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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第9話「強かったやつほど、どうでもいいことで笑えるようになる」


 人は、何かを乗り越えたあと、急にどうでもいいことで笑うようになる。


 それは強くなった証拠なのか、それとも壊れた証なのか――当人ですらよくわかっていないことが多い。



 遺跡から戻って三日後の昼、ギルド酒場の空気はいつも通りの騒がしさを取り戻していて、つい数日前まであの場所で黒い残滓と対峙していたことが嘘みたいに感じられるほど平和で、誰もが自分の仕事や酒や噂話に忙しく、ただ一人を除いては、過去の話題を引きずるような空気は一切なかった。


「なあリオ、やっぱり昼の酒は格別だと思わねえか?」


 ジョッキを片手に満足げに言うガルドの姿は、遺跡の奥で見せたあの異様な集中力と殺気を纏った男と同一人物とは到底思えないほど弛緩していて、腹を軽く叩きながら椅子に深く腰を沈めるその姿には、もはや“伝説”の欠片すら感じられなかった。


「思いませんし、そもそもまだ昼です」


 リオは即座に突っ込みながらも、どこかほっとしている自分に気づいていた、あの遺跡で見たものを引きずらずにいられるのは、この男があまりにも普段通りすぎるからだと理解しているからだ。


「昼だからいいんだろ、夜に飲むのは普通だ、普通はつまらん」


「その理屈で借金増やしてる人が何言ってるんですか」


「借金は未来の自分が払う」


「最低ですね」


 ミレナが遠くから「聞こえてますからね!」と怒鳴る声が飛んできて、ガルドは軽く手を振って誤魔化すが、その顔には一切の反省が見えず、むしろ“今日も平和だな”と言わんばかりの緩みきった笑みが浮かんでいた。



 その時、扉が開いた音がして、ギルドの中に少しだけ緊張が走ったのは、入ってきた人物の雰囲気が明らかに他の冒険者と違っていたからで、その視線の先にいたのは、見慣れたはずの、しかしどこか前よりも空気の変わった男だった。


「……カインさん」


 リオが呟く。


 カイン・ヴェルドは、前回と同じように整った装備で、しかしどこか前よりも無駄が削ぎ落とされた動きでカウンターへと歩いていき、ミレナに簡単な報告を済ませたあと、少しだけ周囲を見回してから、迷いなくこちらへ向かってきた。


「……よお」


 ガルドが軽く手を上げる。


「また会ったな」


 カインの声は落ち着いていたが、その目は明らかにガルドを見据えていた。


「たまたまだろ」


「……そうか」


 短い会話、だがそこには前回とは違う何かがあった、単なる警戒ではない、理解しようとする視線。


「座るか?」


 ガルドが隣の椅子を足で引く。


「……いいのか」


「嫌なら立ってろ」


「座る」


 カインは迷わず座った。



「どうだった」


 ガルドが酒を飲みながら聞く。


「何がだ」


「この前のやつだ」


 カインは一瞬だけ目を細める。


「……負けた」


 はっきりと言った。


 リオが驚く。


「え?」


「勝てたのは、あれがあの程度だったからだ」


 淡々とした声。


「もっと強ければ、終わってた」


「まあな」


 ガルドは軽く頷く。


「で?」


「……次は勝つ」


 短い言葉。


 だが、芯がある。


「いいじゃねえか」


 ガルドが笑う。


「そのくらいの方が面白い」


「面白い、か」


 カインは少しだけ眉をひそめる。


「命がかかってるのにか」


「だからだろ」


 ガルドは言う。


「どうでもいい戦いなんて、つまらん」


 その言葉に、カインは少しだけ黙った。



「……あんたは」


 カインが口を開く。


「なんで、あんなに余裕なんだ」


「余裕?」


「そうだ」


 カインの視線は真剣だった。


「あの場でも、普段でも、全部だ」


 リオも思わず息を呑む。


 それは、自分も思っていたことだった。


「……別に余裕じゃねえよ」


 ガルドはあっさり言う。


「じゃあなんだ」


「慣れだ」


 短い一言。


「慣れ……」


「何回もやってりゃ、どうでもよくなる」


「どうでもよくなる?」


「死にかけるのも、戦うのも、勝つのも負けるのも」


 ガルドはジョッキを揺らす。


「全部な」


 カインは言葉を失う。


「……それは」


「いいことじゃねえぞ」


 ガルドは笑った。


「でもな」


 一拍。


「その代わり、どうでもいいことで笑えるようになる」


 リオはその言葉に引っかかる。


(どうでもいいことで……)


 今のこの光景。


 まさにそれだった。



「……よくわからん」


 カインが正直に言う。


「だろうな」


「だが」


 カインは少しだけ前を向く。


「強くなる理由は、わかる」


 視線が、少しだけ遠くへ向く。


 その先には――セリアがいた。


「……ああ」


 ガルドが軽く頷く。


「わかりやすい」


「何がだ」


「全部だ」


 カインは顔をしかめる。


「……言うな」


「言ってねえ」


「言ってるだろ」


 少しだけ、空気が緩む。



「ガルドさん」


 その時、セリアがやってきた。


「今日も来てたんですね」


「おう」


「……カインさんも」


「……ああ」


 少しぎこちない返事。


「この前はありがとうございました」


 セリアが笑う。


「助かりました」


「……気にするな」


 カインは視線を逸らす。


 わかりやすい反応だった。


「今日も忙しそうだな」


 ガルドが言う。


「はい、少しだけ」


「無理すんなよ」


「大丈夫です」


 セリアは頷く。


 そのやり取りを、カインはじっと見ていた。



「……あんた」


 カインがぼそりと言う。


「なんだ」


「なんで、そんな距離でいられる」


「距離?」


「そうだ」


 カインの声は低い。


「近すぎず、遠すぎず」


 ガルドは少しだけ考える。


「……面倒だからだ」


「は?」


「近すぎると面倒だし、遠すぎても面倒だ」


「理由が雑すぎるだろ」


「だいたいそんなもんだ」


 カインは呆れた顔をする。


 だが――


「……でも」


 少しだけ、納得している顔でもあった。



「なあリオ」


「はい」


「こいつ、いいやつだな」


「そうですね」


 リオは頷く。


「ちゃんと悩んでますし」


「悩むやつは伸びる」


「伸びないやつは?」


「最初から諦めてるやつだ」


 カインはそれを聞いて、少しだけ顔をしかめた。



 人は、何かを乗り越えたあと、急にどうでもいいことで笑うようになる。


 だが、その裏では――


 まだ何かを掴もうとしているやつがいる。


 必死に、届かないものを追いかけているやつがいる。


 それは、きっと悪いことじゃない。



「なあ」


 カインが言う。


「今度、手合わせしろ」


「断る」


「早いな」


「面倒だ」


「逃げてるのか」


「そうだ」


「……」


 一瞬の沈黙。


「……嘘だな」


「バレたか」


 ガルドは笑う。


「そのうちやる」


「そのうちっていつだ」


「気が向いたらだ」


「曖昧すぎる」


「俺はそういうやつだ」


 カインはため息をつく。


 だが、その顔は少しだけ緩んでいた。



「で」


 ガルドが立ち上がる。


「今日はもう飲むか」


「もう飲んでるじゃないですか」


「追加だ」


「やめてください」


「カインも飲むか」


「飲まん」


「つまらんな」


「仕事がある」


「真面目だな」


「普通だ」


 ガルドは笑う。



 騒がしくて、くだらなくて、それでもどこか温かい時間が流れていく中で、それぞれがそれぞれの距離を保ちながら、少しずつ関係が変わっていくのを、リオはぼんやりと感じていた。


 この日常は、きっとずっと続くわけじゃない。


 だが――


 今は、まだここにある。



「なあリオ」


「はい」


「明日はどうする」


「普通に依頼受けましょう」


「だな」


「普通にですよ?」


「たぶんな」


「不安です」


 ガルドは笑う。


 カインはため息をつく。


 セリアは遠くで手を振る。


 ミレナは帳簿を叩く。



 どうでもいいことで笑える日常は――


 今日も、ちゃんとそこにあった。

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