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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第40話 中編「見えている敵より、見えていない手の方が厄介だ」

 戦いの準備というのは、武器を持つことだけではない。


 どこへ行くのか、何がいるのか、何をされたらまずいのか、誰を前に出して誰を下げるのか。そういう、刃より前に決めておかなければいけないことの方が、実際にはずっと多い。


 だから厄介なのだ。


 相手がただの魔物なら、力の差や数の差の話で済むこともある。だが、見えないところから糸を引いて、人を道具みたいに使ってくる相手となると、話は変わる。


 斬れば終わり、では済まない。


 どこまでが敵で、どこからが被害者なのか。その線引きから始めなければならない。


 ギルドの空気は、戻ってきた時点でもう切り替わっていた。


 さっきまで普通に依頼を選び、軽口を叩き、酒場の昼支度の匂いが混ざっていた場所が、今は明らかに別の場になっている。人の動きが早く、言葉が短く、足音に無駄がない。


 アルが中央の机に地図を広げ、その周りに必要な人間だけが集まっていた。


 ガルド、カイン、リオ、セリア。

 ドーガ。

 ナナ。

 それから、少し遅れて駆け込んできたバルドレイ。


「急に呼ばれて来てみれば、また面倒そうな顔が揃っておるのう」


 いつも通りの飄々とした言い方だったが、その目は最初から笑っていなかった。


「操り系の術式らしい」


 アルが言う。


「街道近くで四体。視認した術者は木の上を移動」


「ほほう」


 バルドレイは地図の上に置かれた簡単な見取り図と、ガルドたちが書き足した情報を見る。


「死体を使ったか、生者を半死半生で動かしておるか、それともその中間か」


「どれが一番面倒だ」


 ガルドが聞く。


「全部じゃな」


 バルドレイは即答した。


「じゃが、今の話を聞く限り、“壊れても構わぬ駒”として使っておる感じが強い。生きたまま操っておるなら、もう少し動きに迷いが出る」


「首を落として止まった」


 カインが言う。


「なら、死体寄りか」


「寄り、という表現が一番正確かもしれぬな」


 バルドレイが顎を撫でる。


「完全な死体操りなら、もっと鈍いことも多い。だが、今回のは妙に速い。筋肉の限界を無視して動かしておるか、術者の腕が良いか、あるいは――」


「あるいは?」


 リオが聞く。


「素材が良い」


 あっさり言われたその一言が、ひどく嫌だった。


「街道沿いの運搬屋や旅人を使っておるなら、体は鍛えておる者もおるじゃろうしの」


 ナナが腕を組んだ。


「東の旧街道、ここ数日で帰ってこない運搬屋がいたって話はまだ聞いてない。でも、“最近あの道を避けてる”って人は増えてる」


「何人くらいだ」


 ドーガが聞く。


「表立って言ってるだけで五、六人。実際はもっといるかも」


「街側から見て違和感が出始めてるってことか」


 ガルドが言う。


「だな」


 アルは地図の上、旧街道沿いの休憩所に印をつけた。


「ここが接触地点。問題は、その木の上の影がどこから出てどこへ消えたかだ」


「追えなかった」


 カインが短く言う。


「煙もあったし、地形も向こうが使い慣れている感じだった」


「そうじゃろうな」


 バルドレイが言う。


「わざわざ街に近いところで駒を当ててきたのは、“近づけるぞ”という見せつけもある。こちらが小人数で来るか、慎重になるか、何を連れて来るかも見たかったのじゃろ」


「舐められてるってことですか」


 リオが聞いた。


「舐めておるというより、測っておる」


 バルドレイが答える。


「その方がよほど嫌らしい」


 セリアは少しだけ顔を伏せていたが、すぐに視線を上げた。


「対処法はありますか」


「ある」


 バルドレイが頷く。


「完全に操りの中心を断てれば、駒は止まる。問題は、術者との距離と媒介じゃな」


「媒介?」


 リオが聞く。


「印、糸、血、煙、音、視線……何を通して命令を通しておるかで、対策が変わる」


「煙の中でも向こうは迷ってなかった」


 ガルドが言う。


「こっちの位置もそこそこ見えてた感じだ」


「なら視界そのものじゃなく、気配を取っておるかもしれん」


「面倒くさいですね……」


 リオが素直に言う。


「うむ。面倒くさい」


 バルドレイは頷いた。


「じゃが、お主らが最初に一度引いたのは正しい。あの場で術者を追っておったら、十中八九もっと深いところへ誘い込まれておった」


 ガルドは鼻を鳴らしただけだったが、否定はしなかった。


「で」


 ドーガが言う。


「どう行く」


 アルが地図の横に新しい紙を置く。


「正面から旧街道を進む班と、脇から森をなぞる班に分ける」


「囮と挟みか」


 ガルドが言う。


「そうだ」


「向こうに森の上から見られてるなら、挟みってほど綺麗にはいかねえぞ」


「分かっている」


 アルは冷静に続ける。


「だから目的は“包囲”じゃない。術者の位置を絞ることと、駒の出方を見て媒介を確認することだ」


「つまり、また嫌な役目ですね」


 リオが言う。


「そうだ」


 ガルドが即答した。


「嫌で助かる」


「助かりませんよ」


 だが、その軽口にほんの少しだけ、張り詰めた空気が和らぐ。


 その程度の余裕はまだあるらしい。


「前に出る人間を決める」


 アルが言う。


「正面班はガルド、リオ、セリア」


「俺が正面か」


 ガルドが言う。


「囮だな」


「お前が一番気づくからだ」


 アルは視線をずらさない。


「嫌な違和感に一番早く反応できる」


「褒めてるようで仕事押し付けてるな」


「事実だ」


 ガルドは少しだけ口元を歪めた。


「後ろから言うなよ、って意味ならその通りだな」


「セリアは下がっていてくださいね」


 リオがすぐに言う。


「言われなくても下がる時は下がります」


 セリアは静かに返した。


「でも見るべきものは見ます」


「その辺が怖いんですよ」


「怖いですか?」


「頼もしいですけど、怖いです」


 少しだけ、セリアが笑った。


「脇の森を取るのは俺とドーガ」


 カインが言う。


「もう一人欲しい」


「私が行くわ」


 ナナが手を上げた。


「情報拾いだけじゃなくて、森の中の“人の通った感じ”を見るなら、私そこそこ得意よ」


「戦えるのか」


 ドーガが聞く。


「正面は無理。でも隠れるのと逃げるのは得意」


 その自己評価は妙に信用できた。


「よし」


 アルが決める。


「俺は中央で後詰めに入る。バルドレイはここで術式対策の道具を」


「もう用意しておる」


 バルドレイが言って、懐から小さな木札と白い粉の入った包みを出した。


「木札は簡易の邪魔札じゃ。気休め程度じゃが、首から下げるより持っておる方がええ。粉は煙を見た時に撒け。流れが崩れれば、何を媒介にしとるか少しは分かる」


「気休めって言われると不安なんですが」


 リオが言う。


「本職の結界師がおらん以上、気休めを重ねて実用にするしかない」


 身も蓋もないが、その通りなのだろう。


 ミレナが小走りで戻ってきた。


「街道封鎖、通達済みです。東門から旧街道へ向かう人は止めています」


「よし」


 アルが短く頷く。


「残るのは」


 そこで視線が入口へ向いた。


 何人かが立っている。


 ライル。

 ユーン。

 カイル。

 それから、鍛冶屋のロッドまで腕を組んでこちらを見ていた。


「なんで増えるんですか」


 リオが思わず言った。


 心の底からだった。


「なんか面倒そうだから来た」


 ライルが言う。


「帰れ」


 ガルドが即答する。


「なんでだよ!」


「面倒が増えるからだ」


「もう面倒だろ!」


 それは正しいが、正しいことと必要なことは違う。


「俺も行く」


 カイルが言った。


 真面目な顔だった。


「旧街道なら俺も使うことがある。放っておくわけにはいかない」


「気持ちは分かるが、今回は人数を絞る」


 アルが言う。


「向こうは操り系だ。無駄に人を増やすと管理が難しくなる」


 カイルは少しだけ悔しそうな顔をしたが、引き下がるだけの理性はあった。


「……分かりました」


「じゃあ俺」


 ライルが言う。


「帰れ」


「なんでだよ!」


「お前は“分かりました”ができないだろ」


 ガルドの一言が痛烈すぎた。


「できる!」


「できない」


「できる!」


「今すぐ引け」


「……ちっ」


「ほらな」


 誰も反論できなかった。


 ユーンは静かに手を挙げた。


「僕は……運搬なら」


「今回は運搬じゃない」


 ガルドが言う。


「乗り物が絡むならまだしも、森で走られると余計に困る」


「……はい」


 ちょっとだけしゅんとしたが、そこは本人も分かっているのだろう。


 ロッドは腕を組んだまま言った。


「武器見とけ」


 それだけだった。


「今更だな」


 ガルドが言う。


「だが、見ろ」


 ロッドの声音には、普段より少しだけ硬いものがあった。


「硬い相手なら刃こぼれの方が先に来る。人斬る感覚で行くと、お前らの方が先に鈍る」


 それは重要だった。


 さっきの感触を思い出す。人を斬った時の柔らかさではなく、何かを通した先に硬い芯がある感じ。


「分かりました」


 リオが言う。


 ロッドは短く頷き、腰の道具袋から小瓶を二つ出して放った。


 ガルドとカインがそれぞれ受け取る。


「応急の油だ。布に少しだけ含ませて刃に引け。持ちはせんが、鈍りは遅くなる」


「助かる」


 カインが短く言った。


 ロッドは返事もせず、もう次の刀身を見始めていた。



 準備に時間はかけられなかった。


 夕方が近づけば、あちらに有利な時間になるからだ。


 日が傾く前に、位置と癖だけでも掴んでおく必要がある。


 東門を出た時、街の空気が少しだけ軽く感じた。


 ギルドの張り詰めた空気から外へ出たからではない。


 街の人間には、まだ“外側”の異常が完全には届いていないのだ。


 だからこそ、ここで止めなければならない。


 旧街道への分岐に差し掛かる手前で、アルが全員を止めた。


「ここから分かれる」


 短い言葉だった。


「正面班は道を外れず進め。妙なものを見ても深追いはしない。森班は並走して位置を取れ。気配を見失っても、無理には追うな。術者の位置が絞れたら合図」


「合図って何ですか」


 リオが聞く。


 こういう時に限って、以前決めた合図の話が脳裏をよぎる。


 アルはバルドレイにもらった木札を指で軽く弾いた。


 乾いた音が鳴る。


「これを三回」


「地味ですね」


「戦闘中に派手なのはいらん」


 たしかにそうだ。


「じゃあ行くぞ」


 ガルドが言った。


 前を向く。


 リオも続く。


 セリアは二人より半歩だけ後ろにつく。


 森側へカイン、ドーガ、ナナが消える気配がした。


 足音はない。だが、いるのは分かる。


 そこから先は、朝に通った同じ道なのに、別の場所みたいに見えた。


 知っているはずの木立が近い。


 影が濃い。


 風がぬるい。


「……やっぱり嫌ですね」


 リオが小さく言う。


「だな」


 ガルドが答える。


 短いが、それで十分だった。


 同じことを感じているのが分かる。


 休憩所が見えてくる。


 朝、最初の一体と接触した場所だ。


 今は何もいない。


 倒した痕跡も、急いで片付けられたみたいに不自然に薄い。


「誰かが回収してる」


 ガルドが言う。


「術者本人か、別の手があるか」


 セリアが周囲を見た。


「水の匂いに混ざって、少しだけ変な匂いがします」


「どんな」


 リオが聞く。


「薬草っぽいんですけど、治療じゃなくて……眠らせる方に近いです」


「煙に入ってたかもしれんな」


 ガルドが言う。


「鼻やられる前に下がれよ」


「はい」


 その時だった。


 カン、カン、カン。


 乾いた音が、森側から三回鳴る。


「見つけたな」


 ガルドがすぐに言う。


「速いですね」


「だから来たんだろ、あいつら」


 言いながら、すでに走っている。


 リオも続く。だが、道から森へ入った瞬間、世界が少しだけ歪んだように感じた。


 木の配置がおかしい。


 まっすぐ進んでいるはずなのに、同じ幹を見た気がする。


「っ、これ……!」


「幻惑だ!」


 ガルドが言った。


「札持て!」


 木札を握る。あまり頼れる感じはしないが、何もしないよりはマシだ。


 前方に人影が見える。


 カインか。そう思った瞬間、それが横から動いた。


「違う!」


 リオが剣を抜く。


 木陰から飛び出してきたのは、またあの“駒”だった。


 今度は二体同時。


 一体は木こりみたいな大鉈を持ち、もう一体は何も持っていない。だが、何も持っていない方が速い。


 リオに向かってくる。


 踏み込んでくる角度が妙に低い。


「リオ!」


 ガルドの声。


 低く入ってくるなら、下から掬うか飛びつくかのどちらかだ。


 剣を立てるのではなく、逆に一歩踏み込んで肩をずらす。


 相手の腕が脇を掠める。


 そのまま首元へ斬り上げる。


 浅い。


 が、体勢は崩れた。


 そこへガルドが横から膝を叩き込む。骨が折れる嫌な音がしたのに、相手はまだ倒れ切らない。


「ほんとに面倒くせえな!」


 ガルドが吐き捨てるように言って、今度は短剣を耳の下から深く差し込んだ。


 ようやく止まる。


 その一方で、大鉈の方はカインが受けていた。


 だが斬り合いではない。距離を取って、相手の振りを誘い、軸足の崩れだけを待っている。


 無理に早く終わらせようとしていない。


 大鉈が振り下ろされる。


 土が抉れる。


 そこへドーガが横から入った。


 盾も何もない。だが、その分動きが速い。


 肩で体を押しずらし、開いた首筋へカインの刃が入る。


 連携がきれいだった。


 しかし、その直後。


「伏せて!」


 ナナの声が飛ぶ。


 反射でリオがしゃがむ。


 頭上を何かが通り抜けた。細い、黒い糸みたいなものが木に絡み、すぐに消える。


「なんだ今の!」


「糸よ!」


 ナナが木の上を睨んでいる。


「上にいる! 二人、いや三人!」


 三人。


 術者は一人ではなかった。


 その事実が一番嫌だった。


「数が増えたな」


 ガルドが言う。


 口調は軽いが、目は笑っていない。


「悪い意味でな」


 木の上。


 影が動く。


 今度ははっきり見えた。顔は隠している。衣服も森に溶ける色だ。だが、その動きには人間らしい慎重さがある。


 駒とは違う。


 あれが“手”だ。


「一人落とす!」


 カインが言う。


 踏み込もうとした瞬間、地面が動いた。


 いや、動いたように見えた。


「下!」


 セリアが声を上げる。


 根に見えたものが、足に巻きつこうと伸びる。


 植物じゃない。細い縄のようなものだ。術で動かしているのか、元から仕掛けていたのか。


「くそっ!」


 カインが一度飛び退く。


 その隙に木上の影が位置を変える。


「地面にも仕掛けか」


 ガルドが笑った。


 全然嬉しくない時の笑い方だ。


「ちゃんと殺る気満々じゃねえか」


 そこへ、バルドレイの粉を握っていたセリアが一歩前に出る。


「今、撒きます!」


「セリア!」


 リオが止めるより早く、彼女は粉を円を描くように投げた。


 白い粉が風に乗って広がる。


 次の瞬間、さっき見えなかった線がいくつも浮いた。


 木と木の間。枝から地面へ。地面から倒木へ。細い、半透明の糸のようなもの。


「うわっ」


 リオが思わず声を漏らす。


「そんなにあったんですか」


「糸だな」


 ガルドが言う。


「媒介の一つはこれで確定か」


「切れますか!?」


 ナナが叫ぶ。


「切れる」


 ドーガが短く言った。


 次の瞬間、彼は斧を引き抜いていた。門番の時とは違う、昔の戦士の顔だった。


 振るう。


 木に張られた糸ごと、倒木が断たれる。


 糸が弾けるように消えた。


 同時に、木上の影が一人、バランスを崩した。


「そこ!」


 カインが跳ぶ。


 木の幹を蹴り、枝を足場にして一気に距離を詰める。相手もただでは落ちない。腰から短剣を抜き、逆手で迎えた。


 金属音。


 枝が揺れる。


 リオからは細かいところまでは見えない。だが、一つだけ分かった。


 相手も強い。


 雑に術だけ使う手合いではない。


「リオ!」


 ガルドの声で振り向く。


 別の駒が来ていた。


 今度は二体。しかも片方は、さっきの運搬屋とは違う。体格がいい。冒険者か、傭兵だったかもしれない。


 剣を持っている。


 いや、持っていた感覚が残っている、という方が近い。振りが生きている。


「左は俺!」


 ガルドが言う。


「右やれ!」


「はい!」


 正面から来る剣を受ける。重い。しかも、技術が死んでいない。


 ただ振り回しているだけの相手ではない。


「こんなのありかよ!」


 叫びながら押し返す。


 相手は黙ったままだ。


 生きていた時の経験だけが残って、命令通りに体が動いている。そう思うと、余計に嫌だった。


 剣を滑らせ、手首を狙う。浅い。なら膝か。いや、止まらない。


「首だ!」


 ガルドの声。


「分かってます!」


 わかっているが、簡単じゃない。


 正面から首だけを狙うのは、普通の相手よりずっと難しい。なぜなら向こうは防御を捨ててでも前に来るからだ。


 だったら。


 一歩引いて、相手に深く踏み込ませる。


 剣が伸びる。


 その下を潜るように半身をずらす。


 肩口に軽く当てて体勢を崩す。


 前のめりになった首筋へ、今度は横から振り抜く。


 斬れた。


 止まる。


「……っ」


 息が荒い。


 その間にもガルドはもう一体を処理していた。短剣と剣を両方使って、最低限の動きで急所だけを潰している。


 無駄がない。


 というより、無駄にしている暇がない。


「セリア!」


 ナナが叫ぶ。


 木の上から何かが落ちてくる。


 小瓶だ。


 今度は見えた。


 セリアが咄嗟に身を引く。だが、それだけでは間に合わない。


 リオが飛ぶ。


 セリアの肩を掴んで倒す。


 小瓶が割れ、黒い液体が地面を焼いた。


「うわっ……!」


 匂いだけで危ないと分かる。


「平気ですか!」


「私は大丈夫です!」


 セリアが言う。


「リオくんは!」


「ちょっと腕に……!」


 袖の端が焼けていた。皮膚までは届いていないが、かなり際どい。


「下がって!」


 セリアがすぐに布を押し当てる。


「まだ前に出られますか!」


「出ます!」


「無理はしないで!」


 その会話の最中にも、木上の影は動いていた。


 カインと一人が斬り結び、ドーガが地面の糸をさらに断ち、ナナが「右奥もう一人!」と位置を叫び続けている。


「術者は三人で確定!」


 ナナが言う。


「でも、もっといるかも!」


「十分多い!」


 リオが返す。


 その時、地面が微かに揺れた。


 いや、揺れたのではない。


 複数の足音だ。


「まだ来る!」


 セリアが言った。


 木立の奥から、今度は一気に四体、駒が出てきた。


「多いな!」


 ガルドが吐き捨てる。


「さすがに面倒の域超えてるだろ!」


 だが、文句を言っても減らない。


 カインが木上の相手を諦めて地面へ戻る。


「一回下げるぞ!」


 アルの声がした。


 いつの間に来たのか。いや、後詰めだから来るのは当然だが、その気配を感じる余裕がなかった。


 アルは木立の間から出るなり、迷わず一体の首を刎ねた。


 動きが速い。静かで、正確で、無駄がない。


「術者まで距離がある!」


 カインが言う。


「今は駒を捌きながら位置を絞れ!」


「絞れてる!」


 ナナが答える。


「左上二人、右奥一人、あと――」


 その瞬間、彼女の言葉が切れた。


「ナナ!」


 ドーガが振り向く。


 ナナの足首に糸が絡んでいた。地面から伸びた細い糸が、彼女を木陰へ引こうとしている。


「くっ……!」


 短剣で切ろうとするが、糸が細すぎる。


 そこへドーガが飛ぶ。斧ではなく、手で掴んだ。


 ぎち、と嫌な音がする。


「力任せかよ!」


 ガルドが言う。


「切れればいい!」


 ドーガは本気だった。


 次の瞬間、糸が弾ける。


「えっ」


 ナナが目を見開く。


「ちょっと何その腕力、怖」


「今言うことか」


 ガルドが言った。


 だが、少しだけ空気が戻る。


 あの一瞬で、全員がほんの少しずつ押されかけていたのだ。


「下がりながら切るぞ!」


 アルが言う。


「街道側まで戻して開けた場所を取る!」


 それが一番だった。


 森の中は向こうの縄張りだ。糸も、枝も、影も全部使われる。


 だったら広い場所へ出るしかない。


「リオ、セリア前出るな!」


 ガルドが再び言う。


「分かってます!」


「ならいい!」


 返しながら、ガルドは駒の一体を蹴り飛ばす。飛ばし方が乱暴なのに、ちゃんと仲間の邪魔にならない角度へ行くのが腹立たしいほど器用だった。


 後退しながら戦う。


 それは思っているよりずっと難しい。


 前へ出るなら切り方は単純だが、下がるとなると足場も距離も常に計算しなければならない。


 だが、この場の面子はそれをやっていた。


 ガルドが前を崩し、カインとアルが確実に止め、ドーガが割り込み、ナナが位置を叫び、セリアが傷と状態を見、リオが空いたところを埋める。


 噛み合っている。


 それが唯一の救いだった。


 街道が見えた。


 木立が少し開ける。


 そこへ出た瞬間、空気が変わった。


 向こうの影が、一瞬だけ揺らいだのだ。


「今だ!」


 バルドレイの声が飛んだ。


 街道側に、いつの間にか彼が来ていた。いや、来ていたというより、準備していた。


 地面に白い粉で線が引かれている。


 簡易の陣だ。


「そこを越えさせるな!」


 アルが即座に理解する。


「駒は中、術者は外か!」


「逆でも分かるようにはしてある!」


 バルドレイが怒鳴る。


 普段よりずっと声が大きい。


 その言葉と同時に、木上の一人が枝から街道へ飛んだ。


 逃げる気だ。


「そっちか!」


 ガルドが言う。


 追う。


 だが、相手も速い。枝から地面、地面から倒木、倒木から街道脇の岩へと跳ぶ。その動きには迷いがない。


 術者でありながら、ただの後衛ではない。


「止まれ!」


 カインが追う。


 アルも角度を変えて先回りに入る。


 リオは一瞬迷った。


 自分も追うべきか。


 だが、その迷いを断ち切ったのはセリアだった。


「リオくん、こっち!」


 振り向く。


 まだ駒が二体残っている。しかも、そのうち一体は陣の線を越えかけていた。


 越えればどうなるかは分からない。だが、分からないからこそ越えさせてはいけない。


「はい!」


 リオはそちらへ向かった。


 首を狙う。今度は迷わない。


 斬る。止まる。


 残る一体はドーガが沈めた。


「終わりか!?」


 ナナが叫ぶ。


「いや!」


 セリアが言う。


「まだ、上!」


 見上げる。


 木の高いところに、最後の一人がいた。顔は見えない。だが、こちらを見下ろしている。


 その手が動く。


 糸ではない。


 何か、黒い塊。


「散れ!」


 ガルドの声が飛んだ。


 全員が反射で散る。


 黒い塊が地面に落ちる。


 割れる。


 今度は煙ではなく、虫みたいに細かい黒いものが一気に広がった。


「何だこれ!」


 リオが袖で払う。


「虫じゃねえ、札だ!」


 バルドレイが言う。


「踏むな、触るな!」


 細かい紙片。黒い呪札の切れ端みたいなものが風に舞う。


「最後っ屁かよ!」


 ガルドが吐き捨てるように言う。


 木上の影は、その隙に完全に森の奥へ消えた。


「……逃がした」


 カインが低く言う。


「一人はな」


 アルが前方を見たまま答える。


「だが、位置は絞れた」


 彼の足元には、枝から落ちたらしい布の端が残っていた。黒ではない。深い青。森の中で目立たないが、完全には溶けない色。


「この辺一帯に潜んでいたのは確定だ」


「しかも複数」


 ドーガが言う。


「少なくとも三、残りの出方を見るに四か五」


「街道近くでな」


 ガルドが息を吐く。


「もう“様子見”の段階じゃねえ」


 誰も反論しなかった。


 そうだ。


 向こうははっきりとこちらを試し、街道沿いに駒を置き、撤退の仕掛けまで用意していた。


 偶然じゃない。


 “ここを使って何かするつもり”だ。


 問題は、それが何かだ。


「一度戻る」


 アルが言った。


「追撃はしない」


「今度こそ、ですね」


 リオが言う。


「ああ」


 アルは頷く。


「情報は十分取った。これ以上は、狩るための動きに変える」


 その言い方に、空気が変わる。


 さっきまでの見回りや接触ではない。


 次は明確に、“潰しに行く”段階へ入るのだ。



 街へ戻る頃には、全員それなりに消耗していた。


 大怪我はない。だが、疲労は隠せない。


 リオは腕の焼けた袖を見て、改めて息を吐いた。


 さっきの一連は、今までの戦いと少し違った。


 相手が見えない。

 切っても止まらない。

 倒すことと助けることの境目が曖昧。

 そして、奥で笑っているような“手”がいる。


 嫌な戦いだ。


 でも、それを今さら嫌がっても始まらない。


 ギルドに戻ると、朝よりさらに重い空気が待っていた。


 ミレナがすぐに駆け寄る。


「どうでした」


「街道沿いの森に拠点がある」


 アルが答える。


「複数術者、糸と煙と札を使用。駒は元人間寄り。街側へ踏み込む意志あり」


 情報だけ抜き出すと、それだけで十分ひどい。


「封鎖を広げます」


 ミレナが言った。


「東門だけじゃなく、南の抜け道側にも通達を」


「頼む」


「はい」


 ナナもそのまま動こうとしたが、アルが止めた。


「お前は先に知ってる顔を洗い出せ。旧街道沿いで最近消えた、もしくは動きの追えない人間の情報を集めろ」


「任せて」


 ナナは頷いて出ていく。


 ドーガも門へ戻る。


「見慣れない荷車は止める」


「そうしてくれ」


 ギルドの中央には、残った者たちだけがいた。


 バルドレイが地図に新しい印をつける。


「ここからここまで、木上の移動ができる枝の流れがあった。つまり、森の中でもある程度決まった線を使っておる」


「巣みたいなものか」


 ガルドが言う。


「近いな」


 バルドレイは頷いた。


「完全な拠点か、一時的な術場かは分からぬが、少なくとも“準備しておった場所”なのは確かじゃ」


「じゃあ次はそこを叩く」


 カインが言う。


「そうなる」


 アルが答える。


「今夜は避ける。向こうの時間になる」


「明朝か」


 ガルドが言う。


「ああ」


「夜のうちに逃げられる可能性は?」


 リオが聞く。


「ある」


 アルは即答した。


「だが、半端に夜へ踏み込んでこちらが崩れる方がまずい」


「……ですよね」


「だから」


 アルは全員を見た。


「明日の朝で決める。逃げていれば追う。残っていれば潰す。どちらにしても、次で終わらせる」


 その言葉には、妙な静けさがあった。


 怒りでも焦りでもなく、“決めた”というだけの声だ。


 だからこそ重い。


 ガルドは椅子にも座らず、しばらく立ったままだった。


「ガルドさん」


 リオが声をかける。


「なんだ」


「……明日、僕は」


 何を言おうとしたのか、自分でも途中で分からなくなった。


 前に出るのか。迷わず斬れるのか。足を引っ張らないか。そういうことを、まとめて口にしようとしたのだと思う。


 だが、ガルドは先に言った。


「お前は明日も来る」


「はい」


「なら今日みたいに迷った時だけ、俺を見るな」


 リオは少しだけ目を見開いた。


「……え?」


「判断借りるなってことですか」


「半分はな」


 ガルドが言う。


「もう半分は、借りるなら借りるで遅れるな」


 その言い方は、この人らしかった。


 厳しいようでいて、突き放し切らない。


「お前が全部一人で決められるようになるのは、もっと後でいい。でも、借りるなら借りる速度で動け」


 リオは黙って頷いた。


「分かりました」


「ならいい」


 それだけだった。


 セリアがそっと近づいてきて、リオの袖を見た。


「腕、ちゃんと見せてください」


「大丈夫です」


「大丈夫でもです」


 その言い方に逆らえず、リオは素直に腕を差し出した。


 焼け跡は浅い。だが、ひりつきは残っている。


「……本当にギリギリでしたね」


 セリアが言う。


「ごめんなさい、私がもう少し早く下がっていれば」


「違いますよ」


 リオはすぐに言った。


「僕が勝手に飛び込んだだけです」


「それでもです」


 セリアの声は柔らかいが、少しだけ震えていた。


「助かりました。でも、次は無茶しないでください」


「それはお互い様です」


 リオが言うと、セリアは少しだけ困ったように笑った。


「そうですね」


 ギルドの空気はまだ重い。


 だが、完全に沈んではいなかった。


 動くべきことがはっきりしている時、人は逆に余計な混乱をしないのかもしれない。


 ミレナが戻ってくる。


「東門と南の抜け道、封鎖通達済みです。今夜は見回りも増やします」


「ありがとう」


 アルが言う。


「それと……」


 ミレナは少しだけ躊躇った。


「ナナさんから。旧街道沿いで三日前から行方の分からない運搬屋が二人、それから昨夜、森の外れで“青い布をつけた人影”を見たって話が一件」


 青い布。


 さっきの布切れと繋がる。


「同じだな」


 カインが言う。


「だろうな」


 アルは短く頷く。


「十分だ。明日の朝、出る」


 その言葉で、今日の戦いは終わった。


 完全に片づいたわけではない。


 むしろ、これからが本番だ。


 だが、少なくとも今夜やることは決まっている。休む者は休み、準備する者は準備し、明日のために無駄を減らす。


 それが今は一番大事だった。


 ガルドがようやく椅子に座る。


 深く座り込み、目を閉じる。


 寝るわけではない。たぶん頭の中で明日の動きを組んでいるのだろう。


 リオも、自分の剣を見た。


 刃にはうっすらとくすみが出ている。ロッドの油がなければ、もっと鈍っていたかもしれない。


 布でゆっくり拭う。


 その単純な作業だけが、少しだけ気持ちを落ち着かせた。



 見えている敵より、見えていない手の方が厄介だ。

 前に出てくる駒をいくら切っても、その後ろで糸を引く相手が笑っている限り、終わったことにはならない。


 その日の戦いは、位置を知るための戦いだった。

 嫌なものを見て、嫌な事実を確かめて、それでも引き返すことを選んだ。


 次は、引き返すためじゃない。

 終わらせるために行く。


 そう決まった夜は、いつものギルドよりずっと静かだった。

 だが、それは平和な静けさではなく、刃を鞘に収めたまま朝を待つ時の静けさだった。

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