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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第40話 後編「首を斬っても終わらないなら、糸を引いてる手を斬るしかない」

 夜明け前の空気というのは、どこか鈍い。


 冷えているのに輪郭が柔らかくて、世界全体がまだ完全には目を覚ましていない感じがある。


 だからこそ、戦いの前にはちょうどいいのかもしれない、とリオは思った。


 頭が冴えすぎても良くない。妙に感情が立ちすぎても、体が先走る。


 冷えていて、静かで、でも確実に朝へ向かっている。


 そういう時間の方が、嫌なことをやるには向いている。


 東門の前に集まった時、誰もいらない言葉は口にしなかった。


 準備は終わっている。


 剣は見た。油も引いた。札も持った。毒煙への対策として布も湿らせた。役割も前日に決めた通りだ。


 だからもう、話すことは少ない。


 アルヴェインは門の前で地図を広げることもしなかった。昨日、もう十分見たからだ。


「行くぞ」


 それだけだった。


 声は低くも高くもない。命令というより、確認に近い。


 それでも、全員が同じタイミングで動いた。


 ガルドが一番前に出る。

 その少し後ろにリオ。

 セリアはさらに半歩下がる。

 右へカイン。

 左寄りにドーガ。

 ナナは木立の線が見える距離を保ち、アルヴェインは全体の少し後ろで、誰が崩れても拾える位置を歩いた。


 昨日より人数は少し増えていた。


 増援というほど大げさではない。


 ロッドが武器の最終確認のために一緒に門まで来ていて、そこで無言のままガルドに短い剣を一本、リオに細身の予備短剣を渡した。


「硬いのに噛ませろ」


 それだけ言って、戻っていった。


 バルドレイは東門のところまで出てきて、札の追加と、小さな銀の釘みたいなものを三本、アルヴェインへ渡した。


「術の核が見つかったら、こいつを打ち込め。上手く入れば、流れが一瞬止まる」


「一瞬か」


「一瞬じゃ。じゃが、十分な一瞬でもある」


 アルヴェインはそれを受け取り、何も言わず懐に入れた。


 ミレナは最後まで何か言いたそうな顔をしていたが、結局「無茶しないでください」としか言わなかった。


 たぶん、それしか言いようがなかったのだろう。


 無茶をしないで済む相手なら、そもそもこんな朝に出る必要がない。



 旧街道は、昨日より静かだった。


 静かというより、息を潜めている感じがした。


 鳥がいない。虫もいない。風だけが葉の先を撫でていく。


 その風すら、どこか遠い。


「昨日より嫌だな」


 ガルドがぼそりと言った。


「濃いですか」


 リオが聞く。


「いや」


 ガルドは少しだけ考えてから答えた。


「濃いってより、向こうが待ってる感じが強い」


「歓迎されてるってことですか」


「最悪の歓迎だな」


 カインが短く言った。


 アルヴェインは何も言わない。


 だが視線の動きが細かい。木立の上、地面の起伏、道端の石、昨日はなかった小さな傷まで見ているようだった。


 休憩所が見えてくる。


 昨日と同じ場所。


 だが、違うところもある。


「……あれ」


 セリアが小さく言った。


 井戸の脇に、小さな花束が置いてあった。


 野の花を雑に束ねたようなものだ。子どもが供えたようにも見えるし、誰かが慌てて置いたようにも見える。


「なんだそりゃ」


 ガルドが言う。


「供物か?」


「違うと思いたいですね」


 リオが言う。


 だが、その見た目の素朴さが逆に嫌だった。


 誰かがここで死んだと知っていて、誰かが置いたのかもしれない。


 あるいは、向こう側がこちらを試して置いたのかもしれない。


「触るな」


 アルヴェインが初めて口を開いた。


「そのままにしておけ」


 全員が頷いた。


 たぶん、誰も触りたくなかった。


 そのまま休憩所の裏へ回る。


 昨日、最初の駒が飛び出してきた場所。


 そこに、今日は最初から立っているものがあった。


 木だ。


 いや、木に見せかけた杭だ。


 地面に深く打ち込まれ、先端に黒い布が巻いてある。人が片腕を広げたくらいの高さで、周囲の木立にまぎれるように立っていた。


「術場の目印だな」


 バルドレイの言葉を思い出す前に、ガルドが言った。


「分かるんですか」


 リオが聞く。


「分かるっていうか、こういうのは見たことある」


「どこで」


「嫌なとこで」


 それで十分だった。


 ドーガが近づきかける。


「待て」


 アルヴェインが止めた。


「昨日の銀釘」


「ああ」


 ガルドが手を出す。


「俺がやる」


「俺がやる」


 アルヴェインが静かに言う。


 一瞬だけ、ガルドがそちらを見る。


 ほんの少し間があってから、肩をすくめた。


「好きにしろ」


 アルヴェインは杭の真正面には立たなかった。半身で少しずれた位置に立ち、銀釘を指に挟むように持って、躊躇なく打ち込んだ。


 カン、と乾いた音がして、次の瞬間、空気が震えた。


 見えない膜みたいなものが一瞬だけ波打ち、地面を這うように広がって、木立の奥へ逃げていく。


「今のだ!」


 ナナが叫ぶ。


「左奥、二本! 右手前に一本!」


 見えない線が一瞬だけ見えたのだろう。ナナの指差す先に、ガルドとカインの視線が同時に走る。


「ドーガ、右!」


「了解」


「リオ、左、俺と来い!」


 もう考える暇はなかった。


 ガルドが走る。リオも続く。


 木立の奥、低い場所だ。昨日と同じように、木の上からではなく、今日は下に潜っているらしい。


 枝を払い、幹を回り込んだ先に、黒い布を巻いた人影がいた。


 昨日の“駒”ではない。立ち方が違う。目も合う。反応も速い。


「見つけたか」


 男が低く言った。


 顔の半分は布で隠れている。年齢は読めない。声も抑えられていて、印象が薄い。


 だが、薄いくせに存在感がある。嫌な存在感だ。


「お前が一人か」


 ガルドが言う。


「さあな」


 男の両手に、細い杭みたいな短剣が握られていた。普通の剣じゃない。刺すために特化した形だ。


「返事が気持ち悪いな」


「褒め言葉か?」


「最悪の方だ」


 次の瞬間、男が消えたように見えた。


 実際には低く回り込んだだけだが、速い。


 リオの脇を狙ってくる。咄嗟に短剣を抜き、弾く。軽い。力より速さだ。


「リオ、下がるな!」


 ガルドが踏み込む。


 剣は抜かない。短剣だけで距離を詰める。


 相手の杭状の刃を二度、三度と擦らせるように受け、そのたびに少しずつ位置をずらしていく。


 見ていて分かった。


 斬る気ではなく、噛み合う場所を探している。


「……そこか」


 ガルドが笑った。


 嫌な時の笑いだ。


 次の一手で、相手の右手首を叩くように払う。男がそれを避ける。その避けた先に、最初から左の短剣が置かれていた。


 布が裂ける音。


 相手の袖口が切れる。


 そして、その下から細い糸が何本も覗いた。


「やっぱり自分で繋いでんじゃねえか」


 ガルドが言う。


 男の目が初めて少しだけ変わった。


「見たか」


「見たよ」


 ガルドの声が低くなる。


「お前、ただ操ってるだけじゃなくて、自分が中継点だろ」


 つまりこいつは、術者の末端ではない。糸を配る側だ。


 頭領ではないかもしれないが、核に近い。


「リオ」


「はい!」


「そいつ切っても終わらねえ。糸を見ろ」


 その意味を理解するより早く、男が引いた。


 後ろへではない。木に乗るように、斜めへ飛ぶ。


「逃がすな!」


 リオが追う。


 ガルドも追う。


 だがその瞬間、別方向から駒が二体飛び出してくる。足止めだ。


「邪魔だ!」


 ガルドが吐き捨てるように言って、片方の顔面へ蹴りを入れた。人間にはやりたくない蹴り方だ。だがもう躊躇はなかった。


 リオも首を狙う。昨日より剣が迷わない。


 止まる。


 その間に男は距離を取る――かと思ったが、今度は自分から踏み込んできた。


「っ!」


 ガルドへ一直線。


 杭状の刃が喉を狙う。


 あまりにも真っ直ぐで、あまりにも無駄がない。


 ガルドはその一撃を半身で避ける。だが避けながら、逆に相手の肩に体をぶつけた。


 密着に近い距離になる。


 普通なら短剣向きではない距離だ。


 だがガルドはそこで、短剣ではなく肘を使った。相手の顎を打ち上げる。


 男の頭が僅かに跳ねる。


 その一瞬の隙に、ガルドの剣が抜かれていた。


 速い。


 抜いた瞬間にはもう横へ走っている。


 男は後ろに跳んで避ける。だが完全には避けきれない。胸元の布が深く裂けた。


 その下にも糸がある。


 皮膚に埋め込まれているわけではない。服の内側を通し、体表に沿わせている。術式を繋ぐための線だ。


「趣味悪ぃな」


 ガルドが言う。


「仕事だ」


 男が答える。


「他人の体を道具にするのが?」


「使えるものを使うだけだ」


「そうかよ」


 ガルドの目が、はっきり冷えた。


「なら、お前も使えるものとして壊されても文句言うなよ」


 男が今度こそ殺気を出した。


 空気が変わる。


 その瞬間、別方向から轟音が響いた。


 アルヴェインの方だ。



 街道寄りでは、もう一つの核が動いていた。


 正確には、“動かしていた”。


 アルヴェインとカインが、同時に一人の女を追い詰めていた。


 女は白い布を顔に巻き、長い杖を持っていた。魔術師然とした格好ではない。むしろ旅の祈祷師みたいな風体だ。


 だが、その杖の先から伸びる糸が、木上と地面の両方に繋がっている。


 こいつが、駒を束ねる中心の一つだ。


「止まれ」


 アルヴェインが言う。


 静かな声だった。


「その言葉で止まるなら、こんなことはしてないわ」


 女が笑う。


 年齢が読みにくい声。若くも聞こえるし、妙に老けても聞こえる。


 杖を振る。


 地面の下から糸が跳ね上がる。蛇みたいにうねり、アルヴェインの足を絡め取ろうと伸びる。


 だがアルヴェインは後ろへ引かなかった。


 前へ出た。


 糸が絡む前に、その根元へ剣を振り下ろす。


 糸が弾ける。女の表情が初めて動いた。


「へえ」


「見えているなら話は早い」


 アルヴェインの動きは静かだ。


 派手さがない。


 だが、静かなまま速い。そこが厄介だった。


 女が杖を二度打つ。


 左右から駒が来る。アルヴェインはそちらを見ない。代わりにカインが潰す。


 役割が完全に決まっていた。


「勇者さまが、こんなところで下働き?」


 女がわざとらしく言う。


 アルヴェインの表情は変わらない。


「その呼び方をする相手は嫌いだ」


「光栄ね」


「違う」


 短い会話の間に距離が詰まる。


 女が後ろへ退く。


 だが、その退いた先にドーガがいた。斧ではなく、短い鉄棒を握っている。振り下ろすのではなく、道を塞ぐための構えだ。


「ちっ」


 女が横へ逃げる。


 その先にナナの投げた小石が飛んだ。狙いは頭ではない。足元。わずかに視線を逸らさせるため。


 十分だった。


 アルヴェインがさらに踏み込む。


 杖が剣を受ける。硬い。しかも、ただの木ではない。中に何か芯がある。


「良い杖ね」


 女が言う。


「悪い癖がついている」


 アルヴェインが返した。


 次の一撃で、杖の上半分が飛んだ。


 女の目が見開かれる。


「……っ!」


 そこで初めて、女が逃げではなく“全力の術”を使った。


 自分の周囲に、黒い札が一気に浮く。


 十枚。二十枚。もっとか。


 それが同時に散り、周囲の木に貼りつく。


 空気が震える。


「下がれ!」


 バルドレイの声が後方から飛ぶ。


 だが遅い。


 札が弾け、木立の中から一斉に駒が出てくる。


 四体。五体。いや、七体。


「増やしやがった!」


 カインが吐き捨てる。


「術場そのものに仕込んでおったか!」


 バルドレイが悔しそうに言う。


 アルヴェインは下がらなかった。


 むしろ、女へ向かってさらに踏み込んだ。


 駒が前に出るより早く、術者を潰す。


 それが最短だと判断したのだろう。


 女もそれを理解していた。口元だけで笑う。


「いい判断」


 次の瞬間、地面が割れた。


 いや、割れたように見えた。


 黒い糸が束になって跳ね上がり、アルヴェインの進路を遮る。一本なら切れる。十本なら面倒だ。二十本なら足が止まる。


 だがその足止めの一瞬だけで十分だった。


 女が距離を取る。


「しまっ――」


 カインが動くが、駒が道を塞ぐ。


 アルヴェインが糸を切り裂く。


 その頃には女は木立の向こうへ消えかけていた。


「逃がすかよ」


 そこに、ガルドの声が割って入った。


 別方向から、ほとんど木を飛び越えるような勢いで突っ込んできたのだ。


 追っていた男と、その後ろから。


「そっちも核か!」


 ガルドが叫ぶ。


「当たりだ!」


 アルヴェインが返す。


 これ以上ないほど短い情報共有だった。


 だが、それで十分だった。


 ガルドは自分を追っていた男ではなく、逃げる女を狙った。


 男が止めに入る。


 杭状の刃がガルドの脇腹を狙う。だがガルドはその刃をあえて受けた。浅く入る。血が滲む。だが、そこで止まらない。


 勢いごと体を捻り、男を肩で押し飛ばす。


「ガルド!」


 リオが叫ぶ。


「平気だ!」


 平気ではないと思うが、口調だけは平気だった。


 女が札を投げる。


 ガルドは避けない。


 避ければ女に距離を取られるからだ。


 札が肩と腕に当たる。黒い痕がつく。だが、そのまま突っ込む。


 剣が振り下ろされる。


 女は躱した。


 だが、その躱した先にアルヴェインがいた。


 静かに。ずっとそこを読んでいたように。


「終わりだ」


 アルヴェインの剣が、女の左肩から斜めに深く入った。


 完全に致命ではない。


 だが、術を保つには十分すぎる損傷だったらしい。


 女の目が大きく開く。


 その口から、初めて本気の声が漏れた。


「――頭領!」


 その一言で、空気が凍った。


 頭領。


 つまり、まだ上がいる。


 次の瞬間だった。


 森の奥、さらに深い場所から、何かが“来た”。


 音ではない。気配だ。


 それだけで分かる類の圧が、一気に空気を押した。


 駒が止まる。


 糸が一瞬だけ全部張る。


 木立の向こう、暗いところに、人影が立っていた。


 大きい。


 ただ背が高いというだけではない。そこにいるだけで周囲の木が少し狭く見えるような、妙な圧のある立ち方だ。


 顔は見えない。布でも仮面でもなく、そもそもこちらに見せる気がないみたいに、影が落ちている。


 だが、分かった。


 これが頭だ。


 術者たちが散らしていた嫌な気配の、中心にいる存在。


「……へえ」


 ガルドが言った。


 少しだけ口角が上がる。


「ようやく本命か」


 頭領は何も答えなかった。


 代わりに、ゆっくりと右手を上げる。


 その指の間に、何本もの糸が見えた。


 細く、黒く、湿ったような光を帯びた糸。


 それが、倒れかけていた女と、ガルドが押し飛ばした男と、周囲の駒全部に繋がっている。


「下がれ!」


 アルヴェインが言う。


 その声には、ここに来て初めて明確な強さがあった。


 だが遅い。


 頭領の手が握られる。


 次の瞬間、駒が全部――いや、女まで含めて――一斉に跳ねた。


 自壊を恐れない動き。


 限界を超えた速度。


「っ!」


 リオは最初の一体を受けるので精一杯だった。


 重い。速い。昨日までと違う。糸を引く距離が短いせいか、動きそのものの精度が上がっている。


「リオ、下がるな!」


 ガルドの声。


 だがガルド自身も押されていた。


 頭領の近くにいる駒は、もう半端な首狙いでは止まらない。筋肉が裂けても動く。骨が折れても向かってくる。


 カインが女を完全に落とそうと踏み込むが、その前に糸が女の体を吊るように持ち上げた。


 ありえない角度で動く。


「気持ち悪っ!」


 ナナが叫ぶ。


「気持ち悪いで済ますな!」


 ガルドが返す。


「でも気持ち悪い!」


 正しい。


 ドーガが一体を真横から叩き飛ばす。木に激突する。普通ならそれで終わる。だが起きる。


 アルヴェインの剣が二体の糸を切る。だが、頭領の指が動くたび、新しい流れが差し込まれる。


「核はあいつだ!」


 バルドレイが叫んだ。


「当たり前だ!」


 ガルドが怒鳴り返す。


「どう落とす!」


「糸を束ねておる指か胸元、どちらかじゃ!」


 見ろと言われても、そんな余裕はない。


 いや、無理にでも作るしかない。


 ガルドは一度大きく下がり、視線を上げた。


 頭領は動いていない。


 その場から、糸だけで戦場を回している。


 つまり、自分で出る必要がないと思っている。


 それは強さでもあり、慢心でもある。


「アル!」


 ガルドが叫ぶ。


 アルヴェインが一瞬でそちらを見る。


「右開けろ!」


「三秒」


「十分だ!」


 それだけだった。


 次の瞬間、アルヴェインが動いた。


 前に出るのではなく、横へ切り開くように動く。駒二体の糸を断ち、カインがそこへ斬り込み、ドーガが木を一本倒す。


 視界が開く。


 その一瞬の“道”へ、ガルドが飛び込んだ。


 真っ直ぐ頭領へ。


 頭領が初めて明確に反応した。


 指が動く。駒が三体、壁のように割り込む。


「邪魔だ!」


 ガルドは止まらない。


 最初の一体の首を短剣で穿ち、二体目の肩を踏み台にして跳ぶ。三体目の腕が伸びる。そこへリオが横から斬り込み、僅かにずらす。


 その一瞬で十分だった。


「行け!」


 リオが叫ぶ。


 ガルドは振り返らない。


 頭領との距離はあと数歩。


 だが、頭領はここでようやく自分も動いた。


 遅い。


 重い。


 だが、その一歩で地面の糸が全部引き締まる。


 まるで森そのものを手にしているみたいだった。


「遅えよ」


 ガルドが言う。


 頭領の腕が振り下ろされる。


 糸ではない。短い刃だ。金属ではない。骨か、何かを削ったような色。


 それをガルドは正面から受けなかった。


 半身で外しながら、相手の懐へさらに入る。


 近い。


 頭領の胸元に、糸が集まっていた。


 服の下で、何かが脈打つみたいに光っている。


「そこか!」


 剣を振るう。


 だがその瞬間、頭領の指が弾かれた。


 銀の釘。


 アルヴェインが後方から投げたそれが、頭領の右手に刺さっていた。


 ほんの一瞬、糸が止まる。


 十分だ。


 ガルドの剣が胸元を深く裂いた。


 黒い糸の束が断たれる。


 空気が、切れた。


 それは本当にそう感じた。


 張り詰めていた何かが、一気に緩む。


 駒の動きが止まる。


 女が地面に落ちる。


 木々の間に張っていた見えない圧も、ふっと消えた。


 だが、頭領は終わらなかった。


 胸元を裂かれたまま、一歩引く。


 その目が初めて見えた。


 男だった。


 年は分からない。若くも老いても見えない顔。だが、その目だけが異様に澄んでいた。


「……なるほど」


 低い声がした。


 初めて、はっきりと。


「そういう使い方をするか」


「何の話だ」


 ガルドが言う。


「勇者を、“後ろ”に置く使い方だ」


 頭領の視線がアルヴェインへ向く。


 次に、リオへ。


 ドーガへ。カインへ。セリアへ。


 全員を、順番に一瞬で見た。


「面白い」


 その言葉が終わるより早く、アルヴェインが前へ出ていた。


 無駄がない。


 ガルドが切り開いた距離を、そのまま最短で詰める。


「喋るな」


 静かな声だった。


「聞く価値がない」


 頭領が笑ったように見えた。


 刃が交わる。


 一撃で分かった。


 強い。


 術だけの相手ではない。頭領自身も前で戦える。だからこそ、さっきまで出てこなかったのだ。出なくても勝てると思っていたから。


 アルヴェインは踏み込みを変えない。


 正確に、同じ温度で斬り続ける。


 頭領は重い。アルヴェインは静かに速い。


 噛み合っていないようで、どちらも一歩も引かない。


「アル!」


 ガルドが言う。


「一瞬作れ!」


「作る!」


 アルヴェインが答える。


 珍しく、声に熱が乗った。


 次の三合で流れが変わった。


 頭領が上段から振り下ろす。アルヴェインは受けずに内へ入る。頭領が肘で止める。そこへアルヴェインは剣を離すように見せて、柄で顎を打つ。


 初めて頭領の首が上がる。


「今だ!」


 その一瞬へ、ガルドが横から入った。


 迷いのない、横薙ぎ。


 頭領は避ける。


 避ける方向を、最初から読んでいたように、アルヴェインの剣が待っていた。


 交差する二つの刃。


 遅れて頭領の体が止まる。


 胸から脇へ走る深い裂傷。首元にも浅くない傷。


 それでも、なお倒れない。


「しぶといな」


 ガルドが言う。


「こういうのはな」


 頭領が息を吐いた。


「途中で死ぬと、全部軽く見える」


 次の瞬間、頭領自身が自分の胸元へ手を突っ込んだ。


 リオが何をされたのか理解する前に、バルドレイが怒鳴った。


「離れろ!」


 全員が反射で飛び退く。


 頭領の胸の中から、糸の塊みたいな黒い核が引きずり出された。


 脈打つ。気持ち悪いほど生きている。


「やめろ!」


 ガルドが叫ぶ。


「これ以上街の近くで暴れさせる気はない」


 頭領が笑った。


 その笑いは、自分の敗北を認めた人間のものではなかった。


 むしろ、ここからが本命だと言いたげな笑い方だった。


 だが、その前に、銀の光が走った。


 アルヴェインが二本目の銀釘を投げていた。


 黒い核へ刺さる。


 脈動が止まる。


 ほんの一瞬。


 その一瞬へ、ガルドが踏み込んだ。


 剣ではない。


 短剣だ。


 核そのものへ、叩き込むように突き立てる。


 黒い塊が裂ける。


 嫌な音ではなく、むしろ湿った布が破れるような、妙に現実的な音がした。


 頭領の目から、光が一つ落ちる。


 体がぐらりと傾く。


 今度こそ終わりだと、誰もが分かった。


 だからこそ、最後の言葉がやけにはっきり聞こえた。


「……次は、もっと近くで」


 そのまま倒れた。


 今度は動かなかった。


 糸も、駒も、全部止まった。


 森の中に、本物の静けさが戻る。


 さっきまでの異常な無音とは違う、ただの朝の終わりみたいな静けさだった。


 誰もすぐには動かなかった。


 終わったかどうかを、誰もが自分の感覚で確認していたのだと思う。


 最初に動いたのはバルドレイだった。


 息を切らせながら近づき、頭領の胸元と、裂けた黒い核の残骸を確認する。


「……切れておる」


 それだけ言った。


「完全にじゃな」


 アルヴェインが剣についた黒いものを払う。


 ガルドは少しだけその場に立ったまま、頭領を見下ろしていた。


「ガルドさん」


 リオが声をかける。


「なんだ」


「怪我」


「ああ」


 脇腹のところ。さっき受けた刃の傷が、思ったより深い。


「あとででいい」


「だめです」


 セリアがもう来ていた。


「今です」


 反論の余地がなかった。


 ガルドは仕方なさそうに腕を広げた。


「面倒だな」


「生きて帰った後くらい、素直にしてください」


「それ、今日一番効くな」


 ガルドは少しだけ笑った。


 セリアは傷を見て眉を寄せたが、手は迷わなかった。


 リオはようやく息を深く吐いた。


 自分の肩も腕も重い。汗で服が張りついている。手のひらが少し痺れている。


 それでも、今は立っている。


 アルヴェインが地図の代わりに周囲を見た。


「残りを確認する」


 短い声。


 カインとドーガがすぐに動く。


 ナナは札や糸の残りを迂回しながら、使えそうな情報だけ拾っている。こういう時の動きが本当に早い。


「青い布、こいつらで統一されてる」


 ナナが言う。


「あと、街の方へ抜けるための印もある。まだ小さいけど、もっと時間あったら広げるつもりだったかも」


「間に合ったってことか」


 リオが言う。


「そういうことだな」


 カインが戻りながら言った。


「少なくとも、今日の時点では」


 バルドレイは黒い核の欠片を布に包み、直接触れないようにして回収していた。


「こやつは学園で見よう」


「危なくないですか」


 リオが聞く。


「危ないに決まっとる」


「じゃあなんで持って帰るんですか」


「見なければ次に繋がらん」


 それも正しかった。


 ガルドの傷の処置が終わる頃には、森の中の空気もずいぶん薄くなっていた。


 嫌な圧が消えたせいだろう。


 戻り始めた虫の音が、さっきよりよほど大きく聞こえる。


 誰かが“終わった”と言わなくても、それで十分だった。



 街へ戻る道で、最初に喋ったのはナナだった。


「ねえ」


「なんだ」


 ガルドが答える。


「今日のあれ、最後の見せ場、ちょっとずるくない?」


「何がだ」


「勇者が一瞬作って、おっさんが決める流れ」


「見てたのか」


「見えるとこだけ」


 ナナは少しだけ笑う。


「絵になるじゃない」


 アルヴェインは聞こえているはずなのに何も言わなかった。


 ガルドは鼻を鳴らした。


「たまたまだ」


「そういうことにしとくわ」


 リオはそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 カインは相変わらず前を見たままだったが、その歩幅はさっきまでよりわずかに緩んでいる。ドーガも言葉はないが、斧を肩に担ぎ直した時の音が、戦闘の最中よりずっと雑だった。


 それで十分だ。


 街門が見えた時、門番の控えが二人ほどこちらを見て姿勢を正した。


 中に知らせが回る。


 それだけで、全部説明しなくても伝わる種類の空気がある。


 東門の内側では、ミレナがもう待っていた。


 走ってくるわけではない。

 叫びもしない。

 ただ、その場で立っている。


 それが逆に、この人なりにどれだけ気を張っていたかをよく表していた。


 近づいてくる顔ぶれを、一人ずつ見る。

 数を数えるみたいに、でも確認だけで済ませない目で。


「……どうでした」


 声だけはいつも通りだった。


 アルヴェインが短く答える。


「潰した」


 ミレナはそこで、やっと一度だけ肩から力を抜いた。


「そうですか」


 それ以上、何か言うまでに少し時間がかかった。


「報告、あとでまとめます」


「ああ」


「怪我は」


「軽いのが少し」


 セリアが答える。


「すぐ見ます」


 ミレナは頷いた。


 ナナが横を通りながら、小さく言う。


「東の道、当分は閉じたままでいいと思う」


「分かった」


 ミレナはもうその先を聞かなかった。


 必要なことは後で聞ける。今はそれより先にやることがあると分かっている顔だった。


 ギルドの扉を開ける。


 中の空気は、朝出た時と同じ場所のはずなのに、少し違っていた。


 大騒ぎは起きない。

 誰も勝手に拍手もしない。

 酒場側から「おかえり」と軽く声が飛ぶくらいで、それ以上はない。


 だがその軽さが、かえって助かった。


 テーブルの上には、いつの間にか水差しと布が増えていた。

 治療棟の方からは、セリアの手が足りない時用だろう、リリカが無言で道具箱を持って出てきて、何も聞かずに並べていく。

 ロッドは壁際にいて、戻ってきた剣を一本ずつ見て、何も言わずに受け取っていった。

 ナナが酒場の奥へ戻る途中で、途中までしか焼けていない串を皿ごと置いていく。

 誰が食べるとも言っていないのに、そこに置いてある。


 そういう、余計な言葉のない動きだけで十分だった。


 リオは椅子に腰を下ろした瞬間、やっと自分の足が思ったより疲れていたことに気づいた。


「立てますか?」


 セリアが聞く。


「今は立ちたくないです」


 正直に答えると、セリアが少しだけ笑った。


「いい答えです」


 バルドレイは黒い布包みを抱えたまま、エルミナへの使いを頼む声をミレナにかけていた。


 アルヴェインはそれを横で聞きながら、さっきまで振るっていた剣を自分で布に包んでいる。いつもの勇者然とした雰囲気ではなく、ただ仕事を終えた男みたいな手つきだった。


 ガルドは処置を終えて、まだ座っていた。


 串の皿を見て、少しだけ眉を上げる。


「誰のだ」


「さあ」


 ナナが酒場の方から言う。


「たまたま余ったんじゃない?」


「たまたまな」


 ガルドはそう言って一本取った。


 食べる。


 少し噛む。


「冷めてんな」


「文句言うなら返して」


「うるせえ」


 そのやり取りで、ようやく本当に戻ってきた感じがした。


 リオも水を飲む。


 喉が渇いていたことに、その時やっと気づいた。


 視線を上げると、ミレナがまだ帳簿の前に立っていた。


 だが手は動いていない。

 何を書くべきか整理しているのだろう。

 その横で、カインが簡潔に必要事項だけを口にしている。

 ドーガは門へ戻る前に一度だけこちらを見て、何も言わずに頷いた。

 ユーンはいつの間にか入口近くまで来ていて、「運ぶもの、ありますか」といつも通りの声で聞いて、全員から同時に「今日はない」と返されて少しだけしょんぼりしていた。


 アルヴェインがふとガルドを見る。


「次は、もう少し早く呼べ」


 短い言葉だった。


 ガルドは串を持ったまま答える。


「嫌だね」


「なぜだ」


「お前、来ると話がでかくなる」


「お前一人でも十分大きくなっていた」


「それは否定できねえな」


 その会話を聞いて、リオは少しだけ笑った。


 自分でも意外なほど、素直に笑えた。


 ガルドがその気配に気づいてちらりと見る。


「なんだ」


「いえ」


 リオは首を振った。


「ちょっとだけ、終わったなって」


 言ってから、少しだけ後悔した。


 口に出すと、妙に軽くなる気がしたからだ。


 だがガルドは特に何も言わず、代わりに串をもう一本取った。


 アルヴェインも何も言わない。

 ただ、さっきまでずっと張っていた肩の線だけが、ほんの少し緩んでいた。


 酒場の奥で、ナナが誰かに「だから派手なのはいらないのよ」と話している声がする。

 治療棟ではリリカが「これ、軽い火傷って言うにはギリギリなんだけど」とぼやきながら薬を出している。

 ミレナの羽ペンがようやく動き始める。

 外では門の木が風に鳴る。

 虫の音が、街の中まで少しだけ届いていた。


 それで十分だった。

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