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第24話 いや、でかすぎない?



「俺を覚えないでほしい!」


 それは戦術でも挑発でもなく、今後の人生を穏便に送るための腹の底からとおるが絞り出した切実な願いだったが、残念ながら人と魔獣の間に成立する意思疎通としてはあまりにも一方的であり、ましてや封印杭を脇腹へ突き立てた相手から「記憶に残さないでください」と頼まれたところで、はいそうですかと忘れてくれるほどバルガロスの器は広くなかった。


 巨獣の瞳が、とおるを捉えた。


 先ほどまでアルセントを追っていた濁った視線が焼けつくような怒気を孕んでゆっくりと下り、その中心へ自分の姿が収まった瞬間、とおるは、ああ、これは完全に顔を覚えられたと理解した。


 しかも好意的な意味ではない。


 おそらく次に見かけたら踏み潰す対象として、かなり優先度の高い位置へ登録された。


 バルガロスが頭を低く沈める。


 巨大な角が正面へ向いて肩の外殻が盛り上がり、太い前脚が床を激しく掻いた。


 爪が石を削るたび、熱で脆くなっていた白石の床が乾いた破裂音を上げて砕け、赤く焼けた破片が火花のように周囲へ飛び散る。


 空気が震えた。


 獣の喉奥から漏れる唸りが腹の底へ響き、足元の瓦礫が細かく跳ねる。


 突進姿勢。


 そう理解した時には、すでに遅かった。


 距離が近すぎる。


 左右へ避けるには、とおるの足は遅い。


 後方へ下がろうにも、砕けた床と赤熱した亀裂が進路を塞いでいる。


 〈壁〉を出せば防げるかもしれないが、今使える三枚のうち一枚は先ほどの熱風と衝撃で砕かれ、残る二枚はいまだ空中へ展開されたままだった。


 一枚はバルガロスの脇腹へ接近するために置いた足場。


 もう一枚は封印杭を打ち込んだ後、外側へ逃げるために使った斜めの退避路。


 どちらも今この瞬間にはほとんど意味がない。


 解除する。


 消えるまでの一拍。


 再び展開位置を定める。


 意識を集中する。


 生成する。


 その間にも、バルガロスは突っ込んでくる。


 間に合うのか。


 とおるの頭の中で、白衣を着た小さな自分たちが一斉に円卓会議を始めた。


『現在距離、およそ十数歩!』


『相手の加速を考慮すると接触まで数秒!』


『壁の解除から再展開までの所要時間は?』


『緊張と疲労を加味し、通常より遅延する見込みです!』


『結論は!』


『間に合う可能性、やや低めです!』


『低めという言い方で柔らかくするな!』


『もっと具体的に報告しろ!』


『死ぬほどではないですが、かなり死にそうです!』


『それはほぼ死ぬという意味だ!』


 脳内会議がまったく役に立たない結論へ到達した瞬間、バルガロスの前脚が床を蹴り抜いた。


 轟音。


 巨体が動くというより、広場の一部がこちらへ崩れ込んでくる。


 肩を揺らし、角を突き出し、熱を纏った巨獣が一直線に突進を始めた。


「バスティアン!」


 上空からアルセントの鋭い声が飛ぶ。


「任せろ!」


 返事は一瞬だった。


 バスティアンは構えていた大盾を乱暴に引き寄せると、とおるとバルガロスの間へ向かいながら重装甲とは思えない勢いで地面を蹴った。


 一歩。


 踏み込んだ床が砕ける。


 二歩。


 靴底の下から石片が弾け飛ぶ。


 三歩目には、黄褐色の光が足元から噴き上がり、〈巌衝〉の紋様が脛、腿、腰、胸、肩、腕へと一気に駆け上がっていく。


 岩盤の亀裂にも似た幾何学的な線が、鎧の隙間と露出した皮膚を覆い、バスティアンの全身が大地そのものと結びついたように重く沈んだ。


 彼は最後の一歩で身体を滑り込ませ、とおるの前へ立つ。


「壁山、俺の後ろへ!」


「はいっ!」


 とおるは反射的に走った。


 走ったという表現が許されるなら、である。


 実際には恐怖で足の感覚が半分ほど消え、瓦礫へ靴を引っかけ、前へ倒れそうになりながら両腕をばたつかせているだけである。最終的には転倒と疾走の中間にある何かしらの移動方法で、バスティアンの背後へ滑り込んだ。


 視界の前を、巨大な背中と大盾が塞ぐ。


 厚い肩。


 重い鎧。


 大地へ突き立てられた両脚。


 普段なら少し圧迫感すら覚える巨体が、その時ばかりは城壁よりも、要塞よりも、王都のどんな防御施設よりも頼もしく見えた。


 ありがたい。


 とおるはこれまで生きてきた中で、これほど他人の背中へ感謝したことがなかった。


 もしバスティアンの背面装甲に表札を付けられるなら、今すぐ「安全地帯」と刻みたい。


 さらに余白があるなら、「ご自由にお避けください」とも書きたい。


「来るぞ!」


 バスティアンが吠え、大盾を地面へ叩きつけるように据えた。


 盾の下端が割れた床へ深く食い込み、〈巌衝〉の紋様が盾面から足元へ流れ、そのまま地面の亀裂へ根を張るように広がっていく。


 彼は腰を落とした。


 右足を後ろへ引き、左膝を曲げ、両腕で盾の裏側を押さえ込む。


 人間が構えたというより、巨大な岩壁がその場へせり上がったようだった。


 次の瞬間、バルガロスの角が大盾へ激突した。


 金属音ではなかった。


 もっと重い。


 鐘楼そのものを巨大な槌で殴りつけたような耳ではなく骨で聞く衝撃音が広場を揺らし、空気が目に見えない壁となって周囲へ爆発的に広がった。


 とおるの髪と衣服が後方へ引かれ、肺の中の空気が一瞬で押し出される。


「っ――!」


 声すら出ない。


 大盾の表面から火花と石片が噴き上がり、衝突点を中心に白石の床へ放射状の亀裂が走った。


 一本。


 二本。


 数えきれないほどの亀裂が稲妻のように広がりながらバスティアンの足元を越え、とおるの靴のすぐ脇まで伸びて止まる。


 盾が軋む。


 腕甲が悲鳴を上げる。


 バスティアンの両膝が、衝撃へ耐えきれずわずかに沈んだ。


「ぬ……おおおおおおっ!」


 獣の咆哮に負けない怒声を上げ、バスティアンは踏みとどまる。


 バルガロスの突進が生み出した凄まじい力はまず大盾へ叩きつけられ、そこから両腕へ、肩へ、背骨へ、腰へ、そして地面を踏み締める両脚へと流れ込んでいった。


 鎧の継ぎ目が軋み、筋肉が膨れ、皮膚に浮いた黄褐色の紋様が激しく明滅する。


 それでも〈巌衝〉は、流れ込んだ衝撃を大地へ逃がし続けた。


 バスティアンの靴底が床へ沈む。


 石が砕ける。


 さらに沈む。


 だが、倒れない。


 もし〈巌衝〉がなければ、盾も人間も区別なく後方へ吹き飛ばされ、その背後にいたとおるまでまとめて壁へ叩きつけられていただろう。


 いや、下手をすれば壁へ到達する前に骨と鎧と盾が一緒になって転がる事故現場が完成していたかもしれない。


「ぐ、ぬううううッ!」


 バスティアンの喉の奥から、獣じみた唸り声が絞り出される。


 とおるは、バスティアンの背中越しに魔力の流れを見た。


 目で見るというより、空間へ広がる圧力の偏りを皮膚で拾い、そこに〈壁〉を重ねることで力の通り道を輪郭として認識しているに近い。


 角から盾へ叩き込まれた衝撃はバスティアンの両腕と肩を抜け、腰へ落ち、両脚から地面へ流れ込んでいる。


 そこまではいい。


 バスティアンの〈巌衝〉は、自らの身体を大地と一体化させ、正面から受けた力を地面へ逃がすことで耐え続ける術式なのだろう。


 問題は、その地面そのものが限界へ近づいていることだった。


 衝撃は床石の亀裂へ集中し、細い割れ目を押し広げながらより脆い方向へ、より抵抗の少ない場所へと逃げていく。


 このまま亀裂が広がればバスティアンの右足を支えている床石が割れる。


 右足が沈めば、腰の軸が崩れる。


 軸が崩れれば〈巌衝〉と地面との接続が切れ、あの重い盾も、その後ろにいる屈強な男も、バルガロスの一撃を受け止める防壁ではなくただの大きな投石物へ変わる。


 床を直す時間などない。


 砕けた石を元へ戻すこともできない。


 ならば、亀裂そのものを塞ぐのではなく衝撃が逃げていく方向へ境界を置き、力の流れを区切ればいい。


「足元、固めます!」


 とおるは叫び、両手を床へ向けた。


 意識を地表ではなく、そのさらに下へ潜り込ませる。


 割れた白石の隙間。


 砕けた基礎。


 衝撃が地中へ逃げ込もうとしている細い経路。


 そこへ透明な〈壁〉を、上から置くのではなく地面の中へ刃を差し込むように出現させる。


「出ろ!」


 低い振動が足元を走った。


 白石の亀裂の奥で半透明の板状の光が一瞬だけ明滅し、そのまま床下へ深く固定される。


 見た目だけなら砕けた床の割れ目へ、薄い硝子板が何枚か埋め込まれただけにしか見えない。


 しかし効果はすぐに現れた。


 バスティアンの足元から外へ逃げ続けていた衝撃が、地中へ差し込まれた〈壁〉へぶつかる。


 行き場を失った力が止まり、分散し、別の方向へ流れようとして再び区切られる。


 亀裂の拡大が鈍った。


 沈みかけていた右足が止まる。


 途切れかけていた魔力の流れがバスティアンの脚を通じて再び大地へ食い込み、〈巌衝〉が太い杭を打ち直したように地面へ接続し直された。


「おおっ、まだ受けられる!」


 バスティアンが笑った。


 額には汗が浮かんで歯は食いしばられ、盾を支える腕など今にも筋肉が裂けそうなほど震えているにもかかわらず、その声には恐怖どころかむしろ強敵と力比べができることを喜んでいるような響きすらあった。


 どうしてこの状況で笑えるのか。


 とおるには、たぶん一生かかっても理解できないという確信だけがあった。


「壁山、今のはいい!」


 上空を旋回していたアルセントが、身体の周囲へ風を巻き上げながら声を飛ばす。


 褒め言葉と同時に彼の足元では圧縮された風が弾け、空中の身体を次の位置へ押し上げた。


「褒めるなら、安全圏に戻ってからお願いします!」


「戦闘中だから価値がある!」


「その価値観には同意できません!」


 言い返した直後、バルガロスの首筋を覆う外殻が大きく盛り上がった。


 獣の喉から灼けた岩を擦り合わせるような低い唸りが漏れる。


 とおるの背筋に冷たいものが走った。


 来る。


 今度は、正面から押し潰す動きではない。


 バルガロスは角を盾へ噛ませたまま首を深く沈め、盾ごとバスティアンを跳ね上げるように頭部を斜め上へ振り抜こうとした。


 力の向きが変わる。


 横から前ではなく、下から上。


 バスティアンの盾は正面衝突に対しては異様なまでに強い。


 だが、足元と大地をつなぐ〈巌衝〉は身体が地面から浮けば成立しない。


 持ち上げられた瞬間、接続は切れる。


 そのまま盾ごと宙へ放り上げられれば、次に待っているのは角による追撃か、地面へ叩きつけられる未来である。


 とおるは反射的に、角の前へ垂直な〈壁〉を出そうとした。


 ——が、意識を集中させた寸前で止める。


 縦の壁では角そのものを受け止めるだけだ。


 あの質量と勢いを真正面から止めようとすれば、〈壁〉が耐えたとしてもその反動がどこへ向かうか分からない。


 最悪の場合、盾と壁の間へ挟まれたバスティアンが潰れる。


 必要なのは、力を止めることではない。


 持ち上げようとする力と盾との間へ境界を差し込み、その向きを横へ逸らすための角度。


「バスティアンさん、盾を少し右へ寝かせて!」


「おう!」


 返事が早い。


 早すぎる。


 とおるが自分の指示は本当に正しかったのか、角度はこれでよいのか、失敗すればこの人が飛ぶのではないかと不安を抱くよりも先に、バスティアンは迷いなく腰を落として盾の上端を右へ傾けていた。


 どうしてそんなに簡単に人を信じられるのか。


 指示した本人が最も疑っているというのに。


 だが、もう迷っている暇はなかった。


「そこです!」


 とおるは傾いた盾の左上へ斜めの〈壁〉を添えた。


 角と盾が衝突する、そのほんの一瞬前。


 空間が硬質な音を立て、透明な面が盾の縁から外側へ滑り台のように伸びる。


 直後、バルガロスが首を振り上げた。


 爆発したような衝撃音。


 角から放たれた上向きの力が盾へ食い込む。


 その力は盾を真上へ押し上げるより先に斜めへ置かれた〈壁〉の表面へ触れた。


 境界に沿って向きを変える。


 上へ持ち上げようとしていた圧力が透明な面を滑り、盾の左側から横へ逸れる。


 バスティアンの身体が一瞬だけ浮きかけたものの右足が地面を噛み、すぐに重心を取り戻した。


 そして横へ流された衝撃の先には、アルセントが巻き起こしていた風の通り道があった。


 力が風へ乗る。


 暴れ馬の手綱を別の方向へ引くように、バルガロスの頭部が大きく横へ流された。


「もらった」


 空中のアルセントが、低く言った。


 風圧層を蹴り砕き、身体を一気に反転させる。


 外套が風へはためき、長柄の鎌が頭上で円弧を描いた。


 次の瞬間、彼は全身の捻りを刃へ乗せ、そのまま鎌を振り下ろした。


 刃そのものは届かない。


 けれど鎌の軌道に沿って圧縮された風が薄い刃となり、甲高い唸りを響かせながら落下する。


 風刃はバルガロスの角の付け根へ正確に叩き込まれた。


 鈍い破砕音。


 黒い外殻の欠片が弾け、赤い火花と風の粒子が混ざり合って飛び散る。


 もともと横へ逸らされていたバルガロスの頭部が、さらに大きく流れた。


 巨獣の首筋がねじれる。


 分厚い顎が持ち上がる。


 外殻に覆われていた首の下側が、ついに露出した。


「開いた!」


 とおるの視界に、赤黒く脈打つ膜が飛び込んでくる。


 二本目の封印杭を打ち込む指定部位。


 呼吸膜。


 バルガロスが体内へ熱を取り込み、同時に余剰の熱を排出するための薄い器官であり、第一組が試験開始直後に狙った場所でもある。


 外殻に比べれば柔らかい。


 封印杭を通すには絶好の位置。


 ただし、問題が二つあった。


 一つは、先ほどまで乱れていたバルガロスの熱循環が戻りつつあり、呼吸膜の表面が暗い赤色から炉の内部を思わせる橙色へ変わり始めていること。


 もう一つは、バルガロスが明らかにとおる個人を嫌い始めていることである。


 巨獣の片目が首を捻った不自然な姿勢のまま、とおるを捉えた。


 濁った瞳の奥にあるのは無差別な怒りではない。


 自分の足場を固め、角の力を逸らし、攻撃のたびに最も嫌な場所へ透明な板を差し込んでくる小さな人間に対するはっきりとした敵意だった。


 嫌われる理由は分かる。


 自分でも、相手が最も困る場所ばかり選んで〈壁〉を置いている自覚がある。


 逆の立場なら、かなり嫌だ。


 何をしても横から透明な板を差し込んでくる相手など、可能であれば最初に踏み潰しておきたい。


「二本目は私が行く」


 アルセントがこちらを見ずに告げた。


 すでに次の動きへ入っている。


 彼は空中で片脚を引き、足元へ新たな風圧層を作り出すと、それを真下ではなく斜め後方へ強く蹴り抜いた。


 圧縮された空気が爆ぜる。


 その反動でアルセントの身体は単純に落下するのではなく、風へ乗って鋭く斜めへ滑り込み、露出した呼吸膜へ向かう一本の矢のような軌道を描いた。


 右手には鎌。


 左手には、二本目の封印杭。


 杭を投げるつもりではない。


 呼吸膜へ直接押し当て、鎌の柄尻を槌代わりにして打ち込むつもりなのだ。


 バルガロスが唸り、横へ流された頭部を無理やり引き戻そうと首へ力を込める。


 外殻の継ぎ目が軋み、呼吸膜から灼熱の蒸気が噴き出した。


 アルセントは止まらない。


 風に乗った速度を殺さず、むしろ鎌を背後へ引いて打撃の間合いを作りながら熱気の渦へ真正面から飛び込んでいった。


「壁山、首下へ入るための進路を一枚、私の足元へ!」


「はい!」


 今度は、ほんのわずかではあるものの考えるより先に身体が動いた。


 アルセントが次に踏み込む位置、その細身の身体が風に乗って落下し、再び加速へ転じるはずの虚空を見定めると、とおるは右手を突き出しながらバルガロスの首下へ向かって低く傾斜するよう、短い〈壁〉を空中へ出現させた。


 透明な板が熱気を押し退けながら虚空へ固定され、その輪郭に沿って白い光が一瞬だけ走る。


 空中の足場。


 自分の〈壁〉が、誰かの足を受け止める。


 つい先ほどまでは、敵の攻撃から逃れるため追い詰められた人間が咄嗟にしがみつく緊急避難用の板にすぎなかったものが、今度は敵の懐へ切り込み、攻撃を成立させるための踏み台として機能しようとしている。


 同じ一枚の壁なのに、置く場所と使う人間が変わるだけで意味がまるで違う。


 とおるがその変化へ驚くより早く、アルセントは一切の迷いを見せず、落下の勢いを殺さないまま透明な足場へ右足を叩きつけた。


 硬質な衝撃音。


 〈壁〉の表面が低く軋む。


 さらにアルセントが自ら生み出した風圧層を上から重ねると、透明な壁と圧縮された風が二重の足場となって彼の脚力を押し返し、その身体はとおるが想定していたよりもはるかに鋭い角度で巨大な角の死角を縫い、バルガロスの首下へ滑り込んだ。


「借りるよ」


「返却不要です!」


 口から軽口が飛び出したことに、とおる自身が一番驚いた。


 少し前までなら返事をする余裕もなく喉の奥で情けない声を潰していたはずなのに、今は恐怖で心臓が暴れているにもかかわらず短い言葉を返す余白が生まれている。


 状況に慣れたわけではない。


 巨大な魔獣へ慣れる人間など、どこか壊れている。


 ただ、次に何が起きるのかを考え、そのために自分が何を置けばいいのかを考えることで、恐怖に全部を飲み込まれずに済んでいるだけだった。


 アルセントは落下の勢いを利用して鎌を横薙ぎに振り抜いた。


 刃そのものがバルガロスの肉へ触れるより先に、鎌の軌道から生まれた鋭い風が首下を覆う熱霧へ食い込み、赤く濁った蒸気を左右へ引き裂く。


 轟、と熱気が割れた。


 霧の内側から呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返す、半透明の膜が露出する。


 薄い。


 柔らかい。


 しかしその周囲には赤熱した血管のような魔力回路が幾筋も走り、鼓動に合わせて不気味な光を明滅させている。


 アルセントは右手の鎌で熱霧の流れを押さえ込みながら、左手に握った封印杭の先端を呼吸膜そのものを傷つけないぎりぎりの位置、その横を走る魔力回路の継ぎ目へ正確に押し当てた。


 そして鎌の柄尻を反転させる。


「はっ!」


 打撃音が一つ。


 杭が食い込む。


 だが浅い。


 封印杭の先端は外殻を破ったものの、聖印が起動する深さまでは届いていない。


 アルセントが二撃目のために腕を引いた、その瞬間だった。


 上空へ逸らされていたバルガロスの頭部が、岩山そのものを振り回すような勢いで戻ってくる。


 空気が唸る。


 巨大な角が熱霧を切り裂き、首下へ潜り込んだアルセントを横から薙ぎ払おうと迫った。


 二度目を打つ猶予はない。


 このままなら、封印杭を残して退くしかない。


 あるいは、退くより早く角に砕かれる。


「壁山!」


 アルセントの声が飛ぶ。


 しかし今度は、その声が耳へ届き切る前にとおるの右手はすでに動いていた。


 角とアルセントの身体の間へ盾を置くのではない。


 真正面から受ければバルガロスの膂力に押し切られ、壁ごとアルセントを叩き潰す可能性がある。


 見るべきなのは角そのものではない。


 角が戻ってくる軌道。


 アルセントが二撃目を打った後、身体を退かせるべき空間。


 その二つが交わる場所。


「そこだ!」


 とおるは角の進路へ垂直に立ちはだかるのではなく、刃を受け流す盾のように薄い〈壁〉を斜めへ差し込んだ。


 直後、バルガロスの角が透明な壁へ激突する。


 耳をつんざく破砕音。


 〈壁〉の表面へ白い亀裂が一気に走り、無数の破片となって弾け飛ぶ。


 正面から止めることはできない。


 しかし、止める必要はなかった。


 斜めに置かれた壁の表面を巨大な角が削り、砕きながら滑っていく。


 ほんのわずか。


 指一本分にも満たないほど。


 それでも軌道が外側へずれた。


 本来ならアルセントの肩口を深く抉り、そのまま胸郭まで引き裂いていたはずの角が、外套の肩布を切り裂きながら革鎧の表面を浅く削るだけで通り過ぎる。


「っ!」


 アルセントは風に押されるように身体を捻り、角の下へ肩を潜らせると、避けるために使った回転をそのまま腕へ伝えた。


 鎌の柄尻が再び振り下ろされる。


 二撃目。


 鈍い音とともに封印杭が深く沈み、刻まれていた聖印が眩い白光を放った。


 光の筋がバルガロスの首下を走り、赤く脈打っていた魔力回路へ絡みつく。


 巨獣の喉から怒号とも苦悶ともつかない低い咆哮が迸った。


「二本目!」


 アルセントの声が広場へ響く。


 ほぼ同時に、後方で戦況を見守っていた受験者たちから歓声が上がった。


 誰かが拳を突き上げ、誰かが武器を掲げ、試験であることを忘れたような叫びがバルガロスの咆哮とぶつかり合う。


 とおるはその声を遠くに聞きながら、自分の右手を見た。


 震えていた。


 指先が細かく痙攣し、手首の奥で脈が跳ね、力を入れているつもりなのに完全には止められない。


 恐怖で震えている。


 連続して〈壁〉を展開した疲労でも震えている。


 額を伝う汗が目へ入り、喉は乾き、息を吸うたびに熱い空気が肺の内側を擦っている。


 それでも震えながら〈壁〉を出すことはできていた。


 むしろ震えているからこそ、見えているものがある。


 どこが危ないのか。


 誰が次に傷つくのか。


 何と何がぶつかれば壊れるのか。


 恐怖という感情は邪魔で騒がしく、胃に悪く、集中しようとするたび「死ぬぞ」「危ないぞ」「今すぐ逃げろ」と頭の中で警鐘を乱打し続ける、できることなら購入したその日に返品したい欠陥商品のようなものだった。


 返品窓口があるのなら今すぐ受付へ駆け込み、整理券を引き抜き、多少待たされても構わないから永久に引き取ってほしい。


 しかし同時にその恐怖は、目の前に潜む危険の形を教える警報でもあった。


 ミレイユなら攻撃を恐れず前へ踏み込む。


 アルセントなら風の流れを読み、敵の死角へ回り込む。


 バスティアンなら危険を承知で真正面から受け止める。


 では、自分は何をするのか。


 とおるは怖いから、間を見る。


 敵と味方の間。


 攻撃と回避の間。


 一歩目と二歩目の間。


 誰かの力が尽きる瞬間と、次の誰かが踏み込む瞬間の間。


 何と何が衝突すれば壊れるのか。


 どこへ逃げ道を作れば助かるのか。


 誰の攻撃が、あと一歩だけ届かないのか。


 誰の足元から、次の足場が失われるのか。


 怖いから見てしまう。


 見ないまま前へ出る勇気がないから、必死に見続ける。


 そして見続けるからこそ、他の誰も気づかない小さな隙間が、嫌でも見えてしまう。


「残り一本!」


 バスティアンが声を張り上げた。


 バルガロスの右前脚へ盾を押し当てたまま、汗と煤に汚れた顔で獰猛に笑う。


「最後は前脚の内側だな!」


 とおるは思わず顔をしかめた。


 嫌なことを、祭りの開催でも告げるような元気の良さで言わないでほしい。


 最後に封印杭を打ち込む指定部位は、バルガロスの前脚内側、その分厚い外殻に覆われず、脚を曲げた時にだけ露出する腱の近くだった。


 第一組の試験を見ていた時も、最も危険だった場所である。


 まず、巨獣に前脚を上げさせる。


 次に、その下へ人間が潜り込む。


 脚が再び地面へ落ちるまでの短い間に杭を当て、規定の深さまで打ち込み、踏み潰される前に外へ逃げる。


 文章にすれば、驚くほど簡単である。


 実際に行えば、失敗した瞬間に人間が平たくなる。


 失敗すれば下敷き。


 成功しても怖い。


 成功した後に逃げ損ねても下敷き。


 とおるの脳内では、「推奨しません」「危険です」「別の方法を選択してください」という赤い警告表示が、王都の祭典用魔導灯より派手に点滅していた。


「最後はどうする」


 アルセントが風をまといながら地上へ降り立ち、膝を軽く曲げて着地の衝撃を逃がすと、乱れた呼吸を整えながら二人へ尋ねた。


 額には汗が浮かび、金色の髪が何筋か頬へ張りついている。


 肩の外套は角に裂かれ、その下の革鎧にも浅い傷が走っていた。


 風を自在に操り、空を舞い、戦場でも余裕ある笑みを崩さない貴公子であっても、当然ながら疲れるらしい。


 その事実を目の当たりにし、とおるは少しだけ安心した。


 この場で疲れ、怖がり、息を切らしているのが自分だけではないと思えたからだ。


「俺が前へ出て、奴に脚を上げさせる!」


 バスティアンが即座に答え、盾の縁でバルガロスの前脚を強く叩いた。


「それ、下へ入る人が死にませんか」


 とおるが真顔で尋ねる。


「俺が脚を支える!」


「支えられたとしても、巨大な脚の下へ入りたくないという根本的な問題は残ります」


「押し潰させはせん!」


「その自信は頼もしいんですが、押し潰される側としては、もう少し具体的な保証がほしいです」


「では、私が杭を打とう」


 アルセントが鎌を肩へ担ぎ、封印杭の残り一本へ視線を向けた。


「バスティアンが脚を上げさせ、私が内側へ入る。壁山は退路を作ってくれ」


「アルセントさんも十分危険ですよね」


「危険でない道など、この場には残っていないさ」


 アルセントは息を切らしながらも、どこか芝居がかった微笑を浮かべた。


「名言っぽく言えば、危険な役目を押しつけても許されると思っていませんか」


「少しは」


「認めた」


 三人の前でバルガロスが大きく胸郭を膨らませ、炉の奥で風が渦巻くような荒い呼吸を吐き出した。


 熱を孕んだ息が石床の粉塵を巻き上げ、赤黒い煙となって三人の足元を這う。


 すでに打ち込まれた二本の封印杭は脇腹と首下の魔力回路へ深く食い込み、それぞれから伸びた白い聖印の光が巨獣の体内を走る赤い魔力を絡め取り、流れを鈍らせている。


 動きは明らかに遅くなっていた。


 最初は爆発するように踏み込んでいた前脚も、今では持ち上げる直前にわずかな溜めが生まれ、頭部を振り回す速度も落ちており、全身を覆っていた熱甲状態の輝きも炎が酸素を失ったように幾分弱まっている。


 とはいえ、弱っているから安全になったわけではない。


 巨大な前脚は今も一撃で石床を陥没させるだけの重量を持ち、尾は薙ぎ払うだけで人間を数人まとめて吹き飛ばし、角も牙も健在であり、外殻の隙間から漏れ出す熱は近づくだけで肺を焼こうとする。


 弱った山は、それでも山だ。


 疲れたからといって丘にはならない。


 ましてや人間が気軽に蹴り飛ばせる小石になど、決してならない。


「壁山」


 アルセントが鎌を構え直し、こちらを見た。


「君が作戦を決めてくれ」


「なぜですか」


「君が一番、全体を見ている」


「俺が一番よく見ているのは、全体ではなく帰り道です」


「それも含めて、道を見るのが君の役目だ」


「逃走経路担当から、何の研修も引き継ぎもないまま戦術担当へ昇格させないでください。責任だけ増えて、給与体系がまったく追いついていません」


「聖騎士になれば、正式な給金が出る」


「今この場で、そういう妙に現実的な情報を餌として提示しないでください。心が一瞬だけ揺れた自分にも腹が立ちます」


 冗談めかして言葉を返しながら、とおるは喉の奥へ張りついた熱い息を唾と一緒に無理やり飲み込んだ。


 作戦。


 自分が決める。


 それだけの短い二語が、頭の中で嫌になるほど何度も反響した。


 嫌すぎる。


 今すぐ誰かに「先ほどの指名には手続き上の不備がありました」と訂正してもらいたい。


 責任という目に見えない荷物が肩へ乗った途端、それはバスティアンが両腕で構えている分厚い大盾よりも重く感じられ、しかも盾と違って地面へ置くことも誰かへ一時的に預けることもできず、失敗すれば自分ではなく仲間が傷つくという事実だけが甲冑の隙間へ冷たい針を差し込むように胸を刺した。


 何かを言えば、その判断の結果を背負うことになる。


 何も言わなければこのまま誰かが無理に突っ込み、もっと悪い結果を招くかもしれない。


 どちらも怖い。


 ならば怖くない道を探すのではなく、怖い選択肢の中から最も死者が出にくく、最も怪我人が少なく、自分たちが少しでも生きて戻れる可能性の高い道を選ぶしかない。


 とおるは一度激しく脈打つ胸を押さえるように息を吐き、戦場へ目を走らせた。


 正面には、鼻先から赤い熱霧を噴き出しながら地面を掻くバルガロス。


 その巨体を受け止め続け、すでに両腕を震わせているバスティアン。


 右手には鎌を構え、風をまとわせながら次の隙を待つアルセント。


 背後には退路。


 足元には砕けた石床。


 そして、自分には三枚の〈壁〉がある。


 足りないものを数えればきりがない。


 なら、今あるものだけで組み立てるしかなかった。


「……バスティアンさんが正面で受けるところまでは、今までと同じです。ただし、真正面から押し返そうとしないでください」


「押さえ込まんのか?」


「押し返そうとすると、向こうも踏ん張ります。だから受け止めた勢いを殺さず、わざとほんの少しだけ左へ流してください。倒す必要はありません。重心がずれて、右側が浮けば十分です」


 とおるはバルガロスの脚運びを目で追いながら、頭の中に見えない線を引く。


「アルセントさんは、右上から風を当ててください。顔ではなく、右前脚の内側へ。脚を吹き飛ばすほど強くなくていいです。あいつが嫌がって、自分から脚を上げたくなる程度で」


「なるほど。力で持ち上げるのではなく、動かしたくなる方向へ誘うわけだね」


「はい。力比べをしたら負けるので、本人に動いてもらいます」


「聞き方によっては、ずいぶん性格の悪い戦い方だ」


「真正面から立派に戦える身体がないので、性格で補っています」


「自覚はあるんだね」


「最近、周囲から教えられました」


 とおるは乾いた唇を舐め、続ける。


「俺は二人が作った隙へ合わせて足元に〈壁〉を置きます。接近用に二枚、退避用に一枚。脚が上がって脇腹が開いた瞬間だけ、中へ入ります」


 そこまで言って、とおるは一度口を閉じた。


 最後の役割だけが、喉につかえて出てこない。


 言ってしまえば後戻りできなくなる気がした。


 しかし誰かがその役目を担わなければ、作戦そのものが成立しない。


 バスティアンは正面で巨体を支えなければならない。


 アルセントは右上から風を当て、脚を誘導し続けなければならない。


 封印杭を打ち込むために最も近い位置へ、自分で足場を作れるのは誰か。


 答えは、考えるまでもなかった。


「杭は誰が打つ?」


 アルセントが静かに問う。


 聞かないでほしかった。


 できれば、今の説明だけで誰か別の勇敢な人物が自然に名乗り出てほしかった。


 とおるは一瞬だけ目を閉じ、それから自分の口が自分の意思とは別に動いたのではないかと思うほど小さな声で答えた。


「……俺が打ちます」


 言った直後、自分の耳を疑った。


 今、誰がそんな無謀なことを口にしたのか。


 壁山とおる本人である。


 頭の中では縮小された無数のとおるたちが一斉に机を叩き、「発言の撤回を要求します!」「審議が不十分です!」「本人の同意を得ていません!」と騒ぎ立てている。


 撤回したい。


 今すぐしたい。


 できることなら、「正確には、俺が壁を置くので、杭は誰か別の人が打ちます」と訂正し、会議をやり直したい。


 しかし状況は変わらない。


 バスティアンは前を支える。


 アルセントは脚を動かす。


 杭を打つ位置まで最短で到達できる足場を作れるのは、自分だ。


 近づきたくないと誰よりも願っている人間が最も近づかなければならない理由を、よりにもよって自分自身で見つけてしまった。


 最悪の自己説得だった。


「できるのかい?」


 アルセントの声には、普段の軽いからかいも試すような響きもなかった。


 ただ、共に命を預ける者として本当に実行する覚悟があるのかを確かめる真剣さだけがあった。


 とおるはその視線を受け止めようとして半分ほどで諦め、バルガロスのほうを見たまま答える。


「できるかどうかで言えば、できればやりたくありません。でも、今のところ他にましな方法がなさそうなので、やります」


 一度、息を吸う。


「ですから、終わったら必ず褒めてください。できれば安全な場所で、椅子に座らせて、熱くない飲み物も用意したうえで、かなり具体的に褒めてください」


「約束しよう」


「肉も食おう!」


 正面で盾を構えたまま、バスティアンが豪快に笑った。


「肉は今、目の前の魔物を連想するので、少し遠慮したいです」


「なら芋だ!」


「芋は好きです」


「よし、終わったら山ほど食え!」


「その約束だけは、絶対に忘れないでください」


 戦場の只中とは思えないほど妙な会話だった。


 しかしそのくだらなさが、かえって胸の奥で暴れていた恐怖を少しだけ小さくした。


 人間の精神というものは不思議で、国を守るだとか仲間のためだとか、生きて帰るのだとか、そうした立派で英雄的な言葉よりも戦いが終わった後に食べる温かい芋の約束のほうが、あと一歩を踏み出す理由になることがあるらしい。


 少なくとも壁山とおるという人間にとっては、十分だった。


 少し離れた位置で戦況を見ていたガロンが、口にくわえた煙管をわずかに持ち上げる。


 その眼差しには口出しする気配も、助け舟を出す様子もない。


 試験官として、ただ彼らが何を選び、どう動くのかを見届けている。


「決まったか」


「決まりましたけど、できれば決めたくありませんでした」


「なら動け」


 返ってきたのは慰めでも激励でもなく、短く切り捨てるような命令だった。


 直後、ガロンが指先で黒鉄笛をつまみ、鋭く吹き鳴らす。


 ピィッ、と短く高い音が、熱気に満ちた広場を一直線に貫いた。


 それが合図だった。


 最後の攻防が始まる。


「行くぞおおおっ!」


 最初に飛び出したのはバスティアンだった。


 巨体に似合わぬ鋭い踏み込みで正面へ駆け、砕けた床石を蹴散らしながらバルガロスとの距離を詰めると、全身を覆う魔力を再び大地へつなぐように巡らせる。


「〈巌衝〉!」


 低い咆哮と同時に彼の足元から鈍い光が広がった。


 大地へ根を下ろしたかのように姿勢が沈み、両腕で構えた大盾の表面を岩肌に似た魔力の層が覆っていく。


 バスティアンは盾を普段より低く構え、バルガロスの頭部を真正面から止めるのではなく鼻先から胸元にかけて受け止められる角度へ身体を滑り込ませた。


 それを見たバルガロスが、挑発へ応じるように咆哮する。


 熱を含んだ息が爆風となって吐き出され、バスティアンの外套が激しくはためいた。


 次の瞬間、巨獣の頭部が岩塊のような勢いで振り下ろされる。


「来いっ!」


 衝突。


 広場そのものが打ち鳴らされたような轟音が響き、大盾の縁から火花が弾け、バスティアンの両脚が床を削りながら後方へ押し込まれた。


 一歩。


 二歩。


 靴底の下で石が砕け、膝が沈む。


 それでも彼は倒れない。


 正面から押し返そうともせず、盾の角度をわずかに変え、身体を左へひねりながら受け止めた力を自分の脇へ逃がしていく。


「ぬ……おおおおおっ!」


 バルガロスの巨体が、ほんのわずかに左へ流れた。


「今だ、アルセントさん!」


「任された!」


 アルセントはすでに右側へ回り込んでいた。


 鎌を頭上で大きく旋回させるたび、湾曲した刃の周囲へ淡い翠色の風が幾重にも絡みつき、乾いた石片や熱霧を巻き上げながら次第に太い渦を形作っていく。


「〈翠嵐〉!」


 振り下ろされた鎌の軌道から、圧縮された風が解き放たれた。


 それは刃となって外殻を斬るための風ではない。


 バルガロスの右前脚、その関節の内側へ潜り込むように吹きつけ、皮膚と外殻の隙間を逆撫でする鋭く不快な風圧だった。


 熱霧が一気に巻き上げられる。


 赤黒い靄が柱となって空へ昇り、隠れていた脚の輪郭が露わになる。


 風は視界を奪うためではなかった。


 むしろ逆。


 熱を逃がして脚の内側に冷たい圧力を叩き込み、本能的な不快感を与え、そこから足を離したくなる状況を作るためのものだった。


「おおおおッ!」


 バスティアンの構えた大盾が突進してきたバルガロスの胸部へ真正面から激突し、鐘楼を丸ごと殴りつけたような重い轟音とともに盾の表面を覆う強化術式が白く弾けた。


「ぬおおおおっ!」


 今度のバスティアンは、その途方もない衝撃を正面から力任せに止めようとはしなかった。


 膝を深く沈めて右肩を盾の中央へ押しつけたまま腰をひねる。押し寄せてくる圧力を自分の身体の左後方へ滑らせるように受け流すと、石床を削りながら二歩、三歩と斜めに後退し、その動きに引かれるようにしてバルガロスの上体がほんのわずかに左へ傾いた。


 それは、遠目には揺れたとさえ分からないほど小さな偏りだった。


 しかし巨体であるからこそ、そのわずかな重心のずれが四肢へ伝わり、踏み込もうとした右前脚の動きを一瞬だけ鈍らせる。


 バルガロスが怒りに濁った咆哮を上げ、崩れた体勢を力ずくで戻そうと右前脚を踏み出した、その瞬間。


「そこだ!」


 上空を旋回していたアルセントが鎌を振り抜いた。


 刃先から放たれた風は幅広い斬撃ではなく、針のように細く絞り込まれた一条の奔流となって、バルガロスの右前脚、その内側に重なる外殻の継ぎ目へ正確に突き刺さった。


 鋭い風圧が、熱せられた甲殻の隙間へ潜り込む。


 内部に満ちていた火霊素が一瞬だけ吹き乱され、外殻の隙間から赤い火花と黒煙が噴き出した。


 バルガロスが嫌悪するように喉を震わせ、右前脚を反射的に持ち上げる。


「今!」


 アルセントの叫びが熱気と咆哮を切り裂いて届いた。


 とおるは走った。


 走りたくないという本能も、あれに近づく人間は生物として何かを間違えているという理性も、落ちてきた脚に潰された場合の事故報告書がどれほど簡潔になるかという余計な想像も、すべてを頭の後ろへ押し込み、封印杭を握った右手を胸元へ引きつけたまま砕けた床を蹴る。


 ——ボッ


 バルガロスの持ち上がった前脚が落とす巨大な影、その縁へ向かう床の上へ透明な〈壁〉を低く展開する。


 空気が震え、薄い光の膜が瞬く。


 とおるは速度を落とさず、その上へ右足を叩きつけた。


 硬い。


 足場は保っている。


 着地を確認するより先に蹴り出す。


「二枚目!」


 次に出した〈壁〉は持ち上がった前脚の真下ではなかった。


 そこへ置けば、脚が落ちてきた瞬間に足場ごと真上から押し潰される。


 だからとおるは落下軌道の中心から半歩だけ外側へずらし、さらに表面を斜めに傾けて配置した。


 万が一脚が予定より早く落ちてきたとしても、その衝撃を正面から受けずに横方向へ身体を弾き出せる角度。


 理論として正しいかどうかは分からない。


 ゾロに見せれば、後で十個ほど修正点を指摘されるかもしれない。


 しかし今は十秒後に生きていなければ反省会へ参加することすらできない。


 とおるは一枚目の端を蹴り、二枚目へ飛び移った。


 靴底が透明な斜面へ触れた瞬間、身体が狙いどおり前方ではなくわずかに外側へ流れる。


 バルガロスの脇へ潜り込む軌道が開いた。


「三枚目!」


 最後の一枚は、帰るための道だった。


 封印杭を打ち込んだ後、バスティアンの大盾の陰へ滑り込むための退路。


 盾の右端からこちらへ伸びるように、急な角度をつけた透明な〈壁〉を斜めに展開する。


 それを置いた瞬間、とおるの頭の中に戦場を走る複数の線が鮮明に浮かび上がった。


 バルガロスの右前脚が落下する線。


 アルセントの風が横から叩き込まれる線。


 バスティアンが大盾で胸部を押し、巨体を左へ流そうとする線。


 そして自分が二枚の〈壁〉を駆け抜け、前脚の内側へ潜り込む線。


 四本の動線が重なり合い、針の穴ほど狭い一点へ収束する。


 右前脚の内側。


 外殻の隙間から覗く、赤黒く脈打つ腱。


 狙うべき場所は、そこしかない。


「間に合え……!」


 とおるは二枚目の〈壁〉を蹴り、崩れた床へ身を投げ出すようにして滑り込むと、片膝をつき、丸盾を捨てずに左腕へ通したまま右手に握った封印杭の先端を露出した腱の脇へ押し当てた。


 触れた瞬間、熱が手袋を貫いた。


「っ!」


 焼けた鉄へ手を押しつけたような痛みが、掌から肘まで一気に駆け上がる。


 鼻を刺す焦げ臭さがした。


 手袋が焼けたのか。


 周囲の床石が焦げているのか。


 それとも恐怖に耐えきれなくなった自分の精神が、ついに煙を出し始めたのか。


 考えるな。


 今は考えるな。


 杭を当てる。


 押し込む。


 左腕の丸盾を振り上げ、その厚い縁を槌代わりに叩きつける。


「一度目!」


 鈍い衝撃が腕へ返った。


 封印杭の先端が外殻の縁を削り、わずかに食い込む。


 浅い。


 まだ固定されていない。


 バルガロスの右前脚が痙攣するように大きく揺れ、頭上で甲殻同士がぶつかり合う不気味な音が鳴った。


「二度目!」


 とおるは歯を食いしばり、もう一度盾の縁を杭の頭へ叩き込んだ。


 今度は杭が一段深く沈み、刻まれていた聖印が弱々しく明滅する。


 白い光。


 だが、まだ足りない。


 術式は起動しかけているだけで、腱を拘束するほど深くは刺さっていない。


 その時、頭上の気配が変わった。


 光が消えたのではない。


 巨大な何かが、光そのものを覆った。


 バルガロスの右前脚が落ち始めていた。


「速い!」


 アルセントの鋭い声と同時に、横殴りの暴風が前脚の外側へ叩きつけられる。


 赤熱した甲殻の表面を風が削り、火花が尾を引いて散った。


「まだだあああっ!」


 バスティアンも大盾を胸部へ押し込み、巨体の上半身を左へずらすことで前脚の落下地点を外側へ逸らそうとする。


 二人の力が同時に作用し、確かに軌道はずれた。


 しかし、遅い。


 ほんの少し、足りない。


 バルガロスの前脚は人間の身体よりはるかに太く、重く、その内部には岩盤と火炉を一つに固めたような質量が詰まっている。


 山の脚は、たとえ傾いても山の脚だった。


 それが今、とおるの頭上へ落ちてくる。


 影が覆い被さった。


 轟々と風が鳴る。


 熱気に満ちた空気が落下する質量に押し潰され、四方へ逃げ場を求めて噴き出す。


 とおるの髪が乱れ、服の裾が床へ張りついた。


 怖い。


 怖いなどという言葉では足りなかった。


 これまでの人生で感じた恐怖、夜道で背後から足音を聞いた時の恐怖、試験用紙を裏返して一問も分からなかった時の恐怖、異世界へ落とされ、得体の知れない魔物と初めて向き合った時の恐怖、そのすべてを一つの圧縮ファイルへ乱暴にまとめ、解凍すらせず頭蓋骨の内側へ投げつけられたような、情報量だけが異常に大きい純粋な恐怖だった。


 逃げたい。


 身体が叫ぶ。


 けれど退路の〈壁〉へ飛び移るには遅すぎる。


 立ち上がる暇もない。


 脚と自分の間へ普通の〈壁〉を出しても間に合わない。


 仮に間に合ったとしても、あれほどの質量を真上から受ければ、〈壁〉ごと押し潰されるか、反動で自分が床へ叩きつけられる。


 止めるのではない。


 落下する脚そのものを受けるのではない。


 必要なのは。


 脚が落ちるという結果と、自分が潰れるという結果。


 その二つの間へ、境界を置くこと。


 言葉にしたところで、自分でも意味は分からなかった。


 因果を切るのか。


 空間をずらすのか。


 結果だけを拒絶するのか。


 そんな高度なことが自分にできるはずもない。


 けれどとおるの記憶の奥に、ひどく不快で、忘れようとしても忘れられない手応えが残っていた。


 リディアを〈壁〉へ埋め込んでしまった、あの瞬間。


 剣と身体と壁と空間、その本来なら交わらないはずの隙間へ、何か別のものが勝手に差し込まれ、位置と結果のつながりが一瞬だけ狂った、あの感覚。


 あれを意識して起こしたことはない。


 むしろ、二度と起こしたくないと思っていた。


 それでも今は、その嫌な感触へ手を伸ばすしかなかった。


 落ちてくる前脚を見る。


 自分の肩が潰れる未来を思う。


 その未来へ、頭の中で一本の線を引く。


 ここから先は進ませない。


 ここから先は、自分へつなげない。


 通行止め。


「来る、な……!」


 とおるの魔力が、掌の内側でぎしりと軋んだ。


 骨と骨の間へ無理やり鉄片を差し込まれたような、不快な圧迫感。


 視界の縁に細い亀裂のような光が走る。


 だが、いつもの透明な〈壁〉は現れなかった。


 目に見える板も、光の面も、空気を弾く音もない。


 代わりに落下していたバルガロスの前脚が、ほんの半拍だけ、本来の軌道から外れた。


 ごくわずか。


 人一人の肩幅にも満たないずれ。


 誰かが遠くから見ていれば、それはアルセントの風が押し切ったように見えただろう。


 あるいはバスティアンの大盾が巨体を傾け、その結果として脚の位置が逸れたように見えたかもしれない。


 実際、それも間違いではない。


 アルセントの風がなければ軌道は動かなかった。


 バスティアンが押し込んでいなければ、重心は傾かなかった。


 二人の力がなければ、そもそも生まれなかった隙間である。


 とおるがしたのは、二人が必死にこじ開けたわずかな〈間〉へ、紙よりも薄い境界を最後に一枚差し込んだだけだった。


 バルガロスの前脚が、とおるの右肩をかすめる。


 外殻の尖った縁が肩当てを削り、金属片と火花が飛び散った。


 直後、前脚が石床へ落ちた。


 轟音。


 世界そのものが足元から跳ね上がった。


 石床が爆ぜ、拳大の破片が弾丸のように飛び、衝撃波がとおるの身体を横から殴りつける。


「がっ……!」


 身体が浮いた。


 膝と肩が床を離れ、次の瞬間には瓦礫の上へ叩き戻される。


 耳の奥で甲高い音が鳴り続け、周囲の咆哮も怒鳴り声も、水中で聞いているように遠ざかった。


 視界が白く染まる。


 胃の中身がひっくり返り、肺から空気が全部抜けた。


 それでも。


 右手だけは、封印杭から離さなかった。


 指先の感覚はもう曖昧だった。


 熱いのか痛いのか、それすら判別できない。


 けれど杭はまだそこにある。


 聖印は明滅している。


 あと一度。


 あと一度、深く打ち込めばいい。


「三度目ぇぇぇっ!」


 叫び声とも、悲鳴とも、恐怖をごまかすための絶叫ともつかない声を張り上げ、とおるは左腕の丸盾を大きく振りかぶった。


 肩が軋む。


 肘が悲鳴を上げる。


 構うものか。


 盾の縁を、封印杭の頭へ叩きつける。


 金属同士が激しく噛み合い、甲高い音が鳴った。


 封印杭が腱の脇へ深々と沈み込む。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、杭に刻まれていた聖印が赤白い光を爆発させた。


 光は一本の杭だけでは終わらない。


 すでに脇腹へ打ち込まれていた一本。


 首下へ固定されていた一本。


 そして今、前脚へ沈んだ三本目。


 三つの聖印が互いへ応答するように同時に発光し、そこから幾筋もの抑制術式が光の鎖となってバルガロスの全身へ走った。


 脇腹から首下へ。


 首下から前脚へ。


 前脚から再び脇腹へ。


 三点を結ぶ巨大な術式環が獣の胴体を包み込み、赤熱していた外殻が、呼吸を乱した心臓のように激しく明滅する。


『グオオオオオオオオオオッ!』


 バルガロスが空間を揺らすほどの咆哮を上げた。


 四肢を床へ突き立て、力ずくで術式を引き千切ろうとする。


 聖印から伸びた白い鎖の上へ、今度は墨を流したような黒い術式紋が浮かび上がり、獣の関節、外殻の隙間、角の根元へ幾重にも絡みついていく。


 前脚が震える。


 胸部が沈む。


 体内を巡っていた火霊素の光が外殻の下で一つ、また一つと途切れていく。


 バルガロスはなおも立とうとした。


 しかし三本の封印杭が結んだ抑制鎖は、その巨大な力が立ち上がるより早く全身を大地へ縫いつけるように強く締まり始めていた。


「そこまで!」


 ガロンが口元へ運んだ黒鉄笛を強く吹き鳴らした瞬間、腹の底を揺さぶるような重低音が試験広場いっぱいに広がった。空気そのものが目に見えない槌で叩かれたかのように震え、その振動は砕けた白石の床や焦げた鎧を伝いながら、戦いの最中に感覚を失いかけていたとおるの骨の奥深くまで容赦なく染み込んできた。


 低く、長く、抗いがたい制止の音。


 その音へ反応して、三本の封印杭を打ち込まれたバルガロスの全身を覆う外殻の隙間に鈍い金色の聖印が次々と走り、今まさに前脚を振り下ろそうとしていた巨獣の動きが巨大な彫像へ変わったようにぴたりと止まった。


 止まった。


 ようやく。


 本当に、ようやく止まった。


 とおるはバルガロスの前脚のすぐ脇、あと少し位置がずれていれば人間だったものを床へ薄く伸ばした跡が残っていたであろう場所へ尻もちをついたまま、しばらく指一本動かすことができなかった。


 丸盾は半ば手から滑り落ち、封印杭を握っていた右手は自分のものではないように痺れていた。呼吸をするたび熱で傷んだ喉がひりつき、鼓動は胸郭を内側から蹴破ろうとするほど激しく暴れている。


 バルガロスの鼻孔から吐き出された熱い息が、ごう、と風音を伴ってとおるの頭上を通り過ぎた。


 熱気に髪が煽られる。


 焦げた獣臭と土煙と自分の鎧から上がる薄い煙の臭いが混じり合い、鼻の奥へまとわりついた。


 近い。


 あまりにも近い。


 前の世界では、動物園の大型獣を分厚い硝子や頑丈な柵の向こうから眺めるだけでも十分に迫力を感じていたというのに、今のとおるは柵の内側どころか獣舎へ侵入し、猛獣の足元へ座り込み、そのうえ相手の脚へ杭まで打ち込んでいる。


 距離感が完全に終わっていた。


「壁山!」


 少し離れた場所から、バスティアンの野太い声が飛んだ。


 巨獣の脚を押さえ続けていた反動で膝をついていた彼はとおるの姿を確認するなり立ち上がり、床を蹴って駆け寄ろうとしたものの、その一歩目へ重なるようにガロンの鋭い声が飛ぶ。


「まだ動くな!」


 命令の響きに、バスティアンの身体が強引に停止する。


「だが、壁山が!」


「制止術式が完全に回るまで近づくな。封印直後の魔力逆流を食らいたくなけりゃ、その場で待て」


「む……!」


 バスティアンは拳を握り、今にも飛び出しそうな姿勢のまま、それでも試験官の指示に従って足を止めた。


 その間にもバルガロスの外殻を走る聖印は根から枝へ光が広がるように増え、脇腹、肩、首筋へと伸びながら、荒れ狂っていた魔力の流れを少しずつ押さえ込んでいく。


「生きてるかい」


 今度は、頭上からアルセントの声が降ってきた。


 風圧層を足場にしていた彼はまだ空中へ浮かんだまま鎌を構え、巨獣が再び暴れ出した場合に備えている。


 とおるは床へ座り込んだ姿勢のまま、返事の代わりに左手を持ち上げた。


 腕が震え、掲げた指先が頼りなく揺れる。


「生きてはいます」


 声を出すと、自分でも驚くほど掠れていた。


「ただ、これまでの生き方については、全面的に見直したいです」


「話せるなら大丈夫そうだな」


「その判断基準、かなり雑では?」


「死にかけても口が回るのは長所だよ」


「死にかけた人間への褒め言葉として正しいんでしょうか、それ」


 アルセントが軽く笑い、風をまといながらゆっくりと高度を下げる。


 とおるはようやく大きく息を吐いたが、肺の中に残っていた熱い空気が喉を通ったせいで激しく咳き込み、腹部へ響いた痛みに顔をしかめた。


「悪くなかったぞ」


 砕けた石を踏む、重い足音が近づいてきた。


 ガロンである。


 彼は片手に黒鉄笛を持ち、もう一方の手では火の消えかけた煙管を咥え直しながら、まずバルガロスの肩へ打ち込まれた杭へ近づいた。


 薄く目を細め、杭へ刻まれた聖印の輝き、外殻の亀裂から漏れる魔力の色、巨獣の筋肉の緊張、足元へ走る術式の広がりを一つずつ確かめていく。


 次に脇腹。


 最後に前脚。


 三本すべてを確認し終えると、彼は煙管の先で杭を軽く叩き、耳を澄ませるように目を閉じた。


 低い共鳴音が返る。


「三本とも有効だ。魔力回路の主要な流れは止まってる。封印状態も安定。時間は第一組より少し余裕あり。役割分担も途中からは形になってた」


 ガロンはバルガロスから視線を外し、三人を順番に見渡した。


「風で視線と呼吸を流して土で脚と重心を留め、壁で進路と力の線を引いた。初回にしちゃ悪くねえ」


 褒められている。


 たぶん。


 おそらく。


 ガロンの褒め言葉は細やかに味を調えた菓子ではなく、鉱山から掘り出されたばかりの岩塩の塊に近く、受け取った側が自力で砕き、削り、適切な量を判断しなければとても素直に味わうことができない。


「ありがとうございます」


 とおるは床へ座ったまま頭を下げようとしたが、重心を前へ動かした途端に身体中が痛み、結果として具合の悪い人間が嘔吐を堪えているような中途半端な姿勢になった。


「ちなみに、試験後の休憩時間はどれくらい――」


「講評が先だ」


「でしょうね。知っていました」


 わずかに見えかけた希望が、ガロンの一言で土へ埋め戻される。


「良い話だけ聞かせて気持ちよく解放してくれるほど、世の中は優しくありませんよね。サブスクリプションの無料期間が終了した途端、こちらの同意が曖昧なまま料金を請求してくるようなものです」


「何の話だ」


「俺の世界に存在した、便利さと引き換えに人間の解約意欲を試してくる悪しき契約形態です」


「戦闘と関係ねえな」


「ほとんどありません」


「なら黙って聞け」


「はい」


 ガロンはとおるの説明を理解する努力そのものを放棄したらしく三人の前へ立つと、煙管を口から外しながら横を向いて白い煙を細く吐き出した。


 煙は熱の残る空気へ溶け、陽炎の中でゆっくり形を崩していく。


「アルセント」


「はい」


 アルセントは鎌を背へ回し、笑みを消して姿勢を正した。


「機動力と誘導は高評価だ。空中での位置取り、風刃を使って視線を上へ引く判断、呼吸の直前に鼻先へ風を当てて炎の向きを逸らしたのもいい。攻撃を当てるより、敵の意識と動作を動かすことを優先できてた」


「ありがとうございます」


「ただしお前は自分の流れへ周囲を乗せるのが上手い反面、味方がその流れへ乗れない可能性への配慮が薄い」


 アルセントの表情から、爽やかな余裕が少し消えた。


「最初に足場を指定した場面だ。壁山が一拍遅れていたら、お前は次の誘導へ移り、こいつは置き去りになってた。自分が見えてる道を全員も見えてると思うな」


「……はい。肝に銘じます」


 アルセントは言い訳をせず、素直に頭を下げた。


 その態度を見て、ガロンは短く頷く。


「速い奴ほど遅い奴の位置を忘れる。速さは武器だが、隊列を切る刃にもなる。覚えとけ」


「はい」


「次。バスティアン」


「おう!」


 名前を呼ばれたバスティアンは、講評を受けるというより新しい訓練へ参加するかのように胸を張った。


「受けの強さは文句ねえ。正面からあれの脚を止めたのは、お前の体格と大地接続があってこそだ。力の逃がし方も前より良くなってる」


「おう!」


「だが、足元を崩された途端、粘りが落ちた」


「む」


「大地へ力を通せるのは長所だが、接地面が安定していることへ頼りすぎてる。今回みたいに壁山が足場を補ってくれるとは限らねえし、そもそも敵が地面ごと砕いてくる場合もある。自分で足場を固めるか、不安定な場所でも受けられる姿勢を覚えろ」


「分かった! もっと踏む!」


「踏むだけじゃなく考えろ」


「分かった! 考えて踏む!」


「順番が逆になるなよ」


「踏む前に考える!」


「まあ、それならいい」


 何がどこまで通じたのか少し不安ではあるが、ガロンはそれ以上追及しなかった。


 そして最後に、とおるへ視線を向ける。


 来た。


 その瞬間、とおるの胃が、外から拳で握られたようにきゅっと縮んだ。


 戦闘は終わったはずなのに、試験官と目が合っただけで別種の危機が始まる。


「壁山」


「はい」


「最初は固まってたな」


「はい」


「びっくりするくらい固まってた」


「はい。自覚があります」


「魔物が突進してるのに、丸盾を抱えたまま目だけ動かしてたから、誰かが広場へ置物を運び込んだのかと思った」


「そこまで言います?」


「試験だからな」


「試験なら受験者の心を折っていいという規定があるんですか」


「折れたら拾え」


「自力修復なんですね」


 逃げたい。


 できることなら講評からも逃げたい。


 とおるが心の中で膝から崩れ落ち、自分の評価欄へ「初動、置物」と記される未来を想像していると、ガロンは煙管を肩へ担ぐように持ち替えた。


「ただし、途中からはよく見てた」


 予想していなかった言葉に、とおるは瞬きをする。


「敵だけじゃねえ。床の割れ方、熱の流れ、仲間の足、攻撃の向き、自分が次に逃げる場所まで見てた。壁をただの盾として使わず、足場、楔、衝撃を逃がす斜面、味方の接地補助、敵の攻撃軌道を曲げる板として使った判断もいい」


 ガロンは足元へ残る透明な光の痕跡へ目をやる。


「攻撃を受け止める壁だけなら、珍しいが単純だ。だが、お前は壁で戦場そのものを組み替えようとした。そこは評価する」


「ありがとうございます」


 今度こそ、褒められている。


 おそらく間違いなく。


 とおるの胸へ、安堵に似たものが広がりかけた。


「最後のは――妙だったがな」


 広がりかけた安堵が、一瞬で元の場所へ引っ込んだ。


 ガロンの目が鋭く細められる。


 その視線はとおるの身体ではなく、その奥にある何かを測ろうとしているようだった。


「前脚が落ちる軌道が半拍ずれた」


 彼はバルガロスの止まった前脚を見上げ、煙管の先で落下軌道をなぞる。


「風の干渉と土の抵抗だけじゃ説明しきれねえ。壁に当たって逸れたわけでもない。脚が落ちる直前、結果だけが横へずれたように見えた」


 とおるの背中へ、戦闘中とは別の冷たい汗が流れた。


「お前、何をした」


「ええと……」


 正直に説明しようとすればするほど、説明が意味不明になる。


 とおるは頭の中で言葉を探し、しかし適切な表現がどこにも見つからず、最終的に見つけたものをそのまま差し出した。


「自分が潰される結果と、潰されずに済む結果の間へ、壁を置こうとしました」


 沈黙。


 ガロンの眉間へ深い皺が寄る。


「意味が分からん」


「俺もです」


「お前が分からねえのか」


「説明できるくらい理解していたら、俺ももう少し安心して自分の能力を使っています」


「正直だな」


「嘘をついても、もっと意味不明になるだけなので」


 ガロンは何も言わず、とおるを見つめ続けた。


 巨獣の唸りも受験者たちのざわめきも、遠くへ引いたように感じられる。


 やがて彼は大きなため息を吐き、面倒な書類を押しつけられた役人のように頭を乱暴に掻いた。


「まあいい。現時点じゃ、制御できてるとは言いがてえ」


「はい」


「試験上は加点と注意、両方だ。状況を変えた判断力は評価する。再現性がなく、仕組みを本人も理解してねえ点は危険視する。次に同じことをやって必ず成功すると思うな」


「思っていません。むしろ、二度とやりたくないです」


「それでも必要になりゃ、やる顔をしてる」


「そんな勇敢そうな顔をしています?」


「勇敢じゃねえ。追い詰められると自分の安全を計算から外す奴の顔だ」


 ガロンの声から、わずかに冗談が消えた。


「仲間を生かす壁としては見込みがある。だが自分ごと危険へ突っ込む癖を放っておけば、お前はいつか死ぬ」


 その言葉は短く、重かった。


「守る側が毎回死にかけてたら、守られる側まで動けなくなる。仲間を助けることと、自分を捨てることを同じにするな。覚えとけ」


「……はい」


「返事だけは素直だな」


「今回は普通に怖い話だったので」


「怖がれるなら、まだましだ」


 とおるは小さく息を吐いた。


「一応、突っ込んだのは状況が状況だったのであって、俺としても積極的に巨大魔物の足元へ入りたい趣味があるわけでは――」


「言い訳は聞くが、採点は変わらん」


「厳しい」


 ガロンは口の端をほんの少し持ち上げた。


「聖騎士試験だからな」


 その言葉を今日何度聞いたか、とおるにはもう分からない。


 試験だから。


 その便利な一言さえあれば、早朝の集合も命懸けの実技も、休憩前の長い講評も受験者の精神を削る指摘も、すべて正当な訓練として包み込むことができる。


 異世界の教育現場における万能梱包材なのかもしれない。


 三人が制止障壁の外へ戻ると、観察区域で待っていた受験者たちから抑えきれないどよめきと歓声が上がった。


 バスティアンは戻るなり数人の受験者から肩や背を叩かれ、そのたびに焦げた鎧から粉塵を撒き散らしながら豪快に笑い、アルセントは周囲から寄せられる称賛へ慣れた様子で応じつつもガロンの指摘を反芻しているのか、ときおり真剣な顔で空中の足場配置を指先に描いていた。


 一方、とおるを待っていたのはカナデの青ざめた顔だった。


「大丈夫ですか、壁山さん」


 彼女は駆け寄り、とおるの焦げた髪、煤で汚れた頬、ひび割れた丸盾、熱で変色した袖を上から下まで確認する。


「最後、ほとんど踏まれていましたよ」


「“ほとんど踏まれる”という言葉を人生で初めて聞きました」


「だって本当に、あと少しで……」


 思い出したのか、カナデの顔からさらに血の気が引く。


「大丈夫です。踏まれていません。つまり結果として俺は平面になっていません」


「安心させる言い方ではありません」


「俺も言ってから気づきました」


 カナデは困ったように眉を下げたが、やがて小さく息を吐くと胸の前で両手を握った。


「でも、本当にすごかったです。怖かったはずなのに、最後まで杭を離さなくて」


「怖かったので、その辺りの記憶は一部だけ消したいです」


「消さないほうがいい」


 横から、感情の薄い声が割り込んだ。


 ネロである。


 黒蓮の推薦枠として参加している彼は、とおるの負傷を心配するというより珍しい術式現象を目撃した研究者のような目でこちらを見ていた。


「あの最後の壁は面白かった」


「黒蓮推薦枠の人に“面白い”と言われると、採血や解剖の前段階みたいで怖いんですが」


「観察するだけだよ」


「“だけ”の範囲が、人によって違いすぎるんですよ」


「触らない」


「その言い方だと、許可が出れば触る予定があったみたいに聞こえます」


「興味はある」


「正直ですね」


「君もさっき褒められていた」


「その事実と今の不安は両立します」


 そこへ、硬質な靴音を立ててミレイユが近づいてきた。


 彼女は腕を組み、とおるの前で足を止める。


 第一組での戦闘によって制服の袖は広い範囲が焦げ、肩鎧には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、頬にも薄い擦り傷が残っている。


 姿勢こそ普段と変わらず真っ直ぐだったが、呼吸はわずかに浅く、鎧の隙間から覗く指先にも疲労が滲んでいた。


 相当な無理をしたのだろう。


 ミレイユはしばらく何も言わず、とおるの顔から足元までを確かめ、それから視線をほんの少し横へ逸らした。


「……最後の判断は、悪くなかった」


 とおるは目を見開いた。


「今、褒めました?」


「悪くなかったと言っただけだ」


「リディアさんに報告しても?」


「なぜ隊長へ報告する必要がある」


「ミレイユさんから褒められた記念日として、正式な記録へ残したいので」


「調子に乗るな」


「はい」


 短い幸せだった。


 発生から消滅まで、おそらく五秒もない。


 アルセントが喉を鳴らして笑い、バスティアンが「壁山はすごいな!」と広場の反対側まで届きそうな声量で叫んだため、周囲にいた受験者たちが一斉にこちらへ視線を向けた。


 とおるは反射的に肩をすぼめる。


 やめてほしい。


 本当にやめてほしい。


 目立ちたくない。


 巨大魔物の足元から辛うじて生還した直後に大勢からの注目まで浴びせられるのは、肉体への攻撃が終わった後に行われる精神への追撃だった。


「声を小さくしてください」


「なぜだ! 立派だったぞ!」


「立派だった事実は、静かに胸の内へしまっておいてください」


「皆にも伝えたほうがいい!」


「伝えなくていいです!」


「遠慮するな!」


「遠慮ではなく切実な願いです!」


 とおるが必死に声量を抑えようとしている間に、ガロンは試験用の指示板を元の位置へ戻し、補助員たちへ手を振って合図を送った。


 制止障壁の向こうでは、厚手の防護装備を身につけた補助員が数人がかりで誘導鎖をバルガロスの角と首へつなぎ、封印杭の抑制を維持したまま巨獣を魔物房へ戻す準備を進めている。


 魔力を封じられたバルガロスは地響きを起こしながらゆっくり向きを変え、不満を隠そうともせず大きく鼻を鳴らした。


 その鼻息だけで、床の砂埃が扇状に吹き飛ぶ。


 とおるが何気なくそちらを見た瞬間、バルガロスも首をわずかに回した。


 赤い瞳と目が合う。


 ほんの一瞬だった。


 それでもとおるは身体を固くし、反射的にぺこりと小さく頭を下げた。


 なぜ謝ったのかは分からない。


 杭を三本打ち込んだことに対する謝罪なのか、足元を壁で邪魔したことへの詫びなのか、それとも単純に目が合った相手へ頭を下げる習慣が身体へ染みついているだけなのか。


 おそらく、社会性である。


「魔物に会釈するな」


 隣で見ていたミレイユが、心底呆れた声を出した。


「目が合ったので」


「ただの魔獣だぞ」


「こちらに苦情を言いたそうな顔をしていました」


「言葉は通じない」


「言葉が通じなくても、態度で伝わることはあるかもしれません」


「何を伝えるつもりだ」


「悪意はありませんでした、と」


「杭を打った直後に伝えるな、馬鹿」


「では、いつなら」


「伝える必要がない!」


 ミレイユの怒声に驚いたのか、バルガロスがもう一度だけ鼻を鳴らした。


「ほら、聞いています」


「聞いていない!」


 補助員たちに引かれ、バルガロスの巨体が魔物房へ向かって遠ざかっていく。


 一歩進むたびに広場の床が小さく揺れ、その背に生えた分厚い外殻が差し込む陽光を鈍く反射した。


 巨獣が去った後も、広場には戦いの残滓が生々しく残っていた。


 砕けた白石。


 黒く焦げた跡。


 深く抉られた爪痕。


 高熱で硝子のように溶けた床。


 三本の封印杭が残した聖印の光は消えかけた火の粉のように薄く瞬き、やがて空気へ溶けていく。


 熱気も少しずつ引き始めていた。


 とおるはその光景を見つめながら自分の両手を何度も握り、開いた。


 指先はまだ震えている。


 力を入れれば、封印杭を打ち込んだ時の衝撃が手首から肘へ蘇り、熱風を受けた皮膚が遅れて痛みを訴えた。


 格好よく勝ったという実感はない。


 あらかじめ立てた作戦を完璧に遂行し、鮮やかな連携で巨獣を制圧したという達成感も薄い。


 怖かった。


 熱かった。


 痛かった。


 何度も判断を誤りかけた。


 アルセントの声に引かれ、バスティアンの踏ん張りに支えられ、二人の動きが作ったわずかな隙へどうにか壁を差し込んだ。


 自分一人では最初の杭へすら届かなかっただろう。


 それでも第一組の戦いを外から見て、第二組では実際に巨獣の足元へ立ち、一つだけ確かに分かったことがある。


 〈壁〉は、自分一人を守るための殻だけではない。


 誰かが踏ん張る足元を支えられる。


 誰かが進む道を増やせる。


 誰かの放った力が無駄な方向へ逃げないよう留められる。


 襲いかかる危険の軌道をほんの少しだけ別の場所へずらせる。


 そして死ぬ結果と生き残る結果の間へ、細く、頼りなく、それでも確かな一本の線を引けることがある。


 これまでとおるにとって壁とは、外から来るものを拒み、自分が傷つかないよう内側へ閉じこもるためのものだった。


 しかし今は、少し違う。


 閉じこもるための壁が誰かと肩を並べるための足場にもなる。


 自分と他人を隔てる境界が、ときには仲間へ届くための橋にもなる。


 そんな、少しばかり綺麗で、今後の成長を予感させるような結論へ辿り着いた直後、とおるの腹部からぐうううう、と空腹とも極度の疲労とも判別しづらい、しかし周囲の者には十分聞こえる音が鳴った。


 余韻が死んだ。


「……芋、食べたいです」


 思わず本音が漏れる。


 するとバスティアンが、待っていましたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。


「食おう! 約束したからな!」


「試験中に交わした芋の約束が、もう公式記録みたいに扱われている」


「約束は約束だ!」


「ガロンさんの記録板に“戦闘後、芋を食べることで合意”と書かれていないことを祈ります」


「いいじゃないか」


 アルセントが風で乱れた髪を指先で整えながら、穏やかに笑った。


「戦いの後に食べるものは、身体だけでなく、遠くへ行った心を元の場所へ戻してくれる」


「格好いいことを言っていますけど、話題は芋ですよ」


「芋を軽く見ないほうがいい」


「芋は大地の恵みだ!」


 バスティアンが胸を張り、まるで王国の理念を宣言するかのような声で言い放った。


「大地属性の人が言うと、妙な説得力がありますね」


「実際、重いぞ!」


「何がです?」


「大きな芋だ!」


「重みの意味が物理へ戻った」


 カナデが堪えきれず、小さく笑った。


 ネロも口元だけをわずかに緩め、ミレイユは呆れたように深く息を吐きながらも、戦闘中ずっと上がっていた肩をほんの少し下ろした。


 張り詰めていた空気が、ゆっくりと解けていく。


 もっとも、ガロンの講評はまだ完全には終わっていないかもしれない。


 聖騎士試験も、初日の一戦だけで終わるわけではない。


 星の塔。


 黒いフードの構成体。


 センターブルーとの緊張。


 世界の外側から来た者という、自分で名乗った覚えのない意味不明な肩書き。


 そのどれもが、とおるの人生から都合よく消えてくれる気配はなかった。


 逃げ道は少ない。


 いや、ほとんど塞がっている。


 それでも壁を置ける場所なら、きっとまだ残っている。


 すべてを拒むためではなく、誰かと一緒に生き残るための壁を置ける場所が。


 とおるは魔物房へ向かって遠ざかっていくバルガロスの巨大な背中を見送り、少しだけ真面目な気持ちになり、それから改めて、その身体が広場の門をほとんど塞いでいる光景を眺めた。


 そして心の底から思った。


 いや。


 でかすぎない?


 戦いを終え、能力への理解を深め、仲間とのつながりを実感した後でさえ、最後までその感想だけは一切揺らがなかった。


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