第22話 スキルというものは
スキルというものは、本来ならば“技”だの“能力”だの“便利な特殊効果”だのという冒険者向け入門書の巻末に載っていそうな薄っぺらい単語一つで片づけられるようなものではなく、むしろ所有者本人が生まれた時から体内に抱えている血の質や骨の形、危険を前にした瞬間に最初に強張る指先、咄嗟に息を止めるか吐くかという呼吸の癖や怒られた時に目を逸らすか反論するかという性格の皺、さらには本人すら忘れている幼い日の記憶の沈殿物までもが魔力という見えない水に溶け込んで長い年月をかけて結晶化した、その人間をその人間たらしめている複雑怪奇な基盤の一部なのだと今さらながらゾロの言葉を思い返していた。
正直に告白すれば、ゾロが行った講義のうちきちんと理解できた内容はおそらく全体の半分にも届いておらず、残りについては理解したというより頭蓋骨の内側へ大量の専門用語を力任せに詰め込み、蓋が閉まらなくなったところを精神力という名の膝で押さえつけているだけであった。
魔力回路の分岐係数。
属性変換時に発生する位相差。
複数術式の干渉に伴う魔素子配列の偏り。
魂位相と肉体回路の同期不全。
術式命令部と現象固定部の伝達遅延。
魔力負荷に対する生体組織の可逆性だの、非可逆性だの、臨界点を超過した際の回路融解だの。
そんな言葉が黒板に書き足されるたび、とおるの脳内では白衣を着た小さな壁山とおるたちが慌ただしく走り回りながら、「第三記憶倉庫が満杯です!」「専門用語をこれ以上搬入しないでください!」「誰ですか、属性位相差を日常記憶の棚へ置いたのは!」「昨日の夕飯の記憶を捨てれば空きができます!」などと叫びながら、最終的には責任者らしき小さなとおるが「もう全部試験前に覚え直すということで!」と、現代日本の学生時代から何一つ成長していない結論を下していた。
前世において自分は一応、偏差値七十前後の学校へ通っていた。
少なくとも教科書を読めば内容は理解できたし、試験範囲を聞けばそれなりの点数を取るための計画を立てることもできた。
だから異世界へ来た当初も、多少は期待していたのである。
魔術理論といってもどうせ火は熱く、水は冷たく、風は速く、土は硬い、くらいの分類なのではないか。
ゲームで言えば属性相性表を覚え、炎には水、空を飛ぶ敵には弓、毒を受けたら解毒薬、という程度の話ではないか。
そんな甘い考えはゾロが魔力回路図を黒板いっぱいに描いたその横へ、人体の骨格図、神経経路、属性変換式、さらに術式の起動順序を同時に書き始めた時点で音もなく息を引き取った。
異世界の高等魔術理論は大学院レベルの物理学と電気回路工学と生体医学へ、心理学、精神論、宗教学、ついでに本人の気合いまで混ぜ、それらを炎属性のお姉さんの柔らかな笑顔一つで同時履修させるような学問だったのである。
しかも単位を落とした場合の罰は留年ではない。
実戦中に魔力が逆流して回路を焼き、腕が動かなくなって最悪の場合は魂位相が肉体からずれて廃人になるかもしれない。
教育方針が重い。
重すぎる。
現代日本なら、講義概要の欄へ「履修に失敗した場合、生命活動へ重大な支障が生じます」と書いた瞬間に大学側へ問い合わせが殺到するだろうし、教授会より先に労働基準監督署か警察が来る。
しかし、ここは異世界である。
労働基準法は、おそらく魔物に食われた。
それでも自分の〈壁〉という、名前だけ聞けば家を建てる業者かあるいは試験前日に机へ突っ伏した学生の精神状態を表しているようなスキルと向き合い続けるうち、とおるにも一つだけ霧の中から道標が浮かぶようにはっきり理解できることがあった。
スキルとは、単に魔力を出し入れして発動する便利な現象ではない。
人体を構成する細胞、神経、骨格、血液、魂位相、記憶、魔力回路、そして魔素子同士のつながりと結合、それらすべてが見る者によっては美しい数式に、別の者によっては台所に落とした乾麺の束にしか見えないほど複雑に重なり合いながら、“術者本人の意思によって一つの答えへ収束した時に”ようやく外界へ現象として姿を見せるものなのだ——と。
右手を動かす時、人は肩の筋肉を何割収縮させながら肘を何度曲げ、指先へどれほどの血を送り込むかなどといちいち計算してはいない。
歩く時もそうだ。足裏へかかる圧力や膝の角度、骨盤の傾きや背骨の重心、視線の高さや次の一歩を踏み出すために必要な筋繊維の収縮順序まで、一つずつ考えているわけではない。
それでも身体は自然と動く。
長年かけて作られた神経と経験が、本人の意識よりも深い場所で動作を成立させているからである。
スキルも、それに近い。
手や足と同じ。
声や表情と同じ。
人によって笑い声の高さが違い、驚いた時に目を丸くする者もいれば鼻で笑う者もいて、怒った時に黙る者もいれば嵐のように喚く者もおり、緊張した時に水を飲む者ややたら靴紐を結び直す者、どう考えても今ではない場面で雑学を披露して空気を凍らせる者など、人間の反応が千差万別であるようにスキルもまた本人の生き方から切り離すことはできない。
魔法とスキルを完全に分けて考えることも、スキルと術者本人をまるで包丁と料理人のように別々のものとして扱うことも、厳密には誤りらしい。
魔力、術式、身体、性格、記憶。
それらは机の上に並べられた独立した部品ではなく、一つの人間を構成する地続きの要素であり、スキルとはその人間が世界へ触れた時に生まれる“癖”のようなものでもある。
だからこそ、スキルには同じものがほとんど存在しない。
炎を出す者は大勢いる。
剣を強化する者も、身体を硬くする者も、風で速く動く者も、たとえば「特売日の主婦の突進力を見習ったのか」と言いたくなるような加速を見せる者も、王国の戦場や訓練場では決して珍しくない。
それでもどの回路を通り、どの属性を帯び、どのような意思を経て発動するかはそれぞれ別物だった。
ミレイユの〈白雷〉が彼女の性格そのもののように迷いなく前へ進む力を持つのも、決して偶然ではない。
カナデの魔力が人の乱れを整える穏やかな波となるのも、偶然ではない。
ネロの術式が正面から力をぶつけるのではなく、相手の構造の隙間へするりと入り込み、鍵穴に差し込まれた黒い針のように内部から結果を変える性質を持つのもやはり偶然ではない。
そしてとおるの〈壁〉が、何かを斬るのではなく何かと何かの間へ境界を置く力になったのも、たぶん偶然ではなかった。
本人たちが力を選んだのか。
それとも、力のほうが本人を形作ったのか。
その答えは、おそらく両方なのだろう。
そんな難しいことを考えながら、とおるは魔力障壁の外側で丸盾を抱え、鎧角獣バルガロスと第一組の戦いを見守っていた。
思想としては壮大である。
姿勢としては、危険な大型犬を遠巻きに見守る近所の住民、もっと正確に言えば、よその家の犬が鎖を引きちぎりそうになっているのを見て「うわ、あれ絶対こっち来るじゃん」と思いながらも、なぜか足がその場から動かない通行人に近かった。
「壁山、ぼんやりするな」
隣に立つアルセントが、まるで朝の爽やかな風が銀の鎧を着て人間の形になったような顔で忠告してくる。
「ぼんやりではなく、スキルの本質について考察していました」
「今かい?」
「巨大な魔物を目の前にすると、講義内容が急に現実味を持つので」
「なるほど。知識を実践と結びつける、実に知性ある態度だね」
「本音を言うと、怖いので難しいことを考えて気を逸らしています」
「一言で台無しにしたね」
「知性より生存本能が勝ちました」
「正直なのは美徳だよ」
「減点されない美徳なら助かります」
アルセントが苦笑する一方、二人の横ではバスティアンが巨大な大盾を地面へ立て、その後ろから広場を覗いていた。
彼の体格ならば盾へ隠れる必要などほとんどない。
むしろ盾のほうが、バスティアンという大岩の一部に見える。
しかし盾の陰からバルガロスを見る彼の顔は、休日に動物園へ連れてきてもらった少年のように輝いていた。
「バルガロスは強そうだな!」
「嬉しそうに言うことではありません」
「強い相手に勝てば、自分も強くなれる!」
「その価値観、分かりやすくて羨ましいです」
「壁山も一緒に前へ出よう!」
「今は観察組です」
「次は出よう!」
「未来の話を確定事項みたいに言わないでください」
「第二組なのだから、確定しているぞ!」
「事実によって退路を塞ぐのは卑怯では?」
「壁山は壁を作るくせに、退路ばかり探すんだな!」
「自分が作った壁に自分で追い詰められるほど間抜けではありません」
その言葉を口にした直後、とおるは過去に一度寝ぼけて客室の扉前へ壁を出し、自分で部屋から出られなくなったことを思い出した。
あれは事故である。
壁の生成位置を確認せずに半分眠ったまま防犯のために発動した結果、部屋の内側から扉を完全に封鎖してしまい、翌朝ミレイユに壁越しで怒鳴られた。
自分で作った壁に自分で追い詰められた間抜けの話は、今は関係ない。
とおるの内心に浮かんだ証人を、彼は速やかに記憶の奥へ埋めた。
広場の中央では鎧角獣バルガロスが、太い前脚で白石の床を掻いていた。
爪が床材へ深く食い込み、騎士団の訓練設備として相応の強度を持つはずの石が柔らかな土のように削り取られていく。
鼻先から吐き出される息には火の粉に似た赤い魔素子が混じり、背中から脇腹を覆う灰黒色の外殻は光を鈍く反射しながら、その継ぎ目からは地中深くで何年も熱を溜め込んだ炉のような赤い明滅が呼吸に合わせて強くなったり弱くなったりしていた。
対する第一組は正面にミレイユ、右後方にカナデ、左後方にネロという三角形を作っている。
最前線へ立つミレイユが敵の注意を引きつけ、その後方でカナデが広範囲の状況を把握しつつ反対側からネロが構造を解析する。
攻撃。
支援。
解析。
三人の役割は明確だった。
ただし明確であることと、簡単であることは別問題である。
スキルには、王国の標準的な魔術学において八つの系統があるとされている。
改めて、その八系統について振り返ってみよう。
一つ目は、〈強化〉。
術者本人や、武器、防具、肉体機能などを、魔力によって底上げする系統である。
筋力を高める。
皮膚を硬くする。
知覚を鋭くする。
武器の強度を増す。
反応速度を上げる。
一見すると、魔力をたくさん注げば、そのぶん強くなるという、子どもでも理解できそうな単純な仕組みに思える。
しかし実際には、どの部位へどの程度の魔力を、どの順番で何秒間流すかという細かな制御が必要になり、全身を無闇に強化すれば回路負荷と魔力消費が跳ね上がり、筋肉の出力だけが骨格の耐久を超えて自分の力で自分の骨を折ることすらある。
身体能力を倍にしたら、肉体も倍頑丈になる。
そんな親切設計ではない。
アクセルだけを強化してブレーキと車体をそのままにした自動車と同じである。
直線では速い。
曲がった瞬間に終わる。
ミレイユの〈白雷〉は、この強化系に属する。
白い雷光が、彼女の両脚へ細く走った。
足裏には火霊素。
膝から腰へ雷霊素。
腰から背骨、肩、肘、手首にかけて、火と雷が交互に絡み合い、一つの回路を作っている。
炎は敵へ撃ち出して焼くためのものではない。
筋肉が収縮する瞬間へ、爆発的な推進力を与える。
雷も相手を感電させるためではない。
神経と魔力回路の伝達遅延を削り、考えた動作が肉体へ届くまでの時間を限界まで短くする。
彼女の肉体は〈白雷〉をまとったことで、単純に強靱な身体へ変わるのではない。
必要な場所へ、必要な力を、必要な瞬間だけ通す、一個の戦闘回路へ変わるのである。
バルガロスが二本の角を低く構えた。
巨体の重心が前へ移る。
前脚の筋肉が盛り上がり、爪が石床へ深く食い込む。
対するミレイユは試験用の長剣を斜め下へ向け、左足を半歩だけ後ろへ置いた。
「正面から受ける気か?」
アルセントが眉を上げる。
「いえ、あの人は受けません」
とおるはミレイユの剣ではなく、足元を見ていた。
火霊素は右足の外側。
雷霊素は左腰と背中。
真正面へ踏み込む流れではない。
次の瞬間にバルガロスが石床を蹴り、大地そのものが前へ倒れてくるような勢いで突進した。
重量の塊が、巨体に似合わぬ速度で迫る。
前脚が床を踏むたびに広場全体が低く震え、抑制鎖が耳障りな音を立てながら、二本の角はミレイユの胴体を鎧ごとまとめて突き上げる軌道へ入っていた。
ミレイユは動かない。
ぎりぎりまで正面へ残る。
臆しているのではない。
相手が進路を変えられなくなる瞬間を待っている。
角が彼女の胸元へ届く寸前、白雷が弾けた。
大きく跳んだわけではない。
右足の火霊素を横方向へ爆発させ、左腰の雷霊素で上体の向きを瞬時に切り替え、身体一つ分だけ軌道の外へ滑ったのである。
灰黒色の巨体が、ミレイユの髪を揺らしながら脇を通り過ぎた。
同時に、彼女の剣が下から走る。
狙いは、バルガロスの前脚内側。
厚い外殻に守られていない、腱に近い部分。
ごっ、と、金属同士では出ない重い音が響き、刃を潰した試験剣が薄い外殻へ食い込み、赤い火花が散った。
傷は浅い。
封印杭も、まだ打っていない。
それでも、バルガロスは痛みよりも自分の身体へ触れられた怒りを覚えたらしく、太い首を捻りながら通り過ぎながら二本の角を横薙ぎに振った。
ミレイユは剣で受けない。
腰を落とし、角の下をくぐるように身を沈め、そのまま獣の背後へ抜ける。
直後、尻尾の先についた骨槌が彼女のいた場所を薙ぎ払った。
しかし、そこにミレイユはいない。
すでに二歩目へ移り、尻尾の間合いから離れている。
踏み込み。
回避。
斬撃。
沈み込み。
離脱。
一つ一つを分解すれば別々の技であるはずなのに、彼女の身体操作は途中で途切れず、まるで句読点を一切必要としない長い文章のように最初の一歩から最後の離脱まで滑らかにつながっていた。
とおるは、少しだけ感心する。
少しだけというのは、素直に大きく感心すると後で本人に知られた際に「当然だ」と言われたうえに訓練量を増やされそうだからである。
二つ目は、〈放出〉。
魔力を術者の身体や武器から切り離し、弾丸、炎、光、衝撃、刃、波などの形で外へ送り出す系統である。
射程を得られるため、近づかずに攻撃できる一方、術者の身体から離れるほど制御は難しくなり、外気、地脈、気温、敵の魔力、周囲の障害物などの影響を受けやすい。
火球一つを飛ばすだけでも、形状、速度、温度、軌道、維持時間、着弾地点、爆発範囲を決めなければならず、適当に放てば風に流され、味方を焼き、建物へ着弾し、戦闘後に始末書を書くことになる。
魔術師が大規模な火炎術を使う時、後方で記録官が青い顔をしている理由である。
なお、とおるが〈壁〉を圧縮し、弾丸のように飛ばす使い方も“分類”だけを見るならこの放出系の性質を含んでいる。
ただしミレイユはそれを壁とは認めていない。
ゾロは笑っていた。
リディアは頭を抱えた。
モルドは備考欄を増やした。
社会的合意は得られていない。
バルガロスが振り返り、喉の奥を赤く光らせた。
首下の呼吸膜が大きく膨らみ、背中の外殻の隙間へ集まっていた火霊素が喉と肺へ流れ込んでいく。
「熱霧が来ます!」
カナデの声が響いた。
獣の口元と外殻の継ぎ目から高温の霧が一気に噴き出す。
それは炎の息ではない。
バルガロスの体内にある魔力炉で加熱された水分と火霊素を、細かな粒子として広範囲へ散布する生態術式である。
直接触れれば皮膚を焼く。
吸い込めば喉と肺を傷つける。
炎と違って攻撃範囲を示す明確な輪郭がなく、目に見える霧の外側にも高熱の魔素子が漂うため、防御側は安全な位置を判断しづらい。
現代日本で例えるなら、見えにくい熱湯を霧吹きで大量散布してくるようなものである。
例えたところで、何一つ安心できないが。
カナデは杖を胸元へ引き寄せ、先端についた三つの銀鈴を指先で撫でた。
「――〈静水輪唱〉」
澄んだ音が一つ、広場へ広がった。
カナデのスキル〈静水輪唱〉は、〈操作〉と〈領域〉の性質を併せ持つ複合術式である。
ここで、三つ目から六つ目までをまとめて確認しよう。
三つ目の〈付与〉は、武器、防具、道具、他者の身体などへ、属性や術式効果を与える系統。
剣へ炎をまとわせる。
鎧へ防御術式を刻む。
味方の足へ風を宿し、移動を補助する。
薬へ聖属性を加え、浄化効果を持たせる。
対象の性質を完全に作り変えるわけではなく、本来持っていない働きを、一時的に追加する技術である。
四つ目の〈操作〉は、すでに存在している物質や現象、あるいは魔力へ干渉し、その動きや性質を制御する系統。
水流の向きを変える。
風を曲げる。
燃えている炎を集める。
音を遠くへ運ぶ。
相手が撃った魔力弾の軌道を、わずかに逸らす。
何もない場所から現象を生むのではなく、そこにあるものへ手を加えるため、術者の観察力と環境理解が重要になる。
五つ目の〈召喚〉は、契約した存在、霊的構成体、魔獣、術式人形、遠隔器具などを呼び出す系統。
ただし、「異空間から巨大な竜を呼び出して敵を焼き払う」といった派手なものばかりではない。
小さな探知精霊を出す者もいれば、荷物運び用の術式人形を呼ぶ者もおり、地方では畑仕事へ使える土人形を召喚する術者が戦闘魔術師より尊敬される場合すらある。
食料生産は強い。
どの世界でも農業は偉大である。
六つ目の〈領域〉は、一定範囲そのものへ術者の法則や感知網を広げ、内部の現象へ継続的に作用する系統。
リディアの〈白露〉が代表的であり、領域へ入ったものの魔力や動きを感知し、自律的な斬撃と浄化を発生させる。
領域系は強力だが、範囲を広げるほど大量の情報が術者へ流れ込むため精神負荷が非常に高い。
広場全体の音、熱、魔力、人間の動き、空気の揺れを同時に感じ取るというのは言葉にすると便利そうだが、実際には百人が同時に話す部屋で特定の一人の小声だけを聞き分けるような作業である。
とおるなら三分で耳を塞ぎ、隅へ逃げるレベルだ。
〈静水輪唱〉は、カナデが生み出した極小の水粒を銀鈴から放たれる音の波へ乗せ、周囲へ広げる。
水粒そのものに、攻撃力はほとんどない。
一粒だけなら肌をわずかに湿らせる程度である。
しかしそこへ音属性が加わることで、領域内に存在する振動、呼吸、足音、魔力波、心拍、熱による空気の揺らぎを、水粒の震えを通じて知覚できる。
さらにカナデが鈴の音を重ねると水粒が共振し、領域内にいる味方の呼吸や魔力回路の乱れへ緩やかに干渉する。
傷を直接塞ぐ治癒魔法とは違う。
骨をつなぎ、血を止めるほどの力もない。
その代わり、恐怖、焦燥、痛み、緊張によって乱れた呼吸を整え、魔力回路の振動を穏やかにしながら術式の失敗率を下げる。
前へ出て敵を倒すスキルではない。
周囲の声を聞き、誰かの乱れを知り、壊れてしまう前に静かに手を添える。
カナデという青年の性格を、そのまま現象へ変えたような術式だった。
銀鈴の音が二度、三度と重なる。
空気中へ散った青い水粒が、迫る熱霧へ触れた。
熱によって震え方が変わり、その差が音の波となってカナデへ返る。
彼の脳内には目に見えない霧の濃淡と温度が、地図のように描かれているのだろう。
「中央が最も高温です! 左右の下側は薄い、ミレイユさん、右へ三歩! ネロさんは左へ二歩、その後しゃがんでください!」
「分かった!」
「了解」
ミレイユは、カナデの指示へ一切迷わず従った。
白雷を足元で短く弾き、右へ三歩。
ネロは左へ二歩進み、本当にその場でしゃがむ。
直後、熱霧が三人のいた場所を飲み込み、石床の表面が、じゅう、と湿った音を立てながら赤く変色した。
しゃがんだネロの頭上を、濃い熱霧が通過する。
青い水粒は霧の流れへ入り込み、完全に消すのではなく高温部分の密度を乱して外側へ押し広げていく。
水属性で熱を奪い、音の共振で霧粒子のまとまりを崩す。
二属性を組み合わせた、回避支援と防御を兼ねる術式である。
「すごいですね」
とおるは思わず呟いた。
カナデは普段、声が小さく、人の後ろへ隠れるように立つ青年である。
戦うことは苦手だと自分から言い、バルガロスの説明を聞いた直後には、「バスティアンさんの盾の後ろへ入ってもいいですか」と、非常に正直な申請を出していた。
その申し出に関しては、とおるも全面的に賛同している。
可能なら自分も入れてほしいと思っていた。
大盾の収容人数が二名までなら抽選にすべきだ。
そんな彼がひとたび〈静水輪唱〉を広げると、巨大な魔物の攻撃範囲を読んでミレイユの退路を指示し、熱霧の流れまで操作している。
「補助術者は戦場の目と耳だ」
アルセントが感心したように言った。
「派手な斬撃よりも、ああいう情報のほうが部隊全体を生かすこともある」
「俺も、あの人の後ろにいれば安全ですかね」
「君は防御担当では?」
「分類上は」
「立場から逃げることに関しては、本当に動きが速いね」
「得意分野です」
「壁は動かせないのに、本人はよく逃げるんだな!」
バスティアンが豪快に笑った。
「笑い事ではありません。自分が動けないぶん、本人くらいは機敏でありたいんです」
「その盾を持っていると、あまり機敏には見えないけどね」
「見た目への攻撃はやめてください」
広場ではバルガロスが熱霧を突き破り、右後方にいたカナデへ向かって太い前脚を振り上げていた。
カナデの術式が危険を知らせるように高く鳴る。
ミレイユが間へ入ろうと踏み込む。
しかし、距離がある。
〈白雷〉なら届く可能性はあるものの、バルガロスの尻尾が横から迫り、彼女の進路を塞いでいた。
ネロがほんのわずかに右手を上げる。
「動かないで、カナデ」
「え?」
「動くと、たぶん死ぬぞ」
「言い方!」
カナデの顔から血の気が引いた。
当然である。
頭上から巨大な爪が降ってきている状況で、「動くと死ぬ」と言われて落ち着いていられる人間はたぶん人間ではない。
ネロは決して慌てない。
腰の魔導具から黒い針のような器具を三本抜き、カナデの周囲へ三角形を描くように投げた。
針が石床へ突き刺さる。
それぞれから影属性の魔力が細い線となって伸び、三角形の内部へ複雑な術式が浮かび上がった。
「――〈影解式・縫合欠損〉」
ネロのスキルは、七つ目の〈変質〉と、八つ目の〈特殊〉へまたがっている。
〈変質〉とは、物質、属性、魔力、肉体、術式構造などの性質を、別の状態へ作り変える系統である。
水を氷へ変える。
皮膚を金属質へ変える。
毒の性質を反転させ、薬へ変える。
火属性の魔力を熱を持たない光へ変える。
単純な操作と違い、動かすのではなく対象の在り方そのものへ手を加えるため、失敗した場合の危険性は高い。
薬を毒へ変えることもできる。
毒をもっと強い毒に変えることもできる。
変質術者が食堂で調味料を触ろうとすると周囲が少し緊張する理由である。
八つ目の〈特殊〉は、他の七系統へ分類しきれない例外をとりあえず一つの箱へ入れたものである。
時間感覚。
境界。
記憶。
因果。
距離。
概念。
情報。
夢。
魂。
通常の物質現象だけでは説明できない作用は、だいたいここへ放り込まれる。
分類学としては、少々乱暴である。
現代日本で言えば、「燃えるごみ」「燃えないごみ」「資源ごみ」「その他、よく分からないもの」という分け方に近い。
とおるの〈壁〉も、測定官たちが頭を抱えた末に特殊系へ仮分類されている。
つまり、王国公認の「よく分からないもの」である。
うん、こう書くと少し傷つく…。
ネロの〈影解式・縫合欠損〉は、対象を直接破壊するスキルではない。
彼は相手の術式、身体構造、運動、魔力回路を観察し、その内部に存在する“つながり”を影として読み取る。
ここで言う影とは光が届かない暗い部分ではない。
表からは見えない、情報の裏側。
どこから力が入り、どこを支え、何を通って動作が成立し、どの回路を経て現象が生まれるのか。
それらを黒い線として知覚し、一時的に「つながっているはずの部分」を欠損状態へ変える。
切断とは違う。
壊すわけでもない。
対象の中にある接続をほんの短い時間だけ、“存在していないもの”として扱う。
ネロの細い指が動いた。
三本の針から伸びた影の糸が、バルガロスの前脚へ絡みつく。
正確には、脚そのものを縛ったのではない。
肩。
肘。
前脚の筋肉。
外殻の内側を流れる土霊素。
踏み込みから生じる重心移動。
それらすべてをつなぐ魔力線の一部へ、黒い欠損を縫い込んだのである。
バルガロスの前脚が落ちる。
巨大な爪がカナデの頭上へ迫る。
接触まで、指二本分ほど。
その距離で突然、前脚から力が抜けた。
関節が壊れたわけではない。
筋力が消えたわけでもない。
振り下ろす力を、肩から爪まで伝える“つながり”だけが一瞬、欠けた。
爪は石床へ斜めに滑りながらカナデの肩をかすめ、地面へ大きな傷を刻む。
「うわああああっ!」
カナデは悲鳴を上げ、その場へ尻もちをついた。
「動くなって言ったのに」
ネロは、相変わらず冷静だった。
「今の状況で動かない人間のほうが珍しいですよ!」
「でも、助かった」
「感謝と恐怖と怒りが、同時に来ています!」
「忙しいね」
「誰のせいですか!」
とおるは、目を見開いてネロの術式を追っていた。
似ている。
ネロの能力は、自分の〈壁〉とどこか似ている。
相手の力と正面からぶつからない。
巨大な前脚を、同じだけの力で押し返したわけでもない。
攻撃そのものを止めるのではなく、攻撃が成立するために必要なつながりへ触れている。
違いがあるとすれば、〈壁〉が何かと何かの間へ境界を差し込むのに対し、ネロはすでに存在している構造の接続点を一時的に欠損させることだろう。
自分が道路の途中へ通行止めを置くなら、ネロは道路そのものの一部を一秒間だけ地図から消す。
どちらも迷惑である。
敵にとっては特に。
「黒蓮らしい、嫌な能力だな」
ミレイユは、白雷で尻尾を避けながら言った。
「褒め言葉として受け取るよ」
「褒めていない」
「白華の人は表現が固いね」
「口を動かす暇があるなら、次を解析しろ!」
「はいはい」
軽口を返しながらも、ネロの額には薄く汗が浮かんでいる。
〈影解式・縫合欠損〉は、何でも無条件に無効化できる便利な能力ではない。
観察できない構造には使えない。
対象の動き、属性、筋肉、回路の流れを読み、どの部分がどの部分へつながりどこを欠損させれば、どのような結果になるかを理解する必要がある。
さらに、巨大な魔物ほど接続経路は多い。
一本を欠損させても、別の筋肉や魔力回路を使って力を通されれば完全には止められない。
先ほどバルガロスの前脚を逸らせたのは、カナデの〈静水輪唱〉によって足音と魔力の揺らぎが共有されていたこと。
ミレイユが正面で注意を引き、攻撃を直線的な動作へ限定していたこと。
ネロ自身が、それまでの攻防で前脚の回路を観察していたこと。
その三つが重なって、初めて成立した。
スキルとは一人で完結する必殺技ではない。
術者本人の一部である以上、その人が何を見て何を考え、誰と一緒にいるかによって性能も使い方も変わる。
ミレイユが前へ出る。
カナデが全体を聞く。
ネロが構造の隙間を見つける。
三つのスキルが重なり、一人では作れない攻撃機会が生まれていた。
「カナデ、呼吸膜の位置は」
ミレイユが、バルガロスから目を離さずに尋ねた。
尻もちをついていたカナデは慌てて立ち上がり、杖を握り直す。
「首の下、やや左寄りです!いま熱霧を吐いたことで呼吸が深くなっています。次に吸い込む時、三拍だけ大きく開きます!」
「ネロ」
「見えてる。外殻から呼吸膜へ熱を送っている回路が一本ある。完全に切るのは難しいけど、流れを遅らせることならできる」
「一拍でいい」
「剣士は簡単に言うね」
「一拍以上あれば、お前は何をする」
「二拍目で逃げる」
「なら一拍で十分だ」
「理不尽だなあ」
ミレイユは地面を蹴った。
白雷が今度は派手な火花を散らすことなく、細く彼女の身体へ沈んでいく。
足裏から腰。
腰から肩。
肩から手首。
必要な分だけを、必要な経路へ。
以前のミレイユなら、全身へ大量の魔力を流して速さと出力で一気に押し切ろうとしていただろう。
だが今は違う。
ゾロに何度も注意され、とおるとの立ち合いで回路の結び目を崩され、過剰出力が隙になることを身体で覚えた。
白雷を大きくするのではなく、細く、短く、鋭く使う。
それは彼女がただ前へ出る剣士から、周囲と歩調を合わせる騎士へ変わりつつある証でもあった。
バルガロスが太い首を振り、ミレイユへ二本の角を向ける。
カナデの鈴が鳴った。
一拍。
青い水粒が獣の呼吸を拾い、首下の薄い膜が、吸気に合わせて大きく膨らむ。
二拍。
ネロの影の糸が、外殻の隙間へ入り込んだ。
熱霊素を呼吸膜へ送る回路へ、短い欠損が生じる。
三拍。
本来なら頭部を振り上げ、ミレイユを角で突き上げるはずだった動作がほんのわずかに遅れた。
時間にすれば、一秒にも満たない。
しかし白雷をまとったミレイユにとっては、それで十分だった。
彼女の剣が、白い線となって走る。
狙いは首ではない。
試験用の刃で斬りつけるのでもない。
左手に持っていた封印杭を呼吸膜の横へ当て、右手の剣の腹でその頭部を正確に叩く。
甲高い音が鳴り、杭が薄い外殻の隙間へ食い込んだ。
刻まれていた聖印が赤白く発光し、抑制術式がバルガロスの魔力回路へ流れ込む。
獣の首下から赤い魔素子が散った。
「一本目!」
ミレイユは着地と同時に距離を取り、二人へ声を飛ばす。
「確認しました!」
カナデが応じる。
「思ったより早かったね」
ネロはそう言いながら、わずかに口元を上げた。
「予定通りだ」
「予定を聞いた覚えがない」
「今、共有した」
「白華式の情報共有は事後報告なんだね」
「黙れ!」
バルガロスが咆哮した。
杭を打たれた首下から赤い魔力が散り、怒りによって外殻の継ぎ目が先ほどよりもさらに強く発光する。
巨体が暴れ、尻尾の骨槌が広場を薙ぎ払いながら白石の床を大きく抉った。
三人はすぐに散開する。
無傷ではない。
カナデの肩には爪がかすめた赤い痕が残っている。
ネロの額には解析術式の負荷による汗が浮かんでいる。
ミレイユの左袖も、熱霧によって一部が黒く焦げていた。
それでも役割は崩れていない。
ミレイユは前を向き、カナデは鈴を鳴らし、ネロは影の線を追っている。
石台の上ではガロン試験官が胡座をかいたまま煙管を咥え、細めた目で三人を観察していた。
「悪くねえ」
低い声が、広場の端まで届いた。
褒めているのか。
これから酷いことが起こる前触れなのか。
とおるには判断できなかった。
経験上、元ヤンキー風の中年が煙草を吹かしながら「悪くねえ」と言う場合、この後に続くのはだいたい「ただし」である。
予感は、悲しいほど正確に当たった。
「ただし、あの鎧角獣、怒ると面倒なんだよな」
「先に言ってください!」
とおるの声が、思わず観察区域から飛んだ。
ガロンが面倒そうにこちらを見る。
「今、言っただろ」
「怒る前に言うべきでは?」
「説明したら、怒らなくなるのか?」
「ならないですけど!」
「じゃあ同じだ」
「情報共有の時系列が雑すぎる!」
バルガロスの背中が大きく持ち上がった。
灰黒色の外殻が一枚ずつ開き、その隙間から赤熱した魔力が噴き出す。
体内の魔力炉へ溜め込まれていた火霊素と土霊素が混ざり、血管のような回路を通じて外殻全体へ流れ込んでいく。
装甲の表面が灰黒から赤銅色へ変わる。
周囲の空気が、熱で揺らいだ。
「熱甲状態だ」
ガロンは、まるで食後の茶について説明するような口調で煙を吐いた。
「外殻温度が上がる。触ると焼ける。筋肉への魔力供給も増えるから、突進速度が一段上がる。頑張れ」
「頑張れで済ませるなよ!」
とおるは、今度こそ遠慮なく叫んだ。
周囲の受験者の何人かが笑う。
笑っている場合ではない。
あちらは試験用に管理されている魔物である前に、A級相当の危険魔獣である。
若い個体だろうと抑制鎖がついていようと、試験官が見張っていようと、赤熱した巨大装甲獣が人間へ向かって走る事実は一切変わらない。
包丁に安全紐がついているからといって、投げつけられて平気な人間はいない。
「毎年、ここまで怒るんですか?」
とおるが尋ねると、ガロンは首を傾けた。
「半分くらいだな」
「残り半分は?」
「もっと怒る」
「聞かなければよかった!」
ミレイユは赤熱するバルガロスを前に、剣を構え直した。
足元へ白雷が走る。
カナデも杖を握り、青い水粒をさらに広げた。
ネロは少し面倒そうに眉を寄せながら、外殻の隙間から伸びる新しい回路を追っている。
「来るぞ!」
ミレイユが叫ぶ。
鈴が鳴った。
「進路は正面、途中で右へ曲がります! 尻尾も同時に来ます! 熱の影響で床が割れています、左側は足場が不安定です!」
「回路が増えた」
ネロが赤く浮かび上がる魔力線を目で追う。
「さっき欠損させた場所へ、別の経路から力を回している。前脚への干渉は、もう同じ方法じゃ通じないね」
「なら、別の場所を見つけろ」
「人使いが荒い」
「試験中だ!」
「君、正式騎士になったら部下が大変そう」
「黙れ!」
「もう少し柔らかく指示を」
「ネロ、可能な限り迅速に、敵の構造上の弱点を解析し、私たちへ共有してもらえると大変助かる」
「急に丁寧になると怖いな」
「どちらにしても文句を言うな!」
バルガロスが踏み込んだ。
白石の床が砕ける。
先ほどより、明らかに速い。
赤熱した外殻の隙間から火の粉を散らし、巨体が一直線にミレイユへ迫る。
彼女は正面から逃げなかった。
白雷を全身へ細く巡らせ、剣先をわずかに下げる。
とおるは魔力障壁の外側で、思わず一歩前へ出ていた。
まだ第一組の試験中である。
他の組が手を出せば規則違反。
危険があればガロンが止める。
自分にできることは、見ることだけ。
頭では分かっている。
それでも気脈感知が勝手に広がっていた。
バルガロスの火と土。
カナデの水と音。
ネロの無と影。
ミレイユの火と雷。
それぞれの魔力が広場の中で交差し、押し合い、重なり、ほどけ、再び結びついている。
強化。
放出。
付与。
操作。
召喚。
領域。
変質。
特殊。
八つの分類は、人間が理解しやすいように用意した箱にすぎない。
現実のスキルは、箱の中へ綺麗に収まらない。
ミレイユの〈白雷〉は強化系でありながら、火と雷を肉体へ付与し、魔力の流れを細かく操作している。
カナデの〈静水輪唱〉は領域であり、操作であり、味方の呼吸と回路へ穏やかな調律を付与する補助術式でもある。
ネロの〈影解式・縫合欠損〉は変質と特殊をまたぎ、魔導具を媒介に術式構成体を展開するという点では簡易的な召喚術式の性質まで含んでいる。
そして、とおるの〈壁〉も同じだ。
壁を作るだけなら、生成系、あるいは土属性に近い防御術式として説明できる。
しかし、壁を圧縮して飛ばせば放出。
仲間の足場へ使えば付与。
攻撃の軌道を誘導すれば操作。
一定範囲を隔てれば領域。
空間と動作の間へ境界を差し込むなら特殊。
何なら形を斧へ変えれば変質だと、ミレイユは不本意そうに認めた。
ただしその直後、「だからといって壁を斧と呼ぶな」と怒られた。
分類とは、名前ではない。
スキルとは、分類名でもない。
その人が、世界へ触れる方法である。
ミレイユは前へ進む。
カナデは乱れを聞く。
ネロはつながりの裏側を見る。
とおるは、間へ壁を置く。
それぞれが違う。
だからこそ組み合わさった時、一人では存在しなかった新しい動線が生まれる。
バルガロスの角が、ミレイユへ迫る。
カナデの鈴が進路を告げた。
「右へ曲がります! 二歩目の後、前脚の叩きつけ!」
「分かった!」
ミレイユの白雷が収束する。
彼女は左へ逃げると見せかけ、最初の一歩だけ右へ踏んだ。
バルガロスの頭部が彼女を追って右へ傾く。
その瞬間、ミレイユは右足の火霊素を反転させながら左へ鋭く切り返した。
獣が進路を修正しようとするが、その巨体と速度が仇になる。
前脚が石床へ深く入り、重心が一瞬だけ外側へ流れた。
「ネロ!」
「見えた」
影の針が一本、飛ぶ。
狙ったのは前脚ではない。
バルガロスの外殻と、尻尾の付け根をつなぐ土属性回路。
熱甲状態に入ったことで、巨体のバランスを補うために尻尾へ以前より多くの土霊素が流れている。
ネロの影がその接続へ小さな欠損を作る。
尻尾の振りが、わずかに遅れた。
「カナデ!」
「左後方、安全です!」
水粒が床の亀裂と熱を読み、ミレイユの退路を示す。
ミレイユは遅れた尻尾の下へ滑り込み、バルガロスの脇腹へ回り込む。
二本目の封印杭を左手で抜いた。
しかし外殻は赤熱している。
直接当てれば杭を持つ手まで焼かれる。
ミレイユは一瞬だけ迷った。
その一瞬を、カナデが拾った。
「冷やします!」
三つの鈴が同時に鳴る。
青い水粒が、杭を持つミレイユの左手と狙っている外殻の隙間へ集中する。
熱を完全に消すほどの出力はない。
それでも、触れた瞬間に皮膚が焼ける温度をほんの一拍だけ下げることはできる。
ミレイユが踏み込んだ。
封印杭を外殻の継ぎ目へ当て、剣の腹を振り下ろす。
一度。
浅い。
二度。
外殻が動く。
三度目を打つ前に、バルガロスの身体が大きく捻られた。
ミレイユの足が床から離れる。
まずい。
とおるの手が、無意識に前へ出た。
壁を出せる。
距離はあるが、視認できている。
落下地点と石床の間へ一枚置けば、受け止められる。
だが、出してはいけない。
これは第一組の試験だ。
自分が手を出せば、彼らの評価を壊してしまう。
「まだだ、壁山」
アルセントが、静かな声で言った。
彼も槍を握っている。
バスティアンも、大盾へ手をかけていた。
二人とも助けに入れる姿勢を取りながら、動かない。
試験官を信じているからではない。
第一組を信じているのだ。
宙へ投げ出されたミレイユへ、尻尾の骨槌が迫る。
「ネロさん!」
「無理、間に合わない」
「なら――!」
カナデは杖を両手で握り、鈴を強く鳴らした。
〈静水輪唱〉の領域に浮かんでいた水粒が、一斉にミレイユの背中側へ集まる。
水の壁。
いや、壁と呼べるほど厚くはない。
何層にも重なった薄い水膜である。
ミレイユの身体が水膜へぶつかる。
一枚目が弾ける。
二枚目が速度を削る。
三枚目が衝撃を横へ逃がす。
骨槌が、彼女の足先をかすめた。
ミレイユは空中で身体をひねり、水膜を蹴るようにして着地する。
完全には勢いを殺せず、片膝をついた。
「ミレイユさん!」
「問題ない!」
答えながら、ミレイユは地面へ落ちなかった封印杭を見た。
先ほど二度打ち込んだことで、杭の先端は外殻の隙間へ残っている。
あと一撃。
ただし、バルガロスはすでにこちらを向き直ろうとしている。
「ネロ、もう一度止めろ!」
「同じ場所は無理だって」
「別の場所でもいい!」
「注文が雑だなあ」
ネロは口ではぼやきながら、視線を素早く走らせた。
熱甲状態。
尻尾の回路は、一度欠損させたことで警戒され、土霊素の流れが別経路へ分散している。
前脚も同じ。
首下には一本目の封印杭が入り、回路が不安定になっている。
ならば。
「カナデ、あいつの心拍」
「速いです! 怒りと熱甲で、通常の一・七倍!」
「呼吸は」
「浅い、でも強いです!」
「ミレイユ、五歩だけ逃げて」
「理由は」
「走らせすぎる」
「分かった」
説明を求めながらも、ミレイユは即座に動いた。
白雷を短く弾き、バルガロスの正面から離れる。
怒りに支配された獣は、それを追った。
一歩。
二歩。
三歩。
熱甲状態によって速度は増している。
同時に体温も上昇し、心拍も呼吸も乱れている。
四歩。
五歩。
外殻の隙間から、赤い霧が漏れた。
「今」
ネロが指を弾く。
影の糸が狙ったのは、脚でも尻尾でもない。
首下へ打ち込まれた一本目の封印杭と、そこから広がっている抑制術式。
ネロはバルガロス自身の回路を欠損させるのではなく、すでに入り込んでいる封印術式の流れを一瞬だけ変質させ、熱甲へ送られている魔力を呼吸回路側へ迂回させた。
結果、首下の呼吸膜が大きく痙攣する。
獣がむせるように頭を下げた。
「杭!」
ミレイユが反転する。
白雷が走る。
彼女は低くなった頭部の横を抜け、脇腹へ残っていた二本目の封印杭を、剣の柄尻で強く打った。
杭が外殻の奥へ沈む。
二つ目の聖印が光った。
「二本目!」
カナデの声に、観察区域から小さなどよめきが上がる。
第一組は熱甲状態へ入ったA級相当の魔物へ、二本目の封印杭を打ち込んだ。
残りは一つ。
——が、バルガロスは明らかに先ほどよりも怒っている。
とおるは思った。
当然である。
人間に追い回され、弱点を分析され、首と脇腹へ杭を打ち込まれ、それでも穏やかでいられる生物がいたらそちらのほうが怖い。
ガロン試験官が、煙管を口から外した。
「残り一分」
「今、言うんですか!」
とおるが叫ぶ。
「制限時間は最初に言ったぞ」
「残り時間をもっと早く知らせる文化は?」
「自分で見ろ」
「壁掛け時計くらい設置してください!」
「壁山だけにか?」
「名前へ寄せないでください!」
広場の外周には確かに砂時計が置かれていた。
ただしバルガロスが大きすぎて、こちら側からは半分ほど隠れている。
試験会場の設計担当者へ、視認性という概念を教えたい。
ミレイユが荒く息を吐く。
カナデの鈴の音にも、わずかな乱れが混じっている。
ネロは平静を装っているが、影の線が先ほどより薄い。
三人とも魔力と集中力を消耗していた。
最後の指定部位は、前脚内側の腱。
最も危険な場所である。
前脚のすぐ下へ入り込まなければならず、叩きつけを受ければ骨が折れるどころでは済まない。
ガロンは止められると言っていた。
命までは持っていかせないと。
だが、痛いものは痛いとも言っていた。
試験官としての信頼を、最後の一言で自ら半分にする男である。
「正面からは無理です」
カナデが言った。
「前脚の回路が増えていて、動きを読み切れません」
「外殻の温度も下がってない」
ネロが続ける。
「僕の欠損も、あと一回が限界かな」
「十分だ」
ミレイユは剣を構えた。
「私が踏み込む。カナデは叩きつけの時機を読め。ネロは前脚ではなく、反対側の脚を止めろ」
「反対側?」
「重心を片側へ残させる。持ち上がった脚は、そのまま落とさせればいい」
ネロが、ほんの少し目を見開いた。
「前脚を止めるんじゃなくて、避ける気か」
「最初からそう言っている」
「言ってないよ」
「今、言った」
「白華式事後共有」
「黙れ」
ミレイユが走る。
カナデの領域が広がる。
ネロの影が、バルガロスの四肢をなぞる。
残り一分。
いや、おそらく五十秒もない。
バルガロスが、正面から迫るミレイユへ前脚を振り上げた。
カナデの鈴が高く鳴る。
「右前脚、来ます! 三、二、一!」
巨大な爪が振り下ろされる。
ミレイユは、直前まで動かない。
右前脚が落ちる。
その瞬間、ネロの影が反対側の左後脚へ欠損を縫い込んだ。
重心を支えるはずの後脚が、一瞬だけ力を失う。
バルガロスの巨体が、わずかに左へ傾いた。
右前脚の軌道が、ほんの数十センチ外れる。
ミレイユは、その狭い隙間へ滑り込んだ。
爪が肩の鎧をかすめ、白い装甲板を削る。
それでも彼女は止まらない。
前脚の内側。
薄い外殻。
腱。
そこへ最後の封印杭を当てるも、剣を振り上げる余裕がない。
と同時に、バルガロスの身体が戻り始めている。
「ミレイユさん!」
カナデの声。
ネロの影はもう消えかけている。
あと一撃。
ミレイユは剣を捨てた。
右手で封印杭を握り、左の拳をその頭へ重ねる。
白雷が腕へ集中した。
火霊素が肘へ。
雷霊素が肩から手首へ。
剣ではない。
拳で打つ。
ゾロが見れば、「武器を捨てるのは褒められないわねえ」と笑うだろう。
リディアが見れば、あとで長い説教がある。
だが、今はそれしかない。
「――っ!」
ミレイユの拳が、杭を叩いた。
白雷が弾ける。
封印杭が、前脚内側へ深く食い込んだ。
三つ目の聖印が光る。
首下。
脇腹。
前脚。
三本の杭が赤白い光の線でつながり、バルガロスの全身へ抑制術式が走った。
赤熱していた外殻が、一斉に明滅する。
巨体が大きく揺れた。
「そこまで!」
ガロンが黒鉄笛を吹く。
低い音が広場を満たし、抑制鎖が一斉に締まった。
バルガロスの四肢へ黒い術式が絡みつき、倒れかけた巨体を支える。
獣は不満そうに唸りながら、その場へ膝をついた。
広場に、短い静寂が落ちた。
次の瞬間、観察区域から歓声が上がった。
カナデはその場へ座り込んだ。
ネロは肩を落とし、額の汗を袖で拭う。
ミレイユは前脚の下から転がるように抜け出し、石床へ仰向けになった。
数秒後、彼女は我に返ったように起き上がり、落とした剣を拾って何事もなかったように立とうとした。
しかし、片膝が震えている。
カナデが慌てて駆け寄った。
「ミレイユさん、腕、大丈夫ですか?」
「問題ない」
「拳が赤くなっています!」
「問題ない」
「肩の鎧も割れています!」
「問題ない」
「呼吸も乱れています!」
「それは……少し問題がある」
「認めるんですね」
ネロが横から言った。
「白華の人は、三回指摘されないと負傷を認めない決まりでもあるの?」
「そんな決まりはない」
「じゃあ個人の問題か」
「お前も術式負荷で顔色が悪いぞ」
「僕は最初から顔色が悪い」
「自慢することではない!」
ガロンが石台から立ち上がった。
胡座をかいていた時にはただの気だるい中年に見えたが、立つと意外に背が高く、魔物の前へ進む足取りには一切の迷いがない。
彼は三本の封印杭を確認し、バルガロスの状態を一通り見た後に第一組へ向き直った。
「三本とも有効。時間はぎりぎり。役割分担、情報共有、危険管理は合格圏だ」
カナデが、ほっと息を吐く。
ミレイユは背筋を伸ばした。
ネロは、すでに座って休みたそうな顔をしている。
「ただし」
ガロンが続けた。
とおるは思った。
やはり来た。
この男の話には、必ず「ただし」がついてくる。
定額料金の安さを強調した直後、極小文字で解約条件を示すサブスクリプション契約のような試験官である。
「ミレイユ。最後の突入は危険が大きすぎる。成功したからいいものの、後脚への欠損が半拍早く切れていたら、前脚の下敷きだ」
「はい」
「カナデ。情報は正確だが、自分が狙われた時に領域が乱れた。支援役が崩れると全員が死ぬ。自分を守る判断も覚えろ」
「はい……」
「ネロ。能力は優秀だが、説明が足りん。“動くと死ぬ”だけで他人を動かせると思うな」
「助かったからいいかと」
「よくねえ。次からは“右へ動くと死ぬが、左なら助かる可能性がある”くらい言え」
「情報量が増えた」
「当たり前だ」
最後に、ガロンは三人を見渡した。
「だが、初見の相手へ三人で考えて答えを出した。悪くねえ。下がって休め」
三人が魔力障壁の出口へ向かう。
ミレイユはとおるたちの前を通る際、わずかに顎を上げた。
どうだ、と言いたいのだろう。
とおるは素直に答えた。
「すごかったです」
ミレイユの足が、一瞬止まった。
「当たり前だ」
予想通りの返答である。
しかし、横顔は少しだけ満足そうだった。
言わなければよかったとは思わない。
ただ、今後の訓練量が増えないことだけを祈りたい。
カナデはとおるの隣まで来ると、まだ青い顔のまま小声で言った。
「怖かったです」
「見ているだけの俺も怖かったです」
「爪が、ここまで来ました」
カナデが自分の顔の前へ手を置く。
「俺なら、その時点で魂が一度抜けています」
「でも、動くなって言われて」
「よく従えましたね」
「動くと死ぬと言われたので」
「ネロの説明、最悪だけど効果は高いですね」
そのネロは、二人の横で疲れたように肩を回した。
「結果的に、最適な指示だった」
「もう少し人の感情を考えてください」
「黒蓮では、正確さのほうが大事だから」
「白華では安心感も大事です」
「所属文化の違いだね」
「文化で済ませていい違いですか?」
バルガロスへ打ち込まれた封印杭が試験官補助員によって外され、抑制鎖が再調整されていく。
獣の外殻は、まだわずかに赤い。
鼻先から漏れる息も熱い。
そして何より、第一組よりも、 こちら側を強く睨んでいる気がする。
気のせいであってほしい。
魔物にも、対戦相手の順番くらい分かるのだろうか。
次に来る三人を見定めているのだろうか。
あるいは丸盾を抱えて最も帰りたそうな顔をしている人間を、本能的に弱者と判断しているのだろうか。
最後の可能性が最も高い気がして、とおるの胃が静かに縮んだ。
ガロンが指示板をめくる。
「次。第二組」
来た。
とうとう来た。
逃れようのない現実が、黒い文字となって指示板へ書かれている。
「壁山とおる。アルセント・ラグナル。バスティアン・グロム。準備しろ」
「はい!」
アルセントが爽やかに返事をする。
「おう!」
バスティアンが大盾を持ち上げる。
「……はい」
とおるも返事をした。
声が小さい。
できれば、風に流れて試験官まで届かなければよかった。
しかしアルセントが肩を叩き、バスティアンが背中を叩いたために強制的に前へ押し出される。
「行こう、壁山」
「俺の意思が一切確認されていません」
「第二組だからな!」
「制度が個人の感情を踏みつぶしてくる」
「聖騎士とは、時に制度へ従うものだよ」
「格好よく言っても、俺が魔物の前へ送られる事実は変わりません」
魔力障壁の入口が開く。
熱い空気と、獣の臭いが流れてくる。
とおるは一歩を踏み出す前に、第一組の戦いを振り返った。
ミレイユの白雷。
カナデの静水輪唱。
ネロの影解式。
一人ひとりのスキルは、本人の性格と経験から生まれた世界へ触れる方法だった。
そして三人が重なった時、それぞれの弱点を補いながら一人では作れない道が生まれた。
ならば。
アルセントの風。
バスティアンの土と大盾。
自分の〈壁〉。
その三つが重なった時、何ができるのだろう。
盾か。
足場か。
道か。
囲いか。
攻撃を止めるものか。
攻撃が届かない場所を作るものか。
あるいは仲間の力が通るための、新しい境界か。
「壁山」
アルセントが、槍の留め具を確かめながら言った。
「私は風で進路を作る。バスティアンは正面から受ける」
「おう!」
「君は、バルガロスがこちらへ届くまでの間へ、壁を置いてくれ」
「間へ」
「君の得意分野だろう?」
とおるは、広場の中央に立つ鎧角獣を見た。
熱をまとった巨体。
割れた石床。
太い角。
巨大な爪。
暴風のように振り回される尻尾。
第一組に三本の杭を打たれ、明らかに機嫌を損ねた赤い瞳。
あれと、自分たちが戦う。
試験である。
聖騎士試験である。
大事なので、何度でも確認したい。
本当に、これは試験なのだろうか。
答えは、おそらくガロンの煙管から吐き出された煙と一緒に王樹練兵聖庭の高い空へ消えている。
「壁山!」
バスティアンが大きな手で、とおるの肩を叩いた。
「次は俺たちだな!」
「肩を壊す勢いで現実を教えないでください」
「楽しみだ!」
「俺は楽しみと恐怖が、現在六対九十四です」
「少し楽しみなんだな!」
「そこを拾わないでください」
アルセントが軽く笑った。
「その六を頼りにしよう。恐怖を知る者ほど、危険を正しく見ることができる」
「格好いい表現へ変換されると、ただ怯えているだけなのに役割があるような気がします」
「実際、役割はあるさ」
アルセントは槍を構え、開いた障壁の向こうへ足を踏み入れた。
「私が流れを変える。バスティアンが受け止める。そして君が、敵と味方の間へ境界を作る」
とおるも、丸盾を握り直した。
怖い。
帰りたい。
できれば安全な観察区域へ残り、第一組の戦闘について三時間ほど感想を述べて試験を終えたい。
しかしそんな選択肢はない。
後ろには、これから一緒に戦う仲間がいる。
前には巨大な魔物がいる。
その間に立つものが必要なら。
おそらく、それが自分の役割なのだ。
とおるは深く息を吸った。
一歩。
魔力障壁の内側へ入る。
バルガロスの赤い瞳が、はっきりと彼を捉えた。
獣の喉から低い唸りが響く。
とおるの胃もそれに応えるように、きゅう、と小さく鳴った。
「……やっぱり、帰っていいですかね」
「駄目だ」
「駄目だぞ!」
左右から、即答が返ってきた。
逃げ道はない。
しかし壁を置くための場所なら、いくらでもある。
第一組がそれぞれのスキルを重ねる姿を見たことで、とおるの中でも〈壁〉という能力を使うための新しい線が、少しずつ確かな形で結ばれ始めていた。




