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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第92話「ユーンが静かな日」

 ユーンが静かだと、ギルドはざわつく。


 普通は逆だ。


 騒がしい人間がいれば、周囲はざわつく。


 静かになれば、少し落ち着く。


 だが、ユーンの場合は違う。


 普段から何かを思いつき、何かを作ろうとし、何かを効率化しようとし、何かを回転させようとし、何かを吊るそうとし、何かを滑らせようとする男である。


 馬車に乗れば暴走する。


 寝床を作れば柱が折れる。


 酒棚を見れば回転式にしようとする。


 書類を見れば流そうとする。


 病人の見舞いを効率化しようとして、危うく薬を投射しようとする。


 だから、ユーンが元気よく「思いつきました!」と言わない日は、むしろ不安になる。


 その日も、朝から違和感があった。


「……ユーンさん、静かですね」


 リオが最初に言った。


 受付前。


 いつもの朝。


 ミレナが書類を整え、ナナが酒場側で皿を拭き、ガルドが椅子でだらけ、エインが掲示板の前で依頼票を見ている。


 カイルは壁際。


 メイナとレオンは装備確認。


 アルは奥で書類。


 セリアは治療棟。


 いつものギルドだ。


 ただ、ユーンが静かだった。


 酒場の端の席に座り、何かの図面を見ている。


 しかし、いつものように目が輝いていない。


 口も開かない。


 手元の道具も動いていない。


 ただ、図面を見ている。


「確かに」


 メイナが小声で言う。


「今日はまだ一回も“思いつきました”って言ってない」


「言わない方が平和なはずなんですけど」


 リオは眉を寄せる。


「なんか怖いですね」


「分かる」


 エインも頷いた。


「嵐の前みたいです」


「ユーンさんを嵐扱いするのはどうかと思うけど、否定できない」


 レオンが真面目にユーンを見る。


「発言数、動作量、周囲への干渉頻度、いずれも通常より低いです」


「観察が細かい」


「異常値です」


「言い方」


 ナナがカウンター越しにちらりと見る。


「あれは、落ち込んでるね」


「ユーンさんが?」


 リオが聞き返す。


「うん」


「落ち込むんですか?」


「そりゃ落ち込むでしょ」


 ナナは少し笑う。


「人間だし」


「それはそうなんですけど」


 リオはもう一度ユーンを見た。


 ユーンはまだ図面を見ている。


 いつもなら、誰かが見ただけで近づいてきて説明を始める。


 今日は何も言わない。


 確かに、落ち込んでいるように見える。


「何かあったんですかね」


 メイナが言う。


「昨日、何かやらかしました?」


 エインが聞く。


「毎日何かやらかしかけてるので、特定が難しいですね」


 リオが真顔で言った。


「ひどい!」


 ユーンではなく、エインがなぜか反応した。


「でも事実です」


 レオンが言う。


「レオンが言うと刺さる」


 ミレナが受付から静かに言った。


「昨日、ユーンさんの書類自動仕分け装置は正式に却下されました」


「ああ」


 リオは思い出す。


 アルがいない日に出しかけた、書類を傾斜板で流して分類する危険装置。


 アルが帰ってきてから正式に「不要だ」と判断した。


 レオンも安全性と再現性に問題があると説明した。


 ユーンはその場で「理論と権限の合わせ技」と崩れ落ちていた。


「でも、いつもなら却下されても翌日には別の案を出してますよね」


 エインが言う。


「そうですね」


 リオも頷く。


「むしろ却下されると改良案を出す」


「つまり」


 レオンが言う。


「今回は却下の内容が、通常より深く刺さった可能性があります」


「刺さった」


 メイナが少し心配そうにする。


「ユーンさん、いつも平気そうに見えるけど」


「平気じゃない時もあるんでしょうね」


 リオはそう言って、少しだけ胸が痛んだ。


 ユーンはいつも騒がしい。


 だから、周囲もつい強く止める。


 止めなければ危険だからだ。


 実際、止めないと柱が折れるし、書類が飛ぶし、馬車が暴走する。


 だが、危険な発明を止めることと、本人の全部を否定することは違う。


 その線を、ちゃんと引けていただろうか。


 リオは少し考え込んだ。


「リオくん」


 ミレナが言う。


「様子を見てきてもらえますか」


「僕がですか?」


「はい」


「ミレナさんじゃなくて?」


「私だと、どうしても注意する側になってしまうので」


 ミレナは少し困ったように言った。


「今は、まず話を聞いた方がいい気がします」


「分かりました」


 リオは頷いた。


 ガルドが椅子から声を出す。


「変に励ますなよ」


「分かってます」


「たぶん、ああいう時は励まされると余計面倒だ」


「経験者ですか?」


「俺は落ち込まねえ」


「嘘ですね」


「うるせえ」


 ナナが笑う。


「ガルドも昔、装備を笑われて落ち込んでたんじゃない?」


「ナナ」


「漆黒の」


「やめろ」


 少しだけいつもの空気が戻りかけた。


 だが、ユーンは反応しなかった。


 普段なら絶対に「漆黒の装備を改良すれば」くらい言うはずだ。


 これは、かなり重症かもしれない。


 リオはユーンの席へ向かった。


「ユーンさん」


「……はい」


 返事が小さい。


 いつもの元気がない。


「隣、いいですか」


「どうぞ」


 リオは席に座る。


 ユーンの前には図面があった。


 書類自動仕分け装置。


 角度、幅、紙の流れ、分類箱の位置。


 かなり細かく書かれている。


 リオは思っていたより丁寧な図面に少し驚いた。


「これ、昨日の装置ですか」


「はい」


「すごく細かいですね」


 ユーンは少しだけ笑った。


「細かいだけです」


「そんなことは」


「でも、使えません」


 その声は静かだった。


「危ないので」


 リオはすぐに否定しようとして、やめた。


 実際、危ない。


 そこをごまかしてはいけない。


「危ない部分は、ありました」


 リオは言う。


「でも、考え自体は」


「考えも危ないです」


 ユーンが言った。


 いつものように勢いよく反論するのではなく、自分で言う。


「僕、昨日思ったんです」


「何をですか」


「僕は、効率化って言えば何でも許されると思っていたのかもしれません」


 リオは黙って聞いた。


「皆さんが止めてくれるから、事故になっていないだけで」


「……」


「もし誰も止めなかったら、僕、たぶん何回も大変なことをしていました」


「たぶんじゃなくて」


 リオは言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。


「何回かは、してましたね」


「ですよね」


 ユーンは苦笑した。


 弱い笑いだった。


「馬車も、寝床も、酒棚も、書類も。全部、僕は良くしようと思ってました」


「それは分かってます」


「でも、良くしようとして、余計悪くすることがあるんですよね」


「あります」


 リオは正直に答えた。


「それは、ユーンさんだけじゃないです」


「そうですか?」


「はい」


 リオは少し考えた。


「僕も、良かれと思って動いて失敗したことあります。エインもあります。ガルドさんも、たぶんあります」


「ガルドさんも?」


「昔、包丁一本で盗賊に突っ込もうとしたらしいです」


 ユーンが少しだけ目を上げた。


「それは……かなり」


「かなりですよね」


「漆黒の断罪者以前ですか?」


「たぶん」


「やはりガルドさんの過去は素材の宝庫ですね」


 ほんの少しだけ、ユーンの目に光が戻った。


 リオは安心しかける。


 だが、すぐにユーンは図面へ視線を落とした。


「でも、僕のは笑えない時があります」


「……そうですね」


「ミレナさんの書類が混ざったら困ります。セリアさんの治療道具に何かしたら危ないです。ガルドさんの黒歴史箱を改造したら」


「それは精神的に危ないです」


「はい」


 ユーンは真面目だった。


「昨日、レオンさんに安全性と再現性が不足していると言われて」


「はい」


「アルさんに不要だと言われて」


「はい」


「その時、初めて思ったんです。僕の発明、全部不要なのかもって」


 リオは息を止めた。


 そこまで落ちていたのか。


 普段、どれだけ止められてもすぐ次の案を出すユーンが、そこへ行き着くのは相当だ。


「全部不要ってことはないと思います」


 リオは言った。


「でも、今までほとんど止められています」


「止められていますね」


「成功したもの、ありましたっけ」


「……」


 リオは詰まった。


 すぐに思い出せない。


 ユーンがさらに落ち込む。


「ほら」


「待ってください。考えます」


「無理に探さなくていいです」


「いや、あります。何か」


 リオは必死に思い出す。


 馬車暴走。


 吊り下げ安眠装置。


 書類流し装置。


 酒棚回転案。


 見舞い投射器。


 多段式仮眠案。


 駄目だ。


 危険なものばかり出てくる。


 そこへ、ナナが近づいてきた。


「あるよ」


 リオとユーンが振り返る。


「ナナさん?」


「ユーンが作った小さい栓抜き」


「栓抜き?」


「ほら、前に酒瓶の古い栓が抜きにくいって言ったら、変な形のやつ作ってくれたでしょ」


 ユーンが目を瞬かせる。


「あれ、使ってるよ」


「まだ使ってるんですか?」


「使ってる」


 ナナはカウンター下から小さな道具を持ってきた。


 金属と木でできた、少し変わった形の栓抜き。


 派手ではない。


 回転もしない。


 吊り下げもしない。


 滑走もしない。


 ただ、持ちやすく、力をかけやすい形をしている。


「これ、普通に便利」


 ナナが言う。


「握力少なくても抜けるからね」


 ユーンは驚いたようにそれを見た。


「でも、それは小さいものです」


「小さいけど、使えるよ」


 ナナは笑った。


「毎日ではないけど、必要な時にちゃんと使ってる」


 セリアも治療棟から出てきた。


「私もありますよ」


「セリアさんも?」


「薬瓶を立てておく小さな台です。丸い瓶が転がらないように、ユーンさんが作ってくれました」


「あれ……」


「今も使っています」


 セリアは微笑む。


「とても助かっています」


 ユーンはさらに驚いた顔をする。


 ミレナも受付から顔を上げた。


「私も」


「ミレナさんも?」


「書類束を立てておく簡易支え。あれは便利です」


「でも、それ、ただの板を組んだだけで」


「その“ただの板を組んだだけ”が助かることもあります」


 ミレナは静かに言う。


「机の上で書類が倒れなくなりました」


 レオンがいつの間にか近くに来ていた。


「昨日の書類自動仕分け装置は危険でしたが、ユーンさんの発想全てが危険というわけではありません」


「レオンさん」


「小規模で、用途が明確で、使用者が操作を制御できるものは有用です」


「褒めてます?」


「はい」


「でも言い方が硬いです」


「申し訳ありません」


 ユーンは少し笑いそうになった。


 でも、まだ完全には戻っていない。


「小さいものばかりですね」


「いいじゃないですか」


 リオが言う。


「小さいけど、ちゃんと使われてる」


「でも、僕はもっと大きくて、すごくて、皆が驚くものを」


「そこが危ないんじゃねえか」


 ガルドが椅子から声を出した。


 ユーンがそちらを見る。


 ガルドは面倒そうに立ち上がり、近づいてきた。


「大きくてすごくて驚くもんは、大体危ねえ」


「……」


「お前の小さい道具は、便利だ」


「ガルドさんも使ってるんですか?」


「使ってねえ」


「そこは使っててくださいよ」


「俺は道具に頼らん」


「でも栓抜きは使いますよね」


「酒はナナが開ける」


「だらしない」


 リオが言うと、ガルドが睨んだ。


「でもな」


 ガルドは続ける。


「お前、前に俺の椅子の脚直しただろ」


「椅子?」


「あの古い椅子。がたついてたやつ」


「ああ、木片を噛ませた」


「あれから倒れてねえ」


 ユーンが目を丸くする。


「覚えてたんですか」


「毎日座ってるからな」


「それ、直したの僕です」


「知ってる」


「……」


「でかい装置より、ああいうのでいいんじゃねえの」


 ガルドの言い方は雑だった。


 でも、リオには分かった。


 これは、かなり褒めている。


 ユーンにも伝わったらしい。


 少しだけ、肩の力が抜けた。


「僕は」


 ユーンが言う。


「大きな発明じゃなくてもいいんですかね」


「いいんじゃないですか」


 リオは答える。


「むしろ、まず小さい方がいいと思います」


「まず?」


「はい。小さくて、危なくなくて、誰かがちゃんと使えるもの」


 レオンが頷く。


「試作規模を小さくし、使用者の要望を明確化することは重要です」


「また硬いです」


「つまり」


 メイナが言う。


「誰かが本当に困ってることを、ちょっと楽にする道具から作ればいいんじゃない?」


 ユーンはその言葉を聞いて、しばらく黙った。


「誰かが、本当に困ってること」


「そう」


「僕が勝手に困っていると思ったことではなく?」


「うん」


 メイナは頷く。


「聞いてから作る」


「聞いてから」


 ユーンは図面を見る。


 書類自動仕分け装置。


 効率化。


 自動化。


 大きい。


 驚く。


 でも、ミレナにとって本当に必要だったのは、書類が倒れない小さな支えだった。


 ナナに必要だったのは、開けやすい栓抜きだった。


 セリアに必要だったのは、薬瓶が転がらない台だった。


 ガルドに必要だったのは、椅子が倒れないことだった。


 派手ではない。


 でも、使われている。


「……なるほど」


 ユーンは小さく言った。


「僕、順番を間違えていたのかもしれません」


「順番?」


 リオが聞く。


「驚かせたいが先でした」


 ユーンは苦笑する。


「便利にしたいより、すごいと言われたいが先だったのかもしれません」


 それを自分で言えるのは、かなり大きい。


 リオはそう思った。


「すごいと言われたいのは、悪いことじゃないと思います」


 リオは言う。


「僕も、たぶん褒められたいですし」


「たぶんを」


 ガルドが言いかけた。


 リオは苦笑する。


「今のは許してください」


「まあいい」


「でも、誰かが本当に助かって、その結果すごいと言われる方が、たぶん」


「また」


「言い直します」


 リオは少し笑う。


「その方が、きっと嬉しいです」


 ユーンは静かに頷いた。


「そうかもしれません」


 その時、エインが勢いよく手を上げた。


「じゃあ、僕困ってます!」


「何に?」


 メイナが聞く。


「荷物がすぐぐちゃぐちゃになります!」


「それはエインが雑だから」


「でも困ってます!」


 ユーンが少しだけ顔を上げる。


「荷物整理」


「はい!」


「どんな風にぐちゃぐちゃに?」


「依頼に行く時、ロープと布と水袋と道具が混ざって、必要な時に出てきません!」


「なるほど」


 ユーンの目が少しだけ真剣になる。


「鞄の中に仕切りを作れば」


「お」


 リオが警戒する。


「回転は?」


「しません」


「吊り下げは?」


「しません」


「滑走は?」


「しません」


「なら聞きます」


 ユーンは少し考え始めた。


「仕切りを取り外せる形にして、依頼内容によって配置を変えられるようにすれば……でも金具を使いすぎると重くなるので、布と軽い板で」


「ユーンさん」


 リオが言う。


「今の、すごく普通に便利そうです」


 ユーンが固まった。


「普通に便利」


「はい」


「普通に」


「はい」


「普通……」


 ユーンは少しだけ目を輝かせた。


「普通に便利……いいですね」


「そこに刺さるんですね」


「大発明ではないですが」


「大発明じゃなくていいです」


 ミレナが言う。


「むしろ大発明ではない方が安心できます」


「それは少し複雑です」


 ナナが笑う。


「まずはエインの鞄からだね」


「はい!」


 エインが嬉しそうにする。


「ただし、実験中に荷物を飛ばしたら却下です」


 ミレナが言う。


「飛ばしません!」


 ユーンが言う。


「荷物は飛ばすものではなく、取り出すものです」


 全員が少し黙った。


「ユーンさんがまともなことを……」


 エインが呟く。


「失礼では!?」


「でも今のは良かった」


 リオが言う。


 ユーンは少しだけ笑った。


 まだ完全にいつもの調子ではない。


 でも、朝の沈んだ空気とは違う。


「では、まずエインさんの鞄を見せてもらっても」


「はい!」


 エインが鞄を持ってきた。


 中身を開ける。


 ぐちゃぐちゃだった。


 全員が黙る。


「これは……」


 レオンが眉をひそめる。


「想像以上ですね」


「ロープと布が絡まっています」


 メイナが言う。


「水袋の横に干し肉入れるな」


 ガルドが言う。


「えっ、駄目ですか」


「匂いが移るだろ」


「なるほど!」


「なるほどじゃねえ」


 ユーンは鞄の中を見て、真剣な顔になった。


「これは、確かに困ります」


「ですよね!」


「ただ、原因の半分は整理不足です」


「ですよね……」


「ですが、道具で補助できます」


 ユーンは紙を一枚取り出した。


 新しい図面を描き始める。


 小さな仕切り。


 布製の袋。


 取り外しできる板。


 ロープを巻くための簡単な留め具。


 水袋用の区切り。


 緊急用の薬をすぐ取り出せる小さな外ポケット。


 それは、驚くほど普通だった。


 そして、驚くほど使えそうだった。


「ユーンさん」


 レオンが図面を覗き込む。


「この構造なら、鞄の重量増加を抑えられそうです」


「本当ですか?」


「はい。ただ、外ポケットの蓋は雨対策が必要です」


「なるほど」


 レオンとユーンが普通に相談している。


 少し前なら、レオンが理論で止めてユーンが崩れ落ちるだけだった。


 今日は違う。


 レオンが指摘し、ユーンが受け取る。


 改善する。


 リオはそれを見て、少し嬉しくなった。


「こういうの、いいですね」


 メイナが言う。


「うん」


 リオは頷く。


「危なくないユーンさん」


「それ、褒めてます?」


 ユーンが聞く。


「かなり」


「かなり?」


「はい」


 ユーンは少しだけ照れたように笑った。


「では、危なくないユーンを目指します」


「毎日は無理そうですね」


 ナナが言う。


「なぜですか!」


「たまに危ないからユーンって感じもあるし」


「それはどうなんですか!」


「でも、今日みたいなのもいいよ」


 ナナは笑った。


「静かすぎるのは心配だけどね」


 ユーンは少しだけ視線を落とす。


「すみません。心配を」


「いいよ」


 ナナは軽く言う。


「いつも心配させてる方向が違うだけだから」


「それは複雑です」


 昼過ぎには、試作品作りが始まった。


 ただし、今回はミレナの許可を取った。


 場所は酒場の端。


 使う道具は小型の裁縫道具と薄い板だけ。


 火薬なし。


 ばねなし。


 滑車なし。


 回転機構なし。


 吊り下げなし。


 この時点で、ギルド内の安心感が違った。


「本当に安全ですね」


 リオが言う。


「安全です」


 ユーンが答える。


「今のところ」


 ガルドが言う。


「今のところを付けるな」


 ナナが笑う。


 ユーンはエインの鞄に合わせて、仕切りを作っていく。


 意外と手先が器用だ。


 いや、考えてみれば当然なのかもしれない。


 あれだけ謎装置を作ろうとしているのだから、技術自体はある。


 問題は方向性だったのだ。


「ユーンさん、器用ですね」


 メイナが言う。


「ありがとうございます」


「今までなぜ柱を折る方向に」


「その件は反省しています」


「本当に?」


「はい」


「じゃあ、今後は柱に触らない?」


「必要がなければ」


「必要を作らないでください」


「はい」


 リオとガルドが同時に頷いた。


 完成したのは、夕方前だった。


 エインの鞄の中に、布と薄板でできた仕切りが入っている。


 ロープは巻いて固定。


 布は畳んで横へ。


 水袋は立てて収納。


 薬は外ポケット。


 小さな道具は内側の袋。


 試しにエインが走ってみた。


「走るな」


 カイルが言った。


「テストです!」


 エインが軽く揺らす。


 中身は崩れない。


「おお!」


 エインが目を輝かせる。


「すごい! 出しやすい!」


「本当ですか?」


 ユーンが少し不安そうに聞く。


「はい!」


 エインはロープを取り出す。


 すぐ出る。


 布も出る。


 薬も外ポケットからすぐ取れる。


「すごいです! いつもより早い!」


 エインは本気で嬉しそうだった。


「これ、依頼の時めちゃくちゃ助かります!」


 ユーンは少しだけ目を見開いた。


「助かる」


「はい!」


「本当に?」


「本当に!」


 エインは鞄を抱える。


「ありがとうございます、ユーンさん!」


 その瞬間、ユーンの表情が変わった。


 泣くわけではない。


 大げさに感動するわけでもない。


 ただ、少しだけ目を伏せて、息を吐いた。


 重かったものが、少し抜けたような顔だった。


「……よかったです」


 小さな声。


 それだけだった。


 でも、リオには十分だった。


 ユーンは落ち込んでいた。


 自分の作るものは全部不要なのかもしれないと思っていた。


 けれど今、誰かが目の前で助かったと言った。


 大きな発明ではない。


 回転しない。


 飛ばない。


 派手ではない。


 でも、使われる。


 それはきっと、ユーンにとって大事なことだった。


 ミレナが完成品を確認する。


「これは良いですね」


「ミレナさん」


「危険性も低いですし、実用的です。若手用にいくつか作ってもらえると助かるかもしれません」


「本当ですか?」


「はい。ただし、希望者の鞄の形を確認してからです。勝手に改造しないこと」


「はい!」


 ユーンの声に、少しだけいつもの元気が戻った。


「あと、作業場所と材料は申請してください」


「はい!」


「回転機構は禁止です」


「はい!」


「滑車も禁止です」


「……はい」


「少し間がありましたね」


「未練が」


「捨ててください」


「努力します」


 ギルドに笑いが起きた。


 いつもの笑い。


 ユーンも少し笑った。


 完全に元通りではない。


 でも、それでよかった。


 元通りにならなくてもいい。


 少しだけ違うユーンになればいいのだ。


 夜。


 酒場では、エインが新しい鞄仕切りを何度も試していた。


「ロープがすぐ出ます!」


「もう三回見た」


 メイナが言う。


「でもすごいんです!」


「分かったから」


 レオンが真面目に言う。


「この構造は、私の鞄にも応用可能かもしれません」


「レオンさんも?」


 ユーンが驚く。


「はい。私は記録板や筆記具を持つことが多いので、それらが折れない仕切りがあると助かります」


「なるほど。筆記具保護用」


「お願いします」


「はい!」


 メイナも手を上げる。


「私も、小さい道具が底に沈むの困ってた」


「作ります!」


 ルーカスも言う。


「僕もお願いします」


「はい!」


 依頼が増える。


 でも、今度は危険な発明ではない。


 誰かが本当に困っていることへの、小さな改良だ。


 ユーンは忙しそうにメモを取り始めた。


 その顔は、朝とは全然違う。


 ガルドがそれを見ながら酒を飲む。


「忙しくなったな」


「いいことじゃないですか」


 リオが言う。


「まあな」


「ガルドさんも椅子の修理、感謝してるんですよね」


「別に」


「してるんですよね」


「椅子が倒れねえのはいいことだ」


「それを感謝と言います」


「うるせえ」


 ナナが横から笑う。


「ガルドの椅子専属職人だね」


「嫌な肩書きです」


 ユーンが言う。


「でも、ガルドさんの椅子を守る大事な仕事ですよ」


「それは……大事なのでしょうか」


「ガルドが床で寝ないためには大事」


「確かに」


「納得するな」


 ガルドが言う。


 いつもの空気に戻っていく。


 ただ、今日のユーンは少しだけ違う。


 誰かが困っていることを聞いてから作る。


 安全か考える。


 大きくしすぎない。


 使われることを喜ぶ。


 その変化は、小さいけれど大事だった。


「リオさん」


 ユーンが作業の合間に声をかけた。


「はい」


「ありがとうございました」


「僕、何かしました?」


「話を聞いてくれました」


「それだけですよ」


「それが助かりました」


 ユーンは少しだけ照れたように言う。


「あと、ガルドさんの包丁突撃の話も」


「そこですか」


「参考になりました」


「何の参考に?」


「若気の至りは誰にでもあるという」


「ユーンさん、現在進行形で若気の至りが多い気がします」


「今後は減らします」


「ぜひ」


 リオは笑った。


 ユーンも笑った。


 落ち込んでいた朝が、少し遠くなる。


 その夜、ミレナは新しく一枚の申請用紙を作った。


『ユーン製作物 使用申請兼安全確認票』


 ユーンがそれを見て、目を丸くする。


「僕専用ですか!?」


「はい」


「専用書類!」


「嬉しそうにしないでください。安全確認のためです」


「でも専用」


「そこに喜ばないでください」


 ナナが笑う。


「よかったね、ユーン。正式に危険管理対象だよ」


「それは喜んでいいのでしょうか」


「半分くらい」


 レオンが真面目に言う。


「制度化されたということは、完全禁止ではなく、条件付きで認められるということでもあります」


 ユーンの顔が明るくなる。


「つまり、作っていい」


「安全なら」


 ミレナが強く言う。


「安全なら、です」


「はい!」


 ガルドがぼそっと言う。


「安全確認票が必要な人間ってすげえな」


「それ、褒めてます?」


 ユーンが聞く。


「半分」


「今日は半分褒めが多いですね」


「全部褒めると調子に乗るだろ」


「確かに」


「自分で納得するな」


 また笑いが起きた。


 リオはその笑いの中で、少しだけ安心していた。


 ユーンが静かな日。


 最初は怖かった。


 何か大きな事故の前触れかと思った。


 でも違った。


 ユーンは落ち込んでいた。


 自分の作るものが本当に誰かの役に立っているのか、分からなくなっていた。


 それは、笑って流せることではなかった。


 でも、ギルドにはちゃんと残っていた。


 ナナの栓抜き。


 セリアの薬瓶台。


 ミレナの書類支え。


 ガルドの椅子。


 小さいけれど、使われているもの。


 そして今日、エインの鞄仕切りが加わった。


 大きな発明ではない。


 英雄的な活躍でもない。


 でも、明日の依頼でエインがロープをすぐ取り出せるかもしれない。


 薬を探す時間が少し減るかもしれない。


 それが誰かを助けるかもしれない。


 そう考えると、小さな道具も馬鹿にできない。


「リオ」


 ガルドが声をかける。


「はい」


「お前、今日は余計なこと言わずに聞けたな」


「褒めてます?」


「半分」


「また半分」


「残り半分は、少し危なかった」


「何がですか」


「途中で必死に成功例探してただろ」


「見てたんですか」


「見てた」


「……焦りました」


「だろうな」


 ガルドは酒を飲む。


「落ち込んでる奴相手に、無理な慰めは大体ばれる」


「はい」


「でも、今日は周りが勝手に出してくれた」


「ナナさん達が」


「ああ」


「このギルド、そういうところ強いですね」


「普段迷惑かけられてる分、使えるものは覚えてるんだろ」


「言い方」


「事実だ」


 リオは笑った。


 確かに、ユーンにはみんな迷惑をかけられている。


 でも、それだけではない。


 助けられてもいる。


 小さく。


 地味に。


 本人すら忘れそうな形で。


 ギルドという場所は、そういうものが積み重なっているのかもしれない。


 夜が深くなり、ユーンはまだ机で作業していた。


 ただし、ミレナに時間を決められている。


「あと半刻です」


「はい!」


「それ以上は作業禁止です」


「はい!」


「徹夜も禁止です」


「はい!」


「勝手にエインくんの鞄を分解しないこと」


「はい!」


「少し残念そうですね」


「ほんの少し」


「駄目です」


「はい」


 エインは自分の鞄を抱きしめる。


「分解は困ります!」


「しません!」


「たぶん?」


「しません!」


「よし」


 リオが頷く。


 ユーンは少しだけ胸を張った。


「危なくないユーン、第一歩です」


「その言い方でいいんですか」


 メイナが笑う。


「はい」


 ユーンは今度こそ、いつものように明るく笑った。


「まずは、普通に便利なユーンを目指します!」


「それ、いいですね」


 リオが言う。


「普通に便利なユーン」


「なんか少し地味ですが」


「地味でも使われます」


 ユーンはその言葉を聞いて、静かに頷いた。


「はい」


 その返事は、朝よりずっと軽かった。


 泣くわけではない。


 劇的に変わるわけでもない。


 明日になれば、また少し危ない案を思いつくかもしれない。


 でも、その時はきっと、今日より一度多く考える。


 誰が困っているのか。


 これは本当に必要なのか。


 危なくないか。


 使う人が扱えるか。


 そうやって、少しずつ変わっていけばいい。


 ギルドの隅に、新しい紙が貼られた。


『ユーン製作物は安全確認後に使用すること』


 その下に、ナナが小さく書き足した。


『でも便利なものもある』


 ミレナはそれを見て、少しだけ悩んだ。


 注意書きとしては余計だ。


 でも、消さなかった。


 ユーンはそれを見つけて、しばらく黙っていた。


 そして、小さく笑った。


「ありがとうございます」


 誰に言ったのかは分からない。


 でも、その声はちゃんと届いた。


 ギルドは今日も騒がしい。


 危なっかしくて、雑で、誰かが何かを止めている。


 でも、誰かが落ち込んだ時には、ちゃんと小さな便利を覚えている。


 それで十分なのかもしれない。


 その夜、ユーンは徹夜せずに帰った。


 全員が少し驚いた。


「帰るんですか?」


 エインが聞く。


「はい。寝て、明日ちゃんと作ります」


「ユーンさんがまともなことを」


「失礼では!?」


 ギルドに笑いが起きた。


 ユーンは少し頬を膨らませ、それから笑って、扉を開けた。


「明日、普通に便利なものを作ります!」


 それだけ言って、出ていった。


 ガルドが酒を飲みながら呟く。


「普通に危なくないことを祈る」


「そこは信じましょうよ」


 リオが言う。


「半分な」


「また半分」


 リオは笑った。


 外は静かだった。


 ギルドの中には、まだ少し作業の跡が残っている。


 エインの鞄は、前より整っている。


 ミレナの机には安全確認票。


 酒場の棚にはユーンの栓抜き。


 治療棟には薬瓶台。


 ガルドの椅子は今日も倒れない。


 派手ではない。


 でも、確かにそこにある。


 ユーンが作った、小さな便利が。

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