■第98話「手が届く場所」
朝のギルドは、相変わらず騒がしかった。
エインの声。
食器の音。
掲示板の前で依頼票を読む冒険者達。
ナナの笑い声。
ミレナの注意。
ベルクの豪快な欠伸。
ユーンの「普通に便利」という主張。
レオンの真面目な確認。
そして、ガルドの「うるせえ」。
全部、いつも通りだった。
だが、ひとつだけ違うことがある。
ガルドの前に置かれていたのが、水ではなく、薄い酒だった。
「解除ですか」
リオが言う。
「解除だ」
ガルドは不満そうに酒を見ていた。
「嬉しそうじゃないですね」
「水期間が長すぎた」
「三日くらいですよね?」
「長えよ」
ナナが笑う。
「でも、ちょっと健康そうになったよ」
「余計なお世話だ」
「顔色は確かに良くなりました」
セリアが頷く。
「今日からなら、少量なら大丈夫でしょう」
「許可出た!」
ベルクが嬉しそうに言う。
「祝杯だ!」
「お前は違う」
セリアが即答した。
「なんでだ!」
「ベルクさんはいつでも飲めます」
「確かに」
メイナが頷く。
「ガルドさんは病み上がり特例」
「くそっ、羨ましい!」
ガルドは嫌そうな顔をしながら、少しだけ酒を飲んだ。
それだけで、周囲が妙に安心する。
「戻りましたね」
リオが言う。
「何がだ」
「いつもの感じ」
「……」
ガルドは返事をしなかった。
ただ、少しだけ口元が緩んでいた。
その時。
ギルドの扉が開いた。
入ってきたのは、小柄な老人だった。
年齢はかなり上。
背中は少し曲がっている。
帽子を被り、古びた杖を持っている。
だが、目はしっかりしていた。
「おはようございます」
ミレナが受付で声をかける。
「依頼ですか?」
「ああ、頼みたいことがあってな」
老人はゆっくり掲示板を見る。
そして、小さく笑った。
「賑やかなギルドだ」
「毎日こんな感じです」
ナナが言う。
「良いことだよ」
老人は頷いた。
それから、少しだけ言いづらそうに口を開く。
「……荷車をな。運んでほしいんだ」
「荷運び依頼ですね」
ミレナが確認する。
「どちらまで?」
「西の丘の向こうだ。小屋があってな」
「荷物は?」
「本」
老人は言った。
「全部、本だ」
その瞬間。
ベルクが嫌そうな顔をした。
「重そう」
「重そうですね」
リオも苦笑する。
「冊数は?」
ミレナが聞く。
「百……いや、百二十くらいか」
全員が少し黙った。
「重い」
エインが素直に言った。
「重いな」
ガルドも頷く。
「でも、急ぎじゃない」
老人は言う。
「ゆっくりでいい。落とさなければ」
「本を移すんですか?」
リオが聞く。
「ああ」
老人は少し遠くを見る。
「古い家を閉めるんだ」
酒場が少し静かになった。
「一人じゃ無理でな。頼めるか」
「もちろんです」
ミレナが答える。
「ただ、量が多いので人数を出します」
「助かる」
老人は頭を下げた。
依頼はすぐに受理された。
参加者は、リオ、エイン、メイナ。
それに、ベルク。
「力仕事だからな!」
ベルクが胸を張る。
「本棚ごと持てる!」
「本棚ごとはやめてください」
ミレナが即答した。
「家壊れます」
「冗談だ!」
「ちょっと怪しかったです」
リオが言う。
ガルドは席で酒を飲みながら見ている。
「お前は行かねえんですか?」
エインが聞いた。
「病み上がりだ」
「珍しいですね」
「セリアがうるせえ」
「当然です」
セリアが微笑む。
「今日は休憩込みでお願いしますね」
「……分かってる」
やっぱりまだ少し逆らえない。
老人の家は、街の端にあった。
古い木造の家。
庭には草が伸び、窓辺には乾いた鉢植えが並んでいる。
だが、中は驚くほど綺麗だった。
「うわ」
エインが声を漏らす。
「本だらけ」
本当に、本だらけだった。
壁一面。
床にも積まれている。
机の上。
椅子の横。
階段下。
全部、本。
古い革表紙。
分厚い辞典。
冒険譚。
植物図鑑。
歴史書。
地図。
見たことのない文字の本まである。
「すごいですね……」
メイナが呟く。
老人は少し嬉しそうに笑った。
「集めたんだ。長いことな」
「全部読むんですか?」
エインが聞く。
「読んだ」
「全部!?」
「何度も読んだものもある」
リオは本棚を見る。
かなり古い。
でも、丁寧に扱われている。
角が潰れていない。
埃も少ない。
「大事にしてたんですね」
リオが言う。
「……まあな」
老人は少しだけ目を細めた。
「昔は旅をしていてな。本を見つけるたびに買った。気づけばこうなった」
「旅の本も多いですね」
メイナが一冊を見ながら言う。
「ああ。昔は冒険者みたいなこともしていた」
「えっ」
エインが驚く。
「本当に!?」
「昔の話だ」
老人は笑う。
「今は階段もつらい」
「でも、本は残したいんですね」
リオが言った。
老人は少し黙った。
「……残したい、というより」
窓の外を見る。
「捨てたくないんだろうな」
その言葉に、誰もすぐ返せなかった。
分かる気がしたからだ。
ただの物ではない。
時間なのだ。
積み重ねたもの。
旅した場所。
見た景色。
読んだ夜。
全部が詰まっている。
「よし!」
ベルクが手を叩いた。
「じゃあ運ぶか!」
「お願いします」
老人は頭を下げた。
作業は想像以上に大変だった。
本は重い。
しかも量が多い。
箱へ詰め、荷車へ積み、小屋まで運ぶ。
丘の向こうまで往復。
しかも、落とせない。
「重っ!」
エインが箱を抱えながら叫ぶ。
「静かに」
メイナが言う。
「本落ちる」
「すみません!」
ベルクは大箱を軽々持っていた。
「おお、筋肉が喜ぶ!」
「その感想初めて聞きました」
リオが言う。
「本で筋肉喜ぶんですね」
「全部重さだからな!」
ベルクは笑う。
だが、ちゃんと丁寧に運んでいる。
乱暴には置かない。
意外と繊細だ。
「ベルクさん」
リオが言う。
「なんだ!」
「優しい置き方ですね」
「本は壊れるからな!」
「ちゃんとしてる」
「昔、酒場で本棚壊してナナに怒られたからな!」
「学習理由」
メイナが呟く。
小屋は丘の向こうにあった。
小さいが、風通しが良い。
中には新しい棚が作られている。
「ここへ移すんですか?」
リオが聞く。
「ああ。小さいが、今後はここで暮らす」
「一人で?」
「一人だ」
老人は穏やかに答えた。
「街は便利だが、少し賑やかすぎてな」
その時。
「分かります!」
エインが元気よく言った。
全員が見る。
「えっ、お前が?」
ベルクが驚く。
「エイン、静かな場所好きなの?」
「好きです!」
「意外」
「でも、一日で寂しくなります!」
「だろうな」
リオが笑った。
作業は続く。
三往復。
四往復。
昼を過ぎる頃には、皆汗だくだった。
「休憩しましょう」
メイナが言う。
「賛成!」
エインが即答する。
老人は水を出してくれた。
「悪いな」
「いえ」
リオは水を飲みながら、小屋の中を見る。
少しずつ本が並び始めている。
古い冒険譚。
植物図鑑。
旅の記録。
どれも、ちゃんと居場所を与えられている。
「本、好きなんですか?」
老人が聞いた。
「読むのは好きです」
リオが答える。
「でも、こんなに詳しくはないです」
「それでいい」
老人は笑う。
「本は、全部読む必要はない」
「そうなんですか?」
「必要な時に、必要なものが見つかればいい」
エインが首を傾げる。
「でも、全部読みたくなりません?」
「若いな」
老人は笑った。
「昔は私もそうだった」
その目は、少し遠くを見ていた。
「でもな。年を取ると分かる。全部は無理だ」
リオは少しだけ、掲示板の話を思い出した。
全部はできない。
でも、届く分だけやる。
それは、本も同じなのかもしれない。
「じゃあ」
エインが聞く。
「一番好きな本ってありますか?」
老人は少し考えた。
それから、本棚の奥を指差す。
「あれだ」
古い本だった。
表紙は擦れている。
タイトルも薄い。
「冒険譚ですか?」
「いや」
老人は笑った。
「料理本だ」
全員が止まった。
「料理本!?」
エインが叫ぶ。
「意外!」
「旅の途中、腹を壊してな。宿屋の婆さんが粥を作ってくれたんだ。その味を忘れたくなくて、料理を覚えた」
「へえ……」
「それで、旅先の料理を記録してたら、いつの間にか本が増えた」
老人は懐かしそうだった。
「結局、人は腹が減る。どんな英雄でもな」
「分かります!」
エインが力強く頷く。
「俺、毎日腹減ります!」
「お前は減りすぎだ」
ベルクが笑う。
午後。
最後の箱を運び終えた時、小屋の中はかなり埋まっていた。
本棚。
積まれた本。
窓から入る光。
静かな空気。
老人はそれを見回して、小さく息を吐いた。
「……終わったか」
「終わりましたね」
リオが言う。
「助かった」
老人は深く頭を下げた。
「本当に」
「いえ」
「ここまで綺麗に並べてもらえるとは思わなかった」
メイナが少し笑う。
「エインが途中で本を積み上げ始めた時は危なかったですけど」
「バランス良かったんですよ!?」
「崩れそうだった」
「少しだけ!」
「十分危ない」
ベルクが笑う。
老人も笑った。
その笑顔は、朝より柔らかかった。
「若い連中が来てくれてよかった」
リオは少し照れた。
「そんな大したことじゃ」
「いや」
老人は静かに首を振る。
「物を運んだだけじゃない」
窓際の本を撫でる。
「“残していい”と思えた」
その言葉に、リオは返事ができなかった。
帰り道。
夕焼けが丘を赤くしていた。
エインは荷車を押しながら言う。
「なんか、今日の依頼、変でしたね」
「変?」
リオが聞く。
「魔物も出ないし、戦ってないのに、なんか疲れました」
「本重かったから」
メイナが言う。
「それもあります!」
「でも、悪い疲れじゃなかったです」
リオは頷いた。
「うん」
確かにそうだ。
達成感がある。
誰かを助けた、というより。
誰かの大事なものを守った感じ。
「リオさん」
エインがふと聞く。
「はい」
「俺達、ちゃんと冒険者っぽくなってますかね」
リオは少し考えた。
最初の頃の自分達。
失敗ばかり。
怒られて。
迷って。
怖がって。
走って。
転びそうになって。
でも今は。
依頼人に説明できる。
確認できる。
危険を止められる。
若手を見ることもある。
小さな依頼を任される。
「……なってると思う」
リオは答えた。
「少なくとも、前よりずっと」
「やった」
エインは嬉しそうに笑った。
「でも、まだまだです!」
「うん」
「もっと頑張ります!」
「調子に」
「乗りません!」
先回りだった。
リオとメイナが笑う。
ギルドへ戻ると、ガルドがいつもの席に座っていた。
「戻ったか」
「はい」
「遅かったな」
「本が多かったので」
「依頼人、あの爺さんか」
リオは少し驚く。
「知ってるんですか?」
「昔、本売ってた」
「へえ」
「変な本押しつけてくる」
「どんな?」
「料理本」
全員が吹き出した。
「好きなんですね!」
エインが笑う。
「昔からだ」
「今日も一番好きな本って言ってました」
ガルドは少し鼻で笑った。
「だろうな」
「知ってたんですね」
「昔、酔って料理失敗して鍋燃やした時、あの爺さんに本渡された」
「何してるんですか」
リオが呆れる。
「昔だ」
「でも、ちょっと分かります」
メイナが言う。
「あの人、料理好きそうでした」
「食うのも好きだぞ」
「それも分かります!」
エインが頷く。
「料理の話、楽しそうでした!」
ガルドは酒を少し飲む。
「……まあ、元気そうならいい」
その言い方は雑だった。
でも、ちゃんと気にしていたのが分かる。
「ガルドさん」
リオが言う。
「あ?」
「今日、ちょっとだけ分かった気がします」
「何がだ」
「手が届く場所」
ガルドは少し黙った。
リオは続ける。
「全部は無理でも、届く分だけなら、ちゃんと誰かを助けられるんだなって」
老人の本。
小屋。
静かな笑顔。
あれはたぶん、大きな冒険ではない。
でも、大事な依頼だった。
「……そうか」
ガルドは短く言った。
「なら忘れるな」
「はい」
「届く場所を増やしたきゃ、まず自分が倒れるな」
「……はい」
「無理して全部抱えるな」
「はい」
「あと」
ガルドは少しだけ酒を見た。
「本は落とすと面倒だ」
「そこですか」
「面倒だったんだよ、昔」
ナナが吹き出した。
「ああ、あの時ね!」
「知ってるんですか?」
リオが聞く。
「ガルドが酔って本棚倒した日」
「やめろ」
「料理本に酒かかって、あの爺さんにめちゃくちゃ怒られてた」
「うわ」
エインが引く。
「怖そう!」
「怖かった」
ガルドが真顔で言った。
全員が笑った。
夜。
ギルドは少し静かだった。
大きな依頼もなく、怪我人もいない。
ただ、皆少し疲れている。
良い疲れだ。
リオは掲示板の前に立った。
今日の依頼票は剥がされている。
空いた場所。
そこに、明日の紙がまた貼られる。
終わらない。
でも、それでいい。
「また見てるのか」
ガルドが後ろから言った。
「はい」
「好きだな、掲示板」
「なんか、ここ見ると分かるので」
「何がだ」
「ギルドが動いてる感じ」
ガルドは隣に立つ。
「変なやつだな」
「ガルドさんほどじゃないです」
「誰が変だ」
「料理本好き」
「それはあの爺さんだ」
「でも、ちゃんと覚えてるじゃないですか」
ガルドは少し黙る。
「……忘れにくい怒られ方だった」
「どんな?」
「鍋ごと追い出された」
リオは吹き出した。
「なにやってるんですか」
「昔だ」
ガルドはそう言って、少しだけ笑った。
ほんの少しだった。
でも、リオにはちゃんと見えた。
このギルドには、いろんな人がいる。
強い人。
不器用な人。
騒がしい人。
静かな人。
昔を抱えている人。
これからを探している人。
全部が混ざっている。
そして、たぶん。
自分も、その中にちゃんといる。
まだ全部には届かない。
でも、今日みたいに。
誰かの大事な本を運ぶくらいなら、できる。
それで十分なのかもしれない。
「リオ」
ガルドが呼ぶ。
「はい」
「明日も朝早いぞ」
「ですね」
「寝ろ」
「はい」
雑な言葉。
でも、ちゃんと心配しているのが分かる。
リオは笑った。
「ガルドさん」
「あ?」
「料理本、今度貸してもらったらどうですか」
「断る」
「即答」
「嫌な予感しかしねえ」
「作るんですか?」
エインがいつの間にか後ろにいた。
「声が大きい」
ガルドとカイルの声がまた重なった。
ギルドが笑う。
その笑いの中で、リオは思った。
手が届く場所は、少しずつ広がっている。
誰かを支える場所。
誰かの大事なものを守る場所。
このギルドは、そういう場所なのだ。
そして、自分達も。
もう、ただ見守られるだけではないのかもしれない。




