伝達。
筋肉の収縮。
魔力回路の流れ。
足裏の圧力。
腰の回転。
視線の置き方。
剣を振った後に残る反動。
本来なら別々に存在する無数の運動情報を、一つの循環系として統合し、その時々で最も適切な形へ再構築すること。それこそが〈白雷〉の本質だった。
踏み込みは斬撃へつながる。
斬撃は制動へつながる。
制動は回避へつながる。
回避は再び踏み込みへつながる。
一つ前の動作が、次の動作の準備になる。次の動作はさらにその次の動作へ流れる。不要な「止まる」という工程だけを削ぎ落とし、身体を常に動き続ける一つの戦闘回路として完成させる。
ゆえに、ミレイユの剣には“始まり”も“終わり”も存在しない。
彼女が一度動き出せば、その連続運動そのものが〈白雷〉という術式の本体となる。
リガルドが未来を一本の線へ誘導しようとするのなら、ミレイユはその線を、線のまま踏まない。
白雷は、線を流れに変える。
流れを円へ変える。
円を、剣へ変える。
リガルドもまた、それを予測していた。
彼女はミレイユ・アスターという候補者を軽く見ていない。白華隊推薦、火雷複合強化系、隊長リディアへの強い憧れを持ち、剣術における適応速度が常軌を逸している天才。〈白雷〉の全構造を理解しているわけではなく、内部でどれほど精密な運動情報の統合が行われているかまでは知らないとしても、少なくともミレイユが今年の注目候補の一人であり、真正面から速さを競えば勝ち目が薄いことは分かっている。
槍は長い。
剣より先に届く。
距離を支配できる。
それでも、一度〈白雷〉の連続運動へ主導権を握られれば、槍の長さは優位ではなく隙へ変わってしまう。内側へ潜り込まれ、柄を押さえられ、穂先の円が死んで石突の反撃まで読み切られれば、リガルドの槍はミレイユの剣に流れを断ち切られる。
リガルドは、ミレイユと速度を競うつもりなど最初からなかった。
競うべきは速度ではない。
速度が生まれる前の環境。
相手が最初の一歩を選ぶ場所。
剣が走る方向。
呼吸を切り替える瞬間。
判断が最適化されるために入力される情報。
そのすべてを先回りして戦場へ書き込み、〈白雷〉という完成された戦闘回路そのものへ、わずかな“迷い”を混ぜ込む。
どれほど精密な回路であっても、入力される情報が狂えば導き出される最適解も狂う。
リガルドが狙っているのは、ミレイユの身体ではない。
〈白雷〉が“最適”だと判断する未来、その選択肢そのものだった。
「怖いですね」
カナデが小さく言った。
待合室にいる全員が、水鏡から目を離せない。
バスティアンでさえ、いつものように「いけー!」と大声を出さず、巨大な手を握りしめて黙っている。
「相手の一番強い部分を、直接叩かないんですね」
「直接叩いたら負けるからね」
ネロの声は淡々としている。
「速い相手へ、もっと速く動いて勝とうとするのは単純で分かりやすい。勝てるならそれでいい。勝てないなら、速く動く前に選ぶものを濁らせる。ミレイユがどの足場を選ぶか、どの呼吸で入るか、どの線へ剣を通すか。そこへ火を置こうとしているんだ」
「俺がやられたら、たぶん試合開始前に悩みすぎて負けます」
「君はいつも悩んでいるから、逆に読みづらい可能性もある」
「評価されているのか、生活態度を心配されているのか分かりません」
アルセントは、水鏡の中のミレイユを見ながら静かに言った。
「それでも、彼女は行く」
「でしょうね」
とおるは頷いた。
ミレイユはそういう人間だ。
怖いから行かないのではない。
危険を見ないふりもしない。
相手の術式が完成しつつあることも、踏み込む場所が削られていることも、きっと分かっている。
分かったうえで、必要な場所へ剣を置く。
それが白華隊の騎士であり、リディアの背中を追う彼女のやり方だった。
舞台上、リガルドはわずかに息を吐いた。
彼女の周囲には三つの蛹。
足元には火霊素の線。
ミレイユの右後方には、床へ薄く張りついた炎の軌跡。
左側には蝶が二匹。
真正面には槍。
空間の〈間〉は、低く保たれている。
高く跳べば火蝶が反応し、横へ抜ければ槍の払いが届き、後退すれば蛹が逃げ道を塞ぎ、正面へ踏み込めば最も分かりやすい直線へ誘導される。リガルドはあえて、自らの懐へ一本の繋ぎ目を見せていた。そこだけが、まだ薄い。そこだけが、白雷で届く。そこだけが、ミレイユにとって勝負をかけられる場所に見える。
誘いだ。
とおるにも分かった。
分かるほど露骨に見せているのではない。
リガルドがここまで戦場を作ったから、最後の一本が見えてしまう。
まるで迷路の壁が少しずつ狭まり、最後に残った通路を「出口です」と言われているようなものだ。実際には出口の先に槍が待っているかもしれないし、蛹が孵って火の檻になるかもしれないし、通路そのものが落とし穴かもしれない。現代日本なら、怪しすぎる広告バナーくらい信用できない出口である。
リガルドは、その一点へ自らの間合いを差し込むつもりだった。
蝶も十分。
意識の誘導も十分。
領域としての足がかりも十分。
ミレイユが白雷で踏み込むなら、必ずそこを選ぶ。
そう認識した直後だった。
白い雷鳴が、意識の底を照らしたのは。
音はなかった。
少なくとも、水鏡越しの待合室へ届いたのは、遅れて響いた観客の息だけだった。
ミレイユの足元から外へ散っていた白雷が、完全に消えたように見えた後、彼女の内側で何かが深く沈み、逆に世界のほうが一拍遅れて反応した。空気が細く震え、舞台の白石に刻まれた十二花弁の紋様が、雷光を受けて淡く浮かび上がる。
踏み込む。
そう思った者は多かった。
リガルドも待っていた。
正面へ見せた一本の線。
そこへミレイユが白雷で入れば、右肩の蛹が孵り、前進方向へ横風ならぬ横火を差し込み、足元の火霊素が踏み込みを観測し、槍の穂先がわずかに遅れて喉元へ置かれる。
予定されていた未来は、美しいほど整っていた。
ミレイユは、踏み込まなかった。
いや、足は動いた。
右足が、床を押した。
白雷が走った。
ただし、リガルドが用意した直線へ身体を運ぶためではない。
右足の足裏に落ちた火霊素の線を踏む直前、ミレイユは膝を伸ばすのではなく、足首の角度を沈め、床を蹴る力を前ではなく斜め下へ流した。白雷による雷霊素が足首から膝へ、膝から腰へ、腰から背骨へ走り、火属性の推進は外へ爆ぜず、身体の内側へ巻き込まれる。
前進の初動を、制動の初動へ変える。
踏み込むと見せて、止まるのではない。
止まる工程すら、次の回転へ接続する。
リガルドの火霊素がミレイユの足裏を捉えた。
踏み込みが来る。
そう情報が返る。
〈火蝶蛹遊戯〉の領域は、ミレイユの重心移動を読み取る。
右肩の蛹が亀裂を広げる。
槍が動く。
リガルドの意識が、一点へ差し込まれる。
白雷が、そこから消えた。
ミレイユの身体は、踏み込むために集めた力を剣へ流さず、腰の奥で反転させて左足へ抜いた。剣先は下がったまま。視線はリガルドの胸元ではなく、彼女の右肩に浮かぶ蛹と、槍の根元の間を見ている。
斬るべき場所は、相手ではない。
炎の継ぎ目。
蝶が蛹へ戻り、蛹が孵り、槍へ力を与える、その間。
ミレイユは、一歩分の加速を丸ごと捨てた。
勇気のいる判断だった。
白雷の剣士が、白雷の速さを使わない。
勝負所で前へ出ず、相手が用意した「ここへ来い」という道へ足を置かない。
戦いを知らない者には、遅れたように見えたかもしれない。
実際には、誰よりも早く相手の未来から降りたのである。
「うわ」
とおるは思わず声を漏らした。
「キャンセルした」
「何を?」
カナデが聞く。
「相手が待っていたミレイユさんを、ミレイユさん自身がキャンセルしました」
「言い方は変だけど、たぶん合ってる」
ネロが小さく笑う。
「白雷の初動を見せて、領域に踏み込みを読ませて、実際には別の連動へ切り替えた。リガルドの火は正しい入力を拾ったのに、出力された未来が空振りした」
「フェイント?」
「もっと根が深い。動作そのものの再定義だね」
舞台上で、リガルドの灰に近い瞳が細くなった。
彼女も気づいた。
ミレイユは自分の領域に気づいている。
誘いにも気づいている。
それでも無理に領域を破ろうとしたのではない。
領域が予測するための情報を、自分で書き換えた。
「……器用な人やね」
リガルドの声が、初めてわずかに低くなる。
ミレイユは答えない。
白雷が左足へ落ちる。
右足で踏み込むはずだった力を、腰の回転へ移し、左足で床を撫でるように滑らせ、剣先を下から上へ引き上げる。剣はリガルドの身体へ向かっていない。槍の穂先でもない。肩の蛹でもない。
槍と肩の蛹を結ぶ、薄い火霊素の線。
そこへ白い雷が走った。
音が遅れて鳴る。
白刃が空気を裂き、火霊素の線を断つ。
蛹が孵りかけたまま、術式の接続を失った。
赤い殻から漏れていた青白い炎が、行き場を失って舞台へ散る。
リガルドは即座に槍を引く。
さすがだった。
蛹の一つが不発になった時点で、彼女は未練を残さず次の蝶へ切り替える。左側の火蝶を足首へ呼び、後退推進へ使う。背後へ下がる。間合いを戻す。戦場の支配を一度立て直す。
ミレイユは追わない、と思われた。
彼女は追った。
ただし、リガルドが予測した直線ではない。
最初の一撃で火霊素の継ぎ目を断ち、戻りかけた剣を手首の回転で止めず、その反動を肘へ逃がし、肘から肩へ、肩から背骨へ、背骨から足裏へ、流れを一つも切らずに次の踏み込みへつなげた。
踏み込みは斬撃へ。
斬撃は制動へ。
制動は回避へ。
回避は再び踏み込みへ。
白雷の循環が始まった。
観覧席にいる者たちの目には、ミレイユが一筋の白い線になったように見えただろう。
舞台の床を蹴るたび、雷光は足元で爆ぜるのではなく、床に触れた瞬間だけ淡く光り、すぐに次の部位へ移っていく。足裏から膝へ、膝から腰へ、腰から剣へ、剣から肩へ、肩から背中へ、背中から再び足へ。白い光が彼女の全身を流れるたび、剣の軌道は途切れず、身体の向きは滑らかに変わり、立っていた場所には雷の残光だけが薄く残った。
速い。
確かに速い。
けれど、とおるが見たものは速度そのものではなかった。
綺麗だった。
本人に言うと確実に「戦闘をそういう目で見るな」と怒られるので絶対に口には出さないが、白雷を内側へ沈めたミレイユの動きは、雷というより水のようだった。激しいのに滑らかで、鋭いのに途切れず、落ちる場所を選ぶ稲妻でありながら、次の一滴へつながる流れでもある。
リガルドが蝶で継ぎ目を火へ変えるなら、ミレイユは自分の継ぎ目を雷で消す。
リガルドの槍が横へ流れる。
肩の蝶が回転を加える。
ミレイユは受ける。
弾かない。
剣の根元で槍の柄へ触れ、白雷を手首から肘へ通し、相手の回転を自分の肩の回転へ借りる。槍の払いが生んだ力は、ミレイユを押し退けるどころか、彼女の次の斬り上げを作る材料へ変わった。
リガルドの足元で蝶が弾ける。
後退。
ミレイユは追う。
床へ残った火霊素の線を踏まない。
右でも左でもない。剣を振り抜いた勢いを腰で畳み、身体を半歩低く沈め、火霊素の線と線の間に残っていた、靴幅一つぶんにも満たない空白へ足を置く。
白華隊の基本。
足を敵へ預けるな。
リガルドが戦場を塗り潰しても、完全に消せない余白がある。
蝶が舞うための隙間。
蛹が孵るための間。
槍が戻るための通り道。
それをミレイユは見つけている。
リガルドの眉が、ほんの少し動いた。
初めて、余裕が削れた。
「……そこ、踏まはるんや」
リガルドの声には、驚きよりもほんのわずかな感心が混じっていた。彼女が罠として床へ引いた火霊素の線、その交点と交点のあいだに生まれた足の裏ひとつ分にも満たない死角へ、ミレイユの銀靴が寸分違わず置かれている。
「踏める場所だった」
「普通は見えへんよ」
「見えた」
交わされた言葉は、それだけだった。呼吸ひとつ分にも満たない短い応酬の直後、空気の密度が変わった。
リガルドの周囲で火蝶が三匹、ほとんど同時に孵化した。乾いた殻が弾けて薄羽のような炎が青白く開き、羽ばたくたびに舞台上の空気が陽炎となって揺れる。彼女はここまで温存していた蛹のうち二つを、今度は躊躇なく戦場へ放った。
一匹目は槍の穂先へ巻きつきながら鋼の輪郭を青い炎で包み込むと、突きの速度と貫通力を押し上げるように羽を細かく震わせる。
二匹目は床すれすれへ降下し、すでに舞台へ張り巡らされていた火霊素の線同士を結び合わせ、ミレイユの左右と背後を狭く囲う小さく歪んだ火の檻を瞬時に編み上げる。
そして最後の一匹だけは、リガルドの肩越し、やや後方の空中へ留まり、前進にも離脱にも使える推進力として命令を待ちながら羽ばたいていた。
槍が来た。これまでのような誘いでも、反応を測るための牽制でもない。リガルドが積み上げてきた読みと布石を一本の直線へ収束させた、純粋で、速く、容赦のない突きだった。狙いはミレイユの胸の中心、正確には、彼女の身体を巡る白雷の流れが胸骨の奥で一度交差する地点であり、そこを穿てば雷の連続運動を断ち、踏み込みも回避も止められる。穂先へ絡んだ火蝶が一度だけ大きく羽ばたいた瞬間、槍の速度がさらに跳ね上がり、青白い炎が一直線の残光となって円舞台を引き裂いた。
それでもミレイユは避けなかった。剣先を低く落としたまま左足をわずか半歩だけ引き、肩と腰をひとつの軸にして身体の中心線を突きの軌道から外す。それは騎士が最初に教わるほど基礎的な受け流しであり、攻撃線から急所をずらし、刃を相手の軌道へ差し入れる、ただそれだけの動きに見えた。
しかし、リガルドの突きには火蝶の加速が乗っている。通常の速度を前提とした受けでは、刃を合わせる前に胸を貫かれる。たとえ間に合ったとしても、穂先を覆う青白い火炎は接触した防護術式を焼き削り、剣ごと腕を弾き飛ばすはずだった。
ミレイユの剣が槍へ触れた。白雷と青炎が刃の上で正面から噛み合う。耳を刺すような甲高い衝撃音が円舞台を真横へ裂き、白と青の火花が爆ぜながら観覧席の上段まで星屑のように飛び散った。頭上を渡る世界樹の枝葉を模した銀梁が閃光を反射し、巨大な葉脈めいた彫刻が一瞬だけ白く浮かび上がる。普通なら、そこで押し負ける。槍を受け止めた腕から肩が砕かれ、足が床を滑り、体勢を崩したところへ次の一撃を重ねられる。けれどミレイユは槍を止めようとはしなかった。止めれば負けると理解していたからだ。
彼女は剣の腹で槍の力を受けた瞬間、白雷を右手から前腕へ、前腕から肩へ、肩から背へ、背から腰へ、そして踏み込んだ足裏へと落とし、衝撃そのものを身体の中へ通した。受けた力を筋肉で耐えるのではなく、雷の経路に沿って全身へ分散しながらエネルギーを床へ逃がし、同時にリガルドの突きが作った直線運動を自らの回転運動へ置き換えていく。剣と槍が火花を散らしたまま接触し続け、その接点を中心にミレイユの身体が鋭く半回転した。銀灰色の髪が弧を描いて舞い、白雷が背骨に沿って駆け上がりつつ衣服の縁から細い稲光が弾ける。剣は槍から離れず、鋼同士が擦れる甲高い音を引きながら穂先から柄の側へ滑り込んでいった。
その刃はリガルドの指も、手首も、胸元も狙ってはいなかった。ミレイユが見ていたのは、槍へ絡みついた青白い炎と、リガルドの手首を結ぶ火霊素の細い継ぎ目だった。火蝶が加速を伝達するために一瞬だけ強く脈動する——その結節点へ、白雷をまとった剣先が触れる。ぱきん、と、薄い硝子へ針を落としたような音がした。青い炎が輪郭から崩れ、細かな火の粉となって散り、穂先へ与えられていた加速付与が途中で途切れる。世界を突き抜くほどに見えた槍の速度が、ほんの一瞬で鍛えられた騎士が放つ「ただの突き」へ戻った。
もっともそれでも十分に速く、十分に鋭い。候補者の大半なら加速を失った後でさえ受け切れず、そのまま防護術式を貫かれていただろう。しかし槍が本来の速度へ戻った時には、すでにミレイユはそこにいなかった。白雷を用いた彼女の連続運動は、ひとつの動作が終わるたびに停止するのではなく、受け、流し、回転し、踏み込むまでがひと続きになっている。槍の力を逃がすために使った半回転、その終点を、彼女は次の踏み込みの始点へ変えた。右足が床を捉え、白雷が足首で弾け、リガルドの火霊素の線が反応して檻を閉じるよりわずか半拍早く、ミレイユの身体がその内側へ滑り込む。
剣先が、リガルドの懐へ入った。そこは槍の長さが最大の強みとなる外の間合いではなく、石突を返して迎撃できるほど近すぎる内側の間合いでもない。槍を引けば遅く、押し込めば長すぎ、火蝶へ新しい命令を出すには呼吸がひとつ足りない“武器と術式の両方が最も窮屈になる”距離だった。リガルドが次の蝶へ指示を送るために喉の奥で息を整えた、そのわずかな〈空白〉へミレイユはすでに立っていた。
「――」
リガルドが何かを言いかけた。驚きか、それとも感嘆か、京都めいた柔らかな響きを言葉へ変える前に、ミレイユの剣が胸当てへ届く。斬撃ではない。試験用に刃を潰した剣の平と切っ先の境目を用い、防護術式の核が置かれている一点だけを寸分違わず打ち抜く。衝突の瞬間に白雷が剣先で小さく花開き、青白い波紋となってリガルドの胸当てを走った。次いで防護術式が規定以上の損壊を受けたことを示す紋様が、亀裂のように胸元へ広がっていく。
直後、審判の黒鉄笛が鋭く鳴った。
「そこまで!」
重い声が円舞台を打ち、魔力障壁へ反射しながら観覧席の隅々まで響き渡る。会場は一瞬、何が起きたのか理解できず静まり返り、それから一拍遅れて堰を切ったような歓声に包まれた。足を踏み鳴らす音、名前を呼ぶ声、驚きの叫び、拍手が重なり、円形闘技場そのものが震えているようだった。
待合室でも、張り詰めていた空気が一気にほどけた。カナデが胸元へ当てていた手を下ろし、長く止めていた息をようやく吐き出す。
その隣でバスティアンが両拳を天井へ突き上げ、椅子が後ろへ倒れそうな勢いで立ち上がった。
「勝ったぞ!」
「声がでかいです!」
とおるは反射的に両耳を塞ぎ、鼓膜が無事か確認するように顔をしかめる。
アルセントは腕を組んだまま静かに微笑み、ネロは普段の無関心そうな表情をわずかに崩しながら水鏡の中で剣を収めるミレイユを興味深そうに見つめていた。
「最後の二手、見えた?」
ネロが水鏡から視線を外さないまま、とおるへ尋ねる。
「見えたか見えないかで言えば、俺の視力と理解力が連名で労災申請を提出しています」
「つまり?」
「白く光って、ものすごく綺麗で、次に気づいた時には終わっていました」
「正直でいいね」
「褒められている気がしません」
水鏡の向こうではミレイユが胸の高さまで上がっていた剣を静かに下ろし、肩を一度だけ上下させて乱れた呼吸を整えていた。リガルドはしばらく自分の胸元に広がった防護術式の損壊紋を見下ろしていたが、やがて諦めとも感心ともつかない表情で小さく肩をすくめる。
「負けたわ」
「良い槍だった」
「褒められても、負けは負けやね」
「私も、何度か動きを読まれていた」
「何度かどころやないよ。最後まで、うちのほうが読んでるつもりやった」
リガルドは槍を床へ立て、指先を軽く振った。空中に残っていた火蝶たちが役目を終えたことを悟ったように羽を閉じ、赤と青の火の粉へほどけて消えていく。それに呼応して、舞台へ張り巡らされていた火霊素の線も端から順に光を失い、細い煙を残しながら床の石目へ沈んでいった。
「けど、最後のところだけ、あんたが自分の未来を切り替えはった」
「お前が作った線へ、そのまま進んでいれば負けていた」
「せやろな。逃げても、受けても、うちの槍が届くようにしてた」
「だから、そのどちらにも入らなかった」
「簡単に言わはる」
「簡単ではなかった」
ミレイユは謙遜するでも、勝者らしく飾るでもなく、ただ事実として真っ直ぐに答えた。リガルドは一瞬だけ目を丸くし、それから張り詰めていた表情を崩すように小さく笑った。
「ほんま、真面目なお人やね」
「よく言われる」
「紅椿で待ってる、とは言えへんけど」
「私は白華だ」
「知ってる。ほな、いつか隊同士で任務を組む時は、頼りにしてるわ」
「こちらこそ」
二人はもう一度、今度は先ほどよりわずかに柔らかく礼を交わした。その足元にはまだ白雷に焼かれた細い痕と青白い炎が残した淡い焦げ跡が交差しており、激しい攻防の余熱だけがしばらく円舞台の上へ残り続けていた。
勝者と敗者。
剣士と槍術士。
白雷と火蝶。
互いの技術を真正面から削り合った後の礼は、見ている側にも不思議な清々しさを残した。
とおるは水鏡の中のミレイユを見ながら、心の中でそっと思う。
やっぱり強い。
スキルが強いからではない。
速いからでもない。
彼女は、相手が作った未来へそのまま乗らなかった。
誘われていると気づきながらも、危険な線を見た上であえて怖い場所へ踏み込み、自分の動作を自分で切り替えた。
基本を守りながら、基本の中で相手の答えを超える。
白華隊の天才と呼ばれる理由を嫌というほど見せられた気がした。
ミレイユの鮮やかな勝利に胸を躍らせたのも束の間、とおるはその喜びの陰からぬるりと姿を現した、できれば一生気づかずにいたかった非常に嫌な現実へ気づいてしまった。
ミレイユの試合が終わったということ。
つまり、試験は滞りなく進行している。
試験が進行するということは、対戦表の上に並んでいる未消化の名前が一つずつ減っていくということであり、未消化の名前が減るということは、自分と舞台との間に立ってくれているありがたい順番待ちの人々が次々にいなくなるということであり、その結果として何が起こるかといえば、考えるまでもなく、見たくもない自分の番が着実に——しかもこちらの心の準備など一切考慮せず近づいてくるということだった。
これはまずい。
非常にまずい。
先ほどまで水鏡へ映るミレイユの戦いを見ながら、「すごい」「速い」「白く光った」「今の何ですか」と、観客として安全圏から好き勝手な感想を述べていたはずなのに、その安全圏が実は試験開始と同時に少しずつ削られており、今や自分の足元へ迫っていることをとおるは遅ればせながら理解した。
水鏡の外側で張り詰めた空気の漂う控室の扉が、こつ、こつ、と妙に明瞭な音を立てて叩かれる。
たった二度のノックだったにもかかわらず、とおるの耳には処刑台の階段を上る足音のように重々しく響いた。
「次、第十七班、カナデ・レーンベル候補。準備を」
扉越しに聞こえた補助官の声は事務的で落ち着いており、だからこそ一切の慈悲も感じられなかった。
呼ばれたカナデの顔色がもともと緊張で白かったところから、さらに一段階、紙のような白さへ変わる。
「ぼ、僕ですね」
自分の名前を確認するだけの短い言葉だったが、その声には、「できれば同姓同名の別人であってほしい」という叶うはずのない願いがかすかに滲んでいた。
「深呼吸です、カナデさん。吸って、吐いて。そうです、肺へ空気を入れて、ゆっくり外へ出す。俺も緊張した時にはよくやっています。少なくとも、呼吸を忘れて倒れるという最悪の事態だけは防げますし、多少は落ち着きます。ちゃんと効果はあります」
「それを聞いて、少し安心しました」
「ただし、完全解決はしません」
「完全には解決しないんですか」
「人生がその後も続くので」
励ます側の言葉として正しいのかどうか言い終えてから自分でも疑問に思ったが、カナデは一瞬ぽかんとした後、緊張で引きつっていた頬を少しだけ緩めて困ったように笑った。
「とおるさんらしいですね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
カナデはもう一度深く息を吸い込み、細い指で杖の柄を確かめるように握り直すと、膝へ残る震えを押さえ込むようにして立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく控室へ響く。
ミレイユはまだ試合会場から戻ってきていない。
彼女が使っていた椅子だけが空いたまま残り、その隣から今度はカナデが控室を出ていく。
扉が閉じる。
その音を聞きながら、とおるは頭の中で対戦表に並ぶ名前を順番に思い浮かべていた。
カナデの次がネロ。
その次がアルセント。
さらにバスティアン。
そして。
そこで思考を止めたかった。
止めたところで現実の進行まで止まるわけではないと分かっていたが、人間には目を閉じている間だけは追ってくる魔物も消えるのではないかと期待する、ささやかな現実逃避の権利くらいある。
しかし机の上に置かれた対戦表はとおるの心情など気にも留めず、白い紙面の上へ残酷なほどはっきりと彼の名前を記していた。
壁山とおる。
文字は逃げない。
見間違いでもない。
誰かが気を利かせて線を引き、欠場と書き足してくれている様子もない。
その隣に記された対戦相手の名は、ユリシス・グランヴェル。
今年の候補者の中でも、とりわけ注目を集めている一人。
固有術式、〈秤の冠〉。
相手の動作、攻撃、判断、その一つ一つへ見えない重みを与え、踏み込みを遅らせ、剣を鈍らせ、選択そのものを不利へ傾けるという、説明を聞いただけでも「どうして自分の相手に選ばれたのか」と試験運営へ正式な抗議文を提出したくなる能力の持ち主である。
とおるの胃が誰にも気づかれないよう静かに、しかし確実に縮んだ。
朝食で食べたパンが、今さら出口を探しているような感覚がする。
「……ついに俺の番か」
口に出した瞬間、自分で自分を追い詰めた気がして、とおるは慌てて言葉を継ぎ足した。
「いや、まだですけど。まだカナデさんがいて、ネロさんがいて、アルセントさんがいて、バスティアンさんがいるので、厳密にはまだですよね。かなり余裕がありますよね。少なくとも今すぐ扉が開いて、壁山とおる候補、準備を、なんて言われることはありませんよね。誰か、まだだと言ってください。できれば力強く、根拠も添えて」
控室に残っていた者たちは、一斉にとおるを見た。
だが、誰もすぐには答えなかった。
ネロは何かを計算するように目を細め、アルセントは気遣わしげに微笑み、バスティアンは励ますべきか笑うべきか迷った顔をしている。
そのわずかな沈黙が、とおるの胸へ〈秤の冠〉より先に見えない重みを載せた。
「……何か言ってくださいよ」
やはり、返事はない。
沈黙が一番重い。
少なくとも今この瞬間だけは、ユリシスの術式よりも間違いなく重い。
とおるは縮んだ胃を押さえながら、心の底からそう思った。




