■第91話「ベルクの昔話」
ベルクは、よく笑う。
声が大きい。
肩を叩く力も強い。
細かいことは気にしない。
飯は多い方がいい。
酒はうまい方がいい。
依頼は分かりやすい方がいい。
魔物が出たら殴る。
荷物が重ければ担ぐ。
若手が悩んでいたら「飯食え」と言う。
それでだいたい済ませようとする。
実際、ベルクの周りではそれで何となく空気が軽くなることが多かった。
だからリオは、ベルクのことを兄貴分のような人だと思っていた。
豪快で、気前が良くて、面倒見がよくて、少し雑。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、冒険者として長く生きている人間には、たいてい笑っていない時間がある。
そのことを、リオは最近少しずつ知り始めていた。
ガルドにも、アルにも、セリアにも、ドーガにも、バルドレイにも、昔がある。
笑い話になる昔もあれば、ならない昔もある。
ベルクにも、それはあった。
その夜は、特別な夜ではなかった。
依頼が大きく成功したわけでもない。
誰かの誕生日でもない。
外は静かで、雨も降っていない。
山も動いていない。
酒も消えていない。
ユーンの装置も、今のところ爆発していない。
ただ、夕方の依頼帰りにベルクが多めの肉を持って帰ってきた。
「獲物が多めに入ったんでな!」
そう言って、でかい包みを酒場のカウンターに置いた。
ナナがそれを見て目を丸くする。
「これ、かなりあるね」
「だろ? 今日は焼こうぜ」
「うちを勝手に焼肉場にしないで」
「頼む!」
「頼む顔じゃなくて、もう決定してる顔だね」
「頼む!」
「二回言っても同じだよ」
ナナは呆れながらも、肉を確認した。
「状態はいいね。じゃあ、少し出すよ。全部は無理」
「よし!」
「よしじゃない。調理するの私なんだから、ちゃんと手伝いな」
「おう!」
ベルクは豪快に笑った。
その声につられて、ギルドの空気が少し浮いた。
エインが真っ先に反応する。
「肉ですか!」
「声が大きい」
カイルがいつも通り言う。
「でも肉ですよ!」
「肉でも声は大きい」
「はい!」
「結局大きいな」
メイナが笑う。
レオンは真面目に肉の量を見て言った。
「保存を考えるなら、一部は塩漬けにした方がよいかと」
「真面目か」
ベルクが笑う。
「でも正しいね」
ナナが頷く。
「じゃあ、今夜出す分と保存分に分けるよ」
「レオンは本当にどこでも役に立つな!」
「ありがとうございます」
「褒め言葉を全部そのまま受け取るところ、いいよな!」
「褒め言葉でしたので」
「そうだな!」
ベルクはまた笑った。
夜。
酒場には肉の焼ける匂いが広がった。
それだけで、普段より人が増えた気がする。
ギルドにいる冒険者達は、こういう匂いに弱い。
ナナが焼いた肉を大皿に盛り、ベルクが皿を運び、エインが運ぶ途中で一枚つまみ食いしようとしてメイナに見つかった。
「エイン」
「まだ食べてません!」
「今、手が伸びてた」
「伸びただけです!」
「戻して」
「はい……」
リオはそのやり取りを見て笑った。
ガルドはいつもの席で酒を飲んでいる。
猫が足元にいる。
カイルは端の席で静かに食べている。
レオンはなぜか配膳の動線を考えて、テーブルの位置を少し調整している。
ミレナは受付業務を終え、珍しく早めに酒場側へ来ていた。
アルも奥の机から少し離れ、茶を手に座っている。
セリアは治療棟から出てきて、少しだけ肉を受け取った。
ドーガも門番の仕事を終え、無言で席に座っている。
「おお、ドーガも来たか!」
ベルクが嬉しそうに言う。
「肉の匂いがした」
ドーガは短く答えた。
「正直だな!」
「腹が減った」
「もっと正直だな!」
ベルクは大笑いした。
ドーガも、ほんの少しだけ口元を動かした。
たぶん笑った。
分かりにくいが、笑ったのだと思う。
肉と酒があると、人の口は軽くなる。
最初は、いつものくだらない話だった。
ベルクが若い頃、魔物と間違えて大きな岩に突撃した話。
酔っていたわけではなく、霧が濃かったらしい。
「それで?」
エインが身を乗り出す。
「剣を叩きつけたら、手が痺れてな!」
「岩ですもんね」
「そのあと仲間に三日笑われた」
「でしょうね!」
「でも、その岩がな、遠目に本当に魔物に見えたんだよ」
「言い訳ですね」
メイナが言う。
「おいおい、メイナまで辛辣になってきたな!」
「このギルドの教育です」
リオが言う。
「またそれか!」
ベルクは笑う。
次に、雨の日の護衛で、泥に足を取られて荷物ごと転んだ話。
その時に守っていた商人から「荷物は守ったが尊厳は守れなかったな」と言われたらしい。
「ひどいですね」
レオンが真面目に言う。
「でも事実だ!」
ベルクが胸を張る。
「胸を張ることではないかと」
「いいんだよ、笑えれば!」
そして、昔ドーガと組んでいた時の話になった。
「ドーガはな、昔から無口だったが、飯の時だけは早かった」
「今もでは?」
リオが言う。
ドーガは無言で肉を食べている。
確かに早い。
「ほらな!」
ベルクが笑う。
「こいつ、昔、三人分の煮込みを無言で食ったことがある」
「なぜですか」
レオンが聞く。
「残すともったいない」
ドーガが答える。
「なるほど」
「納得するんだ」
メイナが笑う。
「ドーガさんらしい」
「でもな」
ベルクは続ける。
「そのあと、依頼人の婆さんに“よく食べる子は偉い”って追加で出されて、さらに食ってた」
「食べたんですか」
リオが聞く。
「断れなかった」
ドーガは短く言った。
ギルドが笑いに包まれる。
「ドーガさん、そういうところありますよね」
セリアが微笑む。
「優しいですから」
「優しいか?」
ドーガが少しだけ首を傾げる。
「優しいですよ」
セリアが言うと、ドーガは何も言わず肉を食べた。
それは照れ隠しなのか、単に腹が減っているのか、リオには判断がつかなかった。
しばらく笑い話が続いた。
ベルクは話がうまい。
大げさに腕を振り、当時の自分の失敗を笑い、相手の口癖まで真似る。
エインはずっと笑っている。
ルーカスは途中から涙を拭いていた。
メイナも肩を震わせている。
レオンは真面目に聞いているのに、時々耐えきれずに笑う。
ナナは楽しそうに酒を足し、ミレナも少しだけ表情が柔らかい。
こういう時間は、ギルドらしい。
ただ騒がしいだけではない。
誰かの昔が、笑い話として今に混ざる。
けれど、その流れが少しだけ変わったのは、エインの一言からだった。
「ベルクさんって、昔からずっと同じ仲間と冒険してたんですか?」
悪気はなかった。
本当に、ただの興味だった。
ベルクも最初は笑っていた。
「おう、昔はいろいろ組んだな。ドーガとも長かったし、他にも何人かいた」
「今は?」
エインが聞く。
その瞬間、ほんの少しだけ空気が止まった。
本当に少し。
エインはすぐに気づいて、顔を青くした。
「あっ、すみません。変なこと聞きました?」
ベルクは笑った。
でも、その笑いはさっきまでと少し違った。
「いや、いいさ」
そう言って、杯を置いた。
「冒険者を長くやってるとな。今はいねえ奴の話も増える」
酒場の空気が静かになった。
完全に重くなったわけではない。
でも、みんな少しだけ声を落とした。
「死んだんですか」
エインが小さく聞く。
リオは止めようか迷った。
だが、ベルクは怒らなかった。
「ああ」
短く答えた。
「死んだ奴もいる。冒険者をやめた奴もいる。家に帰った奴もいる。どこかで生きてるかもしれねえが、もう会ってねえ奴もいる」
「……」
「ドーガと組んでた頃は、俺達の他に二人いた」
ベルクは杯を指で回す。
「一人は弓使いの女で、名前はライザ。口が悪くて、腕が良くて、俺より酒が強かった」
「ベルクさんより?」
メイナが少し驚く。
「おう。あいつは化け物だった」
ベルクは笑う。
「もう一人は、細い魔法使いでな。ティムって奴だった。体力がなくて、荷物を持つとすぐ文句を言うくせに、魔法だけは妙に器用だった」
「楽しそうな人達ですね」
リオが言う。
「ああ。楽しかった」
ベルクははっきり言った。
「馬鹿みたいに楽しかった」
その言い方が、少し胸にきた。
「ライザはな」
ベルクは続ける。
「飯の時、いつも一番いい肉を取るんだ」
「ベルクさんと取り合いになりそうですね」
「なった」
ベルクは笑う。
「毎回な。で、最終的にドーガが一番静かに食ってた肉が一番うまそうで、二人でドーガの皿を狙ってた」
ドーガが短く言う。
「迷惑だった」
「言えよ!」
「言った」
「言ってたか?」
「一回だけ」
「それは覚えてねえな!」
少し笑いが戻る。
だが、完全には戻らない。
みんな、ベルクがこれから何を話すのか分かっている。
「ティムは、雨が嫌いだった」
ベルクは言う。
「濡れると体が冷える、魔法の集中が乱れる、紙が湿る、髪が跳ねる。ずっと文句言ってた」
「細かい人だったんですね」
レオンが言う。
「お前と少し似てるかもな」
「そうですか」
「いや、ティムの方がもっとひねくれてた」
「では違いますね」
「そこははっきり言うんだな!」
ベルクは少し笑った。
それから、杯を見た。
「二人とも、死んだ」
静かな声だった。
酒場の音が、また少し遠くなる。
「依頼ですか」
リオが聞いた。
「ああ」
ベルクは頷く。
「討伐依頼だった。表示危険度はそこまで高くなかった。俺達なら問題ねえって思ってた」
その言葉だけで、リオは嫌な予感を覚える。
冒険者の失敗談は、大体そこから始まる。
問題ない。
いつも通り。
大丈夫。
「森の奥に出た魔物の討伐だった」
ベルクは続ける。
「数は少ない。村に被害が出る前に処理する。それだけの依頼だと思ってた」
「違ったんですか」
エインが小さく聞く。
「違った」
ベルクの声は重くない。
淡々としている。
でも、だからこそ重い。
「親がいた」
「親?」
「巣持ちの魔物だった。報告にあった小型の個体は、子だったんだよ。奥にでかいのがいた」
リオは息を呑む。
「戻る判断は?」
「遅れた」
ベルクは即答した。
「俺達は勝てると思った。実際、勝てない相手じゃなかった。準備して、場所を選んで、人数を揃えればいけた」
「でも、その時は」
「その場でやった」
ベルクは言う。
「ライザが最初に足をやられた。ティムが庇った。俺とドーガが前に出た。連携は悪くなかった。でも、相手が想定よりずっとしぶとかった」
ドーガが無言で杯を見ている。
普段、昔話にあまり口を出さないドーガも、黙って聞いている。
「ティムは最後まで文句言ってたよ」
ベルクは少しだけ笑う。
「“だから雨の日の森は嫌なんだ”ってな」
「雨だったんですか」
「ああ。雨だった」
豪雨で帰れなくなった日を、リオは思い出した。
暖炉があり、スープがあり、笑い話があった夜。
だが、昔の雨はそんなに優しくなかったのだろう。
「ライザは、俺に怒鳴った」
ベルクは言う。
「“こっち見るな、前見ろ”って」
「……」
「俺は前を見た。見たから、助かった」
リオは何も言えなかった。
「結局、魔物は倒した」
ベルクは静かに言う。
「討伐は成功だ。村も無事だった。報酬も出た。報告書には達成って書かれた」
その言葉が、リオの中に深く沈んだ。
昔の依頼書。
達成の二文字。
その裏にあるもの。
ベルクの話も、きっとどこかの古い記録には“達成”とだけ残っているのかもしれない。
「でも」
エインの声は震えていた。
「仲間が」
「ああ」
ベルクは頷く。
「二人死んだ」
酒場が静まり返る。
誰も茶化さない。
ナナも何も言わない。
セリアは少しだけ目を伏せている。
ミレナは両手で杯を包んでいた。
ガルドは黙って酒を飲んでいる。
アルは奥で目を閉じるようにして聞いている。
「俺はそのあと、しばらく肉が食えなくなった」
ベルクが言った。
少し唐突だった。
「え?」
エインが顔を上げる。
「飯の時、いつもライザがいい肉を取ってたからな。肉があると、あいつがいねえのを思い出す」
「……」
「ティムはスープに文句言う奴だった。だからスープ飲むと、うるせえ声が聞こえる気がした」
ベルクは笑う。
「冒険者ってのは変なもんだ。戦場で泣けねえ時に、食堂で泣きそうになる」
その言葉に、リオは胸が詰まった。
大きな悲しみは、意外と大きな場面では来ないのかもしれない。
いつもの食事。
いつもの席。
いつもの文句。
そこにいるはずの人がいない時に、初めて来るのかもしれない。
「ドーガさんは」
メイナが静かに聞いた。
「どうだったんですか」
ドーガはしばらく黙った。
そして、短く言った。
「盾を持つ手が重くなった」
その一言だけだった。
でも、それで十分だった。
「それから、俺達はしばらく組まなかった」
ベルクが言う。
「別々に依頼を受けた。顔合わせるのもきつかったからな」
ドーガは否定しない。
「でも、今は普通に話してる」
リオが言う。
「ああ」
ベルクは頷く。
「時間が経った。それだけだ」
「それだけで戻れるんですか」
エインが聞く。
ベルクは少し考えた。
「戻るっていうより、慣れるんだろうな」
「慣れる」
「いないことに慣れる。思い出すことに慣れる。笑って話すことに慣れる」
ベルクは杯を持つ。
「忘れたわけじゃねえ。でも、忘れねえまま飯を食うようになる」
その言葉は、少し救いのようだった。
悲しみは消えない。
でも、悲しみを抱えたまま生きることには慣れていく。
それは寂しいけれど、悪いことではないのかもしれない。
「だからな」
ベルクはエインを見る。
「若いの」
「はい」
「仲間と飯食える時は、ちゃんと食え」
「……はい」
「くだらねえ話できる時は、ちゃんと笑え」
「はい」
「依頼中は油断するな。でも、帰ってきたらうまいもん食え」
「はい」
エインの声は、いつもよりずっと小さかった。
「それが、残った奴の仕事みたいなもんだ」
ベルクはそう言って、肉を一切れ口に入れた。
その姿に、リオは何も言えなかった。
ベルクが肉を食べる。
笑って。
酒を飲んで。
若手の背中を叩く。
それはただ豪快なだけではないのだ。
食べられなかった時期を越えて、また食べるようになった人の明るさなのだ。
しばらく静かな時間が続いた。
けれど、ベルクはそれを長くは続けなかった。
「まあ、そういうわけで」
急に声を明るくする。
「今日の肉は残すなよ!」
「急に戻りましたね」
リオが言う。
「しんみりしたまま肉が冷めるのは嫌だろ!」
「それは確かに」
ナナが少し笑った。
「じゃあ温め直すね」
「頼む!」
「ベルク、皿運んで」
「おう!」
ベルクは立ち上がる。
さっきまで重い話をしていた人とは思えないくらい、また大きく動く。
でも、リオにはもう同じようには見えなかった。
その明るさの奥にあるものを、少しだけ知ってしまったからだ。
肉が温め直され、少しずつ会話が戻っていった。
エインはしばらく大人しかったが、ベルクがわざと大きな肉を皿に乗せると、目を丸くした。
「多くないですか!?」
「食え!」
「でも」
「若いんだから食え!」
「はい!」
「ただし、急いで食うな。喉に詰まらせたらセリアに怒られる」
「はい!」
セリアが微笑む。
「よく噛んでくださいね」
「はい!」
エインは肉を食べた。
いつもより丁寧に。
リオも食べた。
肉は温かかった。
少し塩が強くて、酒に合いそうな味だった。
ナナがそうしたのだろう。
ベルクはまた笑い話を始めた。
今度は、ティムが魔法の詠唱を間違えて、自分の帽子だけ燃やした話だった。
「帽子だけ?」
レオンが聞く。
「帽子だけだ!」
「器用ですね」
「あいつ、魔法だけは器用だったからな!」
ベルクは笑う。
その笑いには、さっきまでより少しだけ違う響きがあった。
寂しさを含んでいる。
でも、ちゃんと笑っている。
リオはそれを聞いて思った。
きっと、これが昔話なのだ。
ただ過去を語ることではない。
死んだ人を、もう一度酒場に座らせること。
いなくなった仲間の声を、少しだけ今に混ぜること。
そして、その人の分まで肉を食べて、笑うこと。
夜が更ける頃、エインがベルクの隣に座った。
いつもなら勢いよく何か言う彼が、今日は少し迷っている。
「ベルクさん」
「なんだ」
「その、ライザさんとティムさんの話、聞けてよかったです」
ベルクは少しだけ目を細める。
「そうか」
「はい」
「重かっただろ」
「重かったです」
「正直だな」
「でも、聞けてよかったです」
エインは膝の上で拳を握る。
「俺、冒険者って、強くなればなるほど大丈夫になるんだと思ってました」
「違うな」
「はい。違いました」
ベルクは頷く。
「強くなっても、死ぬ時は死ぬ。弱くても、生き残る時は生き残る」
「はい」
「だから、できるだけ死なねえようにする」
「はい」
「仲間も死なせねえようにする」
「はい」
「でも、それでも駄目な時がある」
「……はい」
「その時に、自分まで死ぬな」
ベルクの声が少しだけ低くなる。
「残ったなら、食って寝て、また歩け」
エインは黙って頷いた。
ガルドが遠くから言った。
「ベルクにしてはまともなこと言ってるな」
「おい!」
ベルクが振り返る。
「俺はいつもまともだろ!」
「たまにだ」
「せめて半分!」
「三割」
「低い!」
空気が一気に軽くなる。
エインも少し笑った。
ベルクはそれを見て満足そうに頷いた。
ミレナが静かに言う。
「ベルクさん」
「なんだ?」
「その依頼の記録、もし残っているなら、今度確認してもいいですか」
ベルクは少し驚いた顔をした。
「なんでだ」
「昔の依頼書の整理を続けています。達成記録だけでは分からないこともありますから」
「……」
「もちろん、無理にとは言いません」
ベルクは少し黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「いいぜ」
「ありがとうございます」
「ただ、報告書には“肉の取り合いが激しかった”って書いておけ」
「それは書きません」
「なんでだよ!」
「正式記録ですので」
「大事だろ!」
「大事かもしれませんが、正式記録には不向きです」
ミレナは真面目だった。
ナナが笑う。
「じゃあ別紙にしよう。ベルクの昔話集」
「それはそれで恥ずかしいな!」
「売れるかもよ」
「誰が買うんだよ」
「エイン」
「買います!」
「即答か!」
また笑いが起きた。
夜がさらに深くなり、酒場の人数が少しずつ減っていく。
仕事を終えた者は帰り、泊まる者は二階へ行く。
テーブルの上には空いた皿と杯が残り、ナナが片付けを始める。
リオは手伝いながら、ベルクを見た。
ベルクはドーガと並んで座っていた。
会話はない。
二人とも黙って酒を飲んでいる。
でも、その沈黙は重くなかった。
昔、同じ仲間を失った二人。
一時は離れた二人。
今は同じ酒場で、同じ肉を食べ、同じ昔話をしている。
それだけで、何かが伝わってくる。
「リオくん」
ナナが声をかける。
「はい」
「今日は考えてる顔だね」
「そうですか」
「うん」
ナナは皿を重ねながら言う。
「昔話って、ちょっと重いよね」
「はい」
「でも、聞ける時に聞いておいた方がいいよ」
「ナナさんもそう思いますか」
「うん。話す側も、いつでも話せるわけじゃないし」
リオはベルクを見る。
「ベルクさん、今日、なんで話してくれたんでしょう」
「肉があったからじゃない?」
「それだけですか」
「それだけかもよ」
ナナは少し笑う。
「重い話って、案外そういう時に出るから」
「肉がある時に?」
「お酒がある時。雨の時。誰かが変な質問した時。昔の名前を見つけた時」
「……」
「準備して話すものじゃないのかもね」
リオは頷いた。
確かに、今日の話もエインの何気ない質問から始まった。
もし誰かが止めていたら、聞けなかったかもしれない。
「聞けてよかったです」
リオが言う。
「うん」
ナナは静かに笑った。
「忘れないであげな」
「はい」
片付けが終わる頃、ベルクが立ち上がった。
「よし、帰るか!」
「飲みすぎてませんか」
セリアが聞く。
「大丈夫だ!」
その言葉に、全員が少し反応する。
「大丈夫は危ない」
リオが言う。
「今日は本当に大丈夫だ!」
「本当ですか」
レオンが真面目に確認する。
「歩行に問題があるようなら、付き添いを」
「お前は本当に真面目だな!」
ベルクは笑う。
ドーガが立ち上がる。
「送る」
「いらねえよ」
「送る」
「……おう」
ベルクは少しだけ笑った。
ドーガとベルクが並んで出口へ向かう。
扉を開ける前、ベルクが振り返った。
「若いの!」
エインが顔を上げる。
「はい!」
「肉食って寝ろ!」
「はい!」
「明日も生きて起きろ!」
「はい!」
「それだけだ!」
「はい!」
ベルクは豪快に笑って、出ていった。
ドーガも無言で続く。
扉が閉まる。
酒場に少しだけ静けさが残った。
リオはその言葉を心の中で繰り返した。
肉を食って寝る。
明日も生きて起きる。
単純すぎる。
でも、今日の話を聞いた後だと、その単純さがとても大事なことに思えた。
冒険者は、格好いいことばかりではない。
勝つ日もあれば、負ける日もある。
成功しても失う日がある。
達成の裏に、戻ってこない人がいることもある。
それでも、残った人間は飯を食べる。
酒を飲む。
笑い話をする。
昔の仲間の名前を出す。
そして、また明日を迎える。
リオは空になった皿を持ちながら、ふと古い依頼書のことを思い出した。
あの紙のどこかに、ベルク達の依頼も残っているのだろうか。
もし残っていたとして、そこにはきっと短く書かれている。
討伐達成。
死傷者あり。
それだけかもしれない。
でも、今日リオは知った。
その裏に、肉を奪う弓使いがいた。
雨に文句を言う魔法使いがいた。
無口に盾を持つドーガがいた。
豪快に笑っていた若いベルクがいた。
そして今、その話をして肉を食べるベルクがいる。
記録には残らないものがある。
でも、話せば残るものもある。
リオはそう思った。
夜のギルドは、少しずつ静かになっていく。
ガルドはまだ酒を飲んでいた。
猫が足元で丸くなっている。
アルは奥で書類を閉じた。
ミレナは灯りを落とす準備をしている。
ナナが最後の皿を拭く。
セリアが治療棟へ戻る。
エインはまだ何か考えている顔をしていた。
きっと今日の話は、彼にも残る。
リオにも残る。
たぶん、全員に少しずつ残る。
ベルクの昔話。
笑えて、少し痛くて、それでも最後には肉を食べる話。
リオは最後に、テーブルの上に残った小さな肉片を皿に乗せた。
捨てるには少しもったいない。
ベルクなら、残すなと言うだろう。
「ナナさん」
「ん?」
「これ、どうします?」
「明日のまかないに入れるよ」
「よかった」
「残すともったいないからね」
ナナはそう言って笑った。
その言葉に、リオはドーガを思い出した。
残すともったいない。
何気ない言葉なのに、今は少し温かい。
その夜、ギルドの灯りはいつもより少し遅く消えた。




