■第51話「“名前をつけよう”って言い出すと、だいたい一番どうでもいいものに一番熱が入る」
名前というのは、不思議なものだ。
人に名前をつけるのは当たり前だし、場所や物にだって名前は必要になる。識別するため、呼びやすくするため、記録に残すため――理由はいくらでもある。
だが、“名前をつけよう”という話が持ち上がった時、人はなぜか本来重要なものよりも、“別に名前がなくても困らないもの”に対して妙に真剣になることがある。
そしてその日、ギルドで起きたのはまさにそれだった。
⸻
「これ、名前つけません?」
ナナが言った。
昼過ぎ、酒場のカウンターで、いつもの軽い調子で。
「何にですか」
リオが聞く。
「これ」
ナナが指差したのは、カウンターの端に置かれた小さな木箱だった。
見覚えはある。
最近使い始めた“共用の雑貨入れ”だ。
紐、釘、小さなナイフ、紙片、予備の紐止め、誰のか分からない小物――そういう“ちょっとしたもの”が全部ここに突っ込まれている。
「ああ、あれですか」
リオが言う。
「名前必要ですか?」
「呼びにくくない?」
ナナが言う。
「“あの箱取って”だと毎回確認必要じゃん」
「まあ……」
リオは少し考える。
たしかに、“どの箱か”で一瞬迷うことはある。
でも。
「そこまで困ってはないですよね」
「困ってないけど、面白くない」
「理由がそっちですか」
だいたい予想通りだった。
⸻
「名前?」
ガルドが椅子に座ったまま言う。
「いらねえだろ」
「いるの!」
ナナが言う。
「呼びやすくなるし!」
「“箱”でいい」
「雑すぎ!」
だが、このやり取り自体はいつもの軽口だ。
本来ならここで終わる。
終わるはずだった。
⸻
「でも、名前があると便利なのは確かですね」
セリアが言った。
治療棟の入口から、少しだけ顔を出して。
「呼びやすいですし、覚えやすいですし」
「ほら!」
ナナが言う。
「セリアさんも言ってる!」
「そこに乗るんですね……」
リオが言う。
この人が肯定に回ると、一気に現実味が出る。
「じゃあ簡単な名前で」
セリアが続ける。
「用途が分かるようなものとか」
「それいいですね!」
ミレナが受付から乗ってきた。
だめだ。
広がる流れだ。
⸻
「“共用箱”でいいだろ」
ガルドが言う。
「ダメです!」
ナナが即答する。
「味気ない!」
「味いるか?」
「いるの!」
価値観の違いだった。
⸻
「“小物箱”とか」
リオが言う。
とりあえず無難な案。
「普通すぎ」
ナナが即切り捨てた。
「じゃあ“便利箱”」
「それも普通」
「普通がいいんですよ!」
リオが言う。
「こういうのは!」
「つまんない!」
「つまらなくていいんです!」
もう方向性が違う。
⸻
「“なんでも入る箱”は?」
セリアが言う。
「優しい感じで」
「長い」
ガルドが言う。
「呼ばねえ」
「確かに」
リオも頷く。
呼びにくい名前は意味がない。
⸻
「じゃあ略して“なん箱”」
ナナが言う。
「ださくないですか?」
リオが言う。
「逆にいい」
「逆ってなんですか」
だめだ。
この人はもう楽しんでいる。
⸻
「……なんでこんな真剣なんですか」
リオがぼそっと言う。
「箱ですよ」
「箱だからだよ」
ナナが言う。
「どうでもいいから、好きにできる」
「それ一番危ないやつです」
完全にそうだった。
⸻
その時だった。
「何してる」
アルが奥から来た。
「名前決めてるの!」
ナナが言う。
「箱の」
「……」
アルは一瞬だけ黙った。
「必要か?」
「必要!」
ナナが言う。
「……そうか」
それ以上は何も言わなかったが、否定もしなかった。
つまり、“止めない”ということだ。
それはつまり――
止まらない。
⸻
「じゃあ投票にしましょう」
ミレナが言う。
「候補出して!」
「なんでそんな大げさなんですか!」
リオが言う。
「名前一つですよ!」
「大事です!」
「箱ですよ!」
でももう止まらない。
⸻
候補が出ていく。
「“雑箱”」
「雑すぎ」
「“便利箱”」
「普通」
「“共有庫”」
「固い」
「“なん箱”」
「ださい」
「“ちょい置き箱”」
「長い」
「“とりあえず箱”」
「それはちょっと好き」
ナナが言う。
「なんでですか」
「それっぽい」
確かに、用途としてはそれっぽい。
⸻
「“とり箱”でいいんじゃないですか」
リオが言う。
「略しましたね」
ミレナが言う。
「呼びやすいです」
「まあ……」
ナナも少し考える。
「悪くないかも」
「それでいいだろ」
ガルドが言う。
「早く終われ」
完全にそれだった。
⸻
だが。
「待て」
カイルが言った。
また増えた。
「なんですか」
リオが言う。
「名前なら、ちゃんとした方がいい」
「なんでですか」
「中途半端だと後で困る」
「箱の名前で困ることあります?」
「あるかもしれない」
ないと思う。
でもこの人は真面目だから止めにくい。
⸻
「“共用物資簡易収納箱”」
カイルが言う。
「長すぎます!」
全員が同時に言った。
「正式名称としては――」
「いらないです!」
ミレナが言う。
「呼びません!」
⸻
「じゃあ二つに分けましょう」
セリアが言う。
「正式名と通称」
「やめてください!」
リオが言う。
「箱ですよ!」
だが、この流れは危険だった。
どんどん話が膨らむ。
⸻
「“共用物資簡易収納箱”で」
カイルが言う。
「通称“とり箱”」
「それでいい」
ガルドが言う。
「なんでそこは乗るんですか」
リオが言う。
「もう終わるならなんでもいい」
本音だった。
⸻
「じゃあそれで!」
ミレナがまとめる。
「正式名“共用物資簡易収納箱”、通称“とり箱”!」
「長いですって!」
リオが言う。
だがもう決まった。
⸻
その時だった。
「おーい」
入口から声がした。
トーマだった。
「これ、どこ置けばいい?」
手に持っているのは、小さな金具の袋。
「とり箱に入れてください!」
ミレナが言う。
「とり箱?」
トーマが首を傾げる。
「何それ」
「今決まったんです!」
「へえ」
トーマは箱を見る。
そして袋を入れる。
「……」
数秒後。
「これ、さっきと同じ箱だよな?」
「そうです!」
「名前変わったの?」
「変わりました!」
「なんで?」
「便利だからです!」
「……そうか」
トーマは納得したような、していないような顔をした。
⸻
「……」
リオはそのやり取りを見ていた。
「どうしました?」
セリアが聞く。
「いや」
リオは言う。
「今、ちょっと思ったんですけど」
「何をですか」
「名前つけた意味って」
「ありますよ」
セリアが言う。
「呼びやすくなりました」
「そうですかね」
「“あの箱”よりはいいと思います」
「……まあ」
それはそうかもしれない。
⸻
「とり箱取って」
ナナが言う。
「はい」
リオが箱を渡す。
「……」
少しだけ、違和感があった。
でも。
「……まあ」
リオは言った。
「いいんじゃないですか」
結局それだった。
⸻
“名前をつけよう”って言い出すと、だいたい一番どうでもいいものに一番熱が入る。
でも、そのどうでもいいものが、あとで一番自然に使われるようになったりする。
その日から、その箱は“とり箱”と呼ばれるようになった。
正式名は、誰も使わなかった。




