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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第94話「ミレナが笑う日」

 ミレナは、あまり大きく笑わない。


 微笑むことはある。


 呆れることもある。


 ため息も多い。


 怒ることも当然ある。


 特にユーン絡みでは増える。


 エインの勢いにも頭を抱える。


 ベルクには何度も注意する。


 ガルドには「通路で寝ないでください」と何回も言う。


 ナナには軽く流される。


 アルには真面目すぎる相談をされる。


 レオンには真面目すぎる報告をされる。


 リオには「大丈夫ですか」と逆に気を遣われる。


 つまり、ギルドの受付という場所は、かなり大変だった。


 だからこそ、ミレナが声を上げて笑う瞬間は珍しい。


 そして、その珍しい瞬間は。


 だいたい、くだらないことで起きる。


 朝。


 リオが起きた時、ギルドはもう普通に動いていた。


 昨日――いや、今日の朝方まで飲んでいたとは思えないくらい、皆いつも通りである。


「皆、強いですね……」


 リオは受付横の椅子から起き上がりながら呟いた。


 体が重い。


 眠い。


 頭が少しぼんやりする。


 なのに、エインはもう走っている。


「リオさん! おはようございます!」


「声が頭に響く」


「すみません!」


「でも元気ですね」


「寝ました!」


「何刻?」


「三刻くらい!」


「若いなぁ……」


 リオはぼんやりした頭で言う。


 受付では、ミレナが既に仕事をしていた。


 書類を整理し、依頼票を確認し、今日の人員配置を調整している。


 いつも通りだ。


 だが、少しだけ目の下に疲れがある。


「ミレナさん」


 リオが近づく。


「大丈夫ですか」


「それ、今のリオくんが言います?」


「……すみません」


 ミレナは少しだけ笑った。


「私は仮眠しましたので」


「どのくらい?」


「一刻半ほど」


「少ない」


「でも、慣れています」


「慣れって怖いですね」


「本当に」


 ミレナは書類を揃えながらため息を吐く。


「でも、楽しかったですね」


「はい」


 リオは素直に頷いた。


 ああいう夜は、不思議と疲れるのに嫌ではない。


「ベルクさん達は?」


「ベルクさんは二刻前に来ました」


「早い」


「そして、二日酔いです」


「ですよね」


「“頭が鐘みてえだ”と言っていました」


「自業自得」


「はい」


 ミレナが即答した。


「ガルドさんは?」


「普通です」


「強い」


「強いですね」


 アルも既に仕事に戻っている。


 セリアは治療棟。


 レオンは朝からユーンの鞄仕切り改良案を見ている。


 ユーンは「普通に便利な方向です!」と胸を張っていた。


 その時点で少し不安だったが、今のところ危険な音はしていない。


「今日は平和そうですね」


 リオが言う。


「今のところは」


 ミレナが答えた。


 その瞬間だった。


 扉が勢いよく開いた。


「ミレナさん!!」


 大声。


 全員が反射的に顔を上げる。


 入ってきたのは、エインだった。


「いやお前さっきいたよな?」


 リオが言う。


「いました!」


「じゃあ何で外から入ってきた」


「忘れ物です!」


「何を」


 エインは、真剣な顔で言った。


「鞄です!」


 沈黙。


 全員が、エインの背中を見る。


 何も背負っていない。


 そして、受付横を見る。


 エインの鞄が置いてある。


 昨日ユーンが仕切りを作った、あの鞄だ。


「……」


 ミレナがゆっくり目を閉じた。


「エインくん」


「はい!」


「依頼前に鞄を忘れるのは論外です」


「すみません!」


「しかも、ギルドに置いたまま気づかず外へ出たんですよね」


「はい!」


「元気よく言うことではありません」


「はい!」


 ユーンが小さく呟く。


「普通に便利でも、持っていかなければ意味がない……」


「そこ反省するところ違います」


 リオが言う。


 メイナが笑いを堪えている。


 レオンは真面目に頷いた。


「道具は、所持して初めて意味を持ちます」


「レオンまで真面目に乗るな」


 ナナが笑う。


 エインは鞄を受け取ると、胸を張った。


「今度こそ行ってきます!」


「待て」


 ガルドが声を出した。


「水袋」


 エインが止まる。


 確認する。


 空だった。


「……」


「置いてけ」


 ガルドが言う。


「お前、そのまま行ったら昼に倒れるぞ」


「ありがとうございます!」


「礼より確認しろ」


「はい!」


 エインは慌てて水を入れに行った。


 ギルドが少し静かになる。


 それから。


「……ふ」


 小さい音。


 リオが振り向く。


 ミレナだった。


「ふふっ……」


 肩が震えている。


 笑っている。


「ミレナさん?」


 ナナが目を丸くする。


 ミレナは口元を押さえた。


「いえ、その……」


「エインくん?」


「はい……なんというか」


 ミレナは笑いを堪えながら言う。


「仕切りを絶賛していたのに、肝心の鞄を忘れるのが……」


 そこで堪えきれなかった。


「あははっ……!」


 声が出た。


 かなり珍しい。


 リオも驚く。


 ミレナが、こんなふうに声を上げて笑うのは本当に珍しい。


 ナナが目を輝かせる。


「おお」


 ガルドも少し目を丸くした。


 ベルクは二日酔いの顔のまま言う。


「ミレナ、笑うんだな!」


「失礼ですよ!」


 ミレナは笑いながら言う。


「笑います!」


「でも、そんなに笑ってるの初めて見たかも」


 メイナが言う。


「私もです」


 リオが頷く。


 ミレナは少し恥ずかしそうに咳払いした。


「……すみません」


「なんで謝るんですか」


 ナナが笑う。


「いいじゃん。もっと笑えば」


「そういうわけにも」


「受付嬢だから?」


 ミレナは少しだけ黙った。


「……皆さんの前では、ちゃんとしていたいので」


「十分ちゃんとしてるよ」


 ナナが即答した。


「むしろ、たまに崩れた方が安心する」


「安心?」


「ミレナも人間なんだなって」


「人間です」


「たまに書類で動いてる感じするし」


「ひどい」


 ミレナが珍しく頬を膨らませる。


 その反応だけで、また少し空気が和んだ。


 そこへ、アルが奥から出てきた。


「何かあったか」


「ミレナが笑ってる」


 ナナが即答する。


 アルが少しだけ目を瞬かせた。


「珍しいな」


「アルさんまで」


「いや、悪い意味ではない」


 アルは少し考えた。


「良いことだと思う」


 ミレナはさらに居心地悪そうになった。


「そんなに珍しいですか……?」


「珍しい」


 ガルドが即答。


「珍しいですね」


 レオンも頷く。


「統計的にも」


「統計取ってるんですか!?」


「感覚的にです」


「紛らわしい!」


 ギルドが笑う。


 その空気のまま、昼前の依頼整理が始まった。


 だが今日は、妙に空気が軽い。


 理由はたぶん、ミレナが笑ったからだ。


 普段しっかりしている人が笑うと、周囲まで少し緩む。


 それをリオは初めて知った。


 昼。


 ベルクはまだ二日酔いだった。


「水がうめえ……」


「当たり前です」


 セリアが言う。


「だから飲みすぎないでくださいと言ったんです」


「昨日の酒がうますぎたんだ……」


「言い訳です」


 ベルクは机に突っ伏した。


 そこへ、ユーンが近づく。


「ベルクさん」


「なんだ……」


「二日酔い軽減用自動水分補給装置を」


「やめろ」


 リオとガルドが同時に言った。


「まだ何も言ってません!」


「危険な気配がした」


「普通に便利な方向です!」


「お前の“普通”はまだ信用が薄い」


 ガルドが言う。


 ユーンは少ししょんぼりした。


 だが、昨日ほどではない。


 その時だった。


 ミレナがぽつりと言った。


「でも、ベルクさん用なら少し見てみたいです」


 全員が止まった。


「ミレナさん?」


 リオが振り向く。


 ミレナ自身も、言ってから少し驚いた顔をした。


「えっ、いや、その」


「興味持った?」


 ナナが笑う。


「少しだけです!」


「危険だぞ」


 ガルドが言う。


「危険かもしれませんが」


 ミレナは真面目な顔になる。


「ベルクさん、定期的に二日酔いになりますし」


「なるな!」


「なります」


「はい……」


 ベルクが負けた。


「つまり」


 ユーンの目が輝き始める。


「水分補給を促す安全装置を」


「待て」


 リオが止める。


「どこまで考えてる」


「一定時間ごとに鐘を鳴らし」


「うるさい」


「小型水筒を自動で傾け」


「危ない」


「本人の口元へ」


「もっと危ない」


「なぜですか!」


「寝てる時に溺れる!」


 ユーンははっとした。


「なるほど……」


「なるほどじゃない」


 レオンが真面目に言う。


「ですが、一定時間ごとの通知機能だけなら有効かもしれません」


「レオンまで!?」


「単純な時間通知装置なら、安全性は高いかと」


「おお……」


 ユーンが感動している。


「普通に便利の道が開けています」


「ちょっと待ってください」


 ミレナが慌てて言う。


「私はそこまで大事にするつもりでは」


「もう遅い」


 ナナが笑う。


「ユーンの火がついた」


「比喩が危ない」


 リオが言う。


 そこから始まったのは、“絶対に危なくない二日酔い対策装置会議”だった。


 ユーンは紙を広げる。


 レオンは安全性を確認。


 リオとガルドが危険案を止める。


 ベルクは「そこまでしてくれなくても」と言いながら少し嬉しそう。


 ミレナは途中から「なぜこうなったのでしょう」と頭を抱えていた。


「まず、飲酒量の記録を」


 レオンが言う。


「そこから!?」


 ベルクが叫ぶ。


「重要です」


「嫌だ!」


「では、水分摂取量だけでも」


「それなら……」


「次に、一定時間ごとの通知」


「鐘はやめろ」


 ガルドが言う。


「静かな音で」


「ならまあ」


「あと、携帯性を」


「待ってください」


 ミレナが言う。


「これ、本当に必要ですか?」


 全員が少し黙った。


 それから。


「……」


 ナナが吹き出した。


 リオも耐えきれなかった。


 ガルドまで少し肩を揺らしている。


 ベルクは机に突っ伏した。


「確かに!」


 リオが笑う。


「そこなんですよ!」


「普通に水飲めばいい!」


 ナナが笑う。


 ユーンとレオンが止まる。


 それから二人で顔を見合わせた。


「……」


「……」


「確かに」


 二人同時だった。


 その瞬間。


 ミレナがまた吹き出した。


「あははっ……!」


 今度は完全に笑っていた。


 堪える気配もない。


「そこまで真面目に考えて、結論が“普通に水を飲む”なの、ずるいです……!」


 肩を震わせながら笑うミレナを見て、皆もつられる。


 普段、真面目な人ほど、くだらない結論に弱い。


 しかも今日は寝不足だ。


 変な方向に笑いのつぼが入っている。


「ミレナさん、笑いすぎです」


 リオが言う。


「だって……!」


 ミレナは息を整えようとする。


「皆さん、真面目な顔で装置の話してるのに、最後が水を飲むって……!」


「間違ってはいねえ」


 ガルドが言う。


「正論すぎる」


 ナナが笑う。


 ユーンは少し悔しそうだった。


「でも、通知装置は便利かもしれません」


「まだ諦めてない」


 リオが言う。


「普通に便利です」


「危なくない範囲ならな」


 ガルドが釘を刺す。


 その後も、ミレナの笑いは妙に続いた。


 レオンが真面目に「飲酒量記録票」を作ろうとした時。


 エインが「昨日ベルクさん何杯飲みましたっけ!」と聞いた時。


 ベルクが「数えてねえ!」と叫んだ時。


 ユーンが「では自動計測」と言いかけて全員に止められた時。


 その全部で笑っていた。


「今日のミレナさん、なんかおかしいですね」


 リオが小声で言う。


「寝不足で笑いの壁が低いんじゃない?」


 ナナが言う。


「あと、たぶん溜まってたんだよ」


「溜まってた?」


「笑うの我慢するのって、意外と疲れるから」


 リオはミレナを見る。


 受付でしっかりしている彼女。


 皆をまとめ、書類を整理し、注意し、怒り、支える。


 そういう人だからこそ、少し気が緩むと反動が来るのかもしれない。


「でも、いいですね」


 リオが言う。


「何が?」


「ミレナさんが笑ってるの」


 ナナは少し目を細めた。


「うん。私もそう思う」


 午後。


 依頼人が来る頃には、ミレナはちゃんと受付モードに戻っていた。


 声も落ち着いている。


 書類も完璧。


 対応も丁寧。


 やっぱり仕事はできる。


 だが、完全には戻っていなかった。


 小さなところで、まだ笑いそうになる。


「依頼はこちらへ」


 真面目に言った直後、後ろでベルクがくしゃみをして、机に突っ伏した。


 ミレナの肩が震える。


「……っ」


 堪えている。


 依頼人が不思議そうにする。


「大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫です」


 ミレナは真面目な顔を作る。


 だが、その後ろでユーンが小声で言った。


「水分不足かもしれません」


 ミレナが耐えきれなかった。


「ふふっ……!」


「なんでそこに反応するんですか!」


 ユーンが驚く。


 リオはもう駄目だった。


 完全に笑いが移っている。


 ギルド内が妙に明るい。


 依頼人まで少し笑っている。


 こんな日もあるのだ。


 夕方。


 忙しい時間が終わり、少し落ち着いた頃。


 ミレナはようやく深く息を吐いた。


「……疲れました」


「笑い疲れ?」


 ナナが聞く。


「それもあります」


「“それも”なんだ」


「でも」


 ミレナは少しだけ笑った。


「悪くなかったです」


 その言葉に、リオは嬉しくなった。


「よかった」


「はい」


 ミレナは窓の外を見る。


 夕焼けが少し赤い。


「たまには、こういう日もいいですね」


「いつも真面目すぎるからな」


 ガルドが言う。


「ガルドさんに言われたくないです」


「俺は真面目じゃねえ」


「そうですね」


「即答するな」


 ナナが笑う。


「でも、ミレナ。もっと笑っていいと思うよ」


「難しいです」


「じゃあ、またエインに鞄忘れてもらおう」


「やめてください!」


 エインが叫ぶ。


「俺、本当に気をつけますから!」


「普通に気をつけて」


 リオが言う。


「はい!」


 ミレナはまた少し笑った。


 その笑顔は、大きくはない。


 でも、今日は何度も見られた。


 それだけで、ギルドの空気は少し違っていた。


 夜。


 帰る前、リオは受付横でミレナに声をかけた。


「ミレナさん」


「はい?」


「今日は、なんか」


「なんか?」


「いい日でしたね」


 ミレナは少し考えた。


 ベルクの二日酔い。


 エインの鞄忘れ。


 ユーンとレオンの無駄に真面目な会議。


 水を飲めばいいという結論。


 自分が笑い続けていたこと。


 全部くだらない。


 でも、悪くない。


「そうですね」


 ミレナは静かに頷いた。


「たまには、笑うのも悪くないみたいです」


「はい」


「ただ」


 ミレナは真顔になる。


「エインくん」


「はい!?」


「明日また鞄を忘れたら怒ります」


「はい!」


「ベルクさん」


「なんだ!」


「水を飲んでください」


「はい!」


「ユーンさん」


「はい!」


「自動傾斜水筒は禁止です」


「まだ設計してません!」


「考えてはいましたね」


「……はい」


 ギルドが笑う。


 また今日最後の笑いが広がる。


 リオはそれを聞きながら思った。


 冒険者ギルドという場所は、強い人が集まる場所だ。


 戦う人。


 守る人。


 治す人。


 支える人。


 皆、それぞれ役割がある。


 でも、たぶん。


 一緒に笑えることも、ここでは大事なのだ。


 特に、普段笑わない人が笑う日は。


 それだけで、皆が少し嬉しくなる。


 その夜、ギルドの掲示板の端に、小さな紙が貼られていた。


『ベルクさんは水を飲むこと』


 その下に、別の字で追記。


『エインくんは鞄を持つこと』


 さらにその下。


『ユーンさんは自動で傾けないこと』


 最後に、一番下へ小さく。


『ミレナさんは、たまに笑うこと』


 誰が書いたのかは分からない。


 でも、その紙は翌日まで消されなかった。

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