第20話 壁という名の何か
王樹練兵聖庭の第一測定区画は、ひとことで言えば試験会場というより、巨大な神殿と最新式の研究所と発掘されたばかりの古代遺跡展示室を王国の予算と騎士団の威信と「とりあえず神聖そうにしておけば受験者は黙るだろう」という設計担当者の雑な信念によって無理やり一つに縫い合わせたような場所だった。天井は常識的な建築物のそれではなく、むしろ小さな雲なら飼えそうなほど高く、世界樹の若い根が梁のように空間を横切っている。その根の表面には血管のようで楽譜のようでもあり、寝不足の魔導技師が最後の気力で引いた罫線のようでもある細い金色の術式線が、淡く瞬きながら走っていた。床は磨き抜かれた白石で、受験者の緊張した顔をうっすら映すほど滑らかだったが、その中央には十二枚の水晶板を花弁のように並べた円形測定台が据えられ、周囲には属性ごとの魔素子反応を映す鏡、魔力回路の揺れを記録する銀針、受験者の腕輪と連動する記録球、さらに用途の分からない小さな鐘や用途が分からないからこそ不気味な黒い箱まで、静かに、けれど明らかに「こちらは高価です、壊したら人生が壊れます」と言いたげな存在感で浮かんでいた。
厳かである。静謐である。世界樹の根元で聖騎士候補の魔力を測るという、文章だけなら古い神話の一場面か宮廷詩人が三日徹夜してひねり出した叙事詩の冒頭にしか見えない光景であり、実際、とおるも区画へ足を踏み入れた瞬間だけは背筋の内側に冷たいものがすっと通り抜けるような感覚を覚え、なるほどこれが王国の重み、これが聖騎士という存在の格式、これが自分のような村出身の少年がうっかり近づいてはいけなかった世界なのかと素直に圧倒されかけた。ところがその壮麗な空気を割って現れた試験官が、どう見ても近所の喫茶店で昼下がりに「今日は豆の挽き方を少し変えてみたんですよ」と言いながら常連客へ薬草茶を勧めていそうな人物だったため、とおるの脳内では荘厳な鐘の音と食器棚からカップを取り出す生活音が正面衝突し、かなり変な音を立てて砕け散った。
その試験官は四十代半ばほどの男性だった。名を、モルド・カフェルという。肩書きは王宮魔導院基礎測定部所属、聖騎士試験第一測定主任。肩書きだけを見ればもう少し眉間に深い皺を刻み、いかにも王国の機密を三つくらい胃の中に沈めていそうな威圧的な人物が出てきてもおかしくないのだが、実物のモルドは薄茶色の髪を後ろでゆるく束ね、丸い眼鏡を鼻先にかけながらなぜか白衣の上へふんわり柔らかそうな灰色のカーディガンを羽織っており、右手に持っているのも権威ある記録杖ではなく湯気の立つ陶器杯だった。中身は薬草茶らしい。しかもただの薬草茶ではなく、本人の表情から察するに今日の出来は七十八点くらいで、午後には改良版を淹れ直すつもりの薬草茶である。
姿勢も声もゆるい。笑顔も眠たげで、何なら今にも「午前の測定が終わったら、少しだけ庭の木陰で休憩しましょうねえ」と言い出しそうで、とても王国の重要行事である聖騎士試験の第一測定を任されている人物には見えない。町角の小さな喫茶店で雨の日にだけ出る焼き菓子を売っている主人だと言われたほうがまだ納得できた。そんな彼は第十七班の六人をのんびり見渡し、陶器杯を片手に軽く会釈してから眠たげなのに妙に通る声で言った。
「はい、みなさん、おはようございます。緊張している人も、緊張していないふりをしている人も、緊張している自分に少し酔っている人も、あるいは緊張という言葉の意味をまだ筋肉で理解していない人も、まとめて第一測定へようこそ。ここでは、斬ったり、燃やしたり、飛ばしたり、怒鳴ったり、気合いで床を踏み割ったりはしません。基本は測るだけです。測られるのが嫌な人は、聖騎士以前に王国の事務手続き全般へ向いていないので、今日のうちに心を鍛えてくださいねえ」
とおるは思った。口調はゆるいのに、言っていることは地味に逃げ場がない。
そもそも「測るだけ」という言葉が、彼にはもう信用できなかった。白華隊に来てからというもの、「基礎」「軽め」「測定」「確認」「ちょっとだけ」「無理はしない」という単語は、だいたい本人の命綱をじわじわ切りにくる危険語であると学んでいる。ゾロの言う「軽い有酸素」は、村なら普通に街道横断と呼ばれる距離を走らされる訓練だったし、ミレイユの言う「少し構えを確認する」は、木剣で普通に叩かれ、普通に痛く、普通に翌朝まで腕が上がらない訓練だったし、リディア隊長の「念のため」は念のためで済んだためしがない。だから測定という言葉の裏側にどれほどの精神的負荷と肉体的災難と備考欄の増殖が隠れているのか、今のとおるにはまったく油断できなかった。
隣のミレイユはいつも通り背筋を伸ばし、まるで自分の骨格まで王国騎士団に提出済みであるかのように微動だにしない。アルセントは爽やかに微笑みながら外套の襟元を直しながら、いかにも「どの角度から見られても問題ありません」と言いたげな完璧な立ち姿を保っている。カナデは杖を胸に抱え、鈴のついた先端をそっと押さえながら少し不安そうにしており、バスティアンは「測るのか! 分かりやすいな!」と大きく頷き、ネロは半目で測定装置の構造を観察しながら、すでに頭の中で三通りくらいの抜け道を考えていそうだった。六人六様の緊張感である。もっとも、とおるだけは緊張というより、できれば水晶板の裏側にでも潜り込んで「私は床石です」と書いた札を立ててやり過ごしたい気持ちだった。
モルド試験官は、測定台の周囲に立つ十二本の細い柱をようやく取り出した記録杖でゆるりと示した。
「まず、魔力と属性について簡単に確認しましょう。王国の標準分類では、実用上の主要属性は十二種類。火、水、風、土、雷、氷、木、金、聖、影、音、無。この十二属性です。もちろん、学派によって細分化はあります。毒を木の変性に含めるのか、影を無の暗相として扱うのか、聖を光と浄化に分けるのか、金属性を土の硬化枝と呼ぶのか、音を風の振動亜種だと主張して音属性学派を怒らせるのか、そういう話を始めると、魔導院では昼食前に三つの派閥が増え、午後のお茶までに二つが分裂し、夕方には誰かが論文で決闘を申し込みます。ここでは試験なので、喧嘩しない分類を採用しています。喧嘩しないと言っても裏では毎年喧嘩しています。学者という生き物は、分類表を見ると戦闘態勢に入るので」
聖騎士試験の説明に、急に魔導院内部の生々しい職場事情が混ざった。
十二属性。とおるは、ゾロの講義で聞かされた内容を思い出した。火は熱と膨張、燃焼、推進。水は流動、冷却、浸透、そして治癒との親和。風は速度、圧力、振動の運搬。土は安定、重量、構造固定。雷は伝達、反応、神経、瞬発。氷は停止、結晶化、保存、減速。木は成長、接続、再生、毒や薬との中間領域。金は硬化、伝導、形状保持、武器や防具との相性。聖は浄化、秩序、回復補助、魔力汚染の除去。影は遮蔽、吸収、隠蔽、精神や情報の暗部。音は波、共鳴、探知、干渉。無は特定属性へ染まらない基礎魔力であり、柔軟性は高いものの、自分から場を染める力に乏しい。
こうして並べれば、いかにも美しく整理された十二色の絵の具のように見えるが、実際の術者というものは、そんなにお行儀よく属性ごとの棚へ収まってくれる存在ではない。複数属性を持つ者もいれば、属性同士を混ぜる者もいるし、本人の魔力回路の形、呼吸の癖、精神の傾き、人生で何を怖がり、何を守りたいと思ってきたかによって、同じ火属性でも薪を燃やす者と剣先だけを爆ぜさせる者ではまるで別物になる。ミレイユの〈白雷〉は火と雷。カナデは水と音。ネロは無と影。アルセントは風。バスティアンは土。そしてとおるは記録上、無属性である。
無属性。
紙に書けばたった三文字だが、見るたびにどこか「特徴なし」「味付けなし」「本日のおすすめではありません」と言われているようで地味に傷つく名前だった。だが最近のとおるは、自分の〈壁〉が特徴なしどころでは済まない方向へ育ちつつあることを嫌というほど思い知らされているため、むしろ無属性という表示のほうが詐欺に見えてきていた。店先に「普通の干し芋」と書いてあるのに、かじった瞬間に王都の城門くらいの壁が口の中に現れる、そんな感じである。もちろんとおるは干し芋に壁を求めていないし、人生にもそこまでの壁を求めていない。
モルドは受験者たちが説明についてきているかを確認するように、ゆっくり陶器杯を傾けてから続けた。
「魔力とは、ざっくり言えば、生命の内側を巡る流れです。ここまでは皆さん知っていますね。もう少し細かく見ると、その根源には魔素子と呼ばれる極小単位の元素が存在します。魔素子は、何も性質を持たない乾いた砂粒のようなものではなく、属性ごとに色づく前の可能性の粒、と言ったほうが近いでしょう。魔力回路を通る間に、回路の形、術者の魂位相、属性適性、呼吸、意思、経験、昨日の睡眠時間、朝食を抜いたかどうか、あと本人がやたら格好つけたがっているかどうかなど、さまざまな要素の影響を受け、火の魔素子、水の魔素子、雷霊素、聖霊素といった性質を帯びていきます。霊素という言い方は、属性を帯びた魔素子の通称ですね。ミレイユさんの雷霊素、カナデさんの音霊素、そういう呼び方をします」
アルセントが、そこでほんのわずかに眉を動かした。おそらく「格好つけたがっているかどうか」という部分に反応したのだろう。とおるは横目でそれを見て、ああ、今この人の魂位相が一ミリ揺れたと思った。
「今日の第一測定では、魔力量の多寡だけではなく、魔素子の純度、配列、循環速度、属性親和性、回路を流れる際の揺らぎを見ます。つまり、あなた方が術者としてどんな土台を持っているのかを調べるわけです。ここで見栄を張って魔力を強く出しすぎると、数値が汚くなります。見栄は第二試験の武芸場まで取っておきましょう。武芸場なら、多少は土埃が見栄を隠してくれます」
アルセントが爽やかな笑顔のまま、わずかに咳払いをした。
ネロが小声で呟く。
「刺さる人には刺さる説明だね」
「私は見栄ではなく礼節を重んじるだけですよ」
「見栄も筋肉も鍛えれば強くなるのか?」
そうバスティアンが問いかけると、すぐ横でカナデが口を挟んだ。
「見栄は鍛えないほうがいいと思います」
第十七班は早くもまとまりがあるのかないのか分からない。いや、まとまっていると言えばまとまっているのだが、そのまとまり方は鍋の中で具材が勝手に自己主張している寄せ鍋に近かった。なんというか、出汁だけが可哀想である。
ミレイユは腕を組み、モルドの説明を真剣に聞いていた。その横でとおるは自分の手のひらを見つめる。何度も壁を出し、何度も怒られ、何度も「余計なことをするな」と言われた手のひらである。別に手のひらが悪いわけではないのだが、最近はこの手を見ているだけで、備考欄、報告書、隊長の視線、王国上層部、胃痛、と連想ゲームが勝手に進んでしまうから困ったものだ。
ゾロの声が、頭の中に蘇る。
――魔力は“力”ではなく“流れ”を理解しなさい。
訓練中、耳にタコができるほど言われ続けた言葉だった。ゾロは穏やかに見えて、同じことを何十回も言える種類の人間であり、その言い方が毎回少しずつ違うせいで、聞き流すこともできないという厄介さがあった。魔力とは体内に蓄えられたエネルギーの塊を腕力のように押し出すものではない。その根源には魔素子と呼ばれる極小単位の元素が存在し、それらが属性ごとの性質を帯びながら魔力回路を循環することで、初めて“現象”として世界へ干渉する。だから測るべきは魔力量だけではなく、魔素子の純度、配列、循環速度、属性ごとの親和性、回路を流れる際に生じるわずかな揺らぎ、そして術者本人が自分の魔力をどれだけ自分のものとして扱えているかという、少し聞いただけでは分かったようで分からないが訓練で叩き込まれると嫌でも分かってしまう感覚なのだ。
聖騎士の適性試験とは、それらを総合的に解析し、術者としての“土台”を見極めるための検査である。とおるは静かに呼吸を整えた。整えながら、内心ではこう思っていた。
――要するに、身体測定だと思って来たら、いきなり大学院の研究室で口頭試問を受けさせられているようなものなんだけど。
「では、一人ずつ測定しましょう」
モルド試験官が、まるで焼き菓子の焼き上がりを確認するかのような口調で言った。
「順番は班番号の記載順ではなく、私の気分です」
「試験官の気分で」
とおるが思わず呟くと、モルドはにこりと笑った。
「緊張をほぐす冗談ですよ。実際は、属性干渉が少ない順に行います。まあ、私の気分が完全に入っていないとは言いませんが、人生というものは、少しの気分と多めの帳尻合わせでできています。まずは風属性のアルセント君」
アルセントは外套の裾を優雅に整え、測定台へ向かって歩き出した。その足取りは試験を受けに行くというより舞踏会の中央へ進み出る貴公子そのもので、床の白石まで「あ、いま踏まれています」と誇らしげに光っているように見える。十二枚の水晶板の中心に立った彼は両手を前へ出し、指先まで無駄なく揃えた。
モルドが測定台を起動すると、足元の水晶が淡い緑に光り、周囲の十二柱のうち風属性を示すものが笛のように細く鳴った。風のない室内でアルセントの髪がふわりと揺れる。魔素子の流れが空気を押したのだろう。銀針は滑らかに動き、記録球へ緑の線が描かれていく。その線はきれいだった。悔しいくらいに無駄が少ない。とおるはこういう時に素直に「すごい」と思える自分と、「でもこの人、今ちょっと格好つけてるんだよな」と思ってしまう自分が同居していることに気づき、心の中で両者に座布団を敷いた。
「風属性親和性、高。魔素子配列、よく整っていますね。循環速度は速めで、外部環境への同期も得意。周囲の気流、味方の動き、矢の軌道、落ちてくる木の葉、舞踏会で相手の裾を踏まない角度などを読む補助に向いています。出力は貴族候補として標準より上。術式展開時に、やや自己演出波が混ざります」
「自己演出波とは」
アルセントが爽やかなまま尋ねたが、その爽やかさの輪郭だけがほんの少し硬かった。
「格好よく見せようとする時に出る余計な揺らぎです」
モルドは茶を飲んだ。
記録球が、まるで同意するようにちりんと鳴った。
ネロが噴き出し、カナデが口元を押さえ、バスティアンが「格好いいのは大事だな!」と、励ましているのか追い打ちなのか判別しにくい声を上げた。アルセントは少しだけ頬を引きつらせながら、「礼節です」と言った。
「ええ、礼節という名で呼んでも構いません。魔導院では、呼び名を変えても数値は変わらない、という悲しい格言があります。第二試験では少し減らしてくださいね」
「善処します」
「善処も数値化できますので、期待しています」
アルセントは完璧な微笑みを保ったまま戻ってきた。完璧すぎて逆に痛々しかったが、それは頭の中に留めておく。
次はカナデだった。彼は緊張した面持ちで測定台へ乗り、杖の鈴をそっと外して横へ置いた。
「鳴らさなくていいんですか」
とおるが小声で尋ねると、カナデは「測定中に音霊素が勝手に反応すると、数値が揺れるので」と、同じく小声で答えた。その声があまりに丁寧で、今にも「揺れてしまったらすみません」と測定器に謝りそうだった。
カナデが両手を置くと、水晶板は青と淡い銀の二色に光った。水の柱が柔らかく光り、音属性の柱が小さな鈴のような響きを生む。広間の空気がふっと静かになった。正確には静かになったのではなく、遠くの足音、記録官の羽根筆が紙を擦る音、誰かが喉を鳴らす音、バスティアンが鼻で大きく息を吸った音まで、輪郭を持って耳に届くようになったのだ。音が減ったのではなく、音の居場所が整えられたような感覚だった。
「水属性親和性、中高。音属性親和性、高。魔素子純度はかなり良いですね。循環速度は遅めですが、波形が非常に安定しています。治癒、鎮静、探知、味方の魔力の乱れを整える補助に向いているでしょう。自分から前に出て殴る適性は低いですが、誰かが崩れかけた時に支え直す力があります。欠点は、外部の大きな音や魔力衝撃に心が引っ張られやすい点ですね。戦場では誰かに守ってもらいましょう」
「はい……お願いします」
カナデが班へ戻ると、バスティアンが迷いなく親指を立てた。
「任せろ! 俺の後ろにいれば大丈夫だ!」
「はい。ありがとうございます」
カナデは少しほっとした顔で頷いた。とおるはそのやり取りを見て、盾役の発言力とはこういう時に発揮されるのだなと思った。自分も一応盾を使っているはずなのに、誰かを安心させる前に自分が安心したい。守る以前にまず自分の胃を守りたい。盾職にもいろいろある。大盾で前に立つ者もいれば、壁を出して周囲を困惑させる者もいる。できれば前者がよかった。
バスティアンの測定は、見るからに分かりやすかった。彼が測定台に乗ると、土属性の柱がずしん、と低く鳴り、床の白石がわずかに震えた。本人は両手を置きながら「おお、光ったぞ!」と楽しそうである。その明るさは測定台に乗っているというより、村祭りの力比べで丸太を持ち上げる前の少年そのもので、見ているだけでこちらまで肩幅が広くなりそうだった。
モルドは銀針を見て、少しだけ目を丸くした。
「土属性親和性、非常に高い。魔力量も高い。魔素子密度が濃いですね。循環速度は遅いものの、安定性がすばらしい。防御、重量操作、地形固定、大盾との相性が極めて良い。欠点は、出力を変える時に少し時間がかかること。急な方向転換や細かな調整は苦手でしょう」
「細かいことは苦手だ!」
バスティアンは胸を張った。
「分かりやすくて結構です。大きな盾で大きく守る。適性に合っていますね」
「そうか!」
「ただし、分かりやすさと単純さは別物ですので、訓練ではそこを間違えないように」
「難しいな!」
「そこからですね」
バスティアンは、褒められた部分だけを丁寧に受け取り、注意された部分を元気よく未来へ投げ飛ばしたような満面の笑みで戻ってきた。とおるは少し羨ましかった。適性と本人の性格があれほど一致しているのは、見ていて気持ちがいい。バスティアンの土属性は、土属性ですと胸を張っている。アルセントの風属性は、風属性でありながら裾をなびかせる余裕がある。カナデの音と水は、本人の優しさと不安定さまで含めて納得できる。では自分の〈壁〉は何なのか。名前からして単純なのに、説明すればするほどややこしくなる。壁という言葉の皮をかぶった何かであり、いわゆる広告詐欺の類か何かである。自分が詐欺をしているわけではないのに、なぜか申し訳ない気分になった。
ネロの番になると、空気が少しだけ変わった。
黒蓮推薦。それだけで、周囲の記録官たちの目つきがわずかに鋭くなる。露骨ではないが、羽根筆を持つ指の角度が変わっている。記録球の位置が半歩分近づき、観察鏡のひとつが何食わぬ顔でネロの背中側へ回り込んだ。黒蓮という組織が、王国の中でどういう見られ方をしているのかが言葉にしなくても分かる光景だった。
ネロ本人は面倒そうに測定台へ立ち、両手を置いた。水晶板は最初、ほとんど光らなかった。受験者が乗っているのに、まるで「誰か来ましたか?」と測定器が首をかしげているような無反応である。次に薄い灰色が広がり、影属性の柱が微かに暗くなる。無属性の柱は透明な揺らぎを示し、影の柱は周囲の光を吸うように沈んだ。銀針が一度止まり、妙な角度で震える。
「ネロ君」
モルドが穏やかに言った。
「測定妨害は減点です」
「癖で」
「癖なら今直しましょう」
「はい」
会話が短い。そして物騒である。
ネロが少しだけ肩の力を抜くと、それまで霧の向こうに隠れていたような数値が一気に記録球へ流れ込んだ。無属性と影属性が細く絡み、測定台の周囲に薄い暗がりが生まれる。それはただ暗いのではなく、光が届いているにもかかわらずそこだけ情報が薄くなるような暗がりだった。目で見ているのに、見たことを忘れそうになる。とおるは思わず眉を寄せた。これを普段からやっているのだとしたら、黒蓮の人間は廊下ですれ違うだけでも心臓に悪い。
モルドは記録を見ながら頷いた。
「無属性親和性、中。影属性親和性、高。魔素子配列は不規則に見えますが、これは隠蔽のための意図的な揺らぎですね。術式解析、罠の隠蔽、魔力痕跡の偽装に向きます。出力は高くありません。代わりに他者の術式構造へ入り込む感度が高い。聖騎士としては、扱いに注意が必要な適性です」
「黒蓮向きってことだね」
「その通りです。良くも悪くも」
「良くも悪くも、が余計かな」
「測定結果は、余計なものほど重要です」
ネロは満足げでも不満げでもない顔で戻ってきた。とおるは小声で言う。
「測定妨害が癖って、どういう生活しているんですか」
「黒蓮では、自分の魔力をそのまま見せると先輩に解析されるから」
「職場環境が怖い」
「白華も大概だと思うけど」
「否定しきれないのが悔しい」
ミレイユがちらりと二人を見た。
「私語が多いぞ」
「はい」
「すみません」
言いながら、とおるは白華隊での訓練風景を思い返していた。朝から走って昼には斬られ、夕方に壁を出しながら夜に反省を書き、翌朝に反省の反省を求められる生活を送っている時点で、黒蓮を怖い職場と笑える立場ではないのかもしれない。王国の騎士団というものは、色が違うだけでどの隊も大なり小なり人間を普通の形から外へ押し出していく装置なのではないか。そんな真理に気づきかけたが、気づくと怖いので、とおるは心の中の扉を閉めた。
そして、ミレイユの番が来た。
彼女が測定台へ進むと、周囲の候補者たちの視線が自然に集まった。白華隊の新鋭。リディアの愛弟子と噂され、次期三席候補とも呼ばれる剣士。王国騎士試験でも注目される受験者の一人であり、本人が望む望まないにかかわらず、すでに名前の周囲には期待と評価と、少しばかりの嫉妬がまとわりついている。だが、ミレイユはその視線に揺れなかった。静かに測定台へ上がり、両手を測定板へ置く。その動作には一切の無駄がない。足の置き方、肩の角度、顎の引き方、呼吸の深さ、そのすべてが訓練で磨かれ、癖になるまで叩き込まれたものだった。
彼女が目を閉じると、火属性の柱と雷属性の柱が同時に光った。
赤ではなく、白に近い炎。青紫ではなく、白銀の雷。二つの属性は互いを押し合うでも喧嘩するでもなく、どちらが主役かを決める会議で三時間揉めることもなく、一つの循環へ整えられていく。測定台の上を細い雷光が花弁のように走った。その中心で、ミレイユは静かに立っている。まるで炎と雷を従えているのではなく、最初から自分の呼吸の一部としてそこに置いているようだった。
銀針が、美しく動いた。
無数の線が記録球へ描かれ、火と雷の波形が規則正しく重なる。とおるには専門的な数値までは分からないが、それでも“きれいだ”と思った。無理やり押し出した力ではない。派手に見せるための演出でもない。剣を振る時のミレイユと同じで余計なものが削ぎ落とされ、必要なものだけが研ぎ澄まされている。
モルドの眠たげな目が、初めてはっきり開いた。
「火属性親和性、高。雷属性親和性、高。複合時の属性変換効率、非常に高い。魔素子純度も高く、配列精度は本日の受験者中でも上位でしょう。特に、雷霊素の伝達速度と火霊素の局所推進の接続が見事です。回路負荷は高め。長時間戦闘では右膝外側と肩甲部へ熱が残る可能性がありますが、制御力でかなり抑えられていますね。〈白雷〉の適性としては申し分ありません」
ミレイユは目を開ける。
誇るような表情はなかった。
ただ、当然のように結果を受け止めている。そこに傲慢さはないが、安っぽい謙遜もない。自分が積み重ねてきたものを自分で疑わない者の顔だった。とおるは横で少しだけ感心した。三ヶ月一緒に訓練してきたからこそ、彼女のすごさが分かる。ミレイユは天才だ。しかも、努力する天才だ。性格には難があり、とおるへの当たりは相変わらず強く、隊長語録を妙な場面で引用する癖もあるしたまに正論を槍のような速度で投げてくるため受け止める側の心が折れそうになるが、それでも彼女の剣と魔力制御は本物だった。
ミレイユが戻ってくると、アルセントが素直に言った。
「見事だったよ。白雷とは、噂以上だ」
「当然だ」
「謙遜はしないんだね」
「不要だ。私は、これを磨くためにここに来た」
バスティアンが「白く光ってかっこよかったな!」と笑いながら、カナデが「波形がとても綺麗でした」と言いつつネロが「制御が綺麗すぎて、逆に癖が読みやすいかもね」と余計なことを言った。
ミレイユが即座に睨む。
「読むな」
「まだ読んでないよ」
「読むつもりはあったな」
「黒蓮だからね」
「堂々とするな」
第十七班の空気は、早くも騒がしい。試験会場の厳粛さはまだ残っているが、その上に第十七班特有の小さな騒動が薄く積もり始めており、とおるはこれはきっと今後もこういう班なのだろう、と妙な確信を抱いた。王国の神聖な試験であっても、誰かが格好つけ、誰かが怯え、誰かが筋肉で納得し、誰かが測定妨害を癖で行い、誰かが正論で刺し、そして自分が胃を痛める。役割分担としては、あまりに偏っている。
最後に、とおるの番が来た。
彼は測定台の前で一度だけ深呼吸した。盾を外し、木剣も横へ置く。手のひらには嫌な汗が滲んでいる。自分の番が一番嫌だった。何が出るか分からないというのがとくに不安だった。“無属性です終わり”ならまだいい。それなら王国の標準分類表の端にそっと名前を書かれ、「基礎訓練を継続」とだけ記されて終わるかもしれない。しかし特殊な反応が出れば、また備考欄が伸びる。備考欄が伸びると報告書が増える。報告書が増えると王国上層部の視線が増える。視線が増えると壁際が遠くなる。壁際が遠くなると、安心できる場所がなくなる。人生の悪循環である。しかも壁を出す人間が壁際を求めているのだから、皮肉としても出来が悪い。
モルドは陶器杯をそっと台の脇へ置いてから、少しだけ身を乗り出した。その仕草だけで他の受験者とは扱いが違うことが分かってしまい、とおるの胃がきゅっと小さく縮んだ。
「壁山君。あなたは特例備考が多いので、測定中に違和感があればすぐ言ってください。無理に出力を上げる必要はありません。魔力を押し出すのではなく、普段通り回路へ流すだけで結構です」
「普段通り」
「はい。壁を出さなくていいです。出したくなっても、まずは我慢」
「試験官にまで壁を我慢しろと言われる人生」
ミレイユが横から言う。
「余計なことをするな」
ネロが続ける。
「余計なことをすると面白い結果が出るかもしれないけど」
カナデが杖を抱えたまま、小さく祈るように言う。
「安全にお願いします」
バスティアンが拳を握って大声で励ます。
「頑張れ、盾仲間!」
アルセントが、爽やかな顔にほんの少し本気の心配を混ぜて頷く。
「落ち着いて。君なら大丈夫だ」
応援の方向性が多い。止める者、煽る者、祈る者、叫ぶ者、励ます者。これを全部足して割ったら、ちょうどいい激励になるのかもしれないが、今のとおるには、鍋に薬草と干し肉と砂糖菓子と石を同時に入れられたような気分だった。彼は苦笑し、測定台の中心へ立った。
両手を水晶板へ置く。
冷たい感触が手のひらへ伝わる。白石の床よりもさらに温度が低く、まるで水晶そのものがとおるの中にある何かを先に覗き込もうとしているようだった。彼は静かに呼吸を整える。
魔力は力ではなく流れ。
押し出すな。
構えろ。
流れを見ろ。
ゾロの声。ミレイユの叱責。リディアの言葉。星の塔の扉。黒いフードの声。クルム村の井戸。マーサ婆さんの干し芋。なぜ最後に干し芋が混ざるのかは分からないが、心の奥底というものは意外と高尚な記憶より素朴な食べ物で安定するのかもしれない。干し芋は偉大である。少なくとも、王国上層部よりは胃に優しい。
とおるは、胸部の魔力回路へ意識を落とした。
無属性の魔力が、ゆっくり流れる。
測定台の水晶は最初、透明に揺れた。無属性の柱が淡く光る。ここまでは予想通りだった。とおるは少しだけ安心する。そうだ、このまま普通に終わればいい。無属性、標準、訓練継続。備考欄は短く、人生は穏やかに、壁は必要な時だけ慎ましく。ところが次の瞬間、十二枚の水晶板の縁が、わずかに白い線を作った。
火でもない。水でもない。風でも土でもない。雷でも氷でも木でも金でもなく、聖でも影でも音でもない。もちろん、無属性の透明な揺らぎとも少し違う。色がつかない。光でも闇でもない。水晶板と水晶板の“間”へ、細い線が引かれていく。
モルドの表情が変わった。
銀針が、動かない。
いや、動こうとして止まっている。
魔素子の純度を測る針、循環速度を測る針、属性親和を示す柱、それぞれが反応の場所を探しているのに、測定対象が十二属性の柱ではなく、柱と柱の境目へ逃げ込んでいるように見えた。水晶板の花弁の間に、透明な輪郭が浮かぶ。壁ではなく板でもない。膜とも違う。けれどそこには確かに“境界”があった。目に見えるほど明瞭ではないのに、そこを越えようとするものだけが越えられないと知るような線だった。
「……これは」
モルドが呟いた。
さっきまで薬草茶の温度を気にしていた喫茶店の店主のような顔は消え、王宮魔導院基礎測定部所属、聖騎士試験第一測定主任の顔になっていた。その変化が、とおるには怖かった。ゆるい人が急に真面目になると、ふだんから真面目な人が真面目でいる時よりずっと怖い。
とおるの手の下で、魔素子の流れが整列していく。火へ染まらず、水へ流れず、風へ散らず、土へ沈まない。無属性の基礎魔力でありながら、ただの無ではない。魔素子が現象へ変わる直前の状態を保ち、何かと何かを分ける線として並ぶ。魔力が力にならない。流れが現象にならない。現象になる前に、境界という形を取ろうとしている。
とおるの頭の奥に、星の塔の声が微かに蘇った。
世界の外側から来たものよ。
星の運命の境界に立つことはできるか。
彼は思わず手を離しかけた。
「そのまま」
モルドの声が、初めて鋭くなった。
とおるの背筋が、ぴんと伸びる。
「出力は上げず、呼吸だけ維持してください。壁山君、押さない。止めない。いつも通りに流すだけです」
「はい」
「今、余計なことをしたら、たぶん私の昼休みが消えます」
「責任の方向が急に生活感」
「だからこそ大事です」
水晶板の線が、円形測定台全体へ広がった。十二属性の柱が一斉に小さく鳴る。火、水、風、土、雷、氷、木、金、聖、影、音、無。それぞれの光が一度だけ揺れ、その隙間へ透明な線が走った。柱そのものを強く輝かせるのではなく、柱と柱のあいだ、色と色のあいだ、性質と性質のあいだに、薄く、鋭く、静かな輪郭が刻まれていく。
モルドの記録球には、数値ではなく空白が映っていた。
いや、空白の形が記録されていた。
属性値のグラフではない。火が何割、水が何割という分かりやすい表示でもない。そこにあるのは境界面の座標に近い何かであり、記録球はそれを理解できず、それでも理解しなければ職務放棄になるとでもいうように必死で光の線を組み直していた。
ネロが小声で言った。
「……へえ。十二属性のどれにも染まらないというより、属性の手前で止めている?」
カナデは杖を抱え、息を呑んでいる。
バスティアンは難しそうな顔で「光ってるのに光ってないな」と言いながら、アルセントは初めて爽やかな笑顔を忘れていた。ミレイユはじっととおるの手元を見ていた。彼女は知っている。自分の〈白雷〉が、この得体の知れない境界に触れられた感覚を。剣が弾かれたのではない。魔力が負けたのでもない。そこに初めから通ってはいけない線があったような、理不尽で静かで、妙に腹の立つ感覚を。
測定は十数呼吸ほど続いた。
実際の時間は短い。
しかし、とおるには長かった。試験会場の空気も、周囲の視線も、水晶板の冷たさも、自分の呼吸音も、すべてが必要以上に大きく感じられる。手を離したいけれど、離せない。何もしていないはずなのに、何かをしているように見える。これが一番困る。とおるはただ普通に魔力を流しているだけなのに、その普通が周囲にとって普通ではないらしい。人生における理不尽とは、こちらの平常運転が他人の緊急事態になる瞬間のことを言うのかもしれない。
ようやくモルドが頷いた。
「そこまで。手を離してください」
とおるは、言われるがまま水晶板から手を離した。透明な線はすぐに消えた。測定台は何事もなかったように静けさを取り戻し、十二本の柱も、それぞれの光を薄く収めていく。しかしその静けさが、逆に気まずかった。まるで部屋中の装置が「今の、見ました?」と互いに目配せしているようだった。
モルドは記録球を確認し、しばらく黙った。沈黙が長い。ゆるい試験官の沈黙は怖い。叱責より怖い。測定器の故障か、自分の人生の故障か、どちらかが宣告される前の沈黙である。やがてモルドは冷めかけた薬草茶を一口飲んだ。飲むのか、とおるは思った。今飲むのか。だがその一口によって、試験官はどうにか喫茶店の店主としての部分を取り戻したらしい。
「壁山君」
「はい」
「無属性親和性、中。魔力量は受験者全体では標準より少し上。魔素子純度は高め。循環速度は中。ここまでは普通です」
「普通」
とおるは、少しだけ安堵しかけた。
普通。なんと甘美な響きだろう。王都へ来てからというもの、普通という言葉はとおるにとって遠い故郷の味噌汁のような存在になっていた。目の前に出されたら泣いてしまうかもしれない。普通。標準。平均。備考なし。…なんて美しい。
「問題は、その後です」
「安堵返してください」
「返却規定がありません」
「王国の制度は冷たい」
「測定とは、そういうものです」
モルドは記録球を指先で軽く回しながら、少し考えるように言葉を選んだ。
「あなたの魔素子は、属性変換前の配列を維持したまま、対象間の境界を固定する方向へ並びます。十二属性のどれかへ染まるのではなく、属性が現象化する手前に“線”を引く。これは無属性の一種ではありますが、一般的な無属性強化や放出とは違います。分類上は特殊寄り。境界固定、遮断、座標干渉、場合によっては術式接続部への作用が疑われます」
備考欄が伸びる音がした。
とおるには、確かに聞こえた気がした。紙が足され、欄が継ぎ足され、余白が侵略され、担当者が眉をひそめ、誰かが「また壁山か」と呟く未来の音である。幻聴にしては、やけに具体的だった。
「つまり」
モルドは穏やかな喫茶店の店主めいた笑顔に戻り、非常に困ったことを言った。
「それは“壁”という名の、かなり面倒な何かですね」
ミレイユが即座に言った。
「それはもう壁ではないだろ」
「本日二回目!」
とおるは思わず叫んだ。
測定区画の空気が少しだけ緩み、バスティアンが大声で笑う。カナデが肩を震わせながらアルセントが「いや、実に興味深い」と真面目な顔で言うと、ネロが「黒蓮が聞いたら喜ぶね」と余計な不安を置き、ミレイユが「今の記録は隊長へ報告されるべきだ」と当たり前のように言い出す。とおるは両手で顔を覆った。
「待ってください。報告は必要最小限でお願いします。できれば、紙の端に小さく」
「無理だろう」
ミレイユが冷静に言った。
「なぜ即答なんですか」
「今の測定を見て、必要最小限で済むと思うほうがおかしい」
「ミレイユさん、たまには夢を見させてください」
「現実を見ろ」
「その現実がつらいんです」
ネロが、どこか楽しそうに記録球を見ている。
「でも便利そうだよね。属性の手前に干渉できるなら、術式の発動直前を止めたり結界の継ぎ目に線を入れたり、他人の魔力循環に細工したり」
「最後のやつ、言い方が黒蓮すぎませんか」
「褒め言葉として受け取るよ」
「褒めてないです」
バスティアンは腕を組み、真剣に考え込んでから言った。
「つまり、とおるの壁は、壁より壁らしい壁ということか?」
「分かるようで分からないことを、大声で言わないでください」
「だが守れそうだ!」
「守れそうなのはいいんですけど、説明が守れてないんです」
カナデが控えめに手を上げる。
「あの、でも、とおるさんの魔力は怖い感じではありませんでした。何かを壊すというより、ここから先は駄目です、と静かに線を引くような感じで……少し、不思議でしたけど」
「カナデさんだけが優しい」
「いえ、そんな」
「その優しさで、この備考欄を包んで隠してほしい」
「それは、たぶん無理です」
「ですよね」
アルセントは顎に手を当て、さっきまでの自己演出波を忘れたように真剣な顔をしていた。
「境界を固定する力か。戦場では防御だけでなく、敵味方の交戦域を分断することにも使えるかもしれない。移動経路を限定し、魔力の流れを遮断し、術式の成立点をずらす。いや、これは確かに単なる壁ではないな」
「アルセントさんまで」
「すまない。だが、君の適性はとても興味深い」
「興味深いと言われるたびに、僕の平穏が一枚ずつ剥がれていく気がします」
モルドは記録球へ追加の印を入れ、軽く頷いた。
「ひとまず第一測定の記録としては、無属性系特殊反応、境界固定傾向あり、としておきます。詳細解析は後ほど魔導院へ回しますが、今ここで危険な暴走反応は確認されていませんので、試験続行は可能です」
「続行できるんですね」
「できます」
「できてしまうんですね」
「はい。聖騎士試験は、受験者の心が折れても、規定上続行できる場合があります」
「規定が怖い」
モルドはにこりと笑った。
「大丈夫です。心が折れた場合は、第二休憩室に甘い焼き菓子があります」
「救済が喫茶店寄り」
「人は糖分で持ち直すことがありますから」
第一測定、終了。
結果は、予想通り普通ではなかった。
聖騎士試験の初日、壁山とおるはまた一つ、自分の能力が名前から遠ざかっていく現実を突きつけられることになった。無属性。ただの壁。そう呼べば呼ぶほど、実態はそこから半歩ずつ離れていく。壁という名の、境界。壁という名の、遮断。壁という名の、座標干渉。壁という名の、かなり面倒な何か。
その先に続く言葉を、とおるはまだ知らない。
できれば知りたくないような気もしていた。
測定台に残った透明な線の記録は、彼の知らないところで試験官たちの間へ静かに送られていく。記録球は何事もなかったように澄ました顔で宙に浮かんでいたが、その内部では属性値ではなく空白の形が、——きちんと、そして妙に律儀に保存されていた。書類仕事とはそういうものだ。本人が忘れたいことほど丁寧に残ってしまう。
そして第十七班は、次の基礎測定へ向かうことになった。




