■第93話「朝まで飲む日」
冒険者ギルドには、たまに何も起きない夜がある。
魔物は出ない。
馬車も泥にはまらない。
山も動かない。
酒も消えない。
薬草棚も荒らされない。
ユーンの装置も爆発しない。
誰かが劇的に勝つわけでも、負けるわけでもない。
ただ、依頼が終わり、飯を食い、酒を飲み、どうでもいい話をする。
そういう夜だ。
そして、そういう夜ほど、なぜか長くなる。
「今日は早く閉めるよ」
ナナが夕方にそう言った時、リオは少しだけ安心した。
ここ数日は、濃い日が続いていた。
古い依頼書を見つけた。
誰も知らない手紙を届けた。
ベルクの昔話を聞いた。
ユーンが落ち込み、普通に便利なものを作る方向へ進んだ。
良い日も、重い日も、少し心が疲れる。
だから、早く閉まるならそれも悪くない。
「早く閉めるんですか」
リオが聞く。
「うん。最近、夜が長かったからね」
ナナはカウンターを拭きながら言った。
「今日は静かに終わろうかなって」
「それ、言ったら逆に終わらない気がします」
「やめてよ」
ナナは笑う。
「私だってたまには早く寝たいんだから」
ガルドがいつもの席で酒を飲みながら言った。
「無理だな」
「なんで」
「そういうこと言う日は、だいたい誰か来る」
「縁起でもないこと言わないで」
「経験だ」
「嫌な経験則」
エインが掲示板の前から顔を出す。
「でも、今日は依頼も落ち着いてますよね!」
「声が大きい」
カイルが即座に言う。
「すみません!」
「依頼は落ち着いてるな」
リオは掲示板を見る。
急ぎのものはない。
明日以降でいい採取依頼、荷運び依頼、修繕補助。
危険度の高い討伐依頼も今日は貼られていない。
珍しく、平和だ。
レオンは受付前で自分の鞄を確認していた。
昨日ユーンが作った仕切りの試作品を参考に、レオン用の筆記具保護仕切りを作ってもらう予定らしい。
「レオン、その鞄どう?」
メイナが聞く。
「まだ改良前ですが、現在の問題点は明確です」
「問題点?」
「記録板と筆記具が干渉します。あと、薬草の見本袋と地図が同じ区画に入っているため、湿気が移る可能性があります」
「鞄一つでそこまで考えるんだ」
「大事です」
ユーンが近くで真剣に頷いた。
「大事です! 普通に便利なユーンとして、まずは使用者の問題点を正確に把握します!」
「その肩書き、自分で使うんですね」
リオが笑う。
「はい。昨日決まりましたので」
「正式には決まってません」
ミレナが受付から言った。
「でも、危険ではない方向へ進むなら歓迎します」
「ありがとうございます!」
「ただし、安全確認票は出してください」
「はい!」
ユーンは素直に頷いた。
それだけでギルドの何人かが感動した。
「ユーンさんが安全確認票を嫌がらない」
エインが言う。
「成長ですね」
メイナが頷く。
「失礼では!?」
ユーンが抗議する。
「でも、成長です」
レオンが真面目に言う。
「レオンさんまで!」
そのやり取りを見ながら、ナナが笑う。
「今日は平和だねぇ」
「そうですね」
リオも頷く。
このまま静かに終わるのもいい。
そう思った。
思ってしまった。
夕方が夜に変わり始めた頃、扉が開いた。
入ってきたのはベルクだった。
片手に小さな酒樽を抱えている。
もう片方の手には乾き肉の包み。
「おう!」
大声。
全員が振り返る。
ナナが目を細めた。
「ベルク」
「なんだ?」
「今日は早く閉めるって言ったよね」
「聞いてない!」
「今言った」
「じゃあ今聞いた!」
「帰って」
「ひどい!」
ベルクは大げさに胸を押さえる。
「せっかくいい酒を持ってきたのに!」
その一言で、ガルドが顔を上げた。
「いい酒?」
ナナが即座にガルドを見る。
「反応早い」
「いい酒と聞こえた」
「耳が都合よすぎる」
ベルクは酒樽をどんと置いた。
「昨日の肉の残りを届けた時に、依頼人の親父さんからもらったんだ。皆で飲めってよ」
「皆で、ね」
ナナは酒樽を見る。
「量は?」
「そこそこ!」
「そこそこが一番怖い」
ミレナが受付から顔を出す。
「今日は大騒ぎしすぎないでくださいね」
「大丈夫だ!」
ベルクが言う。
ギルド内の全員が微妙な顔をした。
「大丈夫は危ない」
リオが言う。
「お前ら、最近その言葉に厳しすぎないか!?」
「経験です」
「成長とも言います」
レオンが真面目に言う。
「正しいけど、少し寂しいな!」
ベルクは笑った。
ナナはため息を吐きながらも、酒樽を確認した。
香りを嗅いで少し眉を上げる。
「悪くないね」
「だろ!」
「これなら、少しだけ出してもいいかな」
「よし!」
「ただし、少しだけ」
「よし!」
「聞いてる?」
「聞いてる!」
ナナは怪しいものを見る目でベルクを見た。
しかし、酒樽は開けられた。
それが始まりだった。
最初は、本当に少しだけだった。
小さな杯に酒が注がれ、飲める者だけが味見する。
リオは軽く舐める程度。
エインはまだ酒を飲まないので、果物水。
レオンも控えめ。
メイナは少しだけ。
カイルは飲まないと言っていたが、ベルクに押されて一杯だけ受け取った。
ガルドは当然のように飲んだ。
ナナは味を確認する程度に飲み、ミレナは仕事が残っているからと断った。
アルは茶。
セリアも薬草茶。
ドーガは遅れて来て、無言で一杯受け取った。
「ドーガさん、飲むんですね」
エインが言う。
「少し」
「少しで済むんですか」
「済む」
ドーガはそう言って、静かに飲む。
ベルクが笑う。
「ドーガの“少し”は本当に少しだからな!」
「ベルクさんとは違うんですね」
リオが言う。
「俺も少しだ!」
「本当ですか?」
「最初は!」
「最初だけなんですね」
ナナが言う。
ベルクは笑ってごまかした。
酒が入ると、話が増える。
まずは今日の小さな依頼の話。
エインが、荷運び中に自分の鞄の中身が崩れなかったことを嬉しそうに語る。
「ユーンさんの仕切り、すごいです!」
「本当ですか?」
ユーンが身を乗り出す。
「はい! ロープがすぐ出ました!」
「ロープは出すものですからね」
「前は出ませんでした!」
「それは問題でしたね」
レオンが真面目に言う。
「でも今日は出ました!」
「素晴らしいです」
エインは胸を張る。
「あと、薬もすぐ取り出せました!」
セリアが微笑む。
「それは大事ですね」
「はい!」
「ただし、薬は使う前に確認してくださいね」
「はい!」
ユーンは少し照れたように笑う。
「よかったです」
「普通に便利だったよ」
メイナが言う。
「普通に便利」
ユーンはその言葉を大事そうに繰り返した。
「いい響きですね」
「完全に気に入ってる」
ナナが笑う。
「そのうち看板出す?」
「普通に便利なユーン工房」
「やめてください!」
ユーンは叫ぶ。
でも顔は少し嬉しそうだった。
次に、カイルの朝訓練の話になった。
ダレンに負けた翌日から、カイルは朝の訓練を少し変えた。
リオを相手に、正しい動きだけでなく、読ませる動きや、あえて崩す動きを試している。
エインは勝手に参加しようとして、最初の五分で足元をすくわれた。
「俺、気づいたら転んでました!」
「声が大きい」
カイルが言う。
「でも本当に、何されたか分からなかったんです!」
「お前は前に出すぎだ」
「はい!」
「あと、褒められてから少し調子に乗っている」
「うっ」
エインが胸を押さえる。
「気をつけます」
リオが笑う。
「でも、前よりちゃんと止まるようになってますよ」
「本当ですか!」
「はい」
「やった!」
「そこで喜びすぎると調子に乗る」
カイルが言う。
「難しい!」
皆が笑う。
カイルは自分の負けの話を、以前ほど重く受け止めていないようだった。
もちろん悔しさは残っているだろう。
でも、その悔しさはもう腐っていない。
訓練に変わっている。
「カイルさん」
ベルクが大きな声で言う。
「負けた話はいい酒の肴になるぞ!」
「俺は肴にされたくない」
「でも、負けて強くなる奴はいい冒険者だ!」
「それは分かる」
カイルは短く答える。
「だから飲め!」
「話が飛びすぎだ」
「一杯だけ!」
「もう一杯飲んだ」
「じゃあ二杯目だ!」
「断る」
カイルはきっぱり断った。
ベルクは残念そうにしたが、次の瞬間にはガルドの方へ向いた。
「ガルド!」
「来るな」
「飲め!」
「飲んでる」
「もっと飲め!」
「お前に言われなくても飲む」
「さすが!」
「褒めるな」
ナナがすぐに割って入る。
「ガルドはこれ以上濃くしないよ」
「なんでだ」
ガルドが言う。
「朝までになりそうだから」
「早く閉めるんじゃなかったのか」
「そのつもりだったよ」
ナナは酒樽を見る。
「でも無理そうだね」
そこで、誰かが言った。
「じゃあ今日は、朝までですか?」
エインだった。
全員が黙った。
ナナがゆっくりエインを見る。
「エイン」
「はい」
「そういうことを言うと、本当になるんだよ」
「えっ」
「このギルドではね」
リオがため息を吐く。
「やっぱり今日は長くなりますね」
「ガルドの言う通りだったか」
ナナが肩をすくめる。
「経験だ」
ガルドは得意げに酒を飲んだ。
ミレナが受付で書類を閉じた。
「……私は、仕事が終わったら帰るつもりでした」
「帰れますよ」
リオが言う。
「帰れますけど」
ミレナは酒場側を見る。
皆が笑っている。
ベルクがいる。
ドーガもいる。
アルも珍しく席を外していない。
セリアも茶を飲んでいる。
「少しだけなら」
ミレナはそう言った。
ナナがにやりと笑う。
「はい、来た」
「何ですか」
「ミレナの少しだけは、だいたい長い」
「そんなことありません」
「前もそう言って報告書談義で二刻いたよ」
「それは必要な話でした」
「今日は必要?」
「……交流です」
「便利な言葉だね」
ミレナは少しだけ耳を赤くした。
リオはそれを見て笑った。
こういうミレナは珍しい。
いつも受付でしっかりしている分、少し崩れると皆が嬉しそうにする。
酒場の端では、レオンとユーンが真面目に鞄の仕切りについて話していた。
その隣でエインが口を挟む。
「ロープの場所はもっと上がいいです!」
「なぜですか」
ユーンが聞く。
「すぐ出したいから!」
「それなら外側でも」
「外側だと引っかかる可能性があります」
レオンが言う。
「なるほど!」
「あと、エインさんは走るので、揺れで落ちない固定が必要です」
「走らないようにします!」
全員が少し黙った。
「……努力します!」
「そっちなら信用できます」
リオが言う。
「ひどい!」
「でも事実です」
メイナが笑う。
そのやり取りを見て、セリアが穏やかに言った。
「最近、皆さん本当に変わりましたね」
「そうですか?」
リオが聞く。
「はい」
「誰が一番変わりました?」
ナナが面白そうに聞く。
セリアは少し考える。
「全員少しずつ」
「答えが優しい」
「本当ですよ」
セリアは微笑む。
「エインくんは、止まることを覚えました。リオくんは、人を見ることが増えました。メイナさんは、場を整えるのが上手になりました。レオンくんは、少し笑うようになりました」
「私もですか」
レオンが少し驚く。
「はい」
「自覚がありません」
「だから良いんです」
セリアは言う。
「ユーンさんは、小さく作ることを覚えました」
「はい!」
「カイルさんは、負けを使おうとしています」
カイルは黙って杯を見る。
「ミレナさんは、助けを求めるのが少し上手になりました」
ミレナが目を瞬かせた。
「私も?」
「はい」
「……そうでしょうか」
「そうですよ」
ナナが頷く。
「アルがいない日に、ちゃんと大変って言ってたしね」
「それは」
「大事だよ」
ミレナは少しだけ目を伏せた。
「そうかもしれません」
「ガルドさんは」
エインが言った。
「ガルドさんは変わりました?」
セリアがガルドを見る。
ガルドは嫌そうな顔をする。
「俺を巻き込むな」
「変わりましたよ」
セリアは即答した。
ガルドの手が止まる。
「どこがだ」
「昔より、若い子達を見ています」
「見てねえ」
「見ています」
「暇だからな」
「それは理由になりません」
セリアの声は優しいが強かった。
ガルドは勝てない。
「それに、褒めるようになりました」
ナナが追撃する。
「エインくんを褒めたもんね」
「悪くなかったと言っただけだ」
「それを褒めるって言うんだよ」
「リオも褒めたよね」
メイナが言う。
「それは……ついでだ」
「ついでで褒めるんだ」
ガルドが完全に不利になった。
「ガルドさん」
エインが目を輝かせる。
「これからも褒めてください!」
「調子に乗るな」
「はい!」
「褒めてねえ」
「でも嬉しいです!」
「面倒くせえな」
ガルドは酒を飲んだ。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
話はだんだん広がっていった。
誰が一番寝相が悪いか。
誰の報告書が読みやすいか。
誰が一番怒らせてはいけないか。
これは満場一致でセリアになりかけたが、セリアがにこりと笑ったため、誰も大きな声では言わなかった。
「セリアさんは優しいです!」
エインが必死に言う。
「必死だな」
ベルクが笑う。
「優しいのは本当です!」
「怖いのも本当だろ」
「ベルクさん!」
セリアが笑顔で見る。
「何でもねえ!」
ベルクが即座に引いた。
ギルドが爆笑する。
ミレナは「怒らせてはいけない人」部門にアルも入ると言った。
アルは不思議そうにする。
「俺はあまり怒らない」
「だからです」
ミレナが言う。
「普段怒らない人が怒ると怖いんです」
「そうか」
「アルさんは、自覚がないところが怖いです」
リオが言う。
「自覚がない」
アルは少し考え込む。
「圧をかけているつもりはないのだが」
「それが怖いんです」
ナナが言う。
「気をつける」
「気をつけたらもっと怖そう」
エインが小声で言った。
「聞こえている」
アルが言う。
「すみません!」
また笑いが起きる。
夜は深くなっていく。
最初は早く閉めるはずだった酒場は、すっかり長居の場になっていた。
ナナももう諦めて、追加の軽食を出している。
酒は濃くしすぎず、水も茶も出す。
セリアがいるため、飲みすぎる者はすぐ注意される。
ベルクは三回注意された。
「ベルクさん」
セリアが言う。
「水も飲んでくださいね」
「飲んでる!」
「酒ではなく、水です」
「はい」
ベルクは素直に水を飲む。
ドーガがそれを見て短く言った。
「昔から変わらない」
「何がだ?」
「飲みすぎる」
「変わってるだろ!」
「少し」
「少しか!」
「昔はもっとひどかった」
「それは否定できねえな!」
ベルクは笑った。
前回の昔話の重さがあるから、その笑いが少し違って聞こえる。
だが、今日は重くならない。
むしろ、ベルクが笑っていることが嬉しい。
「ドーガさん」
リオが聞く。
「昔のベルクさんって、今よりもっと騒がしかったんですか?」
「騒がしかった」
ドーガは即答した。
「どのくらい?」
「今のエインとベルクを足したくらい」
酒場が静かになった。
エインが目を丸くする。
「え」
ベルクも目を丸くする。
「おい」
リオが想像して、顔をしかめた。
「それは……かなり」
メイナが言う。
「迷惑ですね」
「迷惑だった」
ドーガが短く答える。
「ドーガ!?」
ベルクが叫ぶ。
「そこまで言うか!」
「事実だ」
「昔からそんなにはっきり言う奴だったか!?」
「昔から」
「そうだった!」
皆が笑った。
「じゃあ、昔のドーガさんは?」
エインが聞く。
ベルクがすぐ答える。
「今と同じだ!」
「えっ」
「無口で、飯が早くて、盾がでかい!」
「ほぼ今ですね」
リオが言う。
「あと、若かった」
ドーガが言った。
「それは全員そうです!」
エインが笑う。
「ドーガさんの冗談、じわじわ来ますね」
「冗談ではない」
「そこがまた」
また笑いが起きた。
しばらくして、話題は「初めて受けた依頼」になった。
リオは自分の初依頼を思い出す。
今となっては少し恥ずかしい。
エインはやたら張り切っていた初依頼の話をした。
「俺、最初の依頼で、荷物を二つ持とうとして」
「転んだ?」
メイナが聞く。
「転びかけました!」
「やっぱり」
「でもその時はまだギリギリ転んでません!」
「そこを誇るんだ」
レオンの初依頼は、薬草採取だったらしい。
「採取範囲を記録し、葉の状態を分類しました」
「初依頼からレオンですね」
リオが言う。
「どういう意味でしょうか」
「褒めてます」
「ありがとうございます」
メイナの初依頼は、小さな荷物の護衛だった。
「とにかく周りを見ることだけで精一杯だった」
「今もよく見てますよね」
リオが言う。
「うん。でも今は、何を見るべきか少し分かるようになった気がする」
「それ、分かります」
リオも頷く。
「前は全部怖く見えて、今は怖いものとそうじゃないものの差が少し分かる感じ」
「まだ全部は分からないけどね」
「はい」
カイルの初依頼は、魔物討伐ではなく、意外にも修繕補助だった。
「剣士なのに?」
エインが驚く。
「冒険者の仕事は剣だけではない」
カイルが言う。
「最初にそれを学んだ」
「何を直したんですか?」
「柵」
「柵」
「魔物に壊された畑の柵だ。ずっと釘を打っていた」
「意外ですね」
リオが言う。
「俺もそう思った。だが、今思えば良かった」
「どうしてですか」
「守るということは、魔物を斬ることだけではないと最初に知れたからだ」
少し静かになる。
カイルらしい言葉だった。
ガルドがぼそっと言う。
「硬いな」
「うるさい」
カイルが返す。
「でも悪くない」
「……そうか」
カイルは少しだけ目を逸らした。
ガルドの褒め方は相変わらず雑だ。
だが、受け取る側も少し慣れてきている。
そして、自然とガルドの初依頼の話になった。
「ガルドさんの初依頼って何だったんですか!」
エインが聞く。
「忘れた」
ガルドが即答する。
「絶対嘘です」
リオが言う。
「忘れた」
「間がないので逆に怪しいです」
「覚えてねえ」
ナナがにやにやする。
「漆黒より前?」
「やめろ」
「気になるなぁ」
「気にするな」
アルが静かに言った。
「覚えている」
ガルドがアルを睨む。
「お前」
全員がアルを見る。
「アルさん、知ってるんですか?」
リオが聞く。
「ああ」
「話していいんですか?」
「本人が話さないなら」
「やめろ」
ガルドが言う。
「初依頼は、鶏探しだ」
沈黙。
それから、爆笑。
「鶏!?」
エインが叫ぶ。
「鶏探し!?」
「元裏方最強の初依頼が!」
「鶏!」
ナナがカウンターに突っ伏して笑っている。
ガルドは完全に嫌そうな顔をしていた。
「何が悪い」
「悪くないです!」
リオが笑いながら言う。
「でも面白いです!」
「鶏は足が速い」
アルが真面目に補足した。
「補足がまた面白い!」
メイナが笑う。
「ガルドは三時間追った」
「アル!」
「しかも逃げられた」
「やめろ!」
「最終的にセリアが餌で捕まえた」
セリアが少し困ったように笑う。
「そんなこともありましたね」
「セリアさんが勝者」
レオンが真面目に言う。
「鶏捕獲において、ガルドさんよりセリアさんが上だったのですね」
「言い方!」
エインが笑う。
ガルドは頭を抱えた。
「初依頼なんてそんなもんだろ」
「でも、かわいいですね」
メイナが言う。
「やめろ」
「鶏に逃げられるガルドさん」
「やめろ」
「漆黒の鶏追跡者」
「本気でやめろ」
酒場が笑いで揺れる。
ガルドは不機嫌そうに酒を飲むが、席を立たない。
たぶん、本気で嫌なら帰る。
残っている時点で、半分は許している。
「アルさんの初依頼は?」
エインが聞く。
「薬草採取だ」
アルは普通に答えた。
「普通ですね」
「普通だ」
「どうでした?」
「必要な薬草を採った」
「それだけですか!?」
「それだけだ」
ナナが笑う。
「アルらしい」
「何か失敗は?」
リオが聞く。
「ない」
「本当に?」
「ない」
ガルドが横から言った。
「嘘つけ。お前、薬草と雑草を一回間違えただろ」
アルが少しだけ黙った。
「……一束だけだ」
「あるじゃないですか!」
リオが言う。
「気づいて戻した」
「でも間違えたんですね」
「一束だけだ」
「アルさんが強調してる」
ナナが楽しそうに笑う。
完璧に見えるアルにも、ちゃんと初依頼の失敗がある。
その事実だけで、若手達は少し安心した。
「セリアさんは?」
メイナが聞く。
「私は、怪我をした冒険者さんの手当て補助でした」
「最初から治療なんですね」
「はい。でも最初は包帯をきつく巻きすぎて、怒られました」
「セリアさんでも?」
エインが驚く。
「もちろんです」
セリアは穏やかに笑う。
「最初から何でもできたわけではありません」
「なんか安心します」
「失敗して、覚えるんです」
その言葉に、若手達は静かに頷いた。
こういう話を聞ける夜は、貴重だ。
昔の英雄やベテラン達が、最初から今の姿だったわけではないと分かる。
鶏に逃げられたガルド。
雑草を混ぜたアル。
包帯をきつく巻きすぎたセリア。
そういう小さな失敗が、今の彼らにもあった。
夜がさらに深まる。
誰かが帰ると言いながら、結局もう一杯茶を飲む。
ベルクは水を挟みながらまだいる。
ドーガは静かに座っているが、眠そうではない。
ミレナは「そろそろ帰らないと」と三回言って、三回とも別の話題で座り直した。
ナナがそれを指摘すると、ミレナは「今度こそ帰ります」と言った。
その直後、ユーンが安全確認票の記入欄について質問したため、また座った。
「ミレナさん、帰れませんね」
リオが言う。
「帰るつもりはあります」
「ありますね」
「あります」
「でも帰れてません」
「……はい」
ミレナは諦めたように茶を飲んだ。
その姿に、皆が笑う。
そして、気づけば日付が変わっていた。
「本当に朝までコースでは?」
メイナが窓を見る。
外は真っ暗だ。
「まずいですね」
リオが言う。
「明日、依頼ある人は?」
ナナが聞く。
数人が手を上げる。
その中にエインがいた。
「エイン」
リオが言う。
「寝た方がいい」
「でも楽しいです!」
「明日の依頼で眠かったら駄目だろ」
「はい……」
エインはしょんぼりした。
ガルドが言う。
「楽しい時に引ける奴が長生きする」
その言葉に、少しだけ空気が静かになる。
ベルクの昔話を聞いた後だからか、その言葉は妙に重く聞こえた。
でも、ガルドはすぐに続ける。
「まあ、俺は引かねえけどな」
「駄目じゃないですか」
リオが言う。
「俺は明日依頼がねえ」
「ずるい」
「これがおっさんの特権だ」
「ろくでもない特権」
エインは迷った末、ルーカスと一緒に帰ることになった。
メイナも翌朝の用事があるため、途中で席を立った。
レオンは「睡眠不足は判断力を低下させます」と言い、きっちり帰った。
ユーンは「帰って鞄仕切りの案を」と言いかけ、ミレナに「徹夜禁止です」と言われて帰った。
若手達が少しずつ減ると、酒場は静かになった。
残ったのは、ガルド、ナナ、ベルク、ドーガ、ミレナ、アル、セリア、リオ。
カイルも帰ったと思ったが、端の席で静かに茶を飲んでいた。
「カイルさん、帰らないんですか」
リオが聞く。
「もう少しだけ」
「珍しいですね」
「たまにはな」
カイルは窓の外を見る。
「こういう夜も悪くない」
「そうですね」
ここからは、少しだけ大人の時間になった。
酒の量は減り、茶が増える。
声も少し落ちる。
でも、話は続く。
アルが昔、勇者と騒がれるのが嫌で、初めて「アルでいい」と言った時の話。
その場にいたガルドが、「じゃあ俺は漆黒で」と言いかけたところで、セリアに止められた話。
「言ってねえ」
ガルドが否定する。
「言いかけていました」
セリアが言う。
「セリアが言うなら本当だね」
ナナが笑う。
「くそ」
ベルクは、ドーガが結婚した時にものすごく緊張していた話をした。
「門より奥さんの父親の前の方が硬かったぞ!」
「緊張した」
ドーガは素直に認めた。
「ドーガさんでも緊張するんですね」
リオが言う。
「する」
「何を話したんですか」
「娘さんを大事にします、と言った」
「ちゃんとしてる」
「それしか言えなかった」
ドーガらしい。
セリアは、治療棟で一番困る患者は「痛くない」と嘘をつく人だと言った。
全員の視線がガルドに向いた。
「俺を見るな」
「ガルドさん、絶対言いますよね」
リオが言う。
「痛くねえ時は痛くねえ」
「痛い時も言わないじゃないですか」
「面倒だからな」
セリアがにこりと笑う。
「次からちゃんと言ってくださいね」
「……はい」
ガルドが負けた。
何度見ても、セリアには弱い。
ミレナは、初めて受付に立った日の話をした。
緊張しすぎて、依頼人に渡す書類と、内部用の記録紙を間違えかけたらしい。
「ミレナさんでもですか」
リオが驚く。
「はい。最初は本当に緊張しました」
「想像できないですね」
「今でも緊張することはあります」
「そうなんですか」
「ありますよ。怒っている依頼人も来ますし、怪我人が運ばれてくることもあります。判断を間違えたくないですから」
その言葉に、リオはアルがいない日を思い出した。
ミレナもずっと、何かを背負って受付に立っているのだ。
軽く見てはいけない。
ナナは笑って言った。
「私は初日、酒瓶を落として割った」
「意外です」
メイナが帰った後なので、リオが代わりに驚く。
「意外でもないでしょ。最初は慣れてなかったんだよ」
「怒られました?」
「めちゃくちゃ怒られた」
「誰に?」
「先代の店番」
「怖かったんですか」
「怖かった。でも、そのあと“割った分は覚えておきな”って言われた」
「覚える?」
「次は手の置き方を変える。棚の並べ方を変える。落としたことをただの失敗にしない」
ナナは笑う。
「今思えば、ガルドみたいなこと言ってたね」
「俺みたいにするな」
ガルドが言う。
「ガルドもよく似たこと言うよ」
「俺はもっと雑だ」
「自覚あるんだ」
静かな笑いが広がる。
外は夜の底みたいに暗い。
でも、酒場の中だけは温かい。
リオは少しぼんやりしていた。
眠い。
でも、帰りたくない。
この会話をもう少し聞いていたい。
誰かの初めて。
誰かの失敗。
誰かの昔。
そういうものが、ゆっくり積もっていく夜だった。
「リオくんは?」
ナナが聞いた。
「僕ですか?」
「うん。最近どう?」
「ざっくりですね」
「ざっくりでいいよ」
リオは少し考えた。
最近。
いろいろあった。
風邪で休んだ。
エインを見守った。
カイルの負けを見た。
アルの不在で支える大変さを知った。
古い手紙を届けた。
ベルクの昔話を聞いた。
ユーンが落ち込む姿を見た。
「なんか」
リオはゆっくり言う。
「このギルドにいるのが、当たり前になってきました」
皆が少し静かになる。
「最初は、ガルドさんに振り回されて、エインがうるさくて、ユーンさんが危なくて、ナナさんが笑ってて、ミレナさんが怒ってて」
「今もじゃない?」
ナナが言う。
「今もです」
リオは笑う。
「でも、今はそれが落ち着きます」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
けれど、取り消したくはなかった。
「変ですね」
「変じゃないよ」
セリアが言う。
「居場所になったんですね」
リオは黙って頷いた。
ガルドが少しだけ目を逸らす。
「若いのが夜中に妙なこと言うな」
「ガルドさんも、さっき結構いいこと言ってましたよ」
「言ってねえ」
「楽しい時に引ける奴が長生きする、って」
「あれは普通だ」
「でも、いい言葉でした」
「うるせえ」
ナナがにやにやする。
「ガルド、照れてる」
「照れてねえ」
「今日は照れ多めだね」
「うるせえ」
また笑いが起きる。
その笑いの後、少しだけ沈黙があった。
嫌な沈黙ではない。
誰も急いで話さない時間。
杯を置く音。
猫が伸びをする音。
外の風。
暖炉の小さな音。
その全部が、やけに近く感じられた。
夜が明ける少し前。
窓の外が、ほんのわずかに薄くなった。
ナナが気づいて笑う。
「あーあ」
「何ですか」
リオが眠そうに聞く。
「本当に朝になっちゃった」
全員が窓を見る。
空の端が、うっすら青い。
朝だ。
完全に朝まで飲んでしまった。
ミレナが両手で顔を覆った。
「……帰ると言ったのに」
「交流です」
ナナが言う。
「便利な言葉を返さないでください」
アルが静かに立ち上がる。
「少し仮眠してから仕事に入る」
「アルさんも寝るんですね」
リオが言う。
「寝る」
「安心しました」
「俺も人間だ」
「たまに忘れます」
「忘れるな」
カイルも立ち上がる。
「朝訓練は中止だな」
「助かります」
リオが正直に言う。
「明日にする」
「はい」
セリアはミレナを見る。
「今日は無理しないでくださいね」
「セリアさんもです」
「はい」
ナナは酒場を見回した。
片付けるものは多い。
空いた杯、皿、椅子、毛布ではないが誰かが肩にかけていた布。
でも、表情は悪くない。
「さて」
ナナが言う。
「早く閉めるつもりだったのに、開店時間が来ちゃったね」
「最悪じゃないですか」
リオが言う。
「まあ、たまにはね」
ベルクは豪快に伸びをした。
「朝飯も食ってくか!」
「帰ってください」
ナナが即答した。
「ひどい!」
「少し寝てから来な」
「分かった!」
ドーガも立ち上がる。
「帰る」
「ドーガさん、眠くないんですか」
リオが聞く。
「眠い」
「ですよね」
「でも帰る」
「お疲れ様です」
ドーガは短く頷いた。
ベルクとドーガが並んで出ていく。
朝の薄い光が扉の隙間から入った。
それを見て、リオは少しだけ胸が詰まった。
何も起きない夜だった。
いや、何も起きなかったわけではない。
たくさん話した。
笑った。
昔の失敗を聞いた。
誰かの初めてを聞いた。
自分のことも少し話した。
朝まで起きてしまった。
それだけの夜。
でも、たぶん、こういう夜が後で大事になる。
豪雨で帰れなくなった夜と同じように。
誰も知らない依頼を届けた日と同じように。
ベルクの昔話を聞いた夜と同じように。
リオは、眠い目をこすりながら立ち上がった。
「片付けます」
「寝なよ」
ナナが言う。
「少しだけ」
「その少しだけは危ないよ」
「ミレナさんと同じですね」
「失礼では?」
ミレナが眠そうな顔で言う。
リオは笑った。
「じゃあ、片付けたら寝ます」
「よし」
ナナは皿を渡す。
「これお願い」
「はい」
ガルドはまだ席に座っていた。
「ガルドさん、寝ないんですか」
「ここで少し寝る」
「通路じゃないからいいですけど」
「お前、最近俺の寝る場所に厳しいな」
「必要なので」
「うるせえ」
ガルドは椅子に深く沈む。
猫がその足元で丸くなる。
朝の光が少しずつ差し込む。
酒場の中に、夜の名残と朝の空気が混ざる。
ナナが窓を開けた。
冷たい空気が入り、酒と肉と茶の匂いが少し外へ流れる。
「朝だね」
ナナが言う。
「朝ですね」
リオが答える。
「眠い?」
「かなり」
「でも楽しかった?」
「はい」
リオは素直に頷いた。
「かなり」
ナナは満足そうに笑った。
「なら、まあいいか」
朝まで飲む日。
大事件はない。
誰かが劇的に成長したわけでもない。
強敵が出たわけでもない。
依頼を達成したわけでもない。
ただ、同じ場所で、同じ夜を長く過ごした。
それだけ。
でも、リオは思った。
このギルドが好きだ。
騒がしくて、面倒で、変な人ばかりで、油断すると朝になるような場所。
それでも、ここがいい。
そう思えた夜だった。
そして、そのまま朝になってしまったので。
リオは昼前まで、受付横の椅子で見事に寝落ちした。
起きた時、目の前にはミレナの書いた紙が置かれていた。
『無理をしないこと』
その横に、ナナの字で小さく追記があった。
『朝まで起きてた人が言われるやつ』
さらに下に、ガルドの雑な字で一言。
『寝ろ』
リオはそれを見て、少し笑った。
そして、もう一度寝た。




