第22話「白紙の頁を紡ぐ者」
――また、この感覚だ。
わたしの体の筈なのに、わたしが動かしているわけじゃない、不思議な感覚。だけど、その目に映る景色も、その手で〝傷付ける感触〟も、全部伝わっていて。
嗚呼、もう二度と戻らない。大切な人達を、わたしの意志とは無関係に拒絶し、その体を傷付けてしまったのだから。
薄銀髪の青年――【わたしを救ってくれた人】を、
焔髪の女性――【わたしに居場所をくれた人】を、
真っ赤な血で染め、壊してしまった。
もう、一緒に居られない。もう、一緒に笑えない。
二人はきっと、許してくれるだろう。何時もと変わらない顔で、笑い掛けてくれると思う。
だけど、わたしはそんなに強くない。この手でしてしまった事を、この手で犯してしまった罪を、なかったことに出来るほど強くない。
〝殺してほしい〟
これ以上二人が傷付くなら、わたしなんて要らない。苦しそうな顔を、痛そうな顔を見るくらいなら、今すぐにでも死にたい。
でも、二人はそうしない。本当はすごく強くて、すごくかっこよくて、すごく――すごい。二人がその気になればわたしなんてすぐに殺されてしまう。だけど、二人はそれをよしとしない。
今もわたしを助けようと、傷付けまいと、必死になって向かってくれる。
その優しさが、今は痛い。
知らなかった。温かい感情の一つである優しさが、こんなにも痛いなんて。ずきずきと胸が圧迫され、ちくちくと何かが刺さるような感覚。
痛い痛い痛い。アルフレドという名前の人から胸を貫かれた時よりも、遥かに痛い。痛くて、怖くて、涙が出てしまう。嫌だ、もう――嫌だ。
これを知るくらいなら、この痛みをずっと続けるくらいなら。いっそ、あの世界から出なければ――
〝エル〟
そう考えてしまったところで、誰かが名前を呼ぶ気がした。
それだけはいけない、と。〝彼〟にしては珍しく、怒るような声で。
『君はこれから沢山の経験をするだろう。嬉しい事、楽しい事、それに悲しい事や辛い事もあるかもしれない』
嗚呼、そうだ――。
『だけどどんな時も、あの時踏み出した勇気を忘れないでほしい。そうすれば君は、きっと幸せな旅路を歩めるだろう』
――わたしは何を考えていたのか。
彼が教えてくれた事を、贈ってくれた言葉を、すっかり忘れているなんて。
二人を傷付けたことは悪いことだ、いけないことだ。苦しくて、悲しくて、辛いことなのも確かだ。でも、目を逸らしているだけじゃきっと、何も変わらない。
全部終わったら、たくさん謝ろう。そして、わたしの一生を掛けて恩を返していこう。
持ちつ持たれつ、それが――人の世の中なのだから。
刹那、暗闇の中に一筋の小さな光が見えた。
その色は緋色。温かくて、柔らかな、わたしに魔法を教えてくれた人の色。とても綺麗で、素敵な軌跡は、この状況でもわたしの瞳を彩らせた。
温かな光に身を包み、柔らかな笑顔を浮かべる。
後は二人を信じよう。どんな状況でも、どんな窮地でも、きっとわたしを助けてくれる。だから、信じて待とう。
でも、何も出来ないのは嫌だから。ほんの少しだけ――力を添えるのは許してください。
「エル・クラフト」
緋い星に願いを込めて、少女は静かに祈りを捧げた。
§§§
撃退の魔法を――。
エルは〝循環の蛇・複製〟が白紙の抑止力となっている間に、ヨハンを確実に絶命させる為の魔法を、数ある神造遺物の中から検索する。
右腕の損傷、出血多量、あらゆる要素を組み込み、およそ三十程浮かび上がった物の中から、更に有用な物を選択。
掌を前に。エルは彼を殺すべく神造遺物を複製する――はずだった。
「……!」
愚直に駆ける彼の後ろで、眩い光が煌めいた。
緋く、黒い強大な魔法。瞬間的に、エルは身の危険を察知した。あれは、自身を滅ぼすことが出来る脅威だ、と。優先順位をヨハンからリアに変更し、即座に青い六角柱を展開。直接攻撃を仕掛け、魔法が放たれる前に止めようと試みる。
「六つの蒼」
音速を誇る六角柱が、風を切り裂きながらリアの命を穿たんと飛来する。
エルはリアが詠唱中なこと、そして込めている魔力の大きさから回避は不可能と判断した。時間、距離、どれを取っても彼女が避けられる要素はない。
それゆえに、エルは次の光景を見て思わず瞠目した。
緋色の蝶が、宙を舞った。
美しい粒子を零れ落としながら、悠然と空を踊る。その姿は、魔法だと分かっているはずなのに、まるで生きているようで。
主の命を散らそうとする青の六角柱に向かい、そして激突――刹那、衝撃を中心に大規模な爆発が起きた。
エルは咄嗟に片腕で視界を覆う。ここまでの衝撃がある魔法だとは予想、解析が出来なかったからだ。
そして、それが――この戦いの決定的な隙となった。
「――」
焔髪の女性が、何かを呟く。その瞬間、緋の閃光が全てを包んだ。
音も、熱も、光も。何もかもが、あの魔法の前には置き去りになる。射出されたその一撃は、それほどまでに規格外の魔法だった。
エルは億千と存在する英雄達の記憶から、あれに対抗出来る神造遺物、及び魔法を探す。僅かでも押し返し、隙を作れるようなものも含め隅々まで調べた。だが結果は――零。一つも、存在しなかった。
少しでも可能性があるのは〝循環の蛇・複製〟だが、それすらも、あの魔法の前では無に帰すだろうと、〝核〟が知らせていた。
しかし何もしないわけにはいかない。エルは咄嗟に紫紺の輪をその矢に向け、攻撃を阻む。
「っ……」
二つの魔法が衝突し、無限に近い輪廻が螺旋のように巡る。繰り返される〝破壊〟と〝再生〟。時は一瞬でも、魔法同士は永劫の時を彷徨っていた。
エルはやはり駄目だ、と本能的に理解した。単純な構造で言えば、いくら魔法を構成する粒子を破壊しようとも、〝循環の蛇・複製〟はその分だけ再生する。その速度は異常と言ってもいい。ヨハンの白紙を防いだ事からもそれは伺える。
しかし、あの魔法は違う。再生が追い付かない速度で粒子を〝破壊〟している。
考えられない、在り得ない。そんな魔法が、この世に存在することは、あってはならない。エル自身の〝核〟が警報を鳴らしている。
リア・ローズマリーは、人の理を崩す破壊者だ、と。
即座に排除しなければ。そう考えるエルとは裏腹に、彼女に備えられた機構は不可能だと判断していた。
そして、微かに抗っていた紫紺の輪が、彼女の矢によって破壊され、
「ぁ……」
エルの視界を、〝緋〟と〝黒〟で埋め尽くした。
彼女の存在を破壊するべく、暴虐の矢がその小さな体躯を包む――
「――消失」
ことはなかった。
全てを破壊する魔法がエルの体に触れる寸前。薄銀髪の青年が、その手を触れさせたからだ。
一瞬の出来事に、脳の処理が追い付かず呆然とその様を見つめるエル。その、たった一度の機会を。リアが生み出した僅かな隙を。ヨハンは見逃さなかった。
「魔力増幅機構・起動」
ヨハンの掛け声と共に、湖畔の四方に光の柱が出現した。
薄暗い暗闇を照らし、神々しく発光するそれは、ただでさえ高いこの場の魔力濃度を一気に上昇させる。
体魔力が瞬間的に跳ね上がり、肉眼でも捉えられる程濃密な魔力が彼の身を纏う。
至近距離のエルも、ヨハンの異様さに気付き目を見開かせる。しかし同時に、長くは持たないと冷静な判断を下した。
それは、諸刃の剣だ。自身の許容量の限界を超える体魔力は、有害でしかない。一時的に魔法の威力は増幅するものの、その後のダメージは計り知れないだろう。
これをやり過ごして、次の機会を待つ。エルはそう考えた。
「〝ⅩⅢの死鎌〟」
それが彼女にとって、悪手とも知らずに。
ヨハンの左手に、黒紫色の鎌が握られる。恐怖、不安、畏れ――それは、人々が抱く負の感情を形にしたような武器だった。持ち手から頂点までの歪曲は、歪んだ心を表しているかのような形状であり、黒紫に添えられた銀色の刃は、まるでそれを糾弾し、死へ誘う為の道標のように見える。
エルは魔法を発動させる為に、反射的に手を前に出す。
「生贄」
「……!?」
しかし、彼女の行動はヨハンの詠唱によって中断された。正確には、驚愕が脳を支配してしまった。
彼が出した神造遺物。その禍々しい武器が詠唱を告げた途端、跡形もなく消え去ったからだ。
――これが、分かれ目だった。
エルは、あらゆる非現実的な現象が次々と起こる事実に、戸惑いを隠せなかった。
ヨハンは、その全てを意識から切り離し、唯々エルの存在だけを見続けていた。
その差が、今大きく開いた瞬間だった。
ヨハンが腕を伸ばし、エルの体を優しく抱き締める。彼はその温もりを、その鼓動を、小さな体躯から感じられる全てを、その身に刻んだ。同時に、口許に緩やかな弧が描かれ、彼は感情を示す。
気が早い、まだだ、と彼は思うが、再び少女が腕の中に収まった――その事実は、そうした感情よりも遥かに強かった。
そして、
「生か、死か」
ヨハンは、選択した。
「――黒の頁」
彼の言の葉が、湖畔に響き渡る。
奏でるような、慈しむような、柔らかで不思議な声音。エルも、リアも。動物も、自然も、微生物も。この場に存在するあらゆる生命が、それに聞き入り、耳を傾けた。
次の瞬間、陽光の如く柔らかな光がエルの体を包む。その光は少しずつ形を収縮していき、小さな光球に変わった。エルの胸元で緩慢に浮遊するそれは、彼の導きを、待っていた。
ヨハンは少しだけ逡巡した後、その人差し指をそっと、光球に触れさせる。
「……帰ろう、エル。君の、居るべき場所へ」
直後、光の珠は幾つのも欠片に変わり、
世界は、〝アオ〟から放たれた。




