第三章 第一節「遠乗りへの誘い」
エルディア帝国の帝都へ到着してから、五日が過ぎた。
朝晩の冷え込みは少しずつ和らぎ、日に日に春の匂いが濃くなっていく。
その間、エカテリーナは一日も休んでいなかった。
午前は帝国の財務官や商務官との会議。午後は北部諸州から届いた被害報告の確認。夜になればヴァレンティア王国大使館へ持ち帰った資料を読み、翌日の協議に備えて意見書を作る。
北部交易路の共同調査へ出発する日も、二日後に迫っていた。
ようやく調査団の人員と必要な物資が決まり、あとは出立を待つだけとなった朝。
エカテリーナがいつものように執務机へ向かうと、ナターシャがその前へ立ちはだかった。
「お嬢様。本日のご予定は、すべて取りやめとなりました」
「何を言っているの? 午前中は帝国商人組合との打ち合わせが――」
エカテリーナは、ナターシャが何を言い出したのか、一瞬理解できなかった。
「先方から延期するとの知らせが届いております」
「では、北部の地図をもう一度確認します。川の支流ごとに、氾濫した地域を――」
「そちらも、明日で間に合います」
ナターシャは退かない。
十歳でヴォルコフ公爵家へ奉公に上がり、長くエカテリーナのそばに仕えてきた彼女は、こういうときだけ主人の言いつけを聞かなくなった。
「ナターシャ。あなたは誰の侍女なの?」
「エカテリーナ様の侍女でございます。ですから、お嬢様が倒れる前にお休みいただくのも、わたくしの務めでございます」
「わたくしは倒れてなどいません」
「昨夜、何時まで書類をご覧になっておられましたか?」
「それは……」
答えに窮していると、扉が外から軽く叩かれる。
ナターシャが扉を開けた。
廊下に立っていたのは、濃紺の乗馬服を身につけたレオポルトだ。その後ろには、同じく濃紺の乗馬姿のフリードリヒが控えていた。
「おはようございます、エカテリーナ殿」
「おはようございます、殿下。殿下が我がヴァレンティアの大使館にお出ましになるのは、到着の日以来でございますね。今日は随分お早いので朝駆けの途中ですか?」
「以前のお約束を果たしに参りました」
レオポルトはいつもの「朝日のように晴れやかな笑み」でエカテリーナを見つめる。
「お約束?」
「帝都の北にある森と湖をご案内すると申し上げたでしょう」
そこでようやく、エカテリーナは思い出した。
帝国へ向かう馬車の中で、レオポルトから遠乗りへ誘われていたのだ。その後すぐに皇帝から北部交易路の調査を命じられ、慌ただしい日々のうちに、約束は頭の隅へ追いやられていた。
「お気持ちはありがたいのですが、出発前に確認しておきたいことが、まだございます」
エカテリーナは、遠乗りにも行きたかったが、今は北部交易路のことで頭がいっぱいだった。
「商人組合との会議なら、明日へ延期してもらいました」
レオポルトがにこやかに微笑む。
「殿下がなさったのですか?」
「はい。ナターシャ殿から、あなたが夜更けまでお仕事を続けていると伺いましたので」
エカテリーナは侍女を見た。ナターシャは、少しも目をそらさない。
「二人で相談なさったのですね」
「お嬢様、申し訳ございません」
言葉とは裏腹に、その顔に反省の色はなかった。
「調査団の準備は整っています。残る確認も、明日一日あれば済むでしょう」
「ですが――」
エカテリーナに不満の色が浮かぶ。
「休むことも、必要な準備の一つです」
あまりにも正しいことを言われ、エカテリーナは反論できなかった。
窓の外では、明るい空を小鳥が横切る。閉じた窓越しにも、今日の陽気が伝わってくるようだった。
「分かりました。殿下がここまでお出ましでは、最早お断りすることもかないません。わたくしも支度を整えてまいりますので、今しばらくお待ちくださいまし」
エカテリーナが折れると、レオポルトの顔に明るい笑みが広がる。
「下でお待ちしております」
◇ ◇ ◇
エカテリーナとナターシャは、揃いの濃い青色の乗馬服に着替えた。
首元まで覆う立ち襟の上着は身体へ沿うように仕立てられ、腰から下には、横乗りの際に両脚を包む長い共布の乗馬用のスカートを重ねている。エカテリーナの金色の髪とナターシャの茶色の髪は風に乱れないよう低い位置でまとめられ、濃紺の乗馬帽を被っていた。
四人を乗せた艶やかな黒い漆塗りの馬車は、帝都アドラーホルストの北門を抜け、郊外へ向かう。
護衛は、帝国の近衛騎兵四人と大使館付きの近衛騎兵二人。後ろには、湖畔で使う道具や食材を積んだ二頭立ての荷馬車が続き、四人の下人が乗っていた。
小一時間ほどで、木立の間に夏の離宮が見えてくる。
夏の離宮は、淡い水色の壁に白い柱が並ぶ、華やかで優雅な石造りの建物だった。幾つもの縦長の窓が端正な間隔で並び、窓を縁取る金の装飾が、水色の壁に柔らかな陰影を落としている。建物は広い前庭を抱くように左右へ伸び、屋上の欄干には小さな彫像が連なっていた。
前庭との境には、金の穂先を戴く黒い鉄柵が巡らされている。その内側では、円錐形に刈り込まれた木々が窓と窓の間に緑を添えていた。壮麗な造りでありながら、春の光を受けたその姿には、人を迎え入れるような明るさがある。エカテリーナは馬車の窓から離宮を見上げ、離宮の名に込められた「恋しい我が家」という言葉を思い出した。
四人が《ラドノーイ・ドーム》の厩舎へ到着すると、すでに馬の準備がされていた。
「こちらが、エカテリーナ殿とナターシャ殿の馬です」
レオポルトが手を添えたのは、二頭の淡い栗毛の牝馬だ。姉妹のようによく似ていた。
毛並みは美しく、性格も穏やかだ。二頭は驚くこともなく、近づいてきたエカテリーナとナターシャへ大きな瞳を向けた。
エカテリーナは一頭の首筋を撫で、脚と蹄を確かめる。
「よく調教された、優しい馬ですわ」
「帝国で最もおとなしい馬を選ばせました。初めての森でも、安心して――」
「殿下」
「はい」
エカテリーナは厩舎の奥へ目を向けた。
「わたくしは、もっと速く走れる白馬を所望いたします」
「ねえ、ナターシャ。あなたもそれでよろしくて?」
「いいえ、お嬢様。わたくしにも、もう少し脚のある馬をお願いできますか」
エカテリーナとナターシャが顔を見合わせ微笑む。
レオポルトが瞬きをした。
「この馬では、お気に召しませんか?」
「よい馬です。ただ、この馬ではわたくしもナターシャも殿下の馬に置いていかれます」
「いや、今日はのんびりと馬に乗って散策する予定だったのですが…」
フリードリヒは驚き、思わずナターシャを見る。
ナターシャは困ったように微笑んだ。
「いえ、わたくしは森の中での速駆けを楽しみにしているのです。ねえ、ナターシャ。あなたもそうでしょう? 殿下にお話しして差し上げて。」
「はい。わたくしもお嬢様との速駆けを楽しみにしておりました」
「しかし――」
レオポルトとフリードリヒは顔を見合わせた。どうやら意見は一致していたらしい。
「ナターシャ殿は、それほどお上手なのですか?」
フリードリヒが尋ねると、エカテリーナが代わりに答えた。
「ええ。わたくしが朝駆けへ出ると、いつも最後までついてきます。森の細い道では、わたくしより速いこともあります」
「それは楽しみです」
フリードリヒの顔に明るい笑みが浮かんだ。ナターシャが彼のそんな表情を見るのは初めてだった。
その笑みを向けられたナターシャは困った様子で、乗馬手袋をはめ直している。
「お二人には、ご所望のとおりに白馬を用意させましょう」
レオポルトは厩務員へ声をかけ、二頭の白い毛の牡馬を連れてこさせた。
先ほどの馬よりもひと回り大きく、引き締まった脚を持っている。人が近づくと耳を伏せたり立てたりし、鼻息を荒く吹き鳴らして、苛立つように蹄鉄で地面を打った。
「殿下、この馬は、気性が荒いのですが、本当にご婦人方に用意してよろしいのですか?」
厩務員は困惑している。
レオポルトが答える前にエカテリーナとナターシャが声を揃えた。
「はい、大丈夫です」
エカテリーナが手を伸ばすと、白馬はその匂いを確かめるように鼻先を近づける。そっと白馬の首筋に触れ、優しく撫でた。
厩務員が踏み台を運んでくる。
「ありがとう。けれど、踏み台は使わずに乗れますわ。馬を支えていてくださる?」
「閣下、かしこまりました」
彼は、すぐにその踏み台を片付け、白馬の正面にまわり、頭絡のハミと手綱が接続している部分を握った。
厩務員に合図を送るや否や、エカテリーナは鐙に左足をかけ、右足で地面を蹴って颯爽と鞍に飛び乗る。
白馬はその瞬間嘶き、両方の前足と後ろ足を交互にあげて暴れたが、エカテリーナは少しも動じず、手綱を巧みに操りながら短く声をかけた。すると白馬は数度鼻を鳴らした後、嘘のように大人しくなる。
エカテリーナが右側を振り向くといつの間にか隣の白馬に乗り、同じように馬をなだめたナターシャがいた。
二人は顔を見合わせて笑みを交わしたあと、周囲の男たちを見回す。そして申し合わせたように、得意げに顎を上げた。
レオポルトとフリードリヒは、しばらく言葉を失っていた。
「本当に、お上手なのですね」
レオポルトは思わず瞬きを繰り返した。貴族令嬢が馬に乗れること自体は珍しくない。だが、気性の荒い軍馬に踏み台も使わず飛び乗り、暴れる馬を瞬く間になだめるなど、彼の常識の外だった。
「馬車の中で申し上げたでしょう」
エカテリーナは、自信に満ち溢れていた。
「疑っていたわけではありません。しかし、想像していた以上でした」
「お褒め頂き、光栄に存じます……また馬の方が緊張するとおっしゃるのですか?」
「いいえ」
レオポルトは馬上のエカテリーナを見上げ、微笑んだ。
「今は、私の方が緊張しております」
エカテリーナは返事ができなかった。
どうしてこの人は、何の前触れもなく、こういうことを口にするのだろう。
頬の熱をごまかすように、エカテリーナは手綱を持ち直した。そばではフリードリヒが、聞こえなかったふりをして自分の馬へ向かっていた。




