■第96話「ガルドがいない席」
ガルドが寝込んだ翌日、ギルドは妙に静かだった。
いや、正確には静かではない。
エインは朝から元気だった。
ユーンは鞄仕切りの改良案を広げていた。
ベルクは昨日の見舞いの果物が意外と好評だったことに気をよくして、「俺も気配りができる男だな!」と自分で言ってナナに鼻で笑われていた。
ミレナは受付で依頼票を整理している。
レオンは今日も真面目に装備確認をしている。
メイナは若手二人に依頼書の読み方を教えている。
カイルは壁際で腕を組んでいる。
セリアは治療棟と酒場を行ったり来たりしている。
アルは奥の机で書類を読んでいる。
普段通りだ。
騒がしさもある。
笑いもある。
なのに、何かが足りない。
リオは受付横で依頼書を揃えながら、何度も同じ場所を見てしまった。
酒場の隅。
いつもの椅子。
ガルドがよく座っている席。
今日は空いている。
昨日はそこに毛布をかぶったガルドが寝ていた。
熱で顔色が悪く、文句を言いながらお粥を食べ、酒を取り上げられ、水を飲み、最後には寝ぼけて水を求めた。
今日は二階の部屋で休んでいる。
セリアが朝一番に様子を見て、「熱は少し下がりました。でも今日は絶対に降りてこないように言ってあります」と報告した。
言ってあります。
その言い方に少しだけ怖さがあった。
たぶん、ガルドは逆らえない。
いや、逆らおうとはする。
でも、セリアとアルとナナが交代で見ているので逃げられない。
窓も、昨日の件でマルクが外から確認していた。
「ガルドさん、本当に降りてこないんですね」
エインが酒場の隅を見て言った。
「来たら怒られますからね」
リオが答える。
「でも、なんか変です」
「分かる」
メイナも頷いた。
「あの椅子が空いてるだけで、変な感じ」
「普段、あそこにいるだけなのにな」
カイルが言う。
「うるさいわけでもないのに」
「うるさいですよ」
エインが言う。
「僕、よく声が大きいって言われます!」
「それはお前がうるさいからだ」
カイルが即答した。
「はい!」
「返事も大きい」
「はい……」
少しだけ小さくなった。
リオは笑いそうになったが、やっぱり視線が空席へ戻る。
不在の存在感というのは、こういうものなのかもしれない。
そこにいないのに、そこにいるような気がする。
誰かがたぶんと言えば、反射的に「使うな」と言いそうになる。
ユーンが何か作ろうとすれば、「やめろ」と低い声が飛んでくる気がする。
エインが走り出せば、「足元見ろ」と言う気がする。
ベルクが酒を飲みすぎれば、「水飲め」と言う気がする。
昨日、寝ぼけて自分から水を飲んだ人間が言う台詞ではないが。
「ガルドさん、昨日より良くなってるんですよね」
エインが少し心配そうに聞いた。
「セリアさんが言うには」
リオは頷く。
「熱は下がってきてるって」
「じゃあ明日には復活ですか?」
「たぶん」
言った瞬間、全員が止まった。
リオ自身も止まった。
「……」
「……」
「……」
誰も言わない。
ガルドがいないからだ。
「なんか」
メイナが口元を押さえる。
「言いたくなるね」
「使うな、って」
リオが言う。
「言えばいいじゃん」
ナナがカウンター越しに笑った。
「誰かが代わりに」
「誰が言います?」
エインが周囲を見る。
カイルは無表情。
レオンは真面目。
メイナは少し笑っている。
ミレナは受付で書類を持ったままこちらを見ている。
アルは奥で聞いているようで聞いていない顔をしている。
そして、なぜか全員の視線がリオに集まった。
「僕ですか」
「リオくんが一番近いんじゃない?」
ナナが言う。
「何がですか」
「ガルドのツッコミ」
「嫌です」
「嫌なんだ」
「複雑なので」
メイナが笑う。
「でも、最近似てるよ」
「本当にやめてください」
「悪い意味ではないよ」
「それでも複雑です」
エインが手を上げる。
「じゃあ俺が言います!」
全員が少し不安になる。
エインは真剣な顔をして、リオを見る。
「たぶんを使うな!」
声が大きい。
大きすぎる。
しかも、なんか違う。
「……違いますね」
レオンが冷静に言った。
「勢いが強すぎます」
「ガルドさんはもっと面倒そうに言います」
メイナが言う。
「そうなの!?」
エインが衝撃を受ける。
「俺、結構似せたつもりだったんですけど!」
「似てません」
カイルが言う。
「全然」
「二回言わなくても!」
ナナが笑う。
「もっとこう、低く、面倒くさそうに」
ベルクが喉を鳴らす。
「たぶんを使うな」
悪くない。
声の低さはある。
だが、ベルクは体が大きく、声に妙な迫力がありすぎた。
「それ、怒ってますね」
リオが言う。
「そうか?」
「ガルドさんはもっとやる気がないです」
「難しいな!」
ベルクは大笑いした。
「じゃあ、俺は無理だ!」
レオンが真面目に言う。
「私も試してみましょうか」
「レオンが?」
ユーンが興味津々で見る。
レオンは少し姿勢を整え、低めの声を作った。
「たぶんを使用しないでください」
沈黙。
「敬語」
メイナが言う。
「ガルドさんじゃなくてレオンさんです」
リオも頷く。
「注意書きみたいですね」
「そうですか」
「でも安全確認票には良さそう」
ユーンが言う。
「“たぶんを使用しないでください”」
「それはそれで貼っておきたいです」
ミレナが言う。
レオンは少しだけ首を傾げた。
「模倣は難しいですね」
「レオンさんはそのままでいいと思います」
リオが言った。
次に、なぜかミレナが試す流れになった。
「私はやりません」
「えー」
ナナが楽しそうに言う。
「受付版ガルド、見たい」
「見なくていいです」
「一回だけ」
「嫌です」
「ミレナさん!」
エインが手を合わせる。
「お願いします!」
「なぜそんなに見たいんですか」
「なんか面白そうだからです!」
「正直ですね」
ミレナはため息を吐く。
そして、少しだけ声を低くした。
「たぶんを使わないでください」
丁寧。
強い。
ガルドというより、受付から出される正式注意。
「怖い」
エインが小声で言う。
「普通に怒られてる感じがしました」
リオも頷く。
「これはミレナさんですね」
「だから嫌だと言ったんです」
ミレナは少し恥ずかしそうに書類へ戻った。
ナナは楽しそうだった。
「じゃあ、アル」
「俺か」
奥の机からアルが顔を上げる。
「アル版ガルド」
「意味が分からない」
「いいから」
アルは少しだけ考えた。
それから、普段とほとんど変わらない声で言った。
「たぶんを使うな」
静かだった。
静かすぎた。
酒場が一瞬で冷えた。
「怖いです」
エインが震える。
「命令感がすごい」
メイナも少し肩をすくめる。
「アルさんだと、冗談にならないですね」
リオが言う。
「そうか」
アルは不思議そうにしている。
「圧がある」
ナナが言う。
「ガルドより圧がある」
「俺は圧をかけたつもりはない」
「それが怖いんだって」
ナナは笑った。
結局、誰もガルドの代わりにはならなかった。
当たり前だ。
ガルドの面倒くさそうで、雑で、でも妙に的確なツッコミは、ガルドにしかできない。
それが分かっただけだった。
午前の依頼は、小さな荷運びと修繕補助だった。
リオ達は街の東側へ向かうことになった。
同行はリオ、エイン、メイナ、レオン。
カイルは別の訓練依頼。
ガルドはいない。
それだけで、少し心許ない。
「ガルドさん、いつもついてくるわけじゃないのに」
エインが道中で言った。
「いないと何か気になりますね」
「分かる」
リオは頷いた。
「別に毎回助けてもらうわけじゃないんだけど」
「いる時は、後ろに壁がある感じがします」
メイナが言う。
「壁?」
「うん。倒れたら支えてくれるかもしれない、みたいな」
レオンが頷く。
「精神的な安全余裕ですね」
「レオンが言うと急に硬くなる」
「ですが、近いと思います」
リオは少し考えた。
確かに、ガルドは前に出るタイプではない。
むしろ、面倒くさそうに後ろにいる。
だが、その後ろにいることが安心につながっている。
何かあれば動く。
その気配がある。
今日はそれがない。
「じゃあ今日は」
リオは言う。
「その壁がない前提で動こう」
「はい」
エインが頷く。
「俺、ちゃんと足元見ます!」
「そこは毎回見て」
「はい!」
依頼そのものは難しくなかった。
古い倉庫の棚修理。
雨で湿気を吸った木材の一部を交換し、荷物を一時的に運び出す。
ただ、狭い場所での作業なので、勢いだけでやると危ない。
「ここ、ガルドさんならどう言いますかね」
エインが重い箱を前にして呟く。
「まず、持つ前に中身を確認しろ、じゃない?」
メイナが言う。
「それから、腰を落とせ」
リオが続ける。
「腕だけで持つな」
レオンが付け加える。
「声は大きくなくていい」
全員が言った。
エインが目を丸くする。
「ガルドさんがいないのに、めちゃくちゃ聞こえる!」
「だいぶ言われてますからね」
リオは笑った。
実際、ガルドの声が頭の中に残っている。
こういう時は走るな。
こういう時は押すな。
こういう時はまず見る。
こういう時は戻れ。
雑な言葉ばかりだ。
でも、何度も聞いたから、今は自然に出てくる。
「箱、確認します」
エインが言った。
箱を開ける。
中には陶器。
「危なかった!」
「確認してよかったね」
メイナが言う。
「はい!」
「次は二人で持ちましょう」
レオンが言う。
「一人でいけるかも、は?」
「言いません!」
「よし」
作業は慎重に進んだ。
時間は少しかかった。
だが、壊さず、怪我せず、無事に終わった。
依頼人の老人が笑って言った。
「若いのに慎重だねぇ」
エインは胸を張りかけて、止まった。
「ありがとうございます!」
声は少し大きかったが、いつもより控えめだった。
老人が笑う。
「昔来た冒険者は、棚ごと倒しかけてねぇ」
「誰ですか?」
リオが何気なく聞く。
「名前は忘れたが、だらしない感じの兄ちゃんだったよ。面倒くせえって言いながら、最後はきっちり直してくれた」
リオ達は顔を見合わせた。
「……それ」
「ガルドさんでは?」
メイナが言う。
「言いそうです」
レオンも頷く。
老人は首を傾げる。
「ガルド……ああ、そうだったかもしれないねぇ。今も冒険者をやってるのかい」
「やってます」
リオが答える。
「今、熱で寝込んでますけど」
「そうかい。じゃあ、元気になったら伝えておくれ。あの棚、まだ別の家で使ってるよって」
リオは少し驚いた。
「まだ?」
「ああ。もう何年も前だがね。あの兄ちゃん、口は悪かったけど腕は良かった」
老人は笑う。
「面倒くせえと言いながら、棚の脚まで直してくれた」
リオは少しだけ笑った。
まただ。
ガルドは昔から、依頼以上のことをしている。
そして本人はきっと覚えていない。
「伝えておきます」
リオは言った。
「きっと、“覚えてねえ”って言いますけど」
「それでもいいさ」
老人は笑った。
帰り道、エインが言った。
「ガルドさん、いろんなところで何かしてますね」
「そうだね」
リオは頷く。
「本人は面倒くさいって言うのに」
「でもやる」
メイナが言う。
「それで、いろんな人に覚えられてる」
「モテる理由ですね」
リオが言った。
全員が少し笑った。
「本人に言ったら怒りますね」
レオンが言う。
「熱が下がってからにしましょう」
メイナが言う。
「病人に追撃はよくないです」
「追撃扱い」
リオは笑った。
ギルドへ戻ると、空席はまだ空席だった。
ガルドは降りてきていない。
セリアの監視は強い。
リオは報告を済ませ、老人から聞いた話をナナに伝えた。
「へえ」
ナナが笑う。
「また出たね、昔のガルド」
「棚を直してたらしいです」
「無駄に器用だからね」
「本人に言います?」
「言う」
ナナは即答した。
「熱下がったら、からかう材料にする」
「やっぱり」
「でも、喜ぶと思うよ」
「ガルドさんが?」
「表には出さないけどね」
ナナは空席を見る。
「覚えてなくても、自分がやったことが残ってるって、悪くないでしょ」
リオは頷いた。
ガルドは、自分が残してきたものに無頓着だ。
水路。
棚。
椅子。
畑。
村の人達の記憶。
若手達の中に残った言葉。
全部、本人は大したことではないと思っている。
だが、それらは確かに残っている。
その日の夕方、ガルドがまた逃げようとした。
今回は窓ではなく、普通に階段から降りようとしたらしい。
ただし、階段の途中でセリアに見つかった。
「ガルドさん」
「……」
「どこへ?」
「水」
「部屋にあります」
「空気」
「窓を開けました」
「飯」
「持っていきます」
「……」
「戻りましょう」
完全に封じられている。
リオ達が下から見上げると、ガルドは非常に不満そうな顔をしていた。
「見世物じゃねえぞ」
「元気そうですね」
リオが言う。
「元気だ」
「熱は?」
「下がった」
セリアが即座に言う。
「まだです」
「まだだそうです」
リオが言う。
「お前、どっちの味方だ」
「セリアさんです」
「即答か」
「病人相手なので」
「くそ」
ガルドは戻される。
だが、その前にリオは言った。
「ガルドさん」
「あ?」
「今日の依頼先で、昔ガルドさんに棚を直してもらった人に会いました」
ガルドが少し止まる。
「棚?」
「倉庫の棚です。面倒くさいって言いながら、棚の脚まで直してくれたって」
「覚えてねえ」
「言うと思いました」
「誰だ」
「東側の倉庫の老人です。まだ別の家で使ってるそうです」
ガルドは少しだけ黙った。
「……そうか」
「はい」
「そりゃ、よかったな」
それだけ言って、またセリアに連れていかれた。
だが、リオには見えた。
ほんの少しだけ、表情が緩んでいた。
「喜んでましたね」
メイナが小声で言う。
「はい」
リオも頷く。
「かなり」
夜。
ガルドはいないまま、酒場はいつもより少し早く落ち着いた。
昨日の看病と今日の不在で、皆少し疲れているのかもしれない。
ナナはガルドの席に水の入った杯を置いていた。
「それ、何ですか」
リオが聞く。
「お守り」
「水が?」
「ガルドが自分から水って言った記念」
「からかう気満々ですね」
「もちろん」
ナナは笑う。
その横に、ユーンが小さな紙を置こうとする。
「何ですか、それ」
「病人用水分補給記録票です」
「やめてください」
「安全です!」
「そういう問題じゃないです」
ミレナが受付から言う。
「でも、記録自体は悪くないかもしれません」
「ミレナさん?」
リオが驚く。
「病人が水を飲んだか確認するのは大事です」
「確かに」
レオンが頷く。
「水分摂取記録は有用です」
ユーンの顔が明るくなる。
「では!」
「ただし、紙だけです」
ミレナが言う。
「装置にはしません」
「……はい」
「少し残念そうですね」
「少し」
「駄目です」
結局、ガルドの席に小さな紙が置かれた。
『水を飲むこと』
その下に、ナナが追記。
『酒ではない』
さらにリオが、少し迷ってから書いた。
『ちゃんと寝ること』
エインがさらに書こうとする。
『元気になってください!』
文字が大きい。
紙からはみ出しかけている。
「声だけじゃなくて字も大きい」
メイナが笑う。
「気持ちです!」
レオンが小さく書き足す。
『回復後も無理をしないこと』
ミレナが最後に一言。
『セリアさんの指示に従うこと』
その紙を見て、皆少し笑った。
ガルドが見たら、絶対に嫌そうな顔をするだろう。
だが、捨てない気もする。
もしくは捨てようとして、ナナにもう一度貼られる。
そんな未来が見えた。
「ガルドさん、明日は降りてきますかね」
エインが言う。
「熱次第です」
セリアが答えた。
治療棟から出てきた彼女は、少し疲れていた。
「セリアさんも休んでくださいね」
リオが言う。
「はい。今日はもう休みます」
「本当ですか」
「本当です」
「セリアさんも無理しますから」
セリアは少し驚いた顔をした。
「リオくんに言われるとは」
「僕も言われたので」
「では、気をつけます」
セリアは微笑んだ。
その笑顔を見ると、リオは少し安心する。
今日、セリアがいてくれてよかった。
ガルドを止められる人は限られている。
その夜、リオは少し遅くまで残った。
特に理由はない。
ただ、ガルドの席が空いたままなのが気になった。
ナナが片付けをしている。
アルは書類を閉じた。
ミレナは帰る準備をしている。
エイン達も帰った。
静かなギルド。
リオは空席の前に立った。
椅子の脚はしっかりしている。
ユーンが直した椅子。
ガルドが毎日座っている椅子。
そこに置かれた紙。
水の入った杯。
「早く戻ってきてくださいよ」
リオは小さく言った。
別に、本人に聞こえるわけではない。
でも、言いたくなった。
「リオくん」
ナナが後ろから声をかける。
「はい」
「寂しい?」
「……少し」
「正直だね」
「このギルドの教育です」
「それ、便利に使うようになったね」
ナナは笑った。
「でも、分かるよ。私も少し寂しい」
「ナナさんも?」
「そりゃね。あの席で毎日文句言われてたら、いないと変だよ」
「文句なのに」
「文句も毎日あると、店の音になるんだよ」
リオはその言葉に少し納得した。
ガルドの文句。
エインの声。
ミレナの注意。
ナナの笑い。
ユーンの叫び。
レオンの真面目な説明。
メイナの冷静なツッコミ。
カイルの「声が大きい」。
アルの短い判断。
セリアの優しい声。
全部、このギルドの音だ。
一つ欠けるだけで、やっぱり違う。
「明日には、少し戻るよ」
ナナが言う。
「ガルド、しぶといから」
「そうですね」
「でも、戻ってきたらちゃんと休ませないとね」
「はい」
「あと、あの紙を読ませよう」
「怒りますね」
「怒るね」
ナナは楽しそうに笑った。
翌朝。
ガルドは降りてきた。
熱は下がったらしい。
ただし、完全復活ではない。
セリアの厳命により、酒禁止、依頼禁止、長時間外出禁止。
毛布は不要になったが、顔色はまだ少し悪い。
それでも、ガルドが階段を降りてきた瞬間、ギルドの空気が少し変わった。
「あ」
エインが言う。
「ガルドさん!」
「声が大きい」
カイルが言う。
ガルドも同時に言った。
「声が大きい」
二人の声が重なった。
ギルド中が笑った。
「戻ってきた!」
エインが嬉しそうに言う。
「うるせえ」
ガルドはいつもの席へ向かう。
だが、そこで止まった。
席の上に紙がある。
『水を飲むこと』
『酒ではない』
『ちゃんと寝ること』
『元気になってください!』
『回復後も無理をしないこと』
『セリアさんの指示に従うこと』
ガルドは無言で紙を読む。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「誰だ」
全員が目を逸らした。
「全員か」
ナナが笑う。
「愛されてるね」
「いらん」
「捨てる?」
ガルドは紙を見た。
少しだけ眉を寄せる。
そして。
「……後で捨てる」
そう言って、捨てなかった。
リオは笑いを堪えた。
ガルドは椅子に座る。
水の入った杯を見る。
「酒は」
「駄目です」
セリアが即答した。
「まだ何も」
「駄目です」
「……水でいい」
全員が少し驚いた。
ガルドが自分から水を飲む。
昨日に続く奇跡だ。
「記録します?」
ユーンが言う。
「するな」
ガルドが低く言う。
いつもの声だ。
少し弱いが、ちゃんといつものガルドだった。
リオは安心した。
「ガルドさん」
「何だ」
「おかえりなさい」
ガルドは嫌そうな顔をした。
「大げさだ」
「はい」
「少し熱出しただけだ」
「窓から逃げた人が言う台詞じゃないです」
「忘れろ」
「忘れません」
ナナが言う。
「記録に残すよ」
「残すな」
「病人逃亡未遂」
「やめろ」
「いや、未遂じゃないですね」
レオンが真面目に言う。
「一階まで到達していたため、逃亡成功後の拘束です」
「細かい!」
エインが笑う。
ガルドは頭を抱えた。
「戻って早々これか」
「いつものギルドですね」
リオが言う。
ガルドは少しだけ口元を緩めた。
「……うるせえ」
その一言で、ギルドは完全に戻った気がした。
ガルドがいない席。
昨日は空いていて、妙に広く見えた。
でも今日は、いつものようにだらしなく座る男がいる。
文句を言い、水を飲み、酒を我慢し、皆にからかわれている。
それだけで、ギルドは少し温かくなる。
リオは思った。
誰かがいるということは、普段は気づきにくい。
でも、いなくなると分かる。
その人の声。
癖。
文句。
席。
全部が、場所の一部になっている。
そして戻ってきた時、何も言わなくても少し嬉しい。
大げさなおかえりはいらない。
でも、心の中ではちゃんと思う。
戻ってきてよかった、と。
ガルドは水を飲み、嫌そうに紙を畳んで懐に入れた。
「捨てないんですか?」
リオが聞く。
「後で捨てる」
「懐に入れましたよね」
「後で捨てる」
「絶対捨てませんね」
「うるせえ」
ガルドはそっぽを向いた。
その横で、猫がいつものように足元へ来て丸くなる。
ガルドは文句を言わなかった。
いつもの席。
いつもの文句。
いつもの猫。
ギルドの朝は、ようやく本当に始まった。




