第21話 これって試験ですよね?
試験初日である。
この「初日」という言葉には、本来、まだ導入であるとか、肩慣らしであるとか、受験者の緊張をほぐすための軽めの確認であるとか、そういう人間味あふれる優しさが多少なりとも含まれていてしかるべきだと、少なくとも壁山とおるは思っていたし、現代日本でそれなりに常識的な教育制度をくぐり抜けてきた彼の感覚からすれば、入試初日にいきなり生徒の前へ「はい、ではこちらが本日の大型危険生物です」とばかりに獰猛な魔物を差し出す文化は、試験制度というより闘技場イベント、あるいは命の保証を小さく欄外に書いたアトラクションに近かった。
だからこそ、とおるは、王樹練兵聖庭の奥、半屋外に造られた巨大な闘技区画へ案内された瞬間から、目の前で堂々と展開されている状況を、どうにか自分の知っている「試験」という言葉の内側へ押し込めようと頑張っていたのだが、その努力は、手のひらで溢れた味噌汁をすくい直そうとするくらい無謀であり、たぶん味噌汁のほうも「いや、もう無理です」と言っている。
午前から午後にかけて、彼ら第十七班は、魔力の基礎測定、属性親和性の解析、魔力回路の負荷率確認、短い筆記による王国法の基礎確認、班員同士の役割確認といった、どれも妙に専門的で、かつこの世界の聖騎士候補としては必要不可欠らしい内容をこなしてきた。
水晶板へ手を置いた瞬間、とおるの〈壁〉がまたもや備考欄に新築増築改築を同時にかけたかのような奇妙な反応を示し、記録官たちが一斉に「これは見なかったことにしたほうが楽なのではないか」という顔で、しかし職務上そうもいかないため、妙に静かな手つきで書類を回し始めるという事件もあったものの、あれは、分類上は測定である。
分類上は。
書類に記録され、担当官が首をかしげ、隣の担当官がもう一度水晶板を確認し、最終的に「備考欄を追加してください」と事務的に言われる種類の出来事は、たとえ本人の尊厳が備考欄と一緒に少し削られたとしても、ぎりぎり試験の範囲内に収まる。
だが、午後の第二会場へ移動した第十七班が案内された場所は、そんな「ぎりぎり」を鉄靴で踏み越え、さらに両手を広げて「ようこそ、命の実技へ」と言っているような場所だった。
石柱で囲まれた円形の広場。
観察用の高台。
幾重にも張られた透明な魔力障壁。
地面にびっしりと刻まれた抑制用の聖印。
医務班らしき者たちが真面目な顔で待機している外周区画。
そして何より、どう見ても受験者を歓迎するために置いていいサイズではない大型魔物が、太い鎖につながれ、広場の中央で、こちらを「本日のおやつですか?」という顔で睨んでいた。
いや。
なんで。
試験会場に。
A級クラスの魔物が。
立ちはだかっているんですか。
とおるは、声には出さなかった。
出さなかっただけで、心の中では、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字、ついでに謎の古代文字まで総動員して絶叫していた。
念のため補足しておくと、この世界における魔物の脅威度は、おおまかにEからSまで分類される。
小型スライムがE。
単独のゴブリンがD。
森狼や角猪の成体がC。
集団で村を襲えば地方軍やギルドの実戦班が動くような上位魔獣がB。
都市外縁の警備隊や熟練ハンターが部隊を組み、事前準備と地形情報と補給計画を用意して、ようやく「では行きますか」と腰を上げる危険魔獣がA。
そして、もはや「討伐」というより「災害復旧計画」の項目で扱われ、騎士団や軍が正式に討伐部隊を編成し、祈祷師が祈り、商人が物資を動かし、町長が胃薬を飲み、吟遊詩人が勝手に前日譚を歌い始めるようなものがSである。
もちろん、階級は単純な腕力や牙の長さだけで決まるものではない。
生息地、繁殖力、群れの有無、毒や呪いの有無、地脈への影響、人里へ出る頻度、討伐時の二次被害、さらには「その魔物を見た一般市民がどれくらいの速さで走馬灯を視認するか」といった、たぶん正式文書には載っていないが現場では絶対に考慮されているであろう要素まで含めて、総合的に判定される。
A級にも幅はあり、ほとんどB級寄りのAマイナスもいれば、S級の玄関先で「ちょっとだけお邪魔しますね」と片足を突っ込んでいるAプラスもいるし、環境が悪ければB級がA級相当へ跳ね上がることもあれば、逆に専用結界や装備、熟練者の連携が揃っていればA級を比較的安全に制圧できる場合もある。
ここまで理屈を並べると、人は少し冷静になれる。
少なくとも、紙の上では。
とおるは、そこまで自分に言い聞かせてから、改めて目の前の“その”魔物を見た。
でかい。
とにかく、でかい。
第一印象がまず「でかい」であり、第二印象も「でかい」であり、第三印象に至っては「でかい上に、なんか怒ってる」である。
全長は馬車二台分に近く、肩の高さだけで成人男性の背丈を軽く越え、背中から脇腹にかけては岩盤を削り出して強引に鎧へ加工したような灰黒色の外殻が覆っており、その一枚一枚が、どう考えても鍋蓋や盾ではなく、城門を守るための装甲板として採用されるべき厚みをしていた。
頭部は、獅子と蜥蜴を混ぜ、そこへ「怒れる山の精霊」を雑に投入し、最後に職人が「もう少し受験者の心を折る方向で」と注文を受けて仕上げたような造形で、額からは二本の湾曲した角、顎からは短いが明らかに肉を裂く用途で生えている牙、首の後ろには燃え残った炭のように黒いたてがみが荒々しく生え、赤い瞳は、こちらの事情など一切考慮しない税務署の督促状みたいな圧を放っている。
前脚は太く、地面に置かれた瞬間、石床のほうが「失礼しました」と謝りそうな重さがあり、爪は鋼の鉤に近く、尻尾の先には棘のついた骨槌のような塊がぶら下がっていて、あれで叩かれた場合、人間はおそらく「負傷」ではなく「配置換え」になる。
危険魔獣という言葉へ、あまりにもまっすぐフィットしていた。
これが俗に言うシンデレラフィットというやつか。
やかましいわ。
自分の心の中の比喩へ自分でツッコミを入れたせいで、とおるは逆に少しだけ落ち着きを失った。
あれだ、とおるは思った。
ゲームの攻略本に掲載されている魔物一覧表の中にいる、“かっこいい部類”のやつである。
黒い装甲、赤い瞳、鋭い角、重そうな尻尾、名称の横には危険度Aと書かれ、説明文には「一撃で岩壁を砕く突進力を持つ」とか「背部外殻は通常武器を通さない」とか「怒り状態では魔力炉が赤熱し、近づくだけで火傷を負う」とか「前脚の叩きつけ後に生じる隙を狙え」とか書いてあり、読者としては「こいつ強そうだな」とワクワクしながらページをめくり、いつか戦ってみたいと思えるタイプのモンスターだ。
画面の向こうなら、最高である。
攻略動画で見るなら、拍手すらする。
BGMが重厚で、第二形態に入る時に咆哮し、背景の空が赤く染まり、プレイヤーが「うわ、ここで来るか」と笑いながら回避ボタンを押すなら、もう文句なしに楽しい。
だが、現実にその“かっこいいボス枠”が会場中央に立っており、こちらのHPバーも回復薬の個数も画面左上に表示されず、リトライボタンも見当たらないとなると、途端に話は変わる。
ワクワクは胃の奥で静かに荷物をまとめ、「では私はこの辺で」と言って退出し、代わりに恐怖が大きな鞄を持って着席した。
「はいはい、注目ー。怖い顔してるけど、こいつ、意外と繊細だからね。あんまり大声で騒ぐと機嫌が悪くなるぞ。まあ、機嫌がいい日なんて年に三日くらいしかないんだけどな」
広場の端から、妙に気だるい声が響いた。
今回の試験官は、午前のモルド・カフェルとは方向性がまるで違っていた。
モルドが、喫茶店で薬草茶を淹れながら「魔力というのはね、香りと同じで」と語り出しそうな、柔らかい雰囲気の研究者だったとすれば、こちらは、裏路地の古い酒場で煙草をふかしながら、若い連中に「昔は俺も無茶したもんだ」と語り、聞いている側が「たぶんその無茶、法律に触れてませんか」と心配になるタイプの中年親父である。
年齢は五十手前ほど。
無精髭。
短く刈った灰色の髪。
片耳に小さな獣牙の飾り。
肩には年季の入った革外套。
椅子などないのに、石の上へ平然と胡座をかき、細い煙管を咥え、魔物の咆哮など子守唄の一種ですと言わんばかりに、ふう、と煙を吐いている。
どこからどう見ても、元ヤンキーのいかつい中年親父だった。
それも、ただの元ヤンではない。
若い頃に素手で看板を曲げ、仲間内では伝説扱いされ、今では「俺も丸くなった」と言いながら、怒ったらまだ岩くらい割るタイプの元ヤンである。
ところが、彼の腕には王樹十二華騎士団の試験官腕章が巻かれ、腰には魔獣制御用の黒鉄笛、背後には複数の拘束術式具が整然と並び、そのどれもが、彼が単なる酒場のおじさんではなく、この大型魔物の命運すら指先一つで左右できる立場の人間であることを示していた。
名はガロン・ドルト。
かつて第七華隊〈黄棘〉で魔獣鎮圧任務を専門にしていた聖騎士であり、現在は王樹練兵聖庭の魔物管理主任、通称“モンスター使い”と呼ばれるベテラン戦士だという。
通称がもう怖い。
職業欄に「モンスター使い」と書ける人間は、だいたい倫理観のどこかに分厚い革手袋をしている。
「今日の相手は、鎧角獣バルガロス。生息地は北東の黒岩渓谷。成体は単独行動が多いが、縄張り意識が強く、地脈に鉄分が多い場所で外殻を硬化させる性質を持つ。分類はAマイナスからA。こいつは若い個体だから、今回はAマイナス相当だな。前脚の叩きつけ、角による突き上げ、尻尾の振り回し、外殻表面から出る熱霧に注意。弱点は腹部の薄い鱗、前脚内側の腱、首下の呼吸膜。もっとも、そこを狙おうとして近づきすぎると、毎年だいたい二、三人が医務棟送りになる。骨は折れる。命までは持っていかせん。俺がいるからな。まあ、痛いもんは痛い」
毎年。
だいたい。
二、三人。
医務棟送り。
骨は折れる。
とおるの頭の中で、ガロン試験官の説明から特に聞き捨てならない単語だけが赤字で抜き出され、太字にされ、謎の効果音とともに上下へ揺れた。
そんな食堂の人気メニューみたいな口ぶりで言うことではない。
「今年の香草焼きは例年二、三皿多めに出ます」と同じ温度で、「骨は折れる」と言わないでほしい。
とおるは内心で真顔になった。
ガロン試験官は、魔物の生息地や生態や攻撃方法を実に淀みなく説明しながら、「さあ、皆さんで頑張ってコイツを討伐してみてください」とでも言わんばかりに、第十七班を含む受験者たちをぐるりと見渡している。
魔力障壁の外側には医務班が待機し、観察席には記録官と複数の試験官が座っており、バルガロスの首と四肢には抑制鎖がついていて、暴走時にはガロンが即座に拘束術式を発動できるようになっているらしいため、安全対策がまったく存在しないわけではない。
それは分かる。
分かるのだが、それでもなお、巨大な魔物と同じ広場へ入るという事実は微動だにしない。
安全装置付きの落とし穴を用意して、「大丈夫、底に柔らかい藁を敷いてあるから」と言われても、そもそも落ちたくないのと同じである。
「試験内容は簡単だ」
ガロンは煙管を指でくるりと回した。
簡単、という言葉ほど信用できない言葉はない。
特に、強者が弱者へ向かって言う「簡単」は、ほぼ宣戦布告である。
「六人班を三人一組に分ける。各組は制限時間内に、バルガロスの行動を見極め、指定部位へ試験用の封印杭を打ち込む。討伐と呼んでいるが、実際に殺すわけじゃない。重要なのは、情報収集、役割分担、危険管理、攻撃機会の作り方。力任せに突っ込んだ奴は飛ぶ。臆病すぎて動かない奴も失格に近い。守るだけ、斬るだけ、治すだけ、解析するだけじゃ点は伸びん。聖騎士は現場で考える仕事だからな」
守るだけでは点が伸びない。
とおるは、その部分で胸を押さえた。
人生方針への直接攻撃である。
自分の〈壁〉に対して、真正面から「お前だけでは駄目」と言われたような気がした。
壁に生まれ、壁として育ち、壁として身を守り、壁として周囲を守り、最終的には立派な壁になることを志していたとおるにとって、それはあまりにも痛烈な一撃だった。
いや、壁に生まれた覚えはない。
だが、ここ最近の自分の扱いを見る限り、戸籍欄のどこかに「種族:壁」と書き足されても不思議ではなかった。
周囲の受験者たちは、しかし、まんざらでもなさそうだった。
第十七班以外の班も同じ会場で説明を聞いており、彼らの多くはバルガロスを見て、恐怖ではなく、むしろ高揚を浮かべている。
よし、やってやろうじゃないか。
A級を相手に腕を試せる。
試験でここまでの魔物を用意してくれるとは、王樹十二華騎士団、やはり懐が深い。
そんな、どう考えても正気ではない感情が、会場のあちこちから湯気のように立ち上っている。
とおるは呆気に取られた。
お前ら、人の心をどこかに置いてきたのか。
それとも、聖騎士を目指す人間というのは、願書を提出した時点で恐怖心を受付に預ける制度なのか。
返却窓口はどこですか。
俺の分だけでも返してください。
唯一、気持ちを共有できそうなカナデへ目を向けると、彼は確かに青ざめてはいたものの、すでに杖を両手で握り、バルガロスの呼吸音、足音、爪が石を擦る音、鎖が鳴る間隔を聞き分けようと集中していた。
怯えてはいる。
だが、倒す方法を探している。
立派である。
立派すぎて、少し腹立たしい。
まともな良心が残っているのは自分だけらしい。
とおるは半ば呆れ、半ば本気で肩を落とした。
ここで、魔物というものについて、少し詳しく説明しておこう。
いや、そんな余裕はないだろうと、とおる本人は思っている。
目の前に巨大な魔物がいて、試験官が「骨は折れる」と爽やかに告げ、周囲の受験者たちがやる気満々で武器を確認している最中に、世界設定の解説を始める心境ではない。
だが、現実逃避とは、時に人間の脳が自分を守るために発動する高度な防御機構であり、壁山とおるという人間の防御機構は、肉体だけでなく思考の中にも律儀に壁を建てるため、彼は今、目の前の恐怖から少しでも距離を取るべく、魔物分類学の基礎へ意識を逃がしていた。
魔物とは、単に人を襲う獣ではない。
獣と魔物を分ける最大の違いは、体内に持つ魔力器官と、それに伴う魔素子変質にある。
普通の獣も魔力回路を持つが、その多くは生命活動や身体強化の補助に使われる程度で、属性を帯びた現象として外界へ干渉する力は弱い。
魔物は違う。
体内に魔核、魔力嚢、変質骨、霊素腺などと呼ばれる特殊器官を持ち、環境中の魔素子を取り込み、それを属性を帯びた肉体構造へ変えていく。
火山地帯の魔物は火霊素を吸い、氷原の魔物は氷霊素を溜め、古い遺跡周辺の魔物は人の術式に近い奇妙な反応を示すこともあり、沼地の魔物はだいたい臭く、洞窟の魔物はだいたい暗がりから出てきてほしくないタイミングで出てくる。
最後の二つは学術書に載っていないかもしれないが、とおるの中ではかなり重要な知見だった。
魔物は生態系の一部であり、同時に災害の種でもある。
数が増えすぎれば地脈を乱し、人里へ下りれば家畜と人を襲い、個体によっては周辺環境そのものを変えてしまう。
単なる「強い動物」ではなく、土地、魔力、人間社会、経済、兵站、医療、そして現場に立つ者の胃にまで影響を及ぼす厄介な存在なのだ。
脅威度は、戦闘能力だけでなく、遭遇時の被害予測、討伐難度、繁殖力、環境影響、必要な対応戦力を総合して決まる。
E級は一般人でも対処可能な小型個体。
D級は武器を持った成人や駆け出し兵士が複数で対応する相手。
C級はギルドハンターや村の自警団が正式に動く水準。
B級は熟練者の班や地方軍が必要。
A級は都市外縁の防衛計画に組み込まれる危険存在であり、野良の個体が人里近くで確認されれば警戒令が出る。
S級は、もはや魔物というより災害として扱われ、討伐報告書の冒頭に「まず神に祈った」と書いてあっても誰も笑わない。
バルガロスは、A級の中では若い個体で、繁殖力や地脈汚染は低い一方、近接戦闘における危険度が高い。
硬い外殻。
重い体。
速い突進。
熱霧。
そして地面を揺らすほどの打撃。
とおるがこれまで村周辺で相手にしてきた角猪や森狼とは、同じ“獣っぽいもの”という見た目以上の共通点がない。
小型の角猪が自転車なら、バルガロスは装甲車である。
いや、装甲車に怒りと牙と交通違反の常習性を足したものだ。
信号は守らない。
一時停止もしない。
保険にも入っていない。
最悪である。
「三人一組の組み分けは、こちらで決めている」
ガロンが指示板を掲げた。
とおるは嫌な予感がした。
こういう時、だいたい嫌な予感は当たる。
特に、自分の人生がよく分からない方向へ転がり始めてからというもの、嫌な予感だけはやたら精度が高い。
「第一組。ミレイユ・アスター、カナデ・レーンベル、ネロ・ヴァン・クォーツ。第二組。壁山とおる、アルセント・ラグナル、バスティアン・グロム。第一組から行く。観察組は外周から記録し、他組の戦いを見て次に活かせ。ぼーっと見ている奴は減点する」
「見るだけでも減点対象があるんですね」
とおるは思わず呟いた。
ネロが横から、いつもの何とも言えない平坦な声で言う。
「聖騎士試験は、息をするにも評価がつくよ」
「それ、本当っぽく聞こえるからやめてください」
「半分本当だと思う」
「怖い」
「深呼吸の姿勢、肺活量、緊張時の魔力循環、呼気に混ざる霊素濃度、全部見られている可能性はある」
「怖さの追加注文をしないでください」
「大丈夫。たぶん、まばたきまでは見られていない」
「“たぶん”が一番怖いんですよ」
第一組に選ばれたミレイユは、腰に佩いていた木剣ではなく、試験用の刃なし長剣を抜いた。
殺傷性は抑えられているが、魔力を通せば十分な打撃を与えられ、封印杭の打ち込み補助にも使える武器である。
金属の腹に白い光がうっすらと流れ、彼女が握り直すたびに、空気がぴりりと張り詰めた。
カナデは杖の先についた小さな鈴を軽く鳴らし、青銀の水音霊素を周囲へ薄く広げる。
音が水面へ落ちる雫のように広がり、広場の石床、鎖、魔物の爪、呼吸、熱で膨らむ空気の揺らぎまでを、ゆっくりと拾い上げていく。
ネロは腰の魔導具を一つ外し、面倒そうに肩を回しながらも、目だけは真剣だった。
彼はいつも眠たげで、会話の半分くらいを布団の中から行っているような空気をまとっているが、戦闘前の視線だけは妙に鋭い。
やる気がないのではない。
やる気の出し方が省エネなのだ。
ミレイユは二人を振り返った。
「私が前へ出る。カナデは音で足音と呼吸を追い、熱霧が出る前兆を拾え。ネロは外殻の薄い部位と封印杭を打つべき位置を解析しろ。無理に攻撃へ参加する必要はない。私が機会を作る」
「了解です」
カナデが緊張した面持ちで頷く。
「前衛が分かりやすいと助かるよ。じゃあ僕は、壊していい場所を探す」
ネロが言う。
「壊すな。杭を打つのだ」
「結果が同じなら多少は」
「同じではない」
「穴が空けば杭は入る」
「その理屈で王都の門を破壊するなよ」
「門はまだ壊してない」
「“まだ”をつけるな」
とおるは外周の観察区域から、その会話を見ていた。
ミレイユが指示を出している。
普段の彼女は、どうしても命令口調が前に出やすく、言葉が鋭いぶん、周囲が少し身構えてしまうところがあったが、今の彼女の言葉には、ただ前へ出て斬り込むだけではない、明確な役割配分と、仲間の能力を踏まえた判断があった。
ゾロとの訓練で、彼女は少しずつ変わっている。
単独で前へ進む剣士から、周囲を見て、機会を作り、仲間の力を引き出す候補者へ。
とおるは少し感心した。
ただし、感心したと言葉に出すと、ミレイユはおそらく「当たり前だ」と言い、なぜか少し不機嫌になり、その後でいつもより剣を振る速度が増す可能性があるため、彼は賢明にも黙っておいた。
人間関係において、沈黙は時に最強の防御壁である。
壁山だけに。
いや、今のは本当に忘れてほしい。
ガロンが黒鉄笛を軽く吹いた。
低く、腹の底へ沈むような音が広場に響き、バルガロスの抑制鎖が一部緩む。
重々しい金属音が鳴り、魔物の赤い瞳が、ゆっくりと第一組へ向いた。
大きな前脚が地面を踏む。
白石の床が鈍く震え、鼻先から熱を含んだ息が漏れ、魔力障壁の内側に、獣の匂いと焼けた岩のような匂いが広がった。
とおるは思わず盾を握った。
まだ自分の番ではない。
外から見ているだけだ。
にもかかわらず、身体が勝手に防御姿勢を探している。
三ヶ月の訓練の成果なのか、単に臆病なのかは判断が難しい。
たぶん両方だ。
しかし、臆病は悪いことばかりではない。
危険を危険として認識し、逃げ道を探し、生存可能性を計算し、最悪の場合には頭を低くして祈るという一連の行動は生物として極めて正しい。
問題は、聖騎士試験においてその正しさがどれくらい評価されるかである。
とおるの予想では、あまり高くない。
「行くぞ」
ミレイユの足元へ、白い火花が灯った。
スキル〈白雷〉。
炎と雷を混合した白い推進と反応の武装が彼女の身体を細く鋭く包み、赤金の髪の端をふわりと持ち上げる。
熱ではなく、光。
轟きではなく、加速。
ミレイユの魔力は派手でありながら無駄がなく、剣先から足先までを一本の矢のように整えていく。
カナデの水音霊素が鈴のように広がった。
青銀の波紋は目に見えない薄い膜となって広場を撫で、バルガロスの呼吸、鎖の揺れ、外殻の軋み、筋肉が収縮する前のわずかな音までを拾おうとする。
ネロの影を含んだ無属性魔力が、外殻の継ぎ目へ細い視線のように伸びる。
それは攻撃というより観察であり、魔力というより世界の綻びを探すための指先だった。
三人の魔力が、それぞれ別の方向から巨大な魔物を捉え始める。
真正面から切り開く白雷。
周囲の音を編む水音。
構造の隙間を読む無属性。
その光景は、外周から見ているだけなら確かに壮観だった。
とおるは思った。
外周から見ているだけなら。
ここが大事である。
外周から見ているだけなら、という条件付きで、人はたいがいの危険を美しいと言える。
嵐も、火山も、滝も、竜巻も、遠くからなら美しい。
近づいた瞬間、感想は「帰りたい」に変わる。
バルガロスが、低く唸った。
その唸りは、ただの威嚇ではなかった。
胸の奥にある魔核が熱を帯び、喉の内側で空気が押し潰され、外殻の隙間から微かな赤光が漏れながら広場全体の温度が半歩だけ上がる。
ガロンが片目を細めた。
「最初から少し機嫌が悪いな」
「年に三日しかない機嫌のいい日じゃなかったんですね」
とおるが呟くと、隣にいたアルセントが妙に落ち着いた声で返した。
「魔物の機嫌に期待して戦場へ出る者はいない」
「正論で殴らないでください。今、僕の心は紙製です」
アルセント・ラグナルは試験用の槍を肩に担ぎ、バルガロスをじっと見ていた。
長身で金褐色の髪を後ろへまとめ、いかにも名門騎士家の子息という姿勢のよさをしているが、彼の目は貴族的な余裕というより獲物と間合いを測る戦士のそれだった。
第二組で一緒になる相手としては、頼もしい。
頼もしいのだが、頼もしい人間ほど前に出たがる傾向があり、前に出る人間の後ろにはだいたい巻き込まれる人間がいる。
そしてその巻き込まれる人間が誰かと聞かれれば、壁山とおるは自分の胸にそっと手を当てるしかなかった。
もう一人の第二組、バスティアン・グロムは、分厚い腕を組んだまま、鼻で笑っている。
「面白ぇじゃねえか。A級相当を試験で出すとは、王樹も分かってやがる」
「分かってる方向性が、僕と違いすぎるんですよね」
「壁山、お前は何をそんなに怯えている。死にはしねえって言ってただろ」
「“死にはしない”を安心材料の中心に置く文化、そろそろ見直しませんか」
「骨は折れるらしいがな」
「そこを笑顔で言えるのが本当に分からない」
バスティアンは戦斧の柄に手を置き、バルガロスを眺める目に隠しきれない興奮を宿していた。
彼にとってあの巨大魔物は恐怖の対象というより、腕試しの機会であり、難題であり、倒せば自分の価値を証明できる大きな壁なのだろう。
壁。
また壁である。
とおるは最近、自分の人生のあらゆる比喩が壁へ回収されていく気がしてならなかった。
「始め!」
ガロンの声が飛んだ瞬間、バルガロスが動いた。
巨体に似合わぬ速度で前脚を踏み込み、石床を砕くように爪を立て、まっすぐミレイユへ向かって突進する。
その動きは重い。
しかし鈍くはない。
山が走ってくる、という表現があるとすれば、たぶん今の光景がそれだった。
違う。
山は走らない。
走ってはいけない。
山には山としての責任感を持ち、地面にどっしり構えていてほしい。
とおるの脳は、恐怖でよく分からない苦情を地形に対して申し立てていた。
「右前脚、踏み込み強いです! 角、来ます!」
カナデが叫んだ。
ミレイユは横へ飛ばなかった。
真正面で受けることもしなかった。
彼女は一歩だけ斜め前へ踏み込み、白雷を足裏で弾かせ、突進の軌道から紙一枚分だけ外れる。
バルガロスの角が彼女の肩先をかすめ、魔力障壁の内側の空気を裂いた。
普通なら、それだけで十分に危険な接近だった。
けれどミレイユはその一瞬を逃さず、刃なし長剣の腹をバルガロスの外殻の継ぎ目へ叩き込んだ。
金属音ではない。
岩と雷がぶつかったような、鈍く鋭い音が響く。
バルガロスの巨体がわずかに揺れた。
わずかに、だ。
人間で言えば、肩を叩かれた程度かもしれない。
しかし、それでも確かに反応した。
「左脇、三枚目と四枚目の間、薄い。けど、角度が悪い。杭を入れるなら、次に上体が沈んだ瞬間」
ネロが淡々と言う。
「言うのは簡単だな!」
ミレイユが返す。
「僕は言う係だから」
「少しは悪びれろ!」
「がんばれ」
「応援も軽い!」
バルガロスが尻尾を振った。
太い骨槌が空気を唸らせ、横薙ぎに広場を払う。
ミレイユは後退し、カナデは杖を地面へ突きながら足元に水音の膜を張って衝撃を逃がす。
ネロは、なぜか一拍遅れてしゃがんだ。
骨槌が彼の頭上を通過し、髪がふわりと揺れる。
「今の避け方、怖くないんですか?」
外周のとおるが思わず言うと、ネロはこちらを見ずに答えた。
「怖いよ」
「怖い人の動きじゃなかったです」
「怖がる速度が遅いんだ」
「致命的では?」
「でも避けた」
「結果論!」
第一組の動きは、見ているだけでも忙しかった。
ミレイユが正面で引きつけ、カナデが音で次の攻撃を読み、ネロが外殻の継ぎ目と封印杭を打ち込める角度を探す。
バルガロスは若い個体とはいえ攻撃の一つ一つが重く、少し判断を誤れば体勢を崩され、そのまま医務班の仕事が増えることになるだろう。
とおるは外周で盾を握りながら、何度も思った。
これは試験ではない。
これは実地研修でもない。
これはもう、王国が誇る若者ふるい落とし装置である。
ただし、ふるいの網目が広すぎて人間ごと落ちる。
それでも、三人は崩れなかった。
カナデが鈴を鳴らすたびにバルガロスの熱霧の前兆が読み上げられ、ミレイユが白雷の加速で射線を外しつつネロが短い指示で弱点位置を絞っていく。
「次、熱が来ます! 首の下、呼吸が深い!」
「ミレイユ、右に誘導。こいつ、左旋回が少し遅い」
「分かった!」
ミレイユは、わざとバルガロスの正面に姿を見せた。
赤い瞳が彼女を捕らえる。
バルガロスの喉奥が赤く光り、外殻の隙間から熱霧が噴き出す直前、ミレイユは白雷を足元で爆ぜさせ、斜め右へ滑るように移動した。
巨体が追う。
だが、左前脚の踏み替えがわずかに遅れた。
その瞬間、ネロが封印杭を投げた。
投げた、というより、影の糸で弾いたような動きだった。
杭は外殻の継ぎ目へ吸い込まれるように飛ぶ。
しかし、深さが足りない。
「ミレイユ!」
「分かっている!」
ミレイユが跳んだ。
長剣の柄尻で封印杭の頭を打ち、白雷の衝撃を乗せる。
甲高い音が鳴り、杭が外殻の奥へ食い込んだ。
聖印が淡く光る。
バルガロスが怒りの咆哮を上げた。
魔力障壁が震え、観察席の記録官たちが一斉にペンを走らせる。
とおるは、なぜこんな状況であの人たちは普通に記録を取れるのだろうと思った。
職業意識が高すぎる。
自分なら「でかい」「こわい」「帰りたい」の三語で報告書を終える自信がある。
ガロンが口の端を上げた。
「一本目、成功。だが、まだ制限時間は残ってるぞ。次はもっと難しい位置だ」
「まだやるんですか!」
外周にいるとおるが叫びかけ、すんでのところで飲み込んだ。
ぼーっと見ていると減点。
騒ぎすぎても、たぶん減点。
何なら生きているだけで評価されているかもしれない。
聖騎士試験、恐ろしい。
ミレイユたちは息を整える間もなく、次の封印杭へ向けて動き始めた。
今度の指定部位は、前脚内側の腱に近い位置。
バルガロスが体を低くし、前脚を守るように構えるため、ただ近づくだけでは叩き潰される。
カナデが音を探る。
ネロが眉を寄せる。
ミレイユが剣先を下げる。
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙は怯えではない。
考えている沈黙だった。
現場で考える仕事。
ガロンの言葉が、とおるの頭の中で遅れて響く。
守るだけ、斬るだけ、治すだけ、解析するだけでは点が伸びない。
聖騎士は現場で考える仕事だからな。
とおるは、盾の縁を握る指に力を込めた。
正直に言えば、今すぐ帰りたい。
できることなら王樹練兵聖庭の門を出て、どこか安全な食堂で温かいスープを飲んだあとに壁に背を預けながら「やはり壁はいい」としみじみ噛みしめたい。
しかし逃げたいと思いながらも、見なければならない。
自分の番が来るからだ。
そして彼の第二組には、前へ出ることをためらわないアルセントと、殴ることに疑問を抱かないバスティアンがいる。
つまり自分が何も考えなければ、あの二人は高確率で「突破する」という美しい言葉を掲げて突っ込む。
その結果、何かが飛ぶ。
たぶん人か、武器か、試験官の評価か、とおるの胃である。
ならば、自分がやるべきことは何か。
守るだけでは点が伸びない。
しかし守ることを捨てれば、自分ではなくなる。
壁として、ではない。
壁山とおるとして、どう動くべきか。
彼がそんな少しだけ真面目なことを考え始めたところで、バルガロスが再び咆哮し、第一組へ向かって前脚を振り上げた。
カナデが叫ぶ。
「叩きつけ、来ます!」
ミレイユが踏み込む。
ネロが目を細める。
白雷が走る。
水音が跳ねる。
影の魔力が外殻の隙間をなぞる。
そしてとおるは外周で、まだ自分の番ではないにもかかわらず胃のあたりに重たい石を抱えたような感覚を覚えながら、目の前の試験を見つめていた。
試験初日。
基礎測定と筆記確認を終えたばかりの午後。
普通なら、そろそろ「今日はここまでです。明日に備えて休んでください」と言われてもよさそうな時間帯。
そのはずなのに、王樹練兵聖庭の広場ではA級相当の鎧角獣バルガロスが受験者たちを相手に本気一歩手前の咆哮を上げ、試験官は煙管をくゆらせ、記録官は淡々と筆を走らせている。医務班は包帯を確認しながら、受験者たちは目を輝かせているという始末。現実としてとおるだけが、心の中で「試験とは何か」という根源的な問いに挑んでいた。
第一組の試験は、まだ始まったばかりだった。
そして壁山とおるは、心の底から思った。
できれば自分の番が来る前に、バルガロスが急に賢者のような穏やかな心に目覚め、「争いは何も生まぬ」と言い出してくれないだろうか。
もちろん、そんな奇跡は起きない。
バルガロスは知性に目覚めるどころか、次の瞬間には石床を砕く勢いで前脚を振り下ろし、広場全体をどん、と震わせた。
とおるの願いは、試験会場の床と一緒にあっさり砕け散った。




