■第90話「誰も知らない依頼」
古い依頼書というものは、たまに人を黙らせる。
面白いものもある。
変なものもある。
読んだ瞬間に笑ってしまうものもある。
バルドレイの魔法で全員の髪が逆立った依頼などは、その代表だった。
だが、全部がそうではない。
古い紙の中には、笑えないものも混ざっている。
達成と書かれているのに、妙に重いもの。
未完了と書かれているだけで、息が詰まるもの。
誰かの名前がかすれて、何があったのか分からなくなっているもの。
そして。
誰も覚えていない依頼。
その依頼書は、倉庫整理のあとに見つかった。
正確には、見つかったのは倉庫整理の日ではない。
その翌々日。
アルが戻ってきて、リオが午前の一刻だけ書類整理を手伝っていた時だった。
「これは、別保管だな」
アルが古い依頼記録の束を見ながら言った。
奥の机には、昨日までの書類とは別に、倉庫から出てきた古い資料が積まれている。
リオはその横で分類表を書いていた。
レオンも手伝いたがったが、今日は別依頼に出ている。
ミレナは受付。
ナナは酒場。
ガルドは椅子で寝ているように見えるが、たぶん半分起きている。
エインは「俺も手伝います!」と言ったが、書類の年代順整理を三枚目で間違え、ミレナに別作業へ回された。
結果、リオがアルの補助をしている。
「未完了依頼ですか」
リオが聞く。
「ああ」
アルは短く答えた。
先日見た、未完了依頼の束。
その中には、行方不明者捜索の依頼もあった。
ガルドが覚えていた依頼。
見つからなかった子どもの依頼。
あれを見た時の重さは、まだリオの胸に残っている。
「未完了依頼って、後から再調査することはあるんですか」
「ある」
アルは紙をめくりながら言う。
「ただ、全てではない。依頼人が亡くなっている場合、現地がなくなっている場合、情報が古すぎる場合もある」
「そうですよね」
「だが、残しておく意味はある」
「後で何か分かるかもしれないからですか」
「ああ」
アルは一枚の紙を見て、手を止めた。
ほんの少し。
リオはそれに気づいた。
「どうしました?」
「……これだ」
アルが紙を差し出す。
古い依頼書だった。
端は傷み、文字も少しかすれている。
表題。
『手紙の配達』
リオは瞬きした。
「手紙?」
「ああ」
「未完了依頼なんですか?」
「そう書かれている」
受注者欄は空白に近い。
誰かの名前が書かれていたのかもしれないが、薄れて読めない。
依頼人の名前も一部かすれている。
場所は、街の北西にある旧村落。
配達先は、同じく北西の丘にある小さな墓標。
「墓標に手紙を届ける依頼……?」
リオは小さく呟いた。
「変わった依頼ですね」
「そうだな」
「でも、危険度は低そうです」
「当時はそうだったのだろう」
アルは依頼書の下部を指す。
そこには、小さく記録がある。
『依頼人死亡により処理保留』
「依頼人が亡くなったんですか」
「そうらしい」
「手紙は?」
「不明だ」
リオは紙をじっと見る。
ただの手紙配達。
でも、未完了。
依頼人が亡くなって、誰にも引き継がれず、古い箱の中に残っていた。
「誰か覚えてるんですかね」
リオが言う。
アルは少し黙った。
「俺は覚えていない」
「アルさんでも?」
「ああ」
珍しい気がした。
アルやガルドは、古い依頼を意外と覚えている。
だが、これは覚えていないらしい。
アルは奥の方を見た。
「ガルド」
椅子で寝ていた男が、片目を開けた。
「なんだ」
「この依頼に覚えはあるか」
アルが依頼書を渡す。
ガルドは面倒そうに受け取り、目を細めた。
「……手紙の配達?」
「ああ」
「知らん」
「本当にですか?」
リオが聞く。
「知らん。俺達の依頼じゃねえな。少なくとも、受けた記憶はない」
「じゃあ、別の冒険者が?」
「だろうな」
ガルドは依頼書を返す。
「ただ、場所は知ってる」
「旧村落ですか」
「ああ。今は誰も住んでねえ。だいぶ前に人がいなくなった」
「廃村?」
「そんな大げさなもんじゃねえ。小さい集落が、だんだん人減って、最後に残った何人かも街へ移った」
「墓標は?」
「北西の丘に古い墓がいくつかある。たぶんそれだ」
リオは依頼書を見る。
「これ、どうするんですか」
アルは静かに答えた。
「処理する」
「処理?」
「記録上、未完了のまま残っている。依頼人はもういない。報酬も失効しているだろう。通常なら、書類上で終了扱いにする」
「……そうですか」
それが正しい。
依頼人はいない。
何年も前の手紙。
届ける相手も墓標。
誰も困っていないかもしれない。
ギルドの仕事としては、終了扱いにして整理すればいい。
でも、リオは紙から目を離せなかった。
手紙の配達。
それだけの依頼。
未完了のまま、誰にも知られず残っていた依頼。
「リオ」
アルが言った。
「気になるか」
「……はい」
正直に頷いた。
「こういうの、気になります」
「そうか」
「依頼人はもういないかもしれません。でも、手紙があったなら、何か届けたかったんですよね」
「そうだな」
「書類上は終了でもいいんでしょうけど」
リオは少し言葉を探す。
「なんか、それでいいのかなって」
アルはしばらく何も言わなかった。
ガルドが椅子から欠伸をする。
「行けばいいだろ」
軽い声だった。
リオが振り向く。
「いいんですか?」
「気になるんだろ」
「でも、依頼としては」
「報酬なし。依頼人なし。書類上は処理予定」
ガルドは茶を飲む。
「なら、ただの散歩だ」
「散歩で北西の丘まで行くんですか」
「行きたきゃな」
アルは少しだけ考える。
「今日の午後なら、天候は問題ない。道も昨日より乾いている」
「アルさん」
「ただし、一人では行くな」
アルは依頼書を見ながら言う。
「旧村落周辺は危険度は低いが、古い井戸や崩れた家屋がある。確認を兼ねるなら、ギルドの巡回扱いにできる」
「つまり」
リオが言う。
「行っていいんですか」
「ああ」
アルは短く頷いた。
「古い未完了依頼の現地確認として処理する」
「ありがとうございます」
「手紙が残っているかは分からない」
「はい」
「何も見つからない可能性の方が高い」
「分かってます」
ガルドが立ち上がった。
「俺も行く」
「えっ」
リオは驚いた。
「来てくれるんですか」
「暇だからな」
「素直じゃないですね」
「暇だからだ」
ナナが酒場側から笑う。
「ガルド、そういうの放っておけないもんね」
「うるせえ」
「あと、古い墓標とか似合う」
「何がだ」
「渋いおじさん感」
「やめろ」
結局、午後に行くことになった。
同行は、リオ、ガルド、メイナ、レオン。
エインも行きたがったが、午前の依頼で泥だらけになり、セリアに「まず着替えて休みましょう」と止められた。
「俺も行きたかったです!」
エインが悔しそうに言う。
「今回は調査なので、少人数で行きます」
ミレナが言う。
「騒ぐと空気が壊れる可能性もありますし」
「俺が騒ぐ前提ですか!?」
全員が少し黙った。
「……はい」
ミレナが正直に答えた。
「正直!」
「次の依頼でお願いします」
「はい……」
ユーンも「古い墓標を探すなら位置測定装置を」と言いかけたが、レオンに「必要ありません」と即答され、諦めた。
北西の旧村落までは、街道を少し外れて歩く。
昨日までの雨の名残で、土はまだ柔らかかった。
だが、危険というほどではない。
風は涼しく、空は高い。
道中、リオは依頼書を何度も見た。
手紙の配達。
依頼人の名前は、かすれて読みにくい。
たぶん、女性の名前。
配達先は墓標。
宛名は、さらに読めない。
「これ、手紙そのものが残ってなかったらどうします?」
メイナが聞く。
「その時は、場所だけ確認して帰る」
ガルドが答える。
「依頼書を届けるとか?」
リオが言う。
「それでもいいんじゃねえか」
「依頼書を?」
「何もないよりはな」
ガルドの言葉は雑だが、不思議と腑に落ちる。
届けるはずだったものがないなら、その記録だけでも届ける。
意味があるかは分からない。
でも、完全に何もしないよりはいい。
「こういう依頼、昔もありましたか?」
リオが聞く。
「墓参り代行とか、手紙とか、遺品運びとか」
「ある」
ガルドは答える。
「冒険者ってのは、魔物退治だけじゃねえからな」
「そうですね」
「誰かの代わりに遠くへ行く仕事でもある」
レオンが少し頷いた。
「確かに。移動能力と危険地帯での行動能力があるから、通常の人が行けない場所にも行けます」
「お前が言うと急に業務説明になるな」
ガルドが言う。
「申し訳ありません」
「別に悪くねえ」
メイナは周囲を見ながら言った。
「でも、墓標に手紙って、どんな内容だったんでしょうね」
「さあな」
ガルドは空を見る。
「謝罪か、報告か、別れか」
「重いですね」
「墓に届ける手紙なんて、だいたい重いだろ」
「でも」
リオは依頼書を見る。
「届けようとしたってことは、生きてるうちに言えなかったことがあったのかもしれませんね」
「かもな」
ガルドはそれ以上言わなかった。
旧村落は、思ったより静かだった。
廃村というほど荒れてはいない。
いくつかの古い家屋が残り、崩れかけた柵があり、使われなくなった井戸がある。
人の気配はない。
だが、完全に死んだ場所でもない。
草が伸び、鳥が鳴き、風が通る。
昔ここに人が住んでいた。
その名残が、まだ少しだけ残っている。
「ここですか」
リオが呟く。
「ああ」
ガルドは井戸の方を見る。
「昔は十軒くらいあったはずだ」
「今は半分も残ってないですね」
「木の家は崩れるのが早い」
レオンは周囲を確認する。
「井戸には近づかない方がよさそうです。蓋が劣化しています」
「分かった」
メイナが古い家屋を見て言う。
「手紙を探すなら、依頼人の家が分からないと難しいですね」
「そうだな」
リオは依頼書を見る。
住所欄はかすれている。
読めるのは、旧村落、井戸の西、という文字だけ。
「井戸の西」
リオが言う。
「つまり、あっちですか」
井戸の西側には、半壊した小さな家が二つあった。
一つは屋根がほとんど落ちている。
もう一つは、壁が傾いているが、まだ中へ入れる可能性がある。
「入るなら慎重に」
ガルドが言う。
「床が抜けるかもしれん」
「はい」
まず外から確認する。
家の前には、古い石が置かれていた。
花壇だったのかもしれない。
今は雑草に埋もれている。
扉は外れかけていて、風でわずかに揺れていた。
リオは中を覗く。
埃。
壊れた椅子。
倒れた棚。
生活の跡。
誰かがここで暮らしていた。
それだけで、少し胸が詰まる。
「入ります」
リオが言う。
「俺が先だ」
ガルドが前に出た。
足元を確かめながら入る。
床板を軽く踏み、危ない場所を避ける。
次にリオ。
続いてメイナ、レオン。
家の中は静かだった。
家具はほとんど残っていない。
持ち出せるものは、移住時に持っていったのだろう。
残っているのは、壊れたもの、重すぎるもの、忘れられたもの。
リオは棚の下に、小さな木箱を見つけた。
「これ」
蓋は少し湿気で歪んでいる。
壊さないように開けると、中には布切れと、古い紙束があった。
「手紙ですか?」
メイナが近づく。
紙は何枚かある。
だが、ほとんど白紙に近い。
いや、薄く文字の跡がある。
インクが褪せてしまったのだ。
「読めませんね」
レオンが言う。
「保存状態が悪いです」
リオは慎重に紙をめくる。
その中に、一枚だけ封がされたままの手紙があった。
封蝋は割れているが、紙は折られたまま。
表には、かすれた文字で宛名が書かれていた。
読みにくい。
だが、依頼書の宛名と、似ている気がする。
「これかもしれません」
リオの声が少し震えた。
メイナも真剣に覗き込む。
「名前、読めますか?」
レオンが目を細める。
「……“ラウル”のように見えます」
「ラウル」
リオが依頼書を見る。
配達先の墓標欄。
かすれた文字。
確かに、ラウルと読めなくもない。
ガルドは黙っていた。
「開けますか?」
メイナが聞く。
リオは迷った。
手紙は、誰かに宛てたものだ。
たとえ相手がもう亡くなっていても、勝手に読むのは違う気がする。
でも、中身を確認しないと、これが依頼の手紙か分からない。
リオが迷っていると、ガルドが言った。
「読まなくていい」
「いいんですか」
「宛名が合ってるなら、それで十分だろ」
「でも、本当に依頼の手紙か」
「古い家で、宛名が依頼書と合う封の手紙が出てきた。十分だ」
レオンも頷く。
「状況証拠としては、かなり可能性が高いと思います。中身を開封せず、配達記録に残す方がよいかと」
「そうですね」
リオはそっと手紙を布に包んだ。
家を出る前、もう一度中を見た。
壊れた椅子。
倒れた棚。
小さな木箱。
ここにいた誰かが、手紙を書いた。
届けようと思った。
でも、届けられなかった。
そのまま時間だけが過ぎた。
「墓標は丘でしたよね」
メイナが言う。
「ああ」
ガルドが外へ出る。
「北西の丘だ」
丘へ向かう道は、草に覆われていた。
昔は人が通っていたのだろう。
薄く道の跡が残っている。
登るにつれて、旧村落が下に見えた。
小さな家々。
井戸。
崩れた柵。
さらに遠くには、今の街が見える。
昔この場所から、誰かも同じ景色を見たのかもしれない。
丘の上には、石の墓標がいくつか並んでいた。
古い。
名前が読めないものも多い。
その中に、一つ、比較的形が残っているものがあった。
苔を払うと、文字が見えた。
『ラウル』
リオは息を止めた。
「……ありました」
誰もすぐには喋らなかった。
風が吹く。
草が揺れる。
鳥の声が遠くで聞こえる。
リオは布に包んだ手紙を取り出した。
墓標の前に立つ。
「勝手に来てすみません」
誰に謝っているのか分からない。
手紙を書いた人か。
手紙を受け取るはずだった人か。
依頼人か。
墓標か。
「遅くなりました」
それだけ言った。
手紙を墓標の前に置く。
雨で濡れないように、小さな石のくぼみに入れ、持ってきた防水布で包む。
ただ置くだけでは飛ぶかもしれないので、上から小さな平石をそっと置いた。
「これでいいんですかね」
リオが呟く。
「いいんじゃねえか」
ガルドが言う。
「たぶんな」
今日は、誰もたぶんを咎めなかった。
それくらいの言葉でしか言えないこともある。
レオンが小さな記録板に位置を書き込む。
「配達先確認。墓標名、ラウル。手紙と思われる封書を安置」
メイナは丘の周囲を見ている。
「花、ないですね」
「季節じゃないからな」
ガルドが答える。
リオは少し考え、道中で見つけた小さな白い野花を一本、墓標の横に置いた。
「これも、勝手にですけど」
「いいんじゃない」
メイナが言った。
「怒る人はいないと思う」
しばらく、四人は黙っていた。
大きな達成感はない。
魔物を倒したわけでもない。
誰かを救ったわけでもない。
依頼人にありがとうと言われることもない。
ただ、古い手紙を古い墓標へ届けた。
それだけ。
でも、リオの胸には、静かな重みがあった。
「ガルドさん」
リオが言う。
「こういう依頼って、達成って言っていいんですかね」
「いいだろ」
「依頼人はもういないのに」
「だから何だ」
ガルドは墓標を見たまま言う。
「届けたかったもんを届けた。なら達成でいい」
「……はい」
「報酬は出ねえけどな」
「そこはいいです」
「本当に?」
「本当に」
「若いな」
「そういう問題ですか」
ガルドは少し笑った。
「まあ、たまにはいいだろ。報酬なしでも」
その言い方が、ガルドらしかった。
帰り道、リオは何度も振り返りそうになった。
だが、途中でやめた。
届けたのなら、もう振り返りすぎなくていい気がした。
旧村落を出る時、レオンが言った。
「記録上は、どのように処理しますか」
「現地確認済み。未完了依頼の関連物と思われる封書を配達先墓標へ安置。依頼人不在につき、完了扱い」
リオが答える。
レオンが少し驚いたように見る。
「まとまっていますね」
「報告書、最近ちゃんと書いてるので」
「良いことです」
「レオンに褒められると先生感がありますね」
「先生ではありません」
メイナが笑う。
「でも、今日の報告書はリオが書くべきだね」
「そうですね」
リオは頷いた。
「書きます」
街へ戻る頃には、夕方になっていた。
ギルドの灯りが見えた時、リオは少し安心した。
今日は派手な依頼ではなかった。
でも、妙に疲れた。
体ではなく、心が。
扉を開けると、エインが真っ先に振り向いた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「どうでした?」
リオは少しだけ考えて、答えた。
「届けてきた」
エインは何かを察したのか、いつものように騒がなかった。
「そうですか」
「うん」
ミレナが受付で依頼書を受け取る。
「見つかりましたか」
「はい。旧村落の家で、宛名が一致する手紙らしきものを見つけました。開封はしていません。丘の墓標も確認して、そこに届けました」
「分かりました」
ミレナは静かに頷く。
「報告書をお願いします」
「はい」
アルも奥から見ていた。
「完了扱いにできるな」
「はい」
「よく行ってくれた」
リオは少し驚いた。
アルの言葉は短い。
でも、ちゃんと重い。
「いえ」
リオは首を振る。
「気になっただけです」
「それでいい」
ガルドが椅子に座る。
「気になった奴が行けばいい」
ナナが酒場側から声をかける。
「重い依頼だった?」
「少し」
リオが答える。
「じゃあ温かいもの出すね」
「ありがとうございます」
リオは報告書を書く前に、温かい茶を受け取った。
その後、机に向かう。
古い未完了依頼の現地確認報告。
依頼名。
手紙の配達。
依頼人。
判読困難。死亡記録あり。
配達先。
北西丘墓標、ラウル。
現地確認。
旧村落井戸西側の家屋にて、宛名一致と思われる封書を発見。
封書未開封。
配達先墓標を確認し、封書を安置。
備考。
依頼人および関係者不在のため、報酬処理なし。
記録上、完了扱いとする。
そこまで書いて、リオは手を止めた。
何か足りない気がした。
報告書としては十分だ。
でも、あの丘の風や、古い家の埃や、手紙を置いた時の静けさは、どこにも入らない。
当たり前だ。
報告書とはそういうものだ。
全部は残せない。
それでも、何も残らないよりはいい。
リオは最後に一行だけ、備考の下へ書いた。
『封書は配達先墓標前に、防水処置のうえ安置済み』
事実だけ。
でも、それでいい気がした。
書き終えると、ミレナが確認した。
「問題ありません」
「ありがとうございます」
「丁寧です」
その言葉が、少し嬉しかった。
夜。
ギルドはいつも通りだった。
エインは今日の話を聞きたがったが、メイナに「静かに聞くなら」と条件をつけられていた。
レオンは古い依頼の処理方法についてアルに質問していた。
ガルドは酒を飲んでいた。
ナナは客にスープを出している。
ユーンは「手紙配達用小型飛行装置」を口に出す前に、セリアに笑顔で止められていた。
いつもの騒がしいギルド。
だが、リオの中には、丘の上の静けさが残っている。
誰も知らない依頼。
誰にも覚えられていなかった依頼。
古い箱の中に残っていた依頼。
それが今日、ひっそり終わった。
誰にも感謝されない。
依頼人もいない。
報酬もない。
でも、終わった。
「リオ」
ガルドが声をかけた。
「はい」
「こういうの、これからもあるぞ」
「古い依頼ですか」
「ああ」
「全部は拾えませんよね」
「拾えねえな」
「でも、拾えるものは拾いたいですね」
「好きにしろ」
ガルドは酒を飲む。
「ただ、抱えすぎるな」
「はい」
「手が届く分だけでいい」
「……はい」
リオは頷いた。
手が届く分。
その言葉が、今日の依頼にとても合っている気がした。
世界中の未完了を終わらせることはできない。
助けられなかった誰かを全部救うこともできない。
でも、古い手紙一通なら届けられることがある。
忘れられた依頼一つなら、終わらせられることがある。
それくらいでいいのかもしれない。
そのくらいが、冒険者にできることなのかもしれない。
リオは茶を飲み、報告書を見た。
そこには、確かに書かれている。
完了。
たった二文字。
でも今日は、その二文字がいつもより少しだけ温かく見えた。




