■第44話「“契約書”は紙なのに、だいたい剣より重く感じる」
紙は軽い。
薄くて、折れやすくて、風が吹けば簡単にめくれる。持ち運びも楽で、燃やそうと思えば一瞬だ。
だが、その紙に“契約”という言葉が乗った瞬間、重さはまったく別のものになる。
書いてあるのは文字だけのはずなのに、それを破れば責任がついてくるし、守れば制限がついてくる。見えない重りがぶら下がるような感覚がある。
そしてその日、ギルドに持ち込まれたのは、まさにその“重い紙”だった。
⸻
「……なんですか、それ」
リオが言った。
受付カウンターの上に置かれているのは、一枚の羊皮紙。
だが、普通の依頼書ではない。紙質が違う。厚く、縁が金の細線で縁取られていて、中央には見慣れない紋章が押されている。
「契約書です」
ミレナが答えた。
声がいつもより少しだけ硬い。
「依頼じゃないんですか?」
「違います」
短く、はっきりと。
「正式な“契約”です」
その言葉の時点で、嫌な予感しかしない。
⸻
「なんの契約だ」
ガルドが椅子に座ったまま聞く。
いつものだらけた姿勢だが、視線だけは紙に向いている。
「ギルドと外部団体との間のものです」
「外部?」
「はい」
ミレナは羊皮紙を軽く押さえた。
「魔法学園です」
その一言で、場の空気がほんの少し変わった。
魔法学園。
つまり、エルミナのいる場所だ。
「なんでそんなもんが来る」
ガルドが言う。
「こちらからの要請ではありません」
「向こうからか」
「はい」
ミレナは一度だけ頷いた。
「“協力契約”の提案です」
「面倒だな」
即答だった。
「まだ中身も見てないですよ!」
リオが言う。
「見なくても分かる」
「分かりません!」
だが、半分くらい分かる気もする。
⸻
「内容、確認しますね」
ミレナは羊皮紙を広げる。
そこには、びっしりと細かい文字が書かれていた。
しかも、やたらと丁寧な書き方だ。
つまり、読むのが面倒なやつである。
「……要約すると」
ミレナが言う。
「学園側が保有している資料の一部を、ギルドに開示する代わりに――」
「代わりに?」
リオが聞く。
「“定期的な協力任務”を請け負う、という内容です」
「任務?」
「はい」
ミレナは紙をなぞる。
「具体的には、調査、護衛、検証協力など」
「ほら面倒だ」
ガルドが言う。
「まだ全部読んでないです!」
「十分だろ」
確かに、十分すぎるほど面倒そうだった。
⸻
「でも、資料の開示って……」
リオが言う。
「何の資料ですか?」
ミレナは一瞬だけ言葉を選んだ。
「“術式記録”とあります」
空気がまた少し変わる。
それは軽くない。
学園が持っている術式記録というのは、基本的に外には出ないものだ。
それを“開示する”というのは、相応の意味がある。
「なんでそんなもん出してくる」
ガルドが言う。
「分かりません」
ミレナは正直に答えた。
「ただ、これが届いたということは――」
「何かある」
カインが後ろから言った。
いつの間にか来ていた。
「裏があるな」
静かだが、はっきりした声だった。
⸻
「読んでみるか」
ガルドが言う。
「ちゃんとですか?」
リオが聞く。
「ちゃんとだ」
「珍しいですね」
「紙が重い時はちゃんと読む」
その言い方は、妙に説得力があった。
⸻
羊皮紙を広げる。
ガルドはそれを片手で押さえ、ゆっくりと目を通し始めた。
普段の雑さはない。
本当に読んでいる。
「……長えな」
最初の感想がそれだった。
「だから言ったじゃないですか」
リオが言う。
「ちゃんと読むやつだって」
「細かいな」
「契約書ですからね!」
だが、その“細かさ”の中に、問題は潜んでいる。
⸻
「ここ」
ガルドが指で示す。
「“任務の内容は双方協議の上で決定する”」
「はい」
ミレナが頷く。
「そこは普通じゃないですか?」
「普通じゃねえ」
ガルドが言う。
「範囲が広すぎる」
「……あ」
リオも気づいた。
つまり、何でもありになる可能性がある。
「それからここ」
ガルドが続ける。
「“緊急時における優先的対応”」
「それも普通では?」
「普通だが、優先度の基準が書いてねえ」
たしかに。
“何をもって緊急とするか”が曖昧だ。
「つまり、向こうの都合でいくらでも呼び出される」
カインが言う。
「そういうことだな」
ガルドが頷く。
「……面倒ですね」
リオが言った。
「めちゃくちゃ面倒ですね」
まだ読んでる途中なのに、すでに面倒だ。
⸻
「でも」
セリアが静かに言った。
「資料の方はどうですか?」
ミレナが紙をめくる。
「……こちらも曖昧です」
「曖昧?」
「“適宜開示する”としか書いてありません」
「それ一番ダメなやつです!」
リオが言う。
「出す気あるのかないのか分かんないやつです!」
「その通りです」
ミレナが頷く。
珍しく完全同意だった。
⸻
「要するに」
ガルドが言う。
「こっちはいつでも呼ばれて、向こうは好きな時にしか出さねえ」
「そうなりますね」
ミレナが言う。
「完全に不利じゃないですか」
リオが言う。
「だな」
ガルドはあっさり言った。
「じゃあ断りましょう」
「簡単に言うな」
「でもそうでしょう!?」
「そうだが」
ガルドは紙を指で叩いた。
「これ、向こうも分かってて出してる」
「……あ」
リオが固まる。
「つまり、これでも受ける理由があると思ってる」
「そういうことだ」
⸻
「例えば?」
ナナが酒場側から聞く。
いつの間にか話を聞いていた。
「例えば……」
ガルドは少しだけ考える。
「“今すぐ欲しいものがある”とか」
「資料ですか」
「それもある」
「それ以外は?」
「……借りを作りたい」
その言葉で、空気が変わる。
軽くない話だ。
「借り……」
リオが呟く。
「学園にですか?」
「逆だ」
ガルドが言う。
「学園が、こっちに」
その発想はなかった。
⸻
「……どういうことですか」
リオが聞く。
「普通は逆じゃないですか」
「普通ならな」
ガルドは紙を折りかけて、やめた。
「でも、わざわざこんな不利な形で出してくるってことは」
「何か急いでる?」
セリアが言う。
「か、試してるかだな」
ガルドが答える。
⸻
「試してるって?」
ナナが聞く。
「どこまで飲むか」
短い言葉だった。
「どこまで要求を通せるか」
「……ああ」
ナナが納得した顔をする。
「それで反応を見るわけね」
「そういうことだ」
⸻
「つまり」
リオが言う。
「このまま受けると、完全に向こうのペースになる」
「そうだな」
「断ると?」
「それはそれで、“協力する気がない”って見られる」
「めんどくさいですね!」
心から叫んだ。
剣で殴る方がまだ分かりやすい。
⸻
「どうするんですか」
ミレナが聞く。
視線はガルドではなく、少しだけ奥――
アルヴェインの方へ向いていた。
その本人は、少し離れた机で腕を組んでいる。
最初から聞いていた。
「受ける必要はない」
アルヴェインが言った。
静かな声だった。
「だが」
一拍置く。
「そのまま返す必要もない」
⸻
「どういう意味ですか」
リオが聞く。
「条件を付ける」
アルヴェインが言う。
「こちらから」
「えっ」
リオが固まる。
「できるんですかそれ」
「できる」
短い答えだった。
「契約は一方的なものじゃない」
その言葉には、妙な重さがあった。
⸻
「具体的には?」
ミレナが聞く。
「資料の開示を先行させる」
アルヴェインが言う。
「任務はその後」
「逆にするんですね」
「そうだ」
理にかなっている。
だが、それを向こうが飲むかどうかは別だ。
「飲まなければ?」
リオが聞く。
「それでいい」
アルヴェインはあっさり言った。
「無理に結ぶ必要はない」
⸻
「……強気ですね」
ナナが言う。
「交渉はそういうものだ」
アルヴェインは視線を紙から外さない。
「最初に飲めば、次も飲まされる」
たしかにそうだ。
一度でも譲れば、そこが基準になる。
⸻
「でも」
セリアが言う。
「それでも学園がこれを出してきた理由は、気になりますね」
「気になるな」
ガルドが言う。
「そこが一番重い」
紙よりも。
内容よりも。
その“意図”が一番厄介だ。
⸻
「返答、どうします?」
ミレナが聞く。
「今日中に出しますか?」
「出す」
アルヴェインが言う。
「早い方がいい」
「分かりました」
ミレナはすぐに新しい紙を用意した。
返答用の文書だ。
⸻
「文章はどうします?」
「簡潔でいい」
アルヴェインが言う。
「条件だけ明確に」
「はい」
ペンが走る。
カリカリと、静かな音が響く。
さっきまでの“紙の重さ”が、今は少し違う形になっている。
受けるか、断るかではない。
どう関わるかを決めるための紙だ。
⸻
「……こういうの」
リオがぼそっと言う。
「戦闘より疲れません?」
「疲れるな」
ガルドが即答した。
「剣振る方が楽だ」
「ですよね」
心から同意した。
⸻
しばらくして、ミレナが顔を上げる。
「できました」
紙を差し出す。
アルヴェインが目を通す。
短い。
だが、必要なことは全部書いてある。
「いい」
それだけだった。
⸻
契約書は、再び折りたたまれた。
最初に来た時より、少しだけ軽く感じた。
中身は変わっていないはずなのに。
ただ、扱い方が決まっただけだ。
⸻
紙は軽い。
だが、そこに何を書くかで、重さはいくらでも変わる。
その日、ギルドに来た契約書は、まだ終わっていない。
返した先で、また何かを連れてくる。
そういう種類の紙だった。




