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第三章 第三節「そばにいる理由」

 挿絵(By みてみん)

「では、下人たちはもう少しのんびりとさせて、私たちは湖畔(こはん)を散歩でもいたしましょうか」


 レオポルトがフリードリヒに目配せしながらエカテリーナを誘う。


 レオポルトとエカテリーナは湖畔をゆったりと歩いた。


 ナターシャとフリードリヒは、少し離れながら歩いていく。


「二日後には、あの山脈を越えることになります」


 レオポルトが、湖の向こうを指した。


「北部の状況は、報告書に書かれているより深刻かもしれません」


 レオポルトが今日はじめて真剣になる。


「そう思われる理由がおありですか?」


 エカテリーナも背筋を伸ばした。


「責任を負うべき者ほど、自分たちに都合の悪いことを報告書へ書きませんから」


「よくご存じなのですね」


「何度も同じような役目を任されていますので……」


 レオポルトは苦笑した。


「反乱が起きれば鎮圧へ向かい、疫病が広がれば医薬品を届け、領主同士が争えば仲裁する。宮廷では、私へ任せておけば断らないと思われているのでしょう」


「実際、断っていらっしゃらないのでしょう?」


 エカテリーナが柔らかい眼差しでレオポルトを見上げる。


「困っている者がいると聞けば、断りにくいものです」


「それで、すべてをお引き受けになるのですか?」


「誰かがしなければなりません」


 エカテリーナは足を止めた。


「その誰かが、いつも殿下である必要はございません」


 レオポルトも立ち止まった。


「他人が引き受けない責任を負うことは、立派なことです。しかし、断れないことまで美徳になさってはいけません」


「厳しいことをおっしゃる」


「殿下を褒めるだけでしたら、宮廷にいくらでも相手がいらっしゃるでしょう」


「いいえ」


 レオポルトは、迷わず答えた。


「私を褒める者は大勢いますが、私自身のことを考えて叱ってくださる方は、ほとんどいません」


 エカテリーナは言葉に詰まった。


「ですから、あなたの言葉はありがたいのです」


「殿下は、またそのようなことを……」


「何かおかしなことを申し上げましたか?」


「いいえ。もう結構でございます」


 この人の言葉を一つ一つまともに受け止めていたら、心が追いつかない。


 エカテリーナは再び歩き始めた。


 その頬がわずかに染まっていることに、レオポルトは気づかなかった。



     ◇ ◇ ◇



 春の光を受けた水面は銀色に揺れ、その畔(ほとり)にはまだ溶け残った雪が白く横たわっていた。


 湖の浅瀬では、四頭の馬が静かに水を飲んでいる。


 ナターシャは馬の首を撫でながら、隣に立つフリードリヒへ尋ねた。


「フリードリヒ様は、十歳から殿下にお仕えしているとおっしゃいましたね」


「はい。父が近衛軍に仕えていた縁で、小姓として宮廷へ上がりました。殿下とは同い年でしたので、学友も兼ねるよう命じられたのです」


「ご家族と離れるのは、お寂しくありませんでしたの?」


「寂しかったと思います。ですが、殿下も同じでした」


「殿下が、でございますか?」


「高い身分の方ほど、誰が本当のことを言っているのか分からなくなるものです。殿下は幼い頃より大勢の侍従や侍女に囲まれてはいましたが、心を許せる相手などいませんでした」


 フリードリヒは、湖畔の先を行くレオポルトへ目を向けた。


「ですから、私は殿下のそばにいてお仕えしようと決めました。いつの間にか、家族と暮らした年月より、殿下にお仕えしている年月の方が長くなりました」


 フリードリヒがナターシャへ視線を落とし、わずかに口元を緩めた。それは寂しさと嬉しさの入り混じる繊細な微笑みだった。


「わたくしも同じです」


 ナターシャは静かに言った。


「わたくしも十歳で家を出ました。お嬢様とは同い年です」


「どのようなところで、お育ちになったのですか?」


 フリードリヒは、心からナターシャのことが知りたくなった。身体が熱くなる。


「北方の、小さな農村です。両親と、わたくしを含めて十人のきょうだいで暮らしておりました」


「十人ですか?」


「はい。わたくしが一番上です。下に九人おります」



 水面を渡る風が、帽子の縁に触れた。



「不作が続いた年、家族全員が冬を越すことが難しくなりました。それで、私はヴォルコフ公爵家へ奉公に出されたのです。『口減らし』でございました」


 フリードリヒは何も言わなかった。


 かわいそうに、と言われることをナターシャは覚悟していた。


「わたくしが家を出れば、九人の弟や妹に分けられるパンが、ほんの少し増えました」


 ナターシャは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「初めは洗濯場の下働きでした。わたくしは読み書きもできませんでしたが、奥様とお嬢様が学ぶ機会をお与えくださいました。それから一年ほど経って、お給金をいただけるようになってからは、その半分を故郷へ送っています」


「ごきょうだいたちは、今も故郷に?」


「年長の妹の二人は近くの農家へ嫁ぎ、弟四人は職人へ弟子入りしました。もう一人の妹は、村の学校で子どもたちへ文字を教えています。残る妹一人と弟一人だけが、まだ両親と暮らしております」


「それは、あなたが送ったお金で?」


「私のお給金がすべてではございません」


「それでも、あなたが送った給金で家族皆を支えたのですね。私は今まで殿下と国家のために、自分ではよく頑張ってきたと思っておりました。しかし、ナターシャ殿を前にしては、今私は、私の愚かな自負心など、所詮ちっぽけなものだったなと、恥ずかしく思っております」


 ナターシャは、フリードリヒを見た。


 その瞳に、哀れみはなかった。


 偽善心から下人に施しを与えたい目でもなかった。


 一人で家族を支えてきた人間へ向ける、静かな敬意だけがあった。


「あなたは、ご家族を救ったのですね」


「このわたくしが……」


 考えたことも無かった。運命に流されるまま、必死に働き故郷の家族にお金を送り続けた。ただ、それだけだった。


 ナターシャは空(くう)を仰(あお)ぎ見た。



「殿下から伺いました。帝国へ同行することをエカテリーナ殿が無理に命じたわけではないそうですね」


「はい。わたくしが望みました」


「十歳のときは、ご自分で奉公に出ることを選べなかったのかもしれません。しかし今は、ご自分の意思であの方のおそばにいらっしゃる」



 ナターシャの胸の奥で、何かが揺れた。



 足元ではウッドアネモネが群れ咲き、その白い花々の隙間にオオイヌノフグリの青が散っている。風が吹くたび、花々は小さく揺れ、森全体が静かな息づかいをしているようだった。



 奉公に出された過去を語ると、人は両親を責めた。


 親に売られたのだと、決めつける者もいた。


 けれど、フリードリヒは誰も責めなかった。


 あの冬の幼い少女だけではなく、それから生きてきたナターシャを見ていた。今の彼女が何を望み、誰のそばにいるのかを尋ねてくれた。


「フリードリヒ様も、ご自分で殿下のそばにいることを選ばれたのですね」


「はい」


「それでしたら、わたくしたちは本当に同じなのかもしれません」


 ナターシャは思わずそう言ってしまい、はっとした。


 顔を見合わせる。


 どちらからともなく笑みがこぼれた。ナターシャは頬の熱を隠すように湖へ目を向け、フリードリヒも言葉を探したまま水面を見つめた。


 ただ、それだけだった。



     ◇ ◇ ◇



 帰り道は、往路よりもゆっくりと馬を進めた。


 午後の陽はまだ柔らかく、葉を広げ始めた樫(かし)や楡(にれ)の梢を透かして森の小道へ降り注いでいた。


 湿った落葉の道を進む。雪解け水を吸った土は黒く柔らかく、蹄鉄が下りるたびに静かな音を立てた。


 誰も急いではいない。


 手綱は緩く握られ、馬たちは時折耳を動かしながら春の匂いを確かめる。聞こえるのは、鳥のさえずりと、枝葉を渡る風の音。それに蹄鉄が刻むゆるやかなリズム。


 長い冬を越えた森には、ようやく訪れた春の午後が静かに満ちていた。



 エカテリーナの隣にはレオポルトがいる。


 彼は北部で使う橋の資材について話していたが、ときどき横目でエカテリーナの顔を見ていた。


「わたくしの顔に何かついておりますか?」


「いいえ」


「では、なぜ何度もご覧になるのです?」


「帝都へいらしてから、今日初めて、あなたが心から笑ってくださったように思いましたので」


「そうでしたか?」


「ええ」


 エカテリーナは小さく笑った。


 頭の中から、北部の問題がなくなったわけではない。明日になれば、また資料を広げるだろう。


 それでも今は、胸の奥に余裕があった。風の匂いも、隣を歩く馬の息遣いも、朝より近く感じられた。



 レオポルトは前を向いた。


「また、ここへ来ていただけますか?」


「北部から無事に戻ることができましたなら」


「必ずお連れします」


「殿下。そう簡単にお約束なさらないでくださいまし」


「守るつもりのない約束などいたしません」


 あまりにも真剣に言われ、エカテリーナはそれ以上何も言えなかった。


 少し後ろでは、ナターシャとフリードリヒが並んで馬を進めている。


 朝までは、エカテリーナの後ろにナターシャが、レオポルトの後ろにフリードリヒがいた。


 誰かが並び方を決めたわけではない。


 いつの間にか、そうなっていた。


 四人の頭上では、木々の若葉が春の風に揺れている。


 交わされた言葉は、まだ恋を告げるものではなかった。


 それでも、森の湖へ出かける前と同じ関係には、もう戻れない。


 誰も、そのことには気づいていなかった。




 春の風が若葉を揺らし、その上を雲の影が静かに流れていく。




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― 新着の感想 ―
建築・衣装・風景などがかなり精緻に描かれており、情景が目の前に浮かぶようでした。 主人公二人の関係も、最初から恋愛一辺倒ではなく、互いの知性や仕事ぶりへの敬意から少しずつ育っていくところが素敵でした…
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