■第40話 後編「首を斬っても終わらないなら、糸を引いてる手を斬るしかない」
夜明け前の空気というのは、どこか鈍い。
冷えているのに輪郭が柔らかくて、世界全体がまだ完全には目を覚ましていない感じがある。
だからこそ、戦いの前にはちょうどいいのかもしれない、とリオは思った。
頭が冴えすぎても良くない。妙に感情が立ちすぎても、体が先走る。
冷えていて、静かで、でも確実に朝へ向かっている。
そういう時間の方が、嫌なことをやるには向いている。
東門の前に集まった時、誰もいらない言葉は口にしなかった。
準備は終わっている。
剣は見た。油も引いた。札も持った。毒煙への対策として布も湿らせた。役割も前日に決めた通りだ。
だからもう、話すことは少ない。
アルヴェインは門の前で地図を広げることもしなかった。昨日、もう十分見たからだ。
「行くぞ」
それだけだった。
声は低くも高くもない。命令というより、確認に近い。
それでも、全員が同じタイミングで動いた。
ガルドが一番前に出る。
その少し後ろにリオ。
セリアはさらに半歩下がる。
右へカイン。
左寄りにドーガ。
ナナは木立の線が見える距離を保ち、アルヴェインは全体の少し後ろで、誰が崩れても拾える位置を歩いた。
昨日より人数は少し増えていた。
増援というほど大げさではない。
ロッドが武器の最終確認のために一緒に門まで来ていて、そこで無言のままガルドに短い剣を一本、リオに細身の予備短剣を渡した。
「硬いのに噛ませろ」
それだけ言って、戻っていった。
バルドレイは東門のところまで出てきて、札の追加と、小さな銀の釘みたいなものを三本、アルヴェインへ渡した。
「術の核が見つかったら、こいつを打ち込め。上手く入れば、流れが一瞬止まる」
「一瞬か」
「一瞬じゃ。じゃが、十分な一瞬でもある」
アルヴェインはそれを受け取り、何も言わず懐に入れた。
ミレナは最後まで何か言いたそうな顔をしていたが、結局「無茶しないでください」としか言わなかった。
たぶん、それしか言いようがなかったのだろう。
無茶をしないで済む相手なら、そもそもこんな朝に出る必要がない。
⸻
旧街道は、昨日より静かだった。
静かというより、息を潜めている感じがした。
鳥がいない。虫もいない。風だけが葉の先を撫でていく。
その風すら、どこか遠い。
「昨日より嫌だな」
ガルドがぼそりと言った。
「濃いですか」
リオが聞く。
「いや」
ガルドは少しだけ考えてから答えた。
「濃いってより、向こうが待ってる感じが強い」
「歓迎されてるってことですか」
「最悪の歓迎だな」
カインが短く言った。
アルヴェインは何も言わない。
だが視線の動きが細かい。木立の上、地面の起伏、道端の石、昨日はなかった小さな傷まで見ているようだった。
休憩所が見えてくる。
昨日と同じ場所。
だが、違うところもある。
「……あれ」
セリアが小さく言った。
井戸の脇に、小さな花束が置いてあった。
野の花を雑に束ねたようなものだ。子どもが供えたようにも見えるし、誰かが慌てて置いたようにも見える。
「なんだそりゃ」
ガルドが言う。
「供物か?」
「違うと思いたいですね」
リオが言う。
だが、その見た目の素朴さが逆に嫌だった。
誰かがここで死んだと知っていて、誰かが置いたのかもしれない。
あるいは、向こう側がこちらを試して置いたのかもしれない。
「触るな」
アルヴェインが初めて口を開いた。
「そのままにしておけ」
全員が頷いた。
たぶん、誰も触りたくなかった。
そのまま休憩所の裏へ回る。
昨日、最初の駒が飛び出してきた場所。
そこに、今日は最初から立っているものがあった。
木だ。
いや、木に見せかけた杭だ。
地面に深く打ち込まれ、先端に黒い布が巻いてある。人が片腕を広げたくらいの高さで、周囲の木立にまぎれるように立っていた。
「術場の目印だな」
バルドレイの言葉を思い出す前に、ガルドが言った。
「分かるんですか」
リオが聞く。
「分かるっていうか、こういうのは見たことある」
「どこで」
「嫌なとこで」
それで十分だった。
ドーガが近づきかける。
「待て」
アルヴェインが止めた。
「昨日の銀釘」
「ああ」
ガルドが手を出す。
「俺がやる」
「俺がやる」
アルヴェインが静かに言う。
一瞬だけ、ガルドがそちらを見る。
ほんの少し間があってから、肩をすくめた。
「好きにしろ」
アルヴェインは杭の真正面には立たなかった。半身で少しずれた位置に立ち、銀釘を指に挟むように持って、躊躇なく打ち込んだ。
カン、と乾いた音がして、次の瞬間、空気が震えた。
見えない膜みたいなものが一瞬だけ波打ち、地面を這うように広がって、木立の奥へ逃げていく。
「今のだ!」
ナナが叫ぶ。
「左奥、二本! 右手前に一本!」
見えない線が一瞬だけ見えたのだろう。ナナの指差す先に、ガルドとカインの視線が同時に走る。
「ドーガ、右!」
「了解」
「リオ、左、俺と来い!」
もう考える暇はなかった。
ガルドが走る。リオも続く。
木立の奥、低い場所だ。昨日と同じように、木の上からではなく、今日は下に潜っているらしい。
枝を払い、幹を回り込んだ先に、黒い布を巻いた人影がいた。
昨日の“駒”ではない。立ち方が違う。目も合う。反応も速い。
「見つけたか」
男が低く言った。
顔の半分は布で隠れている。年齢は読めない。声も抑えられていて、印象が薄い。
だが、薄いくせに存在感がある。嫌な存在感だ。
「お前が一人か」
ガルドが言う。
「さあな」
男の両手に、細い杭みたいな短剣が握られていた。普通の剣じゃない。刺すために特化した形だ。
「返事が気持ち悪いな」
「褒め言葉か?」
「最悪の方だ」
次の瞬間、男が消えたように見えた。
実際には低く回り込んだだけだが、速い。
リオの脇を狙ってくる。咄嗟に短剣を抜き、弾く。軽い。力より速さだ。
「リオ、下がるな!」
ガルドが踏み込む。
剣は抜かない。短剣だけで距離を詰める。
相手の杭状の刃を二度、三度と擦らせるように受け、そのたびに少しずつ位置をずらしていく。
見ていて分かった。
斬る気ではなく、噛み合う場所を探している。
「……そこか」
ガルドが笑った。
嫌な時の笑いだ。
次の一手で、相手の右手首を叩くように払う。男がそれを避ける。その避けた先に、最初から左の短剣が置かれていた。
布が裂ける音。
相手の袖口が切れる。
そして、その下から細い糸が何本も覗いた。
「やっぱり自分で繋いでんじゃねえか」
ガルドが言う。
男の目が初めて少しだけ変わった。
「見たか」
「見たよ」
ガルドの声が低くなる。
「お前、ただ操ってるだけじゃなくて、自分が中継点だろ」
つまりこいつは、術者の末端ではない。糸を配る側だ。
頭領ではないかもしれないが、核に近い。
「リオ」
「はい!」
「そいつ切っても終わらねえ。糸を見ろ」
その意味を理解するより早く、男が引いた。
後ろへではない。木に乗るように、斜めへ飛ぶ。
「逃がすな!」
リオが追う。
ガルドも追う。
だがその瞬間、別方向から駒が二体飛び出してくる。足止めだ。
「邪魔だ!」
ガルドが吐き捨てるように言って、片方の顔面へ蹴りを入れた。人間にはやりたくない蹴り方だ。だがもう躊躇はなかった。
リオも首を狙う。昨日より剣が迷わない。
止まる。
その間に男は距離を取る――かと思ったが、今度は自分から踏み込んできた。
「っ!」
ガルドへ一直線。
杭状の刃が喉を狙う。
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも無駄がない。
ガルドはその一撃を半身で避ける。だが避けながら、逆に相手の肩に体をぶつけた。
密着に近い距離になる。
普通なら短剣向きではない距離だ。
だがガルドはそこで、短剣ではなく肘を使った。相手の顎を打ち上げる。
男の頭が僅かに跳ねる。
その一瞬の隙に、ガルドの剣が抜かれていた。
速い。
抜いた瞬間にはもう横へ走っている。
男は後ろに跳んで避ける。だが完全には避けきれない。胸元の布が深く裂けた。
その下にも糸がある。
皮膚に埋め込まれているわけではない。服の内側を通し、体表に沿わせている。術式を繋ぐための線だ。
「趣味悪ぃな」
ガルドが言う。
「仕事だ」
男が答える。
「他人の体を道具にするのが?」
「使えるものを使うだけだ」
「そうかよ」
ガルドの目が、はっきり冷えた。
「なら、お前も使えるものとして壊されても文句言うなよ」
男が今度こそ殺気を出した。
空気が変わる。
その瞬間、別方向から轟音が響いた。
アルヴェインの方だ。
⸻
街道寄りでは、もう一つの核が動いていた。
正確には、“動かしていた”。
アルヴェインとカインが、同時に一人の女を追い詰めていた。
女は白い布を顔に巻き、長い杖を持っていた。魔術師然とした格好ではない。むしろ旅の祈祷師みたいな風体だ。
だが、その杖の先から伸びる糸が、木上と地面の両方に繋がっている。
こいつが、駒を束ねる中心の一つだ。
「止まれ」
アルヴェインが言う。
静かな声だった。
「その言葉で止まるなら、こんなことはしてないわ」
女が笑う。
年齢が読みにくい声。若くも聞こえるし、妙に老けても聞こえる。
杖を振る。
地面の下から糸が跳ね上がる。蛇みたいにうねり、アルヴェインの足を絡め取ろうと伸びる。
だがアルヴェインは後ろへ引かなかった。
前へ出た。
糸が絡む前に、その根元へ剣を振り下ろす。
糸が弾ける。女の表情が初めて動いた。
「へえ」
「見えているなら話は早い」
アルヴェインの動きは静かだ。
派手さがない。
だが、静かなまま速い。そこが厄介だった。
女が杖を二度打つ。
左右から駒が来る。アルヴェインはそちらを見ない。代わりにカインが潰す。
役割が完全に決まっていた。
「勇者さまが、こんなところで下働き?」
女がわざとらしく言う。
アルヴェインの表情は変わらない。
「その呼び方をする相手は嫌いだ」
「光栄ね」
「違う」
短い会話の間に距離が詰まる。
女が後ろへ退く。
だが、その退いた先にドーガがいた。斧ではなく、短い鉄棒を握っている。振り下ろすのではなく、道を塞ぐための構えだ。
「ちっ」
女が横へ逃げる。
その先にナナの投げた小石が飛んだ。狙いは頭ではない。足元。わずかに視線を逸らさせるため。
十分だった。
アルヴェインがさらに踏み込む。
杖が剣を受ける。硬い。しかも、ただの木ではない。中に何か芯がある。
「良い杖ね」
女が言う。
「悪い癖がついている」
アルヴェインが返した。
次の一撃で、杖の上半分が飛んだ。
女の目が見開かれる。
「……っ!」
そこで初めて、女が逃げではなく“全力の術”を使った。
自分の周囲に、黒い札が一気に浮く。
十枚。二十枚。もっとか。
それが同時に散り、周囲の木に貼りつく。
空気が震える。
「下がれ!」
バルドレイの声が後方から飛ぶ。
だが遅い。
札が弾け、木立の中から一斉に駒が出てくる。
四体。五体。いや、七体。
「増やしやがった!」
カインが吐き捨てる。
「術場そのものに仕込んでおったか!」
バルドレイが悔しそうに言う。
アルヴェインは下がらなかった。
むしろ、女へ向かってさらに踏み込んだ。
駒が前に出るより早く、術者を潰す。
それが最短だと判断したのだろう。
女もそれを理解していた。口元だけで笑う。
「いい判断」
次の瞬間、地面が割れた。
いや、割れたように見えた。
黒い糸が束になって跳ね上がり、アルヴェインの進路を遮る。一本なら切れる。十本なら面倒だ。二十本なら足が止まる。
だがその足止めの一瞬だけで十分だった。
女が距離を取る。
「しまっ――」
カインが動くが、駒が道を塞ぐ。
アルヴェインが糸を切り裂く。
その頃には女は木立の向こうへ消えかけていた。
「逃がすかよ」
そこに、ガルドの声が割って入った。
別方向から、ほとんど木を飛び越えるような勢いで突っ込んできたのだ。
追っていた男と、その後ろから。
「そっちも核か!」
ガルドが叫ぶ。
「当たりだ!」
アルヴェインが返す。
これ以上ないほど短い情報共有だった。
だが、それで十分だった。
ガルドは自分を追っていた男ではなく、逃げる女を狙った。
男が止めに入る。
杭状の刃がガルドの脇腹を狙う。だがガルドはその刃をあえて受けた。浅く入る。血が滲む。だが、そこで止まらない。
勢いごと体を捻り、男を肩で押し飛ばす。
「ガルド!」
リオが叫ぶ。
「平気だ!」
平気ではないと思うが、口調だけは平気だった。
女が札を投げる。
ガルドは避けない。
避ければ女に距離を取られるからだ。
札が肩と腕に当たる。黒い痕がつく。だが、そのまま突っ込む。
剣が振り下ろされる。
女は躱した。
だが、その躱した先にアルヴェインがいた。
静かに。ずっとそこを読んでいたように。
「終わりだ」
アルヴェインの剣が、女の左肩から斜めに深く入った。
完全に致命ではない。
だが、術を保つには十分すぎる損傷だったらしい。
女の目が大きく開く。
その口から、初めて本気の声が漏れた。
「――頭領!」
その一言で、空気が凍った。
頭領。
つまり、まだ上がいる。
次の瞬間だった。
森の奥、さらに深い場所から、何かが“来た”。
音ではない。気配だ。
それだけで分かる類の圧が、一気に空気を押した。
駒が止まる。
糸が一瞬だけ全部張る。
木立の向こう、暗いところに、人影が立っていた。
大きい。
ただ背が高いというだけではない。そこにいるだけで周囲の木が少し狭く見えるような、妙な圧のある立ち方だ。
顔は見えない。布でも仮面でもなく、そもそもこちらに見せる気がないみたいに、影が落ちている。
だが、分かった。
これが頭だ。
術者たちが散らしていた嫌な気配の、中心にいる存在。
「……へえ」
ガルドが言った。
少しだけ口角が上がる。
「ようやく本命か」
頭領は何も答えなかった。
代わりに、ゆっくりと右手を上げる。
その指の間に、何本もの糸が見えた。
細く、黒く、湿ったような光を帯びた糸。
それが、倒れかけていた女と、ガルドが押し飛ばした男と、周囲の駒全部に繋がっている。
「下がれ!」
アルヴェインが言う。
その声には、ここに来て初めて明確な強さがあった。
だが遅い。
頭領の手が握られる。
次の瞬間、駒が全部――いや、女まで含めて――一斉に跳ねた。
自壊を恐れない動き。
限界を超えた速度。
「っ!」
リオは最初の一体を受けるので精一杯だった。
重い。速い。昨日までと違う。糸を引く距離が短いせいか、動きそのものの精度が上がっている。
「リオ、下がるな!」
ガルドの声。
だがガルド自身も押されていた。
頭領の近くにいる駒は、もう半端な首狙いでは止まらない。筋肉が裂けても動く。骨が折れても向かってくる。
カインが女を完全に落とそうと踏み込むが、その前に糸が女の体を吊るように持ち上げた。
ありえない角度で動く。
「気持ち悪っ!」
ナナが叫ぶ。
「気持ち悪いで済ますな!」
ガルドが返す。
「でも気持ち悪い!」
正しい。
ドーガが一体を真横から叩き飛ばす。木に激突する。普通ならそれで終わる。だが起きる。
アルヴェインの剣が二体の糸を切る。だが、頭領の指が動くたび、新しい流れが差し込まれる。
「核はあいつだ!」
バルドレイが叫んだ。
「当たり前だ!」
ガルドが怒鳴り返す。
「どう落とす!」
「糸を束ねておる指か胸元、どちらかじゃ!」
見ろと言われても、そんな余裕はない。
いや、無理にでも作るしかない。
ガルドは一度大きく下がり、視線を上げた。
頭領は動いていない。
その場から、糸だけで戦場を回している。
つまり、自分で出る必要がないと思っている。
それは強さでもあり、慢心でもある。
「アル!」
ガルドが叫ぶ。
アルヴェインが一瞬でそちらを見る。
「右開けろ!」
「三秒」
「十分だ!」
それだけだった。
次の瞬間、アルヴェインが動いた。
前に出るのではなく、横へ切り開くように動く。駒二体の糸を断ち、カインがそこへ斬り込み、ドーガが木を一本倒す。
視界が開く。
その一瞬の“道”へ、ガルドが飛び込んだ。
真っ直ぐ頭領へ。
頭領が初めて明確に反応した。
指が動く。駒が三体、壁のように割り込む。
「邪魔だ!」
ガルドは止まらない。
最初の一体の首を短剣で穿ち、二体目の肩を踏み台にして跳ぶ。三体目の腕が伸びる。そこへリオが横から斬り込み、僅かにずらす。
その一瞬で十分だった。
「行け!」
リオが叫ぶ。
ガルドは振り返らない。
頭領との距離はあと数歩。
だが、頭領はここでようやく自分も動いた。
遅い。
重い。
だが、その一歩で地面の糸が全部引き締まる。
まるで森そのものを手にしているみたいだった。
「遅えよ」
ガルドが言う。
頭領の腕が振り下ろされる。
糸ではない。短い刃だ。金属ではない。骨か、何かを削ったような色。
それをガルドは正面から受けなかった。
半身で外しながら、相手の懐へさらに入る。
近い。
頭領の胸元に、糸が集まっていた。
服の下で、何かが脈打つみたいに光っている。
「そこか!」
剣を振るう。
だがその瞬間、頭領の指が弾かれた。
銀の釘。
アルヴェインが後方から投げたそれが、頭領の右手に刺さっていた。
ほんの一瞬、糸が止まる。
十分だ。
ガルドの剣が胸元を深く裂いた。
黒い糸の束が断たれる。
空気が、切れた。
それは本当にそう感じた。
張り詰めていた何かが、一気に緩む。
駒の動きが止まる。
女が地面に落ちる。
木々の間に張っていた見えない圧も、ふっと消えた。
だが、頭領は終わらなかった。
胸元を裂かれたまま、一歩引く。
その目が初めて見えた。
男だった。
年は分からない。若くも老いても見えない顔。だが、その目だけが異様に澄んでいた。
「……なるほど」
低い声がした。
初めて、はっきりと。
「そういう使い方をするか」
「何の話だ」
ガルドが言う。
「勇者を、“後ろ”に置く使い方だ」
頭領の視線がアルヴェインへ向く。
次に、リオへ。
ドーガへ。カインへ。セリアへ。
全員を、順番に一瞬で見た。
「面白い」
その言葉が終わるより早く、アルヴェインが前へ出ていた。
無駄がない。
ガルドが切り開いた距離を、そのまま最短で詰める。
「喋るな」
静かな声だった。
「聞く価値がない」
頭領が笑ったように見えた。
刃が交わる。
一撃で分かった。
強い。
術だけの相手ではない。頭領自身も前で戦える。だからこそ、さっきまで出てこなかったのだ。出なくても勝てると思っていたから。
アルヴェインは踏み込みを変えない。
正確に、同じ温度で斬り続ける。
頭領は重い。アルヴェインは静かに速い。
噛み合っていないようで、どちらも一歩も引かない。
「アル!」
ガルドが言う。
「一瞬作れ!」
「作る!」
アルヴェインが答える。
珍しく、声に熱が乗った。
次の三合で流れが変わった。
頭領が上段から振り下ろす。アルヴェインは受けずに内へ入る。頭領が肘で止める。そこへアルヴェインは剣を離すように見せて、柄で顎を打つ。
初めて頭領の首が上がる。
「今だ!」
その一瞬へ、ガルドが横から入った。
迷いのない、横薙ぎ。
頭領は避ける。
避ける方向を、最初から読んでいたように、アルヴェインの剣が待っていた。
交差する二つの刃。
遅れて頭領の体が止まる。
胸から脇へ走る深い裂傷。首元にも浅くない傷。
それでも、なお倒れない。
「しぶといな」
ガルドが言う。
「こういうのはな」
頭領が息を吐いた。
「途中で死ぬと、全部軽く見える」
次の瞬間、頭領自身が自分の胸元へ手を突っ込んだ。
リオが何をされたのか理解する前に、バルドレイが怒鳴った。
「離れろ!」
全員が反射で飛び退く。
頭領の胸の中から、糸の塊みたいな黒い核が引きずり出された。
脈打つ。気持ち悪いほど生きている。
「やめろ!」
ガルドが叫ぶ。
「これ以上街の近くで暴れさせる気はない」
頭領が笑った。
その笑いは、自分の敗北を認めた人間のものではなかった。
むしろ、ここからが本命だと言いたげな笑い方だった。
だが、その前に、銀の光が走った。
アルヴェインが二本目の銀釘を投げていた。
黒い核へ刺さる。
脈動が止まる。
ほんの一瞬。
その一瞬へ、ガルドが踏み込んだ。
剣ではない。
短剣だ。
核そのものへ、叩き込むように突き立てる。
黒い塊が裂ける。
嫌な音ではなく、むしろ湿った布が破れるような、妙に現実的な音がした。
頭領の目から、光が一つ落ちる。
体がぐらりと傾く。
今度こそ終わりだと、誰もが分かった。
だからこそ、最後の言葉がやけにはっきり聞こえた。
「……次は、もっと近くで」
そのまま倒れた。
今度は動かなかった。
糸も、駒も、全部止まった。
森の中に、本物の静けさが戻る。
さっきまでの異常な無音とは違う、ただの朝の終わりみたいな静けさだった。
誰もすぐには動かなかった。
終わったかどうかを、誰もが自分の感覚で確認していたのだと思う。
最初に動いたのはバルドレイだった。
息を切らせながら近づき、頭領の胸元と、裂けた黒い核の残骸を確認する。
「……切れておる」
それだけ言った。
「完全にじゃな」
アルヴェインが剣についた黒いものを払う。
ガルドは少しだけその場に立ったまま、頭領を見下ろしていた。
「ガルドさん」
リオが声をかける。
「なんだ」
「怪我」
「ああ」
脇腹のところ。さっき受けた刃の傷が、思ったより深い。
「あとででいい」
「だめです」
セリアがもう来ていた。
「今です」
反論の余地がなかった。
ガルドは仕方なさそうに腕を広げた。
「面倒だな」
「生きて帰った後くらい、素直にしてください」
「それ、今日一番効くな」
ガルドは少しだけ笑った。
セリアは傷を見て眉を寄せたが、手は迷わなかった。
リオはようやく息を深く吐いた。
自分の肩も腕も重い。汗で服が張りついている。手のひらが少し痺れている。
それでも、今は立っている。
アルヴェインが地図の代わりに周囲を見た。
「残りを確認する」
短い声。
カインとドーガがすぐに動く。
ナナは札や糸の残りを迂回しながら、使えそうな情報だけ拾っている。こういう時の動きが本当に早い。
「青い布、こいつらで統一されてる」
ナナが言う。
「あと、街の方へ抜けるための印もある。まだ小さいけど、もっと時間あったら広げるつもりだったかも」
「間に合ったってことか」
リオが言う。
「そういうことだな」
カインが戻りながら言った。
「少なくとも、今日の時点では」
バルドレイは黒い核の欠片を布に包み、直接触れないようにして回収していた。
「こやつは学園で見よう」
「危なくないですか」
リオが聞く。
「危ないに決まっとる」
「じゃあなんで持って帰るんですか」
「見なければ次に繋がらん」
それも正しかった。
ガルドの傷の処置が終わる頃には、森の中の空気もずいぶん薄くなっていた。
嫌な圧が消えたせいだろう。
戻り始めた虫の音が、さっきよりよほど大きく聞こえる。
誰かが“終わった”と言わなくても、それで十分だった。
⸻
街へ戻る道で、最初に喋ったのはナナだった。
「ねえ」
「なんだ」
ガルドが答える。
「今日のあれ、最後の見せ場、ちょっとずるくない?」
「何がだ」
「勇者が一瞬作って、おっさんが決める流れ」
「見てたのか」
「見えるとこだけ」
ナナは少しだけ笑う。
「絵になるじゃない」
アルヴェインは聞こえているはずなのに何も言わなかった。
ガルドは鼻を鳴らした。
「たまたまだ」
「そういうことにしとくわ」
リオはそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
カインは相変わらず前を見たままだったが、その歩幅はさっきまでよりわずかに緩んでいる。ドーガも言葉はないが、斧を肩に担ぎ直した時の音が、戦闘の最中よりずっと雑だった。
それで十分だ。
街門が見えた時、門番の控えが二人ほどこちらを見て姿勢を正した。
中に知らせが回る。
それだけで、全部説明しなくても伝わる種類の空気がある。
東門の内側では、ミレナがもう待っていた。
走ってくるわけではない。
叫びもしない。
ただ、その場で立っている。
それが逆に、この人なりにどれだけ気を張っていたかをよく表していた。
近づいてくる顔ぶれを、一人ずつ見る。
数を数えるみたいに、でも確認だけで済ませない目で。
「……どうでした」
声だけはいつも通りだった。
アルヴェインが短く答える。
「潰した」
ミレナはそこで、やっと一度だけ肩から力を抜いた。
「そうですか」
それ以上、何か言うまでに少し時間がかかった。
「報告、あとでまとめます」
「ああ」
「怪我は」
「軽いのが少し」
セリアが答える。
「すぐ見ます」
ミレナは頷いた。
ナナが横を通りながら、小さく言う。
「東の道、当分は閉じたままでいいと思う」
「分かった」
ミレナはもうその先を聞かなかった。
必要なことは後で聞ける。今はそれより先にやることがあると分かっている顔だった。
ギルドの扉を開ける。
中の空気は、朝出た時と同じ場所のはずなのに、少し違っていた。
大騒ぎは起きない。
誰も勝手に拍手もしない。
酒場側から「おかえり」と軽く声が飛ぶくらいで、それ以上はない。
だがその軽さが、かえって助かった。
テーブルの上には、いつの間にか水差しと布が増えていた。
治療棟の方からは、セリアの手が足りない時用だろう、リリカが無言で道具箱を持って出てきて、何も聞かずに並べていく。
ロッドは壁際にいて、戻ってきた剣を一本ずつ見て、何も言わずに受け取っていった。
ナナが酒場の奥へ戻る途中で、途中までしか焼けていない串を皿ごと置いていく。
誰が食べるとも言っていないのに、そこに置いてある。
そういう、余計な言葉のない動きだけで十分だった。
リオは椅子に腰を下ろした瞬間、やっと自分の足が思ったより疲れていたことに気づいた。
「立てますか?」
セリアが聞く。
「今は立ちたくないです」
正直に答えると、セリアが少しだけ笑った。
「いい答えです」
バルドレイは黒い布包みを抱えたまま、エルミナへの使いを頼む声をミレナにかけていた。
アルヴェインはそれを横で聞きながら、さっきまで振るっていた剣を自分で布に包んでいる。いつもの勇者然とした雰囲気ではなく、ただ仕事を終えた男みたいな手つきだった。
ガルドは処置を終えて、まだ座っていた。
串の皿を見て、少しだけ眉を上げる。
「誰のだ」
「さあ」
ナナが酒場の方から言う。
「たまたま余ったんじゃない?」
「たまたまな」
ガルドはそう言って一本取った。
食べる。
少し噛む。
「冷めてんな」
「文句言うなら返して」
「うるせえ」
そのやり取りで、ようやく本当に戻ってきた感じがした。
リオも水を飲む。
喉が渇いていたことに、その時やっと気づいた。
視線を上げると、ミレナがまだ帳簿の前に立っていた。
だが手は動いていない。
何を書くべきか整理しているのだろう。
その横で、カインが簡潔に必要事項だけを口にしている。
ドーガは門へ戻る前に一度だけこちらを見て、何も言わずに頷いた。
ユーンはいつの間にか入口近くまで来ていて、「運ぶもの、ありますか」といつも通りの声で聞いて、全員から同時に「今日はない」と返されて少しだけしょんぼりしていた。
アルヴェインがふとガルドを見る。
「次は、もう少し早く呼べ」
短い言葉だった。
ガルドは串を持ったまま答える。
「嫌だね」
「なぜだ」
「お前、来ると話がでかくなる」
「お前一人でも十分大きくなっていた」
「それは否定できねえな」
その会話を聞いて、リオは少しだけ笑った。
自分でも意外なほど、素直に笑えた。
ガルドがその気配に気づいてちらりと見る。
「なんだ」
「いえ」
リオは首を振った。
「ちょっとだけ、終わったなって」
言ってから、少しだけ後悔した。
口に出すと、妙に軽くなる気がしたからだ。
だがガルドは特に何も言わず、代わりに串をもう一本取った。
アルヴェインも何も言わない。
ただ、さっきまでずっと張っていた肩の線だけが、ほんの少し緩んでいた。
酒場の奥で、ナナが誰かに「だから派手なのはいらないのよ」と話している声がする。
治療棟ではリリカが「これ、軽い火傷って言うにはギリギリなんだけど」とぼやきながら薬を出している。
ミレナの羽ペンがようやく動き始める。
外では門の木が風に鳴る。
虫の音が、街の中まで少しだけ届いていた。
それで十分だった。




