■第60話「届かなかった手紙」
ギルドには、色々なものが届く。
依頼書。
苦情。
礼状。
請求書。
時には、誰かの忘れ物。
時には、誰宛てなのか分からない荷物。
だから、ミレナは朝一番に届け物の束を確認するのが習慣になっていた。
その日も、最初はいつも通りだった。
「依頼書が三通、商会からの確認書が一通、門番詰所からの連絡が一通……」
ミレナは受付の内側で、手紙と紙束を順番に分けていた。
リオはその向かいで依頼票の整理をしていた。
ガルドはいつもの椅子で寝ていた。
ナナは酒場側で朝の支度をしていて、セリアは治療棟の棚を整えている。
いつもの朝だ。
少しだけ静かで、少しだけ眠い。
昨日までの“昔の道”の話も、ギルドの中ではもう少し落ち着いていた。
ナナが面白がって「グラムって呼んだら怒るかな」と言い、リオが「やめた方がいいです」と止め、ガルドが遠くから「聞こえてるぞ」と言ったくらいで済んでいる。
だから、その手紙も最初はただの一通に見えた。
「……あれ?」
ミレナの手が止まる。
小さな封筒だった。
古い紙。
角が少し擦り切れている。
封蝋はない。
宛名だけが、丁寧な字で書かれていた。
「どうしました?」
リオが聞く。
「これ……」
ミレナは封筒を裏返した。
「差出人がありません」
「珍しくないんじゃないですか?」
「たまにあります。でも」
ミレナは宛名を見せる。
そこに書かれていたのは。
“ギルドにいる、昔勇者と旅をした方へ”
だった。
「……広いですね」
リオが言った。
かなり広い。
このギルドには、該当する人間が複数いる。
アル。
ガルド。
セリア。
バルドレイ。
ドーガ。
場合によっては、ほかにも関係者がいる。
「誰宛てですかね」
「分かりません」
ミレナが眉を寄せる。
「でも、捨てるわけにはいきません」
「開けます?」
「勝手には……」
そこで、ミレナは奥の机を見る。
アルがいた。
書類を読んでいたが、こちらの会話は聞こえていたらしい。
「見せてくれ」
短い声。
ミレナが封筒を持っていく。
アルは宛名を見て、少しだけ目を細めた。
「……俺宛てではないな」
「分かるんですか」
リオが聞く。
「俺宛てなら、もう少し面倒な書き方をする」
「判断基準が嫌ですね」
「経験だ」
アルはそう言って、封筒をガルドへ投げた。
寝ていたはずのガルドは、片手でそれを受け取った。
「寝てたんじゃないんですか」
リオが言う。
「寝てた」
「受け取ってましたよね」
「手が起きてた」
「意味分かりません」
ガルドは封筒を見る。
宛名を読む。
そして、少しだけ眉を寄せた。
「俺でもねえな」
「分かるんですか」
「俺宛てなら、たぶん名前が書いてある」
「ガルドの方ですか?」
「さあな」
そこはぼかした。
リオは昨日の話を思い出して、あまり突っ込まなかった。
「セリアか?」
ガルドが封筒を軽く振る。
「私ですか?」
セリアが治療棟から戻ってくる。
封筒を受け取り、宛名を見る。
「……違うと思います」
「どうしてですか」
ミレナが聞く。
「昔の私を知っている人なら、たぶん“聖女様”か“治療師の方”って書くと思うので」
「それはそれで面倒ですね」
リオが言う。
「そうですね」
セリアは少し困ったように笑った。
結局、誰宛てか分からない。
だが、宛名はこのギルドの誰かを指している。
手紙というのは、そこが厄介だ。
読まなければ中身は分からない。
でも読めば、もう知らなかったことにはできない。
「どうする」
ガルドが言う。
「開けるしかねえだろ」
「簡単に言いますね」
ミレナが言う。
「宛先が曖昧ですし、ギルド宛てとして扱うなら開封はできます」
「じゃあ開けろ」
「……はい」
ミレナは丁寧に封を開けた。
中には、一枚の便箋。
それだけだった。
古い紙ではない。
新しい。
ただし、字は少し震えていた。
ミレナが読み上げようとして、少しだけ止まる。
「……どうしました?」
リオが聞く。
「いえ」
ミレナは小さく息を吸った。
「読みます」
その声は、いつもより少し静かだった。
⸻
昔、勇者様たちに助けていただいた者です。
私の村はもう残っていません。
村の名前を覚えている人も、もうほとんどいません。
けれど、あの日、火の中から私を抱えて逃がしてくれた人のことだけは、ずっと覚えています。
その方のお名前を、私は知りません。
勇者様ではありませんでした。
聖女様でも、賢者様でも、盾を持った大きな方でもありませんでした。
その人は、私を助けたあと、すぐに別の場所へ走っていきました。
お礼を言えませんでした。
ずっと、それが心残りでした。
もし、この手紙を読んだ方の中に、その人を知っている方がいらっしゃいましたら、伝えてください。
ありがとうございました。
私は生きました。
子どもも生まれました。
孫もいます。
あなたが助けた命は、一つでは終わりませんでした。
⸻
読み終えた後、ギルドは静かになった。
誰もすぐには喋らなかった。
外では荷車の音がした。
酒場側では湯が沸く音が小さく響いていた。
その静けさの中で、ガルドだけが、目を閉じていた。
「……」
リオはガルドを見る。
もしかして。
そう思った。
だが、口に出せなかった。
ガルドは長い間黙っていた。
やがて、低く言う。
「村の名前、書いてあるか」
「いえ」
ミレナが便箋を確認する。
「ありません」
「場所も?」
「書いていません」
「なら分からん」
ガルドはそう言った。
いつも通りの声に戻そうとしている。
けれど、戻り切ってはいなかった。
「心当たりがあるんですか」
セリアが聞く。
責めるようではなく、ただ静かに。
「ありすぎる」
ガルドは言った。
「昔は、村が焼けるなんて珍しくもなかった」
軽く言ったわけではない。
でも重くしすぎないように言ったのだと、リオには分かった。
「助けた子どもなんか、何人もいる」
「……そうですか」
「俺かもしれねえし、別のやつかもしれねえ」
ガルドは便箋を見ない。
「勇者じゃなく、聖女でも賢者でも盾でもねえなら、俺の可能性はある。でも断言はできねえ」
「ガルドさん」
ミレナが少し迷ってから言う。
「この手紙、どうしますか」
「返事は?」
「差出人がありません」
「だろうな」
ガルドは椅子の背にもたれた。
「じゃあ返せねえ」
そこで話は終わる。
そう思った。
けれど。
「……でも」
リオが言った。
全員が見る。
自分でも、何を言うつもりか分かっていなかった。
「返せないなら、せめて残せませんか」
「残す?」
ガルドが聞く。
「その人は、お礼を言えなかったのが心残りだったって書いてます」
リオは便箋を見る。
「だったら、届いたことくらいは……どこかに残してもいいんじゃないかと」
「誰にだ」
「誰に、というか」
少し考える。
「このギルドに」
ガルドは黙った。
ミレナも黙った。
ナナが酒場側から、静かに言う。
「受付の奥に、礼状入れてる箱あるよ」
「ありますね」
ミレナが頷く。
「依頼人からの礼状とか、感謝の手紙を保管している箱です」
「そこに入れるか」
ナナが言う。
「宛先が分からないなら、“このギルドの誰かへ”でいいんじゃない?」
ガルドは何も言わない。
それは、拒否ではなかった。
ミレナが便箋を丁寧に畳む。
「では、保管します」
「ああ」
ガルドが短く言った。
それで終わり。
のはずだった。
だが、今度はセリアが口を開いた。
「……返事、書きませんか」
全員がセリアを見る。
「差出人が分からないんですよ」
リオが言う。
「送る先がありません」
「はい」
セリアは頷く。
「でも、書くだけならできます」
「誰に?」
ガルドが聞く。
セリアは少しだけ考えた。
「届かなかったとしても、その人へ」
変な話だった。
宛先のない返事。
出せない手紙。
普通なら意味がない。
けれど、不思議と誰も笑わなかった。
「……出せない手紙書いてどうすんだ」
ガルドが言う。
「残すんです」
セリアは静かに答える。
「その人の手紙と一緒に」
ミレナが少しだけ目を伏せる。
「……いいですね」
「いいのか?」
ガルドが聞く。
「はい」
ミレナは頷く。
「返事を書けない手紙に、返事を残してはいけない規則はありません」
「受付嬢らしくねえ理屈だな」
「今日はいいんです」
ミレナはそう言った。
珍しく、強くも正しくもない言い方だった。
ただ、そうしたいという顔だった。
「誰が書く」
ナナが聞く。
全員の視線が自然とガルドへ向く。
「俺かよ」
「心当たりが一番ありそうなので」
リオが言う。
「断言できねえって言っただろ」
「でも、書けることはあるんじゃないですか」
「……」
ガルドは嫌そうな顔をした。
本当に嫌そうだった。
戦闘より嫌そうだった。
「手紙なんか書けねえ」
「でしょうね」
ナナが即答する。
「おい」
「だって、書けなさそうだもん」
「事実です」
ミレナも言う。
「なんで全員で頷くんだ」
少しだけ空気が軽くなる。
それでも、芯の部分は静かなままだった。
「代筆します」
ミレナが言った。
「言葉だけもらえれば、私が整えます」
「整えなくていい」
ガルドが言う。
「じゃあ、そのまま書きます」
「それも嫌だな」
「どっちですか!」
いつものやり取りに近い。
けれど、今日は少し違う。
ミレナが紙とペンを用意する。
「では、どうぞ」
「どうぞって言われてもな」
ガルドは頭を掻いた。
しばらく黙る。
ギルドの中も、自然と静かになる。
リオは、ガルドが言葉を探している姿を初めて見た気がした。
戦場では迷わない。
面倒なことには雑に答える。
でも今は、言葉を選んでいる。
不器用に。
「……生きてたなら」
ガルドが言った。
ミレナがペンを走らせる。
「それでいい」
短い。
短すぎる。
だが、誰も急かさない。
「子どもと孫がいるなら、なおいい」
また少し間。
「礼なんかいらねえ」
ミレナの手が一瞬だけ止まる。
でも、すぐに書く。
「その時助けたやつが俺かどうかは知らねえ」
ガルドは続ける。
「でも、誰だったとしても、たぶん同じこと言う」
リオは息を止めるように聞いていた。
「生きたなら、それで十分だ」
ガルドはそこで一度止まった。
そして、少しだけ目を逸らす。
「……よく、生きた」
最後の一言は、ひどく小さかった。
ミレナはそれも書いた。
ペンの音だけが響く。
しばらくして、ミレナが顔を上げる。
「……これで」
ガルドは見ようとしない。
「読まねえのか」
ナナが聞く。
「読まねえ」
「なんで」
「恥ずかしい」
即答だった。
今度は、少しだけ皆が笑った。
重くなりすぎない。
このギルドらしい笑い方だった。
「では、封をしますね」
ミレナが言う。
「誰宛てにしますか」
ガルドは少し考えた。
「届かなかった手紙の主へ」
「そのままですね」
「分かりやすいだろ」
「はい」
ミレナは封筒にそう書いた。
“届かなかった手紙の主へ”
少し変な宛名だった。
でも、これ以外にない気がした。
礼状を保管している箱は、受付の奥にあった。
木製の古い箱だ。
派手ではないが、大事に扱われているのが分かる。
ミレナがその中に、届いた手紙と、返事を書いた手紙を並べて入れた。
それで終わり。
送ることはできない。
相手が読むこともない。
でも、確かに返事は書かれた。
それだけで、何かが少しだけ収まった気がした。
昼になって、ギルドはいつもの調子を少しずつ取り戻した。
ナナが酒場で皿を並べ、セリアが治療棟に戻り、リオは依頼票の整理を再開した。
ガルドは椅子に戻った。
けれど、寝てはいなかった。
しばらく天井を見ていた。
「ガルドさん」
リオが声をかける。
「なんだ」
「昔、たくさん助けたんですね」
「助けたやつもいる」
ガルドは言う。
「助けられなかったやつも、もっといる」
リオは黙った。
それは、軽く返せる言葉ではなかった。
「でも」
ガルドが続ける。
「今日みたいなのが来ると、少しだけ楽になる」
「楽に?」
「全部無駄だったわけじゃねえって分かる」
その声は、ひどく普通だった。
普通に言おうとしている声だった。
だから余計に、リオには重く聞こえた。
「……そうですね」
それだけ返した。
他に言葉がなかった。
午後になって、トーマが荷物を持ってきた。
ユーンが「運びます」と言い、全員に「馬車じゃないなら」と条件をつけられた。
ライルが来て、ナナに「今日は静かめにして」と言われ、「俺はいつも静かだろ」と言って誰も同意しなかった。
ミレナはいつも通り怒り、リオはいつも通り巻き込まれ、セリアはいつも通り笑っていた。
ガルドは、いつもの椅子で少しだけ目を閉じていた。
その横に、ナナがそっと杯を置く。
「酒じゃないよ」
「分かってる」
「今日はこっちでしょ」
中身は温かい茶だった。
ガルドは文句を言わずに、それを飲んだ。
「……薄いな」
「文句言うなら酒代倍ね」
「うまい」
「早い」
リオはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
受付の奥には、古い木箱がある。
そこに、届かなかった手紙と、届かない返事が入っている。
誰かが読むことは、たぶんない。
でも、そこにある。
このギルドには、そういうものが少しずつ増えていくのかもしれない。
依頼の記録だけじゃなく。
戦いの報告だけじゃなく。
誰かが生きた証拠や、誰かが言えなかったお礼や、誰かがやっと書いた返事のようなものが。
リオは、そう思った。
そして、それも悪くないと思った。




