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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第86話「昔の依頼書」

 倉庫整理というものは、だいたいろくなことにならない。


 これは、ギルドに関わる者なら薄々分かっている事実だった。


 倉庫には、今使うものだけが入っているわけではない。


 いつか使うかもしれないもの。


 誰かが置いていったもの。


 壊れているのに捨てる判断ができなかったもの。


 昔の記録。


 古い装備。


 用途不明の箱。


 そして、ガルドが精神的に死ぬ箱。


 だから倉庫を開ける時、リオはいつも少し身構える。


 今日もそうだった。


「倉庫整理ですか」


 朝、ミレナが出した作業内容を見て、リオは微妙な顔をした。


「はい」


 ミレナは淡々と頷く。


「昨日の豪雨で、倉庫奥に少し湿気が入っている可能性があります。書類や古い依頼記録の確認が必要です」


「ああ……」


 昨日の雨はすごかった。


 街道が止まり、ギルドに人が泊まり、酒場が避難所になった。


 床は硬かったし、人は多かったし、エインは寝言を言ったし、ユーンは多段式仮眠装置を作ろうとした。


 だが、終わってみれば悪くない夜だった。


 問題は、その後始末である。


「倉庫って、昨日あんまり使いませんでしたよね」


 エインが言う。


「黒歴史箱とユーンさんの装置があるから危険だって」


「その言い方やめろ」


 ガルドが椅子から言った。


「黒歴史箱じゃねえ」


「正式名称あります?」


「ねえ」


「じゃあ黒歴史箱で」


「やめろ」


 ナナが酒場側で笑っている。


「蓋にちゃんと書いてあるしね」


「ガルドが泣くので絶対に開けるな、でしたっけ」


 メイナが言う。


「お前ら、最近遠慮がなくなってきたな」


 ガルドが低い声で言う。


「このギルドの教育です」


 リオが答える。


「悪い教育だな」


「主にガルドさん由来です」


「俺のせいにするな」


 ミレナが軽く咳払いした。


「話を戻します」


「はい」


「今回は、書類の移動と湿気確認が中心です。古い依頼記録もあるので、順番を崩さないように注意してください」


「古い依頼記録?」


 レオンが反応する。


「はい。ギルド創設初期からのものではありませんが、かなり古いものもあります。過去の案件や魔物の発生記録は、今でも参考になることがあります」


「重要資料ですね」


「そうです」


 レオンの目が真剣になった。


 彼はこういうものに強い。


 書類、分類、保存、記録。


 普通なら退屈がる作業でも、レオンは真面目にやる。


 むしろ、リオより向いているかもしれない。


「参加者は、リオくん、エインくん、メイナさん、レオンさん、マルクさん」


 ミレナが言う。


「それと、ガルドさん」


「なんで俺だ」


「古い書類の内容確認が必要になった場合、分かる人がいた方がいいので」


「俺じゃなくてアルでいいだろ」


「アルさんは朝から街道確認です」


「じゃあバルドレイ」


「学園です」


「ロッド」


「鍛冶場です」


「ドーガ」


「門番です」


「ナナ」


「酒場です」


 ナナが笑顔で答えた。


 ガルドは目を細める。


「逃げ場がねえ」


「ありません」


 ミレナは容赦なかった。


「お願いします」


「面倒だな」


「面倒でもお願いします」


「……分かったよ」


 ガルドは渋々立ち上がった。


「ただし、例の箱は開けるな」


「開けませんよ」


 リオが言う。


「本当に?」


「前回で十分です」


「ならいい」


「でも、もし新しい黒歴史が」


「開けるな」


 ガルドが本気で言った。


 倉庫は、少し湿った匂いがした。


 昨日の雨で空気が重くなっている。


 床は無事だが、奥の壁沿いに置かれた古い棚の一部が湿気を含んでいるようだった。


 マルクがすぐに窓を開け、空気を入れる。


「まず湿った木箱を手前に出しましょう」


 レオンが言う。


「中身が書類なら、乾いた場所へ移動した方がいいです」


「助かる」


 リオが頷く。


「エイン、そっち持って」


「はい!」


「勢いよく持ち上げない」


「はい!」


「斜めにしない」


「はい!」


「中身が紙だから」


「はい!」


「声は」


「大きくなくていい!」


「分かってるなら大丈夫」


 最近、エインも少しずつ学んでいる。


 勢いは変わらないが、確認するようになった。


 このギルドにいると、失敗の記録が多すぎて、嫌でも学ぶ。


 箱を開けると、古い依頼書の束が入っていた。


 紙は少し黄ばんでいる。


 きちんと紐でまとめられていて、表には年代と分類が書かれていた。


「古いですね」


 メイナが覗き込む。


「十年以上前じゃないですか?」


 リオが言う。


「いや」


 ガルドが横から見る。


「もっと前だな」


「分かるんですか?」


「この書式、昔のやつだ」


 ガルドは一枚を取る。


「今の依頼番号と違う。ほら、ここ」


 リオは紙を見る。


 確かに、今の番号形式とは違う。


 手書きの癖も古い。


 ギルドの印も少し形が違う。


「ガルドさん、こういうの詳しいんですね」


「昔は嫌でも見た」


「報告書とか書いてたんですか?」


「書かされてた」


「誰に?」


「アル」


「想像できます」


 アルなら、ガルドがどれだけ面倒くさがっても書かせただろう。


 それも静かに。


「字、綺麗だったんですか?」


「普通だ」


「今は?」


「書かねえ」


「答えになってないです」


 レオンが古い依頼束を丁寧に取り上げる。


「分類は残したまま、乾いた布の上に置きましょう」


「はい」


 作業は進む。


 湿気を確認し、乾燥させるものを分け、古い箱を入れ替える。


 最初は退屈な作業だった。


 少なくとも、黒歴史箱のような爆発力はない。


 だが、しばらくすると、エインが一枚の依頼書を手に止まった。


「あれ?」


「どうした?」


 リオが聞く。


「これ、名前があります」


「名前?」


「アルヴェインって」


 空気が少し変わった。


 ガルドの手が止まる。


 リオはエインの持つ依頼書を見る。


 そこには確かに書かれていた。


 依頼名。


 北方街道護衛。


 受注者。


 アルヴェイン。


 セリア。


 バルドレイ。


 ドーガ。


 ガルド。


「……」


 全員が黙った。


「勇者パーティ時代の依頼書ですか?」


 レオンが静かに言う。


 ガルドは少しだけ目を細めた。


「たぶんな」


「たぶんを」


 リオが言いかけて止まる。


 ここは茶化す空気ではなかった。


 紙は古い。


 けれど、そこに書かれた名前は、今もギルドにいる人達のものだった。


 アル。


 セリア。


 バルドレイ。


 ドーガ。


 ガルド。


 今の彼らを知っているからこそ、その古い文字が不思議に見える。


「ガルドさん」


 メイナが聞く。


「これ、覚えてますか?」


 ガルドは依頼書を受け取る。


 しばらく見る。


「……覚えてる」


 その声は、いつもより少し低かった。


「どんな依頼だったんですか」


 エインが目を輝かせる。


 だが、すぐに声を落とした。


 たぶん、軽く聞いてはいけないと感じたのだろう。


 ガルドは少し黙った。


「護衛依頼だ」


「書いてありますね」


「北方の街道で、冬前に物資を運ぶ依頼だった」


「普通の依頼ですか?」


「最初はな」


 その言い方だけで、普通では終わらなかったのだと分かる。


「魔物が出たんですか?」


 リオが聞く。


「魔物も出た。盗賊も出た。雪も降った」


「全部じゃないですか」


「全部だった」


 ガルドは依頼書を見たまま言う。


「荷馬車三台。護衛対象十二人。物資は薬と食料。目的地は北の砦の手前の村」


「大事な物資だったんですね」


「ああ。冬を越すためのやつだった」


 リオは紙を見る。


 そこに書かれている報酬額は、今の感覚だとそこまで高くない。


 だが、内容の重要度は高い。


「成功したんですか」


 エインが聞く。


 ガルドは短く答えた。


「した」


 少しだけ空気が緩む。


「ただ、馬車は一台壊れた。物資も少し失った。ドーガが肩を折った。俺は腹を裂かれた。セリアは三日寝なかった。アルは最後まで立ってた」


「……」


「成功ってのは、無傷って意味じゃねえ」


 ガルドは依頼書を元の束へ戻す。


「届いたから成功だ」


 リオは何も言えなかった。


 依頼書には、ただ“達成”と書かれている。


 それだけ。


 だが、その裏には壊れた馬車があり、雪があり、怪我があり、三日寝なかったセリアがいる。


 書類の一行では分からない。


「これ」


 レオンが別の束を見つける。


「こちらにも同じ名前があります」


 今度は討伐依頼だった。


 旧採掘場の魔物群排除。


 受注者の欄には、やはり同じ名前。


 アルヴェイン。


 セリア。


 バルドレイ。


 ドーガ。


 ガルド。


「これも?」


 リオが聞く。


「覚えてる」


 ガルドは嫌そうな顔をした。


「これは嫌な依頼だった」


「何があったんですか」


「狭い。暗い。臭い。魔物が多い。バルドレイが試した魔法で全員の髪が逆立った」


「最後だけ急に変ですね」


「最悪だった」


「魔法が?」


「髪が」


「そこなんですか」


 少しだけ笑いが起きた。


 重くなりすぎた空気が和らぐ。


「セリアさんも逆立ったんですか?」


 メイナが聞く。


「全員だ」


「アルさんも?」


「アルも」


「見たい」


 エインが呟く。


「見たかったな」


 リオも思わず言った。


「今度本人に聞くか」


 ガルドが言う。


「やめた方がいいですね」


 レオンが真面目に止める。


「アルさんの尊厳に関わります」


「ガルドさんの黒歴史箱よりは軽いのでは」


 メイナが言う。


「おい」


 ガルドが睨む。


 でも怒りきれていない。


 少し楽しそうにも見える。


 倉庫整理は、いつの間にか昔の依頼書探しになっていた。


 もちろん作業は続けている。


 湿った箱を移動し、資料を乾かし、分類を崩さないように並べ直す。


 だが、古い書類の中に今の知り合いの名前を見つけるたび、手が止まる。


「あ、これセリアさん単独の治療派遣依頼です」


 メイナが言う。


「負傷者多数の村への治療支援」


「それはたぶん、南の流行病の時だな」


 ガルドが言う。


「セリアさん一人で?」


「いや、俺達も行った。ただ、依頼上はセリアが主担当だ」


「どんな感じだったんですか」


 リオが聞く。


 ガルドは少しだけ目を伏せた。


「静かだった」


「静か?」


「戦闘よりきつい依頼だった」


 それだけで、皆少し黙った。


「セリアは一日中動いてた。薬を作って、熱を見て、子どもを寝かせて、死んだ奴の目を閉じて、また薬を作ってた」


「……」


「俺達は水を運ったり、薪を割ったり、飯を作ったりした。魔物と戦う方がよっぽど楽だった」


 リオは、昨日のセリアを思い出した。


 薬草を雑に扱ったことに、静かに怒ったセリア。


 助けたいなら学んでください、と言ったセリア。


 その言葉の根には、こういう依頼があるのかもしれない。


「だから」


 ガルドは小さく言う。


「あいつは薬を雑に扱われると怒る」


 誰も茶化さなかった。


 次に見つかったのは、ドーガの名前が大きく書かれた防衛依頼だった。


「ドーガさん、主担当です」


 レオンが言う。


「橋の防衛?」


 リオが覗き込む。


「東橋防衛および避難誘導」


「ああ、それはドーガが化け物だったやつだ」


 ガルドが言う。


「化け物?」


「橋の上で三時間、盾持って立ってた」


「三時間?」


「後ろに避難民。前に魔物。橋が狭いから、大勢で並べない。ドーガが正面塞いで、俺達が横から削った」


「すごいですね」


「すごいどころじゃねえ」


 ガルドは少し笑う。


「あいつ、途中で肩外れてたのに気づいてなかった」


「気づかないんですか!?」


「後でセリアに怒られた」


「でしょうね」


 リオは想像した。


 若い頃のドーガ。


 今と同じように寡黙で、ただ前に立つ男。


 橋の上で盾を構え、後ろの人々を逃がし続ける。


 多分、何も言わなかったのだろう。


 ただ立っていたのだろう。


 今、門番をしているドーガの姿と重なる。


「ドーガさんが門番なの、なんか分かる気がします」


 リオが言う。


「立つ場所があると強いんですね」


「昔からな」


 ガルドは頷いた。


 さらに書類をめくると、バルドレイの名前が出てきた。


「魔法災害調査」


 メイナが読む。


「主担当、バルドレイ」


「これは嫌な予感しかしないですね」


 エインが言う。


「正解だ」


 ガルドが即答する。


「魔法災害って何があったんですか?」


「森の一部が全部逆向きに生えた」


「逆向き?」


「根が上、葉が下」


「何それ怖い」


「バルドレイが三日楽しそうだった」


「怖い」


 ガルドは心底嫌そうな顔をする。


「あの爺さん、分からんものを見ると元気になる」


「今もですね」


 リオが言う。


「今もだ」


「その時、解決したんですか?」


「した。たぶん」


「たぶんを」


「使わなきゃやってられねえ依頼もある」


「そんなに?」


「最終的に森は戻った。ただ、一本だけ変な木が残った」


「残ったんですか」


「バルドレイが“観察対象”って言って持ち帰ろうとした」


「持ち帰れたんですか?」


「ドーガが止めた」


「正しい」


 笑いが戻る。


 勇者パーティと言っても、全てが格好いい英雄譚ではない。


 変な依頼もあれば、失敗しかけたこともあり、髪が逆立つことも、森が逆になることもある。


 そのことが、リオには少し嬉しかった。


 伝説の人達も、ちゃんと依頼を受けて、困って、怒られて、笑っていたのだ。


「これ、アルさんの字ですか?」


 レオンが一枚の報告書を持つ。


 字は整っている。


 簡潔。


 必要事項だけがきっちり書かれている。


 リオは見た瞬間、なんとなく分かった。


「アルさんっぽい」


「アルだな」


 ガルドが言う。


「字で分かるんですね」


「あいつの報告書はつまらん」


「つまらない?」


「必要なことしか書かない」


「それが報告書では?」


 レオンが真面目に言う。


「お前はアル側だな」


「ありがとうございます」


「褒めてるかは微妙だぞ」


 リオが笑う。


 報告書の内容は、辺境村での魔物討伐。


 達成。


 死傷者なし。


 補足として、現地水路の破損を修繕。


 リオはそこを指差す。


「この水路修繕って、ガルドさんですか?」


「たぶんな」


「また」


「これは本当にたぶんだ」


「でも水路直すの得意ですよね」


「得意ってほどじゃねえ」


 ガルドは面倒そうに言う。


「放っとくと村が困るからやっただけだ」


「それ、モテる理由ですよ」


 メイナがさらっと言った。


 ガルドが振り返る。


「その話は終わっただろ」


「終わってません」


 エインが言う。


「村でガルドさんがモテた話は、まだナナさんが続けると思います」


「やめろ」


「報告書にも“水路修繕”って残ってるんですよ。そりゃ覚えられます」


 リオが言う。


「依頼外なのにやったんですね」


「……ついでだ」


「ついでで水路直す人、そんなにいません」


「無駄に器用ですからね」


 メイナがまた言う。


「お前ら、本当に遠慮がないな」


 ガルドは呆れながらも、どこか諦めている。


 昔の依頼書は、次々といろいろな顔を見せた。


 厳しい依頼。


 地味な依頼。


 失敗しかけた依頼。


 変な依頼。


 誰かを助けた依頼。


 誰かが怪我をした依頼。


 誰かが怒った依頼。


 その全てが、数枚の紙に収まっている。


 リオは不思議な気分だった。


 今の自分達が受けている依頼も、いつかこうやって箱に入れられるのだろうか。


 犬探し。


 荷運び。


 穴掘り鼬の追い払い。


 山が動いた地滑り救助。


 雨の日の避難所対応。


 ユーンの暴走関連は、記録に残すべきなのだろうか。


 たぶん残る。


 いや、残さなければ後世が困る。


「リオ先輩」


 レオンが言う。


「どうしました?」


「いや」


 リオは古い依頼書を見つめながら言う。


「僕達の依頼も、いつかこうやって残るのかなって」


「残ります」


 レオンは即答した。


「報告書を提出している限りは」


「現実的」


「記録は残ります。ただし、内容が正確であれば」


「そうだね」


 メイナが笑う。


「エインが書くと、“山が動いた”になるかも」


「それは第一報です!」


 エインが抗議する。


「ちゃんと報告書には地滑りって書きました!」


「偉い」


「子ども扱い!」


「でも大事です」


 レオンが真面目に言う。


「後から見る人が誤解しないように書く必要があります」


「そう考えると、報告書って大事ですね」


 リオが言う。


「ミレナさんがうるさい理由がまた一つ分かりました」


「本人に言ったら怒られますよ」


 メイナが言う。


「“うるさい”じゃなくて“厳しい”ですって」


「確かに」


 昼過ぎ。


 倉庫整理はだいぶ進んだ。


 湿った箱は交換し、書類は乾いた棚へ移動した。


 古い依頼書も分類し直した。


 その途中で、リオは一つの薄い束を見つけた。


 表書きには、こうある。


『未完了依頼』


「未完了?」


 リオが呟く。


 ガルドの顔が少しだけ変わった。


「それは別にしとけ」


「見てもいいですか?」


「……」


 ガルドは少し黙る。


「いいが、軽く見るな」


 その言い方に、リオは慎重に束を開いた。


 数は少ない。


 依頼は基本的に達成か失敗か、中止で処理される。


 未完了のまま残るものは珍しい。


 その中の一枚に、リオの目が止まった。


『行方不明者捜索』


 依頼人。


 名前がかすれている。


 受注者。


 アルヴェイン。


 セリア。


 バルドレイ。


 ドーガ。


 ガルド。


「……これも」


 エインが声を落とす。


「勇者パーティの」


 ガルドは無言だった。


「未完了ってことは」


 リオが聞く。


「見つからなかったんですか」


「そうだ」


 ガルドの声は短い。


「山村の子どもが一人、森で消えた。三日探した。見つからなかった」


「……」


「魔物の跡もあった。川も増水してた。崖もあった。どれか分からなかった」


 倉庫の空気が重くなる。


「依頼書には未完了って残る」


 ガルドは言う。


「でも、実際には終わってることもある。見つからないまま終わる依頼もある」


 リオは依頼書を見る。


 紙は古い。


 けれど、その中に残っている痛みは古くなっていなかった。


「こういうのもあるんですね」


「ああ」


「ガルドさん、覚えてるんですか」


「覚えてる」


「全部?」


「全部じゃねえ」


 ガルドは少しだけ目を伏せる。


「でも、忘れられねえやつはある」


 誰も何も言えなかった。


 ギルドの日常は騒がしい。


 酒が消えたり、猫が酔ったり、ガルドがモテたり、ユーンが変な装置を作ろうとしたりする。


 でも、その裏にはこういう依頼もある。


 達成できなかった依頼。


 見つからなかった人。


 助けられなかった誰か。


 それもまた、冒険者の仕事なのだ。


「リオ」


 ガルドが言った。


「はい」


「報告書はちゃんと書け」


「……はい」


「後で誰かが見る。全部は伝わらねえ。でも、何も残らねえよりマシだ」


「はい」


「それから」


 ガルドは未完了依頼の束をそっと閉じる。


「全部うまくいくと思うな」


 重い言葉だった。


「でも、最初から諦めるな」


 その次の言葉も重かった。


 リオはしっかり頷いた。


「覚えておきます」


「ああ」


 倉庫整理が終わったのは夕方近くだった。


 全員、埃っぽくなっていた。


 エインは途中で三回くしゃみをし、メイナに簡易マスクを外すなと注意された。


 レオンは古い資料の分類表を作り、ミレナがそれを見て感動した。


 マルクは湿気対策として、風通しの良い配置を提案し、意外と頼られた。


 ガルドは文句を言いながらも、古い依頼書の判別をかなり手伝った。


 そして、リオはずっと考えていた。


 昔の依頼書。


 今の依頼書。


 書かれた文字の裏にあるもの。


 達成の二文字で片付く痛み。


 未完了の三文字で残る重さ。


 ギルドの受付へ戻ると、ミレナが整理済みの資料を受け取った。


「ありがとうございます」


「古い依頼書、かなりありました」


 リオが言う。


「勇者パーティ時代のものも」


 ミレナは少しだけ表情を柔らかくする。


「ありましたか」


「はい」


「このギルドにとって、大事な記録です」


「そうですね」


 リオは頷く。


「今なら少し分かります」


 ナナが酒場側から声をかける。


「何か面白いのあった?」


「髪が逆立つ依頼がありました」


「何それ」


「バルドレイさんの魔法で、全員の髪が逆立ったらしいです」


「見たい!」


 ナナの目が輝く。


「アルも?」


「アルさんもらしいです」


「見たい!」


「やめろ」


 ガルドが言う。


「本人に聞こう」


「やめろ」


「セリアさんにも聞こう」


「やめろって」


 少し重かった空気が、また戻っていく。


 こういうところが、このギルドらしい。


 重いものを重いまま抱えつつ、笑えるところは笑う。


 夜。


 リオは報告書を書いていた。


 倉庫整理の報告。


 湿気が入った棚。


 移動した資料。


 分類し直した依頼書。


 未完了依頼の束は、別保管。


 勇者パーティ時代の記録は、劣化防止のため写しを作る予定。


 書きながら、リオはいつもより少し丁寧に文字を書いた。


 誰かが後で見るかもしれない。


 今の自分達の作業も、いつか過去になるかもしれない。


 そう思うと、雑には書けなかった。


「字、今日は綺麗だね」


 ナナが覗き込んで言う。


「今日は?」


「疲れてる時よりは」


「まだ根に持ってます?」


「根に持つというか、面白かったから」


「報告書の字で笑わないでください」


 レオンが横から言う。


「本日のリオさんの報告書は読みやすいと思います」


「ありがとうございます」


「継続が大事です」


「急に先生」


 ガルドが遠くで酒を飲みながら言った。


「ちゃんと書けよ」


「ガルドさんに言われると微妙です」


「俺は昔書かされた側だからな」


「今も書いてください」


「嫌だ」


「でしょうね」


 リオは笑って、続きを書いた。


 古い依頼書を見た日。


 それは、大きな事件のない一日だった。


 ただ倉庫を整理し、古い紙を乾かし、過去の記録を見つけただけ。


 でも、リオにとっては忘れにくい日になった。


 今目の前にいる人達にも、紙に残る昔がある。


 笑える昔。


 痛い昔。


 未完了のまま残った昔。


 それら全部が積み重なって、今のガルドやアルやセリア達がいる。


 そして、自分達もきっと何かを残していく。


 犬探しでも。


 猫の酒事件でも。


 山が動いた第一報でも。


 豪雨で帰れなくなった夜でも。


 いつか誰かが古い依頼書を見つけて、笑ったり、黙ったりするのかもしれない。


 リオは最後に、報告書の末尾へ丁寧に署名した。


 今までより少しだけ、自分の字が重く見えた。

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