■第71話「魔物より怖いもの」
洞窟という場所は、単純に怖い。
暗い。
狭い。
湿っている。
足元は悪い。
音は反響する。
自分の足音なのか、別の何かが近づいている音なのか、少し分からなくなる。
外なら見えるものが、洞窟の中では見えない。
外なら逃げられる方向が、洞窟の中では限られる。
外なら空を見上げれば少し安心できるのに、洞窟の中で見上げてもあるのは岩の天井だけだ。
だから洞窟依頼は、慣れていない冒険者ほど緊張する。
魔物が出るから怖いのではない。
魔物が出るかもしれない暗闇を歩き続けるのが怖いのだ。
その日、リオ達が受けた依頼も、まさにそういうものだった。
⸻
「西の小洞窟の確認依頼です」
ミレナが依頼書を読み上げる。
「最近、洞窟の奥から妙な音がするという報告があります」
「妙な音?」
リオが聞く。
「はい」
「魔物ですか?」
「可能性はあります」
ミレナは紙を見ながら続ける。
「ただ、今のところ被害はありません。入口付近に異常なし。周辺で大型魔物の足跡も確認されていません」
「つまり、調査ですね」
「そうです」
リオは頷いた。
前回の失敗が頭をよぎる。
軽い調査依頼。
想定より危険度が上がった時、早めに戻る判断が必要になる。
今回も、その意識は持っておくべきだ。
「同行は?」
リオが聞く。
「リオくん、カイルさん、エインくん、ルーカスくん、メイナさん」
ミレナが言う。
「それと」
そこで、少しだけ目を伏せた。
「ガルドさん」
「俺?」
椅子でだらけていたガルドが顔を上げる。
「はい」
「なんでだ」
「前回のこともありますし、洞窟調査は判断役がいた方がいいので」
「面倒だな」
「行ってください」
「洞窟、湿ってるから嫌だ」
「理由が子どもです」
ミレナの声は容赦なかった。
「それと」
ミレナはさらに言った。
「ユーンさんも」
全員が止まった。
「……え?」
リオが聞き返す。
「今、なんて?」
「ユーンさんも同行します」
空気が変わった。
洞窟に入る前から、すでに別の種類の恐怖が発生していた。
⸻
「待て」
ガルドが真顔で言う。
「洞窟にユーンは駄目だ」
「なんでですか!」
ユーンが立ち上がる。
「僕だって洞窟調査くらいできます!」
「洞窟は狭い」
「はい!」
「お前は暴走する」
「はい!」
「返事がおかしい」
リオが言った。
「否定してくださいそこは」
「いや、暴走は……時と場合によります!」
「それが駄目なんです!」
ミレナが頭を抱える。
「本当は待機にしたかったんですけど、人手の都合で」
「人手の都合で爆弾入れるな」
ガルドが言う。
「誰が爆弾ですか!」
「お前だ」
「即答!」
⸻
「でも」
セリアが横から言う。
「ユーンさん、荷物運びは得意ですよね」
「はい!」
ユーンが胸を張る。
「重いものでも速く運べます!」
「速くなくていいんです」
リオが即座に言う。
「洞窟では特に」
「大丈夫です!」
「大丈夫という言葉が一番大丈夫じゃないんですよ」
全員が頷いた。
⸻
「ルールを決めます」
ミレナが真剣な顔で言う。
「ユーンさん」
「はい!」
「洞窟内では走らない」
「はい!」
「荷物を振り回さない」
「はい!」
「勝手に先へ行かない」
「はい!」
「変な装置を使わない」
「……はい!」
「今、少し間がありましたね?」
「ありません!」
「ありました!」
リオが言う。
完全にあった。
⸻
「よし」
ガルドが立ち上がる。
「行くぞ」
「結局行くんですね」
「行かないともっと面倒になりそうだからな」
それは本当にそうだった。
⸻
西の小洞窟は、街から半日もかからない場所にあった。
森を抜け、低い丘の裏側にある小さな入口。
大きな洞窟ではない。
昔は鉱石を少し掘っていたらしいが、採掘量が少なく、今は使われていない。
入口は低く、湿った空気が流れていた。
「うわ……」
エインが声を漏らす。
「暗いですね」
「洞窟だからな」
カイルが言う。
「いや、分かってますけど」
ルーカスは少し緊張した顔をしていた。
メイナは弓ではなく、短いナイフと小型の灯りを持っている。洞窟内では長い弓が使いづらいと判断したのだろう。
リオはそれを見て、少しだけ安心した。
前回の失敗から、ちゃんと考えている。
「入る前に確認します」
リオが言う。
「灯り、予備、ロープ、水、布」
「あります」
メイナが答える。
「あります!」
エインも言う。
「あります」
ルーカスも頷く。
「ユーンさんは?」
「全部あります!」
「変なものは?」
「……」
「ユーンさん?」
「あります!」
「あるんですか!?」
リオが叫ぶ。
「何を持ってきたんですか!」
ユーンは荷袋から小さな筒を出した。
「洞窟内反響利用型簡易方向確認器です!」
「名前がもう嫌です」
ガルドが言う。
「これはですね、音を出して反響で道を」
「使うな」
「まだ説明が!」
「使うな」
ガルドの声が低くなる。
「洞窟で変な音を出すな」
「はい……」
珍しくユーンがすぐ引っ込めた。
⸻
洞窟内は狭かった。
入口付近はまだ外の光が少し届いていたが、十歩も進めば暗い。
灯りを掲げると、壁の水滴がきらきら光る。
足元はぬかるみ、ところどころ小石が転がっている。
「足元注意」
リオが言う。
「滑ります」
「はい」
新人達が頷く。
ガルドは前方を見ながら歩いている。
いつものだらけた雰囲気は少し薄い。
洞窟の中では、音がよく聞こえる。
水滴が落ちる音。
靴底が泥を踏む音。
誰かの息。
荷物の金具が小さく鳴る音。
それら全部が妙に大きく響く。
「……」
ルーカスの肩に力が入っている。
「ルーカス」
リオが小声で言う。
「はい」
「呼吸」
「あ」
ルーカスは慌てて息を整える。
「すみません」
「大丈夫。緊張するのは普通だから」
そう言いながら、リオ自身も少し緊張していた。
洞窟は苦手だ。
視界が狭い。
逃げ道も限られる。
剣を大きく振れない場所もある。
自分が思っている以上に、判断力が削られる。
「リオ」
ガルドが前から言う。
「はい」
「怖いなら怖いでいい。怖くないふりするな」
「……はい」
見抜かれていた。
「洞窟で強がる奴は足元見なくなる」
「気をつけます」
「気をつけるんじゃなくて、見る」
「はい」
その言い方が妙に分かりやすかった。
⸻
奥へ進むと、道が二つに分かれていた。
左は狭く、右は少し広い。
「音がするのは奥でしたよね」
メイナが小声で聞く。
「報告ではそう」
リオが答える。
「どっちですか」
エインが聞く。
ガルドはしばらく黙っていた。
そして右を指す。
「こっち」
「分かるんですか」
「風がある」
言われてみれば、わずかに空気が動いている。
「左は行き止まりか?」
カイルが言う。
「たぶんな」
ガルドが答える。
「確認しますか?」
リオが聞く。
「後でいい」
「はい」
「ただし印はつけろ」
「あ」
リオは壁に小さな目印をつける。
戻る時に迷わないためだ。
小さなこと。
でも大事なこと。
前なら忘れていたかもしれない。
「いい」
ガルドが短く言った。
それだけで少し安心した。
⸻
さらに進む。
そこで、最初の異音が聞こえた。
こつん。
こつん。
何かが岩を叩くような音。
全員が止まる。
「……今の」
エインが言う。
「音、しましたね」
「した」
ガルドが言う。
「魔物ですか」
ルーカスが小声で聞く。
「分からん」
ガルドは短く答える。
「分からない時が一番怖いですね」
リオが言う。
「そうだな」
こつん。
また音。
奥からだ。
「近いですか」
メイナが言う。
「反響してる」
カイルが答える。
「距離は分かりづらい」
洞窟の嫌なところだった。
遠い音が近く聞こえる。
近い音が遠く聞こえる。
「ユーン」
ガルドが言う。
「はい!」
「絶対に走るな」
「はい!」
「絶対に変な装置使うな」
「はい!」
「絶対に叫ぶな」
「はい!」
念押しが多い。
だが必要だった。
⸻
音の方へ進むと、少し広い空間に出た。
天井は低いが、数人が並べる程度の広さはある。
奥に、古い採掘跡。
木の支柱が何本か残っていた。
その一つが、風で揺れている。
こつん。
支柱についた金具が岩に当たっていた。
「……これ?」
エインが言う。
「これっぽいですね」
リオが少し肩の力を抜く。
魔物ではない。
ただの古い金具。
報告されていた“妙な音”の正体は、これかもしれない。
「良かった……」
ルーカスが息を吐く。
その瞬間。
ガルドが言った。
「まだ気を抜くな」
低い声。
全員がすぐに止まる。
「なんでですか」
リオが聞く。
「匂いが変だ」
「匂い?」
「獣臭い」
空気がまた張り詰めた。
リオは灯りを少し上げる。
空間の端。
暗がり。
そこに、何かがいた。
小型の魔物。
いや、一匹ではない。
洞窟鼠。
普通の鼠より大きく、牙が発達した魔物だ。
単体では弱い。
だが群れる。
「数は」
カイルが剣を抜く。
「十以上」
ガルドが答える。
「面倒だな」
「新人下げます」
リオが言う。
「そうしろ」
今度は早く判断できた。
それだけで、少し前よりマシだと思えた。
「エイン、ルーカス、メイナ、後ろへ。ユーンさんは荷物持ったまま動かない」
「はい!」
返事は揃った。
洞窟鼠が動く。
速い。
地面を這うように一斉に来る。
「足元!」
リオが叫ぶ。
剣を大きく振らない。
狭い場所では短く、低く。
一匹を弾き、もう一匹を蹴る。
カイルが横から止める。
ガルドはさらに前で、最小限の動きで鼠を落としていく。
派手ではない。
ただ、速い。
「メイナ、灯りを少し左!」
リオが言う。
「はい!」
暗がりが減る。
鼠の動きが見える。
「ルーカス、後ろの隙間見て!」
「はい!」
「エイン、ユーンさんの荷物に鼠が入らないように!」
「はい!」
戦闘自体は大きくない。
だが、場所が悪い。
足元から来る。
暗がりに逃げる。
壁を走る個体もいる。
「うわっ!」
エインが声を上げる。
荷物の横から鼠が飛び出した。
ユーンが反射的に動く。
嫌な予感がした。
「ユーンさん、待っ」
「任せてください!」
ユーンが荷物を振り上げた。
全員が叫んだ。
「振るなぁぁぁ!!」
遅かった。
荷物が横にぶん回される。
鼠は吹き飛んだ。
同時に、壁の支柱に当たった。
ごん、と嫌な音。
上から小石が落ちる。
「……」
「……」
「……」
洞窟が静かになる。
ガルドがゆっくり振り返った。
「ユーン」
「はい」
「今、何した」
「鼠を」
「支柱を殴ったな」
「……はい」
「洞窟で支柱を殴るな」
「はい……」
心底当たり前の注意だった。
⸻
小石は少し落ちたが、大きな崩落はなかった。
全員が息を吐く。
「怖っ……」
リオが本音を漏らす。
「魔物より怖いですね」
「だろ」
ガルドが言う。
「こいつを洞窟に入れたくなかった理由が分かったか」
「分かりました」
全員が頷いた。
魔物より怖いもの。
それは、狭い洞窟で予測不能に動く味方だった。
⸻
洞窟鼠を片付けた後、空間を確認した。
巣になりかけていたらしい。
古い布切れや木片、骨が集められている。
「これが獣臭の原因か」
カイルが言う。
「たぶんな」
ガルドが頷く。
「放っておくと増える。今日見つけてよかった」
「音の原因は金具。でも奥に巣があった」
リオが言う。
「報告としてはそうですね」
「いい判断だった」
ガルドが言う。
短い。
でも、リオは少し驚いてガルドを見る。
「何だよ」
「いえ」
「褒めたら変か」
「少し」
「じゃあ取り消す」
「取り消さないでください」
少し笑いが起きた。
⸻
「奥は確認しますか」
リオが聞く。
ガルドは空間のさらに奥を見る。
暗い穴が続いている。
だが狭い。
人が一人通れるかどうか。
「今日はここまでだ」
ガルドが言う。
「いいんですか」
「巣は見つけた。鼠も処理した。奥は狭い。新人連れて入る場所じゃねえ」
「戻る判断ですね」
「ああ」
リオは頷いた。
「戻りましょう」
前回より、ずっと早く言えた気がした。
それが少し嬉しかった。
⸻
帰り道。
何事もなく進めるはずだった。
だが、油断はできない。
洞窟は帰りも怖い。
目印を確認しながら進む。
分岐まで戻る。
入口の明かりが遠くに見えてきた。
「やっぱり外の光見ると安心しますね」
ルーカスが言う。
「分かる」
エインが頷く。
「洞窟、息詰まる」
「でも勉強になりました」
メイナが言う。
「音の正体が一つでも、奥に別の原因があることもあるんですね」
「そうだ」
ガルドが言う。
「一個見つけて安心するな」
「はい」
ユーンも神妙な顔で頷いていた。
「僕も学びました」
「何をですか」
リオが聞く。
「洞窟で荷物は振り回さない」
「それは入る前から学んでいてほしかったです」
全員が同意した。
⸻
入口まであと少しというところで、洞窟の奥からまた音がした。
こつん。
こつん。
さっきの金具の音だ。
もう正体は分かっている。
だが、今聞くと少し違って聞こえた。
「……」
リオは立ち止まる。
「どうした」
ガルドが聞く。
「いや」
リオは振り返る。
「同じ音でも、正体を知ってると怖さが違いますね」
「そうだな」
「でも、知らなかった時は怖かった」
「ああ」
「知るって大事ですね」
ガルドは少しだけ笑った。
「当たり前のことを真面目に言うな」
「真面目なんです」
「知ってる」
⸻
外へ出た瞬間、全員が息を吐いた。
空が見える。
それだけで安心する。
森の匂い。
風。
遠くの鳥の声。
洞窟の中では全部なかったものだ。
「生き返る……」
エインが言う。
「大げさだな」
カイルが言う。
「いや、分かります」
リオが言う。
「外っていいですね」
「洞窟依頼の後はみんなそう言う」
ガルドが欠伸をした。
「俺も言う」
「ガルドさんもですか」
「洞窟嫌いだからな」
「最初に言ってましたね」
「湿ってるし、狭いし、暗い」
「本当に嫌いなんですね」
「嫌いでも行く時は行く」
それが冒険者だ。
リオはそう思った。
⸻
ギルドへ戻ると、ミレナがすぐに顔を上げた。
「お帰りなさい」
「戻りました」
リオが報告する。
「音の原因は古い支柱の金具。ただし奥に洞窟鼠の巣がありました。処理済みです。さらに奥は未確認ですが、通路が狭いため今日は引き返しました」
ミレナが書き取る。
「怪我は?」
「軽い擦り傷程度です」
セリアがすぐに確認へ来る。
「全員見ますね」
「はい」
リオは素直に頷いた。
今回は、ちゃんと戻れた。
必要なところで止まれた。
それだけのことが、少しだけ大きく感じた。
⸻
「で」
ナナが聞く。
「何が一番怖かった?」
「洞窟鼠ですか?」
ミレナが言う。
「違います」
リオ、カイル、エイン、ルーカス、メイナがほぼ同時に言った。
ナナが笑う。
「じゃあ何?」
全員の視線がユーンへ向く。
ユーンが固まる。
「僕ですか!?」
「はい」
「完全に」
「支柱を」
「殴りましたし」
「洞窟で」
「危なかったです」
口々に言われ、ユーンがしょんぼりする。
「すみません……」
「反省してるならいいです」
リオが言う。
「次からは」
「洞窟で荷物を振り回さない!」
「そうです」
ミレナが深くため息を吐いた。
「なぜそんな基本を確認しないといけないんですか……」
「ユーンだからだろ」
ガルドが言う。
誰も否定できなかった。
⸻
夜。
酒場で簡単な反省会が行われた。
反省会といっても、前回ほど重くはない。
今回は判断できた。
危険を見つけ、処理し、無理をせず戻った。
もちろん完璧ではない。
ユーンの件は本当に危なかった。
でも、その危なさも含めて学びになった。
「洞窟は苦手です」
ルーカスが言う。
「僕も」
エインが即答する。
「でも次はもう少し落ち着けそうです」
メイナが言う。
「音の正体が分からない時、すぐ魔物だと思ってしまったので」
「思っていい」
ガルドが言う。
「え?」
「最初は悪い方に考えろ。ただし、決めつけるな」
「……はい」
「怖がるのは悪くねえ。怖がった上で見るのが大事だ」
その言葉に、新人達が真剣に頷く。
リオも頷いた。
⸻
「リオ」
ガルドが言う。
「はい」
「戻る判断、前より早かったな」
「……はい」
「それでいい」
短い言葉だった。
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
「ありがとうございます」
「礼言うことじゃねえ」
「でも、言います」
「面倒くせえな」
ガルドはそう言って酒を飲む。
でも、嫌そうではなかった。
⸻
洞窟は怖い。
暗闇も、足元も、反響する音も、何がいるか分からない奥も怖い。
けれど、今日一番怖かったのは魔物ではなかった。
予測できない味方の動き。
油断。
決めつけ。
そして、狭い場所でそれらが重なること。
リオはそれを覚えた。
また一つ、忘れないことが増えた。
冒険者としては、きっとそうやって少しずつ進んでいくのだろう。
失敗して。
怖がって。
戻って。
直して。
また次へ行く。
ギルドの窓の外には、夕方の光が残っていた。
洞窟の暗さのあとだからか、その光はいつもより少し明るく見えた。




