第二章 第三節「二人への命」
「口だけの大使ではないらしい」
称賛と呼ぶには、あまりにも短い言葉だった。
それでも、居並ぶ宮廷人たちの表情が変わる。皇帝が初対面の外国大使を認める言葉を口にするのは、異例のことだった。
「そのようなお言葉、畏れ多く存じます」
エカテリーナは深く頭を下げる。
「父上」
それまで黙っていた皇太子が、穏やかな声を発した。
「ヴォルコフ大使殿のおっしゃるとおり、北部への輸送経路を増やすことには意味があります。昨年のような事態を、二度と繰り返すべきではありません」
声には知性と落ち着きがあった。
だが、言葉を終える直前、その眉間にかすかな皺が寄った。
テオドールは口元へ手を当て、小さく咳をした。
「兄上」
レオポルトが心配そうに振り向く。
「大丈夫だ。喉に少し引っかかっただけだ」
皇太子は微笑んだが、その顔色は白かった。
玉座の皇帝も、一瞬だけ息子へ目を向ける。しかし、すぐに何事もなかったかのようにエカテリーナを見た。
「交易路の必要性は理解した。だが、道がなければ物は運べぬ」
「仰せのとおりでございます」
「三日前、北部から報告が届いた。例年より早い雪解けと大雨が重なり、河川が氾濫した。北部街道に架かる橋が二本流され、山沿いの道も数か所で崩れている」
謁見の間の壁際で、帝国の重臣たちがわずかに視線を交わした。
「レオポルト」
「はい、父上」
呼ばれたレオポルトが、一歩前へ出る。
「そなたが北部へ赴け。被害の全容を調べ、街道と橋の再建案をまとめよ」
「承知いたしました」
レオポルトは、わずかなためらいもなく頭を下げた。
「期限は一月だ」
宮廷人たちの間に、どよめきが起こった。
帝都から北部までは、馬車で片道十日近くかかる。現地へ到着し、広範囲に及ぶ被害を調べ、利害の異なる領主や商人から話を聞き、再建に必要な費用まで算出する。それを一月で成し遂げるのは、容易なことではない。
「一月後、帝国評議会で報告いたします」
それでもレオポルトは顔色一つ変えずに短く宣言した。
皇帝は続けた。
「道を直せばよいという話ではない。北部の領主たちは通行税の徴収権をめぐって争っている。商人組合は、街道の安全が保証されるまで荷を出さぬと言っている。すべてを調整し、交易路を機能させる方法を考えよ」
「御意にございます」
皇帝の命令が終わると、皇太子が再び咳をした。
先ほどよりも少し長い。苦しげな咳だった。
侍医らしき老人が近づこうとしたが、テオドールは片手を上げて制した。
「父上。申し訳ございませんが、私はここで退席させていただきます」
「ああ。部屋へ戻り、休むがよい」
はじめて皇帝が父の顔を一瞬だけ見せた。
「ヴォルコフ大使殿。十分なおもてなしもできず、申し訳ありません」
「とんでもございません。どうぞ、お身体をお厭いくださいまし」
皇太子はエカテリーナへ微笑み、踵を返した。そのときだった。
乾いた破砕音が謁見の間に響く。
テオドールが退席の際、再び足元をふらつかせ、マントルピースの上に飾られた壺に手が触れた。壺は磨き上げられた寄木細工の床に落ち、砕け散ったのだ。
そしてそれは、東方の騎馬民族である澄国から贈られた一対の染付の壺の片方だ。
その一対の壺には、白地に青で澄国の創建神話が、二つにまたがって描かれていた。澄国を創建したという兄弟が、二人で力を合わせて国を作り上げる物語だった。
「兄上!」
レオポルトが駆け寄って腕を支える。
「大丈夫だ」
テオドールは弟を安心させるように、その肩を軽く叩いた。しかし、立ち上がった額には薄く汗が浮かんでいる。
皇帝の表情は動かなかった。だが、軍刀の柄に重ねた両手に、わずかに力がこもっている。
皇太子は侍従と侍医に付き添われ、謁見の間を後にした。
大きな扉が音もなく閉じる。
静寂が訪れた。
皇帝はしばらくその扉を見つめていたが、やがてレオポルトへ視線を戻した。
「出立までに必要なものを申請せよ」
「ありがとうございます」
「以上である」
再び皇帝の声が、謁見の間に低く響いた。
侍従長官オスカー・クラインが閉会を告げようとした、そのときだった。
「お待ちくださいまし、陛下」
エカテリーナの高貴で美しい声が、広間に響いた。
宮廷人たちが一斉に彼女を見る。
皇帝の瞳が細くなった。
「何だ、ヴォルコフ大使」
皇帝の顔に不快の色が浮かぶ。
「北部への調査に、わたくしも同行することをお認めくださいまし」
再び、周囲からどよめきが起こった。
「これは帝国の問題だ」
皇帝は厳しい口調で冷徹に切り捨てる。
「洪水で損壊した道は、ヴァレンティアとの交易に使用する予定の街道でもございます。道の状態も、北部の領主たちの考えも知らずに、帝都の会議室だけで協定を結ぶことはできません」
エカテリーナは、皇帝の厳しい視線を正面から受け止めた。
「危険がないとは言えぬ」
皇帝は、一瞬口元を緩ませたがすぐに戻した。
「心得ております」
「そなたは、昨日この国へ到着したばかりだ。長旅の疲れも残っておるであろう」
「それでも、大使として自分の目で確かめる必要がございます」
皇帝は答えず、レオポルトを見た。
「そなたはどう思う?」
レオポルトは、エカテリーナへ顔を向けた。
その表情には、彼女を危険な土地へ連れていくことへの迷いが浮かんでいる。
エカテリーナは何も言わなかった。
ただ、自分の意思を変えるつもりはないと、その目で伝えた。
「大使殿は、ご自分の判断で同行を望まれました」
やがてレオポルトは答えた。
「私が危険を理由に拒めば、それは彼女の選択を尊重したことにはなりません」
皇帝の眉が、わずかに上がった。
「守りきれるのか」
「守るという言葉で、彼女を私の後ろへ置くつもりはありません」
レオポルトはまっすぐ父を見つめた。
「彼女が大使として役目を果たせるよう、私も第二皇子として自分の役目を果たします」
エカテリーナの胸が、静かに高鳴った。
――この人は、どうしてこうも不意に、心を揺らすことを言うのだろう。
しかも、本人はそれがどれほど人の心を揺らしているのか、まるで分かっていない。
「よかろう」
皇帝は短く、そして力強く答えた。
はじめて皇帝は穏やかな顔を見せる。
皇帝の口元に、ごく淡い笑みが浮かんだ。
その時、皇帝カール・エルディアは、父の顔を隠すのを忘れていた。
「レオポルトとヴォルコフ大使に、北部交易路の共同調査を命じる。第二皇子は被害状況と再建方法を調べ、大使は交易と輸送に関する諸問題を整理せよ」
「御意にございます」
「謹んで拝承いたします」
二人は並んで頭を下げた。
皇帝は、同じ場所に立つ二人をしばらく見つめていた。
その眼差しに何が込められているのか、エカテリーナにはまだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
謁見を終え、二人は並んで長い回廊を歩いていた。
少し後ろから、フリードリヒとナターシャ、二人の侍女、ヴァレンティア王国初の女性大使館付き書記官長オリガ・ユスポワ、四人の一等書記官が続いている。
角を曲がった先で、二人の若い貴族が立ち話をしていた。
「今度は北部街道だそうだ」
「レオポルト殿下も、お気の毒なことだ。成功すれば地方領主の手柄、失敗すれば殿下の責任というわけか」
「誰も引き受けたがらぬ因果な役回りを、またお引き受けになったらしい」
二人はレオポルトの姿に気づくと、青ざめて頭を下げた。
「これは、殿下。失礼いたしました」
「構わぬ」
レオポルトは足を止めることなく、二人の前を通り過ぎた。
エカテリーナがレオポルトの顔を見る。
彼は顔色一つ変えてはいなかった。
若い貴族たちの姿が見えなくなったところで、エカテリーナは心配そうにレオポルトを見上げる。
「ご不快にはお思いになりませんの?」
「彼らが言ったことは、間違いではありません」
「だからと申しまして、それを黙って聞き流されるのですか?」
「私が言い返したところで、橋が元に戻るわけではありませんから」
レオポルトは、何でもないことのように微笑んだ。
「それより、申し訳ありません。帝都へ着いたばかりのあなたを、また長旅へ連れ出すことになりました」
レオポルトの微笑みが、ほんの少しだけ影を帯びる。
「わたくしが自分で申し出たことでございます」
「しかし――」
「先ほど陛下の御前で、わたくしの選択を尊重するとおっしゃったばかりでございましょう」
レオポルトは口を閉じた。
「もう、お忘れになったのですか?」
「いいえ。忘れてはいません」
「でしたら、謝らないでくださいまし」
エカテリーナは足を止め、正面から彼を見た。
「それよりも、一月で再建案をまとめる方法を考えましょう。北部へ到着するまでの時間も、無駄にはできません」
レオポルトは一瞬驚いたあと、晴れやかに笑った。
「あなたが一緒なら、本当に一月でも成し遂げられる気がしてきました」
「殿下」
「はい」
「そのように何気なく、人に責任を背負わせるのはおやめくださいまし」
「褒めたつもりだったのですが」
「存じております」
後ろを歩くフリードリヒが、また片手で額を押さえる。
エカテリーナは小さく息をついたが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
二人の姿が回廊の向こうへ消えたあと。
謁見の間では、皇帝カール・エルディアが侍従長官オスカー・クラインから新しい書類を受け取っていた。
けれど、その青色の瞳は文字を追っていなかった。
「陛下」
皇帝のたった一人の友が、控えめに声をかける。
「いかがなさいましたか?」
「いや」
皇帝は閉じた扉へ目を向けた。
「レオポルトにも、ようやく運が向いてきたのかもしれぬ」
第二章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次章では、エカテリーナとレオポルトの距離が少しずつ近づいていきます。




