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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第88話「カイルが負ける」

 カイルは、負けることが嫌いだ。


 それは別に珍しいことではない。


 冒険者なら、誰だって負けたくない。


 負けるということは、怪我をするかもしれないということだ。


 仲間を危険に晒すかもしれないということだ。


 依頼に失敗するかもしれないということだ。


 最悪の場合、死ぬ。


 だから負けたくない。


 ただ、カイルの場合は少し違う。


 彼は、ただ勝ちたいわけではない。


 正しく勝ちたいのだ。


 雑に勝つのではなく。


 勢いで押すのではなく。


 運に任せるのではなく。


 実力で。


 判断で。


 積み重ねた鍛錬で。


 ちゃんと勝ちたい。


 だからこそ、負けた時に折れやすい。


 そのことを、リオはその日初めて知った。


「今日は模擬戦依頼です」


 朝、ミレナが依頼書を置いた。


 ギルドの空気は、前日のエインの良い依頼の余韻で少し明るかった。


 エインは朝から妙に背筋が伸びている。


 昨日ガルドに「悪くなかった」と言われたことが相当効いているらしく、いつもより少しだけ落ち着こうとしていた。


 ただし、少しだけだ。


「模擬戦依頼ですか!」


 エインがすぐ反応する。


「俺も出ますか!?」


「声が大きい」


 カイルがいつも通り言う。


「すみません!」


「模擬戦といっても、見世物ではありません」


 ミレナが説明を続ける。


「近隣の別ギルドから、若手冒険者同士の合同訓練の申し込みがありました。場所は東訓練場。こちらから数名参加します」


「別ギルドですか」


 リオが言う。


「珍しいですね」


「そうですね。最近、こちらのギルドの若手が育ってきているという話を聞いたようです」


 ナナが酒場側で笑った。


「へえ、評判になってるんだ」


「主に、悪い評判ではないようです」


 ミレナが言う。


「じゃあ、良い評判ですか?」


 エインが期待した顔をする。


「“妙に騒がしいが、最近ちゃんと帰ってくる若手が多い”という評判です」


「微妙!」


「でも悪くないです」


 リオが苦笑する。


 ちゃんと帰ってくる。


 冒険者にとっては、それだけで大事な評価だ。


「参加者は?」


 カイルが聞く。


「カイルさん、リオくん、エインくん、メイナさん、レオンさん」


「俺もか」


 カイルは腕を組む。


「はい。相手側に剣士がいるようで、ぜひ手合わせしたいとのことです」


「剣士」


 カイルの目が少しだけ細くなる。


 彼は普段、感情を大きく出さない。


 だが、剣の話になると少し空気が変わる。


「誰だ」


「名前は、ダレン。西ギルド所属の中堅冒険者です」


「聞いたことがあるな」


 ガルドが椅子でだらけながら言った。


 リオがそちらを見る。


「強いんですか?」


「悪くない」


「ガルドさんの“悪くない”は結構強いですよね」


「そうだな」


「どんな人ですか」


「剣が重い。あと、崩すのがうまい」


 ガルドは酒ではなく茶を飲みながら言う。


「正面から綺麗に戦う奴は相性悪いかもな」


 その言葉に、リオはカイルを見る。


 カイルは正面から綺麗に戦う側だ。


 もちろん単純ではない。


 実戦経験もあるし、冷静だし、雑な相手に弱いわけではない。


 だが、カイルは基本が綺麗だ。


 技も判断も、まっすぐで硬い。


「カイルさん」


 エインが少し不安そうに言う。


「大丈夫ですか?」


「何がだ」


「いや、相性悪いって」


「相性が悪い相手と戦うのも訓練だ」


 カイルは淡々と言った。


「勝つか負けるかより、何を得るかだ」


「かっこいいです!」


「声が大きい」


「すみません!」


 リオは少し笑った。


 その時のカイルは、いつも通りだった。


 冷静で、真面目で、少し硬い。


 負けることなど考えていないわけではない。


 だが、負けても学べると本気で思っている顔だった。


 その顔が後でどう変わるのか、リオはまだ知らなかった。


 東訓練場は、街の端にある広い土の広場だった。


 周囲には簡単な柵があり、木剣や訓練用の槍、盾などが置かれている。


 普段は新人訓練や模擬戦に使われる場所だ。


 今日はすでに西ギルドの冒険者達が来ていた。


 人数は六人。


 中堅が二人、若手が四人。


 その中央にいた男が、ダレンだろう。


 背は高くない。


 むしろカイルより少し低い。


 しかし体つきが厚い。


 肩が広く、腕が太く、足が地面に根を張っているように安定している。


 武器は訓練用の大きめの木剣。


 ただし、普通の剣というより、片手半剣に近い。


 重量がある。


「来たか」


 ダレンがこちらを見る。


 声は低い。


 威圧的というより、落ち着いている。


「西ギルドのダレンだ」


「カイルだ」


 カイルが短く名乗る。


「話は聞いてる。若いのに堅実で、剣筋が綺麗らしいな」


「そちらも、崩しがうまいと聞いた」


「誰から?」


「ガルドさんだ」


 ダレンの顔が少し変わった。


「……あのガルドか」


 リオは反応した。


 また知っているのか。


「知り合いなんですか?」


 リオが聞く。


「直接は少しだけだ」


 ダレンが答える。


「昔、一回だけ手合わせした」


「どうでした?」


 エインが目を輝かせる。


「触れなかった」


 短い答えだった。


 場が少し静かになる。


「若い頃の話だ。あの人は本当に嫌な剣を使う」


「嫌な剣」


 リオは思わず復唱した。


「強いとか速いとかより、気づいたら詰んでる」


 ダレンは苦笑する。


「二度とやりたくない」


「ガルドさん、そんな感じなんですね」


 メイナが言う。


「普段はだらけてるのに」


「だらけてるのか」


 ダレンが少し驚く。


「かなり」


 リオが即答した。


「そうか。歳を取ったんだな」


「昔から面倒くさがりだったと思います」


 カイルが言う。


「違いない」


 軽く笑いが起きる。


 その後、合同訓練が始まった。


 最初は若手同士。


 エインは西ギルドの槍使いと戦った。


 勢いで押しすぎかけたが、昨日の成功が効いているのか、途中で一度止まって距離を取った。


 結果は引き分けに近い判定。


 エインは不満そうだったが、リオはかなり良いと思った。


「前なら突っ込んで負けてた」


 リオが言う。


「ですよね」


 メイナも頷く。


「今日は止まった」


 レオンは真面目にメモしている。


「突進後の再展開に改善余地あり。ただし、停止判断は良好」


「レオン、誰に提出するの?」


「自分用です」


「本当に真面目だね」


 メイナは笑った。


 メイナは弓なしの短剣訓練で、西ギルドの軽戦士と模擬戦をした。


 彼女は勝たなかった。


 だが、相手の動きをよく見て、最後まで大きく崩れなかった。


 レオンは槍で一戦し、基本の綺麗さを評価されたが、やはり少し硬いと言われた。


「硬いと言われました」


 レオンが戻ってくる。


「前も言われてたね」


 リオが言う。


「改善課題が明確になりました」


「前向き」


「はい」


 そして、リオも短い模擬戦をした。


 相手は若手の剣士。


 リオは最近、指示役や補助に回ることが多かったが、剣の動きも悪くない。


 相手の癖を見て、無理に攻めず、最後に足元を崩して一本を取った。


「リオ、最近いやらしくなったな」


 エインが言う。


「褒めてる?」


「褒めてます!」


「じゃあありがとう」


 ダレンが横から言った。


「お前、ガルドの影響受けてるな」


 リオは微妙な顔になる。


「それ、喜んでいいんですか?」


「実戦では喜んでいい。性格的には知らん」


「複雑」


 そうして場が温まった後、カイルとダレンの番になった。


 周囲の空気が変わる。


 若手同士の訓練ではない。


 中堅同士の模擬戦。


 しかも、どちらも剣。


 リオも自然と背筋が伸びた。


 カイルは木剣を構える。


 いつも通り綺麗な構え。


 無駄がない。


 足の位置も、剣の角度も整っている。


 ダレンは対照的だった。


 構えが少し低い。


 剣は重く、肩に近い位置で構えている。


 隙があるようで、ない。


 押し込まれたら厄介そうだ。


「始め」


 立会人の声。


 カイルが先に動いた。


 速い踏み込み。


 まずは距離を測る一撃。


 ダレンは受けない。


 半歩ずれて、剣の腹で流す。


 重い木剣なのに、動きは意外と柔らかい。


 カイルが二撃目を出す。


 今度は縦。


 ダレンが受ける。


 鈍い音。


 受けた瞬間、ダレンの剣がカイルの剣を押し込んだ。


「重い」


 リオが呟く。


 カイルはすぐに引く。


 距離を取り直す。


 悪くない。


 だが、ダレンは追わない。


 ただ一歩、じわりと前へ出る。


 カイルが動く。


 右へ回る。


 ダレンはその動きに合わせて、地面を踏み替える。


 速くはない。


 でも、位置がいい。


 逃げたい方向を先に潰している。


「嫌な相手ですね」


 メイナが言う。


「動きが大きくないのに、圧がある」


 レオンが真剣に見る。


「足運びで選択肢を削っています」


 リオも同じことを感じていた。


 カイルは正しく動いている。


 無駄も少ない。


 だが、ダレンはその正しさを読んでいる。


 正しい動きだからこそ、次が予測される。


 カイルが一気に踏み込んだ。


 速い。


 狙いは肩。


 ダレンは受ける。


 そこから、カイルは角度を変えて二連撃。


 いつものカイルなら、このあたりで相手の防御を少しずつ崩す。


 だが、ダレンは崩れない。


 むしろ、受けるたびに距離を詰めてくる。


 木剣がぶつかる音が低い。


 三度目の打ち合いで、カイルの腕がわずかに上がった。


 その瞬間、ダレンの足が入る。


 カイルの足元。


 引っかけるのではない。


 逃げ場を潰す位置。


 カイルがそれを避けようとして、上体が少しずれる。


 ダレンの木剣が横から入った。


 カイルは受けた。


 だが、受けた剣ごと体を押された。


「っ」


 カイルの足が土を削る。


 そこで粘る。


 だが、ダレンは剣を押し切らず、一瞬力を抜いた。


 カイルが反動で前に出る。


 そこへ、ダレンの柄が入った。


 胸元。


 軽く。


 だが、明確な一本。


「そこまで」


 立会人の声が響いた。


 広場が静かになる。


 カイルが止まっている。


 木剣を構えたまま。


 ダレンは剣を下げた。


「一本だな」


 カイルは少し遅れて剣を下ろす。


「……ああ」


 声は平静だった。


 だが、リオには分かった。


 カイルの表情が硬い。


 負けた。


 明確に。


 押し切られたわけではない。


 派手に吹き飛ばされたわけでもない。


 でも、完全に崩された。


 自分の正しい動きの先を読まれ、選択肢を削られ、最後に反動を使われた。


 嫌な負け方だ。


「もう一本頼む」


 カイルが言った。


 ダレンは少しだけ眉を上げた。


「いいが」


 リオは嫌な予感がした。


 今のカイルは、学ぶための再戦ではなく、取り返すための再戦を求めている。


 本人も気づいていないかもしれない。


「カイルさん」


 リオが声をかけようとした。


 だが、ガルドがいない。


 止める人が少し遅れた。


 ダレンは構える。


 カイルも構える。


 第二戦が始まった。


 今度のカイルは速かった。


 最初から攻める。


 打ち込みの鋭さは一戦目以上。


 だが、少し硬い。


 いや、硬すぎる。


 勝ちに行こうとしている。


 正しさを貫こうとしている。


 ダレンはそれを受けた。


 一撃、二撃、三撃。


 そして、また距離を詰める。


 カイルは読んでいたのか、横へ逃げずに前へ出た。


 悪くない判断。


 だが、ダレンはそこも待っていた。


 重い剣を真っ向から当てる。


 木剣同士がぶつかる。


 カイルの剣がわずかに弾かれる。


 そこへ、ダレンの肩が入った。


 体当たりに近い。


 カイルの体勢が崩れる。


 次の瞬間、足を払われた。


 土に膝をつく。


 木剣が首元で止まった。


「そこまで」


 二本目。


 完全な敗北だった。


 空気が重くなる。


 カイルは膝をついたまま、しばらく動かなかった。


 ダレンは剣を下げる。


「悪い」


「謝るな」


 カイルは立ち上がる。


 顔は平静に戻そうとしている。


 だが、戻りきっていない。


「良い勉強になった」


 そう言った。


 いつものカイルなら、本当にそう思っていただろう。


 だが今の声は、少し空っぽだった。


 リオは胸の奥に重いものを感じた。


 模擬戦はその後も続いたが、カイルはほとんど話さなかった。


 西ギルド側も、ダレンも悪いことをしたわけではない。


 むしろ、模擬戦としては非常に良かった。


 強い相手に、課題を見せつけられた。


 それだけだ。


 でも、本人にとってはそれだけでは済まない。


 帰り道、カイルは先頭を歩いていた。


 いつもより少し足が速い。


 エインが何か言いたそうにして、言えない。


 メイナも様子を見ている。


 レオンは真面目な顔で沈黙している。


 リオは迷った。


 声をかけるべきか。


 今は放っておくべきか。


 こういう時、ガルドならどうするだろう。


 たぶん、余計な慰めはしない。


 でも、放っておきすぎもしない。


 難しい。


「カイルさん」


 リオは声をかけた。


 カイルは振り返らない。


「何だ」


「さっきの模擬戦」


「負けた」


 短い。


「はい」


「それだけだ」


「それだけですか」


「それだけだ」


 声が硬い。


 リオは少し考える。


「悔しいですか」


 カイルが立ち止まった。


 エインが息を呑む。


 メイナも足を止める。


 カイルはゆっくり振り返った。


「当たり前だ」


 その声には、今まで抑えていたものが少し滲んでいた。


「悔しいに決まってる」


「……はい」


「一戦目で崩された。二戦目は取り返そうとして、もっと崩された」


 カイルは自分で言った。


 自分の負けを、ちゃんと言葉にした。


「分かってる」


「はい」


「分かってるから余計に腹が立つ」


 エインが少し驚いた顔をしている。


 カイルがこんなふうに感情を出すのは珍しい。


「俺は」


 カイルは言う。


「正しく動いていたつもりだった」


「はい」


「でも、その正しさを読まれた」


「……」


「なら、俺が積み重ねてきたものは何だ」


 その言葉が、リオには重く刺さった。


 カイルは、自分の剣に誇りを持っている。


 派手さではなく、積み重ねた正しさに。


 その正しさを崩されたから、ただの一敗以上に傷ついている。


 リオはすぐには答えられなかった。


 代わりに、レオンが口を開いた。


「積み重ねたものは、無駄ではないと思います」


 カイルがレオンを見る。


「何が分かる」


 少し鋭い声だった。


 レオンは怯まなかった。


「全ては分かりません。ただ、今日の相手は、カイルさんの正しい動きに対応したのであって、正しさそのものが無価値だったわけではないかと」


「……」


「正しいから読まれた。ですが、正しくなければ、そもそも一戦目の途中まで打ち合えなかったと思います」


 真面目な言葉。


 少し硬い。


 でも、レオンらしい。


 カイルは黙った。


 メイナも言う。


「私は、カイルさんの剣が綺麗だから、ダレンさんの崩し方がよく見えました」


「どういう意味だ」


「雑な相手だったら、どこを崩されたのか分かりにくかったと思います。でも、カイルさんの動きが整ってたから、相手が何を狙ってるのか見えたんです」


 カイルは少し目を伏せる。


「褒めているのか」


「はい」


 メイナははっきり言った。


「でも、慰めではないです」


「……そうか」


 エインは拳を握った。


「俺は、カイルさんが負けて悔しいです」


 全員がエインを見る。


「でも、さっきの模擬戦見て、すごいと思いました。ダレンさんもすごかったですけど、カイルさんもすごかったです」


「俺は負けた」


「はい。でも、俺だったら最初の三手で終わってました」


「それはそうだな」


「そこは否定してほしかったです!」


 少しだけ空気が緩む。


 カイルの表情もわずかに変わった。


 リオはゆっくり言った。


「カイルさん」


「何だ」


「帰ったら、ガルドさんに聞きましょう」


「……何を」


「どう崩されたか」


「自分で分かってる」


「分かってるなら、それをガルドさんに確認してもらえばいいです」


「……」


「悔しいなら、使いましょう」


 リオは、自分が言われた言葉を思い出す。


 失敗を全部真っ黒にするな。


 次に使えなくなる。


「今日の負けを、真っ黒にしたらもったいないです」


 カイルはリオを見る。


「誰の受け売りだ」


「ガルドさんです」


「だろうな」


 カイルは小さく息を吐いた。


「腹が立つな」


「ガルドさんに?」


「お前に言われて、少し納得しかけている自分にだ」


「それはすみません」


 リオは苦笑した。


 カイルは少しだけ空を見上げた。


「……帰るぞ」


 声はまだ硬い。


 だが、さっきより少しだけ戻っていた。


 ギルドへ戻ると、ナナがすぐに空気を察した。


「おかえり。何かあったね」


「カイルさんが負けました」


 エインが言った。


 リオは止める前に顔を覆った。


「エイン」


 メイナが小声で言う。


「言い方」


「あっ」


 エインが固まる。


「すみません!」


 カイルは特に怒らなかった。


「事実だ」


 その声に、ギルド内の空気が少し静かになる。


 ミレナが受付から立ち上がる。


「模擬戦で?」


「はい」


 レオンが答える。


「西ギルドのダレンさんに二本取られました」


「そうですか」


 ミレナはカイルを見る。


「怪我は?」


「ない」


「なら良かったです」


 まず怪我の確認。


 ミレナらしい。


 ガルドはいつもの席にいた。


 酒を飲んでいる。


 片目を開けてカイルを見る。


「負けたか」


「ああ」


「どう負けた」


「崩された」


「だろうな」


「知ってたのか」


「ダレン相手ならな」


 ガルドは杯を置く。


「来い」


 短い言葉。


 カイルは少し眉を寄せる。


「今からか」


「今じゃねえと腐るぞ」


 その言葉に、カイルは何も言わず、訓練場へ向かった。


 リオ達も見に行く。


 ギルド裏の訓練場。


 夕方の光が差している。


 ガルドは木剣を一本取った。


 カイルも木剣を持つ。


「再現しろ」


 ガルドが言う。


「ダレンの動きを?」


「ああ」


「無理だ。完全には」


「大体でいい」


 カイルは構える。


 そして、ダレンの動きを思い出しながら動いた。


 低い構え。


 重い受け。


 距離を潰す足。


 反動を使う崩し。


 ガルドはそれを見ながら、一度も剣を振らずに言った。


「お前、逃げる方向が綺麗すぎる」


 カイルが止まる。


「どういう意味だ」


「攻められた時、正しい位置に下がる。正しい角度で避ける。だから読まれる」


「正しく避けるなと?」


「違う」


 ガルドは木剣を肩に乗せる。


「正しい避け方しかできねえと思われるな」


 カイルは黙る。


「ダレンはそこを突いた。お前が嫌がる位置を作って、そこから逃げる道を読んだ」


「……分かってる」


「分かってるなら、次はそこを使え」


「使う?」


「読まれるなら、読ませろ」


 ガルドは一歩前に出る。


「綺麗に下がると見せて、踏み込め。受けると見せて、力を抜け。正しく動くのをやめるんじゃねえ。正しさを餌にしろ」


 リオは聞きながら、胸が少し熱くなるのを感じた。


 ガルドの言葉は雑に聞こえる。


 でも、剣の話になると妙に深い。


「一回やるぞ」


 ガルドが構える。


 空気が変わる。


 さっきまでだらけていた中年ではない。


 木剣を持つだけで、場の重さが変わる。


 カイルも構える。


「来い」


 カイルが踏み込む。


 速い。


 だが、ガルドは半歩ずれただけで、カイルの剣筋から外れた。


 カイルが二撃目。


 ガルドは受ける。


 軽く。


 その瞬間、カイルの剣が少し流れる。


 力の向きがずらされている。


 カイルは立て直そうとする。


 だが、その前にガルドが足を入れた。


 ダレンと同じ。


 いや、もっと嫌な位置。


 カイルの逃げ道が消える。


「ここだ」


 ガルドが言う。


 木剣を止めたまま。


「お前はここで下がる」


 カイルは歯を食いしばる。


「だから」


 ガルドが足を少しずらす。


「ここで前に出ろ」


 カイルの目が変わる。


 彼は一瞬だけ体を沈め、前へ出た。


 ガルドの木剣が肩に触れる。


 だが、さっきより深くは入っていない。


「遅い」


 ガルドが言う。


「でも方向は悪くねえ」


 カイルは息を吐く。


 悔しさと、納得が混ざった顔だった。


「もう一回」


 カイルが言う。


 ガルドは面倒そうに顔をしかめた。


「三回までだ」


「五回」


「三回」


「四回」


「三回だ」


「……三回」


 その後、三回どころでは済まなかった。


 ガルドは文句を言いながらも、カイルの動きを見た。


 カイルは何度も崩され、何度も止まり、何度もやり直した。


 リオ達は黙って見ていた。


 エインは途中から正座しそうな勢いだった。


 レオンは真剣にメモを取っている。


 メイナはカイルの足運びをじっと見ていた。


 日が暮れる頃、カイルは汗だくになっていた。


 ガルドは少し息が上がっている程度。


「おっさん、やっぱりおかしい」


 エインが小声で言う。


「聞こえてるぞ」


 ガルドが言った。


「すみません!」


 カイルは木剣を下ろした。


「……少し分かった」


「少しか」


「少しだ」


「それでいい」


 ガルドは木剣を肩に担ぐ。


「一日で分かった気になるな」


「ああ」


 カイルは深く息を吐いた。


 そして、ガルドに頭を下げた。


「助かった」


「礼はいい。疲れた」


「でも」


「次、勝てるかは知らんぞ」


「勝つ」


「その前に負けを使え」


「……ああ」


 その返事は、さっきよりずっと落ち着いていた。


 夜。


 酒場で、カイルは珍しく静かに酒を飲んでいた。


 普段あまり飲まないのに、今日は一杯だけ頼んだ。


 ナナは何も言わず、少しだけ薄めにして出した。


「薄いな」


 カイルが言う。


「今日はそれくらいで」


 ナナが笑う。


「悔し酒は濃いと残るよ」


「経験者か」


「見てきただけ」


 カイルはそれ以上文句を言わなかった。


 リオが隣に座る。


「隣、いいですか」


「ああ」


「悔しいですか」


「またそれか」


「はい」


「悔しい」


 カイルは素直に言った。


「でも、さっきよりはマシだ」


「良かったです」


「お前達にも気を遣わせたな」


「少し」


「正直だな」


「このギルドの教育です」


 カイルは小さく笑った。


 珍しい笑いだった。


「正しさを餌にする、か」


「ガルドさんらしい言い方でしたね」


「嫌な言い方だ」


「でも、分かりやすかったです」


「ああ」


 カイルは杯を見る。


「俺は、自分の正しさに少し寄りかかっていたのかもしれない」


「……」


「基本を崩さないことと、基本にしがみつくことは違う」


 リオはその言葉を覚えておこうと思った。


 カイルの敗北は、カイルだけのものではない。


 見ていた自分達にも、何かを残している。


「カイルさん」


「何だ」


「今日、負けたのを見て、正直ちょっと怖かったです」


「俺が負けたことが?」


「はい」


「俺もだ」


 カイルは静かに言った。


「怖かった」


 リオは驚いた。


 カイルが自分で怖いと言うとは思わなかった。


「積み重ねたものが通じないんじゃないかと思った」


「……」


「でも、違った」


 カイルは視線を上げる。


 訓練場の方を見るように。


「通じなかったんじゃない。通じた上で、対応された」


「はい」


「なら、次はその先だ」


 その声には、もう折れそうな響きはなかった。


 悔しさはある。


 でも、前を向いている。


「次、ダレンさんとやるんですか」


「やる」


「勝てそうですか」


「分からん」


 カイルは少しだけ口元を緩める。


「だが、次はもう少し嫌な相手になる」


「カイルさんが?」


「ああ」


「楽しみです」


「見るだけならな」


 少し笑いが起きる。


 エインが遠くから叫ぶ。


「カイルさん!」


「声が大きい」


「次、俺も訓練付き合います!」


「まずお前は足元を見ろ」


「はい!」


「それから声を抑えろ」


「はい!」


「あと昨日褒められたからといって調子に乗るな」


「はい……」


 完全にいつものカイルだった。


 でも、少しだけ違う。


 負けた後のカイル。


 折れかけて、悔しがって、怒って、それでも学び直したカイル。


 リオには、前より少し近く見えた。


 完璧に見える人でも負ける。


 正しく積み重ねてきた人でも崩される。


 そして、負けた後にどうするかで、その人の強さが見える。


 ガルドはいつもの席で、薄くない酒を飲んでいた。


 カイルの方をちらりと見て、何も言わない。


 褒めもしない。


 慰めもしない。


 ただ、少しだけ満足そうだった。


 リオはそれを見て思った。


 今日のカイルの敗北は、きっと記録に残らない。


 模擬戦で負けた。


 それだけの話だ。


 依頼書にも報告書にも、大きく書かれることはない。


 でも、カイルの中には残る。


 リオ達の中にも残る。


 正しさは強い。


 でも、正しさだけでは足りない時がある。


 負けは痛い。


 でも、使えば次に進める。


 そんな当たり前のことを、痛みを伴って知った日だった。


「リオ」


 カイルが言った。


「はい」


「明日から朝の訓練、少し付き合え」


「僕ですか?」


「お前は最近、嫌な動きをする」


「褒めてます?」


「半分」


「残り半分は?」


「ガルドに似てきて腹が立つ」


「それは僕も複雑です」


 カイルは少し笑った。


「頼む」


「分かりました」


 リオは頷いた。


 また一つ、ギルドの日常が変わる。


 明日の朝から、カイルの訓練が少し変わる。


 リオも巻き込まれる。


 エインはたぶん勝手に参加する。


 レオンは見学して記録を取る。


 メイナは横から鋭いことを言う。


 ガルドはだらけながら文句を言う。


 そして、ナナはそれを見て笑う。


 いつものギルドだ。


 でも、今日の負けを抱えた分だけ、少しだけ前へ進んだギルドだった。

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