あるじ
私の主様は、少し、変だ。
「来たるべき決戦の日に備えて、素振りをしているんだ」
私の記憶に間違いがなければ、辞書というのは何かの知識を「読んで」調べる本のはずで、「素振り」して何かが閃くものでは無かったはずだ。
見た目は簡素だけど、なぜか神々しさをひしひしと感じるあの本は、主様がこの世界にいらっしゃる時に女神様から授かったという大切なものだったはずだ。振り回してしまって良いのだろうか?
...それとも素振りすることで、何かのご神託を得られるような特別製なのだろうか?
あの、主様?
来たるべき決戦の日というのは?
私に何か、お手伝いできることはありますか?
「いや、これは多分、俺にしかできない戦いだから。いつか出会うであろう強敵に、辞書で打ち勝たなければならないんだ」
そ、そうですか?
あまりご無理はなさらないでくださいね?
主様は、ブツブツと「メガミめ、メガミめ、メガミめ...」と言いながら、激しい素振りの訓練を、毎朝毎晩続けていらっしゃった...
...まさかその素振り、「誰か」を辞書で叩く練習とかでは、無いですよね?
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私の主様は、少し、変だ。
私の方を、とても真剣に、じーーっと見つめていらっしゃる。
あ、あの? 主様?
そんなに見つめて...その......脱ぎ、ますか?
「えっ!? 違うよ!? えっと、それも捨てがたいけど、違う! そうじゃないんだ!」
そ、そうですか。
あまりにも熱心にご覧になるので、その...何かをお求めなのかと。
「お求め!? ...ゴホン、あー、【鑑定】スキルのレベルをがんばって上げたいんだよ」
鑑定スキルですか?
「うん。【スキル】は使えば使うほど上がるらしいんだけど、棒や石ころとかを見るのも味気ないから、同じ見るなら好きなものを......ゴメン」
そ、そう、でしたか...その...がんばって、ください?
主様が言うには、鑑定スキルのレベルが上がると、情報が頭に浮かぶまでの時間が短くなったり、情報が増えたりするそうだ。
あと、「『たべられるよ、ウフフ』を早くどうにかしないと...理性がっ!」と、苦しそうにつぶやいていたけれど、どうしたのだろうか...?
そして、主様は私に、遠慮がちに尋ねてきた。
「...ところで、ユキの『ケッテン』って...」
!!!
「...あっ!? ご、ゴメン! そ、そうだよね!? 普通いきなり、そんな個人情報とか聞かれても、困るよね......やっぱりこの【鑑定】スキルってのは、道徳的にどうかと思うぞ? ...ブツブツ......」
突然のことに私も驚いてしまい、主様も、それ以上は私のことを見たり聞いたりしなかった。
私の反応が気まずかったのか、主様はそれからは、川の流れをぼーっとご覧になっていて、それはそれで少し心配になってしまった。
...あの、私のこと...もっとご覧になっても、良いですよ?
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私の主様は、少し、変だ。
主様は色々な魔法を使うことができる。「威力は大きくない」そうだが、私にはそうは思えない。
確か、私達の怪我を治して下さった時も、魔法で治されたんですよね?
「うん。確かに治癒の魔法も使えるけれど、あんまり得意じゃないんだ。
賦活や自然治癒の延長みたいにしかできないからだと思うのだけど......たぶん、もっと魔法っぽい方法だと、聖なるアレとか神の奇跡とかでパッと治せちゃうんじゃないのかなぁ...?」
えっと...ものすごく、魔法にお詳しいんですね?
「全然! さっぱり分からない!」
主様は、コップに水を入れたり、穴を掘ったり、火を点けたりがすべて魔法で出来てしまう。焚き火を作る時は、なぜか正確に歩数を測ってから、わざわざいつも離れた位置から点火している。
主様は「敵も倒せない小さな魔法」だと仰るけれど...
...だけど、私の見たことのあるどんな魔法よりも、早くて、正確で、離れた場所に突然現れる。ふつうの火弾の魔法ならば、火を呼び集めて、球をつくりだして、離れた敵へ撃ち放つ、そんな手順だったはずだ。水の槍も、土の壁も、ぜんぶ同じようなやり方だったはずだ。
人族の魔法使いなら私達二人なら勝てる。だけどもし、主様の一瞬で放たれる魔法が相手ならば......ゾッとする。
もしかして、主様は...伝説の...?
「...えっ? 【魔導】? ...いや、知らないな。俺が使えるのって【まほう】だけだから......あぁ、コツみたいなのはあるけど、知りたい?」
知りたいです!!
「わっ!? ...あぁ、うん、ゴメン、そんなに大したものじゃないんだ。例えばこう、薪の火をつけたい場所に集中して、ただ念じるだけなんだ...」
念じる、だけ?
「そう、思い出しながら強く念じるんだ...
...大した説明もないまま、訳の分からぬ異世界に放り出されて、渡されたのは『がんばれ』そして『徘徊しろ』という得体のしれぬ神の指令と、地味に重たい『辞書』のみ、右も左も分からぬだだっ広い草原の中を、ひたすら彷徨い歩いて薪を拾ううちにやがて日は暮れて、それを目の前に積み上げて体育座りをしながら、まさに五里霧中を体現したような霧に包まれた夜空の下で、たった一人、念じるんだ、
その、憎いアンチクショウの顔を思い浮かべながら ...強く強く、念じるんだ...――
――このっ、メガミめっ!!」
――...火が、つきました、ね?
「こうやって俺は薪に火を点けていたんだ。あとは、まぁ、慣れだよ」
...それは、魔法というより呪いのようですね? 火を灯すたびに、なんだか正気とか寿命とかが減ってしまいそうで、少し怖いです。
...っえ!? どうしたんですか!? 私の顔に急に触れて!?
「...ユキ、左目は見えているのか?」
!!?
「サキはまだ右腕を庇う時があるし......俺の治癒魔法が不完全だったせいだ......本当に、すまな――」
ドキッとした私は、「大丈夫です」と叫んで、慌てて逃げだしてしまった。
左目は、むしろ全く見えなかったものが、光が戻ってきていて驚いたんだ! それなのに治して頂いた上に謝られてしまったら......その謝罪を受け取るわけにはいかない、もう、これ以上は貰うわけにはいかない! 返せなくなってしまうのが、怖い......
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この数日間、私達と主様は、主様のつくった【白昼夢】という霧の領域の中で過ごしていた。
主様が言うには、何かを「やり過ごす」のが目的らしい。
私達はただ、その命令に従うだけだ。
主様は、魔法だけではなく接近戦も、変だ。
じゃれ合うシュテン...サキちゃんを相手に、ムキになって本気になったあの子と、互角以上に渡り合うなんて......しかも、素手で! 魔法だって使わずに! そんなことって...
他にも色々...例えば、石の多い河原を歩いても、主様はほとんど足音が「しない」。足場が悪くても体勢がまったく崩れない、ブレない。
...あと、その......寝込みを襲っても...その......勝てなかった...
...とにかく主様は、すごい。
もう、底が見えない。
...私達はもう、この人に付いて行くしか無い。
『...酒呑姫様、血纏姫様......貴方達は、我が一族最後の...希望...』
...どんな手を使っても、この人を手離してはダメだ。このすごい人以外に、私達の味方はもういない。後が無い。もう失敗はできない。この人は私達の「最後の綱」だ。
私の血の一滴まで、この魂の全てを捧げてでも...シュテンちゃんと、郷の皆の思い、ご先祖様達の血......そして、この主様。その全てを、私は守る。
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その日の夜、私達二人で作ったモモフのお鍋。
できたての煮えた鍋を持って、うっかり躓いてしまったサキちゃん。
落下する鍋に咄嗟に手を伸ばした私を、主様が慌てて引き戻した――
「――何やっているんだ火傷するぞ!? ...食べ物を粗末にするのはダメだけど、それ以上に怪我するのは絶対ダメだ! 気をつけろよ!?」
私は、その程度では火傷なんてしません! 大丈夫です!
「大丈夫って、俺もまだ治癒魔法は少ししか使えないし...いや、治るかどうかじゃなくて、そんなことで怪我なんてするもんじゃないだろ!?」
申し訳ありません!
次からは気をつけます、ちゃんとお役に立ちます...
「...ちょっと、何を言っているんだよ? 落ち着けよ!?」
...違うの? ...失敗した? 何を言うのが正解なの?
「...何を慌ててるんだ?」
もう、後がない、ここを失ったら......まもれなく、なる...
「ユキ?」
...私の前で、主様は膝をついて、わたしの目をじっと見た。
そしていつになく真剣で、悲しそうな顔で、私に言った。
「役に立つとか立たないとか、そんな、道具みたいなこと言うなよ」
...?
「使えるとか、使えないとか、俺達はそうじゃないんだよ......俺だってそんなので『主様』なんて呼ばれたい訳じゃないんだ...」
主様の私の肩を掴む手に力がこもる。
「そりゃあ、俺だってご主人様扱いされてニヤニヤしていられるのは楽しいけれど。
...もし俺が君の立場なら......俺を必死に持ち上げざるをえないのは分かってるつもりなんだ。君らの苦難が分かるなんて、とても軽々しく言えねぇけど......だから、余計に、なんていうか......あぁ、クソッ!!」
主様が首を振る。
「...君は、下なんかじゃないぞ!」
えっ? 下じゃない?
...えっ!? ...どうして...っ!?
主様は私の腰を持って、持ち上げて、クルクルと回りだした!?
霧の河原の傍らで、私は天高く支えられて、くるくると回る。
まるで郷のお祭りの時みたいに、子供みたいに持ち上げられて、星空の下で、霧と河のきらめく光の中で、驚くシュテンちゃんと揺らめく焚き火に見つめられながら、景色を回す。
...夜天の閃きと川の水面、炎の赤が視界を滑って、まるで飛んでいるみたい......不思議な霧の世界の真ん中で、くるくる、ふわふわ、回り続ける。
夜風を全身に浴びて、シュテンちゃんや主様の笑い声、私もぜんぶ手放して一緒に、なんだか楽しくなってきて......
...いっぱい笑ったけど、少し、目が回った。
息を乱しながら、笑いながら主様が、私をようやく開放した。
「...ご、ごめん。思ったよりも目が回った。何となく、やっちゃったけど......食事前で良かった...」
ひとしきり回り終えた(?)私と主様は河原に座り込んで、頭を押さえた。まだ少し、回転で酔った勢いで、横に流れ続けている感覚の向こうで、主様が私に言う。
「...俺だって、ほら、わりと君を支えたり、回ったりできるんだぞ?」
...私の主様は、少し、変だ。
「...上、右、左、下。あと前後、どれがいい?」
私に、好きなのを選べという。
「だけどもう、左と右は予約済みだ。隣にいて欲しかったんだ。
そして下も却下だ、下にいて欲しいわけじゃないんだ。前と後ろも、行進みたいになっちゃうからあまりお勧めできない。だからもう『上』しか無いぞ?」
選べなんて言ったけど、あっという間に近づいて私を持ち上げてしまう、私が下にいることを許してくれない、ズルイ人だ。
「だけど、やっぱり隣にしないか? 右鬼?」
何でもできるクセに、私の場所は「隣」だと言いはってしまう、おかしな人だ。
「それでも物足りないって言うなら、明日からは上鬼か上様になってもらうぞ。今度は肩車で草原を駆け抜けてやるから、覚悟しておけよ?」
ひどい主様だ。
私は子供じゃないんです、勝手に持ち上げたり肩車したりしないで下さい、恥ずかしいですっ。
それに...
「...や゛だ...右鬼が、いい......」
...勝手に私の大切な、お気に入りの名前をとらないで下さい......
「...良かった、『じゃぁ私、上様で』とか言われたらどうしようかと思ったよ......一緒に行こう、右鬼。絶対に置いていったりはしないから、もう慌てないで?」
ようやく回る世界が落ち着いたのに、今度はゆらゆら霞む視界が、向こうのほうに零れてしまいそうだ。見失わないように私は必死に手を伸ばて......主様のその右手を、取った。
そして私は、右鬼になった。
左の子「あれ!? ちょっと! わたしはっ!!?」




