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栄光の中年、ただ生きる  作者: vastum


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■第28話「座り心地がいい椅子は、だいたいろくなことを呼ばない」

 人は、どうでもいい快適さに弱い。


 命に関わるわけでもない。明日の生活が変わるわけでもない。なくても困らないし、あっても大した得にはならない。けれど、ほんの少しだけ居心地がよくなるものが目の前にあると、妙に執着が湧くことがある。


 座り心地のいい椅子とか、ちょうどいい高さの机とか、手に馴染むマグカップとか、そういう類のものだ。


 誰の物でもないようで、でもなんとなく「これは自分の場所だ」と思ってしまうものほど、揉めると面倒くさい。


 そして、ギルドの朝にそれが起きると、その日はだいたいろくでもない一日になる。


 その日、問題になったのは椅子だった。


⸻


 朝のギルドは、いつものように少し騒がしかった。


 依頼掲示板の前には数人の冒険者が集まっていて、報酬の少なさに文句を言う声や、昨日の討伐で誰が何匹倒しただの、どうでもいいが本人たちには重要らしい話が飛び交っている。受付ではミレナがすでに二人分の報告書を捌き、さらに奥からは誰かが酒場用の樽を運んでいる音がした。


 いつも通りだ。


 ただ一つだけ、いつもと違うものがあった。


「……なんだこれ」


 ギルドの中央、いつもなら少し古びた木椅子が並んでいる休憩用スペースに、一脚だけ見慣れない椅子が置かれていた。


 深い茶色の木でできていて、背もたれの角度が絶妙に緩く、座面には薄い革張りのクッションまでついている。派手ではないが、明らかに他の椅子より質がいい。見た瞬間にわかる。「あ、これ座ったら楽なやつだ」と。


 そして、その椅子に真っ先に座っていたのがガルドだった。


「……いいな」


 第一声がそれだった。


 深く腰掛け、背中を預け、腕を組み、すでに半分自分の椅子みたいな顔をしている。


「何がですか」


 依頼掲示板を見ていたリオが近づく。


「この椅子」


 ガルドが言う。


「やたらいい」


「見ればわかりますけど、なんで座ってるんですか」


「空いてたからだ」


「理屈はわかるんですけど、まず“誰のですか”って確認しないんですか」


「確認する前に座りたかった」


「気持ちはわからなくないですけど、ダメ寄りです」


 リオも椅子を見た。


 確かにいい椅子だ。


 座ってみたくなる気持ちはわかる。だが、ギルドに突然こういう物が現れる時は、ろくなことにならない。


「ミレナさん」


 リオが受付に声をかける。


「あの椅子、知ってます?」


 ミレナは書類から顔を上げ、椅子を見て、少しだけ眉をひそめた。


「……知りません」


「知らないんですね」


「昨日まではありませんでした」


 その言い方がもうだいぶ嫌な予感を煽った。


「じゃあ誰が置いたんですか」


「それがわかれば苦労しません」


 ミレナは手を止めて立ち上がると、椅子の方へ歩いてきた。


「ガルドさん」


「なんだ」


「どいてください」


「なんでだ」


「誰の物かわからないからです」


「じゃあ座ってても問題ないだろ」


「問題あります!」


 ミレナは即答した。


「勝手に使い始めるのが一番よくないんです!」


「まだ使い始めて十分も経ってねえぞ」


「十分あれば十分です!」


 だがガルドはどかない。むしろ少しだけ椅子に深く座り直した。


「これ、座り心地がいい」


「そういう問題じゃありません!」


「背中が楽だ」


「聞いてません!」


 もう半分くらい気に入っていた。


⸻


 そこへ、セリアが治療棟の方から出てきた。


「どうしたんですか?」


「謎の椅子です」


 リオが説明する。


「誰のかわからないのに、ガルドさんが座ってます」


「もう少し言い方あるだろ」


 ガルドが言う。


「先に試してる、でいい」


「勝手に試してる、ですね」


 ミレナが補足した。


 セリアは椅子を見て、小さく目を丸くした。


「……なんか、すごくいい椅子ですね」


「だろ」


 ガルドが言う。


「座ればわかる」


「だから勧めないでください!」


 ミレナが止める。


 だが、セリアは少しだけ興味ありげに椅子を見ていた。


 気持ちはわかる。見るからに楽そうだ。しかも、こういう「一脚だけ違う」物は妙に気になる。


「これ、誰のなんでしょう」


 セリアが言う。


「知らん」


 ガルドが言った。


「なんで自分の椅子みたいな顔してるのに知らないんですか」


 リオが言うと、ガルドは少しだけ考えてから答えた。


「気持ちの問題だ」


「全然わかりません」


⸻


「……何だ」


 低い声がして、カインが入ってきた。


 いつものように無駄のない足取りでギルドに入り、そして一瞬で空気の中心を見つけて足を止める。


「なんだ、その椅子」


「知らん」


 ガルドが言う。


「知らんのか」


「でも座り心地はいい」


「聞いてない」


 カインが一歩近づく。


 椅子を見る。


 ガルドを見る。


 椅子を見る。


「……どけ」


「なんでだ」


「確認する」


「座ってからか?」


「違う」


 だが、その視線には確かに少しだけ「座ってみたい」が混じっていた。


 リオは見逃さなかった。


「カインさんも気になってますよね」


「気になってない」


「今三回見ましたよ」


「確認しただけだ」


「座りたいだけじゃないですか」


「違う」


 だいぶ怪しい。


⸻


 その時だった。


「おっ、なんかいい椅子あるじゃん!」


 声と共にライルが現れた。


「帰れ」


 ガルドが即答する。


「なんでだよ!」


「お前が来ると話がややこしくなる」


「もう十分ややこしいだろ!」


 それはそうだ。


 だがライルは気にしない。気にしたことがない顔で椅子に近づき、ガルドの肩越しにじろじろと眺めた。


「いいなこれ」


「だろ」


「座らせろ」


「嫌だ」


「なんでだよ!」


「今俺が座ってるからだ」


「子どもか!」


 ライルは背もたれを押してみた。


「おっ、しなる」


「やめろ」


 ガルドが少しだけ本気の声を出した。


「今、俺の腰に響く」


「俺のじゃないだろ!」


 ライルが笑う。


 すでに全員の中で「誰の物か」より「誰が座るか」の話に変わりつつあるのが、実に良くない流れだった。


⸻


「ちょっと、やめてください!」


 ミレナが二人の間に入る。


「そんな風に取り合うくらいなら、なおさら一回どかして確認します!」


「確認って何を」


 リオが聞く。


「印とか、持ち主の札とか、底に刻印とか」


 ミレナはそう言って椅子の背を掴んだ。


「ガルドさん、降りてください」


「嫌だ」


「なぜですか!」


「立つ理由がない」


「十分あります!」


「座ってると楽だ」


「さっきからそればっかりですね!?」


 ガルドは本当に椅子を気に入っていた。


 珍しく、まっすぐに執着している。食べ物以外でここまでわかりやすいのは、少し珍しいかもしれない。


⸻


 結局、アルが出てきた。


「朝から何をしている」


 静かな声なのに、なぜかそれだけで少し場が締まる。


「椅子です」


 リオが言った。


「それだけだとまったくわからないな」


「誰の物かわからない椅子があって、ガルドさんが座ってて、ミレナさんがどかしたくて、ライルさんが座りたくて、カインさんが確認したくて、セリアさんがちょっと気になってて、僕は巻き込まれてます」


「要領を得ているようで、ひどい状況だな」


 アルは一歩近づいて椅子を見た。


「……たしかに、見覚えはない」


「だろ?」


 ガルドが言う。


「じゃあ今は俺のだ」


「ならん」


 アルは即答した。


「なぜだ」


「理屈が通ってない」


「気持ちは通ってる」


「理屈を通せ」


 アルは本気でそう言った。


 だが椅子を見つめる目は少しだけ真剣だった。


「……座り心地はどうだ」


 ぽつりと聞いた。


 場が静まる。


 ガルドが答える。


「いい」


「そうか」


「気になるだろ」


「少しな」


 アルですら少し気になっているらしい。


「なら座れ」


「いや、それは確認してからだ」


 そこはさすがに理性が勝っていた。


⸻


 ミレナの指示で、ついに椅子を一度どかすことになった。


 ガルドは本気で嫌そうだったが、アルとカインが同時に腕を組んで見ている状況ではさすがに突っぱねきれなかった。


「……絶対戻すぞ」


「戻すかどうかは確認してからです!」


 しぶしぶ立つ。


 ミレナとリオが椅子を持ち上げる。


「思ったより重いですね」


 リオが言う。


「しっかりしてます」


「高そうだな」


 ライルが言う。


「だからこそ誰のか確認するんです!」


 ミレナは椅子をひっくり返そうとした。


 その瞬間だった。


 小さく、からん、と音がした。


「あれ?」


 セリアが言う。


「何か落ちました」


 床に転がったのは、小さな金属片だった。


 いや、よく見るとそれは鍵だった。椅子の座面の裏側に、小さな収納がついていたらしい。


「収納付き!?」


 リオが思わず言う。


 全員の目が椅子に集まる。


 やっぱりただの椅子ではなかった。


「なんで椅子に鍵がついてるんですか」


 ミレナが言う。


「知らん」


 ガルドが言う。


「そこはもういいです!」


 座面の裏を調べると、たしかに小さな引き出しのような構造があった。そこに小さな鍵穴がついていて、今落ちた鍵はそれらしい。


「開けますか」


 リオが言う。


 全員が少しだけ身を乗り出した。


 椅子の収納なんて、ろくでもないものが入っている気しかしないのに、気にならないわけがない。


「開けるしかないだろうな」


 アルが言う。


「確認のためにも」


「そうですね」


 ミレナが頷く。


「持ち主の手がかりがあるかもしれません」


「お宝かも!」


 ライルが目を輝かせる。


「お前は黙れ」


 ガルドが言う。


⸻


 鍵を差し込む。


 回す。


 かちり、と音がして、小さな引き出しが開いた。


 中に入っていたのは――


 布袋一つと、折りたたまれた紙だった。


「ほんとに何か入ってた……」


 リオが呟く。


「読むぞ」


 アルが紙を取る。


 全員が見守る。


 紙には、ひどくきっちりとした字でこう書かれていた。


 『勝手に座った者へ この椅子は修理待ち 背もたれがたまに外れるので注意』


 一拍。


 全員が無言で、ゆっくりガルドを見た。


「……」


 ガルドも少しだけ黙った。


 それから、ものすごく嫌そうな顔で言った。


「言うの遅いだろ」


「遅くないです!」


 ミレナが叫ぶ。


「今わかったんですから!」


「つまり、さっきまで壊れかけの椅子に座ってたんですね……」


 リオが言う。


「そうなるな」


 アルが落ち着いて頷く。


「危なかったな」


「座り心地がよかったのに?」


 ガルドが言う。


「だから逆に危ないんです!」


 ミレナは完全に呆れていた。


「しかも修理待ちってことは、誰かの物じゃないですね」


 セリアが言う。


「共有備品かもしれません」


「だな」


 カインが言う。


「だが、直す前に出すな」


「本当にそうです」


 リオも心から同意した。


⸻


 布袋の中身は、予備のねじと金具だった。


 つまり本当に修理待ちの椅子だったらしい。


「なんでこんな目立つところに置いてあるんだ」


 ガルドが不満げに言う。


「座れって言ってるようなもんだろ」


「言ってません!」


 ミレナがまた叫ぶ。


「むしろ“勝手に座るな”です!」


「書いてねえじゃん」


「中に書いてありましたよ!」


「開けるまでわからんだろ」


「だから最初に確認するんです!」


 正論の連打だった。


⸻


「で、修理するのか?」


 ガルドが椅子を見ながら聞いた。


「するに決まってるでしょう」


 ミレナが言う。


「こんな良い椅子、捨てるわけにもいきませんし」


「だろ?」


 ガルドがすかさず言う。


「直したら俺のにしよう」


「なりません!」


 ミレナが即答した。


「なんでだよ!」


「共有備品です!」


「俺が一番必要としてる」


「必要の意味が違います!」


 だが、その時、ガルドはさっき引き出しに入っていた金具を手に取っていた。


「……これなら直せるぞ」


「え?」


 リオが言う。


「本当ですか?」


「背もたれの留めが緩んでるだけだろ」


 椅子の背を確認する。


 たしかに、片側の金具が浮いている。そこにねじを入れ直せば済みそうではある。


「直すのか?」


 アルが聞く。


「できるならな」


 ガルドが言う。


「でも、また余計なこと始めませんよね?」


 リオが釘を刺す。


「椅子修理したら次は机だとか言い出しませんよね?」


「言わん」


「本当ですか?」


「椅子が先だ」


「順番の話じゃないです!」


 だが、ミレナは少し考えたあと言った。


「……直せるなら、お願いします」


「いいのか?」


「いいです」


 ミレナは真顔で言う。


「ただし、直したからって私物化はなしです」


「そこ厳しいな」


「当然です!」


 こうして、朝から謎の椅子騒ぎは、なぜか“椅子修理”へと変わった。


⸻


 工具は倉庫から借りてきた。


 ガルドが椅子をひっくり返し、床に座って作業し始める。


 その周りを、なぜか全員が取り囲んで見ていた。


「なんで見てるんだ」


 ガルドが言う。


「暇だからですかね」


 リオが言う。


「お前もだろ」


「否定はしません」


 ガルドの手つきは意外と慣れていた。


 金具を外し、歪みを見て、ねじを締め直し、木部のぐらつきも確認する。


「器用ですね」


 セリアが感心したように言う。


「まあな」


「こういうのまでできるんですね」


「だいたい何でもできる」


「そういう言い方すると胡散臭いですけど」


 リオが言うと、ガルドは「本当なんだからしょうがない」と返した。


 たしかに、こういう細かい修理は妙にうまい。


「昔、野営地で椅子直したことあるんですか?」


 リオが聞く。


「椅子はねえな」


「じゃあなんでそんな手慣れてるんですか」


「似たようなもんは直すだろ」


「椅子と似たようなものって何です?」


 少し考えてから、ガルドは言った。


「馬車の座席」


「規模が一気に上がりましたね」


 でも、なんとなく納得はできた。


⸻


 十分ほどで、椅子は直った。


 背もたれのぐらつきはなくなり、金具もきっちりはまり、見た目にはほとんど元通りだ。


「座ってみるか」


 ガルドが言う。


「なんで一番に座る気なんですか」


「直したからだ」


「その理屈ずるいですね」


 だが、アルが先に言った。


「待て」


「なんだ」


「確認は必要だ」


「お前も座りたいだけだろ」


「否定はしない」


 珍しく素直だった。


「では、一人ずつ確認しましょう」


 ミレナが言う。


「何の確認ですか」


 リオが聞く。


「座り心地です」


「真顔で言いましたね」


 もう話が完全にそっちへ流れている。


 結局、全員が一回ずつ座ることになった。


⸻


 最初はアルだった。


 静かに腰を下ろし、少しだけ背もたれに体重をかける。


「……悪くない」


「その感想、かなり高評価ですね」


 リオが言う。


「普通より少し上だ」


「わかりづらいです!」


 次はカイン。


「……いいな」


 短い。


「短っ!」


 ライルが言う。


「でも顔が全部言ってますよ!」


 実際、少しだけ表情が緩んでいた。


 セリアは座って「わあ……楽です」と素直に感動していた。


 ミレナも座ったが、第一声が「仕事中にこれがあったら動きたくなくなりますね」だった。


「つまりいいんですね」


 リオが言う。


「いいです」


「認めましたね」


「認めますけど、だからこそ危険です!」


 どういう意味なんだろうか。


 ライルは座った瞬間に「これで昼寝できる!」と言ったので、全員から却下された。感想としては最悪だが、たぶん本音なのだろう。


 最後にリオも座ってみた。


「……あ、本当にいいですね」


「だろ?」


 ガルドが即座に言う。


「その“だろ”に一番説得力があるのが悔しいです」


 背中が自然に預けられて、腰も楽で、脚の角度も妙にちょうどいい。これはたしかに、誰でも座りたくなる。


⸻


「で、これどうするんですか?」


 リオが聞く。


 話はそこだ。


 良い椅子であることはもう全員認めた。だが一脚しかない。


「共有でいいだろ」


 アルが言う。


「使う者が使えばいい」


「絶対揉めます」


 ミレナが即答した。


「もう今揉めてるじゃないですか」


「たしかに」


 セリアが言う。


「朝からずっとですし……」


「なら受付で管理する」


 ミレナが言った。


「使用申請制にします」


「重い!」


 リオが思わず叫ぶ。


「椅子一脚に対して制度が重い!」


「でもそれくらいしないと絶対にガルドさんが常用します!」


「悪いの俺前提なのかよ」


「その通りでしょう!」


 ライルが笑いながら言う。


「じゃあ勝負で決めようぜ」


「帰れ」


 全員に近い勢いで却下された。


「なんでだよ!」


「余計に揉めるからです!」


 ミレナが言う。


「じゃあどうするんだ」


 ガルドが腕を組む。


「使いたい時に毎回取り合いか?」


「それは嫌ですね……」


 リオも同意した。


⸻


 少しだけ沈黙が落ちた。


 そして、その沈黙を破ったのは、意外にもドーガだった。


 いつの間にか来ていたらしい。


「門の交代で寄ったが、何してる」


「椅子です」


 リオが言う。


「だからわからん」


「いい椅子が見つかって、直して、誰が使うかで揉めてます」


「なるほど」


 なるほど、で済む内容なんだろうか。


 ドーガはその椅子を見て、一度だけ座った。


 それから立ち上がって言った。


「門に置けばいい」


 一瞬、全員が静まる。


「えっ」


 ミレナが言う。


「なんでですか」


「門番は長時間座らんが、交代の前後に一番ありがたい」


 ドーガが淡々と言う。


「ギルドの中央に置くと取り合いになる。門なら使う目的が明確だ」


 その理屈は、妙に筋が通っていた。


「たしかに……」


 セリアが頷く。


「休憩用なら、門の方が必要かもしれません」


「でも俺も使いたい」


 ガルドが言う。


「門に来ればいい」


 ドーガが即答した。


「……それは面倒だな」


「だろうな」


 きっぱり返された。


 そして全員が、少しずつその案に納得し始めていた。


「それなら、使用申請もいりませんね」


 ミレナが言う。


「門番の休憩椅子として置いておけば、誰が使うかもはっきりします」


「悪くないな」


 アルも頷く。


「中央に置くより争いが減る」


「争い前提なんですね」


 リオが言うと、アルは落ち着いて答えた。


「減らせる争いは減らした方がいい」


 まったくその通りだった。


⸻


 こうして、その椅子は門へ移されることになった。


 最後にもう一度だけガルドが座ろうとしたが、ミレナに止められ、ライルに「最後くらいいいじゃん」と余計な援護をされ、カインに「往生際が悪い」と言われ、セリアに「また来れば座れますよ」と慰められた。


「なんで俺だけこんなに不利なんだ」


「最初に私物化しようとしたからです」


 ミレナが言う。


「その時点で負けてるんですよ」


 正論だった。


 ドーガが椅子を軽々と持ち上げる。


「じゃあもらっていく」


「もらうな」


 ガルドが言う。


「共有だろ」


「門の共有だ」


 ドーガが返す。


「厳しいな」


「普通だ」


 それもまた、正しかった。


⸻


 椅子がなくなった後のギルド中央は、少しだけ拍子抜けするくらい普通に見えた。


 たった一脚の椅子でここまで空気が変わるのだから、くだらないようでいて、案外こういうことは大きい。


「結局、朝から何してたんですかね」


 リオが言う。


「椅子だ」


 ガルドが答えた。


「だからそれだけだとわかりませんって」


「でも椅子だったろ」


「まあ、そうですけど……」


 結局その通りだった。


 誰の物かわからない椅子が現れて、座って、揉めて、直して、回収先が決まった。


 それだけだ。


 それだけなのに、午前中がきれいに全部それで終わってしまった。


「で、依頼はどうするんですか」


 リオが聞く。


「軽いの」


 ミレナが先に言う。


「今からでも間に合うものだけにしてください」


「俺は疲れた」


 ガルドが言う。


「座ってただけですよね?」


「精神的にだ」


「その消耗、だいぶ自業自得です」


 だが、結局二人は軽い街中の見回り依頼を受けることになった。


 内容は簡単だったし、特に事件も起きなかった。


 門の前を通りかかった時、ドーガが新しい椅子に一瞬だけ腰掛けてから立ち上がるのが見えた。


 たしかに、あそこにある方がしっくりきている気もする。


「……似合ってますね」


 リオが言う。


「だな」


 ガルドが少しだけ不満げに言った。


「でも、俺にも似合ってた」


「そうかもしれませんけど、置く場所は別です」


「厳しいな」


「普通です」


 今日は何回このやり取りをしたかわからない。


⸻


 ギルドに戻る頃には、椅子の話題はだいぶ片付いていた。


 ミレナは受付に戻り、セリアは治療棟へ戻り、カインは訓練場へ向かい、ライルは途中でどこかへ消え、アルは書類に埋もれている。


 朝の騒ぎが、もう少し前のことのように感じるくらいには、日常はさっさと次の話題に移っていく。


「なんか、今日はこれで終わりそうですね」


 リオが言う。


「終わるだろ」


 ガルドが言う。


「椅子は門に行ったし」


「そうですね」


「よかったな」


「何がですか」


「壊れたまま使われなくて」


 その言い方は、少しだけ意外だった。


 リオがガルドを見ると、本人は別に深いことを言ったつもりはない顔をしている。


「……まあ、それはそうですね」


「直した意味あっただろ」


「ありましたね」


 そこだけは素直に認めた。


 座り心地がいい椅子は、ろくなことを呼ばない。

 でも、直るなら直した方がいいし、置き場所が決まるなら決まった方がいい。


 その日の話題は、その日で終わった。

 翌日になれば、また別のくだらないことが起きるだろう。


 でも少なくともその日は、朝から椅子一脚で大騒ぎして、昼には置き場所が決まり、夕方には誰もそこまで気にしていなかった。

 それで十分だった。


 どうでもいいことで揉めて、ちゃんと片づく。

 そういう日も、悪くない。

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