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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第40話 前編「面倒ごとの気配は、だいたい静かなところから来る」

 異常というものは、たいてい“派手な音”では始まらない。


 大きな爆発が起きるとか、空が割れるとか、街のど真ん中に怪物が現れるとか、そういう誰の目にもわかる形で始まることも、もちろんある。


 だが、本当に厄介な異常は、だいたいもっと静かだ。


 いつも通る道なのに鳥が鳴いていないとか、風が吹いているのに草の揺れ方が変だとか、何かが“いる”のに、気配だけが妙に薄いとか――そういう、慣れている人間だけが気づくズレの方が、後になって振り返るとよほど危険だったりする。


 その日の朝は、いつも通りの朝だった。


 ギルドの空気も、相変わらず雑で、騒がしくて、少しだけ平和だった。


「今日は普通の依頼だ」


 ガルドが言った。


 椅子に深く座って、片肘をつきながら、実に当然のことのようにそう言った。


「その宣言、逆に不安なんですけど」


 リオが返す。


「なんでだ」


「今まで何度も聞きました」


「今日は本当に普通だ」


「その“本当に”が危ないんですよ」


 ミレナがカウンターの向こうで頷いた。


「私も同意です」


「お前までか」


「経験則です」


 ひどい話だった。


 だが、ガルドの日常における“普通”が、わりと頻繁に普通で終わらないのも事実である。


「で、今日は何なんですか」


 リオが依頼票の束を手に取りながら聞く。


「東の旧街道沿いの見回りだ」


 ミレナが一枚抜いて差し出した。


「最近、そっちの通行量が少し落ちてるんです。大きな被害報告はないんですけど、商人から“なんとなく空気が悪い”って話が何件か来ていて」


「なんとなく」


 リオが繰り返す。


「一番困るやつですね」


「そうなんです」


 ミレナが頷く。


「魔物が出たとか、盗賊が出たとか、道が崩れたとか、そういうわかりやすい話じゃないんですよ。“妙に静かだった”“荷馬が嫌がった”“誰かに見られてる気がした”……そういう曖昧なやつばっかりで」


「いい依頼じゃねえか」


 ガルドが言った。


 その声色が、少しだけ変わっていた。


 さっきまでのだらけた調子より、わずかに低い。


「何がですか」


 リオが聞く。


「“何も起きてないけど変だ”ってやつは、放っとくと後で面倒になる」


 ガルドはそう言って立ち上がった。


「早めに見といた方がいい」


 ミレナが少しだけ目を細める。


「珍しく前向きですね」


「面倒を減らしたいだけだ」


「それを前向きって言うんですよ」


 ガルドは鼻を鳴らしただけで、否定はしなかった。


 その時、入口の方から足音がした。


「見回りなら俺も行く」


 カインだった。


 腕を組んだまま、普段通りの無駄のない声で言う。


「なんでだ」


 ガルドが聞く。


「東の旧街道なら、ここ数日俺も少し気になってた」


「お前もか」


「鳥が少ない」


 短い一言だった。


 だが、それだけで十分だった。


 ガルドの目がわずかに細くなる。


「……ああ」


 低く、短く返す。


 リオはそのやり取りを聞きながら、少しだけ喉が渇くのを感じていた。


 この二人がこういう調子になる時は、だいたいろくでもない。


「私も行きます」


 セリアが治療棟の方から顔を出した。


「東側なら、もし何かあった時に近い方がいいですよね」


「危ないかもしれねえぞ」


 ガルドが言う。


「危ないならなおさらです」


 セリアは静かにそう返した。


 柔らかい口調なのに、引く気がない声だった。


「それに、旧街道沿いなら途中に小さな休憩所もありますし、そこで様子を見ながら動けます」


「……そうだな」


 ガルドはそれ以上止めなかった。


 その代わり、少しだけ念を押すように言う。


「何かあったら前に出るな」


「はい」


 セリアは素直に頷いた。


「じゃあ決まりですね」


 ミレナが言う。


「ガルドさん、リオさん、カインさん、セリアさんの四人で。大きな異常がなければ昼過ぎには戻れるはずです」


「その言い方やめてくださいよ」


 リオが言う。


「“大きな異常がなければ”ってつくと急に嫌な感じになるじゃないですか」


「でもつけたくなります」


 ミレナは真顔だった。


「今回、ちょっとだけ空気が嫌なんですよ」


 その言葉に、ガルドが視線だけ向ける。


「何か聞いたのか」


「昨夜、遅くに帰ってきた運搬屋さんが一人、かなり顔色悪かったんです」


「誰だ」


「トーマさんです」


「あいつか」


 ガルドの声が少しだけ重くなった。


「なんて言ってた」


「“襲われたわけじゃない、でも二度とあの道は夜に通りたくない”って」


 静かになる。


 いつものギルドの雑音の中で、そこだけ少し温度が下がったような気がした。


「……で?」


 ガルドが促す。


「“灯りの外側に何かいた気がするけど、こっちを見てる感じだけがあって、最後まで輪郭がわからなかった”って」


 リオは無意識に息を呑んだ。


 それは、怖い話としてはあまりにも地味だ。


 でも、地味だからこそ気持ち悪い。


 ガルドは少しだけ考えてから、いつも通りの調子で肩を回した。


「行くか」


 その声は軽い。


 だが、軽くしているだけだとわかる程度には、空気が変わっていた。



 東の旧街道は、今では本通りから少し外れた道になっている。


 昔は商隊も多く通ったらしいが、新しい道ができてからは主に近道をしたい運搬屋や、地元の人間が使う程度になっていた。


 道幅はそこそこある。


 ただ、両側の木立が少し深く、昼でも場所によっては薄暗い。


 歩き始めてしばらくは、本当に何もなかった。


 風が吹き、木が鳴り、靴が土を踏む音だけが続く。


 だが、二十分ほど進んだところで、リオはようやく違和感を理解した。


「……静かですね」


 ぽつりと言う。


 ガルドがすぐに答えた。


「だろ」


 やはり気づいていた。


「鳥がいない」


 カインが言う。


「虫も少ない」


 セリアも周囲を見ながら小さく言った。


「こういう道って、もっと音がしますよね」


「する」


 ガルドが短く返す。


「だから気持ち悪い」


 その言葉が、ひどく率直だった。


 リオは少しだけ肩に力が入るのを感じた。


 何かがいるのかもしれない。


 だが、それが何なのか、どこにいるのか、まるでわからない。


 見回りというより、違和感の輪郭を探している感じだった。


「止まれ」


 不意にガルドが言った。


 全員が足を止める。


「何ですか」


 リオが小声で聞く。


「足跡」


 ガルドが道端を指した。


 土の上に、浅い痕がある。


 最初は獣のものかと思ったが、違った。


 爪でも蹄でもない。人の足跡にも見えない。


 何かを引きずったような、でも一定の形があるような、不自然な跡だった。


「……見たことあります?」


 リオが聞く。


「ない」


 ガルドが言う。


「でも好きじゃない形だ」


「私もです」


 セリアが言った。


 彼女の声が少しだけ固い。


 カインはしゃがみ込み、痕を指先でなぞるように見た。


「新しいな」


「どれくらいですか」


 リオが聞く。


「半日以内」


「そんなに」


「昨夜から今朝の間だろうな」


 そこまで新しいなら、なおさら妙だった。


 街からそう遠くない道だ。誰かがもっと騒いでいてもいい。


「進むか」


 ガルドが立ち上がる。


「いいんですか?」


「ここで帰っても報告できることが少なすぎる」


「それはそうですけど……」


「嫌なら戻れ」


 ガルドは軽く言った。


 だが、その声に突き放す感じはない。


「嫌じゃないです」


 リオはすぐに答えた。


 それは強がり半分だったが、全部が嘘でもなかった。


「じゃあ前向け」


「はい」



 さらに進む。


 道はゆるく下り、右手に古い水場が見えてきた。


 石組みの浅い井戸と、小さな休憩所。運搬屋がたまに使う場所だ。


 本来なら誰かがいてもおかしくない時間帯だが、今は無人だった。


「……誰もいませんね」


 セリアが言う。


「昼前なら一人くらいいてもいいんだがな」


 ガルドがそう答えた時だった。


 がちゃん、と音がした。


 金属がぶつかるような、乾いた音。


 全員の視線が一瞬で休憩所の裏手へ向く。


 次の瞬間、影が飛び出してきた。


「――っ!」


 反射でリオが剣に手をかける。


 飛び出してきたのは人だった。


 いや、人に見えた。


 だが、様子がおかしい。


 服は運搬屋のものに近い。だが泥まみれで、片腕が不自然に垂れ、目は焦点が合っていない。何より、走り方が変だった。転びそうなほど前のめりなのに、妙に速い。


「止まれ!」


 カインが言う。


 だが、その人影は答えない。


 まっすぐこちらへ来る。


「リオ、下がれ!」


 ガルドが前に出た。


 その瞬間、人影の腕が跳ね上がる。


 握っていたのは、壊れた短剣だった。


「っ!」


 ガルドが半歩ずれてかわす。


 短剣は空を切る。


 そのまま相手の手首を払うように叩き、武器を落とさせる――はずだった。


「……硬ぇな」


 ガルドが低く言う。


 感触がおかしい。


 人の腕を叩いた感じじゃない。


「ガルドさん!」


 リオが声を上げる。


 人影は武器を落としてなお止まらず、今度は体ごとぶつかってきた。


 ガルドが肩で受ける。


 そのまま足を払って地面に崩す。


 普通ならそこで終わる。


 だが終わらなかった。


 倒れたはずの人影が、地面を這うようにして起き上がる。


「気をつけて!」


 セリアが叫ぶ。


「生きてる感じが変です!」


 その表現が妙に正確だった。


 生きている。だが、普通じゃない。


「下がれ」


 カインが前へ出た。


 剣を抜く。


 構えは低く、無駄がない。


 人影が飛ぶ。


 カインの一閃が、その肩口から胸元までを深く切り裂いた。


 止まる。


 ――はずだった。


「おい」


 ガルドが言う。


 人影は、それでも動いていた。


 切られたはずの体を引きずりながら、なおこちらへ手を伸ばしてくる。


 その目はやはり焦点が合っていない。


 だが、“狙っている”感じだけは異様にはっきりしていた。


「人じゃねえな」


 ガルドが言った。


 その声音から、いつもの軽さが完全に消える。


「リオ、首を落とせ」


「えっ」


「迷うな、今はそういう相手だ」


 その一言で、リオの中のためらいが半分消えた。


 残り半分は、手を動かしてから消すしかない。


 人影が起き上がるより早く、横へ回る。


 剣を振るう。


 首筋に浅く入る。


「浅い!」


 カインが言う。


「もう一回!」


「はい!」


 踏み込む。


 今度はしっかり狙って振り抜いた。


 刃が首を断ち、ようやく相手の動きが止まった。


 重い沈黙が落ちる。


 リオは息を吐こうとして、うまく吐けないことに気づいた。


「……今の」


 声が少し掠れる。


「何なんですか」


「死体を使ってる」


 ガルドがしゃがみ込み、相手の首元や目元を確認する。


「操られてる類だな」


「そんなこと、こんな街道近くで?」


 リオが言う。


「普通はねえ」


 ガルドは立ち上がる。


 その目が、さっきまでよりずっと鋭くなっていた。


「だから面倒だ」


 セリアがその倒れた相手に近づきかける。


「待て」


 ガルドがすぐに止めた。


「触るな」


「でも」


「もう助からねえ」


 短い言葉だった。


 だが、優しく言う余裕はない声だった。


 セリアは少しだけ唇を結んでから、静かに頷く。


「……はい」


 カインは周囲を睨んでいた。


「一体だけか?」


「わからん」


 ガルドが答える。


「でも、一体で終わる出方じゃねえな」


 嫌な言い方だった。


 だが、そう思うしかない。


 さっきの一体は、明らかに“追い出された”感じで出てきた。あれだけが単独でうろついていたようには見えない。


「音が消えたな」


 ガルドが言う。


 リオは耳を澄ます。


 たしかにそうだった。


 さっきまでかすかに鳴っていた風の音さえ、なぜか遠い。


 静かというより、押さえつけられたような無音だった。


「来るぞ」


 カインが言った。


 休憩所の裏だけではない。


 木立の奥。水場の向こう。道の脇。


 視線の端で、何かが動いた。


 いや、“何か”じゃない。


 複数だ。


「セリア、後ろ」


 ガルドが前に立つ。


「リオ、右」


「はい!」


 声を返した瞬間、木陰から二体、同時に飛び出してきた。


 今度は最初から速い。


 しかも武器を持っている。一体は斧、一体は折れた槍。


「ちっ」


 ガルドが舌打ちする。


 斧を持った方がガルドへ向かい、槍の方がリオへ流れた。


 正面から来る。


 速い。だが読みやすい。


 リオは半歩引き、突きをかわし、その槍の柄を斜めに叩いて軌道を逸らす。


 そのまま横腹を狙って切りつける。


 浅い。


「硬いな!」


「だから言っただろ!」


 ガルドの声。


 振り返る余裕はない。


 相手は怯まず槍を引き戻す。


 今度は下から来る。リオは剣で受ける――が、そこでようやく気づいた。


 力が妙に重い。


 生きた人間の踏ん張りではなく、壊れることを考えない押し込み方だ。


「くっ……!」


 押される。


 その瞬間、横から石が飛んだ。


 相手の側頭に当たる。


 体が少しだけぶれた。


「今だ!」


 ガルドの声。


 躊躇なく首を狙う。


 斬る。止まる。


 今度はちゃんと止まった。


「助かりました!」


「礼は後だ!」


 ガルドは斧持ちと鍔迫り合いのような状態になっていた。


 だが押されていない。


 むしろ相手の力の流れを見ながら、最低限の動きでいなしている。


「カイン!」


「分かってる」


 カインはすでに三体目と接敵していた。


 剣筋が鋭い。


 一撃一撃が確実だが、それでも“首”か“頭”を狙わないと止まらないらしい。


 普通の相手より処理に手がかかる。


 その時点で、数の不利がじわじわ効いてくる。


 セリアは後方で、回復ではなく周囲の警戒に集中していた。


「左からもう一体!」


「見えてる!」


 リオが応じる。


 木陰から出てくる。


 今度のは遅い。だが、その代わりに何かを抱えていた。


「伏せろ!」


 ガルドが叫ぶ。


 反射でリオが身を落とす。


 次の瞬間、投げつけられたのは小瓶だった。


 地面に当たって割れ、黒っぽい煙が広がる。


「毒か!?」


「違う、目くらまし寄りだ!」


 ガルドが答える。


「息止めろ!」


 リオは袖で口元を押さえながら後退する。


 視界が悪い。


 だが、相手も完全に見えているわけではないはずだ。


 その認識が、次の瞬間に壊れた。


 煙の中から、迷いなく刃が伸びてきた。


「――っ!」


 ギリギリでかわす。


「見えてるのかよ!」


「操ってるやつが別にいる!」


 ガルドが言った。


 その一言で、状況の嫌さが一段増した。


 目の前の相手を倒しても終わりではない。


 どこかに“操作している側”がいる。


 そしてそいつは、こちらの位置も戦い方もある程度把握している。


「リオ、下がるな!」


 カインが言う。


「下がると囲まれる!」


「はい!」


 煙の中で足を止め、耳を澄ます。


 左。微かな布擦れ。


 剣を振るう。硬い感触。浅い。


 相手がなお突っ込んでくる。


 そこへ横からガルドが割り込んだ。


 相手の顔面を蹴り飛ばす。


 倒れたところへ短剣が突き立つ。


「一本!」


 軽口みたいに言う声だったが、余裕があるわけではない。


「セリア!」


「はい!」


「後ろから下がってる気配あるか!」


 少しの間。


「……あります!」


 セリアが叫ぶ。


「木の上です!」


「は?」


 リオが思わず上を見る。


 煙の向こう、木立の高い位置に、何かがいた。


 人影。


 いや、人影に見えるもの。


 枝の上に、不自然な姿勢でしゃがんでいる。


 目が合った気がした。


 次の瞬間、それは後ろへ跳んだ。


「逃がすな!」


 ガルドが言う。


「カイン!」


「ああ!」


 カインが一体を斬り捨てて跳ぶ。


 だが、木立の奥へ消える方が速い。


「追うか!?」


 リオが叫ぶ。


「ダメだ」


 ガルドが即答した。


「今は下手に分かれるな」


「でも」


「向こうは地形知ってる」


 短いが十分な説明だった。


 たしかに、ここで一人でも深追いすれば危ない。


 煙が薄れ始める。


 地面には三体。いや、四体か。だが木立の奥にはまだ気配が残っている。


「……引くぞ」


 ガルドが言った。


「えっ」


 リオが見る。


「今ですか」


「今だ」


「まだいる」


「だからだよ」


 ガルドの声は低い。


「操ってるやつがいて、地形は向こう有利、しかも昼間でこれだ。これ以上奥に入るのは、向こうの土俵に足突っ込むだけだ」


 悔しいが、その通りだった。


 カインも不満そうではあるが、否定しなかった。


「一回戻る」


 ガルドが続ける。


「人数と道具を整えて、情報まとめて、それから潰す」


「……はい」


 リオは頷いた。


 その時、地面に転がっていた一体の手が、ぴくりと動いた。


 まだ動くのか――そう思った瞬間、ガルドが躊躇なく踏み砕いた。


 嫌な音がして、完全に止まる。


「甘く見るな」


 ガルドが言う。


 その声に、今度こそ迷いはなかった。


「こういうのは“止まったかも”じゃ足りねえんだよ」


 それは、リオに向けてでもあり、自分にも向けているような言い方だった。



 戻り道は、来た時よりずっと短く感じた。


 実際には同じ道なのに、誰も余計な話をしないからだろう。


 セリアは無事だったが、顔色は少し青い。


 カインは終始周囲を警戒し、ガルドは何かを考え続けている顔をしていた。


「……あれ」


 ようやくリオが口を開いた。


「人だったんでしょうか」


 誰もすぐには答えなかった。


 少しして、ガルドが言う。


「元はな」


「じゃあ今は」


「道具だ」


 その言い方が、嫌に冷たく聞こえた。


「操ってる側からしたら」


 セリアが小さく息を吐く。


「最悪ですね」


「最悪だな」


 カインが短く言った。


 それ以上の言葉はなかった。



 ギルドに戻った時、空気は一瞬で変わった。


 こちらの顔を見て、ミレナが何かあったと悟る。


「どうしたんですか」


 リオが答えるより先に、ガルドが言った。


「東の旧街道、閉じろ」


 短く、迷いなく。


 その一言だけで十分だった。


 ミレナの顔色が変わる。


「……どの程度ですか」


「昼間に四体。操り系。たぶん術者が近い」


「っ」


 ミレナはすぐにベルを鳴らした。


 今度は遊びじゃない、本物の招集音だった。


 ギルドの空気が、日常から一段深いところへ切り替わる。


 ナナが酒場側から顔を出し、ドーガがすぐに入口を固め、奥からアルが出てくる。


「報告を」


 それだけだった。


 ガルドは頷き、短く状況を伝える。


 足跡、静けさ、休憩所、最初の一体、煙、木の上の人影。


 必要なことだけを、削りすぎない程度に言う。


 アルは最後まで口を挟まなかった。


「……術者が近いなら、街道封鎖だけでは足りんな」


 報告が終わって最初の言葉がそれだった。


「ああ」


 ガルドが言う。


「向こう、たぶん試してる」


「何をだ」


 カインが聞く。


「こっちの反応と、どこまで街に近づけるかだろ」


 その言い方に、場の空気がさらに硬くなる。


「なら」


 アルが言う。


「今日のうちに位置を絞る必要がある」


「だから戻ってきた」


 ガルドが答える。


「人数を増やす。あと、対操り系の準備だ」


 バルドレイの顔が頭に浮かんだのか、アルはすぐにミレナへ視線を向けた。


「学園へ連絡を」


「はい!」


 ミレナが走る。


 いつもの彼女ならここで一言二言文句も言うだろうが、そんな余裕はない。


「セリア」


 アルが言う。


「回復薬より、精神干渉と毒煙対策を優先」


「分かりました」


「ドーガ、門の出入りを絞れ」


「了解」


「ナナ、街道沿いから来る噂を全部拾え」


「任せて」


 矢継ぎ早に指示が飛ぶ。


 その中で、ガルドだけが少しだけ遅れて口を開いた。


「リオ」


「はい」


「次からは躊躇するな」


 その一言に、リオは少しだけ息を呑んだ。


「……首ですか」


「首だ」


「人に見えても?」


「見えてるだけだ」


 ガルドの声は静かだった。


「助けられる段階なら違う。でも今日のは違った」


 リオは短く頷く。


「分かりました」


 嘘ではない。


 まだ全部は飲み込めていないが、分からないままでも次に備えるしかない。


 日常は壊れた。


 敵は見えた。


 しかも、ただの魔物ではない。


 次に行く理由は十分すぎるほどできた。


 そしてその理由を、この場の誰もがもう共有している。



 異常というものは、だいたい静かなところから来る。

 鳥が鳴かない、風が重い、何かがいるのに輪郭がない。


 その違和感を見過ごさなかった時点で、もう日常には戻れない。

 あとは、どこまで踏み込むかの話になる。


 その日は、そこで終わった。

 東の旧街道は閉じられ、ギルドは本当の意味で戦いの準備に入る。


 いつもの軽口も、いつもの騒ぎも、完全に消えたわけではない。

 だが、その奥で全員が同じものを見始めている。


 ――“これは、ちゃんと潰しに行かないといけない類の面倒ごとだ”と。

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