第23話 壁にも福利厚生が必要です
魔力障壁の内側へ足を踏み入れた瞬間、とおるの目の前に広がった光景は観察区域から見ていた時と同じ広場であり、同じ白石の床であり、同じ抑制鎖につながれた鎧角獣バルガロスであるはずなのに、距離というものが人間の認識へ与える影響は想像以上に残酷で、さっきまで「でかいなあ、怖いなあ、あれと戦う人たちは大変だなあ」くらいの他人事まじりで眺めていた存在が今や視界のほとんどを占領し、こちらを睨む赤い瞳の奥から「お前、柔らかそうだな」とでも言いたげな野生の圧を放ってくるものだから、足が震える以前に脳の処理能力が妙なところで固まり、恐怖より先に「なんでこんな生物が地上に存在しているんですかね」という哲学めいた疑問が浮かんでしまった。
人類は長い歴史の中で、火を使い、道具を作り、家畜を飼い、都市を築き、法律を定め、税金というできれば発明されないでいてほしかった制度まで作り上げてきたらしいが、そうした文明の積み重ねの末に若者たちへ与えられる試験課題が赤熱する装甲付き巨大魔獣との正面衝突だというのなら、どこかの時点で文明は道を間違えたのではないか。少なくとも、とおるの感覚ではそうだった。これまでクルム村周辺で相手にしてきた魔物のうち、一番危険だったものでもせいぜいCプラス級である。猪のように突っ込んでくる牙荒猪、爪と毒を持つ森影狼、川辺で待ち伏せして人間の足首へ食いつく湿地蜥蜴。どれも当時は十分すぎるほど怖く、倒した後には二度と外へ出たくないと本気で思ったし、村人から「壁の兄ちゃんは頼りになるな」と笑われても、こちらとしては頼られるより布団に頼りたい気持ちのほうが強かった。Bランク級の魔物ですらまだ遠目に見て「うわ、絶対に別ルートを通ろう」と判断する段階であり、片足を突っ込むどころか靴紐を結ぶ前に引き返すような領域である。
それがどうだ?どうして一個飛ばしてA級相当と向き合うことになっているのか。学年末テストを受けに来たはずなのに、なぜか博士論文の公開審査室へ案内されたような気分である。運営さん。これ、本当に初心者向けコンテンツで合っていますか。難易度設定、一桁とは言わず二桁くらい間違えていませんか。問い合わせフォームを開いたところで送信先が存在しない異世界生活の悲しさを胸の奥へ押し込みながら、とおるは丸盾の革ベルトを握り直し、乾いた笑みを浮かべた。
いやまあ、いつまでウジウジ言っているのかと叱られれば返す言葉はない。聖騎士試験へ参加すると決めたのは自分であり、クルム村を守るために王国の制度へ入り込む必要があると理解したのも自分であり、リディアから逃げ切れなかったのも自分であり、そもそも逃げようとしたところで白華隊の門番に礼儀正しく止められる未来しか見えない。それはそれ、これはこれである。猪や熊に近い魔物なら、罠を張る、足場を崩す、進路を塞ぐ、弱点へ矢を集めるなど、ハンターとして懸命に策を練る余地がある。目の前のこれは魔物というより生態系のバグ報告であり、攻略本の「まずは足元を狙え」「動きをよく見よう」「弱点を突こう」などという親切な一文が、印刷された紙ごと踏み潰されるサイズ感をしていた。山が歩いた。岩盤に角が生えた。巨大な炉に尻尾と爪がついた。そんな表現のほうが近い。とおるが現実逃避と観察の境目を非常に曖昧にしたまま立ち尽くしている横で、バスティアンは大盾を肩に担ぎ、胸を張って前へ進んでいく。歩幅が大きいし、何より迷いがない。人生で一度くらいはああいう歩き方をしてみたいと思ったが、できることなら行き先は魔物の正面ではなく、食堂の大鍋前あたりでお願いしたかった。
「ちょ、待ってください、バスティアンさん。まず作戦会議を、せめて三十秒、いや十五秒でもいいので、何をどうするか決めませんか。チームワークってほら、言葉の響きからして会話を含んでそうじゃないですか」
「前衛は任せろ!」
バスティアンは振り返り、岩を彫って作った像が笑ったような顔で親指を立てた。
…うん、頼もしい。
頼もしいのは間違いない。
けれど返答としては「晩ご飯は何にしますか」と聞いたら「腹いっぱい食う!」と言われた時と同じ種類の情報量であり、方向性は分かるものの献立は一ミリも決まっていない。
「いえ、任せるか任せないか以前に、どの脚を狙うとか、どこへ誘導するとか、封印杭を誰が持つとか」
「俺が止める! 杭は誰かが打てばいい!」
「誰かという言葉で発生する責任の所在の曖昧さが怖いんですけど」
「ははは、壁山は難しいことを考えるな!」
考えなければ死ぬかもしれないから考えているのである。とおるが心の中で叫ぶ横から、アルセントが槍ではなく試験武器庫から選んだ長柄の鎌を軽く回し、いかにも貴族らしい余裕のある笑みを浮かべた。銀の留め具が光を拾い、金髪が熱風の中で揺れる。彼の周囲だけがなぜか試験場ではなく舞踏会の前庭のような空気がある。こちらは胃液が反乱を起こしかけているというのに、同じ受験者でここまで差が出るものだろうか。
「壁山、状況は単純だ。私が風で流れを作る。バスティアンが大地で止める。君は隙間を塞ぎ、道を増やす」
「単純という言葉を使うには敵のサイズが過剰では?」
「大きい相手ほど、動き始めた後の修正は難しい」
「それは理解できます」
「私が視線を奪う。彼が脚を留める。君が境界を置けば、封印杭を打つ機会は必ず生まれる」
「理屈は美しいですね」
「不満かな」
「美しすぎて実物との差に涙が出そうです」
アルセントは軽く笑い、鎌の石突で白石の床を叩いた。風属性の魔力が、足元から細く立ち上がる。柔らかいけれど、どこか芯がある。春の丘を渡るそよ風というより、青空の奥に隠れている高層の気流が人間の形を借りたような、透明なのに逃げ場を失う圧だった。
「時間をかけるほど、バルガロスの熱が戻る。行こう」
「今、作戦会議が五秒で終わりましたけど」
「戦場の会議としては長いほうだ」
「議事録を残す暇もない」
「君が覚えておけばいい」
「記録係まで兼任なんですか、俺」
返事は風音にさらわれた。開始を告げる黒鉄笛が短く鳴り、広場を囲む魔力障壁の表面に波紋が走る。バルガロスが低く唸り、三本の封印杭を外されたばかりの首下と脇腹と前脚を不機嫌そうに震わせた。
第一組が作った疲労は残っているはずである。熱甲状態も完全には消えていない。つまり弱っているとも言えるし、怒っているとも言えるし、試験用としては最悪に機嫌が悪いとも言える。会社でいえば昼休みに緊急会議を三本入れられた上司くらいの荒れ具合であり、関わりたくない度合いは非常に高かった。
「おおおおおおッ!」
バスティアンが吠えた。どうやら本人の中では会議は終わったらしい。彼は大盾を前に構え、地面を踏み抜くような一歩で進み出る。アルセントも同時に動いた。両者は事前に何か打ち合わせをしていたのかと疑いたくなるほど自然に距離を分け、片方は地を割る直線、もう片方は風を踏む曲線を描いて、鎧角獣の上下から圧をかけていく。
「えっ、これ、俺も行く流れですか」
誰に向けた確認でもないその呟きは、熱い空気の中で虚しく乾いた。試合開始直後、ろくな戦略を立てられないままモタついているとおるを置き去りにして、二人は息を合わせたように正面から突っ込んでいったのである。正面から。相手は赤熱する装甲獣である。どうして正面という単語に疑問を持たないのか。勇気と無謀は親戚かもしれないが、少なくとも同居は避けるべきではないか。
そんな陰気な親族会議を頭の中で開いている間にも、アルセントの周囲で風が幾重にも巻き上がった。
「――〈翠嵐〉」
発動したのは、風属性強化系スキル〈翠嵐〉。体内を巡る魔力を暴風の性質へ変換し、自身の周囲に薄く重なった風圧層を形成する術式である。単なる加速ではない。踏み込みには地面を蹴るための反発を、斬撃には刃筋を押し広げるための圧縮を、回避には進行方向を折り曲げるための横風を、着地には衝撃を散らすための旋回気流を、それぞれ必要な分だけ添える。
風という形のないものを気品ある舞踏の手順のように制御しながら、彼は自分の動きへ見えない翼と刃を重ねていく。
放たれる斬撃には圧縮された風刃が寄り添い、鎌の実体が届かない間合いへも青緑色の線が走る。外から見るだけなら、空気を従えているようにさえ見えた。実際には従えるというより、風が彼の性格へ合わせているのだろう。人の視線を集めることを恐れず、広い場所へ自然に立ち、周囲を巻き込みながら流れを作る。その在り方が、〈翠嵐〉というスキルの形になっている。足元に起こした風が地面を弾くように爆ぜ、アルセントの身体は滑るようにバルガロスの斜め前方へ飛んだ。手にした試験用の鎌は、彼の愛用する長尺特製鎌〈翠天牙〉に比べればかなり小ぶりらしい。本人は「扱いは変わらない」と言っていたが、とおるからすれば鎌を持って巨大魔物へ挑む時点で、農作業と戦闘がどこで分岐したのかを真剣に聞きたい気持ちになる。
アルセントは左腕を後ろへ引き、くるりと柄を回転させながら刀身を宙へ引き上げた。鎌の弧へ沿って風が集まり、刃の先端から細い風圧の尾が伸びる。バルガロスの視線が、頭上へ走る青緑の軌跡を追った。
「こちらだ、鎧角獣」
優雅に呼びかける相手を間違えている。とおるの脳内で、礼儀作法担当の小さな自分が「巨大魔物へ貴族的に声をかける必要はありません」と赤ペンで訂正を入れた。アルセントの機動力は、空中へ移っても衰える気配がない。気体と気流に高い親和性を持つ風属性の使い手である彼にとって、足場が存在しないという事実は、行動を完全に制限する理由にならなかった。周囲の空気を瞬間的に圧縮し、踏み込む箇所にだけ高密度の風圧層を形成することで本来なら何もないはずの空間を疑似的な足場へ変えている。
右足が虚空を踏む。破裂音に似た轟きとともに圧縮された空気が弾け、アルセントの身体がさらに上方へ跳ねた。空を飛んでいるわけではない。落下より早く、落ちる先へ新しい足場を作り続けているのだ。一歩ごとに風が砕け、そのたびに軌道が鋭く折れ曲がる。
上、右、後ろ、さらに斜め下。
地上の人間なら足首が抗議文を提出するような角度で移動しながら、彼は鎌を振るった。風刃がバルガロスの顔面付近をかすめ、分厚い角の根元へ白い傷を一本残す。深くはない。試験武器であることを考えれば十分に鋭い。
バルガロスが怒りに唸り、頭部を上へ振った。二本の角が空中のアルセントを狙う。彼は空気の足場を蹴って横へ逃れ、鎌の柄で角の先を軽く叩き、相手の意識をさらに上へ引いた。
「あれ、落ちないんですか」
「落ちてはいるんじゃないかな。落ちる方向を毎回変えているだけで」
観察区域へ下がったカナデが、とおるの独り言へ親切に答えた。いや、今は答えてもらえる距離ではない。カナデは障壁の外側にいる。自分の頭の中で勝手にカナデの声を再生してしまったらしい。恐怖のあまり脳内補助術者まで召喚し始めている。危ない。精神状態がかなり危ない。
地上ではバスティアンが巨大な盾を軸にバルガロスの右前脚へ一直線に突っ込んでいた。アルセントへ向いていた敵の意識を、今度は地面へ引き戻すためである。彼の土属性魔力は、速さを生み出すためのものではない。大地から受け取った重さを、前へ進む圧力へ変える。バスティアンが踏み込むたび、足元の白石が鈍い音を立てて沈み、脚部を覆う黄褐色の魔力が床の下にある土砂と岩盤へ食い込みながはそこから得た反発力を全身へ汲み上げていく。腰、肩、肘、盾の縁。分散するはずの力を一本の直線へ束ね、彼自身を巨大な杭のような突撃体へ変えていた。
「――〈巌衝〉!」
発動しているのは、土属性強化系スキル〈巌衝〉。肉体と大地を一時的に接続し、足元から得た質量と反発力を装備へ上乗せする術式である。真価は単純な防御力の上昇ではない。攻撃を受ければ衝撃を地面へ逃がし、前進する際には大地から力を汲み上げて推進力へ変える。守るための重さと、押し潰すための重さ。その二つを一枚の盾へ同居させることこそ、〈巌衝〉最大の特徴だった。
バスティアンの大盾がバルガロスの右脚へ激突する。金属同士がぶつかったような轟音が響き、衝撃が周囲の地面を円形に砕いた。巨体はわずかに揺れただけである。普通なら心が折れるところで、少なくともとおるなら即座に手を挙げて「今のはノーカウントでお願いします。自分の精神が先に判定負けしました」と審判へ訴え出るところだった。しかしバスティアンは止まらない。盾を押し当てたままさらに腰を落とし、砕けた地面へ両足を深く沈める。
地中を走る魔力の脈動が彼の身体へ吸い上げられ、盾の表面に黄褐色の紋様となって浮かび上がった。押し返すのではない。その場へ縫い留める。バルガロスの右脚を一本の柱と見立て、盾ごと大地へ固定しようとしているのだ。頭上ではアルセントが風を裂き、足元ではバスティアンが巨体の動きを封じる。派手に見えて、役割は明確だった。アルセントが視線を奪い、バスティアンが足を止める。そして二人が作り出したわずかな隙を前に、とおるだけがまだ、現実へ完全にログインできずに立ち尽くしていた。
「えっ、これ俺も今から参加する流れ?」
つい口に出てしまった。ガロン試験官の視線が石台の上から飛んでくる。
「お前もちゃんと参加しろ。第二組だろ」
「制度が個人の理解を待ってくれない」
「試験だからな」
「試験って、もう少し段階的に成長を確認するものでは?」
「今、確認してる」
「俺の生存可能性をですか」
「壁の使い方をだ」
それを言われると黙るしかなかった。とおるは丸盾を構え、深く息を吸った。バルガロスの魔力が熱で揺れている。火と土が混ざり、外殻を巡り、脚へ流れ、角へ上がり、尻尾へ抜ける。第一組との戦いで封印杭を三本打ち込まれた場所には、まだ抑制術式の残滓が薄く残っており、魔力の流れがところどころ濁って見えた。あの濁りを利用できるのか。あるいは新しい動きをされたら全て外れるのか。考えれば考えるほど、答えではなく不安の在庫だけが増えていく。
「壁山!」
アルセントの声が上から落ちてきた。
「左の外周へ壁! 低く、斜めに!」
説明は短い。だから理解には少し時間が必要だった。
左の外周。低く。斜め。何のために。
バルガロスは今、アルセントを見ている。右脚はバスティアンに止められている。左側へ逃がしたいのか。いや、違う。外周に斜めの壁を置けば、バルガロスが頭を振った時、角の軌道を逸らせる。あるいはアルセントの着地用足場にもなる。
「要求仕様が雑!」
喉が裂けるほど叫ぶのと同時に、とおるは左手を突き出し、指先へ意識を集中させた。
〈壁〉――その念に呼応して、白石の床が鈍く震え、何もなかった空間から半透明の障壁が鋭い角度でせり上がる。高さは腰をわずかに越える程度、厚みも頼りないほど薄く、幅に至っては人間一人が身を縮めて滑り込めるほどしかない、普段ならば防御に使うことさえためらう小さな壁だったが、その分とおるは強度も面積も捨てて出現させる位置と傾斜の一度一度へ神経を研ぎ澄ませていた。
空気そのものを切り取り、瞬時に硬質化させたような透明の板が突進するバルガロスの左前脚、そのわずか前方へ斜めに差し込まれる。
獣のような咆哮とともにバルガロスが巨躯をひねり、標的を逃すまいと首を振った。湾曲した角が風を引き裂きながらアルセントを追い、その外側が〈壁〉の上端へ激突する。鐘を乱暴に打ち鳴らしたような甲高い衝撃音が広間へ響き、半透明の表面へ白い亀裂が稲妻のように走った。
保たない。
とおるには、触れた瞬間に分かった。
指先から腕へ、さらに肩へと、骨を直接揺さぶられるような反動が突き抜け、視界の端で〈壁〉が砕け始める。
それでも、十分だった。
崩壊までの、ほんの一拍。
角の軌道が、わずかに外へ押し流される。
アルセントはその一拍が生まれることを最初から知っていたかのように、宙へ形成された風圧の層を強く蹴った。足元で圧縮された風が弾け、彼の身体が鋭く沈み込む。さらに砕けかけた〈壁〉の上端へ爪先を掛け、壊れゆく足場さえ躊躇なく踏み台へ変えると、振り抜かれた角の下を紙一重ですり抜けながらバルガロスの懐へ斜めに滑り込んだ。
外套が風に鳴る。
アルセントの手にした鎌が唸りを上げ、青緑の残光をまとって弧を描いた。
狙いは、首の下。
かつて施された抑制術式の名残が、焼けただれた紋様のように残る一点へ、鎌の刃が正確に重なる。
刃が触れるより先に圧縮された風が爆ぜ、研ぎ澄まされた風刃が術式痕へ深々と食い込んだ。
「上手い!」
轟音と粉塵の向こうから、バスティアンの野太い声が飛んだ。
「上手いというか、今の俺、めちゃくちゃ怖かったんですが!」
とおるが叫び返した直後、眼前に展開していた透明な壁へバルガロスの角が叩き込まれ、耳の奥まで震わせる甲高い破砕音とともに境界面が一瞬でひび割れながらその亀裂が蜘蛛の巣のように広がった。かと思うと、次の瞬間には耐えきれず粉々に弾け飛び、無数の破片となって宙へ散ったそれらは砕けた硝子のような鋭い輝きを残しながら淡い光の粒へ変わり、熱を失う火の粉のように次々と消えていった。
壁が砕けた反動が、遅れてとおるの右手へ突き刺さる。
骨の芯を小槌で打たれたような鈍い痛みが掌から手首へ駆け上がり、指先が一瞬だけ痺れた。が、痛がっている暇などない。
三枚まで。
同時に展開できる壁の上限が、警告のように脳裏へ浮かぶ。
一枚目は今の角撃で消滅。
残っていた二枚もすでに別方向の攻撃を防ぎきって砕かれている。
現在、展開中の壁はゼロ。
再生成までに必要なのは、ほんの短い間――息を一度吸い込むにも満たない、たった一拍だけだったが、目の前にいるのが家ほどの巨体を誇る魔物となれば、その一拍は住宅ローンの三十五年よりも長く、しかも利息までついてくるように感じられた。
バルガロスが、盾へ食い込ませていた右前脚を引こうとする。
筋肉の束が皮膚の下で縄のように隆起し、岩盤めいた蹄がわずかに浮いた瞬間、その反動だけで空気が唸り、バスティアンの構えた大盾が獣の咆哮にも似た音を立てて軋んだ。
金属が耐えきれず悲鳴を上げている。
バスティアンが〈巌衝〉によって地面へ逃がした衝撃は白石の床を縦横に走り、すでに砕けていた石板をさらに押し潰し、その両足は踝近くまで陥没した床へ沈み込んでいた。
「ぬうううううッ、重い!」
歯を食いしばったバスティアンの喉から、腹の底を震わせる唸り声が漏れる。
「でしょうね!」
とおるはほとんど反射で叫び返した。
見れば分かる。
いや、見たくなくても分かる。
バルガロスの右前脚は一本だけで古木の幹ほども太く、黒褐色の皮膚の下には巨大な岩塊を束ねたような筋肉が膨れ上がっており、そんなものを人間一人が盾で押し留めている時点で、もはや戦闘というより山崩れを肩で受け止めようとしている異常な絵面だった。
バスティアンの〈巌衝〉がなければ人間用の盾など防具としてすら認識されず、祝祭用の飴細工の皿でも踏み割るように音もなく粉砕されていただろう。
「壁山、二枚目!」
風を裂く音とともに位置を変えたアルセントが、宙を滑るようにバルガロスの側面へ回り込みながら叫ぶ。
「バスティアンの後ろだ! 地面へ寝かせろ!」
「寝かせる!? 壁をですか!?」
「滑り止めだ!」
なるほど。壁は立てるもの。
人と敵の間へ置き、攻撃を受け止めて道を塞ぐもの。
そんなこれまで疑ったことすらなかった固定観念が、今この瞬間に目の前の石床よりもあっけなく砕け散る。
立てる必要はない。
床と平行でもいい。
壁という形にこだわらず、力の流れを遮る境界として使えばいい。
バスティアンの足裏と砕けた床の間へ薄い境界面を差し込み、滑ろうとする力を止めつつもそのまま後方へ押し流される衝撃を大地へ食い込ませる。
それは防壁ではない。
巨大な杭であり、見えない楔だ。
とおるは肺へ入れかけた息を止め、視線をバスティアンの踵へ集中させた。
砕けた白石。
斜めに走る亀裂。
土煙の中でわずかにずれていく靴底。
押し返される速度。
必要な角度。
ほんの一瞬でそれらを読み取り、バスティアンの両踵の後方——床を走る亀裂へ噛み合わせるように、透明な壁を地面とほぼ平行に展開する。
空間がかすかに歪み、陽炎にも似た揺らぎが床の上を走った。
次の瞬間、薄く生成された境界面が砕けた石床へ深く差し込まれ、まるで巨大な扉の下へ打ち込まれた楔のように固定される。
後退しかけていたバスティアンの踵が、その見えない壁へ激しくぶつかった。
鈍い衝撃音。
バスティアンの全身が一度大きく揺れる。
それでも、下がらない。
足裏から逃げようとしていた圧力が透明な境界面へぶつかり、そこから床一帯へ分散し、周囲の白石が次々とひび割れながら沈み込んだが、彼の身体はその場へ縫いつけられたように止まった。
「おおっ、踏ん張れるぞ!」
彼の盾に浮かぶ黄褐色の紋様が濃くなった。〈巌衝〉の大地接続が、とおるの薄い壁を経由して安定する。とおるの〈壁〉はただ衝撃を受け止めたのではない。バスティアンが大地から力を得るための接地条件を補ったのだ。
「これ、足場扱いでいいんですかね。壁の労働範囲、広すぎませんか」
「いい壁だ!」
バスティアンが豪快に笑った。
「壁にも福利厚生が必要です!」
言い返しながら、とおるは気づく。今の壁は敵を止めるためではなく味方を支えるために置いた。バルガロスの攻撃と自分たちの間へただ板を置くのではない。バスティアンの力が逃げる場所と、留めたい場所の間へ境界を作った。アルセントの風が通る軌道と、角の暴力が通る軌道の間へ線を引いた。第一組が見せた重なりが、頭の奥でようやく形を持ち始める。
ミレイユは前へ進む。カナデは乱れを聞く。ネロはつながりの裏を見る。
では、アルセントは流れを作る。バスティアンは重さを留める。自分はその流れと重さが無駄にほどけないよう、必要な間へ壁を差し込む。
言葉にすれば少しだけ格好いい。実際の表情は、おそらく今にも帰りたい人間のそれである。バルガロスが頭上のアルセントをうるさげに追い、足元のバスティアンを踏み潰そうと脚へ力を込める。熱甲状態の名残で外殻が赤く明滅し、尻尾の骨槌が大きく横へ振られた。狙いはバスティアンではない。地上で最も動きが遅そうな防御役を盾ごと吹き飛ばし、そのまま周囲を薙ぎ払うつもりだ。
「尻尾!」
ミレイユの声が障壁の外から飛ぶ。観察者に回っても、彼女は黙っていられないらしい。ガロンが片眉を上げたが、注意はしない。試験中の助言として許される範囲なのか、あるいは面倒なので聞かなかったことにしているのか、判断に困る。
「バスティアン、伏せ――いや無理か!」
とおるは自分で言って自分で否定した。あの巨体が盾を地面へ固定している状態で素早く伏せられるわけがない。アルセントは空中。尻尾は地上を横薙ぎに来る。壁で正面から受ければ壊れる。三枚のうち一枚はバスティアンの足場として維持中。残り二枚。完全停止ではなく、角度を変える。とおるは右手を振った。
「三枚目、斜め上!」
透明な壁が、バスティアンの右側面に傾いて出現した。真正面の盾ではなく尻尾の骨槌が触れる直前の進路へ、斜めの滑り台を差し込む。骨槌が壁へ衝突した。ばぎ、と嫌な音が響く。壁は悲鳴のように震えた。正面から受ければ粉砕されていたはずの衝撃が、斜面を滑るように上へ逃げる。尻尾の軌道がわずかに持ち上がり、バスティアンの頭上をかすめて通過した。風圧だけで彼の髪が逆立ち、盾の縁に残った赤熱した粒子がぱらぱらと落ちる。
「助かったぞ、壁山!」
「今のは壁というより危険物誘導板です!」
壁が砕けた。二枚目の足場壁は維持中で三枚目はすでに消失。残り一枚を出せるが、使いどころを間違えれば戦況を大きく崩しかねない。とおるの呼吸が浅くなり、指先が冷える。巨大魔物の熱気の中なのに、手の内側だけが妙に寒い。
「いいぞ、壁山!」
アルセントが空中から声を投げる。
「今の角度なら、こちらの風も乗せられる!」
彼は鎌を大きく振り、尻尾の軌道で乱れた熱風へ自分の風を絡めた。〈翠嵐〉の風圧層が広場の空気を一方向へ流し始める。バルガロスの鼻先から漏れていた熱霧が、わずかに右へ偏った。
「バスティアン、右脚をもう半歩、内側へ押し込めるか!」
「押す!」
返事が短い、あまりにも短い、作戦会議というより家具を動かす時の掛け声にしか聞こえなかったが、どうやらアルセントとバスティアンの間では、主語も目的語も危険性の説明もすべて省略したその二文字だけで、狙う角度、踏み込む位置、力を加える瞬間まで正確に共有されているらしく、とおるは自分だけが高速で進む会話から振り落とされかけていることに焦りながら、熱で揺らめく視界の奥を走る三人分の魔力の流れを、必死に目で追った。
アルセントが空中で片手を振り抜く。
その指先から解き放たれた風の術式が、刃のような鋭い音を立てて戦場を横切り、バルガロスの全身から噴き出していた赤黒い熱霧を右側へ強引に押し流すと、それまで辺り一帯を覆っていた灼熱の幕が一瞬だけ裂け、岩山と見紛うほど巨大な魔物の輪郭が、燃え上がる陽炎の奥からむき出しになった。
熱霧が移動した先では空気そのものが煮え立ち、地面へ散らばった小石が乾いた音を立てて弾け飛ぶ一方、左側にはわずかな空白が生まれ、喉を焼く硫黄臭と肺の奥へまとわりつく重苦しい熱気が、一呼吸分だけ薄くなる。
「今だ、押せ!」
「押してる!」
バスティアンが、バルガロスの右脚へ肩から突っ込んだ。
赤熱した外殻へ大盾を押し当てた瞬間、金属を炉へ放り込んだような耳障りな音が響き、盾の表面を覆っていた冷却術式が青白い蒸気を噴き上げる。が、バスティアンは怯むどころか地面を割る勢いで片足を踏み込み、全身の筋肉を軋ませながら城門ほども太い脚を内側へ押し込んでいく。
普通に考えれば、人間一人が押したところで山は動かない。
だが、バスティアンの足元には複雑な強化術式が幾重にも展開されており、踏みしめるたびに地面へ黄金色の紋様が走り、その力を受けた岩盤が蜘蛛の巣状にひび割れながら巨体の重心をわずかずつ傾けていった。
バルガロスが低く唸る。
地の底で岩石が擦れ合うような咆哮が腹の内側まで震わせ、押し込まれた右脚を戻そうと巨体が動いた。その瞬間左肩が持ち上がり、首の下に何重にも畳まれていた黒い呼吸膜が伸びると同時に、脇腹を覆う分厚い外殻の継ぎ目が刹那、指二本ほどの幅だけ開いた。
あそこだ。
あの隙間へ封印杭を打ち込めばいい。
作戦自体は単純だった。
単純ではあるが、その隙間は怒り狂う巨大魔獣の脇腹にあり、近づくまでには熱霧を越えて振り回される尾を避け、踏み潰される危険をくぐり抜けなければならない。そして最後に赤熱した外殻へ手が届く距離まで接近しなければならないという、ジェットコースター顔負けの絶叫コース。
つまり作戦の説明だけは簡単で、実行する人間の命については何一つ簡単ではない。
アルセントなら空中から届くかもしれない。
しかし彼は風術式の維持に両手を取られている。
バスティアンは右脚へ張りつき、巨体の重心が戻らないよう全力で押さえているため、とても杭を打ちに移動できる状態ではない。
では封印杭を持っていて、両手が空いていて、今ちょうど左脇腹へ通じる位置に立っている人間は誰か。
とおるは嫌な予感とともに、自分の腰へ視線を落とした。
革帯から、黒銀色の封印杭が一本ぶら下がっている。
なぜだ。
誰だ。
誰が防御役にこんな物を持たせた。
いや、開始前に試験官のガロンが「封印杭は各自一本ずつ携行しろ」と言っていた気がする。
聞こえていた。
確かに聞こえていたが、その時の自分はまさか実際に使うことになるとは思わず、「防災訓練で配られる備品のようなものだろう」と都合よく解釈し、心の中で受領だけ済ませていた。
「壁山、一本目は君だ!」
熱風の向こうからアルセントの声が飛んだ。
「来た!」
とおるは反射的に叫んだ。
「とうとう責任の所在が俺のところまで来た!」
「君の〈壁〉で接近路を作れ! 隙間が閉じる前に杭を打ち込むんだ!」
「接近路を作るということは、つまり、俺自身が近づくんですよね!」
「杭を打つには近づく必要がある!」
「その工程だけ遠隔化できませんか! 押印だけ離れた場所から済ませられる制度に!」
「試験官へ相談してみるといい!」
「ガロンさん! 封印杭の遠隔提出は可能ですか!」
「不可だ!」
離れた石台の上から、一拍の迷いすらない即答が飛んできた。
「回答が早い!」
とおるは心の中で存在しない受付窓口の机を両手で叩いた。
遠隔申請の夢は、その場で正式に却下された。
現地窓口へ行かなければならない。
しかもその窓口は吠えるたびに熱波を吐き、脚を一度振るだけで地面を陥没させる巨大魔獣の脇腹に設置されており、受付時間は外殻の隙間が開いている数秒間、担当者は激怒、整理券なし、再提出の保証もなしという、行政サービスとして考えれば王国史上でも最悪の部類である。
「壁山、恐れるな!」
バスティアンが盾を押しながら叫ぶ。
「恐れています!現在進行形で!」
「恐れても足は動く!」
「名言っぽいですが、足が動く方向によっては逃亡です!」
「前へ動かせ!」
「注文が力業!」
アルセントが空中で身を翻し、足元に生まれた見えない風圧層を一度、続けざまにもう一度と強く蹴りつける。乾いた破裂音が広場の上空へ響き、その細身の身体は階段も足場もない空を駆け上がるように鋭く高度を変えた。
バルガロスの濁った双眸が、その動きを追って上を向く。
その瞬間を逃さず、アルセントが振り抜いた鎌から青白い風刃が放たれる。“風”唸りを上げながら獣の額を横切り、巨大な角の根元へ叩きつけられた。
硬質な衝突音。
火花のように砕け散る風の粒。
バルガロスは痛みよりも苛立ちを示すように低く喉を鳴らし、鎌首をもたげる獣さながらその重い頭部をアルセントへ向けて持ち上げた。
その下では、バスティアンが歯を食いしばりながら巨獣の右脚へ肩と盾を押し込み続けていた。
甲冑の留め金が軋み、踏み締めた床石が靴底の下で細かく砕ける。
「ぐ……ぬおおおおっ!」
全身の筋肉を絞り切るような咆哮とともにバスティアンはさらに一歩をねじ込み、山のような巨体の重心をほんのわずかではあるが左側へ傾かせた。
わずか。
しかし、そのわずかで十分だった。
バルガロスの脇腹を覆う黒褐色の外殻がずれ、幾重にも重なった甲殻と甲殻の間に、細く赤黒い継ぎ目が覗く。
そこだ。
封印杭を打ち込むべき場所。
けれど露出した隙間からは陽炎が立ち昇り、体内に溜め込まれた熱が呼吸するように断続的に噴き出している。
距離があっても肌を刺す熱気が分かる。
直接触れれば、火傷では済まない。
おそらく手の皮膚が焼け、肉が裂け、運が悪ければ封印杭を握ったまま腕ごと使い物にならなくなる。
それでも杭の先端をあの継ぎ目へ当てて力を流し込むためには、ほんの一拍だけでも懐へ潜り込まなければならない。
必要なのは、接近するための足場。
そして打ち込んだ直後、巨獣の反撃が届くより先に離脱するための逃げ道。
とおるは自分の周囲を見なかった。
普段であれば何より先に自分の目前へ防御用の〈壁〉を置き、安全を確認し、それから可能なら他人のことを考えるところだったが、今はバルガロスと自分たちの間に横たわる戦場そのものへ意識を向けた。
広場の床はすでに原形を失っている。
バルガロスが踏み荒らした石床は大小の瓦礫へ砕け、蜘蛛の巣状に走った亀裂の奥では赤い熱が脈打ち、場所によっては溶けた石材が粘ついた光を放ちながらゆっくりと溝の中を流れていた。
あそこを普通に走る。
文字にすれば、それだけだ。
しかし前の世界で体育の授業中、跳び箱が教室へ運び込まれたのを見ただけで原因不明の腹痛を訴え、保健室の寝台へ自主避難していた自分にとって、燃えかけた瓦礫の上を走り抜けながら巨大な魔獣の腹へ杭を打ち込みに行くという行為は、運動能力以前に人間としての設計範囲を大幅に超えていた。
走りたくない。
近づきたくない。
できることなら、ここから封印杭だけを投げて偶然刺さってほしい。
もっと欲を言えば、誰か別の勇敢で頑丈で使命感に満ちた人物が代わりに行ってほしい。
しかし杭を持っているのは自分であり、あの隙間へ安全に近づくための道を作れるのも自分だった。
空を駆けるアルセントのような真似はできない。
バスティアンのように、真正面から巨獣の脚を押し返すこともできない。
だが、〈壁〉なら置ける。
足を下ろせる場所を作れる。
地面と呼ぶには危険すぎるこの場所と、バルガロスの懐との間へ、短く途切れた安全圏をつなぐことなら自分にもできる。
「一枚、解除します!」
とおるは叫び、バスティアンの踏ん張りを支えていた足場壁の一枚を消した。
透明な板が光の粒へほどけた瞬間、支点を失ったバスティアンの身体が、がくりと後方へ沈む。
「おおっ?」
予想外の感触に、バスティアンが間の抜けた声を漏らした。
巨体を押さえ込んでいる最中でなければ、たぶん振り返って抗議していた。
「すぐ次を置きます!」
「先に言えええっ!」
怒鳴り声を背中に受けながら、とおるは意識を広場中央へ伸ばす。
砕けた床の上。
赤熱した亀裂と亀裂の間。
巨獣へ向かって斜めに伸びる位置へ、一枚。
「出ろ!」
空気が低く震え、何もなかった空間へ透明な〈壁〉が出現する。
高さは膝より少し下。
幅は、人間一人が駆け抜けられる程度。
表面をわずかに上向きへ傾け、崩れた床を跨ぐように配置したそれは、防壁というより宙に浮かぶ透明な坂道だった。
とおるは確かめる暇もなく、その上へ右足を乗せる。
靴底から返ってきた感触は硬い。
石よりも均一で金属よりも冷たく、間違いなく自分が何度も使ってきた〈壁〉の感触だった。
それでも、完全には信頼しきれない。
以前、寝ぼけたまま部屋の出入口へ〈壁〉を出し、自分自身を室内へ閉じ込めた前科のある能力を今この瞬間は命綱として扱わなければならないのだから、気分としては普段から扉の鍵をよく壊す人物へ命綱の結び目を任せ、そのまま崖から飛び降りるようなものだった。
「二枚目!」
一枚目を蹴り出すと同時に、とおるは次の位置を定める。
バルガロスの脇腹近く。
外殻の継ぎ目へ手を伸ばせる距離。
ただし巨獣が脚を横へ払えば、一瞬で砕かれかねない場所。
低く。
短く。
そして着地した勢いがそのまま前へ流れすぎないよう、ほんの少しだけ内側へ傾ける。
透明な〈壁〉が熱気の中へ現れ、陽炎越しに輪郭を揺らした。
走路というより、激流の中へ置かれた飛び石に近い。
一歩目を誤れば落ちる。
二歩目をためらえば焼かれる。
落ちれば熱い。
落ちなくても怖い。
「三枚目!」
最後の一枚は攻撃のためではなく、生き残るために使う。
封印杭を打ち込んだ直後、横へ跳ぶための退避路。
バルガロスの肩側へ向かい、急角度で斜めに立ち上がるよう配置する。
巨獣が身体をひねったとしても、その勢いに巻き込まれず外側へ逃げられる位置。
青白い光が一瞬だけ走り、三枚目の〈壁〉が宙へ固定された。
これで使える三枚すべてを足場と逃げ道へ回した。
防御用の〈壁〉は一枚も残っていない。
いつもなら手を伸ばせば現れるはずの盾を、自分の目の前へ出せない。
その事実が、装備をすべて剥がされたまま真冬の夜のベランダへ締め出されたようなどうしようもなく無防備で頼りない感覚を、とおるの胸へ広げた。
丸盾はある。
鎧も着ている。
仲間もいる。
それでも自分の〈壁〉が前にないだけで、身体の半分を置き忘れてきたように思える。
「行け、壁山!」
上空からアルセントの声が飛んだ。
同時に、再び風刃がバルガロスの顔面を打ち、巨獣の注意をわずかに上へ引きつける。
行きたくない。
心の底から行きたくない。
足場の前へ「危険につき立入禁止」と書いた札を置き、そのまま後ろへ下がりたい。
だが、行くしかない。
「くそっ……!」
一枚目の端へ到達すると、とおるは迷いが生まれるより早く地面を蹴り、二枚目の〈壁〉へ向かって跳んだ。
身体が前に出る。
視界の端で、赤熱した亀裂が流れていく。
熱気が頬を撫でるどころか、薄い刃物のように皮膚を削った。
距離そのものは短い。
前の世界で子どもが川遊びの最中、石から石へ飛び移る程度の幅しかない。
安全な河原であれば、笑いながら越えられる者も多いだろう。
だが今、右手にはバルガロスの前脚があり、それ一本だけで人間を紙屑のように薙ぎ払える太さを持ち、頭上には刃のような角が揺れている。そしてその向こうではアルセントが命懸けで注意を引きつけ、背後では試験官と受験者たちがこちらを見ている。
ここで足を滑らせれば英雄譚にはならない。
後世へ残るのは伝説ではなく、「受験者一名、足場から転落。原因、踏み切り不足」と簡潔にまとめられた事故報告書である。
そんな死に方だけは嫌だった。
「届、けっ!」
伸ばした足が、二枚目の〈壁〉を捉えた。
靴底が透明な表面を叩き、膝へ強い衝撃が返る。
身体が大きく前へ傾き、とおるは丸盾を振ってどうにか均衡を取り戻した。
着地した。
そう認識した次の瞬間、バルガロスの外殻の隙間から溜め込まれていた熱が一気に噴き出した。
赤い光を孕んだ熱風が、轟音とともにとおるの全身へ叩きつけられる。
「熱っ、熱い! これ、焼肉の網側の気持ちでは!?」
喉の奥まで焼けつくような熱気に悲鳴を上げながら、とおるは腰へ差していた封印杭を乱暴に引き抜いた。
金属が鞘代わりの留め具を擦り、甲高い音を立てる。
目の前にはバルガロスの脇腹を覆う分厚い外殻と、その継ぎ目があった。
遠目に見ていた時はせいぜい人の腕ほどの隙間に思えた。
近づいてみれば違う。
大きい。
あまりにも大きい。
隙間というより、赤熱した岩壁の裂け目だった。
重なり合う外殻の一枚一枚は盾よりも厚く、その奥では血とも溶岩ともつかない暗赤色の光が脈打ち、バルガロスが身じろぎするたび、内部に溜め込まれた熱が生き物の吐息のように噴き出してくる。
臭いもひどい。
濡れた獣毛、焼けた鉄、砕けた岩、焦げた革、それらすべてを巨大な炉へ放り込み、蓋を閉じて煮詰めたような臭気が鼻孔へ押し寄せ、とおるの身体は呼吸より先に「これは吸ってはいけない」と判断した。
「近い、臭い、熱い、帰りたい……!」
それでも、杭を押し当てなければならない。
とおるは封印杭の先端を外殻の継ぎ目へ向け、震える両手で狙いを定めた。
剣を抜き、柄頭で打ち込む余裕などない。
そんな動作をしている間に、焼かれるか、潰されるか、角でどこか遠くへ飛ばされる。
使えるのは左腕へ固定した丸盾だけだった。
とおるは杭を片手で支え、もう片方の腕に装着した丸盾の縁を即席の槌として振り下ろそうとする。
だが、手元が震えていた。
恐怖だけではない。
熱風に炙られ続けた指先は感覚が鈍り、手袋の内側には汗が溜まり、握っているはずの杭がまるで油を塗った棒のように滑る。
「止まれ、止まれ……!」
自分の手へ言い聞かせるように呟き、杭の先を継ぎ目へ押し込もうとした瞬間、バルガロスの脇腹が大きく脈動した。
外殻が擦れ合い、岩盤が割れるような低い音が響く。
杭の先端が狙いから逸れた。
鋭い先が隙間を捉え損ね、赤く焼けた外殻の表面を甲高い音とともに滑っていく。
火花が散った。
「あっ――」
その一瞬、金属を伝った熱が手袋を貫き、とおるの掌へ噛みついた。
熱い、という認識より先に、腕が勝手に引こうとする。
生き物として正しい反応だった。
触れたものが焼けているなら、離す。
けれど今ここで手を離せば、次の機会がいつ訪れるか分からない。
「壁山、息!」
頭上から、アルセントの鋭い声が飛んだ。
「吐け!」
ほぼ同時に、バルガロスの脚を押さえ続けるバスティアンの怒声が腹へ響いた。
とおるは言われるまま、胸の奥で固まっていた空気を一気に吐き出した。
「ふ、ひゅうっ……!」
吐いたというより、恐怖で締まっていた喉の隙間から情けなく漏れた、と表現するほうが正しい音だったが、周囲では巨獣の唸り、外殻の軋み、風刃の破裂音、バスティアンの雄叫びが重なっている。
誰にも聞かれていない。
聞かれていないと信じたい。
呼吸が動くと、強張っていた肩からほんの少しだけ力が抜けた。
狭くなっていた視界が開く。
目の前にあるものを恐怖ではなく、「形」として捉えられるようになる。
違う。
杭を押し込むべき場所は“外殻の継ぎ目そのもの”ではない。
そこだけを見ていたから、狙いが大きすぎた。
第一組が打ち込んだ封印杭の痕跡。
外殻の一部には、既に薄い術式紋が焼きついている。
その抑制術式が伸ばした光の筋、そのすぐ脇に魔力の流れが一瞬だけ薄くなる場所があった。
バスティアンが渾身の力で右脚を押し込むたびにバルガロスの重心がわずかに傾き、脇腹へ集まっていた土霊素の流れが乱れる。
その瞬間、外殻の継ぎ目を守る岩のような魔力膜がほんの一拍だけ薄くなる。
さらにアルセントの風刃が熱霧を横へ吹き払うたび、外殻表面を這っていた火霊素が剥がれ、赤熱した光がわずかに弱まる。
二人が作っている。
バスティアンが力で歪ませ、アルセントが風で削り、その二つが重なった場所にほんの一瞬だけ道ができている。
誰か一人の攻撃ではない。
二人が命を削って生み出した、針の穴ほどの隙間。
そこへ、自分が杭を置く。
「ここかよ……!」
とおるは歯を食いしばり、封印杭の先を術式痕の脇へ押し当てると、丸盾の縁を振り下ろした。
鈍い衝撃音。
一度目。
杭の先端がわずかに食い込む。
しかし、浅い。
表面を削っただけだ。
「もう一回!」
盾を引き、再び打ちつける。
二度目。
金属同士がぶつかる鋭い音とともに衝撃が盾から肘、肩へ突き抜け、とおるの手首が痺れた。
指が開きそうになるが、杭は絶対に離さない。
離せない。
封印杭は半分にも満たない深さで外殻へ刺さり、聖印の刻まれた柄だけを震わせている。
その振動が、バルガロスへ異物の存在を伝えた。
巨獣の喉奥からそれまでとは明らかに質の違う低音が響いた。
怒り。
自分の身体へ杭を打ち込まれていると、ようやく気づいたのだ。
「まずい!」
バルガロスが巨体を捻り始めた。
外殻が一斉に擦れ合い、岩山全体が崩れ落ちるような轟音を立てる。
脇腹が迫ってくる。
壁ではない。
山が横から倒れてくる。
三度目を打つ余裕がない。
杭を抜いて逃げる時間もない。
とおるの〈壁〉は三枚とも、ここへ来るための足場と退避路に使っている。
目の前へ防御壁を出す余地はない。
丸盾一枚で、この質量を受け止められるはずもない。
詰んだ。
人生というものにはもう少し多くの選択肢が用意されていると思っていたのに、今の自分の前には「潰される」「焼かれる」「潰されながら焼かれる」という、どれを選んでも同じ結末へ着地する、ひどく狭い廊下しか残されていない。
「三枚目を蹴れ!」
アルセントの叫びが、轟音を切り裂いた。
三枚目。
杭を打ち込んだ後、横へ逃れるために置いた斜めの〈壁〉。
とおるは反射的に首を巡らせ、肩側へ伸びる透明な足場を視界の端へ捉えた。
間に合うか。
考える暇はない。
封印杭から手を離せば、ここまでのすべてが無駄になる。
だから離さない。
「うおおおっ!」
とおるは杭を握ったまま身体を捻り、片足だけを斜めの〈壁〉へ伸ばすと、靴底でその表面を力任せに蹴りつけた。
硬い反発。
身体が横へ弾かれる。
同時に、迫ってくるバルガロスの脇腹へ押し潰される勢いを利用し、とおるは丸盾を杭の柄へ押し当て、そのまま全体重を預けた。
剣を振り上げ、勇ましい声とともに杭を打ち込むような、英雄譚に描かれる格好の良い動作ではなかった。
足を滑らせ、盾へしがみつき、半ば転倒しながら身体ごと杭へぶつかっただけである。
分類するなら、攻撃より事故に近い。
戦技ではなく、衝突事故。
しかし、結果だけは正しかった。
とおるの体重。
盾の圧力。
横へ捻られるバルガロス自身の巨体。
三つの力が一つの点へ集中し、半端に刺さっていた封印杭を、外殻の隙間へ一気に押し込んだ。
杭が沈む。
硬質な外殻を突き破り、その奥にある魔力回路へ到達した瞬間、柄に刻まれていた聖印が赤白い閃光を放った。
眩い光が継ぎ目へ走り、複雑な紋様となってバルガロスの脇腹全体へ広がっていく。
火霊素と土霊素の流れが、外から打ち込まれた楔によって強引に縫い止められた。
「一本目!」
上空からアルセントの声が響いた。
成功した。
確認する間もなく、とおるの身体は蹴りつけた三枚目の〈壁〉へ投げ出され、その透明な表面を肩、背中、腰の順に激しく打ちながら滑り落ちていく。
「うわっ、待っ、止ま――!」
止まるはずもない。
姿勢を立て直す余裕もない。
とおるは斜めの〈壁〉を転がるように滑り抜け、その先にある石床へ肩から叩きつけられた。
鈍い衝撃が鎧越しに全身へ広がる。
「いっ――」
痛い。
かなり痛い。
肩の骨が無事かどうか、今すぐ鎧を脱いで確認したいほど痛い。
しかし声に出して痛いと認めた瞬間、心まで折れそうだったため、とおるは床へ転がったまま無理やり言葉をつないだ。
「いったくは、ない……!試験用鎧ありがとう、文明ありがとう、鎧を発明した人には俺の昼食を一回分あげたい……!」
実際には充分に痛い。
腕も痺れている。
肩を動かすたびに骨と筋肉の間に鋭いものを差し込まれたような痛みが走る。
耐えられる範囲だと口に出し、精神の崩壊を防いでいるだけである。
観察区域から、ミレイユの鋭い声が飛んできた。
「立て、壁山! まだ終わっていないぞ!」
「知ってます! 一本で単位をください!」
床へ手をつき、よろめきながら身体を起こしたとおるの訴えへ、試験官席からガロンの低く重い声が返る。
「三本だ」
「単位認定が厳しい!」
抗議した、その直後だった。
バルガロスの全身が震えた。
“怒り”に。
脇腹へ打ち込まれた一本目の封印杭は赤白い光を放ち続け、そこから伸びた抑制術式が血管へ侵入する蔓のように巨獣の体内を巡る火と土の魔力回路へ食い込んでいく。
内部で何かがせき止められ、外殻の隙間から漏れていた炎が一瞬だけ弱まった。
術式は効いている。
間違いなく、こちらは正しいことをした。
正しいことをしたはずなのに、相手の機嫌は目に見えて悪化していた。
人間関係でも仕事でも、問題を改善しようと動いた結果なぜか相手が怒り出すことは珍しくない。
珍しくはないが、相手が巨大魔物の場合は怒らせた後の被害範囲が広すぎる。
バルガロスは前脚を床へ叩きつけた。
砕けた石片が爆ぜる。
広場全体が跳ね上がり、とおるの足元を激しく揺らした。
続けて、巨獣はゆっくりと頭部を下げる。
兜のように分厚い頭蓋。
左右へ伸びる二本の大角。
焼けた空気を吐き出す鼻孔。
そのすべてが、正面からとおるへ向けられた。
「あ」
さっきまでアルセントを追っていた赤い瞳が、こちらを見ている。
右脚へしがみつくバスティアンでもない。
風刃を放ち続けるアルセントでもない。
封印杭を打ち込んだとおるだけを、明確に標的として捉えている。
濁った瞳の奥で、赤い光がゆっくりと絞られた。
巨獣の怒りが、一点へ集まっていく。
とおるは丸盾を構えながら、一歩だけ後ずさった。




