第四章 第一節「黄金の鷲を狙う者たち」
帝都を発って四日目。北へ向かう街道は深い森へ入った。
黒い漆塗りの車体が、木漏れ日を受けて艶やかに光る。扉を飾る金箔張りの双頭の鷲は、ヴァレンティア王国からエルディア帝国へ向かったときと同じものだった。
ただし、車列は六台から十台に増えている。
後方に続く四台は、救援物資を積んだ荷馬車である。小麦粉、乾燥豆、塩漬けの豚肉、燻製ソーセージ。樽入りのザワークラウトと発酵キュウリのほか、蜂蜜、果実酒、薬品、毛布も積まれていた。皇室の馬車に連なるその荷台にも、双頭の鷲の旗が掲げられている。
追加の支援金となる銀貨は、六台の馬車のうち一台に積まれていた。銀貨を収めた鉄張りの木箱は座席の下に固定され、鍵はフリードリヒが預かっている。
今回は護衛の近衛騎兵も三十名に増やされた。十台の馬車には御者が二人ずつつき、下人と侍女が十六人。それにエカテリーナたち四人を合わせ、総勢七十名の一行である。
きのう一日中降り続いた雨で道がぬかるんでいる。北部へ向かう道は、王都セヴェログラードから帝都アドラーホルストへ向かう街道とは違い、石畳で舗装されていなかった。
蹄鉄がぬかるんだ泥を踏む音と、車輪が泥を弾く音が続く。
馬車が上下に揺れた。
「あと三日ほどで、ノルトマルクへ着けそうです」
ナターシャが地図から顔を上げた。
「街道の状態がよければ、ですが」
向かいに座るレオポルトが答え、口元を緩める。その隣で、フリードリヒは北部から届いた報告書を読み返していた。
エカテリーナは窓の外へ目を向けた。
先ほどから、ひと気がない。
森へ入る手前では、街道沿いの畑は荒れ、崩れた石垣の向こうに、屋根を失った家々が見えた。今は、すれ違う旅人さえ途絶えている。
不気味。
エカテリーナの脳裏に、ふと、この言葉が浮かんだ。もしかしたら、殿下の仰っていたように、北部の村ノルトマルクは思っている以上に被害が大きいのかもしれない。彼女は、嫌な胸騒ぎを覚えた。
小鳥が飛び去った。
車列のリズムを崩す蹄鉄の音が近づいてくる。
ドミトリーだった。
四十五歳の彼は、今回騎兵隊長である……はずだった。
しかし、彼は今、エカテリーナの乗る馬車の真横で大きな腹を揺らしながら、腰に下げた革袋へ手を伸ばしかけている。中にはワインの瓶が入っていた。
エカテリーナが窓を叩く。
ドミトリーがにやりと笑った。
刹那、彼から殺気が溢れる。
怒鳴った。
「止めろ! 前だ!」
轟音。
四人が顔を見合わせた。
斜面から大木が倒れ込み、先頭の馬車の目の前で止まる。街道が塞がれた。馬たちが一斉に嘶き、その声が響き渡った。
御者が手綱を引く。
腕に血管が浮き出た。
馬車が上下に左右に大きく揺れる。
四人が壁や座席に手をつき体を支えた。
地図と書類が床へ散る。
「弓だ!」
叫び声が上がった。
胸に響く音がする。
窓枠に矢が突き立った。
レオポルトがエカテリーナの肩をぐいと引き寄せる。ものすごい力だった。身体が熱くなる。こんなときなのに……。エカテリーナがそう思った刹那、二本目の矢が、一本目のすぐ横に突き立った。
「みな、伏せて!」
フリードリヒが剣を抜く。
あまたの足音が、落ち葉を次々に踏み破った。
「御者を押さえろ! 荷馬車は燃やすな!」
若い女の声だった。しかし、力強い。
「黄金の鷲のきゃつらは、生かして捕らえろ!絶対に殺すな!」
皇帝の紋章である双頭の鷲を見落とした襲撃ではない。
「前後を固めろ! 馬車の間は降りて守れ!」
ドミトリーの声が響いた。
車列の前後では、騎乗した兵士が馬首を森へ向けた。馬車のそばにいた騎兵たちは鞍から滑り降り、駆け寄った下人に手綱を渡す。下人たちは車体の陰へ馬を引き寄せ、矢を避けながら手綱を握り締めた。
「ボリス、御者を頼む! 支援金の馬車も守れ!」
革袋を下げたまま、ドミトリーも馬を降りた。
エカテリーナは床に伏せたまま、ナターシャと目を合わせた。
侍女はすでに、座席の下に据え付けられた木箱から細身の剣を取り出していた。
「お嬢様」
「分かっています」
エカテリーナも、自分の剣を取った。
「エカテリーナ殿!」
「ナターシャ殿!」
レオポルトとフリードリヒが同時に叫ぶ。
「なりませぬ。閣下。ナターシャ殿」
剣を抜いたフリードリヒが、ナターシャの腕を掴んだ。
目が合う。
ナターシャが黙って頷いた。
彼はためらいを押し殺し、その手を放した。
「殿下、今は緊急事態でございます。それに御者台が狙われています。護衛の方々は後ろの馬車にも向かわねばなりません。こちらの扉を守りながら、御者を助けなければ」
エカテリーナの言葉に、レオポルトは外の物音へ耳を澄ませた。後方からも怒声と剣戟が聞こえる。三十人の騎兵は、十台の馬車と、剣を持たない者たちを守るために分散していた。
レオポルトも剣をゆっくりと抜き、フリードリヒと目を合わせた。
頷き合う。
「分かりました。エカテリーナ殿。しかし、あくまでも身を守るためですよ」
肩を支えていた力が、すっと抜ける。
エカテリーナとナターシャが細身の剣を抜き、目配せした。
「承知しておりますわ」
二人が顔を見合わせ、微笑んだ。
エカテリーナの肩には、まだレオポルトの温もりが残っていた。
「御者を守れ!」
騎兵のボリスが叫ぶ。
扉が開かれた。
革の胸当てを着けた男が、短剣を突き出す。
「動くな――」
銀の光が横切った。
男の喉元にエカテリーナの剣が突き刺さる。
鈍い音。
男が落ちた。
「何を!」
続けざまに、別の若い男が押し入ってきた。
銀が飛ぶ。
ナターシャの剣が、その喉元を貫いた。
男が転げ落ちる。
「お見事!」
レオポルトが賞賛を送りながら、フリードリヒと外へ飛び降りた。
泥が跳ねる。
続けて、ナターシャが扉の前に立った。
銀、銀、銀、銀、銀。
入り乱れる刃が、木漏れ日を弾く。
金箔張りの双頭の鷲の外では、賊と騎兵がすでに斬り結んでいた。車輪の陰で侍女が頭を抱え、馬の手綱を握った下人が、その前へ身を寄せる。
「危ない!」
刹那ナターシャが身をかがめる。
鈍い音。
叫ぶフリードリヒのすぐ真横に、若い女が投げた斧が黒い漆に突き刺さっていた。
レオポルトが馬車の踏み段へ寄り、降りるナターシャとエカテリーナに手を添える。
すぐ脇を騎兵が駆け抜けた。追う男の刃を受け止め、肩で押し返す。その足元へ、折れた槍の柄が転がった。
「わたくしがこちらを。あなたは御者をお願い」
「承知いたしました。お嬢様」
言うや否や、ナターシャが賊と騎兵の間をすり抜け御者台へ飛び乗った。
栗色の侍女服の裾が揺れる。
エカテリーナの前には、斧を握った女が立ちはだかった。若い女だった。
斧が来る。
避ける。
背後で悲鳴が上がった。振り向く暇はない。
また、斧。
避ける。
退こうとした足のすぐ後ろを、騎兵がよろめきながら横切った。
刃をまともには受けない。
銀の光。
横から踏み込んだレオポルトが、女の上腕を斬った。
手が緩む。
鈍い音。
泥が跳ねた。
斧が地に刺さる。
熟成したワインのような濃い血が垂れた。
悲鳴。
女は斬られた腕を押さえる。指の間から血が滴り、泥を暗く染めた。
女がうずくまる。
その向こうで馬が棹立ちになった。騎乗した兵士が手綱を引き、森から出てきた賊を車列へ近づけまいと剣を振るう。
あまたの金属音が響いた。
襲撃者と騎兵の争いが激しさを増す。
剣と剣がぶつかり合い、至る所で泥が跳ねた。
「馬車の下へ!」
髪を振り乱したレオポルトが叫ぶ。
倒れた下人をフリードリヒが引きずり、車体の下へ避難させた。
金髪の女がエカテリーナへ斬りかかる。
彼女は相手の剣を外へ流したが、女はすぐに踏み込み直し、顔を狙って刃を返した。
剣と剣が触れたのは、一瞬だった。
危ない。
銀の光。
来る。
鈍い音。
女が倒れた。
「貴族には恥ずべき一手。閣下、どうかお許しください」
馬車の下から剣が伸びていた。
倒れた女の長靴が裂けている。
ワインのような血が溢れ出した。
悲鳴。
馬車の下からフリードリヒが顔を出す。
口元を緩ませた。
「フリードリヒ、ありがとう」
「いえいえ」
笑顔を見せ、再び馬車の下へ顔を引っ込めた。
エカテリーナの首筋を一筋の汗がたどった。
危ない。もう少しで顔に傷がつくところだった。
彼女は胸をなでおろした。
銀、銀、銀、銀、銀。
音、音、音、音、おと。
火花が散る。
息を整える間もなく、次の剣が迫った。




