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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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82/95

■第80話「リオが休む日」

 リオがいない。


 その事実に、ギルドの誰もが最初は気づかなかった。


 朝のギルドは、いつも通りだった。


 ミレナが受付で依頼書を整理している。


 ナナが酒場側で皿を並べている。


 ガルドが椅子でだらけている。


 カイルが壁際で腕を組んでいる。


 エインが掲示板の前で依頼を眺めている。


 ルーカスとメイナが装備の確認をしている。


 セリアが治療棟から顔を出す。


 ユーンが何か言い出しそうな顔をしていて、全員が少しだけ警戒している。


 いつもの朝。


 いつもの空気。


 いつもの騒がしさ。


 ただ一人。


 リオだけがいなかった。


「……あれ?」


 最初に気づいたのは、ミレナだった。


 受付の書類を一束持ち上げたまま、ふと顔を上げる。


「リオくんは?」


 その一言で、ギルド内の数人が周囲を見た。


「そういえば」


 エインが言う。


「いませんね」


「珍しいな」


 カイルも少し眉を寄せる。


「いつもならもう来ている」


「寝坊か?」


 ガルドが椅子の背に体を預けたまま言う。


「リオくんが寝坊するのは珍しいですね」


 セリアが少し心配そうに言った。


 たしかに、リオは比較的きっちりしている。


 ガルドのように「面倒だったから遅れた」と平気で言うタイプではない。


 依頼がある日は早めに来るし、依頼がない日でも受付前で何か手伝っていることが多い。


 だから、いないと少しだけ違和感がある。


 だが、まだその時点では、大きな問題ではなかった。


「まあ、そのうち来るだろ」


 ガルドが言う。


「昨日も遅くまでいたし」


「昨日、何してたんですか」


 ミレナが聞く。


「猫見てた」


「猫?」


「酒飲んだ猫」


「ああ……」


 昨日の酒消失事件の犯人、というか被害者というか勝者というか、とにかくあの猫である。


 猫はセリアの治療を受けたあと、なぜかガルドの膝で爆睡し、その姿をリオが妙に真剣に観察していた。


「猫が酔うとどうなるのか気になったらしい」


 ガルドが言う。


「真面目だな」


「真面目の方向がおかしいですね」


 ナナが笑った。


「まあ、ちょっと疲れてたのかもね」


「最近ずっと動いてましたしね」


 メイナも頷く。


 失敗する日。


 装備の修理。


 洞窟依頼。


 見張り小屋の修繕。


 依頼人が強すぎる護衛。


 酒場の事件。


 リオはそのほとんどに関わっていた。


 気づけば、若手のまとめ役のような位置にいる。


 本人が望んだわけではない。


 でも、自然とそうなっていた。


「少し休ませた方がいいかもしれませんね」


 セリアが言う。


「そうですね」


 ミレナも頷いた。


 その時だった。


 扉が開いた。


 入ってきたのはマルクだった。


 いつもの雑用係。


 ただし、今日は少し慌てている。


「ミレナさん!」


「どうしました?」


「リオさんから伝言です!」


「伝言?」


「風邪で休むそうです!」


 ギルド内が静かになった。


「風邪?」


 エインが目を丸くする。


「リオ先輩が?」


「はい!」


 マルクが頷く。


「朝、様子見に行ったら、顔赤くて、声が変でした!」


「なぜマルクさんが様子を見に?」


 メイナが聞く。


「昨日、リオさんに貸した帳簿写しを返してもらう予定だったので!」


「なるほど」


「そしたら布団から“今日は無理です”って!」


 想像できる。


 かなり弱っているリオが、申し訳なさそうにそう言ったのだろう。


「熱は?」


 セリアがすぐに聞く。


「ありそうでした!」


「見てきます」


 セリアが即座に動こうとした。


 しかしミレナが止める。


「セリアさん、午前中は治療予約があります」


「でも」


「私が薬を持って行かせます。昼に落ち着いたらお願いします」


「……分かりました」


 セリアは少し心配そうに頷いた。


「無理して来ようとしてないでしょうね」


 ミレナが言う。


「それはありそうですね」


 カイルが真顔で言う。


「リオはそういうところがある」


「変なところ真面目ですから」


 ナナが言う。


「熱あるのに“でも受付が”とか言いそう」


「言いそうですね」


 ミレナがため息をつく。


 自分も倒れた時に同じようなことを言っていた自覚があるのか、少しだけ顔を逸らした。


「で」


 ガルドが言った。


「今日はリオ抜きか」


 その一言で、ギルド内が少しだけざわついた。


 リオがいない。


 それだけのはずだった。


 でも、その意味を全員がじわじわ理解し始める。


 ツッコミ役がいない。


 新人の世話を見る人がいない。


 ミレナの補助を自然にする人がいない。


 ガルドに遠慮なく文句を言う若手がいない。


 ユーンを早めに止める人が一人減った。


 それは、想像以上に大きかった。


「……まあ」


 ナナが笑う。


「なんとかなるでしょ」


 その言葉が、すでに不吉だった。


 最初の異変は、依頼選びで起きた。


「じゃあ今日は僕が依頼選びます!」


 エインが元気よく言った。


 普段なら、リオが横から「内容をちゃんと見ろ」「報酬だけで決めるな」「距離も確認しろ」と言う。


 だが今日はいない。


 カイルは近くにいたが、エインが自分で考えるなら見守ろうとしているのか、すぐには止めなかった。


 エインは掲示板の前で胸を張る。


「成長したところを見せます!」


「誰にだ」


 ガルドが聞く。


「リオ先輩に!」


「いないぞ」


「心の中にいます!」


「病人を勝手に心の中に置くな」


 ガルドが呆れる。


 エインは依頼票を一枚取った。


「これにします!」


 ミレナが確認する。


「北倉庫の荷物整理ですね」


「はい!」


「内容は軽めですが、場所が少し遠いです」


「大丈夫です!」


 ギルド内に不安が走った。


 大丈夫。


 またその言葉。


「エインくん」


 ミレナが目を細める。


「ちゃんと内容を読みましたか?」


「読みました!」


「荷物整理ですよ?」


「はい!」


「重い箱もあります」


「はい!」


「埃も多いです」


「はい!」


「地味です」


「はい!」


「本当にいいんですね?」


「はい!」


 勢いはある。


 だが、どこか危ない。


 普段ならリオが「じゃあ持ち物は」「人数は」「帰りの時間は」と確認する。


 今日はそれがない。


 ミレナが代わりに確認しようとするが、その前にエインは言った。


「ルーカス、行こう!」


「えっ、僕も?」


「メイナも!」


「え、私も?」


「成長を見せるぞ!」


「誰に?」


「リオ先輩に!」


「いないよ」


 メイナが冷静に突っ込んだ。


 リオの代わりにはなれないが、メイナも少しずつツッコミ力を身につけている。


 だが、エインの勢いは止まらない。


「とにかく行こう!」


「待ってください」


 ミレナが強めに言う。


「行く前に、作業用手袋、布、飲み水、簡易マスクを持ってください。倉庫整理なら埃対策が必要です」


「あっ」


 エインが固まる。


「忘れてました」


「でしょうね」


 ミレナがため息をつく。


「リオくんがいないからといって、確認を省かないでください」


「はい……」


 まず一つ。


 リオの不在が響いた。


 次の異変は、ガルドだった。


 普段、リオはガルドが受付前でだらけすぎると、わりと早めに突っ込む。


「邪魔です」


「椅子に沈みすぎです」


「依頼票の上に肘を置かないでください」


 そういう細かい注意を、ミレナより少し柔らかく、でも遠慮なく言う。


 今日はそれがない。


 その結果、ガルドはいつもより一段階だらけた。


 受付横の長椅子に寝転び、片足を椅子の背にかけ、茶を飲みながら完全に休む体勢に入った。


「ガルドさん」


 ミレナが言う。


「そこは通路です」


「知ってる」


「どいてください」


「今、休んでる」


「通路で休まないでください」


「リオがいないから今日は注意が少ないな」


「私がいます」


「お前の注意は仕事っぽいからな」


「注意は注意です!」


 ミレナが強めに言うと、ガルドは渋々起き上がった。


 だが、数分後にはまた少しずつ沈んでいく。


 リオがいないだけで、ガルドのだらけ具合がじわじわ悪化している。


 ナナがそれを見て笑う。


「ガルド、リオくんいないと駄目だね」


「何がだ」


「叱ってくれる若手がいないと溶ける」


「溶けねえ」


「もう半分溶けてる」


「うるせえ」


 ガルドは茶を飲む。


 だが、少しだけ気まずそうだった。


 三つ目の異変は、ユーンだった。


「思いつきました!」


 その声だけで、ギルド内が反射的に緊張する。


 普段なら、リオがかなり早い段階で「やめてください」と言う。


 ミレナも止める。


 ガルドも止める。


 だが、リオの初動がないだけで、ユーンの発言が一拍長くなる。


 その一拍が危険だった。


「リオさんが休んでいるなら!」


 ユーンが胸を張る。


「お見舞いを効率化するべきです!」


「嫌な予感」


 ナナが笑いをこらえながら言う。


「効率化とは?」


 ミレナが警戒しながら聞く。


「まず、薬、食事、冷たい布、応援の手紙を一括配送します!」


「そこまでは普通ですね」


「それを小型投射器で」


「やめてください」


 ミレナが即座に止めた。


「まだ安全性の説明を」


「病人の家に物を撃ち込まないでください!」


「撃ち込むのではなく、正確に届けます!」


「同じです!」


 普段なら、ここでリオが「病人に追撃しないでください」と言う。


 いない。


 誰もその言葉を言わない。


 結果、ユーンはさらに続ける。


「さらに、窓が閉まっている場合に備えて、布団まで自動で」


「待て」


 ガルドが起き上がった。


「今、布団って言ったか」


「はい!」


「何する気だ」


「布団ごと換気を」


「殺す気か」


「違います!」


「熱あるやつの布団を勝手に動かすな」


「はい……」


 ガルドが止めた。


 止めたが、いつもより少し遅かった。


 ユーンの手元には、すでに小型のばね装置のようなものがあった。


「それは何ですか」


 ミレナが聞く。


「試作品です!」


「没収です」


「まだ何もしてません!」


「する前に止めるんです!」


 ミレナが装置を回収した。


 ユーンはしょんぼりした。


「リオさんなら、もっと具体的に怒ってくれるのに……」


「怒られたいんですか?」


 メイナが言う。


「いえ、でも、何というか、止め方に安心感が」


「安心感?」


「“それは絶対やめてください”って言われると、あ、これは駄目なんだなって」


「自分で気づいてください」


 メイナのツッコミが少しリオっぽくなっていた。


 昼前になると、リオ不在の影響はさらに広がった。


 エイン達が倉庫整理から戻ってきた。


 全員、埃まみれだった。


「ただいま戻りました!」


 エインが元気よく言う。


「……真っ白ですね」


 ナナが笑う。


「何があったんですか」


 ミレナが聞く。


「倉庫の奥の箱を動かしたら、上から埃が」


 ルーカスが咳をする。


「だから簡易マスクを持って行けと言いました」


「持っていきました!」


 エインが言う。


「じゃあなぜそんな顔に」


「途中で邪魔で外しました!」


「意味がない!」


 ミレナが叫ぶ。


「リオくんがいたら絶対外すなって言ったでしょうね」


 メイナが言う。


「言いそう」


 ルーカスが頷く。


「“埃対策のために持ってきたんだから外したら意味ないでしょう”って」


「言い方似てる」


 ナナが笑う。


「リオ先輩の幻聴が聞こえる……」


 エインが少し遠い目をした。


「なら従ってください」


 ミレナが言う。


 倉庫整理自体は終わったらしい。


 しかし、帰ってきた若手三人は、リオがいない分だけ少し雑になっていた。


 本人達もそれに気づいている。


「リオ先輩って、いつも細かい確認してくれてたんですね」


 ルーカスが言う。


「はい」


 メイナも頷く。


「いないと、自分達で気づかないといけない」


「それが普通なんですけどね」


 ミレナが言う。


「でも、いつの間にか頼っていたのかもしれません」


「そうですね……」


 エインが珍しく真面目に頷いた。


 その数分後、また騒ぎが起きた。


「ガルドさん!」


 エインが言う。


「リオ先輩のお見舞いに行きましょう!」


「嫌だ」


「即答!」


「病人は寝かせとけ」


「でも、心配じゃないんですか」


「心配だから行かねえんだよ」


 ガルドが言う。


 少し意外な言葉だった。


「どういうことですか」


 エインが聞く。


「俺らがぞろぞろ行ったら休めねえだろ」


「……あ」


「薬と飯だけ届けりゃいい」


 ガルドは面倒そうに言った。


 だが、内容はまともだった。


 ナナが少し笑う。


「ガルド、そういうとこはちゃんとしてるよね」


「そういうとこだけ、みたいに言うな」


「だって普段が」


「言うな」


「でも確かに」


 セリアが治療棟から戻ってきた。


「大人数で行くのはよくないですね。私が薬を届けます。あとは消化にいい食事を少し」


「じゃあ私が作るよ」


 ナナが言う。


「お粥でいい?」


「はい。薄めで」


「ガルドの酒より薄く?」


「比較対象がおかしいです」


 セリアが苦笑する。


「じゃあ、お粥と薬と水、それから替えの布」


 ミレナがまとめる。


「マルクさん、届けてもらえますか?」


「はい!」


「いえ」


 セリアが言う。


「私が行きます。ついでに様子を見てきます」


「お願いします」


 それで決まりかけた。


 だが、ユーンがそっと手を挙げた。


「僕も」


「駄目です」


 全員同時だった。


「なぜ!?」


「病人の家で何か作るから」


「作りません!」


「本当に?」


「……」


「沈黙した!」


 結局、セリア一人で行くことになった。


 リオはたぶん、それが一番休める。


 午後。


 ギルドは妙な状態になっていた。


 大きな事件は起きていない。


 だが、細かい不具合が続く。


 ミレナが書類を探すと、リオがいつもまとめていた補助資料が見つからない。


 エインが依頼報告を書こうとして、書き方が分からず固まる。


 ルーカスが装備の手入れについて質問しようとして、ロッドのところへ行く勇気が出ず、リオがいないことに気づく。


 メイナが新人二人に注意しようとして、言葉を選びすぎて失敗する。


 ガルドは何度も「リオなら今ツッコんだな」という場面で誰も何も言わず、逆に落ち着かない顔をする。


 ナナはずっと笑っている。


「リオくん、重要だったんだねぇ」


「笑いごとじゃありません」


 ミレナが言う。


「いや、笑いごとだよ」


「どこがですか」


「いなくなって初めて分かるやつ」


 ナナはグラスを拭きながら言う。


「前にミレナが休んだ時もそうだったじゃん」


「……それは」


「みんな、いないと困る人が増えてきたってことじゃない?」


 ミレナは少し黙った。


 たしかにそうだ。


 昔なら、リオが一日いなくてもここまで違和感はなかったかもしれない。


 でも今は違う。


 リオは、ギルドの中の当たり前の一部になっている。


 受付を少し手伝う。


 新人に声をかける。


 ガルドに突っ込む。


 ユーンを止める。


 ミレナの言葉を若手に噛み砕く。


 セリアの手伝いをする。


 ナナの冗談に反応する。


 その一つ一つは小さい。


 でも、全部なくなると、空気が変わる。


「そうですね」


 ミレナが少しだけ笑う。


「リオくん、かなり染まってますね」


「本人が聞いたら嫌がりそう」


「でも事実です」


 その時、ガルドがぼそっと言った。


「染めた覚えはねえんだけどな」


「一番影響与えてる人が言わないでください」


 メイナが言った。


 ギルド内が少し笑う。


「俺か?」


「ガルドさんです」


 ルーカスも頷く。


「リオ先輩、最近たまにガルドさんみたいなこと言います」


「最悪だな」


「本人も最悪って言いそうです」


 ナナが笑う。


「でも、ちゃんと良いところも移ってるよ」


「良いところ?」


 ガルドが眉をひそめる。


「面倒くさがりなのに放っておけないところ」


「それは良いところなのか」


「たぶん」


「たぶんを使うな」


 ガルドが言い、リオがいないのに全員が笑った。


 夕方前、セリアが戻ってきた。


「どうでした?」


 ミレナがすぐに聞く。


「熱はありますが、薬を飲んで寝ました。明日も休ませた方がいいですね」


「明日も?」


 エインが少し不安そうに言う。


「無理して悪化するより、その方がいいです」


 セリアが答える。


「本人は何か言ってました?」


 ナナが聞く。


「“迷惑かけてすみません”って」


「言いそう」


 ガルドが言う。


「あと、“ユーンさんを見張ってください”って」


「病床でも!?」


 ユーンが叫んだ。


「リオ先輩、熱あるのに僕の心配を……」


「心配の種類が違います」


 ミレナが言う。


「でも、さすがですね」


 メイナが苦笑する。


「自分が休んでもそこは外さない」


「それと」


 セリアが少し笑う。


「“ガルドさんが通路で寝てたら起こしてください”とも」


 全員がガルドを見る。


「おい」


 ガルドが言う。


「あいつ、熱あるくせに余計なことを」


「通路で寝ないでください」


 ミレナが即座に言った。


「寝てねえ」


「今日寝てました」


「少し横になっただけだ」


「それを寝ると言います」


 リオがいないのに、リオの言いそうなことがギルドに残っている。


 不思議な感じだった。


 その日の夜、ギルドは少し早めに落ち着いた。


 リオがいない分、騒がしさが少ない。


 いや、騒がしい人間はいる。


 エインもユーンもライルもいる。


 でも、それを受け止めて投げ返すリオがいないので、騒ぎが妙に空回りする。


「なんか物足りないね」


 ナナが言った。


「静かなわけじゃないのに」


「そうですね」


 ミレナが頷く。


「ツッコミが足りない」


「リオくん、役割が増えてるなぁ」


「本人は否定しそうですが」


「でも明日はちゃんと休ませるんでしょ?」


「もちろんです」


 ミレナはきっぱり言った。


「来たら追い返します」


「それ、ミレナが言うと説得力あるね」


「私も以前、追い返されましたから」


「学びがある」


 ナナが笑った。


 ガルドは酒を飲んでいた。


 いつもより少し静かだった。


「寂しい?」


 ナナが聞く。


「誰がだ」


「ガルド」


「別に」


「リオくんいないと文句言う相手減るもんね」


「文句は誰にでも言える」


「でも、リオくん相手だと楽しそうだよ」


「気のせいだ」


 ガルドは酒を飲む。


 だが、少しだけ視線が受付の方へ向いた。


 リオがよく立っている場所。


 依頼票を見たり、ミレナに声をかけたり、エインに注意したり、ガルドに呆れたりしている場所。


 今日は空いている。


「まあ」


 ガルドがぽつりと言う。


「あいつはよくやってる」


 ナナが少し目を丸くした。


「珍しく素直」


「うるせえ」


「本人に言ってあげれば?」


「嫌だ」


「なんで」


「調子に乗る」


「リオくんは乗らないと思うけど」


「じゃあ照れる」


「それは見たい」


「俺は見たくねえ」


 ガルドはそっぽを向いた。


 だが、否定はしなかった。


 翌朝。


 リオは来なかった。


 ちゃんと休んでいるらしい。


 セリアが再度様子を見に行き、熱は少し下がったと報告した。


 ギルドは二日目の“リオ不在”に入った。


 初日ほど混乱はしなかった。


 エインは持ち物確認を自分で行った。


 メイナは新人への説明を少しうまくやった。


 ルーカスはロッドのところへ自分で行き、装備の手入れを聞いた。


 ミレナはリオがいつも補助していた書類の位置を整理し直した。


 ガルドは通路で寝なかった。


 ユーンは、なぜか大人しかった。


「ユーンさん」


 ミレナが怪しむ。


「今日は何も作らないんですか?」


「はい」


「本当に?」


「リオさんが休んでいるので」


「はい」


「戻ってきた時に怒られるようなものは作らないでおこうと」


 ギルド内が少し静かになる。


「成長してる……」


 エインが言う。


「リオくんの不在が教育になってる」


 ナナが笑った。


「失礼では!?」


 ユーンが言う。


「でも、いいことです」


 セリアが微笑む。


「誰かがいない時に、その人が普段言ってくれていたことを思い出せるなら」


 その言葉に、全員が少しだけ頷いた。


 リオはそこにいない。


 でも、リオがいつも言っていたことは、ギルドの中に少し残っている。


 それはたぶん、悪くない。


 その日の夕方。


 扉が開いた。


 全員が振り返る。


 リオだった。


 顔色はまだ少し悪い。


 マフラーを巻き、少しふらつきながら入ってくる。


「おはようございます……じゃないですね」


 ギルド内が一瞬止まった。


 次の瞬間。


「帰ってください!」


 ミレナが叫んだ。


「えっ」


 リオが固まる。


「まだ休みです!」


「いや、だいぶ良くなったので」


「駄目です!」


 セリアもすぐに近づく。


「熱は?」


「少しだけ」


「帰りましょう」


「いや、でも」


「帰りましょう」


 笑顔だった。


 逆らえない笑顔だった。


「リオ先輩!」


 エインが駆け寄る。


「大丈夫ですか!?」


「うん、大丈夫」


「ちゃんと休んでください!」


「えっ」


「僕達、何とかやってます!」


 その言葉に、リオは少し驚いた。


「そうなの?」


「はい!」


 メイナが頷く。


「昨日よりは」


「昨日は?」


「少し崩壊しました」


「崩壊したの!?」


「少しです」


 ルーカスが苦笑する。


「でも、リオ先輩が普段言ってたこと、結構思い出しました」


「僕が?」


「はい」


「埃対策とか」


「報告書とか」


「ユーンさんを止めるとか」


「最後が大きいですね」


 リオは少し笑った。


 笑ったら咳き込んだ。


「ほら!」


 ミレナが言う。


「帰ってください!」


「はい……」


 完全に負けた。


 その時、ガルドが椅子から声をかけた。


「リオ」


「はい」


「寝ろ」


「……はい」


「お前いなくても一日は回った」


「一日だけですか」


「二日は少し怪しかった」


「怪しかったんですか」


「だから早く治せ」


 言い方は雑だった。


 でも、リオは少しだけ嬉しそうに笑った。


「分かりました」


「あと」


 ガルドが少しだけ目を逸らす。


「よくやってる」


 ギルド内が静かになった。


 リオも固まった。


「……え?」


「二度言わねえぞ」


 ナナが口元を押さえる。


「おお」


 ミレナも少しだけ目を丸くしている。


 エインは感動した顔をしている。


 リオは熱のせいか、それとも別の理由か、少し顔が赤くなった。


「……ありがとうございます」


「早く帰れ」


「はい」


 セリアに連れられて、リオはもう一度帰ることになった。


 扉が閉まる。


 ギルド内に少しだけ温かい空気が残る。


「ガルド」


 ナナが笑う。


「言えたじゃん」


「うるせえ」


「照れてる?」


「うるせえ」


「リオくん、嬉しそうだったね」


「病人だからだ」


「それ関係ある?」


「ある」


 ガルドは酒を飲む。


 だが、その横顔は少しだけ穏やかだった。


 リオが休む日。


 最初はただの風邪だった。


 一人若手がいないだけ。


 そのはずだった。


 でも、ギルドは少しだけ崩れ、少しだけ気づき、少しだけ自分達で直した。


 リオが普段やっていたこと。


 リオが普段言っていたこと。


 リオがいつの間にか、このギルドの空気の中に混ざっていたこと。


 それをみんなが知った日だった。


 そしてたぶん、リオ本人だけがまだちゃんと分かっていない。


 自分がもう、ただの若手ではないことを。


 このギルドで、ちゃんと必要とされていることを。


 ナナは酒場の棚を拭きながら、ふと笑った。


「明日、来そうだね」


「来るだろうな」


 ガルドが言う。


「追い返す?」


「熱があればな」


「なかったら?」


 ガルドは少しだけ考えた。


「椅子に座らせて、軽い仕事だけさせろ」


「優しい」


「違う」


「違うの?」


「倒れられると面倒だ」


「はいはい」


 ナナは笑った。


 外は夕方だった。


 ギルドの中は、いつも通り騒がしい。


 でも、リオが戻ってきた時のために、少しだけ整っていた。


 報告書は分かりやすくまとめられ、依頼票は曲がらず貼られ、ユーンの怪しい装置は棚の奥に封印され、ガルドは通路で寝ないように椅子に座っている。


 完璧ではない。


 たぶん明日にはまた何か起きる。


 でも、それでいい。


 このギルドは、そうやって少しずつ回っている。


 誰かが休んで。


 誰かが困って。


 誰かが代わりに動いて。


 そして戻ってきたら、いつものように迎える。


 おかえり、と大げさに言わなくても。


 そこにいつもの席が残っている。


 それだけで、十分だった。

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