■第85話「帰れなくなった日」
雨というものは、最初はだいたい軽く見られる。
少し降ってきたな。
すぐ止むだろう。
このくらいなら平気だ。
傘がなくても走ればいい。
荷物に布をかければいい。
依頼帰りなら、まあ濡れても帰ってから着替えればいい。
そんなふうに思っているうちに、雨はいつの間にか本気を出す。
空が暗くなる。
道が泥になる。
水路があふれる。
橋の下を流れる水が濁り始める。
風が横から吹きつける。
そして、誰かが言う。
「これ、帰れなくない?」
その日、最初にそう言ったのはエインだった。
夕方。
ギルドの窓の外は、白く霞むほどの豪雨だった。
朝から雲行きは怪しかった。
昼過ぎから降り始めた。
夕方には本降りになった。
そして今、雨は完全に街を押し潰す勢いで降っていた。
「帰れなくない、じゃない」
リオは窓の外を見ながら言う。
「これ、普通に帰れないですね」
石畳の道には水が流れている。
通りを歩く人間はほとんどいない。
たまに走っていく人も、外套を頭からかぶり、足元を気にしながら必死に進んでいる。
夜になればもっと危ないだろう。
「街道は?」
カイルが聞く。
ミレナが受付で報告書を確認していた。
「西街道は一部冠水。北側の橋も水量が増えていて、夜間通行は止めた方がいいとのことです」
「つまり?」
エインが聞く。
「外から来ている人は、今日は泊まった方が安全です」
ミレナはそう言った。
ギルド内が少しざわつく。
ちょうどその日、ギルドには人が多かった。
雨で依頼帰りの冒険者が足止めされ、近隣の村から来ていた者も帰れなくなり、商人も数人、宿が埋まっているせいでギルドに避難していた。
普段よりかなり密度が高い。
しかも、外は豪雨。
つまり。
「またギルド泊まりですか?」
リオが嫌そうな顔で言った。
前回の寝る場所がおかしい日を思い出す。
長椅子で寝るガルド。
床で寝ようとする新人。
吊り下げ式安眠装置を作ろうとするユーン。
柱が折れる。
寝言で剣を振るルーカス。
ろくな記憶がない。
「今回は人数が多いので、二階の簡易宿泊室だけでは足りません」
ミレナが言う。
「酒場側も一部使います」
「ですよね」
「毛布を出します。マルクさん、倉庫からお願いします」
「はい!」
マルクが走る。
その途中で、ガルドが椅子から声をかけた。
「変な箱開けるなよ」
「開けません!」
倉庫には、あの黒歴史箱が再封印されている。
蓋には今も『ガルドが泣くので絶対に開けるな』と書かれている。
ガルドが何度消そうとしても、ナナが書き直すので消えない。
「あとユーンさん」
ミレナが振り向く。
「はい!」
ユーンが元気よく返事をする。
「宿泊設備の改造は禁止です」
「まだ何も言ってません!」
「言う前に止めています」
「先読みがひどい!」
「過去の実績です」
ユーンは胸を押さえた。
「信頼がない」
「ある意味、あります」
リオが言う。
「絶対何かするという信頼です」
「嬉しくないです!」
豪雨はさらに強くなった。
窓に雨が叩きつけ、外の音がかき消される。
酒場側には、濡れた外套を干す紐が張られた。
床には布が敷かれ、濡れた靴を置く場所が作られる。
ナナが温かいスープを大鍋で作り始め、セリアが冷えた人に渡すための薬草茶を準備した。
ミレナは宿泊者の人数を確認し、アルは街道状況と緊急連絡の段取りを整理する。
こういう時のギルドは、驚くほど早く動く。
普段は騒がしくて、だらしなくて、誰かが何かを壊している場所なのに、必要な時にはちゃんと避難所になる。
「リオくん」
ミレナが呼ぶ。
「はい」
「若手の人数確認をお願いします。依頼帰りの人も含めて、怪我や体調不良がないか」
「分かりました」
「無理はしないでくださいね」
「もう風邪は治ってます」
「念のためです」
「はい」
リオは素直に頷く。
最近、無理をするとセリアとミレナの視線が怖い。
学んだ。
かなり学んだ。
「エイン、ルーカス、メイナ、レオン」
リオが声をかける。
「手伝って」
「はい!」
「分かりました」
「任せて」
「承知しました」
若手達が動き出す。
エインは声をかける係。
ルーカスは荷物置き場の整理。
メイナは女性冒険者達の様子確認。
レオンは名簿と実人数の照合。
自然と役割が分かれた。
少し前なら、リオが全部言わないと動かなかったかもしれない。
今は、それぞれが自分の得意を少し分かっている。
「レオン、人数合ってる?」
「現在確認できている宿泊予定者は二十三名。うち冒険者十七名、商人三名、荷運び二名、村から来た依頼人一名です」
「相変わらず正確」
「ただし、二階の寝具が足りません」
「ですよね」
「毛布は追加で必要です。あと、酒場側で寝る場合、通路を塞がない配置が必要です」
「ガルドさんに聞かせたい言葉ですね」
リオが言うと、遠くからガルドの声が飛んできた。
「聞こえてるぞ」
「通路で寝ないでくださいね」
「今日は寝ねえ」
「本当ですか」
「たぶん」
「使うな」
リオ、レオン、メイナが同時に言った。
エインが笑う。
「もう全員反応するようになってる」
「このギルドの病気ですね」
メイナが言う。
「感染してる」
レオンが真面目に言った。
「治療法はありますか?」
「ないと思う」
リオが答えた。
夜が近づく頃には、ギルドは完全に避難所になっていた。
酒場のテーブルは端に寄せられ、中央に広い空間が作られている。
椅子には濡れた外套がかかり、窓際には靴が並び、暖炉の火がいつもより強めに焚かれている。
大鍋から湯気が立ち、スープの匂いが広がる。
外は豪雨。
中は人の声と火の音。
不思議な安心感があった。
「はい、温かいの出すよ」
ナナがスープを配る。
「一人一杯。おかわりは後で」
「酒は?」
ベルクが聞く。
「今日は控えめ」
「えー」
「床で寝る人が増えるから、酔いすぎ禁止」
「正論だな」
「あと、酔って騒いだらミレナに怒られる」
「それは怖い」
ミレナが受付から視線を向ける。
ベルクは素直にスープを受け取った。
その横で、ガルドが杯を持っていた。
「ガルドさん」
リオが言う。
「なんだ」
「今日は控えめですよ」
「分かってる」
「本当に?」
「お前、最近俺の酒に厳しいな」
「倒れられると面倒なので」
「俺の台詞を返すな」
「便利なので」
ガルドは苦い顔をした。
そこへナナが水で薄めた酒を置く。
「はい、今日のガルド用」
「薄くねえか」
「豪雨仕様」
「なんだそれ」
「すぐ寝られると困るから」
「寝ねえと言ってる」
「前も言ってた」
「信用がない」
「日頃の行いだね」
ガルドは反論できず、薄い酒を飲んだ。
「薄い」
「でしょうね」
雨音は途切れない。
むしろ、時間が進むほど強くなっている気がした。
街道から戻ってきた冒険者が何人か追加で入り、ミレナが人数を更新する。
「二十七名になりました」
レオンが名簿を確認する。
「寝具は完全に不足です」
「椅子で寝るしかない人が出ますね」
リオが言う。
「ガルドさんなら得意では」
「俺を寝具扱いするな」
ガルドが言う。
「猫にはされてましたよね」
「猫の話をするな」
ちょうどその時、酒場の隅から猫が出てきた。
例の酒を舐めた猫だった。
茶色い毛並みの猫は、当然のようにガルドの足元へ来て、丸くなった。
「ほら」
ナナが笑う。
「寝具扱いされてる」
「こいつだけだ」
「猫が一番正直だよ」
「余計腹立つな」
ガルドは猫をどかさなかった。
いつものことだ。
寝床問題は、思ったより深刻だった。
二階は女性と年少者、体調の悪い者を優先。
酒場側は男達。
荷物置き場の一角は商人用。
治療棟は怪我人と体調不良者。
倉庫は使わない。
理由は、黒歴史箱とユーンの謎道具があるからだ。
「倉庫を使えば広いのでは?」
レオンが言う。
「普通はそうなんだけどね」
リオが答える。
「あそこは危険物が多いから」
「危険物?」
「ガルドさんの精神に危険な箱とか」
「リオ」
ガルドが低い声を出す。
「それと、ユーンさんの未完成品とか」
「それは物理的に危険ですね」
レオンは真面目に納得した。
「おい、俺の箱とユーンの装置を同列にするな」
「精神的危険と物理的危険です」
メイナが言う。
「両方避けるべきです」
「正論で刺すな」
寝床の配置を決めていると、ユーンが手を上げた。
「提案があります!」
「却下します」
ミレナが即答する。
「まだ言ってません!」
「寝床関連の提案ですよね?」
「はい!」
「却下です」
「なぜ!?」
「前回、柱を折りました」
「今回は折りません!」
「何をする気だったんですか」
リオが聞く。
「壁面を有効活用した多段式仮眠」
「却下!」
「空間効率が!」
「人を棚に入れないでください!」
「棚ではなく、寝台です!」
「もっと嫌です!」
ユーンは不満そうだったが、レオンが図面をちらりと見て言った。
「この構造では、上段の荷重が下段の支柱に集中します。酒場の床材では不安定かと」
「また理論で……!」
ユーンが膝をついた。
「レオンさん、最近僕に厳しくないですか!?」
「安全面の指摘です」
「正しいだけに痛い!」
「ユーンさん」
セリアがにこりと笑う。
「今日は怪我人を増やさないでくださいね」
「はい」
即答だった。
セリアは強い。
寝床の配置がようやく決まった頃、夜は完全に深くなっていた。
外の雨音は相変わらず強い。
だが、ギルドの中はだんだん妙な空気になってきた。
人が多い。
外へ出られない。
寝るにはまだ早い。
酒は薄い。
雨音で外の世界が遠い。
こういう時、人間はだんだん変なテンションになる。
「じゃあ、何か話します?」
エインが言った。
リオは即座に嫌な予感を覚える。
「何かって何?」
「雨の日ですし、怖い話とか」
「やめてください」
ルーカスが即答した。
「え、怖いの苦手?」
「洞窟依頼以来、暗い場所での怖い話は嫌です」
「分かる」
メイナが頷く。
「じゃあ面白い話!」
エインが言う。
「それなら」
ナナが笑う。
「ガルドの黒歴史」
「やめろ」
ガルドが即座に言った。
「聞きたい!」
数人の新人が反応する。
「聞くな」
「漆黒の」
「やめろ」
エインが言いかけ、ガルドに睨まれて止まった。
「じゃあ」
ナナが別案を出す。
「今日のテーマは、“雨の日に一番ひどかった依頼”」
「前も雨の日に昔話しませんでした?」
リオが言う。
「今回は宿泊版」
「何が違うんですか」
「寝られないから長くなる」
「最悪じゃないですか」
それでも、話は始まった。
まずベルク。
「俺は昔、豪雨の中で護衛依頼してたら、荷車が川に落ちかけてな」
「危ないですね」
レオンが真面目に言う。
「皆で引いたんだが、足元が泥で滑って、護衛対象より冒険者の方が泥まみれになった」
「あるあるですね」
トーマが頷く。
「荷車は重いからな。雨の日は特に地獄だ」
「で、どうなったんですか」
エインが聞く。
「全員泥まみれで目的地に着いたら、依頼人の婆さんが“土の精霊かと思った”って」
酒場側で笑いが起きた。
次にトーマ。
「俺は荷物運びで、雨対策を完璧にしたと思ったら、自分だけずぶ濡れになったことがある」
「荷物優先なんですね」
リオが言う。
「荷物が濡れたら報酬減るからな!」
「現実的」
「でもその後、熱出して三日寝た」
「荷運び屋も大変ですね」
「大変だぞ」
次はナナ。
「私は店の屋根が雨漏りして、樽の上に桶置いてたら、ガルドが酒だと思って飲みかけたことがある」
「飲んでねえ」
ガルドが言う。
「飲みかけた」
「桶を持っただけだ」
「匂い嗅いでた」
「確認だ」
「雨水を?」
「暗かったんだよ」
全員笑った。
「ガルドさん、さすがに雨水と酒は間違えないでください」
リオが言う。
「間違えてねえ」
「未遂ですね」
レオンが真面目に言う。
「雨水誤飲未遂」
「報告書みたいに言うな」
次はレオン。
全員が少し注目する。
彼は真面目なので、どんな話をするのか気になる。
「私は、訓練時代に雨中行軍訓練で、靴紐の結び方が甘く、途中でほどけました」
「普通だ」
エインが言う。
「でも大変そう」
「はい。そのまま進んだ結果、靴の中に泥が入り、足裏を痛めました。以後、雨天時は靴紐の確認を二重にしています」
「教訓がちゃんとしてる」
メイナが言う。
「レオンらしい」
ナナが笑う。
「面白い話じゃなくて、普通に役立つ話だったね」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ。逆に新鮮」
次はエイン。
「俺はですね!」
「声がでかい」
カイルが言う。
「雨の日に、かっこよく走って登場しようとして、泥で滑って依頼人の前で転びました!」
「予想通りすぎる」
リオが言う。
「そして、そのまま“予定通りです”って言いました!」
「なぜ?」
レオンが本気で分からない顔をした。
「格好つけたかったんです!」
「失敗を成功に見せようとしたのですね」
「言葉にされると恥ずかしい!」
「結果は?」
メイナが聞く。
「依頼人に“無理しないでね”って言われました」
「優しい」
「優しさが痛い」
皆が笑う。
だんだん場が温まってきた。
スープのおかわりが配られ、薄い酒が少しだけ追加され、外の雨音はいつの間にか背景になっている。
リオはふと周囲を見た。
普段一緒にいない冒険者達も笑っている。
商人達も肩の力を抜いている。
村から来た依頼人も、温かい茶を飲みながら話を聞いている。
ギルドが一つの大きな家みたいに感じられた。
「ガルドさんは?」
エインが聞いた。
「雨の日にひどかった依頼」
「いくらでもあるが、話したくない」
「聞きたいです!」
「嫌だ」
「じゃあ一番軽いやつで」
「軽いやつ……」
ガルドは少し考えた。
「昔、雨の中で魔物を追って森に入った」
「はい」
「三時間迷った」
「えっ」
「以上」
「短い!」
リオが言う。
「それだけですか!?」
「軽いやつだ」
「でもガルドさんが迷うって珍しくないですか」
「雨で匂いも足跡も流れた。しかも一緒にいた奴が逆方向に自信満々だった」
「誰ですか」
「アル」
全員がアルを見る。
アルは奥で静かに茶を飲んでいた。
「……昔の話だ」
「アルさんでも迷うんですか」
ルーカスが驚く。
「迷う」
アルはあっさり言った。
「勇者でも?」
「勇者でも迷う」
「なんか安心しました」
「安心するな。迷った時の対応を覚えろ」
「はい!」
アルらしい。
「ちなみに、その時どうしたんですか?」
リオが聞く。
「ガルドが木に登って方角を見た」
アルが言う。
「雨の中で?」
「そうだ」
「危ないですね」
「危なかった」
ガルドが言う。
「滑って落ちかけた」
「落ちたんですか?」
「落ちかけた」
「剣は?」
「濡らさなかった」
「そこ!?」
また笑いが起きる。
深夜に近づくにつれて、変なテンションはさらに増した。
誰かが即興で歌い出し、ナナが手拍子をし、ベルクが調子に乗って声を張り上げ、ミレナに「寝る人もいるので音量を下げてください」と怒られた。
ユーンが「雨水回収効率化装置」を思いつきかけ、レオンとリオとミレナに同時に止められた。
猫がガルドの毛布を占領し、ガルドが「俺の寝床が」と言いながら結局譲った。
エインが「床でも寝られます!」と宣言し、セリアに「体を冷やしますよ」と笑顔で止められた。
ルーカスは寝言で剣を振らないように、剣を遠くに置かれた。
メイナはその光景を見て「前回から学びがある」と言った。
レオンは寝床配置を最終確認し、通路が確保されていることを確認してからようやく座った。
「レオン、休んでいいよ」
リオが言う。
「はい。ただ、非常時の動線は」
「今確認したよね」
「はい」
「なら休もう」
「分かりました」
レオンは真面目に毛布を畳み、座る。
「このギルドは、騒がしいですね」
「今さら?」
リオが笑う。
「はい。ですが」
レオンは少しだけ周囲を見る。
「落ち着きます」
その言葉に、リオは少し驚いた。
「レオンがそう言うの、珍しいね」
「そうでしょうか」
「最初はもっと戸惑ってたから」
「今も戸惑うことは多いです」
「だろうね」
「ですが、戸惑うことと居心地が悪いことは、別なのだと分かってきました」
レオンらしい言い方だった。
真面目で、少し固い。
でも、ちゃんとこの場所に馴染み始めている。
「それ、いい言葉だね」
リオが言う。
「そうですか」
「うん」
その時、エインが横から顔を出す。
「つまり、このギルドは変だけど落ち着くってことですね!」
「まとめ方が雑」
メイナが言う。
「でも合ってる」
リオは笑った。
深夜。
騒ぎは少しずつ落ち着いた。
一人、また一人と寝る。
暖炉の火は小さくなり、雨音はまだ続いている。
酒場の床には毛布をかぶった冒険者達が並び、椅子に寄りかかって寝ている者もいる。
二階の宿泊室からは小さないびきが聞こえる。
治療棟の灯りは細く残り、セリアが最後の見回りをしていた。
ミレナは受付机に座ったまま、宿泊者の名簿をもう一度確認している。
アルは奥で地図を畳み、窓の外を見ている。
ガルドは長椅子に座っていた。
寝てはいない。
膝の上には猫。
胸元には、少し前にもらった黄色い花の名残が、酒場の瓶に挿されている。
リオはまだ眠れず、ガルドの近くに座った。
「寝ないんですか」
「お前こそ」
「なんか、寝るのもったいなくて」
「子どもか」
「そうかもしれません」
リオは笑う。
外の雨を見た。
「すごい雨ですね」
「ああ」
「でも、中にいると少し安心します」
「そうだな」
ガルドは珍しく素直に頷いた。
「昔も、こういうことありました?」
「いくらでも」
「勇者アルのパーティ時代とか?」
リオが聞くと、ガルドは少しだけ黙った。
「雨で帰れねえ夜なんか、数えきれねえな」
「どんな感じでした?」
「今より静かだった」
「意外です」
「静かにしないと死ぬ場所が多かったからな」
「……」
「洞窟、廃砦、森の中、敵地の近く。火も大きくできねえ。飯も冷たい。寝る時も鎧のまま」
ガルドの声は淡々としていた。
「こういうギルドで、暖炉があって、スープがあって、馬鹿みたいに騒げる夜は贅沢だ」
リオは何も言わなかった。
ガルドは続ける。
「だから騒がしくても、まあ、悪くはねえ」
「ガルドさんがそう言うの、珍しいですね」
「雨のせいだ」
「雨のせいにします?」
「しとけ」
リオは少し笑った。
ガルドも少しだけ口元を緩めた。
「リオ」
「はい」
「こういう日は覚えとけ」
「豪雨の日ですか」
「帰れなくなった日だ」
「帰れなくなった日」
「ああ」
ガルドは膝の猫を見下ろす。
「帰れねえってのは、本当は嫌なことだ。でも、帰れなくなった先が悪くねえ場所なら、まあ、それはそれで覚えておく価値がある」
リオはその言葉をゆっくり受け取った。
帰れなくなった日。
外は豪雨。
道は塞がり、橋は危なく、街道は止まる。
でも、ギルドには灯りがある。
スープがある。
毛布がある。
怒る人がいる。
笑う人がいる。
変な装置を止められる人がいる。
薄い酒を文句言いながら飲む人がいる。
猫に寝床を取られている人がいる。
「覚えておきます」
リオが言う。
「ああ」
ガルドは短く返した。
その後、リオは毛布をかぶって横になった。
床は硬い。
周囲のいびきはうるさい。
雨音も大きい。
エインが寝言で「山は歩いてないです」と呟き、ルーカスが遠くで「剣は置きました」と寝言を言い、誰かが寝返りを打って椅子にぶつかった。
全然快適ではない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
朝。
雨は弱くなっていた。
窓の外には薄い光が差し、石畳にはまだ水たまりが残っている。
ギルド内は、ひどい有様だった。
毛布はずれ、靴は並びが崩れ、誰かが寝ぼけてスープの器を抱えている。
ベルクはいびきをかき、トーマは荷袋を枕にしている。
エインはなぜか自分の毛布ではなく、レオンの外套をかぶっていて、レオンはきちんと毛布を畳んで座ったまま寝ていた。
メイナはそれを見て笑っている。
ミレナは起きてすぐに状況を確認し、頭を抱えた。
「片付けますよ」
その一言で、ギルドが一斉に動き出した。
眠そうな冒険者達が毛布を畳み、椅子を戻し、床を拭き、濡れた外套を回収する。
昨日泊まった者達は、口々に礼を言って帰っていく。
「助かったよ」
「また雨の日は頼む」
「スープうまかった」
「床は硬かった」
「それは我慢してください」
ナナが笑いながら送り出す。
街道はまだ一部注意が必要だが、通行は再開されるらしい。
ギルドは少しずつ、いつもの姿に戻っていった。
リオは床を拭きながら、ふと昨日の夜を思い出した。
帰れなくなった日。
たぶん、何年か後には笑い話になる。
ユーンの多段式仮眠案。
エインの寝言。
ガルドの薄い酒。
レオンの動線確認。
猫に寝床を取られた話。
そして、豪雨の中でギルドの灯りがやけに温かかったこと。
「リオ先輩」
エインが眠そうに言う。
「昨日、楽しかったですね」
「床硬かったけどね」
「それも含めて」
「うん」
リオは頷いた。
「悪くなかった」
ガルドが近くを通りながら言う。
「お前ら、片付け終わるまで思い出に浸るな」
「はい」
「あと、その外套はレオンのだ」
エインが自分の肩を見る。
「あっ」
レオンが静かに言った。
「返してください」
「すみません!」
朝からまた笑いが起きる。
ギルドはいつものように騒がしい。
外の雨は、もうほとんど止んでいた。
けれどリオは、少しだけ思った。
たまには、帰れなくなる日があってもいいのかもしれない。
もちろん、危険がない範囲で。
道が塞がって、外に出られなくなって、仕方なく皆で同じ場所に集まって、くだらない話をして、硬い床で眠る。
そういう一日が、あとになって妙に大事になることもある。
ガルドが言った通り。
帰れなくなった先が悪くない場所なら。
それはきっと、覚えておく価値がある。




