■第10話「誰かの日常を支えてるやつは、だいたい自分のことを後回しにしてる」
目立つやつがすごいように見えるのは、だいたい表に立っているからであって、本当に大事なものを支えているのは、たいてい目立たない場所で黙々と動いている人間だ。
そして、そういう人間ほど、自分がどれだけ大変なことをしているのかを口にしない。
口にしないから、周りもつい当たり前だと思ってしまう。
当たり前にそこにいて、当たり前に働いて、当たり前に回してくれる人がいるから成り立っているのに、人はそれを“当たり前”の一言で済ませてしまう。
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朝のギルドは忙しい。
昼や夜の酒場としての喧騒とは違う、仕事場としての慌ただしさがそこにはあって、冒険者たちは依頼書の前に集まり、商人は護衛の相談に来て、街の住民は魔物や盗賊の相談を持ち込み、雑用係は走り回り、奥の倉庫では物資の確認が行われ、誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが報酬の少なさに文句を言う――そんな混線した音の中心に、今日もミレナ・フィルはいた。
「はい、依頼の受理はこちらです、そちらの方は順番に並んでください、報告書は未記入だと受け取れません、あっ、そこの方、血のついた剣をカウンターに置かないでください、掃除するの私なんですからね!」
早口でそう言いながら、右手で報告書を受け取り、左手で新しい依頼票を捌き、横から差し出された質問に答え、奥の帳簿係に声をかけ、ついでに酔っ払いの朝帰り冒険者を視線だけで黙らせるその姿は、もはや一種の戦場指揮官に近かった。
「……すごいですね」
少し離れた位置でその光景を見ていたリオが、感心したように呟く。
「だろ?」
隣でガルドが腕を組みながら言う。
「ミレナは強い」
「強い、の種類が違いません?」
「違わねえよ、あの場所で毎日平気な顔して立ってられる時点で化け物だ」
「本人に聞かれたら怒られますよ」
「褒めてるのにか?」
「たぶん“化け物”の部分で引っかかります」
ガルドは「細けえな」と肩をすくめるが、その目は珍しく真面目で、ただ面白がって見ているだけではないことがリオにもわかった。
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「……あの人、いつ休んでるんでしょうね」
リオがぽつりと言う。
「休んでねえんじゃねえか?」
「冗談ですよね?」
「半分くらいは」
ガルドが答えた、その時だった。
「ガルドさん!」
カウンターの向こうからミレナの声が飛んでくる。
「いるならぼーっと見てないでこれ運んでください!」
「断る」
「断らないでください!」
返事が早い。
「なんで俺が」
「そこにいるからです!」
「理不尽だ」
「理不尽なのはいつもあなたです!」
書類の束がどさりと置かれる。
「それ、二階の資料棚まで持ってってください、分類は“未処理・討伐系・南区域”で、去年の分と混ざらないように右から二番目、赤い紐の束の隣です!」
「長い」
「覚えてください!」
「無理だ」
「じゃあリオくん!」
「はい!」
結局リオが持つことになる。
「なんでこうなるんですか……」
「若いからだろ」
「ひどい理由ですね」
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二階の資料棚は、想像以上に整然としていた。
種類別、時期別、地域別、依頼主別に分けられた膨大な書類がきっちり整理されていて、これを普段誰が管理しているのかを考えるまでもなく、リオはミレナに対する認識を改めざるを得なかった。
「……これ、全部ミレナさんが?」
「全部じゃねえだろうが、大半はあいつだろうな」
ガルドは適当に答える。
「前の受付が辞めたあと、だいぶ一人で回してたしな」
「前の受付さんって?」
「結婚して隣町に行った」
「平和な理由でよかったです」
「平和じゃねえぞ、あの時期のギルドは地獄だった」
ガルドが遠い目をする。
「依頼票はなくなるし、報酬計算は合わねえし、報告書は見つからねえし、アルが三日くらい機嫌悪かった」
「……想像しただけで怖いですね」
「ミレナが来てから全部マシになった」
その言い方は妙にあっさりしていたが、そこに含まれている評価はかなり重いものだとリオは感じた。
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下に戻ると、ギルドの忙しさはさらに増していた。
どうやら午前の依頼受理の山場らしく、護衛申請が二件同時に来ているうえに、近郊農村から畑を荒らす魔物の相談、薬草採取の同行依頼、街の見回り協力の申請まで一気に重なっているらしい。
「ミレナさん、大丈夫ですか?」
リオが声をかける。
「大丈夫じゃないです!」
即答だった。
「でも止めるわけにもいかないんです!」
「手伝います!」
「ありがとうリオくん! その書類を右、報告書を左、赤い印の依頼は緊急だから先にアルヴェイン様に回して、それ終わったらこの名簿の確認お願い!」
「は、はい!」
リオが飛び込む。
ガルドは少し離れたところでそれを見ていたが、ふいに視線だけで全体を見回し、いつもの気の抜けた顔のまま、小さく舌打ちした。
「……面倒くせえな」
「帰ります?」
横を通りかかった雑用係が聞く。
「違う」
ガルドは立ち上がると、カウンターの端にいた冒険者の肩を軽く叩いた。
「おい、討伐報告は後だ、護衛の方が先」
「なんでお前に言われなきゃ」
「お前の護衛先、商会の若旦那だろ、あいつは時間にうるせえ、遅れたら次から仕事来ねえぞ」
「……あ」
「で、そっちの農村依頼は今聞いとけ、魔物の足跡は時間経つとわからなくなる」
「……」
冒険者が黙る。
「ほら、動け、ぼさっとすんな」
言いながら、別の方へ向く。
「ミレナ、それ後回しでいい、先にこの三件切れ」
「え?」
「報告書は逃げねえ、依頼主は逃げる」
「……たしかに」
「リオ、そこの名簿は後だ、南区域の地図持ってこい、農村のやつに場所確認させる」
「はい!」
指示が飛ぶ。
雑なのに、妙に的確だった。
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あっという間に流れが変わった。
さっきまで窓口の前で詰まっていた人の流れが少しずつ解消され、優先順位がついたことで混乱が減り、ミレナの手もわずかに空くようになっていく。
「……え、なんで」
リオが思わず呟く。
「ガルドさん、こういうのもできるんですか」
「できるだろ、見りゃわかる」
「そんな簡単な話じゃないですよね?」
「戦場と同じだ」
ガルドはあっさり言う。
「詰まってる場所を見て、止まる前に流す、それだけだ」
リオは目を見開く。
「それを“それだけ”で済ませるんですか」
「済むからな」
だが、その目は冗談を言っていなかった。
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「……助かりました」
昼を少し回った頃、ようやく波が落ち着いたところで、ミレナがカウンターの中から深く息をつき、珍しく素直にそう言った。
「おう」
「……でも」
じろりと睨む。
「だからって借金は消えませんからね」
「今いい話だっただろ」
「それとこれとは別です!」
即座に現実へ引き戻される。
リオは苦笑した。
「でも、本当にすごかったです」
「ガルドさん、ああいうの得意なんですね」
「得意ってほどじゃねえよ」
ガルドは椅子にどかっと座る。
「昔、補給だの避難だの情報整理だの、そういうのもやってただけだ」
リオが止まる。
「……昔って」
「昔だ」
それ以上は言わない声だった。
だが、ミレナはほんの少しだけ表情を和らげた。
「……まあ、そういうのをちゃんと活かしてくれるなら、たまには役に立つおっさんって認めてあげてもいいです」
「たまにか」
「たまにです」
「ひでえな」
「日頃の行いです」
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その時、ギルドの扉が勢いよく開いた。
「た、大変です!」
駆け込んできたのは、まだ若い冒険者だった、顔色が悪く、息が荒く、ただ事ではない様子が一目でわかる。
「北の街道で荷車が横転して、積み荷が散らばって、それで魔物まで寄ってきてて……!」
「落ち着いてください、場所はどこですか!」
ミレナが即座に身を乗り出す。
「北の第二街道、石橋を越えたあたりです! 護衛が一人やられて、でもまだ商人たちが……!」
言い終える前に、ガルドが立ち上がっていた。
「リオ、行くぞ」
「はい!」
「ちょっと待ってください、正式な受理を――」
ミレナが言いかける。
「書類は後だ、今は人命優先」
ガルドの声は低く、さっきまでとは別人みたいに無駄がなかった。
「ミレナ、応援二組出せ、荷車の回収班も呼べ、積み荷が食い物なら匂いで余計に寄る」
「……わかりました!」
「アルには俺から伝える」
「いえ、それは私が――」
「いいから早く回せ」
一瞬だけ、ミレナは悔しそうな顔をしたが、すぐに切り替えた。
「リオくん、地図持って!」
「はい!」
「ガルドさん、勝手に死なないでください!」
「誰に言ってんだ」
ガルドは笑って、扉の外へ出た。
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北の街道は想像以上にひどい有様だった。
荷車が横倒しになり、木箱が散乱し、布袋からこぼれた穀物が地面に広がっていて、それに引かれたのか小型の魔物が周囲をうろつき、商人たちは壊れた車輪の陰に身を寄せていた。
「まだ無事だな」
ガルドが状況を一目で見て取る。
「リオ、左。俺は正面」
「はい!」
走る。
小型魔物は数が多いが、一体一体は強くない。
リオが二体を引きつけ、ガルドがもっとも危険な位置にいた三体を一瞬で処理し、その間に商人の一人が転んで荷物の下敷きになりかけたのを、ガルドが片手で引っ張り出す。
「ぼさっとすんな、死ぬぞ」
「す、すまねえ!」
「謝る前に動け」
怒鳴りながらも、声に余計な焦りはない。
場が落ち着く。
それだけで、人は動けるようになる。
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数分後、魔物は掃除できた。
だが問題は終わっていない、荷車は壊れ、積み荷は散乱し、商人の一人は脚を痛めていて、このままでは移動すらままならない。
「……どうします?」
リオが聞く。
「まず積み荷を寄せる、食い物と布を分けろ、匂いの強いもんはまとめて覆え」
「はい!」
「おっさん、脚は?」
「折れてはねえ……でも立つと痛ぇ」
「なら無理すんな」
ガルドは周囲を見回し、近くの木の枝と荷車の破片を拾い上げる。
「即席で固定する」
「そんなこともできるんですか」
「できることはやる、それだけだ」
手際がいい。
慣れている。
リオは見ているうちに、また胸の奥がざわつくのを感じていた。
(この人は……本当に、どれだけのことをやってきたんだ)
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しばらくして、応援が来た。
ギルドの人員が二組、そして最後に駆けつけたのは――
「無事ですか!」
ミレナだった。
「え、ミレナさん!?」
「私も状況確認くらいは来ます!」
息を切らしながらも、手には名簿と確認票を抱えている。
「怪我人は何人、積み荷の破損はどのくらい、依頼主は誰ですか、あっ、そこの袋は先に確認してください、それ商会の印が違います!」
「お前、仕事しに来たのか」
ガルドが呆れたように言う。
「当然です!」
ミレナは即答した。
「あと、心配もしました!」
「後ろの方が本音っぽいな」
「うるさいです!」
だが、顔は少し赤かった。
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ひと通り片付いたあと、商人たちが何度も礼を言い、応援組が荷車を街へ戻す準備を始め、ようやくその場に落ち着きが戻った頃、ミレナは大きく息を吐いて、その場の石に腰掛けた。
「……疲れました」
「そりゃそうだろ」
ガルドが近くに立つ。
「普段あれだけ中で回して、外まで来るんだからな」
「わかってるなら、たまにはもっと労わってください」
「労わってるだろ」
「どこがですか」
「今、言った」
「言っただけじゃなくて、行動で示してください」
「難しいこと言うな」
リオは少し離れたところでそのやり取りを見ながら、なんとなく笑ってしまった。
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「……でも」
ミレナが空を見るように言う。
「ギルドって、不思議ですね」
「何がだ」
「こんなに毎日大変で、面倒ごとばっかりで、変な人も多いのに」
ちらっとガルドを見る。
「……それでも、誰かが助かって、回っていくから」
その声は少しだけ柔らかかった。
「やめられないんですよね」
ガルドは少しだけ黙って、それから珍しく真っ当な声で言った。
「そりゃ、お前がちゃんと回してるからだ」
ミレナが固まる。
「……え?」
「お前がいなきゃ、あそこはもっとぐちゃぐちゃだ」
あっさりした言い方だった。
「だから助かってるやつは多い」
ミレナは目を丸くする。
リオも驚いた。
こんなに真っ直ぐ褒めるのは珍しい。
「……きゅ、急にそういうこと言わないでください」
ミレナは視線を逸らす。
「調子狂うじゃないですか」
「事実だろ」
「だから困るんです!」
耳まで赤い。
ガルドはそれを見て笑う。
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誰かの日常を支えている人間は、たいてい自分のことを後回しにしている。
自分がしんどいことにも、疲れていることにも、だんだん鈍くなっていく。
でも、そういう人間がいなくなった途端に、みんな初めて“当たり前じゃなかった”と気づくのだ。
だからたぶん、ちゃんと口に出した方がいい。
お前がいるから助かってる、と。
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街へ戻る頃には、もう日が傾いていた。
ギルドの中もだいぶ落ち着いていて、昼の喧騒が嘘みたいに静かになっている。
「今日はさすがに飲まないで帰ってくださいね」
ミレナが疲れた顔で言う。
「なんでだ」
「なんでじゃありません! 今日は真面目に働いたんだから、そのまま真面目に終わってください!」
「一日の締めに酒は必要だろ」
「必要ありません!」
「必要だ」
「必要ないです!」
「半分だけ」
「ダメです!」
「一杯」
「ダメ!」
「小さいやつ」
「ダメなものはダメです!」
結局いつものやり取りに戻る。
リオは心の中で、ああ、やっぱりこうなるんだなと思いながら、少しだけ安心していた。
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「なあリオ」
「はい」
「ミレナ、今日ちょっと機嫌いいな」
「それ、たぶんさっき褒めたからですよ」
「褒めたっけ?」
「褒めてましたよ」
「そうか」
ガルドは首をひねる。
「じゃあ明日も褒めるか」
「やめた方がいいと思います」
「なんでだ」
「たぶん警戒されます」
「面倒だな」
「あなたが言います?」
ガルドは笑う。
ミレナは遠くから「聞こえてますからね!」と怒鳴る。
その声がいつもより少しだけ軽く聞こえたのは、きっと気のせいじゃない。
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目立つやつがすごいように見えるのは、だいたい表に立っているからだ。
でも、本当に日常を支えているのは、案外こういうところにいる。
怒って、回して、叱って、書類を捌いて、誰かのために走り回って、それでも明日にはまた同じ場所に立っている。
そういう人間がいるから、みんな好き勝手できる。
好き勝手できる世界が守られる。
だったらたぶん、それは十分にすごいことだ。
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「で、ガルドさん」
「なんだ」
「借金の話、忘れてませんからね」
「……いい雰囲気だったのに?」
「それとこれとは別です!」
「ほんと容赦ねえな」
「当然です!」
「じゃあ今日の働きでちょっと引け」
「引きません!」
「そこは引けよ!」
「引きません!」
ギルドに笑い声が混じる。
騒がしくて、面倒で、でもどこかちゃんと回っている日常は――今日もまた、誰かの手で支えられていた。




