第20話「二度目の約束」
眼前の黄金色の双眸を見て、ヨハンの脳内は混迷極まっていた。
状況が整理出来ない。高鳴る鼓動が思考を阻害し、額から流れ落ちる汗が集中力を削ぐ。普段冷静なヨハンがこの状況に陥る程、エルの状態は突飛なものだった。
――この少女は、エルではない。
彼がアルフレドの体を魔法で憑依したのと少し似ている。今表層意識に出ている存在は、エルであってエルではない。もっと形容し難い、別の何かだ。
無論、ヨハンに根拠はない。彼は目の前で見た情報のみで判断しているのだから、あるはずもない。
だが、それが確信に至れるほどに。この少女は、エルの存在とかけ離れていた。
「……」
エルは無言で立ち上がり、その足で帰り道とは別の方角――ラルシュッタット湖へと歩を進める。
あまりに違和感のない所作に、ヨハンは暫し呆然とその姿を見送ってしまっていたが、ようやくそれがおかしな行為だと理解し、咄嗟に地を蹴って彼女の元へ。
そして、その小さな手を優しく掴んだ。
「エル、どうしたんだい? そっちは帰り道じゃないよ」
「……」
「リアもセラータも、君を待っている。……早く、家に帰ろう」
その声が届いたのか。エルの足は動きを止める。
ヨハンの顔に一瞬、喜色が滲む。しかしそれも、ほんの束の間の事だった。
「わたしの帰る場所は、貴方が告げた場所ではありません」
その言葉に、ヨハンの瞳は大きく見開かれる。そして、改めて確信を得てしてしまった。
これは、間違いなくエルではない、と。
「エ、ル……」
「……エル、と貴方はわたしを呼称しますが、それは間違いです。わたしの正式名称は人理調停第一隔離機構・人工生命体エルスティア。エルではありません」
「……っ」
奇しくもヨハンとリアの考察は当たっていた。
人理調停は紛れもなく〝導〟と〝鍵〟の事を指しているだろう。歴史の転換の際、やはり彼女が神造遺物を与えていたのだ。隔離機構は文字通り、あの〝アオ〟の世界において働く仕組み、歯車と認識して間違いない。
――嫌な予感が全て当たった。ヨハンはあからさまに顔を顰める。
そのヨハンの表情を一瞥することもなく、エルは彼が掴んだ腕へと視線を向けて、
「手を放してください。これから〝責務〟を為さなければいけませんので、貴方に掴まれたままだと効率が非常に悪い。これ以上接触は、敵対行為と見なします」
あのエルとは思えない台詞を言い放った。
あれほどまでに〝責務〟に苦悩していた彼女が、効率が悪い、敵対行為と見なす、と、ヨハンに告げた。
ヨハンはその言葉に愕然としかけるも、ここで折れては何の為に来たのかわからない、と自身を鼓舞する。
「断るよ。君はその〝責務〟から逃れる為に僕を呼んだんだ。今の君がどんな状態であれ、僕はあの時のエルの感情を優先する」
「……警告は、しました」
瞬間、エルを掴むヨハンの手に、青色の線が走る。
それは指先から始まり、手の甲、腕、そして肩まで進む。
(まるでひび割れだ、腕に亀裂が入ったような……――ッ!)
そこまで思考したところで、ヨハンは自身の過ちに気付く。彼は即座に逆手で線が走る腕へ伸ばすが、
「青の寵愛」
「消失……ッ!」
既に、遅く。
エルの詠唱により、青色の線が淡い光を帯び、直後――ヨハンの腕が硝子のように砕けた。
宙に青の欠片が舞い、雪の如く煌びやかに落ちていく。一つ、二つ、三つ、四つ――数え切れない程の欠片が地を彩る。そして、
「っ……」
その青は、彼の〝赤〟によって浸食された。
咄嗟に、ヨハンは唇を力強く噛み締める。当然皮膚は裂かれ出血するが、これくらいは腕の痛みと比較したらなんてことない。こうでもしなければ、彼は意識を保てない状態なのだ。一瞬でも気を抜いたらその瞬間、彼は気を失い、そのまま絶命する。
ヨハンは今、生と死の淵に立たされていた。
そして、そんな様子のヨハンを、エルは相変わらず無機質な瞳で見つめる。
「――書庫を検索――……完了。特定の魔法を反魔法に類するモノを判断。対象の身体能力、及び第二魔法の危険性を組み込み、再演算――……完了」
エルが、小さな腕をゆっくりと持ち上げる。
すると、ヨハンの懐にあった黒の本が吸い寄せられるように彼女の手へと収まった。
「優先順位を変更。〝責務〟の障害となる人間、ヨハネス・ヴァン・エルノートを殲滅対象と見なし――」
黒の本が意思を持ったかの如く開かれ、ふわり、と宙に浮く。
「速やかに、破壊します」
そして、強烈な〝アオ〟の輝きを放ち始め、
神造遺物を、恩人であるヨハンへと向けた。
§§§
夜の薄暗い視界の中、恰も日中のように軽快に岩や木々を避け、焔髪の女性――リアは奔走していた。
珠汗が額を埋め尽くすように滲み、鼓動は彼女の胸を突き破ろうとしているんじゃないか、と思うくらい煩く跳ねている。
痛い、苦しい。最近のリアには芽生えなかった感情が、何度もその足を止めようと脳内を蝕む。
それでも、リアが足を止める事はない。
彼女は分かっているからだ。今の自分よりも、遥かに苦しくて、痛い思いをしている少女がいる事を。
(頼む、間に合ってくれ……!)
リアが懸命に駆けているのは、決してヨハンの事を信頼していないわけじゃない。むしろ、リアは誰よりもヨハンという人間を買っていた。
戦闘経験、状況に対しての判断力、そして――人間性。どれを取っても優れた人間なのは疑う余地もない。だからこそ、今回の調査にも抜擢したのだ。
しかし、それとは別に。嫌な予感がリアの胸内を刺激していた。
万が一、億が一に、あのヨハンが対処しきれない状況になってしまったら。
リアはヨハンが殺人鬼程度に後れを取るとは思っていない。その程度じゃヨハンに傷一つ付けられないのは明白だ。飄々としてこそいるが、あの戦争を勝利へ導き、英雄に名を連ねた人物なのだから。
問題はそこじゃない。リアが一番に懸念しているのは、エルが関わっている、という事だった。
普通の事件ならばこうも息を切らして急ぐこともなく、終わった後に悠々と姿を現すのがリアという人間だ。だが、今回は未だ謎が多い神造遺物が関わっており、それを作っていたというエル自身が巻き込まれている。
万が一が起こり得る可能性は、十分にあった。
「……! 見えた!」
ようやく、リアの視界にラルシュタット湖が姿を映す。
更に身体強化への魔力を込め、速度を上げた。木や葉で頬や腕が切れようとも、お構いなく真っ直ぐに彼女は進む。
そうして、森を抜けた先――
「……なんだ、これは」
リアにとって、思い掛けない光景が広がっていた。
星屑映しと謳われたラルシュタット湖。この街が誇る透明な水面は見る影もなく、色合いを完全な〝アオ〟に染めていた。
水面には所々水晶のような六角柱が埋め込まれている。角度から見るに、かなり上空から飛来した物だ――と思ったところで、彼女は気付く。この湖の液体という概念が、あの〝アオ〟によって塗り替えられていることに。
本来なら、何であろうと液体に物が刺さる、なんて現象は起こり得ない。それこそ、人間の力では不可能だ。
ならば答えは単純明快。この湖を、魔法で塗り替えた人物がいる。強力な魔法というレベルじゃない。人間に許された範疇を遥かに超えている。
リアは初めて、魔法に対する恐怖が好奇心を上回る感覚を抱いた。
「……エル」
誰が、なんて安い言葉をリアは言わない。これを起こせる人物がいたとしたら、状況を鑑みてエルとしか考えられないからだ。
リアは抑えきれない感情を胸に、再び駆け出す。一刻も早く、少女を救い出す為に。
遠目故に暈けていた景色が、距離が縮まるにつれ明瞭になっていく。
すると、リアの目に二つの人影が映った。
一人はエル。神造遺物と思われる本を携え、宙に浮いている。
リアはついさっき話した頃とは別人のような雰囲気に瞠目する。幼くも優しい笑顔を浮かべた彼女の姿は、微塵も感じられない。氷のような結晶に似た冷たさを、このエルの存在から感じられた。
もう一人はヨハン。〝アオ〟の水面に立ち、頭上の遥か高見にいるエルを見て、悲痛な表情を浮かべている。
既に彼の体はボロボロだった。衣服も所々破かれ、露出した素肌は深い傷跡が刻まれている。
しかし、リアが一番に着目したのはそこではない。彼女が痛ましげに目を細めたのは、本来あるはずの右腕が無いことだった。
白の外套に滲んだ血液から、出血多量なのは見て取れる。これ以上動けばそれだけで命は危ない。
だが、それでも。自身の命を投げ捨ててでも。彼は、彼女を戻すべくと必死に抗っていた。
無意識の内に、リアはヨハンの傍らまで走っていた。
「ヨハン!」
「……! リア……」
リアの登場に、ヨハンの張り詰めていた気配が僅かに緩まる。
だがこれは、警戒心をも緩めたわけではない。彼の意識は、しっかりと上空のエルへ向けられていた。
「どういう状況だ。何が一体どうなっている」
「……全部話したら長くなる。だから簡潔に言うよ。エルの中にある〝核〟が動き出したんだ。アレは、それが表に出た結果だ」
「っ……、神造遺物の呪いか」
「うん」
リアもおおよそ予想は付いていたが、実際に目にするのはまた違う。
この変化は、彼女の予想を遥かに超えていた。
「動き出した理由は定かじゃない。ただ、エルは一度、彼……いや、アルフレドに殺されかけた。そこから信じ難い修復能力で傷を塞ぎ、目を覚ましたら……」
「ああなっていた、と」
「そうだね」
「……説明を受けても何一つわからないな。死へ足を踏み入れることがスイッチなのか? ……いや、今それはいいか」
リアはアルフレドがエルを殺し掛けた事、そして〝核〟の条件など、疑問を抱く事柄が次々湧き出てきたが、その全てを押し殺し、彼女はヨハンに尋ねかけた。
「エルは、元に戻るのか?」
リアにとって、この状況でそれ以外に重要な事などない。
何を差し置いても、彼女を助ける――その感情だけが、今リアを動かす原動力だった。
しかし、質問をしておいて難しいだろう、と。現実的な自分がいるのも、リアは確かに感じていた。
「戻るよ、必ず」
予想に反して、ヨハンは力強い言葉を返した。
これにはリアも思わず面を食らい、
「……変な根性論じゃないだろうな」
じっ、と。疑惑の目線を送った。
ヨハンは苦笑を漏らすと、首を緩々と左右に振る。
「まさか。確証のない言葉を言える程楽観視できる状況じゃないことはわかってるよ。……大丈夫、僕に考えがあるんだ。成功すれば確実にエルを救える」
ヨハンの言葉は一切の揺らぎもなく、確固たる信念を感じさせる声音だった。
リアはヨハンが虚言を吐くような性格ではない事を重々承知している。この状況で彼が断言するのならば、何か手があるのだろう。
それに、現時点でリアに打開策はない。虚言でも何でも、ヨハンの策に乗る以外に選択肢はないのだ。
「……わかった。お前を信じよう」
「ありがとう、助かるよ。……それで、一つお願いがあるんだ」
「お願い?」
「うん。僕の考えを成功させるには、エルの体に触れることが絶対条件なんだ。……でも、その……エルの攻撃をどうしても掻い潜れなくて。だから、僕がエルの元に行けるよう手伝ってほしい」
「……」
リアは無言のまま、ヨハンの右半分、正確には右腕があった所を見る。
真っ当な一対一ならば、ヨハンが後れを取る人物など存在しない。それが例え規格外の存在であろうと、彼は何時もと変わらず、飄々とした態度で勝利を掴むだろう。
それだけの理由が、ヨハンにはある。
リアはその理由を知っている。だからこそ、ヨハンがその力を振るえない理由がすぐに思い浮かんだ。
一つは右腕の消失、及び多量の出血。ヨハンは利き手である右腕を奪われている。それもかなりの問題だが、全て失った、という事が大きい。
人間の肩から指先までの重さ三から五キロほど。それがいきなり失えば、いくらヨハンと言えどまともに動けるはずもない。しかも、あの出血量だ。彼の不調は当然と言える。
そして二つ目は――、
(……このバカ。相手がエルだからって)
エルの存在。
単純な話だ。ヨハンは、相手がエルというだけで本気を出せていなかった。
ヨハン自身もそれに気付いていない。無意識の内に、彼は力をセーブしてエルと対峙していたのだ。
「全く、あの死神と恐れられた十三番目殿が良い様だな。葬制の棺の奴等が見たら別人と思われるぞ?」
「あ、はは……返す言葉もない」
「……でも、まあ。今のお前の方が、昔のお前よりちょっとだけ好きだ」
「……!」
ヨハンはリアの言葉に一瞬だけ瞠目し、そして緩慢に目尻を緩めた。
「仕方ないから手伝ってやる。だが、まだお前との約束は継続中だから貸し一つ、だぞ?」
「約束?」
ヨハンの問いに、リアは小さく首肯する。
「必ず助ける、次に会う時はエルも一緒だ――私はアレを助けたとは認めない、それにあんなエルと会う為にあの獣人族を治したわけでもない」
「リア……」
「だから、次こそは必ず救え。……今度は、破るなよ?」
これがリアなりの発破を掛け方だという事を、ヨハンは理解していた。
普段飄々とし、どこ吹く風の彼が、本当の意味で奮い立つ。
「……うん。必ず、エルを救う――約束だ」
そして、ヨハンは駆け出す。
「さあ、いこうか」
伽藍洞の少女を、この手で救い出す為に。




