こおりのけもののゆくはては
真っ白い視界。
またいつものメガミさんのあれかと思ったら、そっちじゃなかった。
寝ていたはずの俺が立っていた場所は、庭にある氷室の前。
真っ白なのは夜の霧、そして冷気。
目の前には、氷室の扉を開け放ちこちらへと歩んでくる美しい白くて妖しい、氷精だった。
「あなたがほしい」
肩をはだけさせながら、情熱的に彼女は訴えた。
「なまえだけじゃ足りない、
精だけじゃ足りない、
血も肉も、足りない、足りない、
...どうすればわたしは、
あなたのその熱を奪えますか?
わたしは、わたしは...
...わたしは、どうすればいいですか?」
桃色吐息にも見えたその白い呼吸は、残念ながら極寒の冷気だった。
「すべてを、ください」
風が吹く。
空気が地面が、凍えてパキパキと言っているし、ミシミシと俺の足元が白く染まってきているし、さらにそれが俺の足から上へと登ってくる。
よく分からないが、ローナが「覚醒」していた。
ローナの気配に、今までに無かった捕食者のそれを俺は感じていた。
まるで蛹から蝶へと羽化するかのように、白く輝く霧の羽をゆっくりと押し広げる魔性の女。
俺が彼女に何かをするまでもなく、彼女はいま猛ダッシュで大人への階段を登っているかのように見えた。
そして俺もローナと二人三脚させられながら、猛ダッシュでその処刑階段を登らされているような気分だった――
――...危険な生き物を家に持ち帰った結果が、これだ。こっそり持ち帰ったカエルやカマキリの卵がうっかり孵ったどころの騒ぎじゃない。
なにせ『氷魔』とも呼ばれる子、ある意味でこれは当然の結末とも言える――
――そう、万が一の時は、俺が責任を取る覚悟はしていたんだ。
氷室の外壁の薄くなった封印式を見て、もの悲しい顔をするメイの姿には気がついていたんだ。
今、ここに居るのが俺一人で良かったとすら思えている。
みんなの居る前では、できない決断だってある。
そして、今、俺が責任をもってローナを......
......
......おいおい、あっちの氷室の隣の『神殿』から、俺をじっと見つめてきやがる幼女の幻影は、一体なんだっ!?
「諦めずにどうにかするですぅ」という妙な圧をかけてくるあのはっきり見えちゃっている心霊現象は、一体、誰が呼んだんだっ!?
...くそっ、よりにもよって神殿の隣なんかに氷室を建てちゃうから、あっちこっちに余計な霊とか加護とか憑いちゃうんだろうがっ! 覚醒したはずのローナの【魅了】が俺に全く効かないのもあの心霊現象の仕業なのか!?
それならいっそ、別に俺にやらせなくても、メガミさんが直接メガミビームか何かを放って、ローナを正気に戻したり空や大地を割ったりしてくれたって良いんだぞ!? いつもいつも、好き放題に俺にやらせて俺を勝手に見守りやがって......
...言われなくとも、何がなんでも、俺がどうにかするから黙って見てろっ! メガミめっ!!
...一歩一歩、前に進むごとにその足を、全身を包み込んでくる冷気。
ピシピシ言うのは地面か、自分か。
うっかり倒れたら硝子のように粉々に砕け散りそうだ。
そして、やがて...
一面の雪景色。真っ白な世界。
誰もいない世界。あるいは時折、地面をそっと流れる吹雪と、白熊や白兎と、たまに白い鳥。
なだらかな丘、所により崖と岩肌、わずかな木々にも、雪化粧。
青空と、白。夜空と、白。
白を染める朝焼けと、白を染める夕焼けと。
さみしい、さみしい、さみしい...白、白、白。
...誰一人として、人のいない世界。
それが「ローナの世界」だった。
なんだこれは......ハハ、最高じゃないか!
氷精にとっては、一面の食糧と自由な大地、そして洞窟という寝床も付いた良物件だろう!
あの毛皮の布団は自力で狩って作ったんだろうけれど、それでも、ほとんどすべてが与えられている、すべてがここにあるじゃないか!? なんてステキな、夢の世界だっ!
一体これの、何が「不満」なんだっ!? ローナっ!?
...いや、待て待て、落ち着け。今ならば、今の俺には少しだけ分かる。
なんだかんだと理由をつけて、みんなが俺にまとわり付いて来てしまう、その温かみを覚えてしまった今ならば......
それでも、だ。やっぱり、そんなものは例外なんだぞ、ローナ。
俺がお前を視れたように、お前にも「俺の世界」が視えただろうっ――
一面の灰色。燃え尽きた世界。
砂、石、コンクリ、アスファルト。むりやり植えて煤けた緑。
同じ服装で、同じ荒んだ表情で同じ狭い場所を目指して、毎朝毎日似た物同士で奪い合う。
肩や足をぶつけ合い割り込み合って、自分の耳を悦ばせるために他人の耳を犯し、自分の目を塞ぐ忙しさで他人の道を塞ぎ、避けてはならない怯めば負けだと周囲を威嚇し恫喝し無視して、時に団結して襲いかかる、人間。
何かを間違えれば、法や常識や流行や人数を正義にして襲いかかる。
何も間違えずとも、アラを探して傷を作って、それを広げて世界の果てまで拡散する。
自分よりも下の生け贄が、爆発する前に押し付ける誰かが、常に正義が必要なのが人間だ。
避けてはならない怯めば負けだと周囲を威嚇し恫喝し無視して、時に団結する。
人が集まれば、ろくな事にはならない。
それこそがお前の求める「ここではない世界」だぞ!?
それで良いのか、ローナっ!?
――...それでも、私は。そっちが良い。
一人は嫌。
誰かを傷つけたい、睨まれたい、
どうにか、誰かに、私を刻みたい。
忘れられたくない。
死んでも良い。忘れられたくない。
殺してもても良い。忘れられたくない。
たとえ血の色でも、それが白以外なら、それで良い。
それが煉獄でも、寒くなければ、それで良い。
誰もいない朝は、怖い。
誰もいない夜は、怖い。
昼も夕日も朝焼けも、誰もいない日々が続いて、やがて一人で終わるいつかが、怖い!!
こわいこわいこわいこわい――
さみしいさみしいさみしいさみしい――
わたしは......わたしは...――
(――...初めて、人を見たの。ずっとずっと何度も狩るように言われて続けてきた、その人が、獲物が! 初めて、ヒト、二人も来た! 走った、必死で走ったの! 逃げる前に消える前にどうにか私を...! 目の前に立ちふさがって、ほかのヒトをかばったの! でも受け止めてくれた! きっと、この人だって思ったの!!)
だから、私はっ――
「――分かった。もういい、ローナ」
「――なのに、どうしてそんなに、一人が良いの...!?」
「...本当に俺達は、ままならないものだな」
...なんで、ちょうどいい場所って無いんだろうな?
二人の息が、白く凍った。
抱きしめたローナからは熱ではなく、冷たさと痛さを通り越し麻痺と無感覚が、そしてローナの心が、俺の臓腑へとじくじくと広がってきた。
だけど、細い、淡い、白い。もう、雪だ。
...無邪気で無垢。
きっと、砂に水を撒くように俺の体温がどんどんローナに移っているんだ。
この冷たさと飢えはきっとローナの、純粋な氷精というものの性質なのだろう。
そう考えると、あの氷精たちの長もそうだった。
氷精とは良くも悪くも純粋で、思慮や狡猾さみたいなのが苦手な人達なのかもしれない。
無邪気な赤子はかわいい。
無邪気な大人は危ない。
無邪気な熊や虎が飢えれば、目の前の人を迷わず食らう。
そして無邪気なローナが己の居場所を求めてさまよっている。かわいらしく、あやうく、おそろしく......
...それで? つい、嗤ってしまって、凍った頬がみしりと鳴った。
「...フッ、フハハハハッ!!
おいおい、もう忘れたのか、ローナ!
言ったはずだぞ、もはや逃がさん、と!」
抱きしめていたローナを天へと抱え上げて...って、軽ッ!? ちゃんと食べているのか!? 食生活を改善しなければっ!
とにかく、びっくりした表情のローナに俺は問いかけた。
「温かな居場所が欲しいだろう、ローナ?」
「......」
ここでの氷室の生活は、きっとローナをますます不安にさせた。
「...手に入らないのが怖い。追い出されるのが怖い。失うのが怖い。心地良いゆえに余計に怖い。
ならばいっそ、消えないほどに刻みこみ、失う前に自分で壊し、せめて自分の心の中に痛みと共に焼き残したい!
...その幸せな温もりの余熱が消えないように抱きしめながら、忘れる前に失う前に、自分が先に、消えてしまいたい」
「...うぅ」
「だけど、ローナ。俺は...俺達はいなくならないし、この場所はずっとローナのものだ...」
「...うぅぅ!」
ローナの瞳からこぼれた粒が、俺に当たってシュッと凍った。その痛みはきっとローナの悲痛の叫びだ。
地面へと立たせて、その両手を温めるように包みながら、俺はローナの目を見つめて言った。
「...ただし、条件があるっ!」
「っ!?」
なんとなく条件もつけてみた。
タダより怖いものは無い、って言うし...
「みんなが君の居場所になるように、
君がみんなの居場所になれ」
「...えっ」
「笑って、好きだと言え。
それだけで、ずっとそのままで良いんだ。
何かを奪ったり、何かに変わったりしなくて良いんだ。
これまでどおり、みんなにお前の好きを振りまけ。
時に優しく、時に激しく、素直な気持ちを、まき散らせ!
時にはそれが人の重荷や妬みになることだってあるだろう。
時には笑えない日々だってあるだろう。
喜怒哀楽は人の業だ。相容れぬこともきっとある。
それでも、押し通せ!
お前は天性の狩人だ!
無邪気に、無責任にお前の好きを見せてやれ!
怒りも不安も悲しみも、その純白で塗り潰して、
お前の居場所は、みんなの居場所は、
常にここだと、その笑顔で示してやれ!」
かわいいだけの氷精ならば、きっとうちではやっていけない。
...下心で小鬼を拾い、実験目的で仲間を誘い、盗んだ妖精に襲われて、自分を狙う殺し屋を奪い去り、面接代わりに投げ飛ばし棒で突いて拳で殴りながら、仲間を増やしていく、この俺っ!
そして、誰かに追われ、誰かを求め、何かにもがき続ける者達が集まっちゃった、この我が家!
そう、万事過失の俺達の魔境!
人畜無害? おいおい、そいつは無理だ、やめておけ!
この魔境は氷水と熱湯だけでむりやり温度調整している上級者向けの温泉なんだぞ!? 観賞魚なら他所で飼えっ!
「...そうだ、うちはローナでなくちゃ、やっていけない!」
「...ここ...わたし...居場所...」
「君がみんなを助ければ、みんなも君を助けてみせる。
もう、一人じゃないんだ。
だから君も、俺やみんなに『一人じゃないよ』と言ってやれ」
「...一人じゃないっ」
「...だから一言、やってみせると、『やる』と元気に言ってみ――」
「――やるっ!!」
俺の言葉に、くい気味でローナが返事をした。
やる気があって、大変よろしい!
「よく言った! 偉いぞ、ローナ!」
俺が再びローナを天高く掲げると、「やるっ!」と笑顔でローナが叫んで、
そして――消えた。




