■第58話「昔の名前」
雨が降っていた。
別に珍しいことじゃない。
空が曇り、湿った風が吹き、屋根を叩く音が静かに続く。ただそれだけのことで、街の人間は少し足を速め、酒場の客が増え、依頼が減る。
いつもの雨の日だった。
だから最初、誰も気にしていなかった。
ギルドの扉が開いた時も。
そこに立っていた男を見た時も。
ガルドだけを除いて。
⸻
扉の前に立っていたのは、長身の男だった。
濡れた外套。
右頬に古い傷。
腰には長剣。
歳は四十前後。
ただ立っているだけなのに、空気が少しだけ重くなるタイプの人間だった。
「……依頼か?」
ナナがカウンター越しに聞く。
男は答えなかった。
視線だけが、ゆっくりギルドの中を動く。
そして。
奥の椅子に座っていたガルドで止まった。
「……久しぶりだな」
低い声だった。
その瞬間。
ガルドの表情が、ほんの少しだけ止まる。
本当に少しだけ。
だが、リオは気づいた。
今まで見たことのない止まり方だった。
⸻
「誰ですか?」
ミレナが聞く。
男は答えない。
視線をガルドから外さないまま、静かに口を開く。
「お前、“ガルド”なんて名乗ってんのか」
空気が変わった。
リオは無意識に背筋を伸ばす。
ナナが笑みを消す。
セリアも黙る。
その中で。
ガルドだけが、面倒臭そうに息を吐いた。
「……昔の話だ」
「俺は初耳なんだが」
カインが壁際から言う。
ガルドは答えない。
代わりに、男が口を開く。
「そりゃそうだろ。こいつ、自分から昔の話しねえし」
そう言って。
男は笑った。
「なあ、“グラム”」
⸻
静かだったギルドの空気が、完全に止まった。
「……誰ですかそれ」
リオが聞く。
男は少し目を細める。
「昔のこいつの名前だ」
「違う」
ガルドが即座に言う。
「今は違う」
「今は、だろ?」
男は笑う。
「でも昔はそう呼ばれてた」
ガルドは黙った。
否定しない。
つまり、本当なのだ。
⸻
「……え?」
ミレナが混乱した顔をする。
「ガルドさん、本名違うんですか?」
「別に珍しくねえだろ」
ガルドが言う。
「冒険者なんて偽名だらけだ」
「いや、それはそうですけど!」
「お前も昔、“アルヴェイン”で呼ばれるの嫌がってたろ」
ガルドが言う。
アルは奥の机から顔も上げずに答える。
「今も好きではない」
「ほら」
「ほらじゃありません!」
ミレナが言う。
「なんで誰も驚かないんですか!」
「いや、驚いてはいる」
リオが言う。
「ただ……」
言葉を探す。
「“ガルドさんっぽいな”っていうか……」
「だろ?」
ナナが言う。
「昔の名前捨ててそう感ある」
「失礼だな」
ガルドが言う。
否定はしない。
⸻
「で?」
ガルドが男を見る。
「何しに来た」
「つれねえな」
男は肩を竦める。
「昔の仲間が生きてるって聞いたから来ただけだ」
「帰れ」
「即答かよ」
「面倒だからな」
「昔はもっと愛想あったぞ」
「昔の話だ」
ガルドは繰り返す。
だが。
その“昔”という言葉の使い方が、少しだけいつもと違った。
⸻
「紹介くらいしろよ」
男が言う。
「その辺の若いの、警戒してんぞ」
「してますね」
リオが素直に言う。
「急に昔の名前呼ばれてますし」
「そりゃそうか」
男は笑う。
「俺はヴェルンだ」
短い自己紹介だった。
「昔、そこの面倒臭えのと組んでた」
「誰が面倒臭え」
「お前だよ」
即答だった。
⸻
「組んでたって……」
セリアが聞く。
「昔のパーティですか?」
「まあ、そんなもんだ」
ヴェルンは言う。
「もっと酷かったけどな」
「おい」
ガルドが睨む。
「余計なこと喋んな」
「今さらだろ」
ヴェルンは笑った。
「昔のお前、もっと荒れてたぞ」
リオ達が静かになる。
想像しにくかった。
今のガルドは、だらけていて、面倒臭がりで、酒好きで、適当で。
でも。
“荒れていた”という言葉は、妙に似合う気もした。
⸻
「強かったけどな」
ヴェルンが言う。
「無駄に」
「無駄じゃねえ」
ガルドが言う。
「生きるためだ」
「今のお前からは想像できねえな」
「俺もそう思う」
ナナが言う。
「今、昼寝してるイメージしかない」
「失礼だなお前ら」
だが、空気は少しだけ柔らかくなった。
⸻
「昔って、どんなだったんですか」
リオが聞く。
少しだけ興味があった。
ガルドは嫌そうな顔をした。
「話す必要ねえ」
「まあそう言うなよ」
ヴェルンが椅子に座る。
「別に大した話じゃねえ」
「お前の“大したことない”は信用ならん」
「それはお互い様だろ」
息が合っていた。
昔からの付き合いなのが分かるくらいには。
⸻
「当時のこいつ、今よりもっと喋んなかったぞ」
ヴェルンが言う。
「必要最低限」
「今もそんな変わらないですよ」
リオが言う。
「いや、今は丸くなってる」
ヴェルンは断言した。
「昔はもっと目が死んでた」
「やめろ」
ガルドが低く言う。
だがヴェルンは止まらない。
⸻
「依頼終わった後も、一人で武器の手入ればっかしてたしな」
「……」
「酒も飲まねえ」
「嘘だ」
ナナが言う。
「今のガルドから酒抜いたら半分くらい消えるでしょ」
「今はな」
ヴェルンが笑う。
「昔は本当に飲まなかった」
意外だった。
リオは少し驚く。
今のガルドからは想像できない。
⸻
「なんで変わったんですか?」
セリアが聞く。
静かな声だった。
ヴェルンは少しだけ考える。
そして。
「……死ななくてよくなったからじゃねえか」
軽く言った。
だが。
その言葉だけ、妙に重かった。
⸻
少しだけ沈黙が落ちる。
ガルドは視線を逸らしていた。
ナナも何も言わない。
リオは、初めて少しだけ理解した気がした。
この人は。
“最初から今みたいだったわけじゃない”。
⸻
「まあでも」
ヴェルンが笑う。
「今の方が気持ち悪いけどな」
「何がだ」
「だらけすぎ」
「うるせえ」
「昔のお前見てると、今の姿想像できねえよ」
「俺も昔のお前見てると、今その腹になると思わなかった」
「お前っ!」
即座にヴェルンが立ち上がる。
「そこ言うか!?」
「本当だろ」
「筋肉だ!」
「どこがだ」
急に空気が軽くなる。
助かった。
⸻
「で?」
ガルドが聞く。
「本当にそれだけか」
「……」
ヴェルンは少しだけ黙る。
そして。
「実は一個、依頼持ってきた」
「帰れ」
「早えよ!」
全員が少し笑った。
⸻
「昔、お前と行った場所がある」
ヴェルンが言う。
「そこに、ちょっと確認したいもんがあってな」
「自分で行け」
「行った」
「じゃあ終わりだろ」
「一人じゃ無理だった」
その瞬間。
ガルドの目が少しだけ細くなる。
「……何がいた」
「黒狼」
空気が変わる。
リオでも分かった。
その名前は、軽くない。
⸻
「まだいたのか」
ガルドが言う。
「増えてる」
「面倒だな」
「だから来た」
ヴェルンが真っ直ぐ言う。
「昔のお前なら、放っとかねえと思って」
「……」
ガルドはしばらく黙る。
そして。
「リオ」
「はい?」
「準備しろ」
即答だった。
⸻
「行くんですか」
ミレナが言う。
「面倒なんだろ」
「面倒だ」
「じゃあなんで!」
「放っとくともっと面倒になる」
それだけ言って、ガルドは立ち上がった。
⸻
ヴェルンが少し笑う。
「やっぱ変わってねえな」
「変わってる」
ガルドは言う。
「昔より、余計なもんが増えた」
その視線が、少しだけギルドの中へ向く。
リオ達の方へ。
ほんの一瞬だけ。
⸻
リオはその時、なんとなく分かった。
この人はきっと、“ガルド”になってから変わったんじゃない。
“ここに居続けたから”、今みたいになったんだ。




