第三章 第二節「春の森を駆けて」
レオポルトもフリードリヒも軽やかに地を蹴って鞍に跨り、これで四人の準備は整った。
もはや護衛の近衛騎兵たちも下人たちも苦笑するしかない。
「では、参りましょうか」
エカテリーナはそう言うや否や、ナターシャと顔を見合わせ、二人同時に馬尻に鞭を入れ、飛び出した。そして颯爽と馬場の木製の柵を飛び越える。
「殿下、お早くなさいませ」
馬場の柵の向こうからエカテリーナとナターシャが満面の笑みで大きく手を振っていた。
レオポルトは呆気に取られているフリードリヒや近衛騎兵たちを見渡し、苦笑する。
「おてんば姫には、困ったものですね」
「騎兵は、姫に引き離されぬようついてくること。荷馬車は、のんびり来てください」
そう指示を出し、レオポルトは、フリードリヒに合図し、馬腹を蹴って皆で馬場の柵を飛び越えた。
フリードリヒは小さく息をつき、護衛たちは互いに目配せする。静かな遠乗りを予想していたのは、彼らも同じだった。
それから、一行は湖へ続く林道へ入る。
先頭を行くエカテリーナとナターシャは、馬に鞭打ち、瞬く間にスピードを上げていった。
レオポルトとフリードリヒもあとに続き、護衛の近衛騎兵たちも慌てて追いかける。
やがて先頭を行く騎馬の姿は木々の向こうへ消え、下人たちの目には見えなくなった。
「やれやれ。おてんば姫様たちには困ったもんだな」
下人のうちの誰かがそう言うと、どっと笑いが起こった。
「俺たちはゆるりと行こう。荷馬車でどんなに急いでも絶対に追いつかないからな」
いつの間にか、下人たちの歌う民謡が森の中に響いていく。
主人たちの誰にも知られることなく。
エカテリーナたちは丘を越え、皇室の保護林へ入った。
森の中には、樫や楡の大木が並んでいる。枝を広げた木々の間から春の光が差し込み、若葉を明るい緑色に透かしていた。
心地よい風が吹いてくる。
道の両側には白や薄紫の小さな花が咲き、風が吹くたび、湿った土と若草の匂いが漂った。
「エカテリーナ殿、ナターシャ殿。そろそろ、ゆっくりまいりましょう。馬たちも疲れておりますよ」
フリードリヒは我慢できずに、汗ばむ額に手を当てながら、おてんば姫たちに声を掛ける。それを聞き、駈足をしながら近衛騎兵たちも顔を見合わせ頷き合った。
馬の荒い息に気づき、エカテリーナは手綱を緩める。隣ではナターシャも速度を落とし、主人と目を合わせて苦笑した。
「ナターシャ、やっぱり遠乗りは気持ちいいわね」
「はい、お嬢様。春の森は格別でございます」
ナターシャの零れんばかりの笑顔を見て、エカテリーナはまた嬉しくなった。
フリードリヒは小さく肩をすくめた。近衛騎兵たちも苦笑を交わす。
皆しばらく無言だった。
蹄鉄が地面の小石を弾く音と、小鳥のさえずり、それに風のささやきだけが森に響いている。
後ろから遅れて来ていた荷馬車が見えてきたころ、少し開けた場所に出た。
皆、森の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、自然と表情をほころばせている。
小鳥たちが一斉に飛び立った。羽音と鳴き声が響き渡る。
「ここから先は道が広くなります」
いつの間にか先頭を行くレオポルトが振り返った。
「また、少し走ってみますか?」
「ええ」
答えると同時に、エカテリーナは馬尻に鞭を入れる。
白い毛の牡馬が勢いよく駆け出した。
「あっ、お待ちください」
レオポルトの声が、後ろへ流れていった。
馬の蹄鉄が柔らかな土を蹴る。
木漏れ日が次々と横を過ぎ、冷たい風が頬を撫でた。
王太子の婚約者だった頃、朝駆けだけが、エカテリーナが誰の顔色も見ずに過ごせる時間だった。
行き先も速さも、自分で決める。
馬上にいる間だけは、未来の王太子妃でも、公爵令嬢でもなかった。
自分自身でいられた。
息を吸うたび、胸の奥まで空気が入ってくる。
後ろから馬の蹄鉄の音が近づいてきた。
振り返ると、ナターシャが白馬を駆り、すぐ後ろまで迫っている。
「追いつきますよ、お嬢様」
「できるものなら」
エカテリーナは声を上げて笑い、馬尻に鞭を入れた。
やがてレオポルトとフリードリヒも追いついてくる。
四頭の白馬が、春の森を並んで駆けた。
レオポルトは、隣を走るエカテリーナから目を離せない。
帝国の謁見の間で、皇帝を前に堂々と意見を述べた姿も美しかった。会議で資料を読み、相手の矛盾を指摘する横顔にも、何度となく目を奪われた。
けれど、今の彼女はそのどれとも違う。
風に髪を揺らし、頬を上気させ、心から楽しそうに笑っていた。
彼女を美しいと思ったことなら、以前にもある。
もっと話したいと思ったこともあった。
しかし、その日初めて、レオポルトは彼女のあらゆる表情を知りたいと思った。
その笑顔を、これからもそばで見たいと思う。
乾いた音がした。
ナターシャの馬が踏んだ小枝が折れ、その先から一羽の鳥が飛び立つ。
驚いた白馬が嘶き、前脚を上げた。
「ナターシャ!」
エカテリーナの声が響く。
ナターシャの身体が大きく傾いた。
表情が引き締まる。
横乗りでは、両脚で馬体を挟むことができない。彼女は上の鞍頭に掛けた右脚を下へ押し、鐙に置いた左足の踵を落としながら、左腿を下の鞍頭へ押し上げた。二つの鞍頭を両脚で挟むようにして身体を支え、傾いた上体を立て直す。
白馬の前脚が地面に戻った。ナターシャは手綱を短く持ち直し、馬の首筋へそっと身体を寄せた。
「大丈夫です、お嬢様」
優しい声で馬へ語りかけながら、円を描くように歩かせる。
暴れかけていた白い牡馬は、次第に落ち着きを取り戻した。
フリードリヒが馬を寄せる。
「ナターシャ殿、お怪我は?」
「ございません。お騒がせいたしました」
ナターシャは小さく息を吐き、ようやく笑顔を見せた。
「驚きました」
「はい。私も少し――」
「そうではありません」
フリードリヒは、ナターシャが一人で馬を落ち着かせたことに、目を見張っていた。
「お見事でした。横乗りであれほど体勢を崩しながら、馬を制御できる方を初めて見ました」
ナターシャは返事を忘れ、彼を見つめた。
侍女の身で馬に乗れると知られれば、これまでは決まって珍しがられた。
お嬢様に可愛がられているのだ。
平民の娘には、もったいない特技だ。
怪我をする前にやめた方がよい。
そのように言われることはあっても、一人の乗り手として腕を認められたことはなかった。
「ありがとうございます」
ナターシャはようやくそれだけを口にし、口元をわずかに緩めた。
「ですが、フリードリヒ様。もう大丈夫ですのに」
フリードリヒは、自分が無意識のうちにナターシャの馬の手綱を握ったままだったことに気づいた。
「失礼いたしました」
慌てて手を離す。
ナターシャはほんの少し笑った。
◇ ◇ ◇
森を抜けると、眼下に大きな湖が現れた。
湖へ近づくにつれ、湿った土の匂いが濃くなる。
まだ冬の気配がわずかに残っていた。
湖は完全には目覚めていない。湖畔には雪解け水が静かに溜まり、薄い氷の欠片が朝の光を受けてガラスのように輝いていた。風はほとんどなく、水面は鏡のように空を映し出している。
湖畔の樫や楡は、芽吹いたばかりの枝を空へ伸ばしていた。その足元では白いアネモネが群れ咲き、残雪の続きを織るように林床を覆っている。群れ咲く花々は風に揺れるたび、白い波となって森の奥へ流れていった。
若芽はかすかに緑を帯びているが、森全体はまだ春と冬の境界に立っているようだ。
鳥の声だけが森を満たしていた。
遠くで水鳥が羽を打つ音がし、その波紋が湖面をゆっくり広がっていく。誰もいない湖畔には、人の時間とは別の時間が流れていた。
冬はまだ完全には去っていない。
けれど、足元に広がる白、青、そして黄の小さな花々は確かに告げていた。
長い雪の季節を越え、この森に再び春が帰ってきたことを。
「綺麗……」
エカテリーナは思わず呟いた。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ。こんな場所が帝都の近くにあるのですね」
「幼い頃、兄上とよく来ました」
レオポルトの表情が懐かしそうに緩んだ。それから、湖面へ視線を向けた。
「兄上は身体があまり丈夫ではありませんでしたから、遠くへ行くことはできませんでした。それでも、この湖へ来る日をいつも楽しみにしておられたのです」
下人のセルゲイとヴィクトルがいつの間にか、湿っている地面に濡れないよう木の板を骨組みに貼った低めの台をいくつも並べ、その上に複雑な模様の臙脂の絨毯を敷いた。
セルゲイが手早く折り畳み式の調理台を組み立て、下人のタチアナとエレナが食材を並べる。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、キャベツ、カブ、セロリ。
ヴィクトルが近くの石を集めて即席のかまどを作り、持参した木炭に火を起こした。離宮で煮込んできた鹿のもも肉と牛のすね肉のスープを鍋ごとかける。タチアナが木の杓子でゆっくりとかき回した。温まるにつれて、濃厚な肉の香りが湯気とともに立ち上っていく。
下人たちは手際よく食材を切りながら調理を進めていった。
普段は厨房に立つことのないエカテリーナが、面白そうに調理台をのぞき込む。
ナターシャはふと幼い頃を思い出した。台所のテーブルの傍らにある無骨な椅子に座り、母親が楽しそうに料理をしている姿を眺めていた日のことを。
胸の奥が少しだけ、切なくなる。
「ねえ、ナターシャ、お料理ってなんだか、とっても楽しそうね」
不意にエカテリーナが現実に連れ戻した。
「はい、お嬢様。とっても……」
二人は、少女の頃に戻ったように目を輝かせている。
エカテリーナのつぶやきに、タチアナは顔をほころばせ、鍋の中を見せた。
その様子を男たちは顔を見合わせて微笑みながら眺めている。
しばらくして、絨毯の上に綺麗な装飾の施された銀食器に載せられた料理が並べられた。
鹿肉と牛肉を煮込んだ熱いスープ。焼きたての白いパン。数種類のチーズ。果物。そして焼き菓子。
「今日は、せっかくの外だから、ここにいるみなで一緒に食べましょうよ」
エカテリーナの顔に明るい笑みが広がる。
下人たちは戸惑った。
「いいですね。私は賛成です」
レオポルトも、あの「朝日のように晴れやかな笑み」を浮かべる。
戸惑う下人たちに騎兵たちが促した。
総勢十四名の車座ができる。
「さあ、食べましょう」
エカテリーナの掛け声で、食欲をそそる匂いと湯気を立てている鹿肉と牛肉を煮込んだスープが、タチアナによって綺麗な銀食器に注ぎ分けられ配られた。
エレナがクランベリーとコケモモのジュースを繊細な唐草模様のカットが施されたグラスに注いでいく。
皆で祈りを捧げ、胸元で十字を切った。
「おいしい」
一番にジュースに口を付けたナターシャが笑顔になる。
「まあ、ナターシャったら」
エカテリーナのその声に皆が反応し、どっと笑いが起こった。
ナターシャの頬が色づく。
「閣下にこのような機会をいただき、まことにありがたくございます」
タチアナが感極まったのか、エプロンで涙を拭いた。
「タチアナ、いつもありがとうね。きょうは、『閣下』って呼ばなくてよろしくてよ」
「滅相もございません。……では今日だけ『お嬢様』と呼ばせていただきます」
タチアナは主人たちとの食事がよっぽど嬉しかったのか、何度も目元をぬぐいながら、嬉しそうに肉を頬張っていた。
「こうやって皆で食べる食事もおいしいものですね」
「確かに」
レオポルトにフリードリヒが笑顔で同調する。いや、その場にいた皆が同じ思いだった。
食欲をそそる料理の匂いと湯気。食器とスプーンの触れ合う音。皆の笑い声。
みな朝から体を動かし、空腹だったのだろう。料理は次々と平らげられていった。
皆が落ち着き、食後のワインとチーズをたしなみ始めた頃。エカテリーナが連れてきた大使館付きの二人の近衛騎兵のうちの一人が、ぽつりと話し始めた。
「実は、お嬢様とナターシャ殿は、剣術もかなりの腕前なのですよ」
少し気分の良くなった騎兵の告白に皆が驚き、エカテリーナとナターシャの顔を交互に見る。
「ドミトリー、それは絶対秘密って言っていたでしょう」
エカテリーナとナターシャは頬を色づかせた。
「いや、お嬢様。そろそろ公表してもよい頃ではありませんか。皆さま、是非とも心に留め置きください。お嬢様とナターシャ殿は、男にも勝るとも劣らん見事な剣術の腕前ですぞ。何と言おうと、このドミトリーめが、姫様方が十一歳の頃よりお教えした技でございますから」
豪快に笑う。
「どのようなきっかけで?」
「実は私は、お嬢様が小さな頃よりお嬢様の警護を担当しておりまして、毎日の朝駆けにも同行しておりました。その時、お嬢様に『剣術をお父様や皆に内緒で教えてほしい』と懇願されたのでございます。初めは、その辺りの木の枝で真似事をしておりました」
「初めは?」
フリードリヒが先を促した。
「そのうちお嬢様が『真剣のサーベルを二振り持ち出して来い』と仰せになりましてな。あの時は生きた心地がいたしませんでした。もし、これが旦那様に知られたならば、どんなお叱りを受けるのだろうかと肝を冷やしました。しかし何とか今日の日まで誰にも知られず、剣術をお教えすることが出来ました。今ではお二方に稽古をお付けさせていただくときには、気を抜くと『切られる』と思うこともございます。実際にお嬢様とナターシャ殿に一振りずつ……」
そう言いつつドミトリーが右の袖をまくり上げ、腕に残った二か所の小さな傷を見せながら豪快に笑う。
エカテリーナとナターシャは、ドミトリーが豪快に笑いながら話している間、顔を真っ赤にして俯いていた。
レオポルトもフリードリヒも近衛騎兵たちも驚き目を大きく見開いていた。しかし、しばらくして落ち着いたのか、皆で顔を見合わせ、あの方々ならやりかねんと、妙に納得していた。
「エカテリーナ様とナターシャ殿は、巧みな馬捌きに飽き足らず、剣術の使い手とは……。いやはや驚きました」
「いえ、わたくしはそんな……。ほんの嗜み程度でございます」
ナターシャが頬を色づかせたまま、俯き加減に言う。
「ですが、私は同時に、らしいなとも……」
フリードリヒのまじめな敬意と感嘆に、なぜか皆がどっと盛り上がった。
皆が気分良くなったころ。セルゲイとヴィクトルが、ドムラという丸い胴体の小さな弦楽器をどこからか取り出し、北部に伝わる古い民謡を弾きだした。それに合わせてタチアナとエレナが歌い出す。
それは哀しい調べだった。夫を戦へ送り出した妻の嘆きであり、二度と帰らぬ息子を待つ母の祈りであった。その旋律は胸の奥深くまで染み入り、聞く者の心を静かに震わせる。
まだ春先の、色とりどりの花の咲く深い森の湖畔に、弦の響きと女性の歌声がゆったりと流れていった。
畔では、連れてきた十二頭の馬たちも水を飲み、草を食み、ときおり尾を揺らしながら思い思いに過ごしている。




