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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第89話「アルがいない日」

 アルヴェインがいない。


 その事実に、ギルドの全員が気づくまで、そう時間はかからなかった。


 いつもなら、奥の机にいる。


 静かに書類を読んでいる。


 必要な時だけ顔を上げる。


 誰かが判断に迷えば短く答える。


 騒ぎが大きくなりすぎれば、たった一言で場を沈める。


 普段は目立たない。


 自分から前に出ることも少ない。


 元勇者と騒がれるのが苦手で、アルと呼ばれる方を好む。


 だから、いる時は空気みたいに感じる。


 でも、いないと分かる。


 あの男は、かなりギルドを支えている。


「アルさん、今日は朝から出張です」


 ミレナがそう言ったのは、朝一番のことだった。


 受付前に集まっていたリオ、エイン、メイナ、レオン、カイルは、一斉に顔を上げる。


「出張?」


 エインが聞く。


「はい。西側の街道管理所で、昨日の合同訓練の件と、最近の地滑りの報告、それから近隣ギルドとの調整があります」


「つまり、丸一日いないんですか?」


 リオが聞く。


「おそらく夕方までは戻りません」


 ミレナは書類を整えながら答えた。


 その声はいつも通り冷静だった。


 だが、リオには少しだけ分かった。


 ミレナの机の上に、いつもより書類が多い。


 そして、ミレナの目が少しだけ早く動いている。


 忙しい時の目だ。


「大丈夫ですか?」


 リオが聞く。


「大丈夫です」


 ミレナは即答した。


「今日一日ですから」


 その言い方が、少し不安だった。


「今日一日って言う人ほど、だいたい大丈夫じゃないですよね」


 ナナが酒場側から言う。


「ナナさん」


「だって、アルがいない日って地味に大変でしょ」


「……否定はしません」


 ミレナが少しだけ息を吐いた。


 珍しい。


 いつもなら「大丈夫です」と押し切るところだ。


「アルさんって、普段何してるんですか?」


 エインが無邪気に聞いた。


 全員が少し黙る。


「何してるか、ですか」


 ミレナが書類の束を見る。


「依頼の危険度確認、近隣ギルドとの連絡、街道情報の整理、緊急時の判断、苦情対応、報告書の最終確認、討伐依頼の承認、問題冒険者への注意、備品予算の確認、外部依頼人との交渉、ギルド間の調整、あとガルドさんへの最低限の監視です」


「最後」


 ガルドが椅子から声を出した。


「俺を業務に入れるな」


「実際、業務です」


「ひどくねえか」


「昨日も訓練場で長く動いた後、報告書を書かずに帰ろうとしましたよね」


「疲れてた」


「書類は待ってくれません」


「アルがいれば任せた」


「それが駄目なんです」


 ミレナの声は鋭かった。


 ガルドは口を閉じた。


「つまり」


 レオンが真面目に言う。


「本日は、アルさんが普段処理している複数の判断業務がミレナさんに集中するということですね」


「はい」


 ミレナが頷く。


「なので、今日は皆さんも協力してください」


「はい!」


 エインが大きく返事をする。


「声は少し抑えてください」


「はい」


 少しだけ小さくなった。


 リオはその時点で思った。


 今日は、大変な日になる。


 最初の問題は、依頼の取り違えだった。


「この依頼、受けたいです!」


 若い冒険者が受付へ依頼票を持ってきた。


 リオも顔を知っている。


 最近登録した二人組で、まだ採取依頼が中心の新人だ。


 ミレナは依頼票を見て、すぐに眉を寄せた。


「これは、あなた達にはまだ早いです」


「え?」


「東森の奥での薬草採取。採取自体は難しくありませんが、場所が奥です。昨日の雨で道も悪い。さらに小型魔物の目撃情報があります」


「でも、報酬が高いので」


「だからです」


 ミレナの声が少し硬くなる。


「報酬が高い依頼には理由があります」


 普段なら、ここで奥の机からアルが一言添える。


 この依頼は中堅以上。


 別の依頼を選べ。


 それだけで済む。


 しかし、今日はアルがいない。


 新人二人は、少しだけ食い下がった。


「でも、俺達もそろそろ少し上の依頼を」


「成長したいのは分かります」


 ミレナは言う。


「ですが、今日の天候と地面の状態を考えると危険です」


「大丈夫です」


 その言葉に、リオとエインとレオンが同時に反応した。


「大丈夫は駄目です」


 リオが言う。


「え?」


「大丈夫って言う時ほど、大丈夫じゃないことが多いので」


「いや、でも」


「僕達も何回も学びました」


 エインが真剣に言う。


「報酬だけで選ぶと危ないです!」


「エインくんが言うと説得力があるのかないのか微妙ですね」


 メイナが小声で言う。


「あります!」


 レオンが横から依頼票を確認した。


「こちらの依頼は、移動距離と環境要因を含めると、表示危険度より実際の負担が大きいと思われます。現在の経験値では、別依頼を推奨します」


 新人二人は少し黙った。


 ミレナだけでなく、若手側からも止められたことで、少し冷静になったらしい。


「じゃあ、どれなら」


 リオが掲示板から別の依頼を取る。


「こっち。街道沿いの採取。報酬は少し低いけど、帰り道も安全です。まずこれを確実にやった方がいいと思います」


「……分かりました」


 新人二人は納得した。


 ミレナがリオ達を見る。


「助かりました」


「いえ」


「今日はこういう判断が増えると思います」


 つまり、アルが普段その場で切っていた迷いが、全部表に出てくる。


 それだけで、すでに大変だった。


 次の問題は、苦情対応だった。


 昼前、商人が一人ギルドに駆け込んできた。


「昨日頼んだ荷運びの件だが、荷物の到着が遅れた!」


 声が大きい。


 怒っている。


 受付前にいた者達が一斉に見る。


 ミレナはすぐに立ち上がった。


「申し訳ありません。確認します。依頼番号は」


「そんなものは知らん! とにかく、到着が遅れたせいで取引に間に合わなかった!」


 こういう時も、普段ならアルが静かに出てくる。


 怒鳴るわけではない。


 ただ、相手の怒りを受け止めながら、必要な事実を一つずつ確認していく。


 ミレナもできる。


 だが、今日は同時に受付業務も抱えている。


 明らかに負荷が高い。


「リオくん」


 ミレナが小声で言う。


「はい」


「昨日の荷運び記録を」


「分かりました」


 リオはすぐに記録棚へ向かう。


 レオンがその横に立つ。


「依頼人名は聞き取れましたか」


「たぶん、グラント商会」


「たぶんは」


「いや、今のは本当に聞き取りづらくて」


「では確認しましょう」


 レオンは冷静に記録を探す。


 エインは怒っている商人を見て、今にも何か言いそうだった。


 リオは小さく首を振る。


 今は黙る。


 エインはぐっと堪えた。


 メイナは商人の後ろにいる荷運び人に目を向ける。


 その人は、少し困った顔をしていた。


「もしかして、何か事情があるかも」


 メイナが呟く。


 リオは記録を見つける。


「ありました。昨日の西倉庫行き荷運び。到着予定は夕方。遅延理由、雨による北側通路一時封鎖。代替路を使用。到着は一刻遅れ」


「報告は?」


 ミレナが聞く。


「荷運び側から出てます。依頼人代理に伝達済み、とあります」


「代理?」


 ミレナが商人を見る。


「昨日、到着遅延について、代理の方へ説明済みとなっています」


「代理だと?」


 商人が眉を寄せる。


 後ろの荷運び人が手を上げた。


「えっと、昨日、店番の方にお伝えしました。雨で道が塞がって、迂回したので遅れますって」


「店番……」


 商人の顔が少し変わる。


「まさか、あいつ、私に伝えていなかったのか」


 空気が少し変わった。


 怒りの矛先がずれた。


 ミレナは表情を崩さずに言う。


「こちらとしては、遅延は天候によるものであり、報告も行っています。ただし、取引に影響が出たことは確認します。必要であれば、時刻記録と遅延報告書の写しをお渡しします」


 商人はしばらく黙った。


 それから、気まずそうに咳払いする。


「……写しを頼む」


「承知しました」


 ミレナがリオを見る。


「リオくん」


「はい、用意します」


 レオンがすでに写し用の紙を出していた。


「こちらを」


「助かる」


 ミレナは小さく頷く。


 商人は写しを受け取ると、少し声を落とした。


「騒いで悪かった」


「いえ。確認できてよかったです」


 ミレナはいつも通り答えた。


 商人が去ると、ギルド内に少しだけ安堵の空気が流れる。


「アルさんって、こういうの毎回やってるんですか」


 エインが小声で言う。


「やっていますね」


 ミレナが疲れた顔で言った。


「怒鳴られても、だいたい静かに」


「すごいですね」


「本当に」


 ナナが言う。


「アルって、怒鳴り返さないもんね」


「怒鳴る必要がないからだ」


 ガルドが椅子で言った。


「事実を並べれば、だいたい済む。済まねえ相手は、アルが黙って見る」


「それが一番怖いやつですね」


 リオが言う。


「そうだ」


 全員、薬草区画の件を思い出した。


 あの静かな怒り。


 今日はそれがいない。


 その不在が、じわじわ響いていた。


 三つ目の問題は、ユーンだった。


 こういう日に限って、ユーンは何かを思いつく。


「アルさんがいないなら!」


 ユーンが勢いよく立ち上がった。


「なぜそうなるんですか」


 リオが即座に警戒する。


「普段、アルさんの静かな視線で却下されていた効率化案をですね」


「却下されていた自覚があるんですね」


「今日は試す好機かと!」


「好機じゃないです」


 ミレナが受付から強めに言う。


「何を試すつもりですか」


「書類自動仕分け装置です!」


 ミレナの顔が凍った。


 リオも凍った。


 レオンは少し興味を持ちかけて、すぐに自制した。


「書類を」


 ユーンは目を輝かせる。


「この傾斜板に流すことで、依頼分類ごとに落ちる場所を変えます!」


「絶対駄目です」


 ミレナが即答した。


「まだ」


「絶対駄目です」


「説明が」


「絶対駄目です」


 三回言った。


 かなり本気だった。


「書類を流さないでください」


 リオが言う。


「混ざったら終わります」


「混ざりません! 角度を調整すれば」


「湿気で紙が引っかかる可能性があります」


 レオンが言った。


「また理論で!」


「また?」


「最近、レオンさんに理論で止められることが多いです!」


「安全性と再現性が不足しています」


「言葉が強い!」


 その時、書類を抱えたマルクが倉庫から出てきた。


「ミレナさん、予備の分類箱を」


 足元にユーンの板があった。


「わっ」


 マルクがつまずきかける。


 リオが咄嗟に支えた。


「危ない!」


「あ、すみません!」


「ほら!」


 ミレナがユーンを見る。


「まだ使っていないのに、すでに危険です!」


「たしかに!」


 ユーンは自分で驚いた顔をした。


「自分で納得しないでください」


 ナナが笑いながら言う。


「ユーン、今日はやめときな。アルが帰ってきた時に、書類が宙を舞ってたら静かに怖いよ」


 ユーンが想像したのか、顔を青くする。


「……封印します」


「賢明です」


 レオンが言う。


 ユーンは装置を片付けた。


 この一件だけでも、アルの普段の視線がどれほど抑止力になっていたかが分かる。


 いないだけで、誰かが挑戦しようとする。


 危険すぎる。


 昼過ぎ、さらに問題が重なった。


 外から伝令が来た。


「南門近くで馬車がぬかるみに嵌まったそうです!」


 マルクが息を切らして戻ってくる。


「荷は?」


 ミレナが聞く。


「食料品です。急ぎではありませんが、道を塞いでいるとのことです」


「人手を出しましょう」


 ミレナは即座に判断しようとして、一瞬だけ手元の書類を見る。


 受付にはまだ処理中の苦情記録、依頼承認、午後の受注予定が残っている。


 普段なら、ここでアルが外部対応に出るか、誰を出すか判断する。


 今はミレナ一人だ。


「僕達が行きます」


 リオが言った。


「リオくん」


「カイルさん、エイン、レオン、僕で。メイナは受付補助に残ってもらっていい?」


「いいよ」


 メイナが頷く。


「私、依頼人対応の補助に入る」


「助かります」


 ミレナがすぐに切り替える。


「では、南門へ。怪我人がいればセリアさんへ連絡。無理に馬車を動かさないこと」


「はい」


 ガルドが椅子から声を出す。


「俺も行く」


 全員が驚いた。


「ガルドさんが?」


 エインが言う。


「雨上がりの馬車は面倒だ。お前らだけだと変な方向に押す」


「助かります」


 リオが素直に言うと、ガルドは少し嫌そうな顔をした。


「素直に礼言うな。気持ち悪い」


「ひどい」


 南門近くは泥が深かった。


 昨日の豪雨の影響で、道の端がぬかるみ、馬車の片輪が沈んでいる。


 御者と商人が困り果てていた。


「押せば出るかと思ったんですが」


 御者が言う。


「押すな」


 ガルドが即座に言った。


「このまま押すと車輪がさらに沈む」


「じゃあどうするんですか?」


 エインが聞く。


「まず荷を軽くする。次に板を噛ませる。馬を焦らせるな」


 ガルドの指示は早かった。


 レオンが地面を見る。


「右側の泥が深いです。車輪の前に木板を二枚入れた方がよいかと」


「いい」


 カイルは周辺の人を整理する。


「通行人を下げる。馬の前に立つな」


「はい!」


 エインは荷を下ろす手伝いに入る。


 昨日褒められたこともあるのか、勢いだけでなく、ちゃんと持ち方を確認している。


「この箱、軽いです!」


「落とすなよ」


「はい!」


「足元見ろ」


「はい!」


 リオは御者と話し、馬を落ち着かせる。


 馬もぬかるみで緊張している。


 無理に引けば暴れるかもしれない。


「ゆっくりで大丈夫です」


 リオが言う。


「急がない方が早いです」


 ガルドが少しだけリオを見る。


「いい言い方だ」


「ありがとうございます」


「調子に乗るな」


「はい」


 無事、馬車は泥から抜けた。


 作業自体は大きなものではない。


 だが、判断を間違えれば、車輪が壊れるか、馬が怪我をする可能性もあった。


 御者は何度も頭を下げる。


「助かりました」


「道が乾くまで、端へ寄りすぎない方がいいです」


 レオンが言う。


「こちらの轍も避けた方がよいかと」


「分かりました」


 エインは泥だらけになっていた。


 だが、嬉しそうでもある。


「今日、ちゃんと動けました!」


「昨日から調子がいいですね」


 リオが言う。


「はい!」


「でも調子に乗らない」


「はい……」


 ガルドが荷物を戻しながら言う。


「アルがいねえ日は、こういう細かい穴が増えるな」


「穴?」


「判断の穴だ」


 ガルドは泥のついた手を払う。


「普段、あいつが埋めてるやつが見える」


 リオは頷いた。


 今日はずっとそうだ。


 依頼の危険度。


 苦情対応。


 ユーンの抑止。


 緊急の外部対応。


 アルがいれば、もっと静かに、もっと早く処理されていたかもしれない。


 戻ると、ギルドはやはり少し混乱していた。


 だが、崩壊はしていない。


 メイナが受付補助として依頼人の話を整理し、ミレナに渡している。


 ナナが待っている人に茶を出し、苛立ちを抑えている。


 マルクが書類を運び、レオンが戻るなり記録整理を手伝う。


 カイルは午後の訓練希望者を別日に回すよう話している。


 エインは濡れた床を拭いている。


 ユーンは、何もしないように、セリアの目の届く場所に座らされている。


「何もしない係です」


 ユーンが言った。


「大事ですね」


 リオが答える。


「大事ですか!?」


「かなり」


 セリアが微笑む。


「今日は怪我人を増やさないことが仕事です」


「はい……」


 夕方前、ようやく一息つけた。


 ミレナは受付でぐったりと椅子に座った。


 珍しい姿だった。


「ミレナさん、大丈夫ですか」


 リオが聞く。


「大丈夫です」


「本当に?」


「……少しだけ、大丈夫ではないです」


 かなり珍しい。


 ナナが温かい茶を置いた。


「ほら、飲みな」


「ありがとうございます」


「アル、毎日これやってるんだよね」


「はい」


 ミレナは素直に頷く。


「正直、分かっていたつもりでした。でも、いないと本当に分かります」


「前にミレナが休んだ日も同じだったね」


 ナナが言う。


「誰かが一人いないだけで、空気が変わる」


「そうですね」


 リオは周囲を見る。


 疲れている。


 でも、なんとか回った。


 アルがいない日。


 完璧ではない。


 むしろ、細かい問題は多かった。


 だが、皆で穴を埋めた。


 それはそれで、悪くない気もする。


 そして日が暮れ始めた頃、扉が開いた。


 アルが戻ってきた。


 雨上がりの道を歩いてきたのか、外套の裾が少し濡れている。


 いつも通り静かな顔。


 だが、ギルドの空気が一瞬で変わった。


「あ」


 エインが言う。


「帰ってきた」


 ミレナが立ち上がる。


「お帰りなさい」


「ああ」


 アルはギルド内を見回した。


 散らかった書類。


 泥のついた布。


 疲れた若手達。


 何もしないよう座らされているユーン。


 薄く笑っているナナ。


 いつもより少し真面目なガルド。


「……大変だったようだな」


「はい」


 ミレナは珍しく即答した。


「かなり」


 アルは少しだけ目を細める。


「すまない」


「いえ。必要な出張でしたから」


「問題は?」


 ミレナはすぐに報告を始めた。


 依頼の差し替え。


 苦情対応。


 馬車の救援。


 ユーンの装置未遂。


「未遂です!」


 ユーンが叫ぶ。


「強調しなくていい」


 アルが静かに言った。


 ユーンが縮む。


「未遂で済んだならよかった」


 アルはそう言った。


 たったそれだけで、ユーンは少し安心した顔をする。


 不思議だ。


 アルの一言には、場を整える力がある。


「皆も助かった」


 アルがリオ達を見る。


「ミレナ一人では難しかったはずだ」


 リオ達は少し背筋を伸ばす。


「いえ」


 リオが言う。


「アルさんが普段やってることの大変さが、少し分かりました」


「そうか」


「少しだけですけど」


「それで十分だ」


 エインが手を上げる。


「アルさん!」


「何だ」


「いつもありがとうございます!」


 声が大きい。


 だが、今日は誰もすぐには注意しなかった。


 アルは少しだけ驚いたように見えた。


 そして、小さく頷いた。


「ああ」


 それだけ。


 でも、エインは満足そうだった。


 ナナが笑う。


「アル、照れた?」


「照れていない」


「ほんと?」


「照れていない」


「二回言うと怪しいね」


「ナナ」


「はいはい」


 少しだけ笑いが起きる。


 ガルドが酒を飲みながら言った。


「お前がいないと面倒だ」


「そうか」


「だから、あまりいなくなるな」


「それは難しい」


「じゃあ代わりを増やせ」


 アルは少しだけリオ達を見る。


「育っているだろう」


 その言葉に、リオは少し驚いた。


 育っている。


 アルが、そう言った。


 ミレナも静かに頷く。


「今日は、皆よく動いてくれました」


 メイナが受付補助。


 レオンが記録整理。


 エインが荷物と現場対応。


 カイルが訓練対応。


 リオが判断の橋渡し。


 ナナが場を和らげ、ガルドが必要な時に動き、セリアがユーンを止めた。


 全員が少しずつ穴を埋めた。


「でも」


 リオが言う。


「アルさんが戻ってきたら、空気が落ち着きました」


「それは、俺が何かしたわけではない」


「いるだけで違います」


 エインが言う。


「そうです!」


「声が大きい」


 カイルが言った。


 いつもの調子だった。


 アルは少しだけ困ったような顔をした。


「そうか」


「はい」


 リオは頷く。


「今日、分かりました」


 夜。


 ギルドはいつもより少し疲れていた。


 ナナが簡単な食事を出し、全員がそれを食べながら今日の出来事を話す。


 ユーンの書類自動仕分け装置は、アルの目の前で正式に却下された。


 レオンが安全性と再現性の不足を説明し、アルが「不要だ」と一言で終わらせた。


 ユーンは「理論と権限の合わせ技……」と崩れ落ちた。


 エインは南門の馬車救援の話を少し誇らしげにした。


 メイナは受付補助で「依頼人の話は、最初に全部聞くより、順番を決めた方が整理しやすい」と学んだ。


 リオは、アルの机に置かれた書類の量を見て、もう二度と「アルさんって普段何してるんですか」とは軽く聞かないでおこうと思った。


「アルさん」


 リオは食後、奥の机へ向かった。


「何だ」


「明日、少し書類整理を手伝ってもいいですか?」


 アルは顔を上げた。


「なぜだ」


「今日、大変だったので」


「お前にも依頼があるだろう」


「空いてる時間だけです」


「……」


 アルは少しだけ考える。


「なら、午前の一刻だけ頼む」


「はい」


「ただし、無理はするな」


「皆それ言いますね」


「言われる理由がある」


「はい……」


 そこへガルドが声を飛ばした。


「リオ、書類地獄に自分から入るなよ」


「少しだけです」


「そう言ってミレナは戻れなくなった」


「私は戻っています」


 ミレナが反論する。


「受付に閉じ込められてるだけだろ」


「仕事です」


「怖いな」


 ナナが笑う。


「リオくん、アル二号になる?」


「無理です」


 リオは即答した。


「アルさんみたいに静かに圧をかけるのは無理です」


「そこ?」


「そこです」


 アルは少しだけ首を傾げた。


「圧をかけているつもりはない」


 全員が黙った。


「……本気で言ってます?」


 リオが聞く。


「ああ」


「一番怖いやつですね」


 ナナが言う。


 アルは不思議そうだった。


 ガルドが酒を飲みながら言う。


「お前は昔から自覚がない」


「そうか」


「ああ」


「なら、今後気をつける」


「気をつけたら逆に怖いだろ」


「難しいな」


 ギルドに笑いが起きる。


 アルがいない日。


 それは、地味に大変な一日だった。


 大きな魔物は出ていない。


 派手な戦闘もない。


 世界を揺るがす事件もない。


 ただ、依頼の判断があり、苦情があり、馬車が泥にはまり、ユーンが危険な装置を出しかけ、書類が山のように積まれた。


 それだけ。


 でも、その“それだけ”を毎日誰かが処理している。


 アルが。


 ミレナが。


 ナナが。


 セリアが。


 ガルドも時々。


 そして、少しずつリオ達も。


 リオはその日、ギルドを支えるということの地味さを知った。


 剣を振るより目立たない。


 魔物を倒すより褒められない。


 でも、誰かがやらないと全部が止まる。


 依頼は正しく流れず、苦情はこじれ、危険な依頼に新人が向かい、馬車は泥にはまり、書類は混ざる。


 だから、奥の机に静かに座っている男は必要なのだ。


 そこにいるだけで、皆が少し安心する男。


 アルヴェイン。


 元勇者。


 現ギルドマスター。


 本人はきっと、今日も自分が何を支えているか分かっていない顔をしている。


 リオはそれを見て、少し笑った。


「何だ」


 アルが聞く。


「いえ」


 リオは答える。


「お帰りなさい、と思って」


「……ああ」


 アルは少しだけ間を置いて、静かに頷いた。


「戻った」


 それだけで、ギルドの夜はいつも通りになった。

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