第2話:亡国の姫と視えない狩人
「……帝国の、犬……?」
少女の声は、長雨に濡れた小鳥のように震えていた。
だが、その瞳だけは、死に瀕した獣のような鋭い光を放ち、まっすぐにカイルを射抜いている。
手首の細さは、どう見ても戦士のそれではない。
刃こぼれ一つない短剣の握り方も、どこかぎこちない。
しかし、彼女が発する気迫と、周囲の空気をビリビリと震わせる尋常ではない「魔力」の残滓が、カイルに警戒を抱かせるには十分だった。
(帝国……?)
カイルはその言葉を心の中で反芻した。
この辺境の村で、帝国という言葉を耳にすることはほとんどない。
国境を越えた先にある、軍事力で周辺国を飲み込み続けている巨大な国家。
村の大人たちが、たまに酒の席で眉をひそめながら話す程度の、遠い異国の話だ。
だが、目の前の少女は違う。
そのボロボロのドレスの刺繍は、どんなに汚れていても、素人目にも一級品だとわかる。
そして何より、彼女の首に嵌められた鈍色の首輪が、異様な重圧を放っていた。
カイルはゆっくりと、両手を肩の高さまで挙げた。
「……いや。ただの精霊に見捨てられた、しがない狩人だ。名はカイルと言う」
静かに、そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
驚かせれば、彼女は刺してくる。
いや、刺される前に自分が斬り捨てることはできる。
だが、そんなことをする理由はない。
カイルの冷静な声に、少女は僅かに目を見開いた。
しかし、握られた短剣の先は、まだカイルの胸元から逸れていない。
「嘘……こんな森の奥に、人がいるはずがない。それに、あなたは……」
少女の視線が、カイルの背に負われた大剣へと向けられる。
そして、カイルの周囲を見回し、さらに顔をこわばらせた。
「なぜ……あなたの周りには、精霊がいないの……?」
その問いに、カイルは苦笑しそうになった。
やはり、彼女は「見える」側の人間らしい。
しかも、自分の周囲から精霊が逃げ出していることに気づくほど、鋭敏な感覚を持っている。
「さっきも言ったろ。精霊に見捨てられたんだよ。声も聞こえないし、力も借りられない。だから、自分の足で歩いて、自分の剣で獲物を狩るしかない」
カイルは両手を挙げたまま、少しだけ歩幅を狭めた。
「俺はあんたをどうこうするつもりはない。ただ、気になるもんが見えたから、ここまで来ただけだ」
「気になるもの……?」
少女が怪訝な顔をした、その瞬間だった。
カイルの視界の端で、先ほどから鬱陶しく付き纏っていた「黒い澱み」が、急激に収束していくのが見えた。
(……来る!)
「刺す前に、後ろの『澱み』をどうにかした方がいい」
カイルが鋭い声で叫び、少女の背後にある岩壁を指差した。
「え……?」
少女が反射的に振り返る。
その視線の先で、岩壁の影がドロリと歪み、不気味な形を成し始めていた。
それは、漆黒のエーテルが凝縮されたような、巨大な「鴉」だった。
「ひっ……!」
少女が短い悲鳴を上げ、後ずさる。
実体を持たないはずの影の鴉は、しかし明確な殺意を持って、赤い両目を爛々と輝かせていた。
(帝国の……追跡術式……!)
少女は恐怖で顔を蒼白にしながらも、震える手で宙に印を結ぼうとした。
「光の精霊よ、我を護る盾と――」
だが、呪文を唱え終える前に、彼女の首に嵌められた銀の首輪が、赤い光を明滅させた。
「……ッあああああッ!!」
少女は喉を掻き毟り、その場に崩れ落ちた。
全身から冷や汗が噴き出し、呼吸が荒くなる。
首輪が、彼女の魔力を強制的に遮断し、肉体に激痛を与えているのだ。
その隙を見逃さず、影の鴉が少女の喉元に向かって急降下する。
「チィッ!」
カイルは迷うことなく、背中の大剣を引き抜いた。
精霊の声は聞こえない。
魔法の使い方も知らない。
だが、カイルの目には、はっきりと見えていた。
あの鴉がただの影ではなく、「黒い糸」が複雑に絡み合った術式の塊であることが。
そして、その糸の束が最も密集している、鴉の胸の中心にある「核」の存在が。
ダンッ!
カイルは地を蹴り、少女と鴉の間に滑り込んだ。
(精霊なんて知るか。俺は、俺に見えるものを斬るだけだ)
カイルは大剣の柄を両手で握り締め、鴉の「核」を一点の狂いもなく見据える。
刃こぼれした鉄の剣。
魔法の力など一切宿っていない、ただの重たい金属の塊。
だが、カイルの放った鋭い突きは、鴉の術式を構成するエーテルの流れを、力技で断ち切った。
「――シ、ィィィィィィィッ!?」
鴉は断末魔のような奇声を上げ、その黒い体躯をボロボロと崩壊させていく。
術式の核を物理的に破壊されたことで、魔法が維持できなくなったのだ。
やがて、影は完全に霧散し、後には何も残らなかった。
静寂が戻った森の中で、カイルはゆっくりと剣を背中に納めた。
「……手荒な真似をして悪かったな。だが、あれが追手なんだろ?」
カイルが振り返ると、少女は地面に座り込んだまま、信じられないものを見るような目でカイルを見つめていた。
「……あり得ない……」
少女は、震える唇から言葉を絞り出す。
「精霊の気配が、全くなかった……。魔力も感じなかった。それなのに、どうして……帝国の『影刃の術』を、ただの剣で……?」
精霊術を介さずに、魔法現象を打ち消す。
それは、彼女の常識では絶対にあり得ないことだった。
「あんたには『ただの剣』に見えるかもしれないが、親父の形見でな。毎日欠かさず手入れしてるから、結構切れるんだぜ」
カイルは肩をすくめ、わざと軽く答えた。
彼自身、自分がやったことがどれほど異常なことなのか、全く理解していないのだから。
彼にとっては、見えない糸の結び目を、剣の先で解いただけのことだった。
「……立てるか?」
カイルが手を差し出すと、少女はビクッと体を震わせ、その手を払いのけた。
「触らないで……!」
警戒心は、まだ解けていない。
無理もない、とカイルは思った。
得体の知れない追手に追われ、首には苦痛を与える輪を嵌められ、こんな森の奥に逃げ込んできたのだ。
人間不信になるなという方が無理な話だ。
「わかった、触らない。だが、ここに長居するのはまずい。あの『澱み』……黒い鳥の仲間が、まだウロウロしてるかもしれない」
カイルは空を見上げた。
ポツリ、ポツリと、冷たい雨粒が顔に当たる。
「雨が降ってくる。この森の雨は冷えるぞ。怪我もしてるみたいだし、とりあえず雨風をしのげる場所に行こう」
カイルの言葉を裏付けるように、雨足はみるみるうちに強くなっていった。
ざあざあと音を立てて降る雨は、二人の体温を急速に奪っていく。
少女は寒さに身を震わせながら、カイルの顔と、暗く沈んでいく森の奥を交互に見つめた。
そして、ついに観念したように、自力でゆっくりと立ち上がった。
「……どこへ、行くの……?」
「すぐ近くに、俺の獲物の解体用の小屋がある。雨漏りはしないし、追手の術も、雨とこの森の湿気で少しはごまかせるはずだ」
カイルは歩き出し、振り返って少女を促した。
「ついてこい。……いや、ついてきたいなら、ついてこい」
突き放すような言い方だったが、カイルは少女の歩幅に合わせて、ゆっくりと森を進んだ。
***
村外れにある、カイルの解体用の小屋。
獣の臭いと、古い木の匂いが混ざった、むさくるしい場所だ。
だが、今の二人にとっては、雨風をしのげる唯一の避難所だった。
「狭くて悪いな。まあ、座ってくれ」
カイルは小屋の隅にある干し草の束を指差した。
少女は少し躊躇した様子だったが、疲労には勝てず、干し草の上に力なく座り込んだ。
カイルは手早くランプに火を灯し、小屋の中に小さな明かりを作る。
そして、棚から薬草の束と、きれいな布を取り出した。
「怪我、見せてみろ。この森の草で作った薬だから、気休め程度かもしれないが」
「……結構よ。あなたのような平民に、私の体に触れることは許されないわ」
少女は冷たい声で拒絶した。
その言葉に、カイルは苦笑を漏らす。
「平民ね。……あんた、本当にどこぞのお姫様なのか?」
「……エルディア聖王国の第一王女、リアナ・フォン・エルディア。それが、私の名よ」
リアナは、真っ直ぐにカイルの目を見て名乗った。
その声には、ボロボロの姿とは不釣り合いな、強い誇りが込められていた。
(エルディア聖王国……)
カイルの記憶の底で、その名前が微かに引っかかった。
村を訪れる行商人が、たまに口にする大きな国の名前だ。
豊かな精霊の恩恵を受け、美しい城と街並みが広がる、夢のような場所。
だが、カイルにとっては、御伽話の中の国と何ら変わりはない。
「……そうか。エルディアの王女様が、どうしてこんな辺境の森で、首輪なんかつけられて逃げ回ってるんだ?」
カイルの問いに、リアナは唇を噛みしめた。
その瞳に、深い悲しみと、燃えるような憎悪が交錯する。
「……帝国よ。ガルカスという名の将軍が率いる軍勢が、一夜にして王都を火の海にしたわ」
リアナの言葉は、淡々としていた。
だが、その裏に隠された絶望の深さを、カイルは感じ取っていた。
「父様も、母様も、私の目の前で……」
リアナの声が震え、うつむく。
ランプの灯りに照らされた彼女の横顔は、あまりにも痛々しかった。
「私は、この首輪で魔力を封じられ、生け捕りにされた。彼らは、私を帝国の皇帝への献上品にするつもりだったのよ」
「……そこから、逃げてきたってわけか」
カイルは薬草をすり鉢で潰しながら、静かに相槌を打った。
エルディアが滅びた。
その事実は、カイルにとっても衝撃だったが、同時に現実味がなかった。
(俺には、関係のない話だ)
辺境の村で、精霊に嫌われ、ただ日々の糧を得るためだけに生きている自分。
国がどうなろうと、王族がどうなろうと、自分の生活が変わるわけではない。
面倒なことには関わりたくない。それが本音だった。
「……ねえ、あなた」
リアナが、不意にカイルに問いかけた。
「あなたは、何者なの?」
「何者って、さっきから言ってるだろ。ただの狩人だ」
「嘘よ。あんな術式を、精霊の力も借りずに破壊するなんて、ただの狩人にできるはずがないわ。あなたは、本当は高名な隠者か、あるいは異端の魔導師なのではないの?」
リアナの目は、真剣そのものだった。
彼女の常識では、カイルの存在はそれほどまでに「異端」なのだ。
カイルはすり鉢を置き、深くため息をついた。
「隠者でも、魔導師でもない。俺は、本当にただの『出来損ない』だ」
カイルは自分の両手を見つめた。
太く、固く、マメだらけの手。
剣を振るうためだけの手だ。
「今日、村で『精霊の儀式』があった。俺は、十七歳になった。でも、精霊の声は聞こえなかった。火種一つ、起こせなかった」
カイルの声は、どこか自嘲気味だった。
「この世界じゃ、精霊の声が聞こえない奴は『欠落者』だ。村の連中は、俺を不吉な存在だと思ってる。親父も死んで、天涯孤独。俺は、この村で一生、一人で獣を狩って生きていくしかないんだ」
カイルは顔を上げ、リアナの目を見返した。
「だから、あんたの言うような、すごい力なんて持ってない。ただ、あんたを追ってたあの『黒い影』が、俺には『糸の塊』みたいに見えた。だから、その中心を斬った。それだけだ」
リアナは、絶句した。
精霊の声が聞こえない。
それは、魔法がすべてのこの世界において、あまりにも残酷な宣告だ。
それなのに、この少年は、世界の真理を、精霊を介さずに直接「見て」いるというのか?
「……矛盾しているわ」
リアナは呟くように言った。
「精霊に愛されない者が、これほどまでに世界を正しく捉えているなんて。あなたは、一体……」
「俺のことはどうでもいい」
カイルは立ち上がり、すり潰した薬草を布に包んだ。
「ほら、傷口を出せ。王女様だろうが何だろうが、化膿したら死ぬぞ」
リアナは少し迷ったが、カイルの真っ直ぐな視線に押されるように、そっとドレスの裾をめくった。
白い足に、深い擦り傷がいくつも走っている。
カイルは無言で薬草を当て、手際よく布で縛った。
その動作は乱暴に見えて、驚くほど優しかった。
「……ありがとう」
リアナは、消え入りそうな声で礼を言った。
カイルは何も答えず、背を向けて小屋の入り口に立った。
雨は、まだ止む気配がない。
深い森の闇が、小屋を包み込んでいる。
「……あんた、これからどうするつもりだ?」
カイルは外を見つめたまま、背中で問いかけた。
「……わからないわ。でも、逃げ続けるしかない。帝国は、決して私を諦めないから」
リアナの声には、深い疲労が滲んでいた。
「……あんたを村まで連れて行く。そこから先は、また考えればいい」
カイルの提案に、リアナは驚いたように顔を上げた。
「……礼は言わないわよ。私は、追われる身なのだから。関われば、あなたまで平穏を失うわ」
リアナは、強がるように言った。
これ以上、誰かを巻き込みたくない。その思いが、彼女の言葉を尖らせていた。
だが、カイルは振り返り、微かに笑った。
「平穏、ね……。あいにく、俺は元から村じゃ浮いてるんだ。これ以上、居心地が悪くなることもないさ」
カイルは再び外に視線を戻した。
(それに……)
カイルの視界の端で、森の奥深くから、再びあの「黒い澱み」がゆっくりと、だが確実に村の方向へと近づいてくるのが見えた。
あの禍々しい力を持つ帝国が、この村を素通りするとは思えない。
嫌な予感が、カイルの胸をざわつかせていた。
「夜が明けたら、出発する。少しでも休んでおけ」
カイルはそれだけ言い残し、小屋の入り口に座り込んだ。
雨音だけが、静かに二人の間を流れていた。
運命の歯車が、音を立てて回り始めていた。
精霊に見捨てられた少年と、すべてを奪われた王女。
二人の孤独な魂が交わったこの夜から、世界は大きく動き出そうとしていた。




