第18話「エルノート」
――どれくらい、時間が経っただろう。
未だ不明瞭な意識の中、エルはそんな事を考えていた。
彼女はフードの男に攫われた後、必死に状況を打開しようと抵抗をしていたが、気付けば意識を奪われてしまっていた。
目が覚めたのはつい先程の事。何かの影響か、ずきずきと等間隔で刻まれる頭痛に苛まれながらも、何とか状況を把握しようと視線を巡らすが、黒い布の様なもので覆われており場所や時間の感覚は分からず。
だが、ガタゴト、と自分の場所が揺れている事で移動しているのだとは理解した。
(……心配、掛けてる……。リアさんにも、ヨハンさんにも。それに、セラータさん……っ)
意識が徐々に回復しつつある事で、明瞭に惨劇を思い出してしまう。
貫かれた剣。飛び散る鮮血。最後に触れた、優しい掌の温もり。じわり、とエルの目に涙が滲む。
セラータとの思い出は、ヨハンやリアとはまた違う温かなもので、優しいひと時だった。
それが脳に過る度、エルの胸が罪悪感で痛む。――わたしが、巻き込んでしまった、と。
(う、ぅ……。ごめん、なさい。ごめんなさい……)
心の中で何度も謝罪をする。しかしそれは届く事のない仮初の言葉。例え口に出そうと、それが届く事は決してない。今、彼女は此処に居ないのだから。
そうして涙を流し懺悔する事数分、不意にエルの居た場所の揺れが収まった。
そして、黒い布の一部が開かれる。
エルの視界。そこに見えたのは当然、光が映し出される様な輝かしい場所ではない。今居る場所と然程変わりのない、真っ暗闇の森だった。
それともう一人。その闇の中でも薄れる事なく、笑みを浮かべる男が居た。
「お目覚めですね、天の巫女様」
彼女を絶望へと堕とした、フードの男だった。
「っ……!」
一瞬で、エルの体が強張る。
同時に先程の恐怖が込み上げ始めた。セラータや通りすがりの男を何の躊躇もなく切り、刺した――あの時の恐怖が、再び戻って来てしまったのだ。
無意識の内に震え始るエルに、フードの男は苦笑を漏らす。
「そこまで怯えられると私も傷付きますよ、巫女様。英雄とはいえ、人間なのですから」
黒ローブの男が呆気からんとして言う。その表情に傷付いてる様子は皆無だ。むしろ喜々とさえしているように見える。
それが何とも不気味で、エルは一層恐怖を覚えた。
「まあいいです。さあ、降りて下さい。行きますよ」
「っ……、ど、どこへ……いた、い……」
ぐいっ、と腕を掴まれ半ば強引に馬車から引き下ろされる。鈍い痛みに耐えながら、草葉を掻き分け獣道を進んでいると、ふと、エルは思った。――この景色は、見覚えがある、と。
エルが生活を始めて行った場所など、それこそ数える程しかない。となれば自然と場所は限られてくる。
木、草、獣道。これらの情報があれば出てくる答えは一つ。
「決まっています。貴女が居るべき場所ですよ」
星屑映しこと、ラルシュタット湖である。
エルがヨハンと初めて一緒に見た、美しい世界の欠片。しかしあの時のような高揚感は全くと言っていい程ない。
今は胸に押し寄せるのは唯々恐怖、それのみで。
湖の畔まで来ると、フードの男はエルの手を離す。即座に彼女は彼から距離を取り、不安げながらも抵抗の意思を込めて睨んだ。
「さあ、どうぞお戻り下さい巫女様。此処は貴女のような者がいるべき場所ではない。貴女には、貴女に相応しい場所へ」
相変わらず理解出来ない言葉を吐く黒フードの男。彼自身はわかっているのだろうが、相手に伝える気がないのか、伝えたと思い込んでいるのか、何方かは不明だが意図がエルに伝わる事はなく、彼女は訝しげに彼を見詰めながら、おずおずと問いを投げ掛ける。
「言ってる意味が、わからないです。……わたしが帰る場所は、リアさんや……ヨハンさんの居る、お家です」
はっきりと、エルは言い切る。自分の帰るべき場所は其処だと。
その言葉を聞いた黒フードの男は、数秒程硬直し、
「……嘆かわしい」
落胆の表情を浮かべ、
「嘆かわしい、嘆かわしい!! あぁ、なげかわしいい!!!」
憤怒をその身に宿らせた。
今までない豹変振りに、エルは戸惑いを隠せない。何がそこまで彼の琴線に触れたのか。会ってしまった時からわからない事だらけの彼だが、今回は特に理解出来なかった。
「貴女が! 貴女までもが! あの紛い物の毒牙にかかってしまうなんて! ああ、本当に嘆かわしい!」
がり、がり。フードの男が怒りに身を任せながら、己の左腕を掻き毟る。塞がり始めていた瘡蓋が剥がれ、直接傷口を爪先で痛めつけた。
どろり、と血液が腕を伝い地に流れていく。草木の緑を侵食するかのように、彼の赤が犯し始めた。
そんな狂気に満ちた状態で、彼は続ける。
「貴女様は我等英雄を導く天の遣い! 唯一の存在である貴女様が、あのような俗物と関わっているのは時間の無駄、浪費です。そんな事より、やらなくてはならない事があるでしょう!」
「無駄、ろう……ひ?」
「ええ、無駄。そして浪費です。貴女様の〝責務〟に比べれば」
「……!」
責務。その言葉を聞いた瞬間、エルは驚愕に目を見開いた。
何故、その事を知っているのか。自分の事を知っているのはヨハンとリア、それだけのはずなのに。
困惑を隠せない様子のエルに、フードの男はまたも間髪置かず続ける。
「不思議そうな顔ですね? 何故私が知っているのか、と。ふふ、簡単な話ですよ。聞いたのです、貴女様を造り出した御方から、直接ね」
「う、嘘……」
「嘘ではありませんよ。貴女様は我々英雄達、つまり〝鍵〟に〝導〟、神造遺物を届ける為に生まれ落ちた星の巫女。あの御方が造り出した最高傑作の人工生命体であり、この世で神造遺物を造れる唯一無二の存在。……何か間違っておりますか?」
「ぁ……。……」
「……それは肯定と受け取らせて頂きましょう。その責務を為さねばならぬ貴女様が、今何をしているのですか? この世界を救う大義の為に生み出された貴女様が、それを放り出して何を?」
「わたし……は……」
フードの男の言う事は確かに正しい。誰に生み出されたかはわからない。けれど、自分がその為に造り出されたのは間違いない。それは、エルの〝核〟に刻まれている。
ただ、それだけではないと、彼――ヨハンは教えてくれた。自分の為に生きても良いのだと、言葉を投げ掛けてくれた。
「自分の為に、生きて……」
「自分の為? ははははッ! あまり笑わせないでください、巫女様」
そんなエルの言葉を、フードの男は嘲笑うかのように一蹴した。
「言ったでしょう? 貴女様は世界を救う為だけに生まれたと。この世界の均衡を保つ事、それが貴女様の存在理由なんです。それ以外は不要、全て無駄な事なのです。貴女様は、只々己の責務を為すだけで良い。それがひいては自分の為に繋がる。素晴らしい事ではありませんか、自分が造り出した物で世界を救えるなんて。私は羨ましいくらいだ」
価値観の違い。だがそれは、一見筋が通った話だ。
例えば王族の血筋に生まれた者は王になる為に跡を継ぎ、王としてその責務を為す。それは生まれながらに決まった道であり、抗うことは出来ない。いや、抗うことすら考えないだろう。なぜならそう宿命を背負って生まれてきたのだから。王として民を導き、街の繁栄に尽力する。それが王族として生まれた者の責務。疑う余地もない。
そしてエルもまた、形こそ違えど同じであった。神造遺物を届ける為だけに造られた存在。ならばその責務を為せ、と言うフードの男は確かに正しいのだろう。
しかし、それでも彼女はまだ信じていた。彼の、ヨハンの言葉もまた正しいのだということを。
エルはそっと顔を持ち上げ、僅かに光の戻った瞳でフードの男を見遣る。
「で、も……それだけが正しいわけじゃ、ありません。」
「なるほど、確かに貴女様の言う通り、幸福の価値観は人それぞれです。それを否定する気はありません。ですが、世界を救う事より優先されることなどないと思うのもまた事実。……逆に問いましょう。貴女様はこの世界が崩壊しても良いと仰るのですか?」
「ッ……」
その問い掛けに口籠るエル。彼女は知ってしまっていたのだ。この世界の美しさを、この世界に広がる優しさを。
言葉で表す事の出来ない景色。
胸に温かさを灯してくれる人との繋がり。
その素晴らしさを、エルは知っている。この数日間で彼女は経験したのだから。
だからこそ、この世界が崩壊して良いなど思えない。それはつまり、〝彼〟の存在がなくなってしまう事に他ならない。それは駄目だ、それだけは、絶対にいけない。
エルは体の力が抜け、ぺたり、と地面に座ってしまう。最早、抵抗の意思は見えなかった。
「わかってくださいましたか! いやぁ、良かった。私も饒舌に説明した甲斐があります。天の巫女たる貴女様が間違った道に進んでいるのは、私も心苦しいですから」
フードの男は草木を掻き分けエルの元へ、そしてその腕を掴み強引に立ち上がらせた。
「ではどうぞ、お戻りください。貴女様が本来居るべき場所である青の理想郷へ。あそこの魔力濃度でこそ、巫女様の御力が最大限に発揮される」
そうして力ないエルを引き摺りながら、湖に足を掛けた――その時。
「――追い付いた」
一人の声音が、湖の反響した。
直後、ふわり、と。エルの腕からフードの男の手が離れる。強引に立たされていたエルはバランスを崩し、後方へ倒れる――寸前で、彼が受け止めた。
薄銀髪を靡かせ、変わらぬ笑顔を向けてくれる青年――ヨハンが。
そして同時に、フードの男は理解が追い付かなかった。
ヨハンが此処に居る事がではない。彼が追ってくる可能性は考慮していた。距離は離したが、何らかの方法を模索し追い付く事も頭に入れていたのだ。
問題は何故、しっかり掴んでいたはずのエルから手が離れたか、だ。
彼は、咄嗟に自らの右手を見る。
「ひッ……」
原因は明白だった。エルを掴む右手、その手首から下が無くなっていたのだ。
切断面は鮮やかな切り口で、一切の出血はない。しかし、だからこそ、そこから見える骨や筋線維、そして赤黒い肉が彼の瞳へ明瞭に映し出される。
フードの男が、切られた、と意識した瞬間。激痛と憤怒の感情が身体を駆け巡った。
「ぐ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!! 手、手がああああああああ!! お、俺の……ぁ、ぁ!!」
咆哮にも似た絶叫がフードの男の口から放たれる。
だが、ヨハンはそれに一瞥もくれることなく。エルの腕に付いた彼の手を引き剥がし、乱雑に投げ捨てた。
「……ごめんよ、エル。君を独りにさせてしまって。……心細かったよね」
「い、いえ……。いえ、いえ……! わ、わたし、こそ……勝手な、真似をして。皆さんに、ご迷惑……かけて……ッ」
「迷惑なんかじゃないさ。リアから成り行きは聞いたよ、お手伝いをしてくれようとした……って。ふふ、偉いじゃないか。君が自分で行動をしてくれて、僕はすごく嬉しいよ」
「ッ……で、でも。その所為で……セ、セラータ……さん、が……」
「セラータの事も大丈夫。彼女もリアが治療中だ、重症だったけど……あのリアだ。何が何でも治してくれるはずだよ」
「……! セラ、タ……さ、ッ……」
「よしよし、だから早く帰ろう。セラータもリアも、きっと君の顔を見たがって――」
「――俺を無視するなああああああああああ!」
ヨハンの会話を中断させたのは、フードの男の怒声だった。
しかし、そんな彼の必死の声にも、ヨハンが応じる気配はない。ただただ、眼前のエルの心配をしているだけだった。
その態度がまた、フードの男の癇に障る。
「こっちを見ろよ、お前ぇぇぇぇぇ!! 人の手首を切っておいて、なに平然としてやがる!」
「……ごめん、エル。もう少しだけ待っててね」
ヨハンは露骨に溜息を吐くと、エルの頭をそっと撫でては、背後を振り向きフードの男を視界に入れる。
その真紅の瞳には、エルを攫った恨みも、手を切った感慨も、ましてやこの状況の彼を憐れむ事さえもなかった。
あるのは一つ――興味がない、という感情。それだけ。
「まだ、なにか?」
「なにか、だと……? ふ、ッ……はは、あはははははははッ! やっぱりアンタは違いますねぇ、ヨハンさん! この状況で、英雄の手首を切り落としておいてその不遜振り。流石は正真正銘のクズ、年月を得て、少しは変わったと思いましたが……やはりアンタは何も変わっちゃいない!」
彼は、自身のフードを取る。
その顔は紛れも無く、リアとともに湖の調査へ向かったアルフレド・スタックナイトその者だった。
だが、ヨハンがそれに驚く気配は微塵もない。彼は既に気付いていたのだ。セラータを刺し、エルを攫った人物が、アルフレドであるという事に。
エルを〝アオ〟の世界から連れ出し、馬車へ戻った時にはアルフレドの姿はなかった。その後、彼はすぐに茂みから出てきたが、ヨハンはその時点で違和感を覚えていた。リアとの会話で逃げていた、と暗に明言していたからだ。
それだけなら良い。彼が恐怖を抱いて逃げていただけなら、然したる問題ではない。
しかし、問題はアルフレドが戻って来た方向だ。
ヨハンはこう考えた。逃げていたはずの彼が、何故自分達と同じ方向から帰って来たのか、と。
その時点で、ヨハンはアルフレドに対し一定の疑念を抱いていた。だからこそ、エルに対しての情報を与えず、最小限のやり取りで済ませたのだ。
だが、それも今となっては悪手と言える。
アルフレドを警戒するならば、ヨハンはエルの情報を隠すだけではなく、エルの存在自体を彼から隠さなければいけなかったのだ。
ヨハンは内心で過去の自分を責め立てつつ、表面上は平静を取り繕いアルフレドに向かって声を掛ける。
「……それで? 僕がクズだったら、何だって言うんだい? アルフレド」
「英雄の名を気安く呼ぶな、まがい物」
アルフレドが纏う雰囲気が一変する。
先程の喚きたてていた様子はもうない。落ち着いた様子で切断された腕の止血をし、平常を保っている。
「俺は、俺は聞いたんだ。あの日、王都が鮮血に染まった日。貴様が何をしたのかを」
その言葉に、ヨハンの双眸がすっと細まる。
「名目上は裏切り者の始末などと公表されたが、あの方が言っていた。貴様は、自らの手柄を取られるのが怖いから三人の英雄を殺した。そしてあまつさえ――清廉高き王女、エルレシア様までをも手に掛けたッ!」
アルフレドがこれまでにない怒りを露わにする。
今までのような狂った発言ではない。心の底から感情を曝け出した言の葉を、ヨハンにぶつけた。
「違うか!? 葬制の棺を穢した本当の裏切り者――ヨハネス・ヴァン・エルノート……ッ!」
「……」
アルフレドの問いに対し、ヨハンは何も答えない。唯々、彼の瞳をひたすら見つめるだけ。
「図星で言葉も出ないか? それとも言い訳を考えているところか? それなら少しは待つぞ?」
「……」
アルフレドがいくら言葉を並べ煽ろうとも、ヨハンが口を開くことはない。何の感情も抱かず、何の情緒もない――そんな瞳で、彼を見続けるのみ。
それが、彼には腹立たしくて。
「無視を……するなァァァァァ!」
残った隻手で剣を握り、猛然とヨハンへ切り掛かる。
アルフレドの動きは怒りに支配されてもなお、洗礼されたものだった。生半可の努力でどうにかなるレベルではない。幾度と剣を振るい、実直に修練を重ねた者が辿り着ける領域。
この一太刀で、彼が手練れな事が伺えた。しかし――、
「っ……!?」
それは、あっさりと止められた。ヨハンが前に差し出した、何の変哲もないただの短刀によって。
アルフレドが油断したわけではない。慢心や奢りがあり、その隙を突かれたわけでもない。
純粋に実力の話だ。アルフレドの長い年月を掛けて積み重ねてきた努力。途轍もない修行の果てに得た力が、ヨハンには本来の武器を出すまでもない矮小な力だった――それだけである。
アルフレドはこの一瞬で理解してしまった。彼と自分にある、途方もない実力差を。
だが、それで諦める程、彼の憎悪は安くなかった。
「あああああああッ!!」
しかしそれでも。それを持ってしても。アルフレドの刃がヨハンに届くことはない。
刃を以て切り払い、剣尖を以て突き穿ち、切られた手で意表を突き殴りかかろうとも。何一つ、ヨハンの体に、いや、服にかすり傷一つ付けることが出来なかった。
敵どころか相手にすらされない。ヨハンを殺す為だけに研鑽を重ねてきたアルフレドにとって、これほどの屈辱はなかった。
彼の憎悪によって肥大した殺意が、少しずつ薄れていく。呼吸も乱れ、まともな思考も最早出来ない。それでも、英雄の存在を否定したヨハンの目を逸らすことだけは、アルフレドの本能が拒絶していた。
「認め、ない……! 英雄を否定した貴様だけは、何があっても認めることは出来ない……ッ! 」
「……英雄英雄って。君の頭には、それしかないのか」
声が、響いた。
深く、冷たい。身体の芯から凍らせるような、低い声が。
「下らない。そんなものに縋る君を、僕は心の底から軽蔑するよ」
「き、さまァァァ……!」
「英雄は、沢山人を殺した者に与えられる不名誉な称号だ。ただ国を勝利に導いた者達を〝人殺し〟等と呼ぶ事が出来ないからそう仮称しているだけさ」
「……!」
ヨハンは、覚えていない。アルフレドに放った言葉を。
しかし、彼は覚えている。今ヨハンが放った台詞は、謁見の時にアルフレドの心を折った言葉と寸分違わないものだと。
「また……また、その言葉を――」
「――だが」
アルフレドの咆哮が、ヨハンによって寸前で遮られる。
そして、アルフレドはみた。薄銀色の前髪の奥。その瞳に宿る、哀れみの情を。
「戦場では彼等が肯定される。人を数多く殺した者こそが、あの場では最も尊重されるからだ。そして、命を奪うという考え得る限り最悪な行為をした英雄達が祭り上げられるからこそ、人は戦争を、過ちを繰り返す」
「それが歴史だ……! 人類の発展の為には致し方ない犠牲だろう! その重圧に耐え、国を、民を守る英雄は誇るべき存在だ。それを人殺しの括りと一緒にするな、裏切り者ォ!」
「また君は……本当に的外れな事しか言わないね。英雄と呼ばれた者達が全員そう考えてると思うのか?」
「当然だ、それでこそ英雄なのだから」
「違うね。それはただ、君の理想を押し付けているだけだ」
間髪入れず即答するアルフレドに、ヨハンも数秒の間を置かず言い返す。
「アルフレド。君が崇めたてた英雄……葬制の棺のメンバーが戦争に行く前、どんな事を思ったかわかるかい?」
「当然だ。愛すべき国と民の為に剣を取り、敵を……」
「違う。彼等は一度たりともそんな事を考えてはいなかったよ。……皆はね、こう考えていた――〝ああ、戦争なんて起きなかったらいいのに〟って」
「……っ!」
「戦争が起きれば自分が死ぬ可能性があるんだ。それなのに、国の為民の為なんて考えるのは普通の思考じゃない。それは破綻者の思考だよ。……彼等も普通の人間なんだ。自分の周りの者を守りたいから、必死に恐怖を押し殺して剣を振るった。それが常人の範囲より少しばかり広かったから英雄と呼ばれただけ。結果、偉大と評されただけに過ぎないよ」
「そ、んな……ッ!」
アルフレドの中でまた、何かが崩れ落ちた。
彼の中で英雄は常人と一線を画す特別な存在だ。あらゆる困難を屈強な心で耐え、どんな窮地でも剣一つで華麗に脱し、数多の障害を排除して勝利へ導く。生まれた時から唯一無二の、飛び抜けた存在。
だがヨハンは言う。普通の人間と何も変わらない、と。
アルフレドは憤怒と困惑が入り混じった表情を浮かべる。下唇を強く噛み締め、ヨハンが告げた真実を認めまいと懸命に堪える。
しかし、彼は心の何処かで納得してしまっていた。絵本の中にいるカッコイイ英雄の姿、あれはあくまで作り話だ。現実はそう生易しいものじゃないと、戦場に出た彼が一番よくわかっていた。
そして、ヨハンの言う通り。――自分は、それを彼等に重ねていただけなのだと。
「彼等は皆、自分達がただの人殺しであることを理解していた。他者よりも自分の力が強大だと分かっていたからね。それでも、その汚名を担ってでも。あの地獄が一秒でも長く続くよりは良いって、そう考えていたんだ。……そうだね、そういった意味では彼等は誇られるべき存在なんだろう。それは認めるよ」
ふらり、とヨハンの体が揺れ、
「ただ――それは戦場での話だ」
言い終えるのと同時に、地が抉れた。
風の音に紛れ、短剣がアルフレドの心臓に一直線へ向かう。しかし、その単調な攻撃を食らう程、アルフレドの戦闘経験は少なくない。
アルフレドは突きを避け、真上から剣を狙って振り下ろす。甲高い金属音が鳴り響き、刀身が擦れる合う。剣と短剣。その相性の差か、ヨハンは体勢を崩し片膝をつく。
その隙を、アルフレドは好機と思った。思って、しまったのだ。これがヨハンによる撒き餌とも知らず。
「死……っ」
「自分の事を英雄だと、君は言ったね」
ヨハンの無防備な首を真っ二つにしようと、白銀の軌跡が描かれ、彼の体を両断する――その瞬間、またしても容易く、アルフレドの攻撃は防がれた。
ヨハンは首に狙いを定めると読み、腕を折り曲げると、その短い刀身でアルフレドの攻撃を防いだのだ。
これには流石のアルフレドも同様を隠せなかった。
完全に止めと思った一撃。それがこうも簡単に受け止められたとなれば、彼でなくとも無理もない。
しかし、ヨハン相手にその隙は決定的だ。
ヨハンは更に手首を曲げ、滑るように剣を受け流す。それは狙い通りアルフレドの体勢を崩し、優位性を逆転させた。
「あああああああ!」
アルフレドは慌てて真横に剣を振るうが、それこそ単調過ぎる攻撃だ。何の意図も狙いもない、その場凌ぎの乱雑な振り回し。
それが通用するのは知性のない獣くらいだ。事戦闘に特化した人間からしたら、悪手も良いところ。
「不本意にでもその称号を受け取った者から言わせてもらうよ」
ヨハンは両脚の力を解放させ、空を舞う。視界に移るのは限りなく広がる夜空。体が動く度に、星々が光の軌跡を描く。それを綺麗だ、と思える余裕があるのは、やはりヨハンの体感時間が限りなく遅くなっているからだろう。
ヨハンが半回転した所で、彼を見上げるアルフレドと視線が交わる。比較的整った顔が驚愕で歪み、在り得ないと言わんばかりに呆然と立ち尽くしていた。
「戦場以外で剣を振るい、守るべき無辜の民を殺した君が、それを名乗るな」
再び描かれる短剣の軌跡。それはアルフレドの左手首を切り、赤色の線へと色を変えた。
「ぐ、が、ぁぁ……ぁあああああああああああああ!」
もう、当初の狂乱的な姿は何処にもない。騎士として研鑽を重ねた剣も、両手首を落とされた今無に帰した。彼はもう、英雄を名乗るどころか剣を振るうことさえ出来ないのだから。
全てを奪われたアルフレドに残されたもの。それは、ヨハンに対する純粋な恐怖だけだった。
無様に蹲るアルフレドへ、ヨハンは一歩一歩近付いていく。その足音が怖くて、彼は咄嗟に耳を塞いだ――が、それを可能にする手はなく。悲しくもそれを永遠と感じるかのように、脳に刻み込んでしまった。
「今回はエルが居るから君を見逃す。死体を見せたくはないからね。ただ、次こんな事をしたら容赦はしない。……僕は君の言う通り、自分を英雄とは思っていない。だから戦場じゃなくても躊躇なく人を殺せる」
アルフレドの前で、ヨハンは片膝をつき、彼の耳元へ顔を寄せる。
びくっ、とアルフレドの体が跳ね、彼は恐る恐る顔を持ち上げた。
「……この意味を、よく考えるように」
人の中で死に勝る恐怖はない。
ヨハンはそれをよく知っている。だからあえて圧倒的な実力差を示し、彼の武器を奪うことで、戦意とともに死を自覚させた。これ以上首を突っ込めば、容易く命を散らすぞ、と。警告したのだ。
アルフレドの体が弛緩し、力なく項垂れる。
ヨハンはそれを、再び何の感情も持たず一瞥すると、踵を返し、
「さようなら、破綻者。願わくば、もう二度と。その顔をも見ない事を祈るよ」
訣別の言葉を告げ、エルの元へと帰っていった。




